壬生家 (小槻氏)

官務家から転送)

壬生家(みぶけ)は、小槻氏嫡流にあたる地下家華族

壬生家
(小槻宿禰)
家紋
丸に抱き花杏葉まるにだきはなぎょうよう
本姓 小槻宿禰嫡流
家祖 小槻隆職
種別 地下家
華族男爵
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
近江国滋賀郡雄琴荘・苗鹿荘
東京府
著名な人物 小槻隆職
凡例 / Category:日本の氏族

小槻隆職を祖とし、南北朝時代頃から壬生を称した。大夫史を世襲し、官務家(かんむけ)と呼ばれた。江戸時代の家禄は100石。維新後男爵。家職は算道

歴史 編集

平安時代から鎌倉時代まで 編集

小槻氏中世より太政官弁官局において諸記録を司り、大夫史五位左大史)と算博士世襲した。代々弁官局を取り仕切る官務職に就いたため官務家と呼ばれた。少納言局においても、同様に取り仕切る「局務」が清原氏中原氏(のち中原氏のみ)の中から現れ、官務と局務は合わせて「両局」と呼ばれ、地下家の筆頭として太政官の下級官吏を統率した。

平安時代小槻政重の子の師経永業隆職らは3名とも官務を務めたが、それ以後は永業流が算博士を、隆職流が官務を相続することと決められた。しかし文治元年(1185年)官務・隆職が後白河院源義経による源頼朝追討の院宣に関わったとして頼朝に解官され、官務は永業の子の広房が継ぐこととなった。けれども建久2年(1191年)に後白河院の指示で隆職が復職、広房は官務の地位を失う。その後隆職が危篤に陥ると広房は隆職の子・国宗と後継を争ったが敗れ、官務には国宗が就いた。国宗の死去後次の官務に広房の孫・季継が就くと、季継は朝廷の権力者九条道家と深い関わりを持って21年間に渡って在職し、隆職流に押されがちだった広房流の地位を向上した。それ以後小槻氏は隆職流と広房流とに分かれ、算博士は広房流が相続するものの官務は両流が対等の立場から争い合うこととなる。また、他の役職としても、壬生家は修理東大寺大仏長官(または造東大寺次官)・主殿頭を継承した。

室町時代 編集

南北朝時代に入る頃、両流は邸宅の場所にちなみ、隆職流は壬生家、広房流は大宮家と呼ばれていた。この時期公家全体が経済的に苦境を迎え、小槻氏もまた例外でなく官務職と小槻氏伝来の雄琴荘・苗鹿荘の所有を巡って競争は一層激しくなった。両家はそれぞれ権力を持った公家武家に取り入り、壬生家(晨照晴富雅久)・大宮家(長興時元)の争いは訴訟の頻発するほどのものとなる。

応仁元年(1467年)から応仁の乱が始まると、争いに巻き込まれ大宮家の官文庫が焼失、大宮家は史の職に支障をきたして壬生家が優勢となる。そして大永7年(1527年壬生于恒大宮伊治の間で和睦状によって雄琴荘・苗鹿荘は壬生家の所有となり、領地を有していなかった大宮家は経済的に逼迫し、他の公家同様地方の大名を頼って下向せざるを得なくなる。伊治の頼った西国有力大名・大内氏の先で、天文21年(1551年陶晴賢の義隆に対する挙兵(大寧寺の変)により伊治は大内義隆ともども討死した。元亀3年(1573年壬生朝芳に大宮家継承を命じる女房奉書が下されて大宮家は断絶することになり、以後は壬生家が単独で官務を継承し、大宮家世職の算博士も受け継いだ。

江戸時代 編集

 
壬生官務家墓塔
壬生寺京都市中京区壬生)境内。江戸時代初期、大小2基の五輪塔[1]

中世から続く官務の壬生家と局務の押小路家中原氏嫡流)の「両局」に加え、近世になるとこれに出納平田家(中原氏庶流)が加わり、それぞれ「官方」「外記方」「出納方」という3家体制となる。そのきっかけは江戸開幕後朝廷儀式が再興され始め、それに伴い壬生家・押小路家の両局が地下官人を続々と登用し始めたことによる。地下官人の登用の一環として、虫鹿亮昭(大宮家庶流)・村田亮春壬生孝亮猶子となった。中でも村田家は右大史を継承する家柄となる。これは両局が多くの職務を担当し、それに付属する所領によって経済的に余裕があったためである。朝廷を手中に収めたい幕府側にとってこの独自の活動は意向に反し、牽制のために平田家を両局と同じ地位にまで上げ抑制しようとした。これに壬生家は反発し争論となるが、当主壬生孝亮の失脚により認めざるを得ず、家格では平田家は両局から一歩引くという形で収束する。これら3家は近世地下官人の3階層(催官人・並官人・下官人)のうち催官人を組織し「三催」と呼ばれ、俗に「地下官人之棟梁」とみなされて明治維新まで朝廷に仕えた。壬生家の家格地下家だったが、江戸時代後期には知音以寧従三位に叙されている。

壬生孝亮は徳川家康征夷大将軍就任の際、宣旨の入った箱を捧げている。

また幕末には、日米修好通商条約勅許に対して公卿らが行った廷臣八十八卿列参事件の際、官務壬生輔世出納平田職修と共に地下官人97名による条約案撤回を求める意見書を提出している。

明治以降 編集

 
男爵壬生桄夫

壬生家は地下家ではあるものの筆頭格だったことから、堂上家に准じて押小路家とともに華族に列し、明治3年(1870年)壬生輔世が終身華族に、次いで明治9年(1876年)永代華族となった。そして明治17年(1884年)には、子壬生桄夫男爵に叙せられた。なお平田家やその他の史一族は士族となった。

下野国壬生氏 編集

室町時代、壬生晴富の弟には壬生胤業という者がおり、公家でありながら武芸を好み、諸国に下向した末に下野国壬生城を築き後の壬生氏を興したと言われている[2]。実際には胤業は毛野氏族の壬生氏(壬生公)の後裔で小槻氏を仮冒したと考えられる[3]ので確証はないが、本姓として小槻氏を称した。

その後戦国時代、壬生氏は下野国において壬生・鹿沼を拠点に宇都宮氏などと抗争を続ける。しかし、豊臣秀吉による小田原征伐の際に当主義雄後北条氏側に加担した上、征伐後に義雄が嗣子無く急死したため、絶家することとなった。

系譜 編集

実線は実子、点線(縦)は養子・猶子。
 
小槻氏
小槻政重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
師経永業壬生家
隆職
 
 
 
 
 
大宮家
広房
国宗
 
 
 
通時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
淳方[4]有家
 
 
 
有家
 
 
 
顕衡
 
 
 
統良
 
 
 
千宣
 
 
 
匡遠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
量実兼治
 
 
 
周枝
 
 
 
晨照
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
晴富壬生氏
胤業?
 
 
 
 
 
雅久綱重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
于恒綱房周長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
登辰朝芳綱雄
 
 
 
 
 
朝芳義雄
(断絶)
 
 
 
孝亮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠利村田亮春虫鹿亮昭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重房季連
 
 
 
季連
 
 
 
章弘[5]
 
 
 
盈春
 
 
 
知音
 
 
 
敬義
 
 
 
以寧
 
 
 
輔世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明麗桄夫
 
 
 
桄夫

系譜参考 編集

幕末の領地 編集

国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の壬生家(地下家)領は以下の通り。(3村・100石5斗1升1合3勺)

  • 山城国葛野郡郡村のうち - 50石
  • 山城国葛野郡天竜寺門前のうち - 42石1斗1升4合3勺
  • 山城国葛野郡川端村のうち - 8石3斗9升7合

壬生家の人々が残した記録 編集

また、一族は史官を務めたこともあり、以下のような日記が残っている。

脚注 編集

  1. ^ 現地説明板。
  2. ^ 『壬生家譜』東大史料編纂所蔵
  3. ^ 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』(古代氏族研究会、1986年)625頁
  4. ^ 国宗の子・維任の名乗り替えとする説もある(遠藤珠紀説)。
  5. ^ 広橋綏尚の子