小澤 啓一(おざわ けいいち、1933年1月5日 - )は日本映画監督鹿児島県川辺郡川辺町平山(現・南九州市)出身[1]。本籍は山口県萩市であった[2]

おざわ けいいち
小澤啓一
生年月日 (1933-01-05) 1933年1月5日(91歳)
出生地 鹿児島県川辺郡川辺町平山(現・南九州市
職業 映画監督
著名な家族 小澤太郎(伯父)
小沢克介(従弟)
テンプレートを表示

経歴・人物

編集

三歳で父の転任により台湾へ移住[2]、大戦後に日本へ引き上げた[2]鹿児島県立川辺高等学校を経て早稲田大学第一文学部在学中[2]、遠縁の田中龍夫の伝手で小國英雄のシナリオ工房に通う[2]。卒業後の1956年日活に入社、川島雄三井上梅次らの助監督を務めた後は[2]、主に舛田利雄に師事[2][3]、舛田の映画製作に大きく影響されたという[2]

1968年、『大幹部 無頼』で監督デビュー[2][3]。以降「無頼」シリーズとしてヒットさせ、渡哲也主演作品を最も多く(計10作品)メガホンを取り、長谷部安春澤田幸弘らとともに「日活ニュー・アクション路線」の旗手として活躍。日活がロマンポルノをメインに製作開始すると、アクションとロマンポルノを融合させた映画製作を目指したが[2]、1973年に日活を退社した[2]

その後は1990年代初頭まで、『太陽にほえろ!』『大都会』『西部警察』などを中心としたテレビドラマ(とりわけアクションものや時代劇)を中心に活躍、1990年代後半からはオリジナルビデオや二時間ドラマにて活躍する[3]

親族

編集

伯父は衆議院議員参議院議員山口県知事を歴任した小澤太郎で、第26代内閣総理大臣田中義一の娘婿にあたる。従弟の小沢克介も衆議院議員を3期務めるなど、政界とゆかりが深い。

作品

編集

映画

編集

テレビ

編集

Vシネマ

編集
  • 1997 - 修羅がゆく6 東北激闘篇
  • 1998 - 修羅がゆく7 四国烈死篇
  • 1999 - 修羅がゆく9 北海道侵攻作戦
  • 1999 - 修羅がゆく10 北陸代理戦争
  • 2000 - 修羅がゆく11 名古屋頂上作戦
  • 2000 - 極道三国志4 最後の博徒 血の抗争
  • 2000 - 極道三国志5 山陽道10年戦争
  • 2000 - 修羅がゆく12 北九州死闘篇
  • 2000 - 修羅がゆく13 完結篇
  • 2001 - 修羅のみち
  • 2001 - 修羅のみち2 関西頂上決戦
  • 2002 - 修羅のみち3 広島・四国全面戦争
  • 2002 - 修羅のみち4 北九州代理戦争
  • 2002 - 修羅のみち5 東北殺しの軍団
  • 2003 - 修羅のみち6 血染めの海峡
  • 2004 - 修羅のみち9 北九州烈死篇
  • 2004 - 修羅のみち10 九州全面戦争
  • 2006 - 必殺バトルロード 妖剣女刺客
  • 2006 - 必殺バトルロード2 妖剣女刺客

書籍

編集

脚注

編集
  1. ^ 小澤 啓一”. ザテレビジョン. 2022年8月27日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 小澤啓一 略歴”. 映画DB. 2022年8月27日閲覧。
  3. ^ a b c 小澤 啓一”. Directors Guild of Japan. 2022年8月27日閲覧。

関連項目

編集

外部リンク

編集