岡村喬生
人物編集
- 東京で生まれ、4歳の時、銀行員だった父の転勤で北海道に移住。小中学校時代を札幌、小樽、室蘭、留萌、深川などで過ごし、旧制札幌市立中学在学中に学制改革に遭い、新制高校2年の時に上京して開成高等学校に転入。開成高校時代は応援団に所属。開成高校卒業後、現役で早稲田大学第一政治経済学部新聞学科に入学。当初は新聞記者志望だったが、声の大きさが注目されてグリークラブに誘われ、バリトン歌手として音楽活動を開始。早稲田大学在学中、東京放送合唱団に準団員として迎えられ、齋藤秀雄の指導を受ける。大学卒業後はNHKと朝日新聞と日本航空の入社試験に失敗し、東京放送合唱団に正団員として就職、NHK招聘の第2次イタリア歌劇団公演で唯一の日本人ソリストとしてマリオ・デル・モナコやティト・ゴッビと共演。1959年、政府給費留学生としてイタリアに渡り、ローマ・サンタ・チェチーリア音楽院声楽科卒を経て[1]、ウィーン国立音楽アカデミー・リート・オラトリオ科修了。
- 1960年にイタリアのヴィオッティ国際音楽コンクール声楽部門で金賞[2]、フランスのトゥールーズ国際声楽コンクールで優勝した。
- 1966年のオーストリアのリンツ市立歌劇場を皮切りに、西ドイツのキール、ケルン両歌劇場の専属第一バスとして活動。また、ローマ、パリ、ベルリン、ミュンヘン、ブリュッセル、ザグレブなどを経てヨーロッパ各地で第一バスとして活躍した。
- 1973年、イシュトヴァン・ケルテスがテルアヴィヴの海岸で溺死した時一緒にいた[3]。
- 1979年に日本へ帰国。オペラだけでなく、執筆、講演会、テレビドラマ、映画などで活躍し、CDだけでなく、本を出している。
テレビドラマ出演編集
映画出演編集
- 2011年にイタリアで行われたプッチーニ・オペラ・フェスティバルにおいて、プッチーニ作曲のオペラ「マダマ・バタフライ(蝶々夫人)」の外国における日本誤認の扱いを是正すべく、同作品の上演を演出した時の密着ドキュメンタリー作品
CM編集
- すかいらーく - 1980年代に文化放送で大量にオンエアされ、『吉田照美の夜はこれからてるてるワイド』で『オペラの岡村』コーナーが出来た。