州県制(しゅうけんせい)は、の時代にはじまり、その後もでも採用された統治。

州県制の採用 編集

後漢代に入ると、管掌し分けて官を置いた地位となり、現地の官吏としての登用の手段として郷挙里選[注釈 1]が行われ、在野の者が官吏として抜擢される可能性になるようにすすみ、具体的には、州が細分化して州と郡の区分が近接し、限られた民を多数の役人や官吏で治める官制機構の弊害が生来したのである[1]。中央より任命された長官が赴任先で自由裁量で人材を採用するしくみを辟召制といったが、魏晋南北朝時代の中国では、三国時代以降、分裂が進み、複数の国家が併存してきた結果、州・郡の細分化が進み、これにより現地の有力者が地方行政を牛耳っており、貴族制を支える温床となっていた[1][2]

 
州県制を採用した隋の文帝(楊堅)

583年、楊堅は新都大興城(現、西安市)に入り、統制を強めた[1][2][3]。この直前には華北において州が211、郡が508、県が1124あったので、中間の郡を廃止しても一州が五県を管轄する程度にとどまることになる[2]。これにより、行政組織の簡素化と冗官の整理が進んだと同時に経費削減と貴族の排除がもたらされた[1][2]589年に南朝のも隋に統一されて南北朝時代が終結すると、陳の旧領も華北と同様に扱われた[2]。辟召によって勢力をきずいてきた貴族勢力は大打撃をこうむった[2]

官吏登用法として、当初は前代([疑問点]からの九品官人法を採用したが、583年、貴族が家柄によって官職につく特権を保証してきたこの法を廃止し、次いでより広く、門閥主義によらず、また、新体制に応じる人材を選抜するため、試験で選ぶ方法(貢挙中国語版)が考案された[1][4][注釈 2]。これは、楊堅の地方制度改革の副産物として登場したもので、地方の州・県の官僚を中央からの任命によって充当することとなると、中央(吏部)では毎年膨大な人員を人事異動させなくてはならず、そのためには豊富な官僚予備軍をプールし、人物を把握しておかなくてはならない必要から生まれた[4]。当初は、毎年州ごとに3名を中央に推薦するというかたちであったが、これが科挙のさきがけとなった[1]

においても州県制が採用され、その後の地方行政制度の基本となった[6][7]。州は全国で約350あり[7]、県は全国でおよそ1、550あった[注釈 3]。正確には、州の上に全土を10[注釈 4]に分けた「道」という単位[8]もあったが、これは監察単位に近く、行政単位とはいえない[9]。州の長官が刺史、県は県令というのは隋と同じであったが、州が郡に変わると、長官の肩書きを太守とした[9]。また、重要都市には州と同級の行政単位として「府」が置かれた。唐では、これら中央派遣の長官以下の主要官僚の下で、戸口の管理、税の徴収、治安司法など地方行政全般が遂行された[9]。唐の県は郷によって構成された[10]

金・宋代以降の変遷 編集

州県制は、北方民族が勢力を拡大する時代に入っても命脈を保った。モンゴル系の契丹(キタン)人は、遊牧民によるウイグル国家がモンゴル高原を中心とする勢力をたもっている間は、これに服属し、一部は唐の州県体制に編入されていた[11]。契丹人の国、を滅ぼした女真(ジュシェン)にあっては、行政と軍事を兼ねた猛安・謀克の制度(ミンガン・ムクン制)など独自の統治体制がとられて特別の保護を受け、漢化を防いだ[12][13]。女真国家の金王朝は、中国東北部満洲)にあっては大部分が猛安・謀克制によって統治を進めたが、他民族の住む西部や南部では州県制による支配がつづいた[12]。金朝が、都市をともない定着農耕民の多く居住する華北に進出するとそこでは州県制を基本とする統治がなされ、猛安・謀克の制度はもっぱら契丹人と女真人を対象とするものとなった[13]

では監察機関として、唐代の道に代わり「路」が置かれ[8]、「府」の数が増加した(路府州県)。宋では都市の発達が顕著で、県を構成する単位として、従来の郷に新しく「鎮」が加わった[10]元朝では、宋代の路府州県の上に行中書省[注釈 5](「省」)を置き、大きな権限をもち軍政民政を統括した[14]

が建国された当初は、元代の機構を引き継いでいたが、太祖洪武帝(朱元璋)は行中書省を廃止し、各省に三司[注釈 6]を設置した[14]。これは、地方官の権限を分散して、皇帝の地方支配を強化する動きとみることができる[14]。「路」は廃された。明の領土は、北京南京の二京(北直隷・南直隷)および13の承宣布政使司によって管轄されることとなったが、承宣布政使司の管轄地域は俗に「省」と呼ばれた[15]。これは、現在の地方行政区としての「省」の前身であり、では正式名称として採用され[注釈 7]中華民国中華人民共和国でも引き継がれた。なお、県の数は明代初期で1,200程度、清代後期で1,600程度であった[15][注釈 8]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 「郷より挙げ、里から選ぶ」の意。
  2. ^ 漢の郷挙里選・魏の九品官人法といい、いずれも他薦による人材登用であったが、ここに自薦による官吏登用の道が開かれた[5]
  3. ^ 唐は折衝府中国語版と称する軍府を地方に置いたが、全国均等に置いたわけではなく中央と辺境に偏在し、350州のうち90州にしか置かれなかったので、地方によってその負担に顕著な格差があった[7]
  4. ^ のちの玄宗の時代に15。
  5. ^ 行中書省は、中書省の出先機関という意味である[14]
  6. ^ 財政・行政一般担当の承宣布政使司、監察・裁判担当の提刑按察使司、軍事担当の都指揮使司。
  7. ^ 清代においては、藩部や東北部などの特別行政区域を除き、中央政府が直接統治するのは直隷省をふくみ18省であった[15]
  8. ^ 秦漢以来、長い歴史を通じて人口増加や経済変動、人口シフトの移動があっても都市の数がそう大きく変わらなかったのは、中国の都市がつねに行政の拠点であって、政治都市の性格を濃厚に持っているためだという指摘がある[16]

出典 編集

参考文献 編集

  • 伊原弘梅村坦『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社中公文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-12-204997-0 
    • 伊原弘「第1部 宋と高麗」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社、2008年。 
    • 梅村坦「第2部 中央ユーラシアのエネルギー」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社、2008年。 
  • 岸本美緒宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年9月。ISBN 978-4-12-205054-9 
    • 岸本美緒; 宮嶋博史「1章 東アジア世界の地殻変動」『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年。 
    • 岸本美緒「2章 明帝国の広がり」『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年。 
  • 氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国:隋唐時代』講談社講談社学術文庫〉、2020年12月。ISBN 978-4-06-521907-2 
  • 礪波護『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年3月。ISBN 978-4-12-205000-6 
  • フランク・B・ギブニー 編『ブリタニカ国際大百科事典18 ペチ-ミツク』ティビーエス・ブリタニカ、1975年5月。 
    • 三上次男「満州」『ブリタニカ国際大百科事典18』ティビーエス・ブリタニカ、1975年。 
  • 三田村泰助『生活の世界歴史2 黄土を拓いた人びと』河出書房新社河出文庫〉、1991年5月。ISBN 4-309-47212-5 

関連項目 編集

外部リンク  編集