常久寺
常久寺(じょうきゅうじ)は、岐阜県恵那市三郷町佐々良木にある臨済宗妙心寺派(龍泉派光國院)の寺院。山号は龍遊山。中部四十九薬師霊場三十四番、恵那三十三観音霊場二十三番。信光寺 (瑞浪市)の末寺。
常久寺 | |
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所在地 | 岐阜県恵那市三郷町佐々良木366-1 |
位置 | 北緯35度24分12.9秒 東経137度21分3秒 / 北緯35.403583度 東経137.35083度座標: 北緯35度24分12.9秒 東経137度21分3秒 / 北緯35.403583度 東経137.35083度 |
山号 | 龍遊山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 観世音菩薩 |
創建年 | 文亀・永正の頃(1501年~1521年) |
開山 | 本如実性 |
開基 | 光月源公 |
中興 | 漸嶽東公 |
札所等 |
恵那三十三観音霊場二十三番 中部四十九薬師霊場三十四番 |
法人番号 | 4200005009145 |
歴史 編集
寺伝によると文亀・永正の頃(1501年~1521年)に光月源公首座という僧が、佐々良木 杉ヶ洞の地に縦三間、横一間の草庵を建て、本如実性を招いて開山し、龍遊山 常久寺と名付けたことに始まる。
常久寺に残る一番古い過去帳は、承応2年(1653年)のもので、龍遊山 常久寺と記されているが、同年の検地帳には杉ヶ洞 常久寺と記されている。
寛文9年(1669年)、六世の乳峰西堂は、方丈の前に十王堂を建立し、十王尊を安置した。
また寛文10年(1670年)には、畑中の成瀬某の母が浄財を寄進して薬師堂(禅庵)を建立し、乳峰西堂が開山して薬師瑠璃光如来を勧請安置し、祖先の冥福と諸人の安全健康を祈願した。
明治38年(1905年)に森平の渡辺丈右衛門が書き残した記録によると
これによると、足立庄右衛門が折戸の山地の百間四方を、七世の湘山潭公に寺地として寄進したことがわかる。これにより杉ヶ洞から折戸に移った。
九世住持の棟岩梁公(1742年に逝去)の代には方丈を再建した。
十二世住持の笑堂全識は京都で和尚の位を得たため、従来の平僧地[2]から和尚地に格上となった。
寛政7年(1795年)、3月20日に梵鐘を鋳造し、享和2年(1802年)春には碧巌録大会が営まれた。
十三世住持の恭堂恵謙は、隠寮・長屋・土蔵を建立したが、十五世住持の観界恵音の代には縦十一間、横五間の草葺の庫裡が再建された。
その後、多くの信者を得たが明治維新の折、堂宇は取壊され薬師如来と十二神将の像は十王堂に移されたが、現在は本堂に安置されている。また庚申堂も薬師堂と共に取り壊され庚申像も十王堂内に移された。
明治時代以降は苗木藩の苛烈な廃仏毀釈によって心観寺を失った中野方村にて、法事を執り行っている。
昭和7年(1932年)に本堂と開山堂などを再建し屋根が瓦葺となった。
南陽山 神護寺の大般若経と十六善神図 編集
かつて佐々良木村の武並神社の南側にある舞台の場所に、真言宗の南陽山 神護寺という別当寺があったが、明治元年(1868年)の神仏分離令の折に廃寺となった。
この寺に享保元年(1716年)に大平の足立新七郎が寄進した大般若経600巻と箱入十六善神の懸物1軸があったが、廃寺の際に足立家に返された。
足立家は、数年間土蔵に保管していたが、常久寺十六世住持の随翁祖教に寄進した。
寺宝 編集
それぞれ恵那市指定文化財となっている。
脚注 編集
参考文献 編集
- 『三郷村史』 第三章 歴史的方面 第一節 七 常久寺 p133 石田彌三郎 昭和18年(1943年)
- 『恵那市史』 通史編 第2巻 第八章 江戸時代の社会生活と文化 第二節 社寺と文化 二 仏教と寺院 常久寺 p1066~p1068 1989年
- 『恵那郡史』 第八篇 現代 第四十一章 人文の発展(一) 【各宗寺院】 p612~p619 恵那郡教育会 1926年