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怪竜大決戦』(かいりゅうだいけっせん)は、1966年12月21日に公開された東映製作の特撮映画[1]

怪竜大決戦
Kairyu daikessen
監督 山内鉄也
脚本 伊上勝
製作 岡田茂
新海竹介(企画)
出演者 松方弘樹
小川知子
大友柳太朗
天津敏
金子信雄
原健策
音楽 津島利章
撮影 わし尾元也
編集 神田忠男
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 日本の旗 1966年12月21日
上映時間 85分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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目次

概要編集

東映が唯一製作した“怪獣“が登場する映画で[2]、主君の仇討ちを果たさんとする、古典の自雷也物語がベースになっている[2]。大蝦蟇や大竜、大鷲、大蜘蛛が登場する。

あらすじ編集

家老謀反により滅びた城主の若君・雷丸は育ててくれた蟇道人から忍術を習う。雷丸は自雷也と名を変え、仇を討つため旅に出る。

スタッフ編集

キャスト編集

製作編集

企画編集

当時の東映京都撮影所長・岡田茂が『大忍術映画ワタリ』に次ぐ[3]、特撮娯楽時代劇第二弾『冒険大活劇 黄金の盗賊』に次いで[2]、第三弾として本作を企画した[2]。製作発表は1966年夏で『冒険大活劇 黄金の盗賊』『怪竜大決戦』は同時に製作発表があり[2]、『冒険大活劇 黄金の盗賊』は仮タイトルを『黄金島』、本作は『自雷也』と発表していた[2]。岡田は本作の企画経緯を「『自雷也』はテレビで放映した作品中に『妖蛇の魔術』が視聴率20%以上というのにヒントを得て、時代逆行的ではあるが、映画化に踏み切った。何と言っても時代劇復興は東映が本家と照れずに理屈抜きで面白い作品を作っていきたい」と話した[2]。『妖蛇の魔術』が何なのかは分からない。監督の山内鉄也は、岡田が人員整理のため、ベテランスターや監督、脚本家を辞めさせて、ギャラの安い若手監督起用の方針により監督昇進した人で[4]、当時岡田は「ひとりひとり、ぼくは巨匠たちに頼んで歩いた。あの怖い比佐さん(比佐芳武)に『もう東映には仕事が無いから辞めて下さい。こういう深刻な事情です』って頼んだら『馬鹿者!』って怒るかと思ったら『そうか、じゃあしょうがないな』って言って頂いて、ありがたかった」などと話していたという[4]。岡田はこの後、完全に時代劇製作を終了させるが、当時は新しい傾向のもので何とか時代劇を繋ぎとめようと試行錯誤していた[4]。この時期の特撮物は、東映でもやらないといけないだろうと企画に挙げたものであった[4]

キャスティング&撮影編集

制作は東映京都撮影所で行われ、キャスティングは時代劇の重鎮が顔を揃えている。同年の『大忍術映画ワタリ』で悪役を演じた大友柳太朗と天津敏のコンビが本作でも悪役を演じている。尾形城のミニチュアはフルスケールのものが用意され、一見ミニチュアと気付かないほどのリアルな映像となっている。本作は特撮監督はおらず、監督の山内鉄也とカメラマンが試行錯誤しながら撮影した[5]。尾形城のの一部に八ツ橋を使用した[5]

大蝦蟇と怪竜、大蜘蛛の造型は、この年に東宝特殊美術課から独立した村瀬継蔵らが興したエキスプロダクションによって行われている。大蝦蟇はツノやトゲを外し、怪竜や大蜘蛛はそのままで、翌年同じ東映京都で制作されたTV番組「仮面の忍者 赤影」に登場している。

原典での綱手は蛞蝓に化身するが、本作では当時人気であった小川知子が演じるには相応しくないとして蜘蛛に変更された[6]。小川は東映から"青春路線"をやるという約束でスカウトされたが[7]、青春ものは1本もさせてもらえず[7][8]。「変な映画ばかりさせて約束が違う」と腹を立て[7][8]、東映を退社した[7][8]。小川は1975年に『週刊ポスト』の連載「松方弘樹の突撃対談」に招かれ本作で共演する松方と対談、小川「とにかく遊びという遊びは全部お兄ちゃん(松方)に教えてもらったもん。感謝しなくっちゃ。17歳くらいじゃないかな、お兄ちゃんと一緒に仕事してたの。変な時代劇ばっかりやってたわね。この間、テレビでリバイバルやってたわ」 松方「見たの?」 小川「見た、見た(笑い)」 松方「やめろよ、オレ恥ずかしくってさ、嫌なんだよ」 小川「何だっけ?忍者映画みたいなの、怪獣みたいなの出てサ」 松方「この間もテレビでやっててさ。おふくろが『見なさい、見なさい、やってるわよ』っていうんだ。もう恥ずかしくってさァ」などと話した[9]

影響編集

この作品以降、東映は同社独自の怪獣が登場する映画を製作することはなかった。公開の翌年(昭和42年)には、日活ガッパ松竹ギララという怪獣を登場させており、東宝ゴジラ大映ガメラと、日本の各大手映画会社が看板たる怪獣を作り上げるなか、東映だけが怪獣を看板にしなかった[10]。怪獣映画は1966年に発足した日本映画輸出振興協会から[11]融資を受けることができ[10]、海外でもよく売れたため各社製作したが[10]、東映は任侠映画がよく当たったため、俳優中心のラインアップを組んだ[10]。また東映作品は1960年代まで、動画は売れていたが[12]、劇映画はほとんど売れず[12]。東映作品が海外で売れるようになったのは岡田茂が社長に就任して海外販売に力を入れるようになって以降であった[13][14]。1966年暮れに、各社1967年製作方針の発表があり[10]、東映は、鶴田浩二村田英雄北島三郎コンビが各5本、高倉健梅宮辰夫舟木一夫が各3本、千葉真一が2本、大川橋蔵佐久間良子三田佳子緑魔子藤純子が各1本の製作予定で[10]、更に戦記大作(『あゝ同期の桜』)やエロ路線(『大奥(秘)物語』)も本格的に加わってくるため、それ以外の製作予定の特撮ものは『仮面の忍者 飛騨の赤影』(仮題、製作されず)1本だけで[10]、怪獣映画は全く予定に挙がらなかった[10]春休み夏休み東映まんがまつりでテレビの編集版の特撮ものが上映されている)。

同時上映編集

脚注編集

  1. ^ 怪竜大決戦”. 日本映画製作者連盟. 2019年4月21日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 「ニュースコーナー 興行 観客動員拡大に家族番組を重視 東映、動画技術を劇映画に利用」『映画時報』1966年7月号、映画時報社、 26頁。
  3. ^ 大下英治『日本ジャパニーズヒーローは世界を制す』角川書店、1995年、72 - 73頁。ISBN 4048834169
  4. ^ a b c d 「あゝ監督人生 山内鉄也PART1」『時代劇マガジン Vol.15』、辰巳出版、2007年1月、 100-103頁、 ISBN 4777803236
  5. ^ a b 「『スペシャル対談】加藤哲夫vs.山内鉄也+中田雅喜」『ぼくらが大好きだった 特撮ヒーローBESTマガジン vol.6』、講談社、2005年12月9日、 12-14頁、 ISBN 4-06-370006-2
  6. ^ 石井博士ほか『日本特撮・幻想映画全集』勁文社、1997年、180頁。ISBN 4766927060
  7. ^ a b c d 小川知子『美しく燃えて』学習研究社、1992年、54、65-70頁。
  8. ^ a b c “小川知子歌手活動を再開 波乱万丈35年の芸能生活 『愛ふたたび』リリース”. 産経新聞夕刊 (産業経済新聞社): p. 2. (1995年10月12日) 
  9. ^ 「『私に遊びを教えたのは誰なのさ』ゲスト/小川知子・26歳」『週刊ポスト』、小学館、1975年7月11日号、 156-157頁。
  10. ^ a b c d e f g h 「ニュースコーナー 製作 外貨を狙った怪獣映画ブーム各社、新年度の路線確立急ぐ」『映画時報』1967年1月号、映画時報社、 26頁。
  11. ^ 衆議院会議録情報 第071回国会 予算委員会 第10号
  12. ^ a b 「ニュースコーナー 配給 海外市場の拡大化に期待」『映画時報』1966年7月号、映画時報社、 25頁。
  13. ^ 岡田茂(東映代表取締役社長)、聞く人・北浦馨「岡田茂東映社長大いに語る 『日本映画の海外上陸作戦全世界がわれわれの市場・新しい活動屋の出現に期待』」『映画時報』1979年11月号、映画時報社、 4-12頁。
  14. ^ 福中脩東映国際部長「年間二百万ドルを目標の海外輸出 『恐竜・怪鳥の伝説』は五〇万ドルの事前セールス」『映画時報』1977年2月号、映画時報社、 12-13頁。

外部リンク編集