放送動画制作

かつて存在した日本のアニメ制作会社

株式会社放送動画制作(ほうそうどうがせいさく)は、日本のテレビ映画の制作会社、とりわけアニメーション制作会社として知られる企業である[1]。『官報』には株式会社放送動画製作と記載されている[2]

株式会社大日
Dainichi.Co.,Ltd
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
104-0045
東京都中央区築地1-7-10
ABL築地
設立 1966年2月15日
業種 情報・通信業
法人番号 1010001049118
事業内容 テレビCM、ラジオCMの企画制作 官公庁、企業VPの企画制作 録音スタジオ事業 オリジナル音楽レーベル「d-rights music」
代表者 代表取締役社長 谷川竜之
資本金 1,500万円
主要株主 株式会社電通
株式会社AOI Pro.
外部リンク http://www.dai-nichi.co.jp/
特記事項:1972年 放送動画制作から社名を変更
一般社団法人日本アド・コンテンツ制作社連盟(JAC)
一般社団法人全日本シーエム放送連盟(ACC)加盟
テンプレートを表示

1972年に「株式会社大日」(だいにち)に商号変更し、テレビ・ラジオCMなどの制作会社として存続。2006年に毎日放送が保有していた株式20%を電通テックに売却した。

放送動画制作の略歴・概要 編集

毎日放送が、『おそ松くん』のアニメ化をもってテレビアニメーション製作に初めて参入した1966年(昭和41年)、毎日放送は、東映動画(現在の東映アニメーション)を退社した山本善次郎(山本早苗)が2年前に設立したチルドレンズ・コーナーと、鈴木伸一らが3年前に設立したスタジオ・ゼロに実制作の発注を行い、同作を製作したことが前史として存在する[1]

翌1967年(昭和42年)、毎日放送は、自社の子会社である「株式会社放送動画制作」にアニメ部を設け、チルドレンズ・コーナーとともに『かみなり坊やピッカリ・ビー』の制作を行ったのが、同社のアニメ制作の始まりである[1][3]。スタッフはチルドレンズ・コーナーと同様に、ほとんどが東映動画出身者であり、光延博愛は同作で初めて演出としてクレジットされた[3]

1968年(昭和43年)、毎日放送は同社製作のテレビアニメーション第3作『ファイトだ!!ピュー太』を、放送動画制作に全面発注する[1][4]。構成に斎藤賢、光延博愛、永沢詢(永沢まこと)がクレジットされており、光延がチーフディレクターとして機能した[5]。同作には、林静一鈴木欽一郎、白石邦俊(クニトシロウ)も参加した[5]。『かみなり坊やピッカリ・ビー』、『ファイトだ!!ピュー太』いずれも白黒フィルムで撮影された、白黒テレビ映画であった。

『ファイトだ!!ピュー太』の放映後、同社のアニメーション制作スタッフは解散した[4]。斎藤賢、永沢まことらはオフィス・ユニを設立、土田治やクニトシロウはこれに参加、『キリンものしり大学 マンガ人物史』(1970年 - 1971年)や『世界ものしり旅行』(1971年 - 1974年)等を制作した。1973年(昭和48年)の『官報』には、「株式会社放送動画制作」が同一の所在地で記載されているが、法人格を継承している大日は1972年に社名変更したとしているため、関係は不明である。[2]

放送動画制作は、永沢まこと、倉橋達治 (倉橋孝治、倉橋こうじ)、竹内大三ひこねのりお(彦根範夫)ら、のちにCM界や個人作家として大成する人物を多く輩出している[5]。『ファイトだ!!ピュー太』は再放送の機会も少なく伝説の作品とされ、放映当時に視聴していた庵野秀明吉松孝博らの評価は高かった[4]。1990年(平成2年)、毎日放送千里丘放送センターのスタジオ機能移転時に、フィルム保管倉庫から放送動画制作の作品が発見され、約30年ぶりに再評価の機会を得た。

フィルモグラフィ 編集

アニメーションテレビ映画(放送動画制作時代)[1]
テレビ・ラジオCM(大日時代)

おもな出身者 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 『ファイトだ!!ピュー太』研究報告アニメスタイル、2012年6月6日閲覧。
  2. ^ a b 官報』、1973年。
  3. ^ a b かみなり坊やピッカリ・ビーallcinema ONLINE、2012年6月6日閲覧。
  4. ^ a b c ファイトだ!!ピュー太、allcinema ONLINE、2012年6月6日閲覧。
  5. ^ a b c データ原口さんに色々と教えてもらおう(後編)、アニメスタイル、2012年6月6日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集