有楽町
有楽町(ゆうらくちょう)は、東京都千代田区の町名である。住居表示実施済みの地域で、現行行政地名は有楽町一丁目及び有楽町二丁目。郵便番号は100-0006[2]。
有楽町 | |
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— 町丁 — | |
有楽町を走る東日本旅客鉄道(JR東日本)京浜東北線 | |
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座標: 北緯35度40分23.6秒 東経139度45分38.35秒 / 北緯35.673222度 東経139.7606528度 | |
国 | ![]() |
都道府県 | ![]() |
特別区 | ![]() |
地域 | 麹町地域 |
人口 (2017年(平成29年)12月1日現在)[1] | |
- 計 | 18人 |
等時帯 | 日本標準時 (UTC+9) |
郵便番号 | 100-0006[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 品川 |
目次
地理編集
由来編集
千代田区の見解では、東京都千代田区の有楽町(ゆうらくちょう)という町名は、戦国時代の大名の織田有楽斎(織田長益)に由来するとされる[5]。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと徳川方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたとされる[5]。しかし、読みがその際「ゆうらくちょう」に改められたとする証拠はなく、しかも織田有楽斎は、生涯のほとんどを上方で過ごしており、江戸に屋敷を拝領したという記録も、江戸に来たという記録も見当たらない。
江戸開府期には、この辺りまで海が入り込んでいた(日比谷入江)ことから、水辺の地名の「浦原」「浦ヶ原」から転じたのではないか、という説がある。[要出典]
町名としての「有楽町」は明治初めに誕生したが、その時、現在の東京駅あたりに「永楽町」が誕生していることから、地名研究家の櫻井澄夫は、有楽、永楽はペアの地名であって、明治初期の新政府(東京)による町名確定の際、新造されたいわゆる瑞祥地名の一種であるとしている。
歴史編集
このあたりは江戸時代に大名屋敷が建ち並んでいた、いわゆる「大名小路」の南端付近である。 1707年(宝永4年)には南町奉行所が開設された。
明治時代に入ると、1872年(明治5年)に有楽町一丁目ないし三丁目ができた。1898年(明治31年)に東京市役所が設置された[6]。1910年(明治43年)には山手線が延伸され、有楽町駅が開業。1933年(昭和8年)に日劇が、1934年に東京宝塚劇場がオープンし、有楽町は劇場街と化した。また、毎日、朝日新聞社の本社と讀賣新聞社有楽町別館が置かれ、その界隈は「新聞街」と呼ばれていた[7]。戦前の有楽町は、まだ庶民には遠い存在だったといえる。戦争末期には空襲をうけた。
戦後、第一生命ビルが接収され、連合国最高司令官総司令部(GHQ)となった[8]。戦後の混乱期に、すし屋横丁ができ、また街娼が集まるようになる一方で[9]、続々と映画館が誕生した。1951年、東日本初の民放ラジオ局であるラジオ東京(放送局としては現:TBSラジオ、会社としては現:東京放送ホールディングス(TBSHD))が開局し、1961年まで毎日新聞東京本社内に本社機能を置いていた。1954年に深夜放送「オールナイトニッポン」でおなじみのラジオ局、ニッポン放送が本社を設けた。また、ニッポン放送の子会社として設立されたフジテレビも1962年まで本社機能を置いていた。1957年には讀賣新聞が経営する讀賣会館のテナントとしてそごう東京店がオープン。そのコマーシャルソングの「有楽町で逢いましょう」をビクターのフランク永井が歌った。また、そごうの東京進出に一役買っていた大映映画がキャンペーンのための同名の映画を京マチ子主演で製作した。映画も歌もヒットし、有楽町の名が全国に広まった。1965年、すしや横丁および周辺が整理されて東京交通会館が開業した。
1966年、千代田区は住居表示に関する法律の実施基準により[10]「有楽町」の「町」をとり「有楽」という地名に変更しようとしたところ、マスコミ各社の反対により「有楽町」の町名が残ることになった[11]。
1980年代にはいると、新旧交替が始まった。1981年(昭和56年)から有楽町の顔とも言えた朝日新聞社と日劇の建物が解体され[12]、1984年に有楽町センタービル(通称・有楽町マリオン)がオープンし、新たなシンボルが誕生した。2000年(平成12年)には有楽町そごうが閉店し、その後に新たにビックカメラがオープンした。また、有楽町駅前の再開発が行われ、2007年10月には丸井などの入店する新ビル「有楽町イトシア」が開業した[13]。
世帯数と人口編集
小・中学校の学区編集
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[14]。なお、千代田区の中学校では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能。[15]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
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有楽町一丁目 | 全域 | 千代田区立千代田小学校 | 千代田区立麹町中学校 千代田区立神田一橋中学校 |
有楽町二丁目 | 全域 |
交通編集
施設編集
- 丸の内警察署
- 丸の内消防署有楽町出張所
- 東京国際フォーラム
- 有楽町マリオン
- ビックカメラ有楽町店本館
- 有楽町電気ビル
- TOHOシネマズ有楽座
- 有楽町スバル座
- TOHOシネマズシャンテ
- 日生劇場
- 東京宝塚ビル
- 東宝シアタークリエビル
- シアタークリエ
- レム日比谷
- 豊田通商東京本社
- DNタワー21
- 新有楽町ビル
- 東宝日比谷ビル(日比谷シャンテ)
- 東宝本社
- ぐるなび本社
- サンフロンティア不動産本社
- 糖業協会
- ニッポン放送本社(1997年3月から2004年9月までは、社屋建て直しのため港区台場のフジテレビ本社ビルに同居していた。)
- ザ・ペニンシュラ東京
- 有楽町イトシア
- 東京交通会館
- パスポートセンター(東京都旅券課 有楽町分室)
- 東京交通会館内郵便局
- 三菱UFJ銀行
- 有楽町献血ルーム
- パーク24本社
- 国際ビル
- 新国際ビル
- 新東京ビル
- 有楽町ビル
- 富士ビル
- 東京會舘
- 東京ミッドタウン日比谷
上記には現在の丸の内三丁目辺りにあるものが含まれている。ここがかつて有楽町一丁目、二丁目だった名残である。「千代田区の町名」参照。
同名の地名がある自治体編集
青森県つがる市(旧西津軽郡木造町、うらくまち)/ 秋田県秋田市(実際の住所としては南通亀の町だが、有楽町と呼ばれる地区がある)/ 栃木県足利市/ 埼玉県所沢市/ 岐阜県高山市/ 福井県福井市/ 愛知県豊橋市/ 愛知県半田市/ 三重県桑名市/ 山口県周南市
脚注編集
- ^ a b “町丁別世帯数および人口(住民基本台帳)”. 千代田区 (2017年12月6日). 2018年1月2日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年1月2日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月2日閲覧。
- ^ 大手町・丸の内と合わせて「大丸有(だいまるゆう)エリア」と呼ぶ人も存在する[要出典]。
- ^ a b “麹町わがまち情報館”. 麹町出張所地区連合町会. 2016年10月13日閲覧。
- ^ 日本歴史地名大系(平凡社)
- ^ 通信手段として伝書鳩が使われたので各新聞社の屋上には鳩小屋があり、訓練のため放たれた鳩が空を飛び交った。戦後、1948年11月12日に東京裁判において被告達への判決言い渡しが行われた際には、新聞社の判決速報を聞くために、周辺一帯に黒山の人だかりができた。
- ^ 日本歴史地名大系(平凡社)
- ^ NHK『街頭録音』(1947年4月22日)において「ガード下の娘たち」としてインタビューを受けた街娼の1人は、有楽町だけで知り合いの街娼が150人はいると言っている。街娼のなかでは「楽町お時(らくちょうおとき)」が有名である。アナウンサーの藤倉修一がインタビューした。ラクチョウのお時 kotobank
- ^ 1967年(昭和42年)、「丁目」が付く町名では「町」は付けないのを原則としているため
- ^ 谷川健一編 「地名を守る意味 - 頻発する町名変更反対運動」『現代「地名」考』 pp.164-165、日本放送出版協会、1979年
- ^ 朝日は築地に移転。日劇はTOHOシネマズ日劇に変わった
- ^ イトシア(ITOCiA)の由来は「愛しい + ia(場所を表す名詞語尾)であるが、この言葉は偶然にも、フランク永井の歌の歌詞に出てくる。
- ^ “区立小学校の通学区域”. 千代田区 (2017年8月17日). 2018年1月2日閲覧。
- ^ “区立中学校の通学区域と学校選択”. 千代田区 (2017年10月26日). 2018年1月2日閲覧。