日産R92CPは、1992年全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)用に日産自動車が製作したグループCカー。前作日産・R91CP同様、全て日産社内で作られた純国産車である。

日産・R92CP
鈴鹿サーキット60周年 ファン感謝デーにて(2022年)
鈴鹿サーキット60周年
ファン感謝デーにて(2022年)
カテゴリー グループC
コンストラクター NISMO
デザイナー 岡寛[1]
先代 日産・R91CP
後継 日産・NP35
主要諸元
シャシー カーボンコンポジット・モノコック
サスペンション(前) ビルシュタインダブルウィッシュボーン
サスペンション(後) ビルシュタインダブルウィッシュボーン
全長 4,800 mm
全幅 1,990 mm
全高 1,100 mm
トレッド
1,600 mm
1,560 mm
ホイールベース 2,795 mm
エンジン 日産・VRH35Z 3,496 cc V8 ツインターボ ミッドシップ
トランスミッション ヒューランド VGC 5速 MT
重量 900 kg
タイヤ ブリヂストン
主要成績
チーム 日本の旗 ニスモ
ドライバー
出走時期 1992 - 1993年
コンストラクターズタイトル 1
ドライバーズタイトル 1
初戦 1992年 鈴鹿500km
初勝利 1992年 鈴鹿500km
最終戦 1993年 鈴鹿1000km
出走優勝ポールFラップ
77(クラス優勝2回を含む)52
テンプレートを表示

概要 編集

エンジンは3.5リッターV型8気筒ツインターボVRH35Zを搭載。1992年JSPC全6戦、および1993年鈴鹿1000kmの参加した計7戦全戦で優勝(クラス優勝2戦含む)。1992年JSPCグループC1部門のドライバーズ(星野一義)・メイクスの二冠タイトルを獲得。

R92CPは、基本的には前年度のR91CPの改良発展型であり、R91CPとは外観的な差異は大きくない。顕著な差異は、フロントフェンダー上部のエアアウトレットで、R91CPまではルーバー状だったものがR92CPではJSPC第4戦菅生から開閉するフラップ状になったこと程度であり、前部に位置するラジエータ、同じく前部に開口するインタークーラー用ダクト、特徴的なブレーキ冷却用エアインレットなどは、そのまま継承されている。

サスペンションの設計については、R91CPでは扱いやすさを狙ってレーシングカーとしては高めに設定されていたロールセンターは、常識的なレベルまで下げられ、コーナリング性能は一段と向上し、タイヤへの負担も小さくなった。また、ホイール径がR90CP、R91CPではフロント17インチ/リヤ19インチであったが[2]、R92CPではフロント17インチ/リヤ18インチに改められた[3]

エンジンはV型8気筒3549 ccのVRH35Zが改良の上継承されている。トランスミッションも、引き続きヒューランド社製5速VGCが採用されているが、R91CPと同様に内部のギアだけが使用されており、ル・マンなどで強度不足の問題が出たミッションケースは日産内製で作りなさおれている。

燃費規定のグループCカー(カテゴリー2)として、日本メーカーによって製造されたマシンの中では事実上最強であったが、このカテゴリーは国際的には2年前(1990年)に終了しており、1992年シーズン用のマシンを製作したメーカーは日産だけである。

戦績 編集

1992年のJSPCに日産/NISMOは2台のR92CPをエントリーさせた。前年まで日産と激しくタイトルを争っていたトヨタは1992年シーズンはSWCに注力することになりJSPCではトムスサードトラストの各トヨタユーザーの後方支援をするにとどまった[4]

1号車は星野一義/鈴木利男組のドライブで参戦。開幕戦の鈴鹿500kmはサスペンションを傷めて9位となったが、第2戦富士1000kmでポール・トゥ・ウィンを記録。第3戦富士500マイルではニュー・モノコックを投入してきたトムスの92C-Vを抑えて連勝。第4戦菅生500kmでは全車を周回遅れにしての3連勝を達成した。第5戦富士1000kmでは、トヨタの投入したSWCマシン・TS010に敗れ総合2位に終わるもクラス優勝し、星野/鈴木組のドライバー・タイトルが確定。最終戦の美祢500kmでは鈴木利男がニューマシン・NP35のドライブを担当することになり、代わって和田孝夫が星野のパートナーとなった。1号車はシーズン2度目のポールポジションを獲得し、総合2位とクラス優勝を獲得。星野は2年連続でドライバー・タイトルを獲得した。

24号車は開幕戦で長谷見昌弘/ジェフ・クロスノフ組で参戦した。開幕戦の鈴鹿500kmでポール・トゥ・ウィンを達成。しかし第2戦富士1000kmでは4位に終わり、第3戦富士500マイル、第4戦菅生500kmでは2戦連続でポールポジションを獲得するも、レースではそれぞれ5位と4位で表彰台を逃した。24号車のモノコック個体はレース後半になるとペースが上がらないというクセがあり、それが決勝レースでの不振につながっていた[5]。第5戦富士1000kmからはテストで負傷したクロスノフに代わって影山正彦(これまでもサード・ドライバーとして登録されていた)が長谷見のパートナーとなった。第5戦・富士1000kmでは総合5位・クラス4位、最終戦・美祢500kmでは総合6位・クラス4位に入賞した。

1993年になるとJSPCの参戦台数が減少し、レース成立台数に満たないという問題が発生。同年の鈴鹿1000kmがR92CPの最後の出場レースとなった。チーム・ルマン・NISMO合同チームからのエントリーで鈴木利男と和田孝夫がステアリングを握った。最上位のグループCクラスにはルマン・NISMO以外にはノバ・エンジニアリング日産・R93CKの1台のみで、優勝争いは日産勢同士による一騎討ちとなった。ICL参戦のために大がかりなモディファイを施したノバのR93CKに対し、1992年12月に1度テストを行っただけ[6]のR92CPは予選、決勝とも苦戦を強いられたが、レース終盤に逆転し優勝した。

以降もSUGO、富士、MINEでのJSPC開催スケジュールが予定されていたが、参戦台数を確保できず中止となり、1993年のJSPCは選手権自体が不成立となった。結果的に前年の1992年をもってJSPCは終焉を迎えた事となった。

脚注 編集

  1. ^ 『Racing On』No.136 ニューズ出版、1993年、p.30。
  2. ^ 『オートスポーツ』No.592 三栄書房、1991年、p.60。
  3. ^ 『Racing On』No.120 武集書房、1992年、p.25。
  4. ^ 『Racing On』No.120 武集書房、1992年、p.29。
  5. ^ Racing On』No.127 ニューズ出版、1992年、p.79。
  6. ^ 『オートスポーツ』No.641 三栄書房、1993年、p.20。

関連項目 編集