明菴栄西

日本における臨済宗の開祖
栄西から転送)

明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい[注釈 2]永治元年4月20日[注釈 1]1141年5月27日) - 建保3年7月5日1215年8月1日[1])は、平安時代末期から鎌倉時代初期の。日本における臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴[注釈 3]、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。

明菴栄西
永治元年4月20日[注釈 1] - 建保3年7月5日[1]
1141年5月27日 - 1215年8月1日
明菴栄西像[2]
法名 栄西
字(道号):明菴(明庵)
房号:葉上房
諡号 千光国師
尊称 栄西禅師
生地 備中国賀陽郡
没地 京都
寺院 聖福寺建仁寺
虚庵懐敞
弟子 退耕行勇釈円栄朝など
著作誓願寺盂蘭盆縁起』・『喫茶養生記』・『興禅護国論』・『一代経論釈
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栄西が再建した東大寺鐘楼(奈良市)
茶碑、建仁寺、京都市東山区

経歴 編集

元亨釈書』によれば、永治元年(1141年4月20日[注釈 1]吉備津神社権禰宜賀陽貞政の曾孫として生まれたと伝わる(実父は諸説あり不明)。生地は備中国賀陽郡宮内村[注釈 4]とされるが、他説として同郡上竹村[注釈 5]もある。

紀氏系図』(『続群書類従』本)には異説として紀季重の子で重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや、重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。

久安4年(1148年)、8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。仁平元年(1151年)、備中の安養寺静心に師事する。

久寿元年(1154年)、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。以後、延暦寺、吉備安養寺伯耆大山寺などで天台宗教学密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。

保元2年(1157年)、静心が遷化して、遺言により法兄の千命に従う。翌年の保元3年(1158年)には千命より虚空蔵求聞持法を受ける。 平治元年(1159年)、19歳の時に比叡山有弁に従って天台宗を学ぶ。

仁安2年(1167年)、伯耆(鳥取県)大山寺基好より両部(金剛界胎蔵界灌頂を受ける。 仁安3年(1168年)4月、形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平家の庇護と期待を得て南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、9月に『天台章疎』60巻をもって、重源らと帰国した。当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、を用いることを決意し学ぶこととなった。

これは後に著された栄西の主著である『興禅護国論』に禅のことが書かれていることより推察されることである。しかし実際には、第一回の入宋時は栄西が最も熱心に天台密教の著作に没頭した時期であり、禅に対してどの程度関心を持っていたかは明らかでないという推察もある。[4]

嘉応1年(1169年)頃、備前金山寺を復興し、菓上流の灌頂を行う。安元元年(1175年)、誓願寺落慶供養の阿闇梨となる。また『誓願寺建立縁起』を起草。文治3年(1187年)、再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。 文治5年(1189年)、虚庵懐敞に随って天童山景徳寺に移る。そして虚庵懐敞より菩薩戒を受ける。

建久2年(1191年)、虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法印可を受け、「明菴」の号を授かる。同年、帰国。九州の福慧光寺、千光寺などで布教を開始。また、帰国の際に宋で入手したの種を持ち帰って肥前霊仙寺にて栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作ったと伝えられる。

建久5年(1194年)、禅寺感応寺 (出水市)を建立。大日房能忍の禅宗も盛んになるにつれ、延暦寺や興福寺からの排斥を受け、能忍と栄西に禅宗停止が宣下される。建久6年(1195年博多聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。

建久9年(1198年)、『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。

正治2年(1200年)、頼朝一周忌の導師を務める。北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。 建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。

元久元年(1204年)、『日本仏法中興願文』を著す。 建永元年(1206年)、重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。 承元3年(1209年)、京都の法勝寺九重塔再建を命じられる。承元5年(1211年)、『喫茶養生記』を著す。[5]

建暦2年(1212年)、法印に叙任。 建保元年(1213年)、権僧正に栄進。頼家の子の栄実が、栄西のもとで出家する。

建保3年(1215年)、享年75(満74歳没)で入滅。かつては、入滅日(6月5日・7月5日)と入滅地(鎌倉・京都)に異説があったが[注釈 6]、『大乗院具注歴日記』の裏書きによって、7月5日京都建仁寺で入滅したことが確定している[6]

他者からの栄西観 編集

日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回だが紹介している。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題について、最新の研究では会っていたとする説が有力である。

主な著作 編集

  • 誓願寺盂蘭盆縁起』 - 栄西の肉筆文書で国宝。福岡市西区の誓願寺に滞在した折書いたと見られ、現在も同寺が所蔵(九州国立博物館寄託)。
  • 『喫茶養生記』 - 上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用が説かれ、下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対するの効用と用法が説かれている。このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)という別称もある。書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが、定説はない。
  • 『無名集』 - 密教について問答形式で書かれた入門書で安元3年(1177年)に誓願寺で書かれたもの。治承4年(1180年)に写された写本を名古屋市の大須観音が所蔵している。
    • 大須観音は『無名集』のほか『隠語集』など複数の写本に加え、直筆書状15通なども所蔵する。

栄西の主な弟子 編集

日本での栄西後の黄龍派法脈の系譜 編集

栄西→ 釈円栄朝→ 蔵叟朗誉→ 寂庵上昭→ 龍山徳見→ 無等以倫→ 文林寿郁→ 西庵敬亮→ 悦巌東悆→ 和仲東靖→ 梅仙東逋→ 利峰東鋭[7]

著作 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b c 一説に25日
  2. ^ 一般的には「えいさい」という読みが浸透しているが、伝統的に建仁寺では「ようさい」と読むという[3]
  3. ^ 「菴」は俗字「庵」を用いることがある。
  4. ^ 現在の岡山県岡山市北区吉備津南部。
  5. ^ 現在の岡山県加賀郡吉備中央町(旧 賀陽町)上竹。
  6. ^ 吾妻鏡』建保三年六月小五日条によれば結縁を願って鎌倉中の人々が集まり、大江親広が臨終に立ち会ったという。親広は『吾妻鏡』建保三年四月小十八日丁未条で在京御家人の奉行に任命されている。

出典 編集

  1. ^ a b 開山栄西禅師”. 建仁寺. 2022年1月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月8日閲覧。
  2. ^ 絹本著色、建仁寺両足院蔵、絶海中津賛。栄西肖像としては現存最古の14世紀末から15世紀初めの作品。賛文はもともと無学祖元の原作にかかり、絵も祖元着賛の栄西像に拠っている可能性がある。
  3. ^ 「栄西」の読み方に、「えいさい」と「ようさい」の二通りある。読み方の使い分けのいわれが知りたい。”. レファレンス共同データベース. 2018年12月7日閲覧。
  4. ^ 『栄西』中尾良信・瀧瀬尚純共著 創元社発行 2017年6月 pp.180-181 中尾良信
  5. ^ 『別冊太陽 栄西と臨済禅』監修 禅文化研究所 平凡社発行 2014年3月 栄西の生涯と事蹟年表 pp.160-161 加藤一寧著
  6. ^ 舘隆志「栄西の入滅とその周辺」(『駒沢大学禅研究所年報』21、2009年)。
  7. ^ 『禅宗の歴史』今枝愛真著 吉川弘文館発行 2013年2月 pp.26-27

参考文献 編集

  • 中村元福永光司田村芳朗末木文美士・今野 達 編『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年。ISBN 4-00-080205-4 
  • 古田紹欽訳注『栄西 喫茶養生記』講談社学術文庫、2000年、ISBN 978-4061594456
  • 芝村哲三『栄西を訪ねて』吉備人出版
  • 熊倉功夫・姚国坤編『栄西「喫茶養生記」の研究』(世界茶文化学術研究叢書II)宮帯出版社、2014年、ISBN 978-4-86366-935-2

関連項目 編集

外部リンク 編集