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横谷 彰将 (よこたに あきまさ、1963年4月7日 - )は、兵庫県三木市宿原出身の元プロ野球選手。現在建築会社「(有)ツースリー」代表取締役、NPO横浜ベイスターズスポーツコミュニティのコーチングスタッフ。

横谷 彰将
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県三木市宿原
生年月日 (1963-04-07) 1963年4月7日(56歳)
身長
体重
179 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1987年 ドラフト5位
初出場 1989年8月26日
最終出場 1995年6月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

目次

来歴・人物編集

プロ入り前編集

兵庫県三木市宿原出身である。三木市立三木小学校在学間はサッカー競技をし全国大会にも出場した。三木市立三木中学校に進学後はサッカー部か野球部かのどちらかに決める時に野球部にすることにし、野球を始めた。[1]中学卒業後、育英高等学校時代は通算打率4割と金村義明(元近鉄村田真一(元巨人)と並び兵庫県下屈指の好打者であった。国士舘大学に進学。東都リーグ1部リーグ通算48試合出場、177打数57安打、打率.322、3本塁打、23打点。ベストナインを2度受賞している。2度ともチームが最下位時の受賞である。その後学校の不祥事で1年間対外試合禁止処分を受けプロ入りを断念。社会人野球の名門熊谷組では主軸を打ち都市対抗野球大会・日本選手権で優秀選手に選出される活躍をした。

プロ入り後編集

プロ入り3年目の1990年に、その年監督に就任した須藤豊によって1番・センターに抜擢され開幕戦では4安打2戦目は3安打と大当たり。開幕から3試合連続猛打賞は記録であったがそれはなしえなかった。しかし1年間を通じて一軍に定着、特に中日西本聖に対しては最も相性が良くその年17打数12安打とカモにした。この年は規定打席には届かなかったものの打率.276、出塁率.350とまずまずの成績を残した。しかし翌年は同じ熊谷組出身の宮里太にポジションを奪われ、代打の切り札として起用されることが多くなった。1992年にはヤクルト西村龍次投手から代打満塁本塁打を放っている。エースを立てて敗戦を喫した野村克也監督は伏兵にやられた悔しさを嘆いた[2]

1994年オープン戦では好成績を収め、レギュラーを奪還するチャンスを得たものの、シーズンに入ると成績を落とし、若手の佐伯貴弘に道を譲る結果となった。

1995年シーズン終了後自由契約となり、阪神タイガースに入団したが一軍出場はなく1年限りで引退した。

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1989 大洋
横浜
13 23 23 0 6 0 0 0 6 0 0 0 0 0 0 0 0 1 2 .261 .261 .261 .522
1990 116 365 319 33 88 10 0 1 101 21 9 2 6 2 33 1 4 50 2 .276 .349 .317 .666
1991 49 59 54 7 14 1 0 0 15 6 0 1 3 0 2 0 0 7 2 .259 .286 .278 .563
1992 63 77 73 11 17 1 1 2 26 9 0 1 2 0 2 1 0 10 0 .233 .253 .356 .609
1993 57 64 57 3 10 0 1 0 12 3 0 1 0 1 6 0 0 9 0 .175 .250 .211 .461
1994 55 54 45 6 12 1 0 1 16 9 0 1 0 2 7 0 0 6 1 .267 .352 .356 .707
1995 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
通算:7年 354 643 572 60 147 13 2 4 176 48 9 6 11 5 50 2 4 83 7 .257 .319 .308 .626
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

記録編集

背番号編集

  • 23 (1988年 - 1989年)
  • 4 (1990年 - 1996年)


参考文献編集

  • 『三木市立三木中学校 創立50周年記念誌 50年のあゆみ』株式会社前田精版印刷所、三木市立三木中学校、2011年3月15日、初版第1刷。

脚注編集

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  1. ^ 50年のあゆみ p56
  2. ^ 横谷彰将-選手名鑑

関連項目編集

外部リンク編集