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片岡 左衛門(かたおか さえもん、1901年1月13日 - 1995年7月[1])は、日本の俳優、元歌舞伎役者である[2][3][4][5][6][7][8][9]。本名は大島 善一(おおしま ぜんいち)[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。旧芸名は片岡 仁引(かたおか にびき)[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。歌舞伎役者を経て映画界に転向、1930年代には宝塚キネマ極東映画などの三流キネマで活躍した「憎まれ役」として知られる[2][3]

かたおか さえもん
片岡 左衛門
本名 大島 善一 (おおしま ぜんいち)
別名義 片岡 仁引 (かたおか にびき)
生年月日 (1901-01-13) 1901年1月13日
没年月日 1995年7月
出生地 日本の旗 日本 大阪府大阪市南区難波新地(現在の同市中央区難波1-4丁目及び難波千日前辺り)
身長 166.7cm
職業 俳優、元歌舞伎役者
ジャンル 歌舞伎演劇劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1904年 - 1945年
配偶者 住之江田鶴子
著名な家族 片岡島十郎(実父)
1男1女
主な作品
戦国の女
白刃閃く
天人お駒
阪東侠客陣
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来歴・人物編集

誕生・歌舞伎役者から映画界へ編集

1901年(明治34年)1月13日大阪府大阪市南区難波新地(現在の同市中央区難波1-4丁目及び難波千日前辺り)に、歌舞伎役者片岡島十郎(本名大島善太郎、生没年不詳)の子として生まれる[2][3][4][5][6][7][8][9]。父・島十郎の来歴については明らかでないが、『役者芸風記』(中央公論社)が発行された1935年(昭和10年)の時点では、すでに故人であるという旨が記されている[10]

1904年(明治37年)、3歳で11代目片岡仁左衛門の門に入り、片岡仁引という芸名で翌1905年(明治38年)2月、現在の大阪府大阪市中央区にあった道頓堀角座(1652年 - 2007年、現存せず)で初舞台を踏む[2][3][4][5][6][7][8][9]。1915年(大正4年)、山崎尋常高等小学校高等科を卒業し、1919年(大正8年)には現在の東京都中央区銀座にある歌舞伎座で名題に昇進、2代目片岡左衛門を襲名する[2][3][4][5][6][7][8][9]。歌舞伎だけでなく舞台でも嘱望されていたが、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生。左衛門自身も次第に歌舞伎の古い門閥に限界を感じ、同年12月に帝国キネマ演芸小阪撮影所へ入社[2][3][4][5][6][7][8][9][10]。芸名も前名の片岡仁引に戻し、翌1924年(大正13年)2月27日に公開された中川紫郎監督映画『時勢は移る』で映画デビューを果たす[2][3][5]。同年3月6日に公開された中川紫郎監督映画『遠山桜 前篇』では、早くも嵐璃徳(1875年 - 1944年頃)と共に主演に抜擢され、以後も多数の作品に出演した[2]。また『役者芸風記』の著者である三島霜川(1876年 - 1934年)は、当時の仁引の芸風について「歌舞伎座の舞台では父島十郎よりも、賢息仁引のほうがよほど目につきもすれば、また、役者ぶりもいい」と評価している[9][10]

各キネマの大敵役として編集

1925年(大正14年)、折からの独立プロ・ブームで自ら旭キネマ製作所の設立を計画するが、資金難と内紛により失敗に終わる[2][6][7][8][9]。同年6月、マキノ・プロダクション御室撮影所へ移籍[2][7][8][9]。同年9月11月に公開された沼田紅緑監督映画『討幕の叫び』等で主演を務めるがマキノプロには馴染めず、1926年(大正15年)2月、松竹下加茂撮影所へ移籍[2][7][8]。同年3月28日公開の野村芳亭監督映画『大楠公』で井上正夫(1881年 - 1950年)と共演。これもまた馴染めず、同年8月、今度は東亜キネマ等持院撮影所へ移籍する[2][6][7][8][9]。同時に芸名も片岡左衛門と再改名。雲井龍之介光岡龍三郎阪東太郎団徳麿らの主演陣が固定された後から次第に脇役に回る事が多くなったが、1930年(昭和5年)1月20日に公開された広瀬五郎監督映画『天人お駒』の悪党鳥羽玉新之助など、この頃から敵役として活躍するようになる[2][9]。また1928年(昭和8年)4月1日に公開された仁科熊彦監督映画『阪東俠客陣』では、平手酒造に扮して喀血をしながらの剣戟に迫力を見せ、「一道の妖気を漂はして近来稀な好演技」と賞賛される[2]

以後、重要なバイプレイヤーとして多数の作品で活躍し、東亜キネマの代行会社であった東活映画社宝塚キネマへ製作が移された後も、いずれも短命に終わるが活動を続けた[2][8][9]

1924年(大正13年)に発行された『日本映画俳優名鑑』(ポケット講談社)及び1928年(昭和3年版)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、大阪府中河内郡小阪村中小阪(後の布施市、現在の東大阪市中小阪)、後に京都府京都市上京区北野白梅町1番地(現在の同市北区北野上白梅町北野下白梅町大将軍西町辺り)に住み、身長は5尺3寸9分(約163.3センチメートル)、後に5尺5寸(約166.7センチメートル)となり、体重は14貫900匁(約55.9キログラム)、後に13貫700匁(約51.4キログラム)、13貫800匁(約51.8キログラム)となり、趣味は長唄三味線舞踊読書であり、大好物は洋食刺身タバコで、一般人と反対のもの、人の嫌いそうなものが嗜好であるという旨が記されている[5][6][7][8]

その後も三流キネマや弱小プロダクションの遍歴は止まらず、1934年(昭和9年)2月、興国キネマ設立に参加するが、同社は僅か1本で解散[1][2]。同年6月、エトナ映画社に移籍[1][2]。同時にエトナ映画社専属の大日本映画人白鳩会のメンバーとなり、綾小路絃三郎主演映画の殆どに助演したが、同社も1年足らずで解散する[1][2]。1935年(昭和10年)2月、今度は創立したばかりの極東映画社へ移籍[1][2][3][9]。片岡は敵役を一手に引き受け、初期は羅門光三郎、羅門退社後は「極東三大スター」こと雲井龍之介、綾小路絃三郎、市川寿三郎主演映画の敵役、いわゆる「憎まれ役」として大活躍し、少年ファンからは「憎らしい左衛門」として大変な人気を得た[1][2][3][9]

戦時中・引退後の消息編集

1940年(昭和15年)9月、極東は東宝映画傘下の大宝映画へと改称[1][2][3]。しかし翌1941年(昭和16年)2月、僅か半年足らずで東宝映画に吸収合併され、片岡はこれを機に映画界を離れて雲井龍之介一座の大幹部として実演生活に入る[1][2][3]。後に独立して片岡左衛門劇団を組織し、1945年(昭和20年)8月の終戦まで主に九州地方を中心に巡業した[1][2][3]。この間、1943年(昭和18年)に女優住乃江田鶴子(本名柿畑田鶴子、1908年 - 没年不詳)と結婚している[1][2]

戦後は、片岡の地元である大阪府で易者を経営していた[1]。1998年(平成10年)11月1日に発行された『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)など、一部の資料では以後の消息は不明・没年不詳とする[3][9]が、1995年(平成7年)7月、死去したとされている[1]。満94歳没。

出演作品編集

帝国キネマ小阪撮影所編集

特筆以外、全て製作は「帝国キネマ小阪撮影所」、配給は「帝国キネマ演芸」、全てサイレント映画、全て「片岡仁引」名義である。

マキノ・プロダクション御室撮影所編集

全て製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、全てサイレント映画、全て「片岡仁引」名義である。

旭キネマ製作所編集

全て製作・配給は「旭キネマ製作所」、全てサイレント映画である。

  • 楠正儀』:監督不明、1925年11月15日公開 - 主演
  • 筑紫の太刀風』(『筑紫の太刀風 石童丸』『筑紫の大刀風』[6][7][8]):監督不明、1925年12月22日公開 - 主演

松竹下加茂撮影所編集

製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹」、サイレント映画、「片岡仁引」名義である。

東亜キネマ等持院撮影所編集

全て製作は「東亜キネマ等持院撮影所」、配給は「東亜キネマ」、全てサイレント映画、以降全て「片岡左衛門」名義である。

東亜キネマ京都撮影所編集

特筆以外、全て製作は「東亜キネマ京都撮影所」、配給は「東亜キネマ」、全てサイレント映画である。

東活映画社編集

全て製作・配給は「東活映画社」、全てサイレント映画である。

宝塚キネマ興行編集

全て製作・配給は「宝塚キネマ興行」、全てサイレント映画である。

エトナ映画社編集

製作・配給は「エトナ映画社」、サイレント映画である。

極東映画社編集

特筆以外、全て製作・配給は「極東映画社」、特筆以外は全てサイレント映画である。

極東キネマ編集

全て製作・配給は「極東キネマ」、特筆以外は全てサイレント映画である。

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『映画論叢 30』国書刊行会、2012年、88-91頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、143頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『芸能人物事典 明治大正昭和』日外アソシエーツ、1998年、140頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j 『映画新研究十講と俳優名鑑』朝日新聞社、1924年、166頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優名鑑』ポケット講談社、1924年、42頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1928年、44頁。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、53-54頁。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』映画世界社、1934年、62頁。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『チャンバラ王国 極東』ワイズ出版、1998年、172-173頁。
  10. ^ a b c 『役者芸風記』中央公論社、1935年、74-75頁。

関連項目編集

外部リンク編集