ワシントン記念塔(ワシントンきねんとう、英語: Washington Monument)は、アメリカ合衆国首都ワシントンD.C.の中心部に位置する、ナショナル・モールの中心にそびえ立つ、巨大な白色のオベリスクの名称である。単にワシントン・モニュメントと呼ばれることや、ワシントン記念碑などと呼ばれる場合もある。1776年独立戦争時に、アメリカ大陸軍を率いてイギリス軍との戦いを勝利へと導いた合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの名誉ある功績を称えて建造された、アメリカ合衆国大統領記念碑の一つである。

ワシントン記念塔
ワシントン記念塔の位置を示した地図
ワシントン記念塔の位置を示した地図
ワシントン記念塔の位置を示した地図
ワシントン記念塔の位置を示した地図
ワシントン記念塔の位置を示した地図
ワシントン記念塔の位置を示した地図
地域 アメリカ合衆国, ワシントンD.C.
座標 北緯38度53分22秒 西経77度2分7秒 / 北緯38.88944度 西経77.03528度 / 38.88944; -77.03528座標: 北緯38度53分22秒 西経77度2分7秒 / 北緯38.88944度 西経77.03528度 / 38.88944; -77.03528
面積 0.429 km²
創立日 1884年12月6日
訪問者数 467,550人(2005年)
運営組織 アメリカ合衆国国立公園局

同記念塔は、大理石花崗岩砂岩など国産の石約3万6千個で出来ている。またデザインは、1840年代アメリカで最も卓越した建築家の一人であった、ロバート・ミルズ英語版によるものである。実際に記念塔が着工されたのは1848年であったが、南北戦争の介在や資金不足が重なり、建立に至ったのはミルズの死後ほぼ30年後にあたる1884年のことであった。大理石の色の明るさの違い(地上から約46メートル、150フィートほどの位置)は、はっきりと創建から工事が再開されるまでの1876年に建設されたものであることが示されている。ミルズが更に計画していたギリシャドーリア式ロトンダが、記念塔の柱礎に建設されなかったことは一般に良かったと考えられている。

基礎が起工されたのは1848年7月4日で、冠石が完成したのが1884年12月6日、そして完成の除幕式が行われたのはその翌年の1885年2月21日だった。また塔が公式に一般開放されたのは1888年10月9日である。竣工と共に、1889年フランスパリエッフェル塔が完成するまで(建設当時約312メートル)、169メートルという世界で最も高い建築物となった。

尚、ワシントン記念塔の反射影が、塔の西方向にあるリンカーン記念館前方の、長方形にかたどられたリフレクティング・プールに映るのが見える。

沿革 編集

記念塔建設の動機 編集

 
アメリカ合衆国初代大統領、ジョージ・ワシントン

アメリカ合衆国の創設者の中で唯一、ジョージ・ワシントンはその統率力がアメリカの独立をもたらしたとして認められ、「アメリカ建国の父」という名声を得た。1775年にアメリカ大陸軍指揮官に任命された彼は戦闘部隊を形成し、当時のイギリスから独立を勝ち取ったのである。1787年にはアメリカ合衆国憲法制定会議の議長として、その後200年以上続く政府を設立するための協議を結論へ導く手助けをした。彼がアメリカ合衆国議会満場一致で合衆国の初代大統領に選出されたのはその2年後のことである。彼は大統領の任期を決定し、司法立法行政の3つの政府部門の結びつきを進展させる手助けをした。また判例法を設立し、出来て間もない政府を首尾よくそのとるべき針路へと送り出した。彼はうわべだけの権力を拒み、君主的政府や伝統を転換した。それまでと違った方法で政策の指揮を執るという相当な重圧があったにもかかわらず、彼は2度アメリカで最も権力のある地位に仕え、その後3選目を辞退した。ワシントンは完全な政治家であったが為に、彼が下した決定や行動から起こった各方面への波及には、依然として注意が払われている。

アメリカ独立戦争が終結した際、合衆国にはワシントンほど敬意を払って指揮をした国民はいなかったと考えられた。アメリカ国民は限られた備蓄や未経験の兵士にもかかわらず戦争に勝利した彼の能力を祝した。また給料の受け取りを拒否した彼の決定に敬服し、経費のみの返済を快く容認した。更に数人の軍将校が、ワシントンを新たに建国される国の国王に選出するとした提案を断ったことが世間に知られたとき、国民の彼への敬意はそれまで以上に増大した。彼が成し遂げたことだけではなく、彼のやり方もまた敬服される対象であった。合衆国2代目大統領、ジョン・アダムズの妻であったアビゲイル・アダムズは、彼を「威厳があり上品、馴れ馴れしくなく親しみがあり、傲慢でなく淡々として、厳格過ぎず威厳があり、穏当で賢く、よき人である。」と称えている。

戦争後ワシントンはマウントバーノンの農園に隠退するが、彼はすぐに公務の生活に復帰するかどうか決めなければならなかった。連邦政府にとって連邦規約が税金の徴収、貿易の規制またはその境界の統制を行うのに支配力が余り無いままであることがはっきりしてくると、後に第4代合衆国大統領となるジェームズ・マディソンらが政府の権力を強化するであろうとの考えから議会を招集し始める。ワシントンはマウントバーノンの経営や事業関連の仕事があり、議会への出席には気が乗らなかった。しかしもし彼が議会の行われるフィラデルフィアに赴かなければ、彼自身の名声はおろか合衆国の先行きをも憂慮することになっていたであろう。最終的に彼はバージニア州代表の一人として公職を務めることを決めた。1787年夏期の他の代表は、最終的にアメリカ合衆国憲法を創り出すこととなる協議の議長にワシントンを選出した。

 
マウント・バーノンのワシントンの墓

憲法のカギとなる部分の一つは、合衆国大統領という地位の造成であった。誰一人としてワシントンよりもその地位につく資格のある人間がいるようには思われず、1789年を皮切りにワシントンの2期に渡る大統領期間が始まった。彼は国民の彼への尊敬を、新しい大統領職の尊敬へと発展させるために利用したが、新しいアメリカがそれまで戦っていた国と同じように、アメリカ大統領もまた強権力になるのではないかという懸念を自発的に和らげようともした。また彼は国民が米国国法銀行(当時)の援助、支出に報いるための税金徴収、陸軍や海軍の強化を必要としていると考え、堅固な政府を創設しようとした。国民の多くが3期目も大統領職に残る事を望んだが、1797年に再びワシントンはマウントバーノンに退いた。

その2年後、ワシントンは急逝する。彼の死は大きな悲しみを呼び、再び彼を尊敬する試みがなされた。以前の1783年初頭に、大陸議会は「ジョージ・ワシントンの乗馬像が、議会邸宅が建設されるであろう場所に創設される」ことを決議した。またこの計画は銅像に「合衆国の自由、主権、独立が立証された戦争における、アメリカ合衆国陸軍最高指揮官ジョージ・ワシントンの輝かしい功績を称えて」建てられたことを説明する文の彫刻を求めていた。政府が常置の本拠地を欠いている間大きな騒動などが何も起こらなかった理由は容易に理解できたにもかかわらず、議会がワシントンD.C.を新たな首都として固定した後でさえほとんど進歩が無かった。いかに幾年にもわたって議会がワシントンを頼りにしていたかがわかる。

ワシントン大統領の死から10日後、議会委員会は乗馬像とは異なる形式の記念碑の建設を推奨した。バージニア州代表ですぐ後にアメリカ合衆国最高裁判所長官になったジョン・マーシャルは、アメリカ合衆国議会議事堂内にワシントンの墓石を建設することを提案した。しかし資金不足のために、どのような記念碑が合衆国最初の大統領の栄光を称えるに最も相応しいかを巡って意見の相違が相次ぎ、また遺体の移転に気が進まないワシントンの遺族らの嫌気が、議会の計画の進展を妨げた。

図案 編集

記念碑建設に向けての進展は、最終的に1833年に始まった。ワシントンの生誕100周年記念を迎えたこの年、大規模な関係者市民団体が、「ワシントン・ナショナル・モニュメント・ソサイエティ」という協会を組織した。彼らは寄付を募って1830年代中頃には28000ドルもの金額となり、記念碑の図案を審査する選考を行うと公表された。1835年9月23日には、協会運営者の重役が協会の期待を以下のように記述している。

熟慮された記念碑は彼の様に構築され、世界において無比であり、そして報恩の念、不偏、建設する人間の愛国主義に相応した物になるであろうと提案されている…これは気品と巨大の融合、そしてアメリカ合衆国民の自尊心のように大きさや美しさのようなものと、これを見る全ての人の敬服で成るべき筈である。その材質は専らアメリカにある物で構成する予定であり、記念碑の建設への資金提供と共に素材の寄与という栄光に参加するであろう各州から、齎された大理石と花崗岩で成る物である。

 
ロバート・ミルズが1814年にデザインした、ボルチモアワシントン記念塔

協会は1836年に記念碑の図案を決めるコンテストを行った。優勝者であった建築家のロバート・ミルズは、委任するに十分足る資格の持ち主だった。これ以前の1814年に、ボルチモアの市民がワシントンの記念碑を建設するために彼を選出し、彼は大統領の近くにそびえ立つギリシャ様式の円柱を設計したのだった。またミルズはワシントンD.C.の公的建造物建築家に丁度選ばれたばかりだったため、首都をよく知っていた。

彼の図案は約270メートル(約900フィート)のオベリスク(垂直に直立した四角柱で、上に行くほど細くなっていくもの)を建て、塔の先端がほぼ平らに近い形の物を作るというものであった。彼はオベリスクの土台部分を円柱の柱廊(コロネード)で囲み、その柱廊の上には2輪馬車で引かれたワシントン大統領と屋根を突き破って高く聳え立つオベリスクが見えるという仕組みだった。また柱廊の中は有名な30人の独立戦争の英雄達の像を展示するという計画だった。

しかしミルズが提案した図案への非難と、100万ドルを超えるであろうと見積もられた予算は、協会が建設を躊躇する原因となった。1848年、協会の構成員がオベリスクの着工と柱廊への異議は後回しにすることで決議した。彼らはそれまでに集まっていた87000ドルの資金を使えば、記念碑の外観を見た人々や議会によって計画が完了するまでの寄付が集まるであろうと信じていた。

この時期議会は建設計画に15万平方メートル(37エーカー)の土地を寄贈していた。首都建設に従事していた建築家のピエール・シャルル・ランファンが選んだ場所は湿り気が多く不安定な土壌で、その後建立されるであろう巨大で重量のある建築物を支えるには適していなかった。そのため、その場所からやや南東に新しい土地が紹介されたが、依然としてより多くの好条件を提案しなければならないような場所だった。記念碑は「ポトマック川の美しい景観を表す」、と協会の構成員は書いており、更に「記念碑は周囲の州全てから見えるであろう程かなり隆起したもの」であるとしていた。公衆の土地であるため、「将来のいかなる障害物も景観に危害を及ぼさない…そしてそれはワシントン長官の遺骨が眠るマウント・バーノンからも完全な眺めになるだろう」と続けている。

建設 編集

ワシントン記念塔の土台を掘る作業は1848年春に着工された。礎石はワシントンが所属していた世界規模の友愛組織で今なお存在する、フリーメイソンが主催した独立記念日の式典の一環として敷設された。当日の演説では、合衆国はそれ以降もワシントンを崇敬し続けるであろうといった内容が示された。祝賀者の一人は、「もうワシントンが我々の時代に戻ってくることはないだろう…しかし彼の美徳は人類の心に刻み込まれた。戦場で大きな成果をあげた者は、ワシントンの指揮能力を見上げる。協議で日々賢くなる者は、ワシントンを手本にしていると感じる。そして人々の切望に反して権力を放棄する者は、その目にワシントンのような輝きを抱くのだ。」と書き記している。

工事は寄付金が尽きた1854年まで続けられた。その次の年、議会は計画を続けるためにおよそ20万ドルの寄付を充当する採決したが、その資金が費やされる前に議会は態度を一変する。この態度の逆転は、1849年にワシントン・ナショナル・モニュメント・ソサイエティ協会が採択した新しい方策のために起こった。複数のアラバマ州に住む国民からの要請の後、協会は全てのアメリカの州や地域に記念塔の内壁に取り付けられる記念石の寄付を促進する考えに同意していた。協会の構成員はこうした取り組みは国民を記念塔の建設の一部に参加していると感じさせ、また購入する石の量を限定することで経費を削減できると考えたからである。

大理石、花崗岩、砂岩の塊が次々と現場に現れた。アメリカ・インディアン諸部族、専門機関、団体、事業、そして外国からも寄付が寄せられ、石のサイズは3辺が全て1.2、0.6、0.5メートルのサイズの物に限定した。しかし多くは、ジョージ・ワシントンの記念碑と関連の無い銘刻の入った石が運ばれていた。例として、テンプラーズ・オブ・オナー・アンド・テンペランス(栄光と禁酒のテンプル騎士団)から贈られた石には、「我々は如何なるスピリッツやビール、ワイン、リンゴ酒、または他のアルコール類を買ったり、売ったり、飲料として使用したりしません。」と刻まれてあった。

議会からの寄付金、更に究極的には工事そのものが完全に中止となってしまった事件の発端となったのは、たった一つの記念石だった。1850年代初頭に、当時のローマ教皇だったピウス9世が大理石の石塊を寄付した。その後1854年3月に、「ノウ・ナッシング党」として知られるアメリカ反カトリック・反移民党派の党員が、ピウス9世の石塊を盗み、ポトマック川に投げ込んだとされた。そして記念塔が協会側が謳う「アメリカのもの」の定義に相応しいかどうかを確かめるために、ノウ・ナッシング党は不正投票を行いソサイエティー協会を丸ごと乗っ取ってしまったのである。

議会は直ちに20万ドルの充当を撤回した。ノウ・ナッシング党による協会の支配は1858年まで続けられたが、徐々に公的な援助が少なくなっていき、工事を終わらせる程の資金を収集できなかった。結果的に同党は協会の支配を断念し、その全てを返却したが、続く南北戦争により工事はまたもや中断されてしまう。

記念塔への関心が再び高まったのは南北戦争が終わってからのことだった。工学者や技師は依然として塔の土台が十分頑丈足るものであるかを数回に渡って調査した。1876年、アメリカ独立宣言から100周年を迎えたこの年に、工事再開を目的として議会が新たに20万ドルを充当することで合意した。20年近く当初の計画の3分の1にも満たない高さで立っていた塔は、ここで竣工への目処が立ったかに見えた。

しかし工事が再び開始される前に、最も相応しいデザインについての議論が再び始まった。人々の多くは、柱廊のない簡素なオベリスクのみの記念塔のデザインがあまりに剥き出し過ぎないだろうかと考えた。設計したミルズは、柱廊を省いた記念塔はまるで「アスパラガスの茎」の様に見えてしまうと言ったとされ、また他の批評家はそのデザインに対し、「誇りに思われるには…あまりに小さい」と批判した。

こうした意見が人々により良いデザイン案を提出させることとなった。ソサイエティー協会と議会双方は、塔がどのように完成されるべきかを巡って討論を行った。協会は新たに5つの新案を検討し、そのうちの1つで建築家ウィリアム・ウェトモア・ストーリーが発案したデザインが、「芸術的嗜好と美しさにおいて非常に優れている」という結論に達した。議会はミルズの原案と同じくこれら5つの新案を慎重に熟慮した。また選考する一方で、オベリスクの建設は続けるよう指示した。最終的に、協会側が柱廊の建設を断念し、オベリスクの規模を古典的エジプトの比重に従って作り変えるようにすることで合意した。

工事は当時アメリカ陸軍工兵隊中尉であった、トマス・リンカーン・ケーシーの指揮のもと、1879年に再開された。ケーシーは最終的には重量が4万トンに上る塔を支え得るだけの強さになるよう、土台を改案し増強した。次に彼は協会の規則に従い、積み上げられていた記念石をどうするかについて結論を下した。人々の多くが記念石の存在を嘲笑う中、ケーシーはなんとか全193個の記念石を内壁に取り付けた。

議会が十分な資金を提供したため、記念塔の建設は迅速に進行した。そして1884年12月6日の除幕式とは別の献納式期間中、1.65トンに及ぶ大理石の冠石が頭頂部に取り付けられ、工事再開から4年のうちにようやく記念塔は竣工したのである。

その後の歴史 編集

 
オレンジ色の夕日に照らされるワシントン記念塔
 
ワシントン記念塔を囲むアメリカ国旗(超広角画像)。観光客は周囲を歩き回ることができる

建設が終了した時点で、記念塔は世界で最も高い建造物となった。塔は未だにワシントンD.C.で最も高い建造物となっており、1910年に新しく建造する建物は約6メートル(20フィート)以上、幅は建造物が建つ通りの広さ以上に大きくなってはならないと制限する法律が定められたため、塔は今後も首都内で常に最も高い建造物ということになるであろう。(同法がワシントン記念塔より高い建造物を建立してはならないと制限していると広く一般に誤解されているが、実際は同法で記念塔の高さに関しては触れられていない)。通例古代のオベリスク塔には30メートル(100フィート)程の高さを超える物が殆ど無く、ワシントン記念塔はヨーロッパ各国の首都周辺やエジプトにあるものより遥かに巨大である。

塔は公式に開放されるより前でさえ、莫大な人数の人々をひきつけた。6ヶ月間に渡った除幕式典期間中、実に10041人もの人々が塔内部の893ある階段を頂上まで上った。それまで建築資材を運ぶために取り付けられていたエレベーターが旅行者用に改造された後は、訪れる人々の数が急速に増加した。1888年ごろには月平均55000人の人々が頂上まで向かうようになり、今日では年間80万人を超える人々が記念塔を訪れている。1966年10月15日国立公園局管轄の歴史的地区として、国定記念建造物であるワシントン記念塔は国家歴史登録財に登録された。

1982年12月8日の10時間、核武装に抗議したノーマン・メイヤーが、記念塔土台部分に停めたトラックに爆発物を仕掛けたとして、ワシントン記念塔が「固定人質状態」になる事件が起こった。その後塔内部に閉じ込められていた8人の観光客は解放され、事件は国立公園警察がメイヤーを射殺したことで終結した。この事件で記念塔は被害を受けず、またメイヤーが爆発物を所持していなかったことも判明した。

2005年7月4日、1500万ドルをかけて行われた警備、地形強化計画が終了した。76センチほどの高さに一続きの同心円を新たに設計し、塔の周囲において歩行者や自転車による観光客に支障が無いようにした一方で、車両が入って来られなくするようにデザインされた物だった。2004年の計画工事着工に向けて、安全性の改良に加え、塔外周囲の照明装置の改良を施す内容も計画に盛り込まれていた。

2005年10月7日に爆弾テロと思われる電話での連絡が入り、塔からの避難の喚起が出されたものの、調査の結果爆発の危険性のある物体が見つからなかった。同年10月13日にも同じような連絡があったが、爆発物とされるものは見つからなかった。

2011年8月23日にアメリカ東部でマグニチュード5.9の地震が発生、内部の深刻な破損や最上部に約10cmのヒビが入るなどの被害が発生したため、アメリカ公園局は無期限で立入禁止を発表した[1][2]。その後1500万ドル(約15億3000万円)を投じて修復工事が行われ、2014年5月12日には一般公開が再開している[3]

建造物詳細 編集

完成した記念塔は169メートル(約555フィート)の高さで聳え立つ。構造の詳細と素材は以下のとおり。

  • 計画第1段階(1848年~1858年)
    • ウィリアム・ドアティ監督、地上46メートル(152フィート)迄。
    • 外壁 - テキサス州、メリーランド州産白大理石(州道83号北東、ワレンロード・出口コッキービル近隣より)
    • 内壁 - マサチューセッツ州、シェフィールド産白大理石
  • 計画第2段階(1878年~1888年)
    • アメリカ陸軍工兵隊中尉、トマス・リンカーン・ケーシー指揮、アメリカ陸軍工兵隊の手により完了。
    • 外壁 - コッキービル採石場より、白大理石
    • 内壁 - メーン州産花崗岩
  • 冠石
    • 当時、銀と同等の価値があり、希少金属であったアルミニウムで構成。ウィリアム・フリシュマスによって鍛造。歴史詳細は [1](英語)参照。
  • 記念塔総経費
    • 1,187,710ドル

銘刻 編集

記念塔頭頂部、観覧階4面に刻まれている内容は以下の通り。

北面 西面 南面 東面
JOINT COMMISSION

AT
SETTING OF CAPSTONE.

CHESTER A. ARTHUR.
W. W. CORCORAN, Chairman.
M. E. BELL.
EDWARD CLARK.
JOHN NEWTON.

Act of August 2, 1876.
CORNER STONE LAID ON BED OF FOUNDATION
JULY 4, 1848.

FIRST STONE AT HEIGHT OF 152 FEET LAID
AUGUST 7, 1880.

CAPSTONE SET DECEMBER 6, 1884.
CHIEF ENGINEER AND ARCHITECT,
THOS. LINCOLN CASEY,
COLONEL, CORPS OF ENGINEERS.

Assistants:
GEORGE W. DAVIS,
CAPTAIN, 14TH INFANTRY.
BERNARD R. GREEN,
CIVIL ENGINEER.
Master Mechanic,
P. H. MCLAUGHLIN.
LAUS DEO.
神を讃えよ(ラテン語)
 
タイダル・ベイスンから見たワシントン記念塔と
 
2004年改築工事計画時の写真
 
記念塔頭頂部の観覧階から北側を見た画像。中心部に見えるのはホワイトハウスである。

外面構造 編集

  • 記念塔全高:169.294メートル
  • 地上階ロビーから最上観覧階までの高さ:152メートル
  • 記念塔土台幅:16.8メートル
  • 記念塔頭頂部柱身幅:10.5メートル
  • 土台部の壁の厚さ:4.6メートル
  • 頭頂部観覧階の壁の厚さ:46センチメートル
  • 記念塔総重量:82,421トン
  • 記念塔石塊総数:36,491個

基礎 編集

  • 基礎の深さ:11.23メートル
  • 基礎総重量:33,486メートルトン
  • 基礎総面積:1,487平方メートル

内部 編集

  • 階段開口部記念石総数(世界中から贈られた):193個
  • 現行エレベーター設置年:1998年
  • 現行エレベーター管制室設置年:2001年
  • エレベーターによる頭頂観覧階までの時間:1分間
  • 内部階段総数:897段

日本との関係 編集

  • 幕末に来日したペリーは、箱館下田、当時の琉球王国で石を収集した。『ペリー提督日本遠征記』には、箱館で行われた送別式において、日本側が、「ワシントンの記念碑」のために「花崗岩材」を贈ったという記述がある。下田の伊豆石だけは塔建設再開後に使用されたという。
  • 1989年、沖縄から、「琉球の石」が新たに贈られた。

他のワシントン記念碑 編集

 
メリーランド州、ワシントン記念碑州立公園にあるワシントン記念碑

ワシントン記念塔の他にも、ワシントン大統領を記念して作られた記念碑は全米各地に存在する。

参考 編集

脚注 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集

記録
先代
ケルン大聖堂
世界一高い建築物
1884 – 1889年
次代
エッフェル塔