エッフェル塔

フランスのパリにある塔

エッフェル塔(エッフェルとう、: La tour Eiffel)は、フランス首都パリの象徴的な名所となっているである。パリ7区シャン・ド・マルス公園の北西に位置する。エッフェル塔の名は、塔の設計及び建設者であるギュスターヴ・エッフェルに由来する。

エッフェル塔
La tour Eiffel
エッフェル塔
エッフェル塔の位置(パリ内)
エッフェル塔
エッフェル塔
エッフェル塔 (パリ)
施設情報
所在地 フランスの旗 フランスパリ7区
状態 完成
建設期間 1887年 – 1889年
用途 展望タワー
電波塔
地上高
最頂部 324メートル (1,063 ft)
屋上 300.65メートル (986 ft)
最上階 273.0 m (896 ft)
関連企業
設計 ギュスターヴ・エッフェル
構造エンジニア ギュスターヴ・エッフェル
所有者 フランスの旗 フランス パリ市 (100%)

目次

歴史編集

高層建築ブーム編集

19世紀後半、建築技術の進歩や新素材の開発、産業革命による工業力の増加や総体としての富の増大によって、先進各国において相次いで高層建築が建設され、国家の威信をかけて高さ競争が繰り広げられていた。1647年から200年以上にわたって世界で最も高い建築物はフランス・ストラスブールストラスブール大聖堂(高さ142m)であったが、1874年にはドイツ帝国ハンブルクの聖ニコライ教会が147mとなってそれにとってかわり、それ以降、この地位は数年ごとに交代を繰り返すようになった。1876年にはフランス・ルーアンのルーアン大聖堂が151m、1880年にはドイツ・ケルンケルン大聖堂が完成して157mとなった。ここまでの高さ競争はすべて教会の尖塔であったが、1884年にはアメリカのワシントンD.C.に高さ169mのワシントン記念塔が完成し、これが世界で最も高い建造物となっていた。しかしいずれの建造物も高さは140mから160m台に過ぎなかった。

コンペティション開催編集

1889年フランス革命100周年を記念してパリで第4回万国博覧会が開催されることが1884年に決定したものの、当初はそれほど目玉となるプランがあるわけではなかった。そうした中、橋梁建設、特に鉄橋において高い評価を得ていた建設会社・エッフェル社の技師であるモーリス・ケクランとエミール・ヌーギエは1884年5月に、高さ300mの鉄の塔を建てて万博のシンボルとする案を立てた。この案に同じく社員であるステファン・ソーヴェストルが修正を加え、現在みられるエッフェル塔とほぼ同じ計画案を作成した。この案は社長であるギュスターヴ・エッフェルの賛同と強力な支援を受け、各方面に売り込みが行われた[1]

1886年、万博の目玉となる大建造物を選定するためのコンペティションが開かれると、エッフェルはソーヴェストルおよびケクランと連名で計画案を提出した。1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴェストル、ケクランらの設計図であった。エッフェルらの案は満場一致で採択され[2]、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に充分適うのはエッフェル塔のみと思われる」であった。

建設候補地となったのはセーヌ川をはさんだシャン・ド・マルスとトロカデロの2つの地区であったが、トロカデロは地下に空洞があったために地盤が不安視され、シャン・ド・マルスへの建設が決まった。7月には仮契約が締結され、1889年3月31日を工期の期限とすること、20年後の1909年には塔をパリ市に引き渡すこと、および工期中に政府からの補助金150万フランが交付されることとなったが、これは予想される総工費650万フランの4分の1以下に過ぎず、残りはエッフェル自身の金策によって調達されることとなった[3]。1887年1月8日には本契約が締結された。エッフェル塔の入場料は上記契約により1909年まではエッフェル自身の収入となり、これによってエッフェル塔の建設費を返済していくこととなった。

建設編集

1887年1月28日に起工式が行われ、エッフェル塔建設が開始された。まず基礎工事が開始され、潜函工法によって6月11日には基礎が完成した。ついで4本の脚から塔本体の建設が始まり、1888年3月には1階の展望台が完成して4本の脚がつながった[4]。同年8月14日には2階展望台が完成し[5]、1889年2月24日には3階展望台の工事が着工[6]。1889年3月30日には竣工した[7]。3月31日にはピエール・ティラール首相らを招いて竣工式が行われた[8]

建設は万博に間に合わせるため、2年2か月という驚異的な速さで完成した。またエッフェルは熟練作業員による少数精鋭主義を取るともに工事中の安全対策には特に意を払い、その結果工事期間中の死者は1人にとどまった[9]。総工費は650万フランであった[10]

当時の評価編集

あまりに奇抜な外見のため、建設当時は賛否両論に分かれた。1887年2月には、建設反対派の芸術家たちが連名で陳情書を提出している[11]。反対派の文学者ギ・ド・モーパッサンは、エッフェル塔1階のレストランによく通ったが[12]、その理由として「ここがパリの中で、いまいましいエッフェル塔を見なくてすむ唯一の場所だから」と言っている。ここから、「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。

 
エッフェル塔とラ・デファンスの超高層ビル街

パリ万博編集

1889年5月6日に開幕したパリ万博において、エッフェル塔は目玉となり、パリのみならず世界中から観光客が押し寄せた。ただし開幕時にはいまだエレベーターが完成しておらず、エッフェルがエレベーターなしでの一般公開に反対したこともあって、観光客の入場はできなかった[13]。エレベーター自体は5月15日に完成したものの、テストが必要なためまだしばらく商業運行は不可能だった。しかし来場者や市民からの不満の声が高まったため、同日エッフェルは塔の一般公開に踏み切り、観光客は階段で展望台へと向かった[14]。エレベーターは5月26日に運行を開始した[15]。エッフェル塔は大盛況となり、1889年の入場者数は200万人を記録した[16]

万博終了後編集

万博終了後、エッフェル塔の来訪者は減少していったが、なおも年間20万から10万人台の入場者数は保っていた。1900年に再びパリで万国博覧会が開催されることが決定すると、エッフェル塔は再び万博のパビリオンとして多くの観光客を集めたが、その後は入場者数は低迷を続けた。こうしたことから、塔の権利がパリ市に移る1909年には解体されることが確実視されていた。しかし1904年、フランス軍で通信を担当していたギュスターブ・フェリエが軍事用の無線電波をエッフェル塔で送受信することを提案し、そのため国防上重要な建築物ということで、取り壊しを免れることとなった。この電波塔としての役割は非常に重要なもので、現代にいたるまでエッフェル塔の主目的の一つとなっている。第一次世界大戦では塔からジャミングを出して、ドイツ帝国軍を悩ませた。

2011年12月に日刊紙フィガロで、建築家グループが期間限定で塔を樹木で覆う緑化計画を立てていると報道された。ただしパリ市や塔運営会社は否定している[17]

構造編集

 
エッフェル塔の構造

エッフェル塔は鋼製ではなく、鋼よりも炭素含有量が少なく、強度の低い錬鉄でできている[18]。展望台は簡単な柵あるいは金網が設置されているだけの吹きさらしである。展望台は3つあり、高さは第1展望台が57.6m、第2展望台が115.7m、最も高い第3展望台が276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。塔の支点の下には、水平に保つためのジャッキがある。建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、1930年ニューヨーククライスラー・ビルディングが完成するまでは世界一高い建造物であった。現在は放送アンテナが設置されたため、324mとなっている。


塗装編集

エッフェル塔は錬鉄で作られているため、防錆のためにも塗装は欠かせない。塗装の色はエッフェルブラウンと呼ばれている。ただし、これは1色ではなく、3つの色調が使い分けられており、塔の下部はより暗い色調(明度の低い色)、塔の先端部はより明るい色調(明度の高い色)に塗り分けられている。これらの塗料の総重量は50tにも達し、7年ごとの塗り替え作業には40万人時の工数を要する[19]

観光編集

 
夜明けのエッフェル塔

現在では、パリを代表するシンボルとなっている。1991年、この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。1889年の完成から2006年までに、2億人以上の観光客がエッフェル塔を訪れた[20]。この数字は、2006年に塔を訪れた6719200人を含んでいる[21]。エッフェル塔は、世界でもっとも多くの人が訪れた有料建造物である[22]

エッフェル塔内部にはパリの景色を一望できるレストランが開業している。特に有名なのが、ミシュランガイドでも1つ星を獲得したことのある「ジュールベルヌ」である。

眺望編集

エッフェル塔からの眺望

エッフェル塔をめぐる論争編集

先に述べた通り、エッフェル塔は建設当時その奇抜な外観から批判を受けた。特に芸術家からの批判が多く、1887年2月14日の「ル・タン(Le Temps)」紙には芸術家たちの抗議声明が掲載された。著名な署名者には、エルネスト・メソニエ(画家)、ウィリアム・ブーグロー(画家)、シャルル・グノー(作曲家)、シャルル・ガルニエ(建築家)、アレクサンドル・デュマ・フィス(作家)、ルコント・ド・リール(作家)、ギー・ド・モーパッサン(作家)らがいる。以下はその文書の一部である。

 
エッフェル塔
 
無数のボルト締め
「われわれ作家、画家、彫刻家、建築家ならびに、これまで無傷に保持されてきたパリの美を熱愛する愛好家たちは、わが首都の真ただ中に、無用にして醜悪なるエッフェル塔、良識と正しい理性を持つ辛酸なる大衆の多くがすでに「バベルの塔」と名指したエッフェル塔の建築に対し、無視されたフランスの趣味の名において、また危機に瀕したフランスの芸術と歴史の名において、あらん限りの力と憤りを込め、ここに抗議するものである。
われわれはいたずらな愛国主義に陥る事なく、パリは世界に並ぶ物のない街である事を高らかに宣言する権利を有する。(中略)
エッフェル塔が、黒く巨大な工場の煙突のごとく、目が眩むような馬鹿げた塔がパリを見下ろし、野蛮な塊でノートルダムサント・シャペルサン・ジャックの塔ルーヴル宮廃兵院のドーム凱旋門といった建築を圧倒し、われらがすべての記念建造物を辱め、すべての建築を矮小化して、唖然とさせるような夢幻の中に消滅せしめることを想像すれば、われわれの主張を納得するに十分である。これから20年間ものあいだ、幾世紀も前からその精気を沸き立たせてきたパリ市全域に、ボルト締めされた鉄製の醜悪な円柱の影が、まるでインクのシミのように長々と横たわるのを見る事になるだろう。パリを愛しその美化に努め、行政の手になる破壊や産業界の蛮行から幾度もこれを守ってきた皆さん、皆さんこそは今一度、このパリを守る栄誉の担い手なのです。」
 
近くの街角から見上げるエッフェル塔

これに対し、ギュスターヴ・エッフェルは、これから建設されるエッフェル塔を芸術的な観点と実利的な有用性の側面から同紙にて反論している。以下はその文書の一部である。

というものに独特の美がある。われわれ技師が、建築物の耐久性のみを考え、優美なものを作ろうとしていないと考えるのは誤りである。この塔について考慮したのは風圧に対する抵抗である。巨大な基礎部分から発している塔の四つの稜曲線は、塔の頂点にいくに従って細くなっているが、そこには力強い美しさが感じられると思う。(中略)
今回の塔は人類史上最高の建造物なるであろう。壮大なものだ。エジプトで讃えられているものが、なぜパリでは醜悪だと言われるのか理解できない。」

また、塔の有用性に関しては以下のように述べている。

「塔は、天文気象物理観測研究に寄与するものとみられるし、戦時には監視塔として役立つ。つまりこれは、今世紀における工業技術の進歩輝かしく証明するものとなろう。われわれの時代になって初めてかなり精密にを加工できるようになったことで、かくも大きな事業が実現されるのである。この現代科学の精華といえるものが、パリ市内に聳えたつことがパリの栄光と無縁だというのであろうか。」

影響編集

エッフェル塔の建設は世界に大きな衝撃を与えた。それまで世界最高だったワシントン記念塔の高さ169mの2倍近くにもなる巨塔の建設によって高さ競争は鎮静化し、以後巨大建造物の高さ競争は教会や高層ビルなど、エッフェル塔を除いた各部門別によって争われるようになった[23]1930年にニューヨークにクライスラー・ビルディングが完成するまでの41年間にわたってエッフェル塔は世界最高の建築物であり続けた。またエッフェル塔によって実現された鉄骨による塔というコンセプトも広がり、世界各地にエッフェル塔のレプリカや影響を受けた塔が建設されるようになった[24]

塔の著作権編集

  • エッフェル塔自体の著作権は、既にパブリックドメインに属しているが、2003年に施されたライトアップ装飾によって「エッフェル塔に新たな創作性が付与された」と解釈され、2005年2月2日に改めてパリ市が著作権を取得した。このためライトアップされた夜景の映像を許諾無しに公表すると著作権侵害となってしまう。日本ではこのような規制はない。

交通アクセス編集

関連人物編集

モーリス・ケクラン
23歳でエッフェル社鉄骨構造物研究部長となり、技師のエミール・ヌーギエや、建築家のステファン・ソーウェストルとともに、エッフェル塔の設計案や鉄骨構造の計算に協力した。また、エッフェルのあとを継いで、ルヴァロワ・ベレ鉄骨構造物建設会社社長、エッフェル塔会社社長に任命された。ケクランが手がけたエッフェル塔設計図面は、母校のチューリッヒ工科学校ETHに飾られている。
ステファン・ソーヴェストル
1846年生まれ。1868年、エコール・デ・ボザール建築科卒業。翌年、モン・サン=ミッシェル修道院建築に関する研究で受賞(シャルル・アルペール・ゴーティエと共同研究)。22歳でプレスト劇場改造の監督に任命され。次第に建築家として認められるようになる。パリの新開地プレーヌ・モンソ一地区に、多数の別荘や邸宅を建設。エッフェルとの最初の仕事は、1878年万博のガス・パビリオンの建造だった。のちエッフェル社の建築部長となり、モーリス・ケクランやエミール・ヌーギエらと協力して、エッフェル塔の設計監理に従事。その後、ムニエ一家をパトロンとして建築作品を残す。1905年には、ノワジエルのチョコレート工場近代化に貢献。1919年死去。
フランツ・ライヒェルト
発明家1912年にパラシュートと同じ原理で地上に降りる外套を発明し、エッフェル塔のデッキから飛び降りたものの、外套は開かず地上に墜落死した。彼の死はエッフェル塔最古の事故死記録映像として残されている。

その他編集

脚注編集

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  1. ^ 「世界の建築家図鑑」(ヴィジュアル歴史人物シリーズ)p143-144 ケネス・パウエル編 井上廣美訳 原書房 2012年10月15日第1刷
  2. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p12 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  3. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p39-40 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  4. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p51 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  5. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p37 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  6. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p58 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  7. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p64 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  8. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p65 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  9. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p57 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  10. ^ 「国民百科事典1」平凡社 p423 1961年2月1日初版発行
  11. ^ 「パリ風俗史」p331-332 アンドレ・ヴァルノ著 北澤真木訳 講談社 1999年11月10日第1刷
  12. ^ Jonnes, Jill (2009). Eiffel's Tower: And the World's Fair Where Buffalo Bill Beguiled Paris, the Artists Quarreled, and Thomas Edison Became a Count. Viking Adult. pp. 163–64. ISBN 978-0670020607. 
  13. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p82 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  14. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p85 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  15. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p86 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  16. ^ 『エッフェル塔ものがたり』p102 倉田保雄著 岩波新書 1983年4月20日第1刷
  17. ^ 【こぼれ話】エッフェル塔に‘緑化’計画?=仏紙報道、当局は否定”. 時事ドットコム (2011年12月2日). 2011年12月2日閲覧。
  18. ^ Bud, Robert; Niziol, Simon; Boon, Timothy; Nahum, Andrew (2000). Inventing the Modern World: Technology since 1750. London: Dorling Kindersley. p. 95. 
  19. ^ 中嶋 一史.塔の構造材の変遷:エッフェル塔の以前と以後.日本建築学会.1990:105(1305):40-41
  20. ^ Number of visitors since 1889” ((フランス語)). Tour-eiffel.fr. 2010年5月24日閲覧。
  21. ^ A few statistics” ((フランス語)). Tour-eiffel.fr. 2010年5月24日閲覧。
  22. ^ Tour Eiffel et souvenirs de Paris”. Le Monde. 2010年5月24日閲覧。
  23. ^ 「タワーの文化史」p98 河村英和 丸善出版 平成25年8月30日発行
  24. ^ 「タワーの文化史」p155 河村英和 丸善出版 平成25年8月30日発行

参考文献編集

  • 『エッフェル塔ものがたり』倉田保雄著 岩波新書
  • 『エッフェル塔試論』松浦寿輝著 筑摩書房
  • 『フランス表象文化史 美のモニュメント』和田章男著 大阪大学出版会

関連項目編集

外部リンク編集