石川 貞當(いしかわ さだまさ)は、江戸時代前期の旗本。貞當系石川家は三河国額田郡大島村(現愛知県豊田市追分町)に陣屋が置かれたことから大島石川家(おおじまいしかわけ)とも呼ばれ、その家系は明治維新まで旗本家として続いた。後に江戸水道橋口(現東京都文京区本郷1丁目東京都立工芸高等学校)に屋敷を賜った。

 
石川貞當
時代 江戸時代前期
生誕 慶長18年(1613年
死没 承応2年6月29日1653年7月23日
別名 八郎左衛門
戒名 自曻院殿日臺
墓所 大阪市中央区谷町の海寶寺
東京都北区田端大久寺
官位 従五位下阿波
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家光家綱
氏族 本姓:清和源氏
父母 父:石川忠総、母:堀尾吉晴の娘
兄弟 廉勝総長貞當
恭総、邦総、総氏、女子(中川久清室)
正室:鷲尾隆量の娘
義當
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生涯 編集

慶長18年(1613年)美濃国大垣藩主であった石川忠総の四男として誕生。母は、堀尾吉晴の娘である。寛永9年(1632年)御書院番となり2百石を賜い、進物番・同組頭となり寛永16年12月(1640年2月)布衣着用を許される。この後御書院番組頭を務め寛永18年1月2日(1641年2月11日)従五位下・阿波守に叙任する。

寛永19年12月(1643年2月)1千8百石が加増され合わせて2千石を知行し、慶安元年10月(1648年12月)世継ぎである徳川家綱附き大番頭となり西の丸に伺候する。慶安3年12月(1651年2月)父忠総が死去した翌年の慶安4年4月4日(1651年5月23日)に父遺領の内より三河国額田郡加茂郡の内で7千石の分与を受け、先に幕府より賜った2千石を返却する。承応2年6月29日(1653年7月23日)大阪大番として赴任中に死去し、一時弟の総氏が役目を引き継いだ。

参考文献 編集

  • 『新訂 寛政重修諸家譜 第3』続群書類従完成会、1981年
  • 『石川家先祖覚書』
  • 『石川家由来』
  • 『石川家系譜』
  • 『石川家譜』
  • 『石川家譜難波録』

関連項目 編集