野中 小百合(のなか さゆり、1959年3月27日[1][2][3] - )は福岡県八幡市(現・北九州市)出身[1]のアイドル歌手

本名、野中 泰子[1][2][3]。別芸名は糸川 蛍子(いとかわ けいこ)。

かつて渡辺プロダクションに所属していた[2][4]

来歴・人物 編集

子供の頃から歌うことが好きで、大きな声で演歌を歌うことが良くあった[1]

近所の仲のいい女の子に誘われて、地元テレビ局のテレビ西日本が運営する「TNC児童合唱団」に入団。しかし、その誘ってくれた女の子が辞めた後、間も無くして入団から1年と少しで退団[1]

その後中学に入学してからも歌うこと好きは変わらず、近所のおばさんに付いて行って民謡を習い始める[1]。その後友人から教えられた、博多にある渡辺プロダクション経営の「東京音楽学院」博多校に1973年の中学3年生の時から通い始める[1]。同学院に通い始めて間も無くして、学院の先生から『スター・オン・ステージ あなたならOK!』(NETテレビ)への出場を勧められ、九州予選を通過して東京での決戦大会に出場、3週目まで勝ち抜く[1]

高校は地元の成美高等学校(現・星琳高等学校)商業科入学、高校入学後も東京音楽学院に通う。高校1年の冬に、渡辺プロダクションのオーディションに博多校を代表して出場し、合格。同プロ所属が決まり1975年3月に上京[1]、文化女子大学附属杉並高等学校(現・文化学園大学杉並高等学校)に転校[2][4]

1975年「恋の誕生日」でデビュー。1976年TBSテレビ笑って!笑って!!60分』内で放送されたショートドラマ「新・哀愁学園」の劇中歌として、「ふたりの竹とんぼ」が採用される[5]

1980年、レコード会社移籍により芸名を糸川 蛍子と改める[6]が、1981年ごろ引退している。

身長158㎝(1975年当時)[2]。趣味は読書。好きな作家は安部公房(作品はほとんどの作品を読破したほど好きと話していたことがある[2])、立原正秋[4]。好きな漫画家は萩尾望都[4]。またイラストを描くことも趣味[3](以上いずれも1975年〜1976年当時公表していたプロフィールによる)

ディスコグラフィー 編集

シングル 編集

発売日 レーベル タイトル 作詞 作曲 編曲
1975年
11月25日
ワーナー
パイオニア
A 恋の誕生日 千家和也 浜圭介 馬飼野俊一
B 送られて遠まわり
1976年
4月
A ふたりの竹とんぼ 麻生香太郎 平尾昌晃 森岡賢一郎
B めがね橋 浜圭介
1976年
8月25日
A 夏の日記 林春生 小林亜星 あかのたちお
B 浮雲
1977年
8月10日
A 火遊び志願 なかにし礼 丹羽応樹 竜崎孝路
B 落葉の季節 井上忠夫
1978年
5月25日
A 娘たちの季節 わたなべ研一 浜圭介 竜崎孝路
B 星航路 藤公之介
  • 糸川螢子 名義
1980年
6月21日
キング
レコード
A ほたる音頭 杉紀彦 猪俣公章 高田弘
B しあわせ螢がとんでいく
1980年
8月
A パパさようならごめんね 加藤日出男 山崎泉 森岡賢一郎
B 9月のある日、友だち 山崎泉
1980年
12月21日
A 夕焼け父さん 杉紀彦 猪俣公章 高田弘
B ツンツン小唄
1981年
3月21日
A おとこの旅路 曽根幸明
B むすめ小原節

※1981年3月21日の発売のシングルでは、糸川螢子(野中小百合)の歌唱はB面の『むすめ小原節』のみ。A面『おとこの旅路』の歌唱は横内正

出演 編集

テレビ 編集

CM 編集

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i 近代映画(近代映画社)1976年3月号 p.130 - 133「スター小説・野中小百合」
  2. ^ a b c d e f Seventeen 1975年12月16日号 p.178「IDOL☆NOW」
  3. ^ a b c 週刊TVガイド 1976年2月20日号 p.6「ホープ0番地」
  4. ^ a b c d 月刊セブンティーン 1976年1月号 p.66「スタートforスター」
  5. ^ a b 週刊プレイボーイ 1976年5月11日号 p.203 本人記事
  6. ^ a b グラフNHK 1981年8月号 p.96「ふれっしゅ・ふらっしゅ」