菅原 秀雄(すがわら ひでお、1924年[注釈 1]1月3日 - 2005年[1])は、日本の俳優である[3][4][5][6][7][8]。本名同じ。青木富夫葉山正雄横山準末松孝行加藤清一とともに同時代の「松竹蒲田の名子役」と謳われた[9]

すがわら ひでお
菅原 秀雄
菅原 秀雄
左から菅原秀雄加藤清一、突貫小僧(青木富夫)『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』(1932年)
本名
生年月日 (1924-01-03) 1924年1月3日
没年月日 2005年
出生地 日本の旗 日本 北海道函館市蓬萊町(現在の同市宝来町
職業 俳優、元子役
ジャンル 劇映画現代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1930年 - 1940年
事務所 松竹蒲田撮影所
新興キネマ東京撮影所
主な作品
東京の合唱
大人の見る絵本 生れてはみたけれど
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人物・来歴 編集

1924年[注釈 1]大正13年)1月3日北海道函館市蓬萊町(現在の同市宝来町)に生まれる[3]。『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)は、誕生日を「1月13日」としている[4]

数え年4歳のときに父が死去し、母とともに東京に移住した[3][4]。その後、一時期、函館に戻るが、再び東京に移って、満6歳を迎えた1930年(昭和5年)1月、松竹蒲田撮影所に子役俳優として入社した[3][4]。同年4月、蒲田尋常小学校(現在の大田区立蒲田小学校)に入学、同年5月15日に公開された岩田祐吉高田稔主演による『』(監督佐々木恒次郎)で映画界にデビューした[3][4][5][6]。同年9月5日に公開された『新篇 己が罪作兵衛』(監督佐々木恒次郎)に出演して、井上正夫と共演、菅原は「名子役」と謳われるようになる[3][4][5][6]

当時の松竹蒲田には、すでに「名子役」が2人おり、それがいずれも前年の1929年(昭和4年)にデビューした高峰秀子と、「突貫小僧」こと青木富夫であり、彼らは菅原と同学年であった[3]。高峰は菅原と同じ函館出身であり、青木は悪ガキを演じていたのに対して、菅原は「優等生で品行方正、親孝行少年の見本」を演じて、好対照であった[3]。高峰とは1931年(昭和6年)8月15日に公開された小津安二郎監督の『東京の合唱』で、青木とは同年9月11日に公開された野村浩将監督の『危険信号』や、翌1932年(昭和7年)3月10日に公開された成瀬巳喜男監督の『青空に泣く』、同年6月3日に公開された小津安二郎監督の『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』で共演している[3]。同年12月1日に公開された衣笠貞之助監督のトーキー大作『忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻』および『忠臣蔵 後篇 江戸の巻』は、京都の松竹下加茂撮影所が製作しており、同作には、菅原のほか、三井秀夫(三井弘次)や阿部正三郎、突貫小僧(青木富夫)ら蒲田のティーンや子役の俳優も出演している[3][5]

満11歳となった1935年(昭和10年)、同年2月に東京府東京市板橋区東大泉町(現在の東京都練馬区東大泉2-34-5)に新興キネマが新設した新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に移籍した[3][5][6]。記録に残る同社での最初の作品は、同年5月30日に公開された青山三郎監督によるサウンド版自活する女』で、山路ふみ子が二役で演じ分けるところの「芸者お仙」と「早瀬恭子」のうち、後者の弟役を演じた[3][5]。満16歳になった1940年(昭和15年)2月14日に公開された小石栄一監督の『熱情の翼』が、確認できる最後の出演作品である[3][5][6][8]。やがて時代は第二次世界大戦に突入し、以後の消息は不明とされていた[3]が、ハノイへの出征を経て復員後は鉄工関係の会社に勤務し、2005年(平成17年)に83歳で死去していたことが2020年に明らかになった[1][2]

フィルモグラフィ 編集

 
腰辨頑張れ』(1931年)、満6歳、左から山口勇菅原葉山正雄飯島善太郎、女子(不明)。
 
東京の合唱』(1931年)、左から高峰秀子八雲恵美子菅原岡田時彦

すべてクレジットは「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][10]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

松竹蒲田撮影所 編集

特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[5][6]

新興キネマ東京撮影所 編集

特筆以外すべて製作は「新興キネマ東京撮影所」、すべて配給は「新興キネマ」、特筆以外すべてトーキーである[5][6]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ a b 長女によれば生年は1921年[1][2]

出典 編集

  1. ^ a b c 「中日新聞」2020年7月11日 夕刊D版6頁
  2. ^ a b 小津映画の名子役、菅原秀雄さん亡くなっていた 娘が生涯語る”. 東京新聞 TOKYO Web. 中日新聞東京本社. 2020年7月11日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p キネマ旬報社[1979], p.288.
  4. ^ a b c d e f 菅原秀雄jlogos.com, エア、2013年2月4日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 菅原秀雄日本映画データベース、2013年2月4日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i 菅原秀雄、日本映画情報システム、文化庁、2013年2月4日閲覧。
  7. ^ 菅原秀雄、映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年2月4日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 菅原秀雄東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月4日閲覧。
  9. ^ キネマ旬報社[1979], p.472.
  10. ^ a b 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年2月2日閲覧。

参考文献 編集

  • 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
  • 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133

関連項目 編集

外部リンク 編集