藤原道綱

平安時代中期の公卿・歌人 (955–1020)

藤原 道綱(ふじわら の みちつな)は、平安時代中期の公卿歌人藤原北家摂政関白太政大臣藤原兼家の次男。官位正二位大納言

 
藤原 道綱
時代 平安時代中期
生誕 天暦9年(955年
死没 寛仁4年10月15日1020年11月2日
別名 傅大納言
官位 正二位大納言
主君 冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原兼家、母:道綱母藤原倫寧の娘)
兄弟 道隆超子道綱、道綱母養女、道兼詮子道義道長綏子兼俊
源雅信の娘、源広の娘、藤原季孝の娘
源頼光の娘、源満仲の娘
道命斉祇兼経兼宗豊子、女子
養子:兼綱
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経歴 編集

円融朝 編集

安和2年(969年円融天皇践祚に伴い、道綱は童殿上に上がる。翌天禄元年(970年従五位下叙爵し、 天延2年(974年右馬助に任官。貞元2年(977年)正月に左衛門佐に遷るが、同年10月に関白・藤原兼通が道綱の父である藤原兼家右近衛大将を解いて治部卿に遷した際、道綱も土佐権守左遷される。翌貞元3年(978年)兼家が右大臣に任官され復権すると、まもなく道綱も左衛門佐に戻された。天元3年6年(983年左近衛少将に遷任。

花山朝 編集

花山朝に入り、寛和2年(986年)6月10日に寛和二年内裏歌合に末弟藤原道長と共に出詠するが、この時の道綱の和歌藤原道綱母による代作と考えられる[1]。6月23日に藤原兼家が花山天皇出家退位させる寛和の変が発生。次兄の蔵人藤原道兼と僧・厳久が花山天皇とともに花山寺に向かう間、道綱は三種の神器凝華舎にいる春宮・懐仁親王の元へ運んだ。この時の一連の行動は「件三人外、他人不敢知之」と評され、道兼・厳久・道綱以外の人には全く気づかれない機密のものであったという[2]

一条朝前期(兼家・道隆執政期) 編集

寛和の変により、懐仁親王が践祚(一条天皇)すると、兼家は摂政藤氏長者となり、道綱は五位蔵人、道兼と彼の伯父の藤原安親蔵人頭に補任される。兼家の執政下で、道綱は同年中に従四位下・右近衛中将、翌寛和3年(987年)には三度の叙位を受けて従三位となるなど急速に昇進して公卿に列した。しかしこの時点で、妾妻腹である道綱は嫡妻腹の末弟・藤原道長に公卿昇進で先を越されている。

永祚2年(990年)道綱は正三位に昇叙される。5月に兼家は関白に遷るがまもなく病気を理由に辞官・出家し、長兄の内大臣藤原道隆が摂政となる。同年7月に兼家が没するが、この時点で兼家の嫡妻腹である長男・道隆は摂政、三男・道兼は権大納言、五男・道長は権中納言に進み、道隆の長男で兼家の養子だった六男藤原道頼ですら参議であった中、嫡妻腹でない道綱は次男ながら三位中将(非参議)に留まっていた。

同年10月に姪にあたる藤原定子が立后すると道綱は中宮権大夫を兼ね、翌正暦2年(991年)9月に参議に任官しようやく議政官に列した。正暦3年(992年)5月に春宮・居貞親王が主催した帯刀陣歌合に道綱母又は道綱が出詠している[1]

一条朝後期~三条朝(道長執政期) 編集

長徳元年(995年)4月に藤原道隆が薨じ、関白を次いだ道兼も2週間足らずで没す。なおこの頃、道綱母も死去したか[1]。5月には末弟の藤原道長が内覧となり、翌長徳2年(996年)4月の長徳の変を経て権力を掌握。変に伴って、道綱は権中納言・藤原実資を超えて正官の中納言に昇進し、12月に右近衛大将を兼ねた。長徳3年(997年)7月に先任の中納言であった藤原懐忠が権大納言へ昇進する中、道綱は正官の大納言に任ぜられる。この人事で大納言昇進を見送られた藤原実資は、除目以前に大将兼官の中納言が在任期間の長い中納言を越えて昇進した先例がない事を懸念し[3][4]、さらに除目当日に道綱の大納言任官を聞くと先例が140-50年前と古すぎること、及び道綱の才覚が乏しい事に憤慨し、道長と東三条院(藤原詮子)が専横を振るっているとして非難している[5]。この頃、春宮・居貞親王の春宮大夫を兼ねた。

長保2年(1000年従二位、長保3年(1001年)右大将を辞すが正二位に叙せられ筆頭大納言となる。しかしこの後の三条朝にかけて、左大臣・藤原道長、右大臣・藤原顕光、内大臣・藤原公季の体制が15年ほど続き、道綱は大臣昇進の機会を得られなかった。寛弘9年(1012年藤原妍子三条天皇の中宮に冊立されると道綱は中宮大夫を兼ねている。

後一条朝 編集

後一条朝に入ると、道長に代わって子息の藤原頼通が摂政内大臣となり、左右大臣に藤原顕光・藤原公季が並ぶ体制が続き、やはり道綱の大臣昇進の機会はなかった。寛仁2年(1018年)藤原妍子が皇太后になると、道綱は皇太后宮大夫となり引き続き妍子に仕えている。

寛仁4年(1020年)9月半ば頃より病気のため重態に陥り[6]、10月13日に法性寺にて出家。前年に既に出家していた道長の見舞いを受けるが[7]、10月15日に薨去。享年66。

人物 編集

官途における競争相手であった藤原実資は道綱のことを「一文不通の人(何も知らない奴)」「40代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めなかった」などと記している[6]。父や兄弟に見られるような政治的才能や、母のような文学的素養はなかったと伝えられている。

が著した『蜻蛉日記』における道綱に関する記述は、母から見ても「大人し過ぎるおっとりとした性格である」と記されているが、の名手であり、宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により旗色が悪かった右方を引き分けに持ち込んだという逸話が書かれている。

勅撰歌人として『後拾遺和歌集[8]、『詞花和歌集[9]、『新勅撰和歌集[10]、『玉葉和歌集[11]、に各1首づつの計4首が入集している[12][13]。また、『和泉式部集』に和泉式部と歌の贈答が見えるが、そこで和泉式部は道綱のことを「あわれを知れる人」と詠んでおり、道綱に対して好感を持っていた様子が窺われる>[14]

官歴 編集

公卿補任』による。

系譜 編集

子孫は中流貴族として鎌倉期まで続いたが断絶した。ただし兼経の子孫である兼子が九条兼実に嫁ぎ、良通を産んだ為、女系では存続している。

脚注 編集

  1. ^ a b c 上村悦子『蜻蛉日記の研究』明治書院、1972年。doi:10.11501/12453975全国書誌番号:75021191https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12453975 
  2. ^ 『扶桑略記』花山院条
  3. ^ 『小右記』長徳3年6月25日
  4. ^ 藤原実資は正暦6年(995年)道綱に先んじて権中納言に任官
  5. ^ 『小右記』長徳3年7月5日
  6. ^ a b 『小右記』
  7. ^ 『左経記』
  8. ^ 『後拾遺和歌集』巻十五雑一
  9. ^ 『詞花和歌集』巻七恋上
  10. ^ 『新勅撰和歌集』巻十二恋二(『蜻蛉日記』にも掲載)
  11. ^ 『玉葉和歌集』巻十二恋四
  12. ^ 『勅撰作者部類』
  13. ^ 伊藤 1976, p. 164.
  14. ^ 伊藤 1976, p. 166.
  15. ^ 『公卿補任』では12月とするが誤りか
  16. ^ 4月5日永延元年に改元
  17. ^ a b 『近衛府補任』
  18. ^ ユリウス暦では997年2月9日
  19. ^ 『小右記』長保元年8月4日
  20. ^ 水野隆「道綱母周辺に関する資料拾遺」『国文学研究』第59巻、早稲田大学国文学会、1976年6月、1-11頁、CRID 1050282677435824256hdl:2065/42863ISSN 0389-86362023年12月4日閲覧 
  21. ^ 『権記』長保2年7月3日
  22. ^ 『小右記』長和4年4月25日
  23. ^ 『権紀』寛弘七年正月二十六日

出典 編集