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大嘗祭(だいじょうさい)は、日本の天皇即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」「おほなめまつり」とも訓じた[1]が、現代においては「だいじょうさい」と音読みするのが公式である[2]

大嘗祭
だいじょうさい
Inari - daiwa torii.svg
Emperor Akihito Daijōsai(1990).jpg
1990年(平成2年)11月22日23日
第125代天皇明仁(現・上皇)の大嘗祭
ジャンル
頻度 天皇即位後、最初の新嘗祭
一世一度・即位大嘗祭
会場 大嘗宮(主基殿・悠紀殿・廻立殿)
会場所在地 皇居(時代により変化)
開催国 日本の旗 日本
初回開催 農耕祭祀に根差しており、原形は弥生時代ごろ見られ、現在の規模・様式になったのは天武持統朝の頃
前回 <第125代天皇 明仁>
1990年(平成2年)11月22日23日
次回 <第126代天皇 徳仁>
2019年(令和元年)11月14日15日
参加者
来場者数 総勢約730名
活動 即位した天皇が、悠基国・主基国から献上された新穀を神々に供え、自らもそれを食し、五穀豊穣と国家・国民の安寧を祈願する神道による儀式。
後援 日本国政府
主催 宮内庁
ウェブサイト
宮内庁
1990年(平成2年)に造営された、平成の大嘗宮(模型)
風俗舞(左:悠紀地方、右:主基地方) 風俗舞(左:悠紀地方、右:主基地方)
風俗舞(左:悠紀地方、右:主基地方)
宮中祭祀
四方拝
歳旦祭
元始祭
先帝祭昭和天皇祭)
先帝以前三代の例祭
孝明天皇祭)
紀元節祭
祈年祭
天長祭〈天長節祭〉
春季皇霊祭・春季神殿祭
神武天皇祭皇霊殿御神楽
先后の例祭
香淳皇后祭)
節折大祓
先帝以前三代の例祭
明治天皇祭)
秋季皇霊祭・秋季神殿祭
神嘗祭
鎮魂祭
招魂祭
新嘗祭大嘗祭
賢所御神楽
先帝以前三代の例祭
大正天皇祭)
節折大祓
式年祭旬祭

新天皇が悠基国・主基国から献上された新穀を神々に供え、自らもそれを食し、「五穀豊穣」と「国家・国民の安寧」を祈願する儀式である。

新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが、当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった[3]

後に、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」と呼び、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。

概要編集

大嘗祭(=新嘗祭)の儀式の形が定まったのは、7世紀皇極天皇の頃だが、この頃はまだ通例の大嘗祭(=新嘗祭)と践祚大嘗祭の区別はなかった。通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時が初めである。ただし当時はまだ即位と結びついた一世一度のものではなく、在位中に何度か挙行された。[4] 律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として「践祚大嘗祭」と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備された。『延喜式』に定められたもののうち「大祀」とされたのは大嘗祭のみである。また、大嘗会(だいじょうえ)と呼ばれることもあったが、これは大嘗祭の後には3日間にわたる節会が行われていたことに由来している[5]。また後には通常の大嘗祭(=新嘗祭)のことを「毎年の大嘗」、践祚大嘗祭を「毎世の大嘗」と呼び分けることもあった。

延喜式に式次第が定められた後も、多少変化した。大嘗宮を建てる場所も、奈良時代より平安時代初期の平城天皇の御代から、大内裏の南中央に位置した朝堂院の前庭にあった竜尾壇の庭が用いられた。平安時代末期に朝堂院が焼亡してからは、安徳天皇寿永元年(1182年)の大嘗祭のように内裏の紫宸殿の前庭を用いる例もあったが、おおよそ大極殿の旧地の龍尾壇下に建てられた。東山天皇の再興時には、大極殿址も明らかでなかったためか、安徳天皇の先例に倣って紫宸殿の前庭が用いられ、明治に至った。明治4年の大嘗祭は、初めて東京吹上御所で行われ、大正昭和の時は「登極令」に拠って京都の大宮御所内の旧仙洞御所の御苑が用いられた。[6]室町時代末期、戦国時代には、朝廷の窮乏や戦乱のため、延期または後土御門天皇の即位以降、東山天皇の時代の再興まで221年間行われなかったことなどもある[7]ものの、天皇の代替わりに伴う重要な祭儀として、古くから継承されてきた。もっとも、江戸時代の再興の際には古式に則って、仏教の御所への出入りを禁じて歴代天皇の位牌を撤去すべきとした霊元上皇摂政一条冬経(兼輝)と、これに反対した上皇の実兄堯恕法親王左大臣近衛基熈らが対立した。この仏教排除の動きは新天皇の大嘗祭が開かれる度に国学尊王論の高まりと相まって強化され、それが宮中に長く定着していた神仏習合の慣習に対する批判および排仏論やこれに付随する即位灌頂の是非の論議にも発展して、明治における宮中の神仏分離の遠因となったとする見方もある[8]

第125代天皇明仁では、平成2年(1990年11月12日即位の礼が、11月22日から23日に大嘗祭が行われている。

即位礼に関わる儀式が国の行事とされたのに対し、大嘗祭に関わる儀式は皇室の行事とされた。しばしば誤解されているが、ここで「皇室の行事」というのは、「皇室の私的な行事」という意味ではなく、「皇室の公的な行事」という意味である。大嘗祭の予算は通常の内廷費以外の臨時のものが組まれている。当時の政府発表(最終回答)によれば、大嘗祭が「国事行為」とされなかった理由は、日本国憲法上の天皇の「国事行為」とは「内閣の助言と承認」を必要とするものであり、皇室の伝統祭祀である大嘗祭は「国事行為」に当たらないためである。

式次第編集

明治以降の「即位の礼・大嘗祭」関連儀式の具体的な日程等については、即位の礼の項目を参照のこと。細部については変遷があるが、以下では主な骨格が定まった『延喜式』の記述に主に従う。

悠紀田・主基田の卜定編集

まず、大嘗祭に供えるを出す斎田を卜定(選出)する。この斎田は2か所あり、それぞれ悠紀(ゆき)・主基(すき)と呼称される。この語源は、「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。悠紀と主基のそれぞれについて、亀卜を行って・斎田を選定する(斎田点定の儀)。この斎田の選定を行う都合上、即位が7月以前の場合には同年に、8月(旧暦)以降になる場合、大嘗祭は翌年に行われていた[9]

悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東から、主基は西から選ばれるのを原則とし、畿内の国(山城国大和国河内国和泉国摂津国の令制5か国(現在の京都府奈良県及び大阪府))から選ばれたことは一度もなかった[10]宇多天皇以降は近江国が悠紀、丹波国備中国冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。

明治以降は下記。令和元年は、47都道府県のうち新潟県長野県静岡県を含む東側から「悠紀」地方、残りの西側から「主基」地方を選んだ[11]

近年(明治以降)の悠紀・主基編集

天皇 大嘗祭が行われた年 悠紀 主基
旧国名 斎田所在地 旧国名 斎田所在地
明治天皇 1871年明治4年) 甲斐 山梨県巨摩郡上石田村
(現・甲府市上石田3丁目)[12]
安房 花房県長狭郡北小町村字仲ノ坪
(現・千葉県鴨川市北小町字仲ノ坪)[13]
大正天皇 1915年大正4年) 三河 愛知県碧海郡六ツ美村大字下中島字上丸ノ内
(現・岡崎市中島町字上丸ノ内)[14]
讃岐 香川県綾歌郡山田村大字山田上
(現・綾川町山田上)[15]
昭和天皇 1928年昭和3年) 近江 滋賀県野洲郡三上村
(現・野洲市三上[御上神社前])[16]
筑前 福岡県早良郡脇山村
(現・福岡市早良区脇山)[17]
上皇(第125代天皇) 1990年平成2年) 羽後 秋田県南秋田郡五城目町大川石崎[18]
<大田主:伊藤容一郎[19]>
豊後 大分県玖珠郡玖珠町大字小田[20]
<大田主:穴井進[21]>
今上天皇(第126代) 2019年令和元年) 下野 栃木県塩谷郡高根沢町大谷下原[22]
<大田主:石塚毅男[22]>
丹波 京都府南丹市八木町氷所新東畑[22]
<大田主:中川久夫[22]>

本祭当月までの儀式編集

 
大嘗祭で天皇のみが被れるである「御幘の冠」

8月上旬には、大祓使(おおはらえし)を卜定し、左京右京に1人、五畿内に1人、七道に各1人を差し遣わして祓い、8月下旬にはさらに祓使を差し遣わして祓った。この祓いが済むと、伊勢神宮以下、各国の天神地祇幣帛を供え、告文(こうもん)を奏じた。

8月下旬、抜穂使を両斎国に遣わし、斎田と斎場雑色人、造酒童女、物部人、物部女らを卜定、斎場に殿舎を建てる[23]

9月、吉日を選び、斎田抜穂の儀を執り行う。抜穂使が水辺で祓を行い、奉耕者が順番に斎田で稲穂を抜き取る。稲穂は斎場で乾かされるが、初めに抜いた4束をとくに高萱御倉に納め、御飯(みい)とする。あとは黒酒(くろき)・白酒(しろき)として供される[24]。これらは9月下旬に都に設けられた斎場院外の仮屋に納められ、祭日まで保管される[25]。この殿舎を建てるに際しては、まず地鎮祭が行われ、野の神を祭ってを刈り取り、山の神を祭って料材を伐採する。抜穂が終わると八神殿において祭典がなされる[26]

このほか、御贄(米以外の食物。「由加物」と称す)が紀伊国阿波国から納められる[25]。また、着用する衣服(神服)は、三河国の服部と、阿波国の忌部が奉仕して調製する[27]。阿波忌部氏(現在の子孫は三木姓)が調進するのは製の麁服(あらたえ)で[28]、神の着衣として供えられる。令和の大嘗祭向けには、徳島県美馬市木屋平(こやだいら)で麻を栽培し、吉野川市山川町で織られる[29] 。三河国から納められるのは製の繪服(にぎたえ)で、平成の大嘗祭では稲武町(現・豊田市)でつくられた[30]。 又、明治4年の大嘗祭以降、全国の各都道府県から特産の農産物等を5点以内を宮内庁が購入してあて、悠紀・主基両殿それそれの南庭の帳舎の机上に供進される「庭積の机の上に代物」の儀が催行されている。[31]

10月下旬、天皇が鴨川に臨んで御禊(ぎょけい)する[32]。この御禊は、江戸時代中期以降になると皇居内で行われた。

   
1990年(平成2年)、第125代天皇の大嘗祭に際して
 
大正天皇の大嘗祭に参加した梨本宮守正王
 
昭和天皇の大礼記念切手に描かれた、祭礼が行われた大嘗宮

大嘗宮(大嘗殿〈おおにえどの〉ともいう)は朝堂院の前庭に設けられる。祭の約10日前に大嘗宮の材木と諸材料と併せてを朝堂の第二殿の前に運び、[33]7日前に地鎮祭を行い、そこから数えで5日間で全ての殿舎を造営し、祭の3日前に竣工する[34]

童女が火を鑽出して国司郡司の子弟の持つ松明に移し、その8人童男童女が松明を掲げて斎場に立ち、工人が東西214(約65メートル)、南北15丈(約46メートル)を測って宮地とし、之を中に分け東に悠紀院、西に主基院とする[35]。そして両国の同女が木綿をつけたを捧げ、両院が立つ四隅と門の場所の柱の穴に立て「斎鍬」(いみくわ)で8度穿つ[36]。東西に悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿、北に廻立(かいりゅう)殿を設け[37]、それぞれの正殿は黒木造 (皮つき柱) 掘立柱切妻造妻入り、青草茅葺きの屋根、8本の鰹木と千木[38]むしろが張られた[39]天井を有する[40]。外を柴垣で囲み、四方に小門をつける[37]地鎮祭の後、祭の7日前から大嘗宮を造り始め、5日間以内に造り終え、「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」後にはただちに撤去される。

11月いっぱいは散斎(あらいみ。簡略な物忌。)、本祭の2日前から当日までの3日間は致斎(まいみ。厳重な物忌。)とされ、穢れに触れることを戒めた。悠紀・主基の斎場を設け、それぞれに神供、神酒、調度などを調理製作する諸屋を建てた。竣工すると宮殿に災害がないように祈る大殿祭と、邪神を払うための御門祭が執り行われた[41]

本祭前日、鎮魂祭を行う。これは、天皇の霊魂が身体から遊離しないように鎮める祭であり、神楽の奉納が行われる[42]

本祭編集

本祭は、11月の日に行われる。11月に卯の日が3回あれば、中の卯の日に行われるものとされたが、[43]後世には下の卯の日に行う習いとなった。近代になってグレゴリオ暦を採用して以降は新暦の11月に行うようになり[44]、大正以降の大嘗祭はそれぞれ新暦の11月14日、14日、22日、14日に行われている。

当日、巳刻(10時)に仮屋から5000人の行列が大嘗宮へ向かい、御贄などが運び込まれる。行列は未刻(14時)に参入し、米が炊かれる。

戌刻(20時)、天皇は内裏を出て廻立殿(かいりゅうでん)に渡御し、東の間(御湯殿)で潔斎して斎服を着ける[45]

戌四刻(21時)、菅笠をさしかえられ、脂燭で足元が照らされる中を、徒跣(素足で歩く)で葉薦の上を進み、悠紀殿(ゆきでん:千木伊勢神宮内宮と同じ内削ぎ)[46]に入る。同時に諸員が参入し、それぞれ拝礼する。

亥一刻(21時30分)、神饌行立が行われる。これは、天皇自ら神に献じる神饌が悠紀殿へ向かうことであるが、この時、神膳自体が神として扱われる[47]。これを天皇自ら神に供し[48][49]、告文を奏して神と直会(なおらい)、神饌を、天皇親ら(みずから)聞こし召す(食べる)。

終了後、天皇はいったん廻立殿に戻る。次いで翌二日の丑4剋(3時)、主基殿(千木は伊勢神宮外宮と同じ外削ぎ)[50]に入り、悠紀殿と同じ所作を行う。儀式の終了は寅4剋(5時)になる。天皇はその晩は内裏に戻らず、大極殿で翌朝まで待機する[51]

本祭後編集

   
風俗舞装束(悠紀地方用)
風俗舞装束(主基地方用)

明けて辰の日、節会が行われる。辰刻(8時)、豊楽院に天皇が出御し、神祇伯が寿詞を奏上する(中臣寿詞、あるいは天神寿詞)。次いで弁官が供御の式目を奏上、和舞(やまとまい)・風俗舞(ふぞくまい)が催され、諸臣に饗宴が供された。翌日の巳の日も節会が行われる。この両日の内、辰の日には悠紀国の国司以下、巳の日は主基国の国司以下が禄を賜るため、2階の節会をそれぞれ「悠紀節会」、「主基節会」を表現される[52]。これらはいずれも、天皇が悠紀国・主基国の産品を食し、その地の芸能にも触れることから、大嘗祭の後の直会の性格を含むものである[53]

午の日、豊明節会が行われる。五節舞が披露された後、功績者への叙位の宣命があり、饗宴となる。この饗宴が、本来の意味での「宴」であるといえる[54]

その伝統の上に[55]平成の大嘗祭では昭和の大礼の前例を踏まえて一括して「大饗の儀」として執り行われた。大饗の儀の行われる豊明殿には、天皇皇后の御座がしつらえられ、その御後の「錦軟障」は高さ12尺(3.64メートル)、幅30尺8寸4分(9.35メートル)でその図は千年松山水の図。今尾景年の筆により絹に揮毫された墨絵で、大正大礼の際調製され、昭和大礼の際も使用されたものが平成大礼でも使用された[56]。また、両側上座壁面に布設された「悠紀地方風俗歌屛風」(皇后陛下の出入口の脇に置かれた)、「主基地方風俗歌屛風」(天皇陛下の出入口の脇に置かれた)は画紙雲肌麻紙が用いられ、それぞれ春夏秋冬の景色が描かれた。更にそれぞれの季節の和歌宮内庁の依頼を受けた歌人によって詠まれ、万葉仮名で色紙に揮毫され、二枚あてその屏風の左右両上隅に張られた。[57]

大嘗祭の本質とその意義について編集

悠紀殿・主基田には、南枕に布団)が敷いてあり、と沓を載せる台も布団の北隣に置いてある。布団に置いてある枕の名は坂枕(さかまくら)という。この寝具類は神座、神の為に設けられたものであり、この中に天皇が直接入ることはない[58]。この件に関して鎌田純一は、折口信夫の説いた「真床覆衾」の妄説が、彼自身は大嘗祭の奉仕に不参加で実情を伺う術が無かったにも拘わらず、その学者、歌人としての地位の確立と相まって昭和十年以降広まり、その妄説を記した書が一般向けに廉価で多く売り出されたこともあり、岡田荘司を始めとする反論が、その妄説を駆逐するに至らず、大嘗祭斎行に大きな障害となりかけたことを記し、この折口説により外国から、日本文化全体まで蔑視されかけたことを非難している。[59]

これについては、天孫降臨に際してニニギノミコトが真床覆衾にくるまれて降臨したという記紀神話に比定したものとする説がある。すなわち、天皇が大嘗祭において一時的に降臨の際のニニギノミコトと同一となってその霊威を得るのである。

大嘗祭についての議論編集

憲法の政教分離原則との関係編集

キリスト教仏教関係者を始めとする国民の一部に、大嘗祭への国費支出や大嘗祭への都道府県知事の参列が日本国憲法政教分離原則の観点から違憲であるという意見がある[60][61]。この政教分離の観点から、いくつかの憲法訴訟が起こされているが、訴えは全て斥けられている。これらの原告敗訴は、国費支出が原告に不利益を与えないという判断や、知事が参列することが政教分離の目的効果基準に照らして政教分離に反しないという判断によるものである[62]

1977年(昭和52年)7月に最高裁大法廷で下された判決によると、「憲法の政教分離規定は国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである。」とあり、政府はこれを理由の一つとして大嘗祭への国費支出を認めている[62]

ただし、1995年(平成7年)の大阪高裁判例では「平成の大嘗祭が既に終了しており、原告に不利益を与えない」との主旨で原告の訴えを斥けながらも、傍論において大嘗祭について「憲法違反の疑いは一概に否定できない」と指摘したこともある[63]

2018年12月10日、原告241名が天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定による明仁の退位と徳仁の即位に伴う「退位の礼」「即位の礼」「大嘗祭」などの実施が政教分離を定めた憲法の規定に違反するとして、国を相手取り国費支出の差し止めと損害賠償を求める訴えを東京地裁に提訴した[64]

なお、宮内庁は大嘗祭に国費を支出することへの理解を国民に深めてもらうため、今回は東御苑を休園せず、工事の模様を誰でも見られる状態にする。平成の大嘗宮の工事期間はテロ対策として皇居東御苑を全面休園して工事を見えないようにしたうえ、骨組みの完成後は極めて堅牢な造りの大型防護テントで主要建物をすっぽりと覆い隠し、4か所に2500Lの防火槽と消防ポンプの防火設備が置かれていた。ただし、テロ警戒は継続し、門での持ち物検査をはじめ、巡回の頻度を増やしたり、30年前より精度が上がったカメラによる監視を強化したりする。防火槽も設ける[65]

大嘗宮の屋根について編集

令和の大嘗祭の中核となる大嘗宮の屋根について、宮内庁は当初、コスト削減のため屋根材を古来の茅葺きから板葺きに変更する方針であった[66]。しかし、自民党の「茅葺き文化伝承議員連盟」会長の山口俊一衆院議員は菅官房長官に対し、「かやぶきによる大嘗宮造営を絶えさせることは、わが国の伝統・文化に取り返しのつかない後悔をもたらす」と指摘し、平成の即位時に準拠して主要殿をかやぶきにするよう再検討を求めた。菅官房長官は「検討する」と答えた[67]

式の形式について編集

2019年(令和元年)11月14・15日に行われる大嘗祭で、大嘗宮の建築費は19.7億円[68]秋篠宮文仁親王は、新嘗祭が行われる施設である宮中の神嘉殿(しんかでん)を活用して費用を抑え、それを天皇家の私費で賄うという具体案を示していたことが報じられている[69]

参考文献編集

  • 田中初夫『践祚大嘗祭』木耳社、1983年
  • 岡田精司編『大嘗祭と新嘗』学生社、1979年、復刊1989年(特に折口信夫「大嘗祭の本義」)
  • 折口信夫『古代研究II 祝詞の発生』中公クラシックス、2003年。上記を収録
    • 『古代研究III 民俗学篇3』角川ソフィア文庫、2017年。上記を収録
    • 『大嘗祭の本義 民俗学からみた大嘗祭』森田勇造現代語訳、三和書籍、2019年
  • 鎌田純一『即位禮・大嘗祭 平成大禮要話』錦正社、2003年 ISBN 4-7646-0262-8
  • 吉野裕子『天皇の祭り』講談社学術文庫、2000年
  • 岡田荘司『大嘗祭と古代の祭祀』 吉川弘文館、2019年 ISBN 978-4-642-08350-8
  • 真弓常忠『大嘗祭』ちくま学芸文庫、2019年。ISBN 978-4-480-09919-8

脚注・出典編集

  1. ^ 井原頼明『皇室事典』冨山房、1943年、8ページ
  2. ^ ご即位・立太子・成年に関する用語 宮内庁ホームページ(2019年6月4日閲覧)。
  3. ^ 大嘗及び新嘗の起源として岩戸隠れの原因となったスサノオが糞を放った対象が『古事記』では「天照大御神大嘗を聞し召す殿」であり、対応する『日本書紀』の記述では「天照大神の新嘗のための新宮」と記されている。
  4. ^ 斎忌(悠紀国)と次(主基国)とその卜定について史上初めて言及されるのは『日本書紀』巻第29の天武天皇5年の相嘗祭と新嘗祭に関してであるが、即位後最初の大嘗祭は天武天皇2年に既に行われている。
  5. ^ 小山田義夫「大嘗会役小考」(『一国平均役と中世社会』(岩田書院、2008年) ISBN 978-4-87294-504-1(原論文は1976年))
  6. ^ 『神社のいろは要語集 祭祀編』、監修・神社本庁 p.266 ISBN 978-4-594-07193-6
  7. ^ こうした戦乱の時代であっても、最重要の朝儀であるとの認識は継承され、それ故に後奈良天皇は天文14年(1540年)8月に伊勢神宮へ皇室と国民の復興を祈願すると同時に大嘗祭が催行できないことを謝罪する宣命を記している。岡田荘司、『大嘗祭と古代の祭祀』あとがきに続く「大嘗祭の年表」p.3 ISBN 978-4-642-08350-8
  8. ^ 山口和夫「神仏習合と近世天皇の祭祀」(初出:島薗進 他編『シリーズ日本人と宗教1 将軍と天皇』(春秋社、2014年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7 P352-356)
  9. ^ 真弓, pp. 72-73.
  10. ^ ただし、天武天皇(悠紀:播磨国・主基:丹波国)、持統天皇(悠紀:播磨国・主基:因幡国)、文武天皇(悠紀:尾張国・主基:美濃国)、聖武天皇(悠紀:備前国・主基:播磨国)の時は東西の原則は当てはまっていない。(加茂正典『日本古代即位儀礼史の研究』(思文閣出版、1999年) ISBN 978-4-7842-0995-8 第1篇第2章及び第5篇第1章)
  11. ^ 皇位継承儀式の米決める「斎田点定の儀」 甲羅、職人…確保に奔走”. 『産経新聞』 (2019年5月11日). 2019年5月13日閲覧。
  12. ^ 第2回「明治天皇の大嘗祭」|やまなしレトロモダン 明治ことはじめ” (日本語). 2019年9月1日閲覧。
  13. ^ 主基斎田跡/鴨川市ホームページ”. www.city.kamogawa.lg.jp. 2019年9月1日閲覧。
  14. ^ Q.悠紀斎田お田植えまつりについて知りたい。 | 岡崎市ホームページ”. www.city.okazaki.lg.jp. 2019年9月1日閲覧。
  15. ^ 主基斎田(すきさいでん)のあらまし”. www.shokokai-kagawa.or.jp. 2019年9月1日閲覧。
  16. ^ 悠紀斎田 お田植まつり” (日本語). 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!. 2019年9月1日閲覧。
  17. ^ 展示・講座案内|福岡共同公文書館”. kobunsyokan.pref.fukuoka.lg.jp. 2019年9月1日閲覧。
  18. ^ 悠紀斎田抜穂の儀”. 広報秋田ごじょうめ No.646. 秋田県五城目町. p. 2 (1990年10月15日). 2019年9月1日閲覧。
  19. ^ 改元と秋田:農業に懸けた平成 大嘗祭に米献上の伊藤さん /秋田” (日本語). 毎日新聞. 2019年9月18日閲覧。
  20. ^ 平成大嘗祭主基地方風俗舞”. 社報 春日神社 第17号. 春日神社. p. 6 (平成24-06-20). 2019年9月1日閲覧。
  21. ^ 玖珠郡豊穣祈願祭│観光・旅行ガイド” (日本語). ぐるたび. 2019年9月18日閲覧。
  22. ^ a b c d 【電子号外】大嘗祭の斎田は高根沢 銘柄は「とちぎの星」|下野新聞 号外|電子号外|下野新聞 SOON(スーン)” (日本語). 下野新聞 SOON (2019年9月18日). 2019年9月19日閲覧。
  23. ^ 真弓, p. 74.
  24. ^ 真弓, pp. 74-76.
  25. ^ a b 真弓, p. 76.
  26. ^ 『神社のいろは要語集 祭祀編』p.263 (扶桑社、2015年)
  27. ^ 真弓, p. 77.
  28. ^ 大嘗祭の麁服(あらたえ)調進準備 三木信夫さん/(語る ひと・まち・産業)阿波忌部直系 徳島の麻文化再興訴え 日本経済新聞(2019年1月16日)2019年6月4日閲覧。
  29. ^ 大嘗祭へ 麻づくりの山/徳島・美馬/布を献上 住民「真心こめて」『読売新聞』夕刊2019年5月30日(10面)。
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  31. ^ 鎌田純一『平成大禮要話』 p.222
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  39. ^ 鎌田純一『平成大禮要話』で、平成の大礼での大嘗宮では内外壁、天井、床仕上材には畳表張りが用いたと回想している。p.182。
  40. ^ ブリタニカ国際大百科事典』の小項目事典
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  43. ^ 養老律令』の神祇令、『延喜式』巻第7、践祚大嘗祭。なお史上最初の大嘗祭とされる皇極天皇元年11月の新嘗祭は丁卯の日に行われていて、同年のこの日は中卯にあたり神祇令の定めに正確に当てはまる。(『日本書紀』巻第二十四)
  44. ^ 旧暦のままでは新年の1月になる場合があり、新嘗祭に支障があるため。
  45. ^ 真弓, pp. 100-102.
  46. ^ 鎌田純一『平成大禮要話』p.182
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  48. ^ 2019年4月30日に放送されたNHKスペシャル日本人と天皇』では、悠紀殿での儀式の様子が再現されている。それによると、天皇は神饌を柏の葉で作られた32の皿に1時間半ほどかけて盛り付けを行うという。
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  55. ^ 鎌田純一『平成大禮要話』p.243
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  58. ^ 鎌田純一『平成大禮要話』p.215。尚「逆枕」や「御衾」は『神社のいろは要語集 祭祀編』(p.285) によると毎年の新嘗祭でも用いられる。
  59. ^ 鎌田純一、『平成大禮要話』p.180
  60. ^ 金子勝『日本国憲法の原理と「国家改造構想」』1994年
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  69. ^ 私費で賄う大嘗祭、秋篠宮さま自ら提案 既存の神殿活用”. 朝日新聞デジタル (2018年12月25日). 2019年1月29日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集