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遠藤誠一

日本の元死刑囚

遠藤 誠一(えんどう せいいち、1960年6月5日 - 2018年7月6日)は元オウム真理教幹部。元死刑囚北海道札幌市出身。ホーリーネームジーヴァカ。教団内でのステージは正悟師で、1994年6月に教団に省庁制が採用されてからは厚生省大臣になり、後に厚生省を二分して生物兵器担当の第一厚生省大臣となった(化学兵器担当の第二厚生省大臣は土谷正実[1]松本サリン事件において実行犯、地下鉄サリン事件においてサリン生成の責任者を務めたとして死刑が下された。

遠藤 誠一
誕生 (1960-06-05) 1960年6月5日
北海道札幌市
死没 (2018-07-06) 2018年7月6日(58歳没)
日本の旗 日本東京都葛飾区小菅東京拘置所
ホーリーネーム ジーヴァカ
ステージ 正悟師長
教団での役職 第一厚生省大臣
入信 1987年3月
関係した事件 松本サリン事件
地下鉄サリン事件
判決 死刑(執行済み)
現在の活動 死亡(刑死)

目次

来歴編集

少年期編集

1960年6月5日北海道札幌市にて生まれる。父は室内装飾会社の役員、母は世界救世教の信者で、姉が一人いた。キリスト教系の幼稚園に通っていたこともあり幼少期から宗教に触れる機会が多かった。小学校3・4年生の頃には野球を始め、近所の友人ともよく遊びに行くなど、社交的で活発な子供で、病気もせず健康体であったが、左耳が難聴であることが発覚する。少年時代から動物好きで、父親に対し「世話は僕が一人でする。絶対可愛がるから」と熱心に説得して犬を飼った。中学一年の時は学級代表を務めた。成績は良好で、塾にも通う一方で友人とサッカーなどのスポーツもした[2][3]。高校受験の際は成績的な不足を理由に中学教頭から志望校への断念を促されたにも関わらず、道内トップクラスの進学校である北海道札幌北高等学校に合格した。中学校の卒業文集では二十年後の自分について「たぶん大学でも卒業して司法あるいはマスコミ関連についているだろう」と書き、友人の遠藤評には「皆から好かれる可愛い人です」と書かれていた[4]

高校では体操部に所属。よくスキーにも行った。2年のとき愛犬が病気になり、獣医に治療してもらったことがきっかけで獣医を志す。自分が獣医になったら飼い犬が病気になったときでも自分で診てやれると考え、犬猫専門の病院に勤めようと構想し、動物の病を治し生命を救うことに憧憬の念を抱いた[2]

大学・大学院時代編集

こうして遠藤は夢を叶えるべく帯広畜産大学畜産学部獣医学科に進学する。初めのうちは学生寮に住むが、のちに親しい友人と8畳1間のアパートを借りて共同台所で自炊するつつましい生活を送った[5]。大学2年の時、分子生物学の講義を受け、これこそが究極の学問ではないかと感銘を受けた。これを契機として遺伝子工学の勉強を独自に始め、遺伝子工学の研究室へと配属された。一方その頃、獣医は飼い主の依頼があれば犬猫を毒殺することもあると知り、獣医よりも研究者としての職に惹かれていく。さらに大学1年の3月に父親を肝臓がんで亡くしたこともあり、将来の目標を獣医から遺伝子工学の研究者に変えることを決心した[2]

1986年、同大学院畜産学研究科獣医学専攻修了と同時に獣医師の資格を取得。修士論文は「各種のアデノウイルスDNAの牛腎臓株の核I因子の結合に関する研究」。ウイルス遺伝子複製のときのウイルス中の核タンパク質についての研究で、原文はすべて英語だった[4]京都大学大学院医学研究科博士課程に進学。遺伝子工学、ウイルス学を専攻し、「成人T細胞白血病ウイルス」と当時話題になった「エイズウイルス」の遺伝子解析を行うなどした[2]。母親は「京都大学医学部」の看板と写った写真を近所の人に見せるなど大喜びであった[4]

しかし遺伝子を研究していく中で「遺伝子とは生命の根本であるが、生命の本質ではない」という疑念と、自分の考え方・研究生活への矛盾が浮かび、の存在など精神世界に興味が向かうようになっていった。そして1986年12月、麻原彰晃の著作『超能力秘密の開発法』に出会う。冬休み、帰省のために札幌へ向かう船の中で、遠藤は麻原の著書を読みながら眠ると麻原にエネルギーの注入をされる夢をみた。目が覚めるとそのとき風邪をひいていたはずが、熱が下がったという経験をし、それまで研究していた世界とは別の世界があると認識する。その後さらに神秘体験を重ねて麻原彰晃への興味を深めた遠藤はオウム神仙の会(オウム真理教の前身。当時はヨガサークル)の大阪支部を訪ね、1987年3月、宗教団体という認識は持たずに入信。入信直後、幽体離脱を経験し、さらに宗教的神秘への確信を深めた。これらの神秘体験を経て、遠藤は「生命の本質は遺伝子ではなくであり、それは仏教でいう『真我』である」と悟るにつれて、遺伝子工学がもたらすような科学的世界像より魂を本質とした超理性的な世界像を優先するようになった。こうして超能力神秘体験などは全く信じない理系の人間だったはずの遠藤はオウムの思想体系に傾倒していく[2]

1988年に麻原が出版した著書『マハーヤーナ・スートラ 大乗ヨーガ経典』の広告では、推薦文を寄せた読者の一人として写真とメッセージが掲載されている(肩書きは「京都大学大学院生」)。その中で遠藤は、「一切のものは原因と結果の連続に過ぎない」という麻原の言葉に、長く心を縛り付けていた重荷から解放されるような安らぎを感じ、ここまで真理を公開した麻原に何とか報いなければならないような気がしたと述べている[6]

当時から教団は高学歴理系信者を獲得することに腐心しており、遠藤もそのために麻原から目をつけられた学生のうちの一人だった。坂本堤弁護士一家殺害事件のきっかけの一つになった「愛のイニシエーション」で麻原彰晃DNAの効果の是非(すなわち疑似科学)が話題になったが、これは以前からこの構想を練っていた麻原が、当時京大院生だった遠藤に対し「血液の培養はできないか」と問いかけ、遠藤が「(血液自体はできないが)血液を抜くことでリンパ球からDNAを取り出して増やすことができる」旨を答えると、麻原は遠藤にその通り「愛のイニシエーション」の開発を命じたという背景がある。遠藤は教団が所有していた大阪のマンションにて麻原の血を抜き、それを京大の研究室へ持ち帰って、指導教授や他の研究員に隠れて一人で麻原のリンパ球の培養を始めた。そして麻原は遠藤に対し、出家したら専用の研究室を与えることを約束し、出家を迫った[5]

遠藤は出家に対してかなりの躊躇があったが麻原や出家信者からの強い勧めに押され、1988年11月9日オウム真理教に出家した[2]。このとき大学院はひとまず休学の形にし、後ろめたさからか家族には「インドに修行に行く」と書いた手紙を送った[4]

帯広畜産大学在学中の1980年朝日放送プロポーズ大作戦」の人気コーナー「フィーリングカップル5vs5」に学生選択チームの一員として出演し、柏原芳恵とカップルになっていた[7]。なお同級生によると遠藤は斉藤由貴が好きとのこと[3]。京大時代は小柄な体格から「帯広のぼくちゃん」と呼ばれた[5]

出家後編集

ヴァジラヤーナ以前 − 地位確立編集

出家後は教団でのバイオテクノロジーの応用研究を一任され、教団を「科学」のベールで飾り立てる重臣の一人として扱われた。初期における主な仕事はCMIでのイニシエーション(秘儀伝授・修行の意)の開発とAFIでの食料品開発で、教団の布施獲得による収益基盤の強化に大きく貢献した。遠藤は出家後、約束通りサティアンビルの一角に専用の研究室を与えられ、後には専用の研究棟「ジーヴァカ棟(ジーヴァカ邸・CMI棟)」までもを設けた[5]

出家直後は石井久子村井秀夫を直属の上司としてCMI(コスミック・メディカル・インスティチュート)の実質的な責任者となる。CMIでは主に「シークレット・イニシエーション」や、先述の「愛のイニシエーション」などのバイオテクニック関係のイニシエーション開発を行った[8]

「愛のイニシエーション」については、出家後、遠藤は麻原に与えられた自身の研究室にて出家前に培養した麻原のリンパ球からDNAを取り出し、それを麻原の大腸菌に入れることでDNAを増殖させた。こうして遠藤が増殖させたDNAを麻原自身が飲み、遠藤に対し「エネルギーが上がった。コーザル世界やアストラル世界の浄化がおきる」と告げるが、そのとき遠藤は「何故自分のDNAを飲んでエネルギーが上がるのだろう(自分自身のだから変化はないはず)」と疑問に思い、データを取りたい旨を麻原に申し出ると、麻原は自分が言うんだから間違いないとこれをはね退けて、遠藤はやむなく引き下がった。このとき『神通力 麻原彰晃は見せた!』で「京大医学部で調べたら尊師のDNAに秘密があることが分かった」と書かれ、それをオウム真理教被害者対策弁護団が京大医学部側に「照会書」として送るが、もちろん当時の京大医学部長はこれを否定した。遠藤自身も教団の出版部門の責任者に対し「自分が個人的に培養しただけなのにこれでは京大医学部が正式に研究したことになってしまう」と抗議したが、結局遠藤はうまく言い包められてしまったという[5]

また教団内部の食料等を統括するAFI(アストラル・フード・インスティチュート)の責任者をも務め、ここでは健康食品・「アストラル丹」・「ソーマ」・「サットヴァレモン」などを製造・販売し、教団の食料関係の資金稼ぎに貢献した[9]。教団の刊行物である『えんじょい・はぴねす』では石井久子中川智正とともにクッキングコーナー「健康を食べよう!」の調理実修を担当した(監修は麻原)。

他にも(獣医であるにも関わらず)麻原の主治医を務め、さらには菊地直子がいた陸上競技部 のコーチをも兼任した。当時の陸上部員によると、遠藤はコーチとしても上司としても怖く厳しい存在であったが部員と二人きりの場面では女言葉を使うこともあったとのこと[10][11]

こうして遠藤は様々な職責を担うことで教団内で高い地位に昇りつめ、麻原の寵愛をものにしていく。その象徴として、遠藤は麻原の4女・松本聡香許婚とされ、将来的に麻原の義理の息子となることを確約される栄誉にあずかった。1989年、遠藤が麻原の妻・松本知子の出産に立ち会い4女を取り上げた。遠藤は寝ている4女の様子を見に行った際、4女の体から青い光が出て、自身のアナハタチャクラ(胸のあたり)に入ってくる神秘体験をし、4女に対し「恋心のようなもの」を抱いたという[12]。4女は遠藤について「負けず嫌いでとても子供っぽい人」と評しており、それを示すエピソードとして、遠藤が4女とトランプをする際は自身が勝つまでやり続けたこと、4女の歯を糸で抜くのに2回も失敗し、逃げる4女を追いかけて最終的にペンチで抜いたことなどを挙げた[13]。遠藤は逮捕された時「最後にもう一度、さとちゃんとババ抜きがしたかったよ」と語ったともされる[13]。他にも、麻原一家とともに麻原3女・松本麗華が通う幼稚園の運動会の応援に行き、3女と一緒に走ったりなど、麻原一家との交流は多かった[14]

1989年11月に「大師」の称号と、古代インドで名医・医王と尊称された、釈迦牟尼の医師の名に因むホーリーネーム(祝福名)「ジーヴァカ」を得る。

1990年2月、第39回衆議院議員総選挙真理党の候補者として旧千葉4区から出馬し落選。これによって息子のオウム入信を知った母は、近所の人に「息子は勘当した」と話した[4]

ヴァジラヤーナ以降 − 名声失墜編集

上の選挙戦では党首・麻原、出馬した24人の弟子全員が落選。真理党は惨敗した。「真理党の政権獲得による祭政一致国家の樹立」という大願を正攻法では叶えられないと思い知った麻原は、教団進出のためなら人殺しも厭わない旨の殺人教義・ヴァジラヤーナを打ち立てて、教団武装化を目した[15]。今まで主にイニシエーション・食品開発を担ってきた遠藤だったが、この方針転換によって大量殺戮のための生物兵器開発――主にボツリヌス菌炭疽菌ペスト菌の培養を指示されるようになっていった。しかし遠藤はこれら全ての培養に失敗し、結局生物兵器開発の点で麻原の期待に応えることはできなかった(それも遠藤がウイルスの研究者であって、細菌学については門外漢であったためだとされる[16]。出家前の遠藤は大腸菌の培養しか経験がなかった[17])。イニシエーション・食品開発による布施獲得の点で多大な貢献を果たし、着実に教団内での地位を築き上げてきた遠藤だったが、培養失敗を重ねたことで(教団が生物兵器開発に大量の人員と資金を投入していたこともあり)麻原の信頼を失ってしまう。一方、生物兵器開発が無理だと悟った麻原は、化学兵器に期待を寄せるようになる。そこで村井土谷を通じて生まれたアイデアが毒ガス「サリン」の製造であった。

1993年、まだ出家したての信者である元理系大学院生の土谷正実(教団においてサリンの製法を確立したとして死刑)がサリンの合成を成功させたと知ると、遠藤は土谷を部下にしたいと考えるようになる。すると遠藤は当時土谷の直属の上司だった中川智正に対し「何か困ったことはないか」と聞き、中川がないと答えると「君は僕が入るのが嫌なのか」と因縁をつけ、中川を化学のワークから外すための根回しを始めた。1994年、中川に「はっきり言って出ていってほしい」と告げ、中川を研究施設から強引に追い出し、土谷を自身の部下にした[18]。その後、遠藤は土谷とともに違法薬物である幻覚剤LSDの合成を成功させた。のちに口も聞かない間柄になる二人だが、中川によると「この頃の二人は仲が良かった」とのこと[19]

土谷正実が出家した背景として、遠藤の生物兵器開発が失敗を重ねたことで化学兵器に目をつけた麻原が、化学の知識を有する土谷を欲しがり、強引に土谷を出家させたということがある。これは「遠藤が無能なせいで教団の悪事に加担させられた」として土谷が遠藤に恨みを募らせる遠因となった(土谷正実#遠藤誠一との対立も参照)。

1994年6月に省庁制が発足すると、CMI・AFIの責任者であった遠藤は厚生省大臣、土谷は厚生省次官となった。その後、遠藤は土谷に対するそれまでの態度を一変させ、高圧的に振る舞うようになり、さらには「僕の許可なく尊師と直接会ってはダメだからな。今後はすべて僕に報告するようにしてくれ。僕が尊師に上げるから」と申し向け、土谷と麻原の接触を絶つなどした。土谷の化学兵器に対して自身の生物兵器がことごとく失敗していったことから、功名心の強い遠藤は土谷に対して激しい嫉妬をぶつけ、さらには部下に八つ当たりを起こすようになる[20]。遠藤は機嫌が悪いと部下に物を投げつけたり、口汚く罵ったりすることから畏怖嫌厭され、教団内で孤立していき、土谷との関係は修復不可能なものになっていった[8]。土谷はのちに遠藤が極めて嫉妬深く、他人の手柄を独り占めにしたり、他人を陥れる言動は平気な人物であったと振り返った[21]

こうした手段を選ばない貪欲な振る舞いの甲斐あってか、遠藤は1994年7月に教団内における「尊師」、「正大師」に次ぐ位である「正悟師」の称号を得る。

1994年12月6日、遠藤と土谷の不仲が原因で厚生省を二分し、遠藤が生物のワークを、土谷が化学のワークを担当することが決まった。麻原、 村井秀夫早川紀代秀、土谷の四人で、土谷が新たに責任者となる省庁名について話し合いが行われ、麻原の提案により「究聖科院」に決まるが、その後、遠藤による麻原への直訴で「究聖科院」は「第二厚生省」に、遠藤が統括する「厚生省」は「第一厚生省」に名称変更され、しかも「第一厚生省大臣」である遠藤が土谷が責任者であるはずの第二厚生省のメンバーに土谷の了解なくワークの指示を出したりするなど、「第二厚生省」は実質「第一厚生省」の下請けとして扱われることになり、名実ともに土谷(と土谷の部下)は遠藤の配下に置かれることとなった。このような二人の確執の一因について、麻原がわざと二人の対抗心を煽り、競わせることで教団の兵器開発を促していたのではないかという見方もある[22]。(遠藤の研究施設であるジーヴァカ棟が土谷の研究棟に隣接するよう建設されたことなどからもその思惑が伺える[11]。)

このように、ひとつ遠藤を象徴する性向に「功名心」がある。前述のとおり教団には出家信者の地位が麻原の定めたいくつかのステージに細分化されたピラミッド型の階級制度が存在していた。そのステージとは、建前上は修行の進度とされていたが、結局そのステージの昇降自体が麻原の掌中にあったので、出家信者達は階級的な特権に浴するためにも麻原の意を汲んで行動し、麻原に取り入ってその歓心を買うなどして自己のステージを昇格させることに腐心した。教団幹部の中でも特に出世欲が強かった遠藤は、このような背景事情の下、麻原の企てる違法行為に足を踏み入れていった。

事件への関与編集

松本サリン事件滝本弁護士サリン襲撃事件駐車場経営者VX襲撃事件池田大作サリン襲撃未遂事件の実行犯、地下鉄サリン事件サリン製造係として事件に関わった他、生物兵器培養、化学兵器製造、違法薬物製造などを行った。

生物兵器の培養編集

遠藤は第10サティアンに隣接したプレハブ建物・ジーヴァカ棟(CMI棟)を研究施設として与えられ、ボツリヌス菌炭疽菌ペスト菌などの細菌兵器の培養を行うなど、教団の生物兵器の全権を握っていた。

麻原らが首都圏各地にこれらの菌を撒いたが、いずれも効果は無かった(亀戸異臭事件オウム真理教の国家転覆計画も参照)。またオウム真理教被害者対策弁護団の中心人物滝本太郎弁護士の毒殺をねらって脱会交渉の場でボツリヌス菌を塗布したコップでジュースを飲ませたが、ボツリヌス菌が培養出来ていなかったためこれも健康被害はなかった。地下鉄サリン事件直前には霞ケ関駅でボツリヌストキシン散布を試みたが失敗した[23]

まずボツリヌス菌によるテロの着想は、1989年の4月に麻原の4女・松本聡香が生まれた際に、出産に立ち会った遠藤が麻原に対し「蜂蜜にはボツリヌス菌が含まれるので乳児に与えないように」と進言したことにあった。これによりボツリヌス菌に興味を抱いた麻原は、遠藤からボツリヌス菌が世界最強の毒である旨を聞かされ、のちに選挙戦大敗による教団武装化を企てた際に、これを思い出した麻原が遠藤にボツリヌス菌の大量培養を命じた。その後、遠藤は早川紀代秀新実智光らとともに北海道の奥尻島石狩川の流域へ行き、ボツリヌス菌が含まれる土を採取した。持ち帰った土のサンプルを取り、各部分を培養してボツリヌス菌を増殖させ、それをマウスの尻尾に静脈注射することで毒性を調べたが、マウスは死ぬことも生存することもあった。ベンチ規模・プラント規模で何度も培養を試みるが、結局生物兵器としてのボツリヌス菌大量培養は失敗に終わった[16]

次に遠藤は生物兵器として名高い炭疽菌の培養にも着手した。炭疽菌には多くの菌種があるが、遠藤はまず無害の菌種を採用し、それを遺伝子工学の手法で毒性を持つ有害菌種に変換しようとしたが失敗。他にも遠藤はフグ毒などの海産毒も調査をしていたが、資料不足のため断念。遠藤の生物兵器開発に教団は大量の人員と資金を投入していたが、遠藤がこれらの失敗を重ねたために麻原は遠藤への信頼を失くし、その後、麻原、村井秀夫新実智光上祐史浩ら男性幹部の会議により、失敗続きの生物兵器より経済効率も良い化学兵器を中心に開発する方針が定まり[24]、遠藤に当てられていた「科学者」としてのスポットライトは化学兵器担当の土谷に注がれるようになった。結局遠藤の培養した生物兵器によるテロは一度も成功していない。

オウム出版「日出づる国、災い近し」に「北海道大学医学部卒の聖者ジーヴァカ正悟師」として登場、ハルマゲドン時に使われるであろう新しい生物兵器と、その生物兵器への対策や治療方法について意見を述べている[25]。なお遠藤は北海道大学卒ではないが、大学名を詐称したのか、編集ミスなのかは不明。土谷は遠藤から北海道大学出身だと聞かされ信じこんでいたという[26]

非合法薬物・サリンの製造編集

イニシエーションに使用するLSD覚醒剤メスカリンチオペンタールナトリウムなどの違法薬物の製造においても土谷正実中川智正とともに中心的人物であった。さらに、地下鉄サリン事件では中川とともにサリンを製造した。

しかしサリンについては、実際に遠藤が主体となって製造したのは地下鉄サリン事件のサリンが最初で最後であり、それ以前の滝本弁護士サリン襲撃事件池田大作サリン襲撃未遂事件松本サリン事件では遠藤は製造役でなく実行犯を務めた。これらの事件で使われたサリンはいずれも土谷・中川が製造・関与している。

サリンVXの製造が土谷が主導をとり、遠藤は補助的な役割であったのに対し、チオペンタールナトリウムは遠藤が主体となって製造した。遠藤は強力な麻酔剤であるチオペンタールが潜在意識を表に出させる効果を持つことをオランダの文献で知り、それを自白剤として応用できないかと考えた。遠藤が製造し、土谷が量産したチオペンタールは教団でのスパイチェック、 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で自白剤として作われた[16]。「キリストのイニシエーション」などで使われた幻覚剤LSDは土谷がプロトコルを作成し、遠藤が大量培養した。LSDの合成には生化学的な知識を持った遠藤の力が必要であったという[16]

さらに村井秀夫から土谷・中川とともに原爆製造ワークを命じられることもあった[27]

松本サリン事件への関与編集

松本サリン事件において、遠藤は長野県松本市内にサリンを撒くことについて当初の謀議から関与し、中川とともに現場周辺を下見した上、犯行に使用する長野県松本ナンバーのワゴン車をレンタカー社より自身の名義で借り入れ、犯行当日は(共犯者が被曝した場合に備えて)医療役の一員として犯行現場まで同行した。その際に使用したワゴン車が犯行現場で接触事故を起こし、借りた車体に傷をつけてしまったことから、犯行後には松本市内で故意に接触事故おこして警察より交通事故証明書を受け取るなど、罪証隠滅工作を行った[28]

地下鉄サリン事件への関与編集

教団は強制捜査を実施しようとする警察の目先を変えさせるために、地下鉄にサリンを撒くことを計画。3月17日、麻原から「サリン作れるか」と尋ねられ、遠藤はそれまでサリンの製造については経験がなかったが、土谷の助手だった森脇佳子・佐々木香世子も土谷の指導のもとでは製造できていたことから、自分にもできると踏んで「条件が整えば出来ると思います」と答えた。その後、地下鉄サリン事件の総指揮を任された村井秀夫より、遠藤は中川智正とともに散布のためのサリンを製造することを指示される[16]

中川からサリンの原材料・メチルホスホン酸ジフロライド(以下ジフロ)を渡され、ジフロからサリンを生成することを伝えられるが、松本サリン事件でサリンの殺傷力を知悉していた遠藤はサリン生成に関わりたくない気持ちが強くなった。そこで土谷の元へ行き、ジフロの容器を渡して分析を依頼し、さらにサリンの生成につき「君の所でやってくれるんだろう」と尋ねたが、土谷は自身の研究棟にあったスーパーハウス(実験者が有毒ガスを吸わないで済むドラフトの装置を設置したプレハブ小屋)が既に撤去されており、残されたドラフトも排気能力が弱くてサリンを生成するには危険であったことなどから、これを断った。結局遠藤はジーヴァカ棟内のドラフトが設置された部屋(ドラフトルーム)においてジフロからサリンを生成することとなり、土谷の助言を得てサリンの生成方法を決定した。こうして遠藤は土谷の指導のもと同月19日に中川とともにサリン5,6リットルを生成。このとき遠藤は土谷に対し「東京に行かないように第二厚生省のメンバーに伝えてくれ」「国会図書館とか、地下鉄を使うような所とかね」と零したとされる(これが後に遠藤が生成したサリンの用途について認識していたことの裏付けとなった[28])。遠藤は完成したサリンをナイロン袋に注入して二重袋にした上で村井に引き渡し、サリン散布役らが予行練習に使用する水入りナイロン袋を製作して、これも提供した。さらに実行犯らに対してサリン中毒の予防薬を渡すなど、主に地下鉄サリン事件の最終準備作業に関与した。これらの工程を終えた遠藤はジーヴァカ棟にて仮眠をとる。翌20日の早朝、第6サティアンの3階にある自室に戻り、同日昼過ぎ、東京の地下鉄にサリンが撒かれたことを知った[28][29]

逮捕・裁判編集

逃走・逮捕編集

強制捜査にそなえて証拠隠滅工作を行った後、逃走資金3,000万円を持って信者9名と九州方面に逃亡[28]、温泉街で豪遊する[11]。その後、村井秀夫の指示で上九一色村の教団施設に戻り、違法薬物等を隠匿した[28]。第2サティアンの地下2階の隠し部屋に土谷正実らとともに潜伏し、4月26日16時27分に瞑想しているところを土谷とともに逮捕された。逮捕時、捜査状況をメモした大学ノート、名刺、現金120万円、PSI等を持っていた[28]松本サリン事件実行犯地下鉄サリン事件共同正犯駐車場経営者VX襲撃事件 などで殺人及び殺人未遂などの罪で起訴された。5月15日、「グル(麻原)が末期がんで死にそう」といって、麻原が第6サティアンの隠し部屋にいることを自供した[30]

初公判から第4回公判まで編集

取り調べや裁判初期の段階では非常に反省している様子で罪も認め、オウムの疑似科学に協力したことを悔いていた[28][31]。そして1995年11月に悩んだ末教団を脱会。このとき遠藤は取調官に対し「何をやらせても自分は失敗ばかり。二流の研究者だった」と話したという[8]1995年11月の初公判では「真実を歪めず、全部を話したい」との意向を示す。裁判初期段階における遠藤の印象について、オウム事件の裁判を傍聴し続けた降幡賢一は「真相解明の鍵をこの被告(遠藤)が握っているかのように錯覚した」と述懐している[8]

第5回公判以降編集

しかし1996年6月に弁護人を解任すると遠藤はこれまでの真摯な姿勢を豹変させる。初公判では被告人席にいるときでも背筋を伸ばし、証言台への出入りの度にお辞儀をするなど慇懃な態度を示していたはずなのに、第5回公判以降は座ったまま話をし、背を反らしたり足を組んだり、証言中に何度も笑うなど横柄な態度を露わにした[32]。第5回公判で「当時サリンの使用目的は知らなかった。これまでに認めた事実は前の弁護人が勝手にやったことだから全て白紙に戻したい」と覆し、無罪を主張し始めたのを皮切りとして[5]、次第に「サリンの危険性を認識していなかった」・「自分は従属的な立場であって、ボツリヌス菌炭疽菌を提案したのは中川、サリン製造の中心人物は土谷と中川」・「アーナンダウパーリマハーカッサパなどに比べてジーヴァカなんて大したホーリーネームではなく教祖に信頼されていたわけではない」等[33]、自己の役割を矮小化する証言を重ねるようになり[34]、加えて「まさか(サリンが)東京の地下鉄に撒かれるとは思っていなかった」と強調し始めた。「遠藤はサリン製造に積極的だった」とする他の共犯者の証言に対しては、「私への不快感、悪意を感じる」と否定し、他の共犯者たちが自分にとって不利な証言をすると「嘘だ」「作り話だ」などと言い立てて、自己弁護に終始することでかつての同僚たちとの間に軋轢を生み、遠藤は法廷でも孤独を深めていった[35]

さらには取り調べでの警察官らの言動から、自分は死刑になるのではと慄いたが、捜査官の言いなりになれば死刑は避けられると考え、そのつもりで取り調べに応じたと言い張り、捜査官に従って上申書を書き上げた自分にも林郁夫地下鉄サリン事件の実行犯の一人)同様自首が成立すると主張[36]。また麻原の隠し部屋を自供したにも関わらず「(麻原が逮捕されて)非常に悲しかった」と証言した[37]。土谷からは「嘘付き」「村井と遠藤がいたから教団が崩壊した」と批判されている[38][39]。このように法廷での遠藤の振る舞いは教団時代と変わらない悪辣なものだった。

一方で、遠藤は自身が関わった地下鉄サリン事件松本サリン事件の被害者の各遺族のほか、駐車場経営者VX襲撃事件 の被害者に対し謝罪の手紙を出し、共犯者らの法廷に証人として出廷した際に受け取った日当の積立金から50万円をサリン事件等共助基金事務局に贖罪寄付したりなど反省の姿勢は崩さなかった[28]。さらに許婚とされていた麻原4女へ宛てた手紙には「事件と殺人は全く肯定していない」と記している[35]

1999年3月1日に行われた土谷正実の第61回公判、同年5月18日の第64回公判等、土谷の公判で遠藤が証人として出廷した際は、土谷は遠藤に対し積年の怨みを晴らすが如く、証人尋問として「遠藤弾劾」を掲げ遠藤への逆襲を図った。それは遠藤の化学知識の狭隘さを暴くようなものから教団内での振る舞いに対する質問に至るまで――「あなたは出家生活で偽りの述べない生活をしていたのでしょうか」と問いただし、これらに対し遠藤は徹底して「証言を拒絶します」と繰り返した。教団時代から口も聞かないほど険悪な二人であったが、法廷においても事あるごとに衝突し、罪のなすりつけ、名指しでの非難、煽り合い等を経て両者の軋轢は怨念に近い形まで熾烈を極めていった[40][41]

2001年2月2日の第79回公判には証人としてかつての師・麻原が出廷。しかし麻原は宣誓を拒否して無言を貫き、わずか8分で退廷した。見苦しい教祖の姿を前にしても遠藤は動揺しなかった[42]。このとき裁判を傍聴していた法廷画家は麻原に対し「性格の悪さは言い尽くせない」と非難するとともに、遠藤の外見については「少年のような初々しさ」と形容し、「写真から想像した骨太さが全くなく、小柄な少年の面影を残す」と描写した[43]

弁護士解任を節目とした法廷での遠藤の豹変ぶりはまるで彼の出家前後の様変わりを体現しているようだった。すなわち愛犬の病気をきっかけとして叶えた獣医師の姿あるいは父親の死より志した医学者の卵の姿から、大量殺戮計画に携わった殺人科学者への変貌。しかし法廷画家が描いた被告人・遠藤の出で立ちとは、彼が院生時代に「帯広のぼくちゃん」と呼ばれた面影をそのままにしていたのだった。

死刑求刑から確定まで編集

2002年2月12日検察側より死刑が求刑される。その最大の理由として挙げられたのは「松本サリン事件で多数の死傷者が出たことを知りながら、地下鉄サリン事件ではサリン生成の責任者を務めた」という点だった。検察側論告においては(1)「自らの意思で積極的に教団の違法行為に関与してきたこと」・(2)「一連の犯行の動機は教団内での昇進にあり、情状酌量の余地がまったくないこと」・(3)「公判において虚偽の否認を続けたこと」が死刑求刑の要旨とされた[44]

「責任逃れは浅ましい限り[44]」とまで言われた遠藤の自己保身的な言動は、身寄りのない彼が死刑囚というさらに孤独な境遇に人一倍怯えていたからではないかと推察された[35]。実際、麻原4女との手紙の中で遠藤は迫り来る死と孤独に対して心の支えになる人がほとんどいないと述べている。しかし同時に、一種の悟りを得て自分は安らぎの中に生きているとも記していたが、4女が実際に面会したときの彼は幸せそうには見えなかったとのことであった。また、面会で4女が「どうして私が好きなの?」と尋ねると遠藤は「さとちゃんが平和主義だからだよ」と答えたという[13]

2002年5月8日の最終弁論では「裁判官と検察官、弁護人には長い裁判をしていただき、お礼を申し上げます」と述べ、事件の被害者や遺族への謝罪をすると、次に「誤解される可能性のある事柄(事件における自己の役割等)」について細やかな注釈を事務的に読み上げ、ついぞ心の動揺を見せることがなく、自己弁護を貫いた[45]

2002年10月11日の第一審で死刑判決が下された。思惑通り死刑は免れると考えていた遠藤は「死刑」の宣告を受けると青ざめた顔で弁護人を振り返った[46]

2007年5月31日控訴審も一審に続き死刑。ここでは「尊師に帰依している」「死刑になるのは自分たち12人の弟子だけでいい。尊師は未来仏なので、執行しないでください」と述べるなど、揺れ動いた。2011年11月21日、上告審である最高裁第1小法廷において上告棄却。同年12月12日に判決訂正申し立ての棄却決定、死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは13人目。この判決をもって、当時特別指名手配中であった被疑者3名(平田信菊地直子高橋克也。この3人はその後逮捕)を除く、オウム真理教事件で起訴された被告人全員の公判が終結した。

晩年(死刑執行まで)編集

死刑確定後も事件については語りたがらず、土谷や中川は応じた新アメリカ安全保障センターインタビュー要請も拒否しており、遠藤が仕切っていたオウムの生物兵器計画には不明点が多い[23]。これは獄中の中川智正によると「遠藤は死刑が確定している以上、話したところで死刑から逃れられるわけでもなく、何も得することがないために誰にも話さないと決めている」とのことである[16](ただし自分に関して言及された講演内容など外部の情報は逐一チェックしていたのこと。アンソニー・トゥー博士は遠藤から『中川と土谷の話すことは嘘だから信じるな』という旨の伝言を受け取ったこともある)。

公安調査庁は遠藤を「獄中信者」と見なしながらも信仰心は揺らいでいると睨んでいた[47]

これを裏付けるように、遠藤が死刑判決を受ける直前に4女へ宛てた手紙では以下のように麻原と自身の信心に対する複雑な心境を告白している。

「事件は肯定できない以上、尊師を否定するかどうか悩みました。結論として、理屈では割り切れない何かがあるのだろうから、とにかく私は理屈抜きで尊師を信じることにしたのです。(教団を信じるという意味ではありません。)」

「私は尊師に帰依はしていますが、アレフには所属していません」

また、この手紙の結びでは「あなたを守ってあげられるのは尊師と私しかいません。過去世、そして今生、多くの恩恵を与えていただき、ありがとうございます。今生の今後も、そして来世もわたしをずっと愛し続けてください。今は単に選択肢が違うだけです。また会える日が来ることを信じています。」と、許婚だった4女への想いが依然消えていないことを綴った[35]

晩年は東京拘置所収監され、再審請求を行った[48]。東京拘置所関係者によると、上野動物園のパンダの出産を新聞のニュースで知った際に「わあー生まれたんだー」と満面の笑みをこぼしたという[49]

2018年7月6日に死刑が執行された[50]。58歳没。遺体は脱会したはずのアレフ・新保木間施設(東京都足立区)へ搬送された後[51]、埼玉県内で火葬された[52]。その際、遺体にはオウムの宗教服であるワインレッドの「クルタ」が着せられ、遠藤は事件前と同じ階級である「正悟師」の僧形で葬送された[53]。その後アレフでは万病を治癒する仏・薬師如来として祀られている[54]

脚注編集

  1. ^ メディアは終始厚生省大臣と呼んでいた(土谷を「化学班キャップ」と称したため)。
  2. ^ a b c d e f 降幡賢一『オウム法廷12』 p.43-48
  3. ^ a b 「終末の教団(8)」 読売新聞 1995年5月25日
  4. ^ a b c d e 毎日新聞社会部『冥い祈り 麻原彰晃と使徒たち』 p.136-138
  5. ^ a b c d e f 佐々木隆三『大義なきテロリスト』p.344-361
  6. ^ カナリヤの詩85号カナリヤの会
  7. ^ 1995年 女性セブン
  8. ^ a b c d 降幡賢一『オウム法廷(上)』 p.212-220
  9. ^ 林郁夫『オウムと私』 p.236
  10. ^ 青沼陽一郎『オウム裁判傍笑記』 p.205
  11. ^ a b c 週刊朝日増刊『「オウム全記録」』 p.37
  12. ^ 麻原の四女が語ったオウム真理教・地下鉄サリン事件の裏にあった一つの事実 ダ・ヴィンチニュース
  13. ^ a b c 松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』 p.188-192
  14. ^ 松本麗華『止まった時計』 p.46-47
  15. ^ 平成7合(わ)141 殺人等 平成16年2月27日 東京地方裁判所
  16. ^ a b c d e f アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚中川智正との対話』p.59-79
  17. ^ アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚中川智正との対話』p.68
  18. ^ NHKスペシャル取材班『未解決事件 オウム真理教秘録』p.275
  19. ^ アンソニー・トゥー『サリン事件死刑囚中川智正との対話』p.137
  20. ^ 降幡賢一『オウム法廷 グルのしもべたち上』 p.214
  21. ^ 降幡賢一『オウム法廷13』p.378
  22. ^ 降幡賢一『オウム法廷13』p.379-383
  23. ^ a b Richard Danzig・Zachary M. Hosfordほか(2012)「オウム真理教:洞察-テロリスト達はいかにして生物・化学兵器を開発したか(日本語版)」新アメリカ安全保障センター p.28-39
  24. ^ 上祐史浩『オウム事件 17年目の告白』 p.102
  25. ^ オウム『日出づる国、災い近し ―麻原彰晃、戦慄の予言』 p.199-p.200 1995年刊行
  26. ^ 降幡賢一『オウム法廷13』 p.28
  27. ^ 『オウム法廷11』 p.157
  28. ^ a b c d e f g h 平成7合(わ)148 殺人,同未遂,犯人蔵匿被告事件 平成14年10月11日 東京地方裁判所
  29. ^ 降幡賢一『オウム法廷13』p.50-58
  30. ^ “地下鉄サリン:事件から20年 教祖逮捕、緊迫の4時間”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2015年3月20日). オリジナル2015年3月20日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150320091136/http://mainichi.jp/select/news/20150320k0000m040169000c.html 
  31. ^ 佐木隆三『大義なきテロリスト』 p.355
  32. ^ 江川紹子『「オウム真理教」裁判傍聴記1』 p.131
  33. ^ 降幡賢一『オウム法廷12』 p.215
  34. ^ 降旗賢一『オウム法廷12』 p.58,215-219
  35. ^ a b c d 週刊朝日 2011年12月2日号 オウム真理教裁判終結 スクープ 独占入手 便箋45枚! 遠藤被告が麻原四女に宛てた恋文
  36. ^ 降旗賢一『オウム法廷12』 p.42
  37. ^ 降幡賢一『オウム法廷12』 p,291
  38. ^ AUM13(土谷の好きな漫画ゴルゴ13のパロディ) サリン事件の詳細な実態、および事件の謎/サリン事件にまつわる各種資料/土谷正実2003年9月18日上申書 オウム裁判対策協議会
  39. ^ 降幡賢一『オウム法廷13』 p.223
  40. ^ 降旗賢一『オウム法廷8』 p.225-228
  41. ^ 降旗賢一『オウム法廷8』 p.272
  42. ^ 降旗賢一『オウム法廷12』 p.214
  43. ^ 大橋伸一『法廷絵師は見た!』p.170-171
  44. ^ a b 降幡賢一『オウム法廷12』 p.295-311
  45. ^ 降幡賢一『オウム法廷12』 p.333-344
  46. ^ 降幡賢一『オウム法廷12』 p.367
  47. ^ “遺体の引き渡し先にアレフを指定 遠藤元死刑囚が執行前に- FNNプライムオンライン” (日本語). FNNプライムオンライン. https://this.kiji.is/389982967973692513 2018年7月12日閲覧。 
  48. ^ 死刑執行、本格検討へ=松本死刑囚ら13人、再審請求も 時事通信社 2018/01/19-19:13
  49. ^ 週刊新潮2014年4月24日号「オウム死刑囚」13人の拘置所ライフ
  50. ^ “オウム土谷、遠藤、中川、早川4死刑囚の刑も執行”. 中日新聞. (2018年7月6日). http://www.chunichi.co.jp/s/article/2018070690101304.html 2018年7月6日閲覧。 
  51. ^ INC., SANKEI DIGITAL (2018年7月7日). “【オウム死刑執行】遠藤元死刑囚の遺体搬送 東京拘置所” (日本語). 産経ニュース. https://www.sankei.com/affairs/news/180707/afr1807070019-n1.html 2018年7月9日閲覧。 
  52. ^ “オウム:6日死刑執行の元幹部、執行直前は謝罪の言葉 - 毎日新聞” (日本語). 毎日新聞. https://mainichi.jp/articles/20180727/k00/00m/040/019000c 2018年7月26日閲覧。 
  53. ^ “遠藤元死刑囚...教団幹部として火葬 オウム宗教服「クルタ」着て...- FNNプライムオンライン” (日本語). FNNプライムオンライン. https://this.kiji.is/390341573554586721c 2018年9月25日閲覧。 
  54. ^ 2018年8月25日日本脱カルト協会「オウムのすべて」での滝本太郎氏のスピーチより

参考文献編集

  • 降旗賢一『オウム法廷 グルのしもべたち(上)』 朝日新聞社 (1998年2月)
  • 降旗賢一『オウム法廷 (12)』 朝日新聞社 (1998年2月)
  • 降旗賢一『オウム法廷 (13)』 朝日新聞社 (1998年2月)
  • 佐々木隆三『大義なきテロリスト』 日本放送出版協会 (2002年11月)
  • 毎日新聞社会部 『冥い祈り―麻原彰晃と使徒たち』 毎日新聞社 (1995年9月)
  • 松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』徳間書店 (2010年4月)

関連事件編集