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長野県長野西高等学校(ながのけんながのにしこうとうがっこう)は、長野県長野市箱清水にある県立高等学校。公立女学校としては日本で9番目に創立された。女子高から発展した経緯により、男子よりも女子の割合が高い傾向にある。善光寺の裏手に位置する。

長野県長野西高等学校
Nagano-Nishi High School.JPG
国公私立の別 公立学校
設置者 長野県の旗 長野県
設立年月日 1896年
(長野町立長野高等女学校)
共学・別学 男女共学
分校 中条校
課程 全日制課程
通信制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 全日制:普通科国際教養科
通信制:普通科
高校コード 20114G
所在地 380-8530
長野県長野市箱清水3-8-5
北緯36度39分50.9秒東経138度11分0.4秒
外部リンク 公式サイト
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設置課程編集

  • 全日制課程
    • 普通科
    • 国際教養科
  • 通信制課程
    • 普通科

沿革編集

歴史編集

明治編集

1 創立編集

長野県長野西高等学校は、長野県立高等女学校という名前で、明治29年4月10日、長野高等小学校(現在の城山小学校)に開設された。その年の入学生は、本科128名、技芸専修科140名であった。

 創立時の校舎は、現在の城山小学校正面本館の一部教室と、本館右側の校舎及び2階を借用し、教材設備や音楽室・体操室は小学校と兼用で、技芸専修科は後町小学校の教室で授業を行うこともあった。

 高等普通科の学科は、修身国語歴史・地理・数学理科家事裁縫習字図画音楽体操の十二科目で時間総数は、週30時間だった。技芸専修科も週30時間であり、学科は、修身・国語・家事・裁縫の4科目となり、普通科より8科目少なく、裁縫は、全科目の3分の2を占めていた。授業料は、専修科が月30であるのに対し、普通科は1・2年50銭、3・4年70銭と専修科の約二倍だった。休業日は夏休みが30日間、入学資格は高等小学校2年卒業以上とし、各学年の試験は学年末に1回と臨時試験として年3回以上行うこととした。

 女学校開設の初代校長は、長野高等小学校長であった渡辺敏先生である。

 明治30年4月には長野市長野高等女学校と改称した。

2 城山から新校舎へ移転編集

 生徒の増加に伴い、旧来の設備では対応しきれなくなったことから明治35年4月、大峰山のふもとの高台に移転した。8月には雨天体操場が完成し、この秋に「信州の春秋」の舞を始めて新校庭で行った。また、戸隠登山が初めて行われたのもこの年である。明治36年には中校舎が、翌明治37年には寄宿舎が完成し、9月1日から使用を開始した。舎生は72人だった。

寄宿舎について編集

1室に7人ずつ、各室に室長、教室を一組として組長を定め、組を人家族とみなす構成であった。当時の規則を見ると、

『学資金は舎監之を保管し、宿生はは舎内に於して五十銭以上の金銭を所持すべからず』

『生徒に面会せんとする者は、保証人の調印したる添書を持参し舎監の承認を求むべし。』

といったような、厳しいものが多いが、土曜日ごとに行われる土曜会、秋の小布施の栗拾いなどの楽しい行事も少なくなかった。建物は2棟で玄関は東にあり、2階建ての方には上下6室ずつ12畳の舎生室があり、その北の平屋が食堂・炊事場等にあてられていた。

同協会の発足編集

明治36年には同窓会すなわち同協会ができ、明治39年4月には同協会報第一号が出版された。同協会はその後も学校の発展のために、また、地域社会のために有意義な活動を続けて現在に至る。

校友会編集

校友会は、卒業生を中心とした同協会に対して、生徒を中心とした学校生活の組織である。校長が会長となり、教務主任が副会長となって、その他の先生方は主任または委員として、運営の世話に当たった。実際の活動は生徒の代表である部長・副部長が当たり、明治39年より全面的に生徒が主体となって運営されるようになった。

 学芸部に含まれる部として、書画部図書部手芸部修辞部標品部音楽部舞踏部遊戯部の8つがあった。体育部に含まれるものとしては庭球部遠足部・舞踏部・遊戯部があり、舞踏部と遊戯部は両方にかかわりを持っていた。全校生徒はこれらの部に参加して技能内容を高め、その成果を持ち寄って校内大会を開いた。

 ステージ発表では、唱歌、お話、演技保育所の子供によるお話、オルガンヴァイオリンの演奏や先生方の白菊の歌等の鑑賞を行った。

 展示は、図画や作文習字、縫物、編み物刺繍が飾られた。理科標本室には鉱物植物動物のあらゆる方面により集められた海山の知識を込めた標本が配置良く並べられていた。

保育所編集

 渡辺校長の、幼児保育の方法を生徒に教えたいという考えから、明治39年には保育所が創設された。場所は寄宿舎のクラブ室を使い、保母2人、ほかに補習科2年生が毎日交代で3,4人ずつ手伝いをした。生徒は40人ほどであった。小さい机腰掛25脚とベビーオルガン一つという貧弱な設備だったが、当時このような施設が少なかったため、保育効果は大きく上がった。

校章制定編集

 明治39年「梶の葉弦月」が校章として制定された。

3 体育の奨励編集

 渡辺校長は教え子の多くの優秀な教え子が若死した経験から、勉強するにもまず身体を鍛えることが第一と考えていたため、体育が盛んであった。

登山編集

 長野高等女学校の名物であった戸隠登山は明治35年に始まり、以降恒例として毎秋行われた。(大正15年に中止)筒袖着物わらじ白鉢巻といういでたちで、4年生が参加していた。(修学旅行が始まってからは3年生)戸隠山は江戸時代には女子禁制の山であったため、明治に入ってからも女が登るということは、はなはだまれであった。また山の中でも特に「蟻の塔渡り」というところは険所だったため女が登ることに反対も多かったが、大部分の生徒は喜び勇んでこの行事に参加した。

 2泊3日で久山神官の家で宿泊する例だったが、この行事は大正14年まで続けられ30回卒業生まではほとんどすべての生徒がこの行事に参加した。

 高山植物の研究者として有名な2代目校長河野齢蔵先生や岩石地質の優れた研究者であった八木貞助先生など、優れた指導者があったため一層この登山は有意義だった。

 戸隠登山から続き、明治39年には富士登山を行った。これも女学校の集団登山としてはとても早い例であった。同年7月23日出発、8月1日帰長、途中悪天候で吉田に4日も滞在するという長旅で費用は予算8円17銭をだいぶ超えた。当時としては大金である。

庭球編集

 明治の頃、長野高等女学校の運動の中心をなしていたのはテニスだった。グランドにはコートが18もあり、長野高女の十八コートと言って有名であった。明治38年5月に善光寺平の各小学校庭球大会を主催で開き、9校30組の選手が参加し、本校1,2年生もそれに加わった。それから毎年春秋2回ずつ後には秋のみ1回この大会が行われ大正13年まで続いた。

運動会編集

 運動会は市立校のころは長野小学校と合同で後町校庭などで行っていたが、明治42年に県立になるとともに、本校の校庭で独自の運動会をするようになり、その後は恒例行事として毎秋行われた。はじめは校庭が寄宿舎と第三校舎の間に挟まれた狭い部分だった。その後だんだん建物が増え、生徒人員も増加し、運動場が大変狭く感じられるようになったため、大拡張が行われた。

 当時の運動会では「信濃の春秋」という舞を運動会の最後に踊ることが名物となっていた。この舞は紅白のをもって「信濃の春は遅けれど・・・」という歌に合わせて舞う優美なもので、この舞踊は長野中学校長、足立鍬三郎氏の作った歌詞に、明治34年、本校の音楽教師早川喜左衛門先生が作曲、鳥羽松枝先生が振付けし、明治35年、本校が現在地に移転した記念に校庭で演ぜられたのが最初だったようである。

遠足編集

 数ヵ所の目的地を決めて生徒の希望するところへ行かせるという形の遠足が何度か行われた。例えば明治39年10月19日の遠足は関川地震滝(片道徒歩)・野尻湖(同)・松代(往復徒歩)の三ヵ所だった。参加者はそれぞれ85名、193名、26名だった。遭難事件の起こった明治40年秋の遠足もこのやり方だった。この年の10月18日、最遠部飯綱山より霊仙寺山を経て帰校する者90名(職員6名)、中部飯綱山頂より直ちに下山する者111名(職員6名)、最近部飯綱原一の鳥居付近71名(職員4名)という編成で出発した。すでに10月5日、2人の教諭が飯綱・霊仙寺二山に登り下調査をしていたものの、最遠部へ行った組のうちの一部、職員2名生徒16名が帰途に道に迷い、生徒の一人が崖から落ちて重傷を負い人事不省におちいってしまった。そこでまず一番近い民家まで担ぎ下ろし、いったん手当てをしてから同夜11時長野へ移して入院させた。幸い命に別状はなく、翌年1月には完全に恢復して登校できるようになった。校長は翌日全生徒を集めて訓示を行い、

 「たとえ一人の犠牲者を出しても全校生徒の健康のために秋季全校登山の行事は止めるわけには行かない。」

と述べた。しかしこのために校長は県からの譴責を受けた。

修学旅行編集

 本校では創立当初はあまり遠くへは行かなかったようで、補習科2年生が諏訪に行くくらいのところだった。明治42年に3,4年生が直江津へ一泊で行ったのが県外への修学旅行のはじめだった。

 明治44年には第一回の参宮旅行が行われた。この年に中央線が開通し、名古屋方面への旅行が楽になったからである。参宮の日は全員黒紋付の礼服に威儀を正して参拝した。山田から二見浦までは電車で行ったが、ほとんどの生徒は電車というものに乗るのが初めてで、「上下にゆるるが面白しとて嬉々としてさわぐ」というありさまだった。この参宮旅行が何年か続いた後、大正4年5月には、はじめての関西旅行が行われた。


大正編集

1 時の流れ編集

 本校は明治42年県立となった。生徒は創立当初と大差なく、500名前後で大正を迎えた。大正初年作法教室割烹室・同協会館等が相次いで建てられ、また新運動場が開かれ、色々な設備が整って便利になった。大正10年には創立25周年祝賀会が開かれ、理科教室(第4校舎)もこの年に建てられた。

 初代校長渡辺先生は大正5年に退職し、上伊那農学校長河野齢蔵先生が2代校長となり、大正11年には河野校長が諏訪高女校長に転任し、上田中学校長山本義一先生が3代校長として着任した。また同14年には山本校長が去った後、上田高等女学校長樋口長衞先生が4代校長となった。

 生徒数は大正10年ごろまで初期の頃と同じく500人前後だったが11年ごろから次第に増加し、13年には5学級募集となり、また国語専攻科が設けられ、14年には定員が1000名と定められ、いままで行われていた高等科2年卒よりの3年編入、いわゆる新三制度はこの年から廃止された。

2 整ってくる設備編集

 大正のはじめは校内のいろいろな設備がよく整ってきた時代だった。まず大正3年には作法室(現在の礼法室)ができた。その敷地として運動場の一部がつぶれたため、体操場の北の荒地を手入れして新運動場を作った。のちの音楽室及びその北の校庭のあたりである。同じ年には同協会館も完成した。この会館は同協会員の寄附2800余円によってできたものである。大正3年1月着工、同年7月竣工洋風の、当時としてはモダンな建物だった。翌4年から第二寄宿舎として利用され、本校火災後は音楽室として使用された。大正4年には割烹室ができ、女子の学校としての家庭科教育の効果が一層上がるようになった。大正5年には初代校長渡辺先生が退職した。

3 2代目校長河野先生編集

 第2代校長には上伊那農学校長河野齢蔵先生が補せられた。先生は長野師範学校出身で明治33年8月大町学校長より本校に来任され35年3月まで本校主席教諭として来任されたその後飯田女学校長、松本女子師範学校主席教諭を歴任、女子教育には深い経験を積んだ。先生はまた、高山植物の研究家として全国に名の聞えた学者であり、その方面の研究業績は目覚ましいものであった。河野先生と八木貞助先生と、植物・地質の優れた研究者が本校にそろったのは一偉観であって、その点からも本校はこの地方で重きをなした。河野先生はもっぱら初代校長の徳を顕彰して、その方針を受け継いで教育に当たった。

 本校において渡辺先生の遺徳が後々まで敬仰されているのは、勿論先生自身の優れた人格と功績によるものであるが、また河野2代校長の顕彰にあずかって力があったと思われる。

 このように河野先生は謙虚な態度で前校長の方針を受け継いだが、その厳しい研究的態度は無言のうちに生徒に大きな感化を与えた。特に登山はその研究から言っても最も得意とした所で、いつも生徒の先頭に立って指導した。

 大正7年9月の戸隠登山の時、生徒が絶壁から落ちて負傷するという事件があり、前に述べた飯綱登山の負傷と合わせて本校の登山史における2つの不幸な事件となったが、ともに大事に至らなかったのは不幸中の幸いである。戸隠登山はこの事件後も引き続き行われた。そのほか白馬登山、富士登山なども行われた。

4 創立25周年編集

 大正10年本校は創立25周年を迎えた。この年の3月に理科特別校舎(第四校舎)が完成した。この校舎が博物学者として聞えた河野先生の時に完成したのは誠に有意義であった。その当時は新聞に日本一と書かれたほど最新式のものであった。

 創立25周年祝賀会は5月7日に行われた。まず祝賀会が行われ、午後は園遊会・講演会・音楽会が行われ、また7日より9日まで3日間各種展覧会が行われた。来観者は3日間を通しておよそ12000人、開校以来の人出だった。展覧会は絵画展・家事科展・学事統計表高山植物衣裳展・盆栽展・新理科室標本などであった。

5 4代目校長樋口先生編集

 大正14年に3代目校長山本先生が退職し、樋口長衞先生が第4代校長として着任した。先生は諏訪の出身、東京帝国大学文学部哲学科を出、諏訪蚕糸兼平野高等女学校長、飯田・上田高等女学校長等を歴任、上田より本校に転ぜられた。樋口先生は学科を中心にして在校生を励まし、校内は大変緊張した。

 大正14年に定員が1000名となり、高等科卒業生を3年に編入するいわゆる新3制が廃止され、それだけ教育課程が単純化された。大正15年4月制服が改定され、ビロード襟の制服となったが、これは評判が悪く翌年また1年生の制服を改め、いわゆる6本線の洋服となった。樋口先生は厳格・精密な性格で大いに学力の振興に力を尽くし、独自の教育方針を強引に押し進めたため、それまで恒例となっていた行事でこのころ中止されたものがいくつかある。明治35年以来毎年行われてきた戸隠登山も中止され、また地久節の園遊会なども廃止された。職員も2年ほどの間に、2,3人を残して全部転任し、すっかり別の学校のようになったのである。


昭和~終戦編集

1 苦難の時代編集

 第一次大戦に参加しなかった日本は大正の末期には空前の好景気に恵まれ、施設備品等が非常に拡大された。しかし、昭和に入ると世界的な不況に襲われ、日本もその例外ではなかった。特に長野県生糸の生産の暴落のためその影響は甚しく、昭和5年には信濃銀行が支払いを停止するなど最悪の事態となった。中等学校への進学者数も減少し、大正14年一学年定員250名となった本校も昭和7年には200名定員になった。こうした時に昭和6年満州事変7年上海事変12年には日華事変がおこり、さらに第二次大戦へと発展し、10数年にもわたる戦争の時代となった。

 本校も戦時景気の波に乗って昭和12年には250名定員に戻った。さらに昭和16年には長野市及びその周辺における長野県長野第二高等女学校の設立も見た。しかし、戦争が厳しくなるにつれて、勤労奉仕にまた勤労動員にと学業の一部または全部を放棄しなければならないようになり、戦争末期には校舎の過半も軍需産業に動員され、更に全校舎が司令部に転用されるに至った。本土空襲が激化するにつれて疎開者避難民が続々と都市から地方へと流れ、狭い臨時校舎は転入生で超満員となった。

 昭和4年に大正13年創設の専攻科が廃止され、長野県女子専門学校が創立され本校南校舎2階がその校舎として仮用された。実質的には本校専攻科が昇格したような形であった。女専創設と同時に樋口校長は松本高女に転任し女専校長土屋幸正氏が校長事務取扱いとして本校校長の仕事をした。

 昭和6年には初代渡辺敏先生の銅像が前庭に建てられた。そして、奉安殿とこの銅像とが学校の精神的中心とされた。渡辺先生の像を前庭に建てることについては、いろいろ難しい問題があったものの、同協会員の非情な熱意等により、ありし日の先生の温容さそのままの芸術的薫りの高い銅像が建てられたのだった。

 昭和6年には女専が本校から離れ、したがって土屋先生が校長事務取扱いをとかれて県視学山口菊十郎先生が校長に補せられた。先生は下高井郡の出身で小学校を出られた後、独学で教員の資格を取り、長らく長野県の教育に力を尽くし、県首席視学から本校校長として着任した。山口先生は初代校長渡辺先生の方針を受け継がれ第二の渡辺先生という心組で仕事をした。このころ不況の影響を受けて入学志願者が減り、また県の経済も窮屈になったため、昭和7年から1学級減、一学年200名となった。このころから満州事変・上海事件が始まり、いわゆる「非常時」となって、国を挙げての軍国時代に突入するわけだが、本校でも御親閲・なぎなた体操(9年)等その線に添った行事がだんだん多く行われるようになった。

2 創立40周年編集

 昭和11年5月に創立40周年記念式が盛大に行われた。17日に物故者追悼会・祝賀会・同協会総会などが行われ、また記念事業として祠堂建設(同協会員等の物故者のため)・歴代校長写真調製校歌制定・記念誌発行・育英資金設定などが行われた。また展覧会も行われ、創立以来の写真、創立以来の生徒服装の実物などが陳列された。

3 非常時下編集

 昭和12年3月、山口先生は老齢(63歳)のため退職した。ついで戸田克己先生が石川県小松中学校から本校7代目校長として着任した。戸田先生は岡山県の出身、東京高等師範を出、石川県小松高女、同羽昨中学校長などを歴任した。着任が支那事変が起こった年に当たっており、非常時ということが強調され、教育もまたその方向へ強く向けられる時勢だったため、戸田校長も着任のあいさつに当たって「国民精神総動員運動の実践」を強調した。

 このような方針は戸田校長の方針というより国家の教育方針であり、ほとんど批判の許されないものだった。すべての学校行事は、たとえ昔と同じことをやっている場合でも、この線に添って意義づけられるようになった。例えば遠足は国のお役に立つ立派な身体を作るためであり、そしてそのコースにある神社を参拝して皇軍の武運長久を祈るという風になり、また修学旅行も「見学に加うるに武運長久の祈願参拝を目的とする」という風だった。

 また戸田校長は着任後まもなく「至誠」「終始一貫」を校訓として定めた。「至誠」は心の持ち方についての教訓であり、「終始一貫」は行動・動作についての教訓であると教えた。

 戸田先生は昭和14年6月、松本女子師範校長に転任し、後任校長のまだ着任しない間に、同年7月21日、本校は火災にあい、建物備品等の過半を焼失するという不幸にあった。ついで同7月中野高等女学校長長佃井久満先生が校長となった。

4 火災編集

 昭和14年7月21日午前6時40分ごろ、南校舎東階段下物置より出火、午後9時に鎮火した。主な焼失個所は南校舎・中校舎・生徒昇降口・便所・宿直室・小使室・渡り廊下などで、それらの箇所にあった図書、備品類はほとんど焼失してしまった。しかし重要書類の大部分は無事に持ち出された。

 この日はちょうど1学期終業式の前日にあたっていたが、22日予定通り終業式を行い、夏休み中の予定は全部取りやめ、職員生徒総出動で後片付けその他の作業に努力することを決めた。

 また同協会員有志は双葉会員、父兄有志の方々と相談して「母校復興助成会」を結成し、寄附金を集めた。

 夏休み中に市内各中等学校等の勤労奉仕の援助があり、復興計画は急速に進められ、17万7000円(内7000円は復興助成会資金)の予算で翌15年2月7日に地鎮祭が行われ、6月14日上棟式、16年5月25日に校舎復興落成式が行われた南校舎・中校舎が新築されたほか、北校舎の模様替、音楽教室の新築、体操場の移転等、校内は大いに面目を一新した。当時志那事変は収拾のつかぬ深みにおちいり、物資も乏しくなっていたため、比較的早く校舎が完成したことは不幸中の幸いであった。

 この時従来自修室であった第一棟は師範学校寄宿舎として送られた。これは寄宿生が減少してあまり大きな寄宿舎が不必要になったことが主な理由であった。

5 太平洋戦争へ編集

 戸田校長のあとをうけて、昭和14年7月27日佃井久満先生が中野高等女学校長から本校8代校長として着任した。先生は大阪府の出身で、大正5年東京高師研究所(修身・教育部)を出られ、鹿児島島根静岡各県の師範学校を歴任、松本女子師範学校首席教諭・中野高等女学校長を経て本校に着任した。先生は智徳体の一致を理想とし、着任後まもなく、全職員に本校教育経営に関する意見を提出させ、討議の結果次のような改善方針を決定し、実行に移した。

 1 師道の確立

  イ 師弟一体の道

  ロ 奉職の精神に徹すること。

 2 姿勢の矯正

  イ 朝の自習時を姿勢矯正の時間とする

  ロ 和室における教授の際は坐法の修練につとめる。

  ハ 毎週土曜日に放課後1時間、職員全体にて静坐会を行う。

 3 礼儀作法

  イ 言葉遣いの矯正

  ロ 応答の態度を明確にする。

  ハ 校門通過の際は奉安殿に最敬礼し、渡辺先生の像に敬礼すること。

  ニ 講堂における礼儀。入り口で礼をし、中央奉安所前通過の時も礼をする。

 4 勤労作業教育の作興を計ること(以下略)

 このころから勤労奉仕もさかんに行われ、また放課後は生徒の身体を鍛錬するために歩行訓練を行った。

 教科にも「なぎなた」等がとりいれられ一歩一歩戦争のにおいが学園の中を濃く漂うようになった。

開戦編集

 昭和16年12月8日、日本海軍真珠湾攻撃によって太平洋戦争がはじまり、教師も生徒も、時の勢のおもむくままに全面的に戦争の渦へまきこまれて行った。

 16年末に校友会は報国団と改名された。また制服の型が全国的に統一されたため、鏡と戸隠菊のブローチ(昭和8年制定)が使用できなくなったため、校紋をそのままバッチとして着用することになった。(16年6月)。

戦争末期編集

 戦況が日に日に思わしくなくなり、日本が苦境におちこむようになると、教育の仕事はほとんど中止され、女学生の労力までも戦争につぎ込まれるようになった。昭和19年7月15日には本校に学校工場が設けられ、その開場式が行われ、それ以降3,4年生は1日6時間ずつ軍用被服の裁縫作業をするようになった。つまり学校は半ば軍需工場と化したわけである。11月になると2年生が日本無線長野工場に動員、20年に入ると1年生にまでも兵士のチョッキを編む仕事が課せられた。3月14日には学校校舎が長野市管区司令部に徴用されたため、1年生は加茂の工業学校寄宿舎(元師範寄宿舎)に、2年生は日本無線に、3,4年生は県立図書館に移された工場にと、3ヵ所で3様の学校生活を送るようになった。19年度(48回)卒業式、20年度入学式は、ともに武徳殿で行われた。

 8月に入ると学校備品を古間小学校へ疎開し、また長野市民も疎開を始めた。8月13日には空襲があったが、幸い被害はわずかだった。8月15日には終戦となり、9月1日学校工場閉鎖式があり、学校はほどなく現在地へ戻った。


戦後のあゆみ編集

1 戦後復興と西高の発足編集

終戦直後編集

 終戦から昭和23年4月高等学校として発足するまでの2年半は誠にあわただしい時だった。昭和20年には米の収穫高約4000万石、明治30年ごろと同じ程度で、2000万人の餓死者が出るといわれた。幸い餓死者はあまり出なかったものの、国民の過半はその日その日の食料を探すのに精一杯で他を顧みるいとまがなかったのであった。

 当時の様子が、教務主任井出維次先生の日記に次のように書かれている。「敗戦後の第一年を迎う。元日と雖も国旗もなく、門松もほとんど見られない。暮の三十日に餅米が一人二あて、七人で一四合の配給があった。も食えない。も食えない。」当時の大部分の人はこのような実情であり、時代はめまぐるしくうつりかわっていった。

 このような時代の変化は、卒業式の答辞にもよく表れていた。卒業式の時は例年在校生の送辞に対して、卒業生総代の答辞が読み上げられるのが例であるが、終戦の年昭和20年3月27日、武徳殿で行われた卒業式の答辞は「時局は益々急迫し、今や敵は更に本土をも窺わんとの態勢を執るに至りました。悠久三千年の光輝ある皇土に育まれたるもの、今を措いて何れの時にかお役に立ち得る機がありましょうか。今後私達は本校に於して頂きました幾多の御教訓や御指導に併せてアッツ島以来玉砕諸勇士の忠魂を心に籠めて一意専心各自の職域に精進いたし、身を以て国家的翹望に応えたい。」と、全くの「滅私奉公一億玉砕」の精神で貫かれていた。これに対し、戦争の終わった翌21年3月の卒業式の答辞は、「平和的国家建設」というテーマで貫かれている。この年の49回卒業生は、長野高等女学校の歴史の中でも最もめまぐるしい事件の体験者であったわけである。「この学び舎に送らせて頂きました日々は、嘗て歴史に例を見なかったことを身を以て体験いたしました。一生涯忘れられぬ女学校生活でございました。」と過去をしのびつつも、「この困難な日の後には平和な文化日本の黎明がはっきり約束されていることを固く信じて」と巣立つ決心を述べている。軍国主義から平和国家建設へ誠にめまぐるしく教育の目的は転回した。かつて校内で最も尊厳な建築物であった奉安殿は20年12月に撤去され、21年1月からは日本史・地理・修身の授業が中止された。また、3月5日には学校備品図書・校友会図書などで軍国主義・国家主義的傾向の濃いものはすべて校庭で焼却された

学校の復興編集

 昭和20年9月には学校工場の閉鎖式が行われ、ようやく学校の姿を取り戻し授業も再開された。12月には佃井校長が退職し、宮島染江先生が第八代校長として着任した。当時は、新憲法は未だ公布されず、学校に対しても直接アメリカ軍政部の強力な監督指導があり、一方一部日本人の行きすぎた迎合や反感もともに行われ、まさに終戦直後の混乱期であった。宮島先生は、この混乱期に多事多難な学校経営に力を尽くした。学校は荒廃し、職員生徒は食糧難に苦しむ中、21年ごろから父兄の熱心な協力のもとに学校の復興が始まったのである。

 21年6月に父兄会が結成された。この年から長野高等女学校は5年制になった。またこの年からクラスマッチや運動会が復活し、中絶していた同級会総会も開かれた(10月6日)。11月には新憲法が公布され教育目標も一応明確となった。22年3月には学校教育法教育基本法が発布され、いわゆる六三制が実施されることになり、この年から一斉に中学校が発足した。したがって、各中等学校では募集をやめ、2・3年生を「併設中学」に編入した。

 長野高等女学校でも22年度から1年生の応募を中止し、同年4月1日、長野高等女学校併設中学が開校され、2・3年生は中学生となった。いわゆる併中生である。そこで21年に長野高等女学校へ入学した生徒(高校第四回)は入学以来丸4年間最下級であるという奇現象が生じた。22年3月にはまた、50周年記念式が行われた。戦後のことでありあまりはなばなしい行事は行われなかったものの、講演会や音楽会、また演劇会や展覧会が行われた。

 宮島校長は昭和22年3月転任し、しばらく井出維次教諭が校長事務取扱をしていた。22年8月、竹下栄先生が校長に補せられた。先生は徳島県の出身、広島高等師範学校を出、愛知県長野県佐賀県師範学校教諭を歴任、群馬県の各中学校長、長野工業専門学校教授を経て本校校長に補せられた。竹下先生が着任して2年目、昭和23年4月に長野高等女学校は長野西高等学校となったため、竹下先生は長野西高等学校初代校長となったわけである。

長野西高等学校の発足編集

 長野西高等学校は昭和23年4月1日に誕生した。学校は長野市の北部にあるのだが、長野中学が北高校になり、第二高女が東高校になったので、西高校という名前になった。形式的には新しい学校が誕生したわけであるが、校舎も先生も生徒も大体もとのままだったため、ここでいわゆる「切り替え」を行った。まず前年度から新制中学(22年度にはまだ旧制中学が残っていたため、六三制の中学を新制中学と呼んだ)が発足し、中等学校では新規募集をしなくなった。そこで23年の3月には併設中学2年、3年、高女の4年と5年とがおりる。そこで高女だけで卒業したい5年制は卒業し、高校昇格と同時に併中2年は3年に、併中3年は高校1年に進んだ。(この時、新制中学第一回卒業生――国民学校高等科2年から中学3年に進んだ人――の入学も少しあった。) 高女4年は高校2年生に、高女5年で卒業しなかった人は高校3年にそれぞれ進んだ。そしてこの3年生が、24年の3月には西高第一回生として卒業した。この一回生は不思議なコースをたどった人たちだった。この人たちは戦争たけなわの昭和18年に長野高女に入学し、21年の3月に4年を終えた。ここで4年で卒業したい人は卒業した。次に22年の3月に5年を終え、ここでまた卒業生を出した。そして残った57名が高校へ進んだ。つまりこの人たちには卒業期が3回もあったのである。

 さて、高校の授業は今までのやり方とだいぶ異なった方法をとった。画一的形式的傾向を排して、個性に即した指導を旨とするということを根本方針とし、単位制度ということを実施した。大教科主義をとって、教科課程は必修のほかに多くの選択履修をさせることになった。しかし、この最初のM・S(マスタースケジュール)では受講人員と選択希望と教師数との調整が上々とはいえず、色々と研究調査を経て、第二学期も半ば過ぎの11月5日に至って新スケジュールが決定された。通信教育部は、昭和23年4月1日付で「長野西高等学校通信教育部」となり、また定時制が5月10日開校、最初は被服科ができ、23年度には第三部と称し翌年度から被服科と改称した。その授業は5月31日から開始された。併設中学校の授業もあり当時は複雑な編成で学業が行われた。

 24年4月には併設中学がなくなり、高校だけのすっきりした形となったが、この月にはまた、東西両高校の統合という大きな出来事があった。この年に県下では発足したばかりの高校をいくつか統合して内容を充実する方針をとったが、長野では市立高校普通科(もとの長野市立中学)が北高に統合され、また西高校と東高校とが統合されたのだった。東高校は昭和16年に創立された長野県長野第二高等女学校の後身である。

 またこの年は新制中学からの入学生もあり、1年生は西高併中出・東校併中出・新制中出といういろいろの生徒で12学級という多勢になった。しかし昭和25年度からは、1年生は全部新制中学卒業生だけとなり、大変すっきりした形となった。

 五十有余年の輝く伝統を受け継ぎ、新制高校として出発した長野西高等学校は、新時代に有為の国民を育成するため、高校初代校長竹下先生のもとに着々と充実・発展の基盤が出来上がった。長野西高校のスタートに当たり、竹下校長の訓話の一節に次のように述べられている。

 「従来の女性の中には男子の生活のわくの中にあって、女性としての天分を充分に発揮することができなかった者が多かった。文化国家の形成者として社会の一翼を担うべき男子青年は、従来以上に青年たる意気を発揮して勇敢率直に所信を断行して行かねばならないことは勿論であるが、女子青年たる者はまたその特質を発揮し、清純聡明にして思慮深く美しき女性としての修養に務めなければならない。(中略)男子高校生と同様いつまでもヤンチャ娘であってはならない。堂々たる一人前の女性として校門を出る覚悟と努力が必要である。」

教育環境整備のとき編集

 昭和23年に発足した長野西高等学校は、その後教育環境整備のためさまざまな事業を行い、教育活動を支える充実した態勢が着々と固められていった。昭和25年には、初代校長渡辺敏先生頌徳記念碑が建てられ、また、校内図書館が開架式に改装された。また、この頃長野西高幼稚園設立の認可が下り、同協会結婚相談所が開設されるなど、同協会の活動も活発に行われるようになった。しかし、講堂の拡張工事や自転車置き場の設置とともに最も大きい事業は、運動場の拡張工事であった。運動場の拡張は、昭和14年の火災後、卒業生・父兄から復興助成会が結成され、校舎復興後の運動場拡張のための土地が購入されたのが第一歩であったが、以後、同協会・PTA・地域の人々の努力や協力によって、昭和27年10月11日に竣工式が挙行されたのである。石がとても多く、生徒が体育の時間にざるもっこを使用して整備したり、トラックで数十台の砂を運び入れたりした。しかし、東北の隅に園芸試験場のペカンという大切な木があり、それを切ることができないため、東北隅が四角を取れずに凹んでいて、毎年綱引きの綱が両端を充分に使えず、学年対抗の人数を制限したり何かと不便だった。この東北隅凹地の埋め立て工事が完了し、ほぼ現在のような運動場となるのは、昭和34年のことである。拡張された運動場の北側には、さらに一段高いテニスコート(バレーボール兼用)が造成され、翌28年にコート開きが行われた。

 この他、昭和30年には食堂が開設されたり、校舎内の電灯が蛍光灯に切り替えられるなど、各方面の施設設備の充実がはかられていった。このような中で、全日制では100分授業(昭和27年より)や75分授業(昭和30年より)が実施されたり、昭和27年から3年間にわたり「高等学校における読書指導」という研究題目で、長野県教育委員会実験学校として研究をしたり、様々な教育活動が行われた。昭和27年には、校章の入った現在の制服が制定され、まさに戦後の長野西高等学校の基盤が出来上がった時期であった。

2 学校の近代化すすむ編集

施設設備の拡充編集

 昭和23年に発足した長野西高等学校は、さまざまな方面で着々と基礎固めが出来上がっていった。さらに、60周年を迎える昭和31年を契機として施設設備の拡充や教育指導上の整備改善が進められ、新時代の要請に応えた学校作りが行われた。

 昭和31年、60周年記念事業として体育館建設期成同盟会が結成された。明治35年に建てられた体育館は老朽化が進んでおり、60周年を機に同協会をはじめとする各方面の協力を得て竣工に着手、翌32年11月に上棟式が行われた。工事は順調に進み33年3月には近代的様相をこらした体育館が完成し、5月には落成式が行われた。このほか理科校舎の新築、家庭科教室の改築移転などが次々と行われ、また41年には近代的設備をこらしたプールが建設されるなど、学校の近代化が一層進んだ時期であった。

様々な活動の充実編集

 昭和30年代には、学校施設の拡充とともに生徒の各方面にわたる活動もまさに充実した時期だった。今日の生徒会最大の行事である「梶の葉祭」もちょうどこの時期にスタートした。昭和35年、それまで長い伝統に培われ学芸クラブを中心に毎年行われてきた学芸発表会と、同時に行われていた運動会をまとめて「梶の葉祭」としたのだった。

 純粋な研究発表の場ということに加え、もう少し楽しむ気分があってもいいのではという声が出る中、生徒も先生も一丸になってその在り方を時間をかけて話し合った。「」とするにはかなりの異論もあったが、オリンピックも祭典というなどの意見もあり、あくまで研究発表が中心であるという理解に立ち、それほどこだわることもあるまいということで「梶の葉祭」となったのだった。このようにしてスタートした梶の葉祭は、第二回、第三回と多くの意見を取り入れながら試行錯誤を繰り返し、その基盤を固めたのだった。昭和41年度の生徒手帳には梶の葉祭研究委員会規定が載り、また梶の葉祭規定として「研究発表の場」「楽しみ親睦の場」「運動の場」という三本の柱が載った。

 学芸部・運動部のクラブ活動もまた、この昭和30年代に基礎固めから大きな発展を遂げた。まず、30年代前半の学芸部を見ると、生物化学書道園芸茶道演劇美術英語写真華道郷土タイプ時事研究手芸文学音楽食物の17のクラブがそれぞれ計画を立てて活動をしていた。昭和35年、生物班が「善光寺境内の」という研究によって、長野県学生科学作品展覧会で受賞し、また30年代後半には音楽(合唱)班が毎日新聞社主催音楽コンクールで長野県代表となるなど、各方面での活躍が見られた。

 運動部にとって、昭和30年代から40年代は飛躍的な発展の時期だった。施設用具の面では、体育館やプールの建設、テニスコート・バレーコートの整備、平行棒平均台の購入など環境も充実し、社会的にも東京オリンピック(昭和39年)を機にスポーツへの関心や理解の深まりがあった。そのような中で、PTAの特別教育活動の支援、指導陣の熱意と適切な指導などにより、県大会はもちろん全国高校大会、北信越5県ブロック大会等に毎年多数の選手を送り出す成果を遂げるようになった。

3 新しい時代への脱皮編集

激動と変革編集

 高度経済成長の波の中で発展を遂げてきた長野西高校にとって、昭和40年代は激動と鎮静の時代であり、50年代はやがて古い殻を破って脱皮していく変革の時代といえた。古き良き伝統と考えられていたものが若者たちには大変な足かせとうけとられ、次々に打破・改革された。44年には過激な高校生の政治活動が頂点に達した年だった。“ヘルメットとゲバ棒”に象徴され、本校内でも例年より活発な行動が見られた。国際反戦デーの10月21日校門前で有志による校内集会が開かれ、20人ほどが授業ボイコットを行った。臨時ホームルームをもとに25日生徒総会が開かれ、高校生の政治活動の是非・反戦についての討論がなされた。この年度の卒業生代表の「卒業の言葉」には、「ベトナム・沖縄・安保問題・高校紛争等でまともな働きをしなかった西高の全教職員を告発する」とあった。次の45年6月、安保自動延長の日を明日にひかえて、昼休み臨時生徒総会が開かれた。23日の午後は授業を取りやめて討論会が行われた。安保反対の声もあったものの意見は少なく、あまり効果も上がらないまま会は終わった。2,3の活動家とその同調者は街頭デモ参加を呼びかけるなどその行動が学校全体に大きな波紋を巻き起こしたが、多くの生徒は冷静に受け止めた。職員はその指導には苦労したが、一丸となってあたった。彼らの心情には純粋性はあったが過激な行動は学校生活の秩序を乱すことになり、多くの生徒に批判され、結局孤立した存在となった。その後、ベトナム戦争の終結、日中国交正常化等国際緊張が緩和されると、この種の活動は校内では影を潜めた。

制服編集

 激動の学校生活の一方で、多くの生徒の関心はより身近なことに向けられ、特にこの頃服装自由化の問題がとり上げられるようになった。すでにストッキング問題が43年から起こっていたが、黒色のものを着用するという決まりに対し、肌色のほうが安価であるという要望が出された。44年になって肌色のものの着用が一部の生徒に目立ってき、再び検討され、結局着用は個人の意志にまかせることになった。

 制服を自由化せよとの意見は45年の秋ごろから3年生から出された。「不潔である」「個性が出ない」「活動的でない」との理由があげられ、生活委員会が中心となって話し合われ、アンケートの結果賛否同数となり、一つの問題として検討されていくことになった。46年の秋にまた議論が活発になった。制服の後ろの“梶の葉”について、これを意識しすぎる、しないで賛否が戦わされてきたが結論は出なかった。47年には話し合いが深められ、制服の意義・歴史・高校生らしさ・個性などということも問題にされた。全員投票が行われたが、あらかじめ決めておいた三分の二に達しなかったため、この年は現状のままということになった。しかし48年には、制服問題の関心はより一層高まり、翌1月の全員投票で、今度は過半数が制服制度廃止つまり服装の自由化に賛成したので、49年4月から実施されることになり、4年ごしの問題に決着がなされた。服装の自由化を実施することにあたっては「学校生活のきまり」として次のように決められた。

⑴   華美にならぬこと

⑵   機能的なものであること

⑶   清潔であること

⑷   いたずらに流行を追わないこと

 実施当初の生徒の様子を見ると、ミニありロングありジーパンあり、街を歩く若い人と変わりなく思い思いの服装となった。父兄や同協会の間には旧制服をなつかしむだけでなく、華美に流れやすい傾向を憂い、自由化に対する根強い反対があることは事実だったが、新しい時代への変化が確実に動き出したこともまた事実だった。

 なお、定時制では独自に51年度から旧制服に復活した。

進路状況の変化編集

 昭和30年代、就職希望者は全体の30パーセントを越えていたものが、社会の変化、女子進学熱の高まりなどを背景に40年代から50年代には大学短大等への進学希望者は増加の一途をたどった。40年代後半には進学希望者が90パーセントを越え、ほぼ全員が進学といっても過言ではない状況となった。この頃の進学の実態は、4年制大学が約半数、残った半数を短大・各種学校進学者と浪人者とが等分している。いずれにしても、地域において輝かしい優秀な進学実績をあげることができた。なお、就職希望者も人数は少ないながらも長野市内の金融機関を中心に、ほぼ希望通りの就職ができる状況だった。

信濃の春秋編集

 本校の長い歴史の中でも特に有名なものに信濃の春秋がある。明治35年に初めて演じられて以来連綿として続けられ、昭和35年に梶の葉祭となってからもその最後を飾る催しとして受け継がれてきた。しかし、時代の激しい変化の中で、49年の生徒総会でこの伝統ある行事も中止と決まった。「意味のない伝統は廃止しよう」とか「集団練習の時間が不足で踊っても雑然として見苦しい」というのが理由である。2年間中断したが、この舞踊を復活すべきだという声が高まり、80周年を迎えた昭和51年、記念行事の一つとして有志参加の形で行われ、翌52年には完全に復活し、香山、塩入、春日の三教諭の指導で練習に励み、梶の葉祭の後、2年生全員によって舞われた。53年も2年生全員によって行われたが、54年55年と雨のため中止となった。56年からは校舎改築などの事情のため再び中止となったが、体育の授業などでこの伝統は引き継がれていった。

時代の波編集

 さまざまな議論・検討を経て、昭和49年4月入学生から県下一斉に12通学区制が実施された。今までは北信一帯から受験することができたが、本校は第三通学区に指定され、かつてのような飯山中野戸倉更埴といった遠距離からの通学はなくなった。

 学区制の改革と並んで、この時代の趨勢、男女共学について検討されはじめたのもこの頃だった。校舎の老朽化が目立つ中、全面的な校舎改築の案も出されるなど、時代の波、その中の大きなうねりの中で本校も古い伝統からまさに脱皮し、新しい時代へ新たな一歩を踏み出そうとした時期だった。

4 校舎改築と男女共学編集

新たな改革編集

 昭和50年代は、本校の長い歴史の中でいくつもの大きな変革が行われ、新たなページを書き加えた時期だった。昭和53年に30周年を迎えた通信制は、託児制度や面接授業の開始などますます充実・発展を遂げ、しかし一方定時制は、55年に長野高校定時制と統合されて閉校することとなった。

 しかし、このようなさまざまな変革以上に、本校の歴史の上での画期的な出来事は校舎の全面改築と男女共学である。

 まず校舎改築に先立って、創立80周年を迎えた51年に、同協会の会館建設の必要性が会員の間で取り上げられ、上田染谷丘、松本蟻ケ崎の両校の同窓会館を見学した。何回かの協議を経て、設計を宮本忠長氏に、工事施行を鹿熊組決定し、いよいよその建設資金の募金活動に入った。会員の寄附はもとより、篤志寄附も行ったものの、工事の見積もり3700万円に対し、募金は3200万円と500万円の不足をどうするかについて、連日建設委員会で討議が重ねられた結果、再度、募金を行うことになり、会館建設に踏み切った。54年3月に地鎮祭を行い、5月には生コンクリートの打ち込みを終わり、9月9日に落成式が行われ、梶の葉会館と名付けられた。会館の将来を考えて、県に寄付採納することが決議された。

 本校に於いて男女共学の話し合いがもたれたのは、昭和48年7月にさかのぼる。「新学区制に伴う本校における男女共学について」の議題が、職員会議で初めて提案された。そして、数回の職員会議で真剣な討議の後に、長野西高校を男女共学の高校としての方向づけがなされた。49年7月には「男女共学研究特別委員会の設置について」公務分掌委員会によって提案され、ここに第一次の「男女共学委員会」が発足した。その後数々の討議が重ねられてきたが、その間、校内の事情もさることながら、県下の情勢の変化には著しいものがあり、なかなか共学に踏み切ることができなかった。

 その変化とは、第一に、12通学区制の実施(昭和49年4月)、第二に、総合選抜制度の挫折(昭和51年12月)、第三に、昭和48年度17校あった県立女子高校のうち、松本蟻ケ崎高校や上田染谷丘高校など5校が49年度に、以来毎年数校ずつ男女共学になり、53年までに13校が男女共学となった。そのため公立の全日制で女子のみの高校は、長野西高、諏訪二葉高、岡谷東高、木曽東高(後に木曽西高と合併して共学の木曽高校となる)と長野市立皐月高校の5校だけになったことである。

 一方、全日制より先に、本校では定時制が51年度より共学となり、男子3名が入学した。

 52年10月の男女共学委員会で、各教科毎の討議の結果を踏まえて、現状の施設・設備では共学に踏み切れないのも止むを得ないとの結論が出された。しかし、54年度の6月県会で、長野西高の校舎改築の調査費が議決され、本校の共学実施の障害になっていた体育関係の施設の整備をはじめ、校舎の全面改築を、昭和55年度から着工することが決まり、ここに男女共学実現に向けて大きな一歩が踏み出された。男女共学委員会もそれと共に休会の状態に入った。しかし、校舎改築委員会が出来て、内外の活動も本格化していった。

 55年4月には県より基本設計図が提示された。

8月には、夏休みを利用して172本の杭打ちが行われ、第一期工事(一号館の建設)が始まった。プレハブ2階建て教室と渡り廊下などの仮設工事と並行して、基礎コンクリートの打ち込みも始まり工事も順調に進展した。

 56年には、通信制に学ぶ身障者のために「障害者の生活を守る会」が中心となって、身障者用のエレベーターの設置の請願が県議会へ出され、9月県議会で設置が確定し、2500万円の補正予算が認められた。10月22日に、一号館が竣工し、2日間にわたって新校舎への引っ越しが行われた。引っ越しがすむと第一校舎が取り壊され、長い歴史の伝統ある校舎もあっという間に一握りの木片となってはかなく姿を消していった。

 57年2月の極寒の寒さのさ中に2号館のコンクリート打ちが行われ、並行して既設のプールの改修工事も行われた。7月末までに、二号館のコンクリート打ちはすべて終わり、12月には、全国の公立高校で初めてのエレベーターが完成した。

 更に、12月27日に、理科棟が取り壊され、続いて28日には、西高最古の建物であった第三校舎(明治35年に建設)の取り壊しに入った。同じ日に二号館が竣工した。まさに古いものが去って新しいものが誕生して、これからの西高を象徴するような一日だった。引っ越しも新しい年を新しい教室でということで、暮も押し迫った2日間で行われた。

 一号館と二号館が逆L字形に建てられたため、その空間に体育館が建てられることになった。58年10月に杭打ちが行われ、約1年の工期で全国的に見ても、新しい工法や設備の整ったユニークなもので、1階に音楽室、格技室、シャワー付男女別更衣室、倉庫、洗面所、2階は大体育館と研究室、3階はギャラリーとトレーニングルームという立派なものになった。

 59年には、中庭の造園工事が始められ、7月の夏休み中のある早朝、一台の大型トレーラーで、横5・6メートル、高さ2・6メートルの巨石が運ばれてきた。これ程の巨石を中心に景石を配した中庭は県下では例がないといわれている。

 9月に新体育館が竣工して、12月には、体育館の使い初めがおこなわれた。音楽室では、本校で奨学金を経て現在の東京女子医科大学に進学した林氏から寄贈された「ヤマハ・フルコンサート・グランドピアノCFⅢ」の弾き初めに、林氏を招き、卒業生の長谷川氏により演奏された。

 60年度から男女共学となり男子が入学してくるため、2階建ての部室2棟の建築と旧食堂の部室とギター・マンドリン班の練習場としての改修工事が、4月早々に完成した。従来の部室に加えて、一挙に42の部室が増えて、今までの部室難が解消された。

 また、男女共学に備えて、第二グラウンドの新設も県に要望し、いくつかの候補地があげられたが、結局、長野県土地開発公社の精力的な働きかけと、地主の方々の好意により、学校の西側、湯福川をはさんだ向かい側の約7223平方メートルのリンゴ畑の傾斜地を取得することができた。早速、7月から造成工事が始まり、61年3月には、ソフトボールグラウンド1面、テニスコート2面をもつ立派なグラウンドが完成した。

 一方、第二グラウンドの造成と並行して、従来の第一グラウンドの拡張工事(暗渠による排水工事)と続いて拡張工事により約1・75倍の広さとなった。100メートルの直線コースがとれ、両翼90メートルという地方球場なみの野球練習場(サッカー場としても併用)が出来上がり、防球ネットも4囲に張られて見違えるばかりのグラウンドになった。

 60年12月には、全面改築で取り壊された弓道場の再建工事が始まり、県下で初めての6人立ち射場が、61年3月に完成、「養心館」と命名された。またほぼ同じころに、二号館の東側から生徒昇降口前にかけて、450台収容の自転車置き場が完成し、55年から始められた一連の改築工事は、6年の歳月をかけて完成した。

 昭和53年10月の職員会議で、「男女共学の早急な実現」の決議があったにも拘わらず、校舎の全面改築工事のためなどで表立った動きは見られなかった。しかし、昭和58年になって、新校舎等の諸施設、設備完成の見通しもつき、又、永年にわたる地域中学校や関係諸団体の切実な要望のうちに、昭和60年4月実施の原案が、9月21日の職員会議に提案され、全職員一致で実現の運びになった。10月3日の生徒総会において学校長より全校生徒に説明があり、また父兄や同協会(各支部長宛)に60年度より男女共学実施についての通知・お願いの文書も出した。そのほかいくつかの対外諸連絡と並行して、校内における「男女共学実施に伴う問題点」の検討、研究が始まり、具体的な作業に入った。

 59年は、従来の男女共学委員会に校内の五つの関係諸係から1名ずつが加わり、委員会も4つの小委員会に分けられて、着々と準備が進められた。

 60年4月には、男子が80名入学したが、女子生徒が298名に対する比率は、県下の男女共学に踏み切った高校の初年度の比率とほぼ同じものだった。61年4月には、360名(男子66名、女子294名)が入学し、校内は一段と明るさと力強さを増してきた。

教育の多様性と発展編集

 社会情勢の変化に応じ本校の教育内容も多様化し、様々な取り組みが行われた。50年代のはじめから毎年のようにASF留学生が本校に学ぶとともに、主にアメリカへ留学する生徒も毎年2名前後いて、国際交流が目立ってきた。また、58年にアメリカ女性教師ダイアン氏が、60年度からアメリカ女性教師グレッチェン・グリーン氏が毎月3・4日来航して英語を教えるなど英語教育の実践がはかられた。

 53年度から実施された国立大共通一次試験に96名が受験し、以降毎年60名以上が受験する状況となった。この年から学力向上講座が開かれるようになり、夏休み直後の一週間300名近い生徒が受講するなど、進学対策にも万全の体制が作られるようになった。共通一次試験の実施に伴い、梶の葉祭も7月に行われるようになった。

 また、学校・父母と先生の会共催で、秋には「長野西高教育懇談会」が53年から毎年開催されるようになった。第一回は「最近の西高生の学習意欲と学力向上について」がテーマで、約200名がいくつかの分科会に分かれて熱っぽい議論が行われた。これ以降「教懇」として毎年300名前後の出席者があり伝統的な行事となった。

 この時期はクラブ活動も活発で、地学班は52年に「長野盆地の地下水について」の研究が県知事賞に、53年の日本学生科学賞中央審査で第三位、生物班は、59年に蛍に関する研究で、日本学生科学賞の二等賞、翌年には学校賞一位となった。

 53年には、放送委員会がNHK全国放送コンテストアナウンスの部で、県最優秀賞の木藤が決勝へ、朗読の部県最優秀賞の荒川も決勝に進んだ。60年には、番組ラジオ部門で、“健き西高生”が入賞し、全国大会の県代表となり、アナウンス部門で最優秀賞となりレプリカを授与された。

 53年のやまびこ国体夏季大会の開会式に、合唱班55名が参加し、バトン班も松本運動公園での集団演技に出場した。55年にはギター・マンドリン班が大阪市で開かれたフェスティバル大会で優秀賞を獲得、以来毎年のように同大会に出場して優秀な成績をあげている。56年には、県代表となった合唱班は鈴鹿市で行われた中部地区大会で金賞、さらに全日本合唱コンクール全国大会(福岡市)に、70名の部員が出場した。

 運動班も、毎年のように県大会を勝ち抜いて、北信越大会、インターハイ、国体へと出場するクラブがいくつかあり、中でも、57年に鹿児島県屋久島で行われたインターハイ山岳部門で、5人の女子部員が優勝し全国制覇を遂げた。

5 新しい西高編集

昭和から平成へ編集

 昭和61年に創立90周年を迎えた本校も、昭和から平成への世の中の大きな変化の中でその姿を大きく変えてきた。すでに60年から男女共学が実施され、新しくなった校舎の中には少ないながらも男子生徒の元気の良い声が響き、はつらつと活動する姿が見られるようになった。昭和62年、女子校としての最後の学年が卒業し、90年に及ぶ女子校の伝統に幕が下ろされた。同じこの年、長年生徒に親しまれてきた野尻湖畔の梶の葉荘も、老朽化に伴い閉鎖となるなど、明治・大正・昭和と続いてきた本校のひとつの歴史に終止符が打たれたのだった。

新しい西高編集

 昭和から平成への移りかわり、世の中の大きく激しい変化は教育の世界にも影響を及ぼしてきた。週休二日制の定着に伴い「学校五日制」が大きくクローズアップされ、平成4年から第二土曜日が休業日となった。さらに平成6年から第二・第四土曜日が休業日となったが、教育課程の問題や授業日となる土曜日の使い方など直面した課題は大きく、このような状況の中でいかに教育効果をあげるか、研究・工夫を迫られた。

 新しい教育、新しい西高の創造はすでに始まっており、平成5年からは40人学級が実施された。また国際化社会への対応を目標に英語教育の多様化を目指し、平成4年からALT教諭を継続的に迎え、英会話教育の充実をはかってきた。通信制においても、平成8年から長野商業高校定時制との連携を深めるなど新しい教育の在り方を模索している。

 昭和の終わりに急増期のピークを迎えた生徒数は、平成に入ってから逆に急激な減少をはじめ、西高においても平成4年以降学級減を行いながら教育環境の整備に努めてきた。また、平成7年には長い伝統を誇った西高幼稚園が園児募集の停止を決定した。

教育目標編集

  1. 社会についての深い理解と健全な判断力とを養い、よりよい社会を創造するための資質を育てる。
  2. 自主自立の精神を培うと共に、他人を敬愛し、社会の一員としての責任を自覚する。
  3. 青年期の特質を理解して、常に健全な体を作ることを心がけ、豊かな情操と聡明な知性とを陶冶する。
  4. 広い教養と体験を通じて自己の適性を発見させ、さらにこれを伸展して社会に奉仕するための職業的資質を養う。

校章編集

1906年制定。当時、図画の教員として在職していた金井義司が、梶の葉と弦月 を組み合わせてデザインした。梶の葉は、学校のそばにある湯福神社の神紋に由来している。梶の葉からは丈夫な繊維も作られるため、梶の葉の布のように強くたくましくあってほしいという説もある。弦月は、上弦の月であり、細い月がやがて満月になることから、学問を積むことで人格も知性も円満になるようにとの願いが込められている。[1]

校歌・応援歌編集

著名な出身者編集

備考編集

建学の精神にある「一壜百験」は、初代校長の渡辺敏(はやし)が大衆を相手に1本の壜(ビン)でさまざまな化学実験を披露。その実験名および、それをもとに作成したパンフレットの名による。「壜」は「敏」をもじっている。

2006年大林宣彦監督の映画「転校生 -さよなら あなた-」のロケに使用された。

脚注編集

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  1. ^ 『百二十年のあゆみ』長野県長野西高等学校百二十年のあゆみ記念誌委員会編,長野県長野西高等学校,2016.p7

参考文献編集

『百年のあゆみ』百周年記念誌編集委員会編,長野県長野西高等学校, 1996. p2~p94

『百二十年のあゆみ』長野県長野西高等学校百二十年のあゆみ記念誌委員会編,長野県長野西高等学校, 2016

関連項目編集

外部リンク編集