Wikipedia:執筆コンテスト/第六回執筆コンテスト/コメント

第六回執筆コンテスト
第六回執筆コンテスト
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第六回執筆コンテスト

ここは、第六回執筆コンテストにエントリーされた記事について、審査員、執筆者、コメンテーターが自由闊達に意見を交換する空間です。4月18日から5月1日(日本時間)の間、積極的な意見交換を期待したいと思います。なお、本コンテストにおけるコメント付与期間が過ぎた以降についても、コメントを思い立ちましたら随時、遠慮なく、コメントを追加してくださっても結構です。そのほうが記事の充実につながると思います。サロン的な場所として、ご利用ください。

分野A 編集

神戸外国人居留地 編集

  • (読後感想)風見鶏の情景を彷彿とさせる非常に充実した内容で楽しく拝読させて頂きました。欲を言えば旧居留地となった現代の情報や何故神戸が居留地として選ばれたのか、5年も開港が遅れた理由などについての考察は情報としてあってもいいのかなと思いました。また、周辺地域へ与えた影響や、返還時の歴史についてはもう少し踏み込んだ内容のものが読みたかったです。以下は要望事項・質問です。お時間のある時にでもご確認頂ければと思います。
    • 重要な年月で最初に出てくるものは{{和暦}}を用いて併記して欲しいです。
    • カッコ書きの注釈とrefを用いた注釈の違いはなんでしょうか(例えば兵庫県初のガス供給についてなど)。
    • 文化の節の見直しについて。たとえば[1]によれば宗教はキリスト教以外にもあったようですし、[2]では音楽が神戸居留地の特徴のひとつとして研究されていました。このへん、加筆整理が進むともっと充実した記事になりそうです。
要望ばかり書き連ねてしまいましたが、これだけの大作を執筆するのは並々ならぬ苦労があったと思います。本当にお疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月18日 (日) 11:02 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。以下は回答です。
  1. 開港が5年遅れた理由は、資料によると「御所のある京都に近い兵庫の開港に朝廷が難色を示し、勅許が得られなかったから」ということになります。これについては記事の中で触れていますが、不足でしたでしょうか?神戸村が居留地に選ばれた理由については、記事で記述したように一次資料がなくはっきりとしたことは分かっていないようです。『増補 国際都市神戸の系譜』と『新修神戸市史 歴史編3』の推測を紹介するのが限界でした。周辺地域へ与えた影響については『新修神戸市史 歴史編4』以外に資料を見つけられませんでした。私にとっても、今後いい資料が見つかり次第加筆していきたい点です。返還時の歴史については加筆できる事柄がないか改めて資料をあたってみることにします。
  2. 和暦併記については当初からご指摘があるだろうと想定していました。併記をしなかった理由は、参考資料の中に和暦を併記していないものがいくつかあったからです(原因としては著者が外国人であったり、外国人の手による資料をもとにしているといったことが考えられます)。そうした資料を旧暦が用いられていた時期について参照した場合、年・月・日が記されている場合は和暦に対応させることが容易ですが、例えば単に1870年とある場合にどのように併記すべきか、1870年(和暦では明治2年11月30日明治3年11月10日まで)とするのはちょっと不格好かなと思い、迷った末に西暦の身で表記する方法をとりました。まだ迷いがあるのですが、和暦を併記する方法も試してみることにします。
  3. カッコ書きの注釈とrefを用いた注釈の違いについてですが、これは執筆にあたって常に悩んでいる点の一つです。前回の執筆コンテストが開催された当時はrefを用いた注釈を多用していたのですが、なるべく本文中に盛り込んだほうがよいのではというアドバイスを頂き、それ以来そのようにしています。判断基準はその記述が主題から逸れたものであるかどうかですが、感覚によって決めているところが大きいです。こういう基準で分けるべきだというご意見があれば是非参考にしたい部分です。ガス供給の箇所については、「兵庫県初のガスの供給」という記述は本文中に盛り込んだほうがいいだろうと判断したからですが、「(旧)居留地の外にガスが供給されるようになったのは1901年以降」の部分はrefを用いるほうがいいのかもしれません。
  4. 宗教についてですが、居留地で外国人が宗教活動を行った宗教はキリスト教だけという判断のもとに記述しています。キリスト教以外の宗教の宗教活動も行われていたということになるともちろん加筆すべき点になります。時間を見つけてご紹介頂いた資料を参照してみます。
  5. 音楽については、ご紹介頂いた資料に目を通した覚えがありますが、「このような催しがあった」ということが散発的に述べられているという印象が強く、体系的にまとめるのは少し難しいかなと思い記述しませんでした。頂いたコメントをもとに検討する中で「神戸外国人居留地における音楽」という単独項目を作成し、こちらでは概要を記述するという方法を思いつきました。コンテスト終了までに取り組めるかどうか分かりませんが、チャレンジしてみます。-- 2010年4月18日 (日) 13:05 (UTC)[返信]
  • ご回答ありがとうございました。1について、開港が遅れた理由に関しては私の読み落としでした。申し訳ないです。居留地に選ばれた理由についてですが、今城の論文を読むと古くから異文化理解の素地があったようで、歴史の序文としてそのあたりの背景を紹介しつつ各参考文献の推論を記していく構成はどうだろうか、と思いました。あまり詳細になりすぎると神戸港の歴史になってしまいますが^^; 年代・注釈表記に関して事情は拝承しました。注釈については自分も明確な基準があるわけではないので、お聞きしてみたかった次第です。
執筆コンテストとは離れてしまいますが、文化に関しての新しい執筆、楽しみにしています。--R.Lucy 2010年4月18日 (日) 13:45 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)なるほど、今城氏の論文は読んでみる必要がありそうですね(普段利用している図書館には置いていないようなので、ちょっと読むまでに時間がかかるかもしれませんが…)。別の記事の査読依頼の時にも感じたことですが、R.Lucyさんのコメントは記事をブラシュアップする上で大変参考になります。ありがとうございます。-- 2010年4月18日 (日) 14:28 (UTC)[返信]
  • (追記)今城氏の論文はご紹介いただいた[[3]]からPDFで読むことができるみたいですね。-- 2010年4月21日 (水) 08:28 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)今城氏の論文を読みました。キリスト教以外の宗教について、モスク、シナゴーグ、ジャイナ教寺院、関帝廟に関する言及が今城氏の論文にあるのを確認しました。このうちモスクについては建設されたのが1935年[4]、シナゴーグについても日本のユダヤ人#日本のユダヤ教徒コミュニティの歴史を見る限り、神戸にユダヤ教徒のコミュニティーが形成されたのは1900年代に入ってからのようでいずれも居留地返還後です。ジャイナ教寺院に至ってはどうやら落成が1985年のようで(論文中の「その後」が示す幅が広すぎますね;)、いずれもこの記事よりは旧居留地#神戸あたりに記述すべき事柄ではないかと。関帝廟はどうやら1890年代に設けられたもののようですので、詳しく文献をあたってみます。-- 2010年4月28日 (水) 21:14 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)関帝廟について加筆しました。今城氏の論文にある「異文化理解の素地」についてはR.Lucyさんの構想とは活かし方が違うかもしれませんが、自分なりに活用してみました。-- 2010年5月4日 (火) 21:28 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)音楽について加筆しました。これで頂いたコメントの大部分はひとまず反映できたかと。-- 2010年5月5日 (水) 14:30 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)競馬や観劇など多方面に活躍されている廉さんですが、この記事が投稿された瞬間に、こちとら白旗挙げようかなと思いました。神戸の歴史を知る上で丁寧に参考文献を追っておられます。歴史に関しては、大政奉還王政復古の大号令鳥羽・伏見の戦いと日本史の重要項目のみですが、旧暦か新暦かの確認をしましたがいずれも新暦でのリンクとなっており問題なさそうです。記事冒頭で新暦での記述ですと書くか重要項目のみで結構なので括弧書きで旧暦の日付を入れるかしてくれると読者にとって煩わしくないかなと思った次第です(神戸開港は1868年1月1日12月7日_(旧暦))、鳥羽・伏見の戦いは1月27日1月1日_(旧暦)など)。--Wushi 2010年4月20日 (火) 13:44 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)Wushiさんにそこまで言って頂けると嬉しくなります。ありがとうございます。旧暦についてはなるべく併記する方向で手を入れてみます。参考文献については他の記事の執筆に関してmiyaさんに頂いたアドバイスを参考に、神戸居留地を主題とするもの以外もなるべく参照するように心がけました。-- 2010年4月21日 (水) 08:28 (UTC)[返信]
    • (ライバルコメント)執筆コンテスト開始早々、このような素晴らしい記事が投稿されて私も少なからぬショックを受けました(笑)。記事内容も素晴らしいですが、画像が美しくてより素晴らしさを増しています。一点だけ質問なのですが、私は横浜の近くに住んでいますが、たしか横浜外国人居留地の近くには遊郭が立ち並ぶ著名な花街が形成されたと聞いています。江戸時代に外国からの窓口を担っていた長崎には著名な丸山遊郭があったことなどを考えると、横浜と並ぶ外国人居留地の神戸には花街は形成されなかったのでしょうか?--のりまき 2010年4月25日 (日) 02:45 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)過分なお言葉をありがとうございます。画像に関しては自分でアップロードしたものもいくつかありますが、663highlandさんが撮影・アップロードされたものを多く使用させて頂きました。総じて質が高く種類も豊富で本当に助かりました。花街に関しては、参照した資料には居留地との関連では言及がなかったような気がしますが…神戸の花街を見ますと明治以降多くの花街が形成されており、時期的には居留地の設置と重なっていますね。参考文献に挙げられている『神戸の花街』を読んでみることにします。-- 2010年4月25日 (日) 14:41 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)のりまきさんの御推察通り、福原遊郭は開港の影響を受けて成立していたようです。この点について加筆を行いしました。-- 2010年5月22日 (土) 13:05 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)記事なし(0バイト)から、これだけの出典を探してこれだけの記事を書かれるのには、大変なご苦労だったかと思います。記事的にもしっかりしています。他の方も書かれておりますが、主要な年代には是非和暦もつけていただければ、よりわかりやすかったかと思います。また画像が多用され、すばらしさを助長させています。神戸観光に行ってみたくなりそうな、そんな雰囲気を受けます。--御門桜 2010年4月25日 (日) 14:26 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)労いのお言葉ありがとうございます。画像に関しては、のりまきさんへのお返事にも書きましたが663highlandさんに深く感謝しています。和暦については、やはりなるべく併記したほうがよさそうですね。まもなく取り掛かる予定です。-- 2010年4月25日 (日) 14:41 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)歴史のところにいろんなことが混在していて、ちょっとわかりにくい印象を受けました。「歴史」らしく、時間の経過に主眼をおいて節のタイトルを付けると、印象は変わると思います。
    • 理想的には、歴史のところでは、あまり深入りせず、政治や法など制度的なもの、景観なども含めた地理的なこと、文化、日本人との交流などの視点で、別に節を立てて詳述するという構成がよいのではないかと思います。そのように試みようとしたことは伝わってきましたし、難しいことは理解しますが、そのバランスには再考の余地がありそうです。「設計・造成」の記述の多くは、「居留地の街並」とまとめたほうがすっきりしそうですし、「雑居地・遊歩区域」は、「大阪兵庫外国人居留地約定書」などの近くで、居留地との対比で書かれる方がよさそうです。「貿易」は文化よりも前、「食文化」「キリスト教」「(外字)新聞」などは「スポーツ」よりも前のほうが自然だと思います。
    • 文化のところでは、当地で仕事をしていた日本人のことも扱えるといいなと思います。
    • 歴史的な地図があるとしても、位置関係を説明するための地図が欲しい。
    • 返還後のことは、もう少し触れられると思いました。そこに住んでいた外国人はどうなったのか、というのも気になります。
    • 注釈でも文献を挙げているのは素晴らしい。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)詳細にコメントを頂きありがとうございます。以下、ポイントごとにお答えします。
        • 「歴史」節と他の節とのバランスなど、記事の構成については頂いたコメントを参考に見直しを行います。かなり悩むことになると思いますし再構成するにあたって改めて資料を読み込む必要のある箇所も多いので、しばらくお時間をください。
        • 地図についてもなかなか難問です。埋め立てや港湾施設の拡充が行われた関係から現在の地図は当時とは地形(海岸線)が違いすぎて使用できず、当時のものが必要です。探してみますがすぐには見つからないかもしれません。抑えるべきポイントはわかっているつもりですので、当時の地図を自作する技術があれば解決が早そうなのですが…
        • 居留地で仕事をしていた日本人については、思い当たる所がありますので、大幅には無理かもしれませんが加筆を試みてみます。
        • 返還後についても資料を読み直して加筆を試みます。居留外国人が返還後どうなったのか、という点についてはなかなか難しいですね。独自研究としては、まず居留地や雑居地に永代借地権や借地権を有していた外国人はそのまま居住することが可能でした。しかし返還と同時に内地雑居が可能となり移動・居住の自由が生まれたことから必ずしも居留地周辺に留まる必要はなくなり、それぞれの都合によって日本各地や母国へ移り住んだ人もいたということだと思います。記事の中で取り上げた人物を見ても、エドワード・ハズレット・ハンターはそのまま旧雑居地で余生を過ごしたようですし、ジュリア・ダッドレーは帰国、ヴェンセスラウ・デ・モラエスは徳島へ移住と様々です。何かいい資料が見つかればいいのですが。
        • 注釈の出典を示すことには強い意識をもって取り組みました。お褒め頂けたことはとても嬉しいです。-- 2010年5月1日 (土) 01:12 (UTC)(修正)-- 2010年5月1日 (土) 01:37 (UTC)[返信]
          • (執筆者コメント)居留地で仕事をしていた日本人として、日本人警察官について加筆しました。日本人の立ち入りが制限されていたこともあってか、名前を残すような人物は今のところ見つかっていません。-- 2010年5月4日 (火) 21:28 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)とても充実した記述に圧倒されました。要望というか、付け足す事としては、既に他の方も述べられていますが、当時の居留地の位置や周辺と、現在の位置関係の対比が判る様な図があると宜しいかなと存じます。非常に丁寧に注釈があり安心して読めました。編集お疲れ様でした。東 遥 2010年5月1日 (土) 14:02 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)お褒めの言葉を頂き光栄です。注釈にはかなりこだわっておりますので、そのように言って頂けると嬉しいです。地図についてはおそらくすぐには無理だと思いますが、何とかできるように頑張ります。-- 2010年5月1日 (土) 14:51 (UTC)[返信]

ダライ・ラマ5世 編集

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (ライバルコメント)執筆お疲れ様でした。記事を読んで強く感じたのは、チベットの中にいくつもの宗派があり、モンゴルにいくつもの部族が存在し、それらが複雑に結びついているのだなということです。そのあたりの関係を把握するのが結構大変でした。どうもリンク先の記事の出来が必ずしもすぐれているとは言えない状態で、サレカット・イスラムの「人物略歴」のような感じでFreetrashboxさんが自らこの記事の中で各宗派・部族の概要を記述されたほうが理解が進みやすいのではと感じました。とはいっても理解がしにくかったのはモンゴルの部族間の関係やモンゴルと清との関係で、ダライ・ラマ5世と国内の宗派、国外勢力との関係については理解しやすかったです。今後加筆を検討して頂きたいのは、前半生と比べて後半生、とくにダライ・ラマ5世を取り巻く実力者が他界し「権力を振るいやすくなった」以降の時期についての記述があっさりしている印象を覚えましたのでその点についてと、ポタラ宮の建設や各宗派への対応、絵画に関する指示以外ではどのような内政政策をとったのかという点についてです。-- 2010年4月18日 (日) 15:06 (UTC)(微修正)-- 2010年4月19日 (月) 14:18 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。モンゴルに関しては少し説明を足しました。後半生については加筆が必要ですね。もう少し勉強してみます。--Freetrashbox 2010年4月25日 (日) 01:45 (UTC)[返信]
  • (読後感想)執筆お疲れ様でした。生誕からのその終生について、詳細に記述されていると思います。後世に与えた影響などについてはもう少し詳細に読みたいと感じました。文章表現については全体的にやや推敲が必要かもしれません。また、冒頭でポタラ宮の建設が1642年としているのに対し、後半では建設を命じたのが1645年となっているなど、ところどころひっかかる箇所もあります。同じ人物や宗派を複数の言い回しで表現していたりする部分は統一して頂けると読み手の理解もより深まるのではないかと思います。--R.Lucy 2010年4月20日 (火) 15:00 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。後世への影響は、ダライ・ラマの政治体制や研究がどの程度伝わっていったかを調べて加筆したいと思います。ポタラ宮の「1642年」は加筆前の文章をそのまま残したものですが、単純な間違いと思いますので1645年に変更しました。用語も一部ですが統一しました。文章表現についてはもう少し具体的な意見を頂ければ幸いです。--Freetrashbox 2010年4月25日 (日) 01:45 (UTC)[返信]
      • (コメント)早速の加筆・修正お疲れ様です。文章表現について、以下は個人的な感覚ですが、私が違和感を感じたのは「ダライ・ラマ5世は・・・のような言い回しが頻繁に登場すること」「本文中に注釈的解説が登場すること」の2点です。具体的な一例を挙げると、死後の節ではダライ・ラマ5世が死去した後、ダライ・ラマ6世の即位と廃位の経緯が簡潔に記述されています。しかし、この中に「サンギェ・ギャムツォは…」という言い回しが3度も登場しており、さらに注釈的解説(ラダックの降伏)が間に挿入されているため、読み辛さを感じました。この部分を例えば「ダライ・ラマ5世の持つ影響力を考慮した執政のサンギェ・ギャムツォは、1682年から96年までの14年間その死を発表しなかった。発表の翌年には自身で探してきた少年をダライ・ラマ6世として即位させ…」のように組み替え、ラダックの降伏部分を発表しなかったことによる影響の一例として注釈化すると、流れがスッキリするのではと思う次第です。ただ、5W1Hを常に意識しながら物事の事実を明確に記述する手法は百科事典としてはむしろ正しいと思いますので、今の表現の方が良いとお考えになる方も多数いらっしゃると思います。好みの問題もあるかと思いますので、ご自身の執筆スタイルにそぐわなければ無視して頂いて構いません。--R.Lucy 2010年4月25日 (日) 03:38 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)必要な事項がバランス良く簡潔にまとまっており、業績などおおよそのところが把握しやすい、百科事典として必要十分な記事だと思います。予備知識のない人間にとっては、なじみのない名称に面食らいますが、概ね本文中に補足があり、画像も豊富で、適切なキャプションを含めて本文を理解する助けになっています。とはいえコンテストとしては、さらに掘り下げた記述を求めたくなる気持ちもありますが。2点挙げると、「ダライ・ラマ5世と他宗派」で厚く保護したとされるニンマ派が母親の出身宗派であることは、ここでもう一度述べた方がよいかと思いました。また、同じ節で触れているタンカとはなにかわからなかったので、教えていただければ、と思います。画像からすると、曼荼羅のことでしょうか。--みっち 2010年4月23日 (金) 10:52 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)初期の版は本当にstubでしたが、百科事典として必要な部分は満たされていたと感じました。まずはその点を評価させていただきたく思います。地図があり、変化がわかりやすいという点は文章の補完にとてもよいと思います。「ダライ・ラマ5世と文化」の項目で、ここに「絵画にも興味を示した」とあって、さてダライ・ラマ5世がどのような絵画に興味を引かれたのか疑問です。この点参考になる「絵画」などの画像というものはないのでしょうか。リンク先にいってもお寺の写真が上がってるだけで、ちょっと知りたいと思いました(なにぶん予備知識がないもので、代表的な絵画などがあれば、と感じました)。--御門桜 2010年4月25日 (日) 14:41 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。チベット絵画についても勉強中です。コモンズには多くのチベット画があるのですが、私に知識が無いのでどれがどの様式で書かれているのかまだよく分かりません。また、チベット絵画は僧院で灯明に使っていたバター油の煤などで傷みやすく、現存している絵は比較的新しいものであるようです。もしかしたらダライ・ラマ5世当時の絵はあまり無いのかもしれません。-Freetrashbox 2010年4月29日 (木) 14:30 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)私もかねてから興味を持っていた人物である「ダライ・ラマ5世」を、充実した記事に仕立てていただいたことにまず感謝いたします。記事を読んでの感想なのですが、「学問と宗教」の内容がやや薄いと感じられます。例えば私が持っている資料なのですが、クンチョク・シタル、ソナム・ギャルツェン・ゴンタ、斉藤保高「実践チベット仏教入門」(1995)によれば、ゲルク派の始祖であるツォンカパが著した「菩提道次第論」に関しての8つの主要な要約、注釈書の中に、ダライ・ラマ5世が著した「菩提道次第の教導書 文殊の口伝」があるとしています。私はチベット仏教については素人同然なので加筆協力が難しいのが心苦しいのですが、ダライ・ラマ5世がチベット仏教という宗教内で果たした役割についてもう少し掘り下げられることを期待します。--のりまき 2010年4月30日 (金) 14:09 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)ダライ・ラマ5世の著作解説は、私が持っている『14人のダライ・ラマ』にも載っているようです。チベット密教の理解は素人にはなかなか難しく、また、私に密教の知識が無いのでどこまでが密教の常識でどこからが5世のオリジナルかを理解するのも難しそうです。勉強してみて理解できたら加筆してみます。--Freetrashbox 2010年5月1日 (土) 10:57 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)「関連人物・組織」は、「背景」に組み込んで、生涯の外に出すというのがわかりやすいと思うのですが、どうでしょう。
    • 節タイトルに、記事名が入らないような工夫はあったほうがよさそうです。「他宗派との関係」「文化への関心」など。
    • 脚注のところは、ちょっとラフかなと思いました。今の記述方法なら、refの中に書誌情報を入れてしまった方がシンプルです。しかし、かなり大きめのテーマの本複数からこの項目のことを拾い出していることを考えると、検証する読者にとってはページ数指定があったほうがよいでしょう。また、関係する章がまとまっているなら、そのページを示してもらえると、特に非売品の国会図書館所蔵の文献は、郵送複写でなんとかすることもできるようになります。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)「背景」「関連人物・組織」は考えて工夫してみます。また、節タイトルに記事名を入れない方が学術的っぽいように思いますが、私は入れたほうが分かりやすいという判断をしました。チベット記事はIP含めて優秀な方が大勢いるようなので、まずはその人たちの加筆も期待しています。脚注のスタイルは私も試行錯誤を繰り返しています。ページ数は、英語版から関連テンプレートを導入して記載してみました。郵送複写のことは念頭にありませんでしたので、国会図書館の本はメモしておいた記載最初の箇所だけしか記せませんでした。今後はページ範囲をメモしておくようにします。--Freetrashbox 2010年5月1日 (土) 10:57 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)多くの情報量が詰め込まれて充実していると存じます。気になった点がいくつかございます。まず冒頭の「背景」、事件を取り上げるなら宜しいですが、人物に関しては「生誕当時の状況」くらいが宜しいかと。併せて「関連人物・組織」を参照させるところもちょっと面食らいました。個人的には多少冗長になっても主要な部分は冒頭に引き写して書いても宜しいかと存じます。文章としていくつか
  • 「チベット統一」の語につき、ダライ・ラマ5世が積極的に動いてチベットを統べたという印象ですが、説明からすると本人の直接の動きというよりは、周囲の人の働きや周囲からの支持を得たと読めます。「権力掌握」などが宜しいかもしれません。あるいは「チベット統一の頃」でしょうか。
  • 「彼は父の意向と異なりゲルク派の味方をした。(それで~暗殺された。)」父の意向に「逆らう」「沿わず」などが宜しいかも知れません。また、「それで」は「そのため」か「ゆえに」くらいが宜しいかと。
  • 「このとき、ダライ・ラマ5世が清国皇帝に従属したか、~すでに認識の食い違いが見られる」の辺りは、半ば常識ではありますが、現代の中国とチベットの関係を下敷きにしているという点で、もう少し説明があると丁寧かな、と存じます。
  • 「スーナム・ギャツォはダライ・ラマの称号を得る前から高僧の転生者だったので、」勿論当時の人はそう考えていたのだと存じますが、百科事典としては「~転生者とみなされていたので、」とすると宜しいかと。
表現としてちょっとこなれていない部分があるやに存じます。この辺りをブラッシュアップすれば、尚読みやすいかと存じます。編集お疲れ様でした。東 遥 2010年5月1日 (土) 14:30 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)「関連人物・組織」は冒頭に移動しました。「チベット統一」の箇所の表現をどうするかはなかなか難問です。ダライ・ラマ5世が彼だったからこそ皆が協力したようでもあり、当時たまたま彼がダライ・ラマだっただけのようでもあり、悩ましいところです。日本史で言えば明治維新と明治天皇の関係みたいなものでしょうか。また、「すでに認識の食い違いが」の箇所は、私の感覚では共産中国とチベット亡命政権の認識の違いというだけでなく、台湾中国などもチベットを属国あるいは領土の一部と思っていた節があり、ここも悩ましいところです。さらには、当時のチベットの思いは記事に書いたように単純なものではなく、ある研究論文によるとダライ・ラマ5世は清国皇帝を対等な相手と見ており、ダライ・ラマ5世の摂政サンギェ・ギャムツォは清国皇帝を目下と見ており、当時の事情はずいぶん複雑だったようです。これも少しずつ勉強して加筆します。なお、その他の箇所の表現で東 遥さんのアイディアをかなり使わせて頂きました。ありがとうございます。--Freetrashbox 2010年5月4日 (火) 15:07 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)私、今回のコンクールのように、久しく中国関連の記事から遠ざかっていますが、執筆御苦労様です。気になったのは、記事にも触れている清・チベット間の外交関係です。石濱(2000)「第5章 チベット仏教世界の形成と展開」『新版世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、ISBN4-634-41340-X)によるとダライ・ラマ5世の頃には、チベットがモンゴルにも影響力を及ぼしている宗教的権威となって君臨しているようです(それがあるから清朝と対等関係の外交政策になっているものと思われます)。また、この記事では三藩の乱を巡る内容をあっさりと記述しています(三藩の乱終結間もなくダライ・ラマ5世が死んだからと推測します)が、実は雍正のチベット分割につながる、清・チベット間の外交の亀裂の遠因になっていると考えられます。これら2点についてもうすこし記事の深耕が出来るかもしれません。--Wushi 2010年5月11日 (火) 14:30 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)返事が遅くなって申し訳ありません。清・チベット・モンゴルの関係はこれから面白くなるところなので、5世がらみでもできればもう少し書きたいですね。しかし現代チベット問題に直結するところだから丁寧に書かないと変な誤解を与えそうでもあり、難しいところです。ウィキペディアの「三藩の乱」は作成に大勢が加わっている良い記事ですが、事件の大きさから考えるともっと加筆できそうな気がします。--Freetrashbox 2010年5月16日 (日) 15:34 (UTC)[返信]
  • (コメント)執筆おつかれさまです。ちょっと気づいたことがあったので、あわせて感想や提案も述べることにします。
    • 関連組織・人物の欄が箇条書きであるため、重要度や関係性の把握がすこし困難です。定義文をまじめに読まずに読み進めたので、ダライ・ラマがゲルク派の称号ということに心づかず、ゲルク派がなぜ冒頭に出てくるのかすぐ把握できませんでした。まあ、一義的にはわたしが悪いのですが。
    • ダライ・ラマ5世の著作というのはあるのでしょうか。あるようでしたら載せるのもよいのではなかろうかと思いました。
    • ぺマ・ギャルポ:1998がよく引用されていますが、文献表には落ちているようです。おたしかめください。
  • 以上です。興味深いものをありがとうございました。 Kzhr 2010年5月22日 (土) 07:18 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)ペマ・ギャルポは文献表に入れ忘れたようです。どの本か見当は付くのですが、借りた本なので今手元にありません。確認後、追加するようにします。御指摘、ありがとうございました。ダライ・ラマ5世は多筆の人なので、著作は多いようです。彼の著作の内容は私には難しすぎますが、どういうジャンルでの貢献があったかは書けそうですので調べてみます。人物関係についてはもう少し整理してみます。いろいろなアドバイス、ありがとうございました。--Freetrashbox 2010年5月22日 (土) 09:25 (UTC)[返信]

日立鉱山 編集

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (読後感想)明治時代の保安林の解除手続きの話がありますが、当時の解除手続きがどうなっていたのか、気になります(私は林野、鉱業ともに門外漢ですが)。2010年現在の森林法では、保安林の指定、解除は基本的に都道府県知事の権限ですが、それと鉱毒の問題が既に地元で問題となっていたことを意識すると、かなりわかりにくいものを感じます。記事に掲載されている参考文献でどう記述されているのかは確認していませんが、他の資料で補足することが記述維持の必須条件と思います。私がエントリーした記事と異なりボリュームがあるだけに、スルーするのは難しいと感じます。参考:『保安林制度の概要』 林野庁--O fudo 2010年4月19日 (月) 14:49 (UTC)[返信]
    • 丁寧に読んでいただきどうもありがとうございます。参考文献にはもう少し詳しい経過が書いてありますので、少々加筆したいと思います。保安林指定を申請した代表者が茨城県に対して「新経営者の久原房之助と十分話し合った結果、保安林の解除をすることの不安がなくなったため、指定を解除して欲しい」との申請を改めて出した…といった感じの内容になります。日立鉱山の鉱害問題の記述については正直考えるところがあって、今でもかなりのボリュームですので、これ以上詳しく書く必要があるのならば、「日立鉱山の鉱害問題」という記事を新たに立てた方が良いのかもしれません。日立鉱山の記述ならば保安林解除については少々の加筆で済ませた方が記事のバランス的に良いかと思いますが、別記事を立てるのならばもっと各種資料による掘り下げが望ましいと考えます。--のりまき 2010年4月19日 (月) 21:28 (UTC)[返信]
      • 相沢一正「日立鉱山創業期の鉱毒水問題と土地占有」(1987)と、島崎・斉藤「鉱山と市民-農業から鉱業へ」(1988)に、保安林解除についてのある程度まとまった記述があったので、加筆してみました。結局久原房之助は鉱毒水問題や煙害問題と同じく、補償金を支払うことで住民と話し合いをつけ、保安林指定を行ったのと同じ人物が指定解除の申請を県に出し、県より指定解除の告示がなされたという経過を辿った旨加筆してみました。--のりまき 2010年4月20日 (火) 10:37 (UTC)[返信]
        • お疲れさまです。原典はあたっていませんが、説明的には十分なものと思います。久原房之助はこれまで項目がなかったのだな、と思いました。他の登場人物にもそういうところがあるので、人物の「独立化」も必要と思います(本件記事の中にプロフィールを記する必要はあまりないでしょう)。--O fudo 2010年4月20日 (火) 15:30 (UTC)[返信]
  • (読後感想)膨大な参考文献から情報を整理抽出して書き上げただけでなく、適切な表を自作して取り入れられた、素晴らしい記事だと思います。鉱害問題に関しては私も別記事とした方が良いように思います。[5]を読み比べながら読み進めましたが、他の四大鉱山の鉱害と比較してもいくつかの意味で特徴のあるものだったようで、単独立項する価値は十分にあると感じました。個人的には、今まで名前は聞くけどその歴史はよく知らなかった日本の大企業、日立製作所の成り立ちを知ることができ、知的好奇心を大いに満たす本記事を書いて頂いた事に感謝したいと思います。執筆お疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月20日 (火) 15:46 (UTC)[返信]
    • 記事を評価していただいた上に、興味深く読んでいただけたようで嬉しいです。まず記事を書き進めていく中で、鉱害や労使関係についての説明がかなりの分量になってしまったことは気になっていました。日立鉱山の特徴を紹介する中で両方とも欠かすことが出来ない項目で、記事内である程度の説明は必要なのですがなかなか加減が難しいですね…鉱害については今回の記事に使用していない資料も入手していて、単独記事を立てればもっと掘り下げることが可能と考えていますので、今後検討していきたいと思います。あと「一山一家」に代表される日立鉱山の経営理念について、鉱山当局の「懐柔」という視点を強調する立場と、この経営理念によって成果を挙げたと評価する立場があり、資料によってかなり評価が大きく分かれていて中立的な記述をしていくのが難しかったです。でも考えてみればこういう部分こそ歴史の醍醐味なのかもしれない…と思いながら記事を書き進めてみました。--のりまき 2010年4月21日 (水) 12:11 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)大作お疲れ様でした。綿密な調査・取材を感じさせる記事で、資料だけでなく画像も豊富で理解に役立っています。現地で撮られた写真は、今回執筆のために撮影されたものでしょうか。当時の古い写真と対比できるところなど、素晴らしいと思いました。構成的には記事全体がひとつの通史となっており、それぞれが詳しく、読んで面白いのですが、これだけの分量になると一面見通しがよくないのも事実です。ここは意見が分かれるところでしょうが、概略的な沿革を先に述べ、節を改めて詳述、さらに主立ったテーマ(煙害・鉱毒問題、技術開発・日立製作所関連、労務管理・組合関係など)は別トピックとしてそれぞれ経緯を書く、という方法が適しているのではないでしょうか。でも、自分でやれといわれたらできないかもしれませんが(爆)。--みっち 2010年4月23日 (金) 10:52 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)記事を評価していただいてどうもありがとうございます。現地の写真ですが、多くは今回の記事執筆のために撮影したものを使用しました。私は状況的に可能ならば現地を訪れて記事を書き進めていきたいと考えています。そうすることによって各文献に書かれている内容がより理解しやすくなるように感じますし、何よりも生の資料や現況を見ると記事執筆のモチベーションが上がります(笑)。日立鉱山の記事のネックはやはり“分量”ですね…自分でも多すぎかな~と思ったのですが、鉱害問題を別トピックに誘導している足尾銅山の記事のわかりにくさを見て、やはり項目内である程度の説明をした方が良いと考え、ある程度詳細な説明をする形式を採りました。足尾銅山の記事もいつか手を入れたいと考えていますが、鉱毒事件など歴史的に見て大きな事件が発生している上に鉱山としての規模も日立鉱山よりも大きく、各種参考文献てんこ盛り状態なので日立鉱山の倍以上の分量になっても驚きません(苦笑)。なお、典型的文科系人間の私にとって、鉱山での技術開発についての記事はハードルが高いです(未整備な上、意外と面白い分野なのですが…)。鉱山での労働関連についての記事はおいおい整備していきたいと考えています。--のりまき 2010年4月24日 (土) 00:33 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)執筆お疲れ様でした。今回は自分でもかなり大きな記事を書いたつもりでしたので、まさか倍近くの大きさの記事がエントリーしてくるとは思いませんでした^^; 容量が大きいだけでなく、丹念に資料に当たり、出典を丁寧に示されていますし、内容も多岐にわたり、地域社会との関わりや文化・スポーツ面までしっかり抑えられていて素晴らしいです。R.Lucyさんと同じく、日立製作所の成り立ちに関する記述も興味深かったです。記事の構成に関しては私も今回記事を執筆する中で少し感じたことですが、ある水準以上に記事が大きくなると、詳細な情報については脚注や他の記事に任せる必要が出てくるのかもしれません。鉱害問題については単独記事化に賛成ですし、諏訪鉱山についても、もし単独記事を立てることでより詳細な記述が可能となるのであれば、その方向で検討されてみてはいかがでしょうか。1点加筆をご検討頂きたいのは、「日立市の誕生」節の市長選出に関して、たしか市長が住民の直接選挙によって選ばれるようになったのは戦後になってからのはずなので、戦前の市長がどのような制度に基づいて選ばれたのか、という点についてです。制度がどのようなものであったかによって、日立製作所が市長選出に及ぼした影響力の内容が違ってくるように思います。-- 2010年4月23日 (金) 15:04 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)記事を評価していただき、どうもありがとうございます、正直、こんなに大変だとは思いませんでした(笑)。今回の記事エントリー前に、分野A、分野B、分野Cの区分けの件で質問をしたのは、実は日立鉱山の記事エントリーを念頭に置いたものでした。鉱山の歴史はどうしても地質など自然科学的なもの(分野B)と、歴史経済など人文社会的なもの(分野A)が絡み合うことになり、今回の記事でも日立鉱山の持つ地質学的な条件が鉱山の歴史に影響したことを紹介してみました。また大きな鉱山になると文化関連など、分野Cの視点も無視できません。また足尾銅山の例で恐縮ですが、足尾銅山は夏目漱石の作品である「坑夫」など多くの文学作品のテーマに取り上げられています。鉱山記事はやはり歴史・経済的な内容が中心の記述になるとは思いますが、意外と広い分野との関連性がある魅力的な題材だと思います。日立鉱山の鉱害問題についてはもう少し各種資料集めを進め(R.Lucyさんから教えていただいた資料は大いに参考になります)、その特色ある鉱害対策に視点を当てた記事を立ててみたいと考えています。諏訪鉱山については別記事にするかどうかかなり悩みました。最終的にはどの資料でも日立鉱山の支山であると明記されていたこと、日本地質学会編、2008、『日本地方地質誌3.関東地方』では、鉱床としても“諏訪鉱床”とされ、日立鉱山の一部として取り上げられていること、そして鉱夫たちの組織である友子も日立鉱山の組織に編入されていたこと、そして私が入手できた資料ではこれ以上あまり書くことがないという点から、日立鉱山の記事中での紹介という形を選択しました。あと戦前の日立市長選出については、資料にかなり詳細な経過が書かれているので加筆したいと思います。--のりまき 2010年4月24日 (土) 01:07 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)相沢(1988)「鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史-日鉱と日製」の記述をもとに、戦前から戦後にかけての日立市長選出をめぐる日立鉱山と日立製作所との確執を加筆してみました。基本的には市会をめぐる権力闘争であったようですね。ちなみに市会議員は当時から選挙での選出でした。--のりまき 2010年4月24日 (土) 14:04 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)まずは対策の投稿有難うございます。ここから先は化学が無知な人間に対してお方ェください。足尾、日立ともに発生する「鉱毒」とは具体的に何の化合物が起因とするわけでしょう。イタイイタイ病であればカドミウムとすぐ分かるわけですが。また、「鉱毒水被害と土地の占有 節」で鉱毒被害地区を日立鉱山が買い取り、現在の日立市市街地を形成することになったわけですが、土壌汚染・水質汚濁といった公害は大丈夫なんでしょうか?--Tantal 2010年4月29日 (木) 13:40 (UTC)[返信]

--Tantal 2010年4月29日 (木) 13:40 (UTC)[返信]

    • (執筆者コメント)鉱害問題が意外と興味を持たれていますね(苦笑)。実は私も化学は全くダメで苦労しています。化学と工学の知識がもっとあったら、より良い鉱山記事が書けると思うのですが残念です。鉱毒の原因物質ですが、今回の記事の資料には「坑内や選鉱などの過程で出される排水に含まれる重金属類-相沢一正「日立鉱山創業期の鉱毒水問題と土地占有」(1987)」と書かれているだけです。鉱害を見ても同じ程度の記述ですね。鉱害の専門書が手もとにあるわけではないので今のところ私の手では検証可能性を満たせませんが、鉱山では例えば銅ならば銅、鉛ならば鉛しか産出しない鉱山は少なく、多くの場合、カドミウム、鉛、砒素などの毒性の高い物質も副産物として存在するため、カドミウム、鉛、砒素などが特に問題となる物質になると考えられます。土壌汚染については各資料で後世の影響については特に記述されていないので、大きな影響はなかったものと考えられます。水質汚染については鉱山のズリなど廃棄物の投棄が続けられた宮田川の汚染が鉱山閉山近くまで問題とされており、また海の汚染については戦後になっても補償を行っていたとの記載があります。日立鉱山の鉱害問題についての記事を少しづつ書き始めていますので、詳しくはそちらに書きたいと思いますが、水質汚染の問題が尾を引いたことについては日立鉱山本体の記事に少々加筆したいと思います。--のりまき 2010年4月30日 (金) 11:42 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)「位置と環境」「地質学的特徴」が冒頭におかれているのはわかりやすい。しかし、その後「閉山後の日立鉱山」まで、だーっと時系列に並べられているのは、さすがに疲れるし、地域社会、文化やスポーツ、諏訪鉱山について、などでは、時期も前後してしまいます。「量」というのは、読み込みなどの問題はあるとしても、構成や文章で「多い」と感じないようにすることはできるはずです。みっちさんと同じく、構成を考える必要があると思いました。
    • 鉱山周辺の地図が欲しい。ひとつは、地形図。もしできれば、鉱床の位置関係がわかるもの。
    • 近代の鉱山を書く上では、(労働問題としてだけではなく)労使関係や娯楽事情などは、なかなか目が届かないようですが、実は避けられないものだと思います。その点、しっかり、しかもかなりきちんと触れられていて、驚きましたし、個人的にも有用で助かります。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)執筆者として抱いていた懸念とアピール点について、的確に指摘された感じです(苦笑)。まずアピール点ですが、厳しく危険を伴う労働環境である鉱山では、労使関係の持つ意味が他の多くの職場よりも大きいと感じております。歴史的経過もあって、日本の代表的鉱山の中では労使協調型の歴史を歩んできた日立鉱山の特徴のひとつとして力を入れてみました。また娯楽や文化・スポーツ面も、経営的な戦略として充実を図っていった側面と、鉱山従業員ばかりではなく地域住民にも親しまれ、地域社会に鉱山がより良く根付いていくために大きな役割を果たしていたことについて触れてみました。
      • 地図は日立鉱山の記事で最大の弱点だと認識しています。まず本文中に出てくる地名の概略の場所がわかる地図(出来れば近隣のものと、いわき市の夏井川発電所や北茨城市の石岡第一、第二発電所などの広域の位置関係がわかるものの二つ)と、鉱床の位置関係がわかる地図が必要だと感じています。お恥ずかしながら私はパソコンのスキルがなく、地図の自作は出来ないのです。皆さんがどのようにして作成しているのか少し調べてみたのですが、よくわかりませんでした。やり方を教えていただければ嬉しいです。あともう二つ問題があって、まず鉱床の位置関係なのですが、主な鉱床が所属している藤見鉱床群については資料があって場所を地図に落とし込むことは可能だと思います。しかし不動滝鉱床群については今のところ資料がなく(日立市の現地で探せば何とかなるかもしれませんし、日鉱記念館には不動滝鉱床群についても場所がわかる詳細な立体モデルが展示されています。やっぱり暇を見つけてもう一回日立に行くことになりそうですね)、日立鉱山の鉱床全体の位置を表した地図を作成するのは難しいです。もう一点は鉱床は地面深くにまで分布しているものなので、欲を言えばきりがないのですが立体図で表せればベストなのです。例えばまだ資料の読み込み不足等で加筆していませんが、同じキースラーガー鉱床である日立鉱山と別子銅山との違いの一つに鉱床の傾斜があって、明治から大正期に傾斜の急な日立鉱山で採用された当時の最新採掘方法が、別子銅山では採用が難しかったという事実もあります。
      • 構成面については私も現状がベストとは考えていません。現在鉱害問題の記事をゆるゆると書いていますし、今回の記事ではあまり触れなかった日立鉱山の関連項目についても別記事を書いてみようと構想中です。正直なところ記事を書いていく中で気づく点も多いので、それら新たに立てる別記事の状況を見ながら、本体である日立鉱山の記事の構成見直しを改めて考えていきたいと思っています。--のりまき 2010年4月30日 (金) 22:44 (UTC)[返信]

(ライバルコメント)内容の充実度と執筆に当たっての調査の努力のほどは疑いようがありません。お疲れ様でしたと申し上げるとともに敬意を表します。

改善点についてですが、他の方がしておられませんが、文献参照の仕方が分かりにくいです。例えば注149で「割貝、寺山(1988)pp.166-167」とあるので、「割貝・寺山」共著の文献を参考文献から探そうとするとすぐに見つかりませんでした。検索で鉱山の歴史を記録する市民の会(1988)の収載論文であるらしいことがようやく分かりましたが、こうした仕方は不適切な仕方だと思います。注で個々の論文を参照させるなら、鉱山の歴史を記録する市民の会(1988)を挙げるとともに

  • 割貝勉・寺山満男、1988、「会計市と商店街、花町の形成」、鉱山の歴史を記録する市民の会(1988)pp.xxx-xxx所収

のように明記するか、さもなくば収載された個々の論文は明記せず、鉱山の歴史を記録する市民の会(1988)で一括して参照するか、どちらかです。

また、同じ人が複数の論文を書いている、というケースが複数見られますが、文献参照にあたって、どの論文を参照しているのか、一意に識別できるようになっているでしょうか。全てを精査したわけではありませんが、私が見る限り、識別できないものが複数ありました。--ikedat76 2010年5月1日 (土) 03:53 (UTC)[返信]

  • (執筆者コメント)内容等について誉めていただき光栄です。確かにかなり大変でしたが、結構楽しませてもらいました。文献情報の書き方は確かに頭を悩ませました。確かに現状ではわかりにくいと感じていたので、今のところ明記する方法にしたいと思いますが、一括参照する方式も捨てがたいのでどちらがよいか検討して対応します。また私の方でもどの論文を参照したのか識別できるかどうか一応確認はしたのですが、見落としがあるのだと思います。この点についても確認して改善します。--のりまき 2010年5月1日 (土) 09:18 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)充実した内容で読み応えがありました。表現としていくつか気になった部分があります。
  • 「日立港も鉱山に比較的近接した場所に整備されていくことになり」は表現として冗長で鉱山との因果関係が取りづらいです「日立港が鉱山~に整備されたことから」くらいがよろしいかも知れません。
  • 「層位的に上部の~と下部の~」は、どの様な位置関係かが取りづらかったです。浅い部分と深い部分、という理解で宜しいでしょうか。また、二つは重なる部分があるのか、当該地域の離れたところに浅い部分と深い部分に分かれているのか、位置関係を示す簡単な図があるとわかりやすいでしょう。
  • 「鉱床内の断層によって経済的に鉱山の稼動が困難になった」なんとなく、断層がある事で鉱床が分断されて掘削範囲が拡大しコスト面で折り合わないと想像するのですが、その理解で宜しいでしょうか。続いての「創業直後、鉱床内の断層が鉱山経営の障害」も、断層の存在と経営上の(悪)影響の因果関係がわかりづらかったです。読み進めていくと大体の事情はわかってきますが初出の所に簡単に説明があると宜しいでしょう。
  • 「同盟罷業」はストライキのことでしょうか。リンクがあれば丁寧だと思います。

およそ鉱山・銅山といえば直ちに足尾銅山鉱毒を連想し、それに遡る時代は鉱山・銅山といえば地元を蔑ろにして開発が進められていたものだと思っていましたが、本稿の歴史の部分を見ますと大層に違ったのだなぁ、と認識を新たにさせていただきました。上記の細かい所はまだまだブラッシュアップできると思いますが、全般に読みやすく判りやすかったです。東 遥 2010年5月1日 (土) 15:07 (UTC)[返信]

    • (執筆者コメント)皆さんそれぞれの視点から、大変に良く読み込んでいただき本当に感謝しています。まず日立港の件ですが、これは時系列的には日立鉱山の後期となる戦後、自山の鉱石とともに日立港を通して輸入された外国鉱石を用いて精錬を行うようになったことを示すために「~ことになり」という表現を用いました。単純に「~に整備された」というのも誤解を招きそうなので、表現を改めて検討してみます。続いて「層位的に上部、下部」、これだけでは確かに誤解を招くまずい表現ですね。ご指摘どうもありがとうございます。これは深い浅いではなく、地層が形成された年代の問題なのです。具体的には藤見鉱床群は「赤沢層」と呼ばれる地層の中ほどに分布していて、一方不動滝鉱床群は赤沢層の上部からそれに続く時代に形成されたとされる「大雄院層」に分布しています。そして日立付近は激しい地質活動の結果、当初ほぼ水平に形成された地層が、日立変成岩の部分は90度近く回転してしまっており、古い地層は西側、新しい地層は東側に分布しています。従って赤沢層中間の藤見鉱床群は西側、赤沢層の上部から大雄院層にある不動滝鉱床群は東側に分布することになります。この点はできるだけわかりやすく、かつ誤解のない表現を検討し、改善します。確かにKs aka 98さんのご指摘にもあるように、地質図が欲しいですね。ただ著作権の問題があってコピーは出来ないでしょうし、お恥ずかしながら地図の自作方法を知らないので、今後の課題とさせてください。
    • 断層の件については基本的にそのような理解で問題ありません。「日本鉱業協会、1965、『日本の鉱床総覧 上巻』」に説明が掲載されているので、改めて加筆をしたいと思います。あと私としては日立鉱山で起きた事象については実際に起きた出来事を通して、歴史の中で説明していく方が良いかと思います。「同盟罷業」ですか…これは実のところ執筆する中で困りました。この事件は日立鉱山の創業直後に起きた大きな事件で、多くの文献で取り上げられています。まさにストライキそのものなのですが、全ての参考文献で「同盟罷業」と書かれていたため、相当迷ったあげくに同盟罷業としたものなのです。改めて考えたのですが、同盟罷業の表現を残してストライキへのリンクを張ることにしたいと思います。ゴールデンウイークは忙しくてなかなか時間がとれないため、少々対応が遅れますがよろしくお願いします。--のりまき 2010年5月2日 (日) 22:53 (UTC)[返信]

(執筆者コメント)とりあえず記事の修正部分については対応してみました。続く課題は関連項目の整備、地図、そして記事構成の見直しです。中でも関連項目の整備を先行したいと思い、まずは日立鉱山専用電気鉄道の記事を立ててみました。相当な分量の作業になるので一朝一夕には行きそうもありませんが、今後秀逸な記事選考にかけていくことを念頭に、記事のブラッシュアップを着実に進めていきたいと思います。--のりまき 2010年5月5日 (水) 10:14 (UTC)[返信]

ルワンダ虐殺 編集

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (ライバルコメント)Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ルワンダ虐殺 20200411に書いてあるように脚注形式の統一はしたほうがよいかと考えます。--Wushi 2010年4月20日 (火) 13:59 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)御指摘有難うございます、確かに不統一な現状は好ましくないですね。月末の連休まではまとまった時間が取れない日が続くため、後日に修正させて頂きます。--Ken.y 2010年4月25日 (日) 13:35 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)決して目をそらしてはならぬ残酷な事実を取り上げており圧倒されます。相当な長文になったことで構成に苦労されたと思います。個人的には「前史」をある程度まとめた方がよかったとは思いますが、それにしても中々の労作だと思います。--Carpkazu 2010年4月22日 (木) 16:25 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)お読み下さり有難うございます。下敷きとした英語版は関連記事が充実していたこともあり前史部分は非常に簡潔であったのですが、日本版には関連記事が無かったために本記事で全て説明しようとした結果、内容を盛り込みすぎたかも知れません。ゆくゆくは関連項目を充実させ、本稿はもう少しコンパクトにまとめていきたいと思います。--Ken.y 2010年4月25日 (日) 13:35 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)今回、内容的にもっとも衝撃を受けた項目です。むしろ淡々とした筆致から浮かび上がってくる恐るべき事実に戦慄を禁じ得ません。日本語文献も含めた広範な資料を駆使しての労作に敬意を表します。記事としては、アフリカに無知な読者のために、いくつか改善してもらいたい点があります。まず、文章上わかりにくい部分があります。記事が長いため、前の方だけ指摘します。「概要」は3つの段落からなっていますが、2段目は虐殺前の「前史」にあたるために時系列的に混乱しやすく、1段目と2段目を入れ替えて3段目の最初の文を削るか、または、1段目を「概要」から冒頭文に持ってくると流れが良くなるのではないでしょうか。また大統領が2人出てくるので、ルワンダとブルンジを明記してほしいと思います。「1994年4月6日までの歴史的背景」の冒頭は「直接の引き金は1994年4月6日のジュベナール・ハビャリマナ大統領の暗殺である。」がない方が文意が通ります。その後の背景説明が長大で、あるいは整理して別項目参照とした方がすっきりするかもしれません。個人的には「大項目」が好きなので、ひとつの記事で包括的に理解できてありがたいと感じましたが。あとは画像の配置で、例えば「ルワンダ戦争」節に使われている2つの画像は、いずれも本文とどういう関係があるかわかりにくいものです。カガメの写真は本文に名前が登場したところに配置した方がよく、同様に、ダレール将軍やハビャリマナ大統領の画像はもっと前に配置する、といった具合です。--みっち 2010年4月23日 (金) 10:52 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)多くの御指摘を感謝します。まず、上の方のコメントにも書きましたが、背景説明や細かい事象は関連項目を充実させた後に減らしていきたいと考えています。画像の配置に関しても、確かに漫然と配置していたかもしれません、もう少し考えてみたいと思います。また、概要項目の設置と「1994年4月6日までの歴史的背景」の冒頭は他の方によるもので、自分の意図したものとは少し違う形になっております、後日にも改善させて頂きます。--Ken.y 2010年4月25日 (日) 13:35 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)執筆お疲れ様でした。人権について考える上で非常に重要なテーマを多く含む記事であり、それをここまで加筆されたことの意義は大きいと思います。以下は疑問、要望などです。やや厳しいものも含まれますがご容赦ください。
    • (執筆者コメント)ご精読下さり有難うございます、そしてより良い記事を作るためのご指摘に感謝します。--Ken.y 2010年4月25日 (日) 13:35 (UTC)[返信]
    • 記事の中で大きく疑問を感じた点が1点あり、それは「一般人の識字率の低さに由来する権力への盲追的傾向」「ルワンダ国民の識字率は低く権力に盲追する傾向があった」という表現です。松村高夫、矢野久『大量虐殺の社会史 戦慄の20世紀』に依拠しているようですが、文字が読めない人間は権力に盲従する傾向があるというのは、本当に科学的根拠のある話なのでしょうか。「字を読めない者にはまともな判断能力がない」という偏見に基づいた見解である可能性はないのでしょうか?
      • (執筆者コメント)当該部位に関連する箇所としては『大量虐殺の社会史』に、識字率の低さや教育の遅れからラジオなどのメディアによる煽動に対して批判的、自律的な対処が出来なかったことと、古くからの封建的な社会体制への長年の順応によって権力に唯々諾々とする傾向があったこと、指導者層は高度な教育を受けていたことなどが挙げられております。また、『現代アフリカの紛争と国家』には、社会的地位の高い農村のエリートが、貧しく教育水準の低い人々を率いて虐殺を行ったことは統計データと矛盾しないことが示されております。そのため、識字率の低さは権力盲追の要因の1つではあったと考えます。しかしながら「字を読めない者にはまともな判断能力がない」という捉え方は明らかに不適切であり、そのような誤解を招く書き方であったことはお詫びいたします。後日に加筆修正したいと思います。
        •   コメント丁寧かつ誠実にご回答頂きありがとうございました。上の説明を読み納得いたしました。他のご回答へのお礼もこの場で申し上げます。-- 2010年4月25日 (日) 14:55 (UTC)[返信]
    • 虐殺期の国連・アメリカ・フランスの姿勢に対する批判について、アメリカとフランスは後に総括を行い、一定の範囲で自国の非を認めていることが分かりますが、国連については事件前後の対応に対する批判が多く記述されている一方、国連側の言い分や総括は、現場責任者であったロメオ・ダレールのコメントを除いてほとんど記述されていないようで、Wikipedia:中立的な観点の見地からややバランスを欠くのではないかと感じました。記事の方向性としてロメオ・ダレールに十分な権限を与えなかった国連上層部にも批判が及んでいることから、コフィー・アナンなど上層部の言い分・見解についても記述することが望ましいと思います。
      • (執筆者コメント)国連上層部の見解に関しては、当方の力不足もあり適切な資料を見出すことが出来ず、仰るとおり些かバランスを欠いた不十分な形であったかもしれません。今後の課題としたいと思います。
    • 「ジェノサイド」節の「しばしばルワンダ虐殺は、マチェーテやクワなどの身近な武器を用いた一般の住民が隣人同士で殺しあったというイメージで語られているがこれは適切な見解とは言い難い」、「国際連合ルワンダ支援団と国際社会の動向」節の「アルーシャ協定の時点から後のジェノサイドに至るまで、資源も乏しいこのアフリカの小国の揉め事に巻き込まれることに消極的であった大多数の国連安全保障理事会メンバー」、「追悼施設」節の「その一方で国際援助機関が虐殺記念館の設立や維持に援助を行うことで、1994年4月から7月までの消極的な姿勢をとったことに関して国際社会が感じる疚しさを埋め合わせているという面も存在している」、「経済的展開と社会的展開」節の「これらの未成年が家族の下に戻る際にはしばしば問題が生じる。家庭の経済的な問題やジェノサイドへの関与したことに対する恐怖から、多くの場合で少年らは家族から拒絶されるのである」といった箇所は、現状では執筆者の個人的見解と受け取られる可能性があり、誰の見解・分析であるか明記したほうがいいと思います。(訂正)-- 2010年4月25日 (日) 23:22 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)前者の二つは各々『大量虐殺の社会史』p.266と、Report of The Independent Inquiry into the Actions of the UN During the 1994 Genocide in Rwanda; Statement of the Secretary-General on Receiving the Report [1999])、 "Frontline: interview with Phillip Gourevitch."の出典が付いているほか、その他の日本語の文献を付けることも可能ですので後日に資料を調べ直してみます。後者の二つはドイツ語版からの翻訳であり、ドイツ語版には文章ごとに脚注がつけられておりません。そのため申し訳ありませんが現状では出典をお示しすることができません。もう少し資料を探してみます。
        •   コメントありがとうございます。説明を補足しますと、「しばしばルワンダ虐殺は、…」については「適切な見解とは言い難い」の箇所についてのコメントです。また、出典を脚注で示すことによりその著者による意見であると推測することが可能ですが、読み手としては他人の意見を紹介する形態が取られていることも想像可能なので、当初挙げていた残りの箇所については脚注で出典が示されていることから執筆者の主観ではないことが想像できるので、最初のコメントは取り消します。ただ、一見して分かるようになるべく本文中に主体を明記したほうがいいのではというのが個人的な考えです。もちろんこの方法でなければならないということではありません。-- 2010年4月25日 (日) 16:56 (UTC)(訂正)-- 2010年4月26日 (月) 00:02 (UTC)[返信]
    • 「フランスの動向」節の「ルワンダ虐殺時に行なわれたフランスの政策は、議会にも報道機関にも不可解なものであったことが知られている」の箇所については、できれば具体例を知りたいところです。
      • (執筆者コメント)当該部分は英語からの翻訳であり、出典となる記事がオンラインで参照可能であるため、後日に加筆したいと思います。
    • 「メディアと大衆文化」節の「ルワンダに関して扱った2本の映画」は、『ホテル・ルワンダ』と"Shake Hands with the Devil"を指していると思いますが、"Shake Hands with the Devil"は本文中には登場していないようなので、何らかの形で言及したほうがよいと思いました。
      • (執筆者コメント)うっかり見落としておりました、御指摘感謝します。
    • 「追悼施設」節にある、2005年時点で建設中であった追悼施設に関しては、それから5年が経過しそろそろ情報として古くなってきていることから、新しい情報を反映できるかご検討願います。-- 2010年4月24日 (土) 22:15 (UTC)(加筆)-- 2010年4月24日 (土) 22:17 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)追悼施設に関してはドイツ語版でしか言及されておらず、英語版の記事でも日本語の文献でも資料が全く見当たらなかったために些か躊躇しておりましたが、後日にでも調べてみようと思います。多くのご指摘を有難うございました。--Ken.y 2010年4月25日 (日) 13:35 (UTC)[返信]
  • (読後感想)アフリカの歴史において悲しくも非常に重要なジェノサイドについて英語版・ドイツ語版からの翻訳だけでなく日本語版として大きく加筆がなされた大作です。『ホテル・ルワンダ』くらいでしかこの事件に触れる機会は無いのですが、非常にショッキングでドロドロとした内容に驚くばかりです。歴史から事件の影響まで広く扱われており、十分な量だと思いました。また、節に関してはできれば階層構造を取っていただくと判り易いかなと思います。執筆お疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月25日 (日) 08:41 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)感想有難うございます。やはり百科事典はメインカルチャーの主要項目が充実していてこそ……と思い、拙い文章を書かせて頂きました。節の構造につきましては、後日考えさせていただきます。--Ken.y 2010年4月25日 (日) 13:35 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)素晴らしい記事だと思います!本当に驚きました。とにかく感動するばかりです。写真や図も多くわかりやすいなと感じました。ただ、ひとつだけ気になる点がありましたのでお伝えします。実はフランス当局がポール・カガメ現大統領ら9人に逮捕状を発行した日付について、この記事では11月17日、『読売新聞』の報道(2006年11月25日「ルワンダ、フランスと断交」東京夕刊 2面 192文字)では11月22日、『朝日新聞』の報道(2006年11月25日「ルワンダが仏と断交へ 撃墜事件の捜査に抗議」 夕刊 2面総合 295文字)では11月23日とされていて、全て異なっているのです。もちろん、現地時間か日本時間かはいずれも明示されていないので、『読売新聞』と『朝日新聞』の日付は単純に時差という可能性もありますが、11月17日となると説明がつきません。もしかしたら、私の調査不足かもしれませんので、何かお気づきの点があればご教示いただけると幸いです。なお、両紙ともルワンダ政府によるフランス大使への国外退去通告がされた日付については11月24日と一致していました。--森造 2010年4月29日 (木) 20:06 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)過分なお褒めの言葉を頂き恐縮です。ご質問の件ですが、BBCや日経新聞などを確認してみましたところ森造様の仰るように11月22日が正しいようです。2006年11月17日の日付は英語版の原文にあった不正確な日付をそのまま持ってきたことによる誤りでした、大変申し訳ないです。御指摘感謝します。--Ken.y 2010年4月30日 (金) 14:16 (UTC)[返信]
      • (コメンテーター返信コメント)なるほど。そういうことでしたか。素早い対応に感謝します。コメンテーターとして述べるのは適当でないかもしれませんが、このような対応の早さも評価の対象となるのではないでしょうか。わざわざの調査、ありがとうございました。--森造 2010年5月1日 (土) 19:11 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)「概要」の存在が、その後丁寧に書かれていくとしても、複雑な背景を持つルワンダの様相を理解するのに有益でした。
    • 「ジェノサイド」の節の冒頭は、ちょっと唐突な印象を受けます。「4月7日に、大規模なジェノサイドがはじまった」というような一文を入れるだけで、だいぶ変わると思います。
    • 「メディアと大衆文化」では、ジェノサイドがどのように報道され、どのように関心をもたれたかというところが書かれているとよいなとも思いました。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
      • 回答が大変遅くなり申し訳ありません、ご指摘有難うございます。ジェノサイドの節の冒頭に一文を挿入させていただきました。また、ジェノサイドについての報道と関心につきましては、当時のニュースなどを調べてみます。--Ken.y 2010年5月16日 (日) 04:55 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)重たいテーマですが、避けて通れない人類史の悲劇を丁寧に描写している記事だと思います。気になったのは、上記にも質問が出ている話ですが、ルワンダの当時の識字率の問題ですが、調査が実施されているのか。仮にされていたとして、どの程度の識字率なのかは、脚注を付与する形でデータとして示したほうがいいと思います。記事の重みが増すと思います。--Tantal 2010年5月1日 (土) 12:10 (UTC) /(コメント追加)国連・フランス・アメリカといった節構成がやや平板に感じられます。国際社会の対応と大きな節を作り、その下に国連・フランス・アメリカと小さな切にくくりなおしたほうがいいのかもしれません。--Tantal 2010年5月1日 (土) 12:12 (UTC)[返信]
    • 返事が送れて申し訳ありません、ご指摘の点を改善させて頂きました。確かに数字があったほうが客観的で良いですね、有難うございます。--Ken.y 2010年5月16日 (日) 04:55 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)フツ族とツチ族の民族対立、という漠然とした理解しかございませんでしたが、そこに至る背景、虐殺のきっかけが大統領搭乗機撃墜にあったことなど、詳細に記してある事を追いかけて認識を新たにすることができました。見ていて気になったのは、構成面で「概要」の第一文は「冒頭」に組み入れてもよいかなという点、それから、初出で「ジュベナール・ハビャリマナ大統領とンタリャミラ大統領の暗殺」とあって、何故大統領が二人? という疑問を抱いた点です。読み進めていきますと、それぞれルワンダ大統領、ブルンジ大統領であるとわかりますが、冒頭に多少冗長ですが説明があるとわかりやすいかと存じます。その他、
  • 写真の脚注「1994年4月6日に航空機事故で死亡した~始まりの合図となった。」合図としますと虐殺計画が予め策定されているやに連想しましたが「組織的虐殺の準備」との繋がりでよろしいでしょうか。或いは明確な計画を前提としているのでなければ「きっかけ」などが宜しいかと。
  • 写真の脚注「同記念施設の外観、砲弾の跡が数多く残されている。」の「同」が何か、ちょっとわかりにくかったです。冗長ではありますが、説明があるとわかりやすいと存じます。
  • 細かいところですが「ツチの隣人を殺害するよう」ですと、対象が誰か一瞬迷いました。「隣人のツチを殺害するよう」が宜しいかと。
  • 「また、1992年に政治家のレオン・ムゲセラは、ツチをニャバロンゴ川を通じてエチオピアへ送り返すよう~」の部分は、当該政治家がどの様な立場で、どの様な理由で送還を要求したかが判りませんでした。これが続く「~実際に~」のところとどう繋がるのか良くわかりませんでした。

全般には背景、歴史的経緯から、同時期の国際的動向など幅広い面から取り上げて、とても充実していると存じます。編集お疲れ様でした。また、コメントが遅くなりすみません。東 遥 2010年5月1日 (土) 16:04 (UTC)[返信]

ノルウェーの経済 編集

  • (読後感想)時間切れ(?)のため、執筆が中途となってしまっているのが残念ですが、お疲れ様でした。歴史については水産業から石油産業へと移り変わっていく過程が詳細に書かれており、判りやすかったです。質問:統計情報の出典に用いられているサイトの使用方法が良くわからなかったため確認できていないのですが(すみません・・・)、日本の外務省の出している値と微妙に違うのは算出の方法が異なるためでしょうか?--R.Lucy 2010年4月18日 (日) 12:23 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)水産業と石油産業に関しては最低限書けたのかなというのが本音です。正直言って前々回の日本の経済と同様時間切れですので、相変わらず、北欧と経済のスタブが貼られています。今回統計データで多用したのはStatistisk sentralbyrå(ノルウェー統計局、以下SSB)のHPです。和訳執筆する際にはSSBの方に不躾にも1800年代のデータはどこにあるとかメールを飛ばしたので、ここでお礼を書いておきます(Tusen Takk!)。さて、脚注1他に出てくるStatBank Norwayの使い方ですが、自分が知りたい項目を探して、Excelにダウンロードするというやつです。07335 Gross domestic productは、09 National economy and external tradeというところをクリックして、自分がほしいものを探すという方法になります。日本の外務省の2008年のデータにはUSドル(USD)換算でのデータのみ書いてありますが、ノルウェー・クローネ(NOK)単位で書いていませんね。他の国の経済を執筆する用にまとめてデータがEXCELでダウンロードできるIMFのデータを私は利用するので、使い勝手良くない日本の外務省のHPは使わないですね(私は)。あえて違いの原因が何かと挙げるとすれば、NOKデータからUSDデータに換算する際の為替レートの差でしょうか。IMFにせよ日本の外務省にせよ元データはSSBですので。GDP経済成長率については、日本のように発表時期で大幅にずれなければ、あまり問題ないはずです(2008年の実質GDP成長率:外務省2.0%、ノルウェー統計局1.8%)。執筆の残課題は、GDPの3割を占める社会保障を含む公共部門と産業の内容(化学、情報通信、交通)、脱石油への課題を記述、翻訳できていないノルウェーの交通を執筆、記事に盛り込むのが最低限の目標で、次いでOBX指数採用銘柄で和訳されていないノルスク・ハイドロ他主要企業の執筆でしょうかね。周辺整備にはまだ時間がかかりそうです。他にノルウェーの経済に関して、何か必要な項目があるという指摘があれば、よろしくお願いします。--Wushi 2010年4月18日 (日) 13:47 (UTC)[返信]
ご教示ありがとうございます。なるほど、為替レートの可能性がありますね。--R.Lucy 2010年4月19日 (月) 11:28 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)一部に節タイトルのみのところがあり、未項かと思いますが、それ以外は必要な事項が端的・簡潔に説明されており、各データもそろっていて完成度が高いと感じます。文章はやや画一的ながら、記事の性質からして妥当ともいえます。1点だけ疑問を挙げれば、「歴史」で「ペスト禍により人口が希薄化したノルウェーは1536年にデンマークの属州に組み込まれることとなった。」という文ですが、ペスト禍によって人口が激減したのは1400年頃のようで、デンマークの属州に組み込まれるまでおよそ140年の間隔があり、ほかになんにもなかったのでしょうか。なお、このあたりはノルウェーの歴史を見ても詳しいことがわからず、むしろこちらの記述の方が具体的だったりするので、当てずっぽうで申し訳ありません。--みっち 2010年4月22日 (木) 09:13 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)拙稿読んでくださりありがとうございます。ご指摘の点ですが、改めて読み直すと、時系列の整理が出来ていないから分かりにくかったかなと思います。参考文献を読んでいるときは、ハンザ同盟 vs カルマル同盟、その後のスウェーデンの離脱(ストックホルムの血浴)と悦に入っていましたので。時系列のことを単純に書くと、カルマル同盟以降、ノルウェーは1905年に独立するまで、デンマーク、次いでスウェーデンの支配下にあったということです。時系列整理すると、カルマル同盟の結成(1397年、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの3地域をデンマークが支配。この時にすでにノルウェーはデンマークの支配下にはいっています)→1520年、ストックホルムの血浴。これによりスウェーデンが離脱→1536年~、クリスチャン3世の宗教改革開始(Stenersen and Libæk(2003)(岡沢・小森訳(2005) p.47))につながります。改めて、参考文献にしているStenersen and Libæk(2003)を読むと、クリスチャン3世の頃をもう少し詳しく書けそうです。百瀬他(1998)には、ノルウェー以外にもスウェーデン、デンマークの状況が書かれてあるので、それらを加味すればもう少し加筆できるかもしれません(ノルウェーに焦点を絞ったので、スウェーデン、デンマークの二国はかなり端折っています)。経済状況から言うと、デンマークやスウェーデンのように農業に基盤を置けなかったノルウェーの地理的状況上、独立はなかなか困難だったのかなと思います。--Wushi 2010年4月22日 (木) 13:54 (UTC)[返信]
      • (再コメント)なるほど。140年たっても、国力を盛り返すどころか、さらに差が開いたという感じで受け止めることにします。--みっち 2010年4月23日 (金) 10:52 (UTC)[返信]
        • (執筆者コメント)とりあえず、クリスチャン3世に関する出来事を記述し、歴史の流れを分かりやすくしたつもりです。記事にも書いている通りペストにより指導者階級となるべき貴族層が手薄になったことも独立を困難なものにしたものと考えます。--Wushi 2010年4月24日 (土) 13:23 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)執筆お疲れ様でした。文章がとても読みやすく、ノルウェーの歴史や経済全般に疎い私でもスムーズに読み進んで内容を理解することができました。導入部が非常に分かりやすく構成されている点も印象に残りました。関連記事を含めさらなる発展を期待しています。1点質問です。「独立から第二次世界大戦まで(1905年~1945年)」節の「戦時経済は、国民や地方政府はこれまで背負った負債を解消させる」の箇所は「戦時経済が国民や地方政府の負債解消をもたらした」という意味にとれるのですが、どういった仕組みでそのような結果がもたらされたのでしょうか?-- 2010年4月22日 (木) 09:20 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)拙稿読んでくださりありがとうございます。周辺記事はのんびり書こうと思っていますので、あまりプレッシャーかけないで下さい(笑)。第二次世界大戦中の経済状況ですが、SSBの統計データはものの見事にナチス・ドイツのノルウェー支配時期は省略され、1946年に飛ぶので数字として追うのは困難ですが、Stenersen and Libæk(2003)でもう少し経済のことを書けそうです。単純に負債解消できた理由は戦時経済体制下にあって、軍事支出がノルウェー経済を刺激したということでしょうか(→参考:アメリカ合衆国の経済史#戦時統制: 1941年-1945年軍事ケインズ主義)。ナチス・ドイツもノルウェーの経済を利用しており、国土が一部(フィンマルク県:ノルウェー最北、ソ連が国境から攻撃)打撃を受けた以外は、フランスやドイツ、日本のように焦土化しているわけではなさそうです。折を見て文献を探しますが、ノルウェー語やドイツ語は読めんしなぁ……。英文献があればいいですが……orz。--Wushi 2010年4月22日 (木) 13:54 (UTC)[返信]
      •   コメントありがとうございます。どうも戦争があると国力が疲弊するという先入観があったようですが、言われてみると確かにプラスに作用することも大いにありえますね。-- 2010年4月25日 (日) 15:09 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)ノルウェーの歴史の「経済」というものを「ノルウェーの経済」のなかで歴史として書いている前半、いわゆる経済記事として様々な観点からまとめた後半という構成は、ウィキペディアの記事としては好ましいものだと思いました。その狭間で、「産業」以下を2009年の情報を中心に解説していった結果、、第二次大戦後から現在に至るの歴史的記述が薄くなってしまったように思います。「産業」以下の説では、ある程度推移を書いていく必要があるのではないかと思いました。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)他に指摘されるだろうなぁと内心思って書ききれていないところをズバッとコメントされてしまいました(苦笑)。戦後経済史は高度経済成長と負の側面の環境問題が発生した1960年代、北海油田で乗り切った1970年代、原油価格低迷で不景気になった1980年代、統計を見ながら思案中の1990年代以降というイメージです。産業に関しては、SSBのデータ如何ですが産業構造を端的に表している就業人口構成比の推移は書けるかなと。上述した通り北海油田からの収入を原資にした福祉、教育を含めた公共部門の肥大化を書ききれば大体コメントに対する回答になるのかなと思っています。参考文献の読み直しとSSBとのにらめっこが必要ですね。--Wushi 2010年5月1日 (土) 10:07 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)経済の記事はとっつきにくい部分が人によっては出てくるかもしれませんが、分かりやすい文章に仕上がっていると思います。ただ、皆さんが指摘している通り、不十分のところがあります。細部で気になったところは、1920年代のノルウェーのインフレ率です。具体的な数字を文章中に織り込んでください。--Tantal 2010年5月1日 (土) 11:47 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)1920年代のインフレ率ですが、SSBのデータには名目GDPと連鎖価格で計算した実質GDPがありますが、消費者物価指数といった近年使われている指標は掲載されておりません。名目GDPを実質GDPで割ったGDPデフレーターを算出した後、名目GDP成長率、実質GDP成長率、GDPデフレーター前年比を用いたグラフ化、ないし計算しなくていいならば数表化は可能です。--Wushi 2010年5月2日 (日) 05:42 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)とりあえず、独立から1939年までの統計データをグラフ化しました(第二次世界大戦中の統計データはないのであしからず)。1970年代のノルウェーを除く先進国のようにインフレ下の不況、つまりスタグフレーションになっているわけではなく、大戦中・直後のインフレと、1920年代の名目GDPの減少とデフレと最悪の時期であることはグラフを見れば分かるかと思いますが、文章はもう少し練り直しがいるかもしれません。--Wushi 2010年5月8日 (土) 05:37 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)編集お疲れ様でした。データを引用しつつの記述は相変わらず流石だと存じます。歴史の部分の構成、「デンマーク=ノルウェー時代まで」は、動きが読み取りづらいので、「ハンザ同盟まで」「カルマル同盟下」に分けてはどうでしょうか。また、ハンザ同盟の一員であったところからカルマル同盟に変化したことで経済的にどのような影響を蒙ったかの情報があると面白いかと存じます。「マーシャル・プランが、その問題を解消させた」の部分はどの様な因果関係でそうなったのか簡単な説明があるとわかりやすいです。細かいことですが「スターリングポンド」は、往時その様に特に言われていたのでしょうか。WIKIPEDIAでは記事名がUKポンドとなっているのでちょっと気になりました。それから「産業」以下の部分では、対象が「ノルウェー」である、という事が明らかですので、特に明示する必要がある箇所以外は「ノルウェーの」等の表現は削除しても差し支えないと存じます。読んでいてちょっと冗長に感じました。今後の加筆・充実に期待させていただきます。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月1日 (土) 17:11 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)スターリングポンドというよりポンドスターリングのほうが正確そうなのでそちらに修正しました。UKポンドの英語版はPound Sterlingです。世界恐慌中に、イギリスはSterling Blocを形成しているので、UKポンドというよりポンドスターリングでいいかと。歴史の小節ですが、提案は申し訳ありませんが却下させていただきます。1397年から1536年(伯爵戦争終了、ハンザ同盟の完全終焉は1648年のヴェストファーレン条約)までハンザ同盟とカルマル同盟の角逐が併存していた状況が正確だからです。また、ベルゲンこそハンザ同盟に参加しているものの、ベルゲン以外の地域がハンザ同盟に入っているわけではありませんし、ノルウェーがハンザ同盟の経済的従属下にあったとしても、政治的にドイツ諸邦ないしハンザ同盟に支配されているわけでもありません。ノルウェーはあくまでデンマーク率いるカルマル同盟の支配下にあり、スウェーデン離脱後、1814年まではデンマークの支配のもと連合王国を形成しているからです。--Wushi 2010年5月2日 (日) 05:42 (UTC)--(微修正)Wushi 2010年5月2日 (日) 05:43 (UTC)--(誤字訂正)Wushi 2010年5月2日 (日) 13:40 (UTC)[返信]

東観漢記 編集

  • (コメンテーターコメント)資料そのものは広範にわたっており、必要な情報は網羅されている印象があるのですが、構成や文章が練れておらず、記事の前後を何度も行ったり来たりしないと理解が難しい点が惜しいと思います。以下、いくつか具体的に指摘させてもらいます。「書名の由来」で、史料編纂の中心が蘭台から東観に移ったことが述べられていますが、経緯が非常にわかりにくいです。蘭台の職務であった図讖がどうやら焦点のようですが、図讖がどういうものかは注釈を読まないとわかりません。これは本文に反映してほしいと思います。これ以外にも、注釈のいくつかは本文に移した方がよいと思われるものがあります。また、この図讖が「反政府勢力の根拠ともなっていた」ことと「図讖に基づいた歴史書編纂によって反後漢勢力の封じ込めをはかる」との記述がどう整合するのか不可解です。さらに、東観人士が図讖を批判していたということは詳しく述べてありますが、では蘭台から東観になぜ移ったのか、その理由は示されていません。「『東観漢記』と『後漢書』を読むときに」という留意点も百科事典らしからぬ記述(誰が誰にいっているのか?)であり、このあたり、全体に込み入った説明ですがおよそ要領を得ているとは言い難いと思います。次に「版本」節では、「現存する」となっていますが、全体としてどのような版本が作られ、そのうちどのくらい現存しているかという概括が必要だと思います。また、後まで読めば原本が散逸したことはわかってきますが、ここでひとこと触れておかないと、いきなり「現存する版本」では唐突な感が否めません。少々くどくなってしまったかもしれませんが、項目の重要性は高いと思うので、さらに改善を期待したいところです。--みっち 2010年4月22日 (木) 09:13 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)丁寧に読んでいただき、ありがとうございます。まず「図讖」について、これを注釈に入れたことについてなのですが、これは本来本記事のカバー範囲を越えており、むしろ別記事として述べられるべき内容と考えているのですが、今回「図讖」の解説そのものに手を広げるほどの余裕はなく、かといって解説がないのも不十分と思い、最低限の解説を注釈として入れておきました。私個人はこれを本文に組み込むべきかはすごく悩むところです。「図讖」というキーワードはこの記事の理解には欠かせないのですが、それを記事の本筋で述べてしまうと流れが錯綜してしまうような気もするのです。ただやはり改善の余地はありそうです。次に、図讖が「反政府勢力の根拠ともなっていた」ことが「図讖に基づいた歴史書編纂によって反後漢勢力の封じ込めをはかる」ことにどうつながるのかということですが、これは後漢政府による歴史書編纂という事業が「図讖」のいわば正統教義のようなものを歴史を通じて認定する行為であり、要はどういう「図讖」理解が正統で、どれが異端かということを歴史叙述で事例を示すことによって弁別したという意味です。これは文意が不親切であったと思いますので、たしかに改善すべきですね。「『東観漢記』と『後漢書』を読むときに」節の内容は小林春男論文の結論です。これも脚注でそう示した方が適切だったかもしれません。一応この節を含む上位節「後漢時代の修史事業および東観について」が小林春男論文に依拠していることはまず宣言しているので、この節も小林論文の内容であるとわかるのではないかと思い、主語を省いてもよいと判断したのですが、小林春男の見解と明記した方がやはり中立的と思います。その点これもご指摘の通りと思います。次の「版本」節については、実は難しい問題で、これについて信頼できる二次情報がありません(この節に一つも出典がないのはそのためです)。実はこの「版本」は私がNACSIS WEBCATを使ったり、他の文献を使って情報を補った一次情報に近いものなのです。ただNACSISの使い方を知っている人なら、それを用いれば私の書いていることが間違っていないことは明らかだとおわかりになると思うのですが、しかしこれについての情報を記載した二次情報源がないのです。この節が妙に歯切れが悪いのはそのせいです。したがってどのくらい現存しているかとかは信頼できる情報がないので、つっこんで書けないのです……。あと元々この記事は市販のいわゆる「研究入門」というものにある『東観漢記』についての項目の不備がひどいので、それに代わるものとして現時点で得られる最良の文献案内をと思い執筆しました。その際「版本」情報を優先するのは、中国史分野独特の癖みたいなところがありまして、つい無意識でやってしまったものです。中国古代史で史料を扱う時は、ついどういう版本があって、どれが信頼できるとかいうところから入っていくというところがありまして……。言われてみると、なるほど「版本」情報がいきなりくるとたしかに面食らう気がします。記事としての理解しやすさを考えると、これは散佚の経緯を説明したあとの方がわかりやすいですね。いろいろ気づかされました。コメントありがとうございました。--Kanbun 2010年4月22日 (木) 15:34 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)執筆お疲れ様でした。興味深い内容で、文章も読みやすかったです。加筆をご検討頂きたい点は2点で、まず「現代歴史学における史料的価値」節にある、斎藤実郎による「『東観漢記』は実録のような第一次的な史記録かそれに近いものと従来考えられて、その他の後漢時代を扱った歴史書より高い史料的価値を与えられてきたのであるが、実際は必ずしもそうとはいえず」という分析について、その具体的な根拠、具体例があれば知りたいと感じました。2点目は「現存する代表的な版本」について、姚本と校注本については刊行時期が分かりましたが、聚珍本と四部備要本についても大まかな時期を記して頂ければと思いました。それからこれは個人的な関心ですが、「後漢後期の史料編纂と東観人士の合理主義的歴史観」節の「漢王朝を神聖視しないという意味で、その支配を相対化して考えることが可能となり、ひいては王朝の滅亡もありうべきことと考える柔軟さを生んだ」について、このような態度が権力者によって危険視されることはなかったのでしょうか?権力者にとってはむしろ蘭台的な、図讖に基づいた歴史書編纂をしたほうが権力維持に都合がいいような気がするのですが…-- 2010年4月23日 (金) 17:54 (UTC)(加筆)-- 2010年4月23日 (金) 18:00 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。斎藤実郎論文についてですが、内容は一部の記述を詳細に比較して検討するというやや百科事典的な度を越した専門的なもので、本文にその分析を入れてしまうときわめて煩雑になってしまうと思います。これは記事に含めずに詳細は論文でということで問題ないと判断しました。そもそもこの歴史書に興味を持つ人が限られてくると思いますし、そういう人はやはり論文本体を参照すると思うのです。ですから、この記事はそういう論文を見つける足がかりになればよいと思っています。また斎藤論文の内容は『東観漢記』の文献学的批判研究「序説」とでもいうべきもので、この歴史書全体へ考察を進めているものではありませんから、現状でそれほど参考すべき点はないように思われます。それに比べると、小林春男論文はこの史料の性格につっこんで考察しているので、やはりこちらのほうが現状で参照する価値が大きいと思われますので、本文も小林論文を中心に据えている次第です。聚珍本と四部備要本の成立時期についてですが、正確な成立時期についての二次情報源を知りません。四部備要本については1920年~1936年の間でしょうが、あるいは私の勉強不足かもしれませんので、書ける時期が来たら書こうと思います。今の段階では迂闊に書けないとだけお答えいたいと思います。「漢王朝を神聖視しないという意味で、その支配を相対化して考えることが可能となり、ひいては王朝の滅亡もありうべきことと考える柔軟さを生んだ」についてですが、本文中にあるように、後漢当初は班固が危険思想を疑われたように、当然権力者によって危険視されていたわけです。しかし、後漢後期になると、儒学において今文学に対する古文学の優位が決定的となり、それに呼応するかのように古文学と親和的な東観的歴史学が台頭したというのが小林論文の正しい理解となるのではないかと思います。リンク先の今文の記事を読めば、後漢代儒学における古文学の最終的な勝利はわかると思ったこと、それからこの記事で今文学と古文学について解説することは煩瑣であろうことから省きましたが、少し加筆しても良いような気もしました。コメントありがとうございました。--Kanbun 2010年5月1日 (土) 15:55 (UTC)[返信]
  • (読後感想)かつて三史のひとつとされながらも時代の流れと共に散逸していった歴史書ということで、聞き覚えのある人物も何人か登場し、興味深い内容に仕上がっていました。みっちさんの指摘と重複しますが、最後まで読み進めないとこの書がナニモノで、今どうなっているかがわかり辛い構成となっているため、そのあたりを見直して頂けたらと思います。執筆お疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月25日 (日) 13:58 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)なかなか書かれない周辺的な事柄は素晴らしく充実しているのに対し、東観漢記そのものは、どういうものか、という部分が不足しているように思いました。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。『東観漢記』とは「どういうものか」についてこれ以上書くのは、端的に難しいと思います。どういうものかという表現がどういうものを指しているのか非常に難しいのですが、版本と来歴はかなり詳細に記しましたので、歴史学で史料として扱う上で「どういうものか」については網羅してあると思います。最近はやりの文献学的な意味での考察についても研究を紹介し、読む際の留意点を挙げておりますし、『東観漢記』についての研究論文は本項目の参考文献がほぼ全てです。「周辺的」というお言葉が一般的な書誌情報を扱う際のことを言っていらっしゃるのか、あるいは何かウィキペディア的に書物の記事に基準があって、それについて中心的な内容が扱われていないという意味なのかわかりませんが、少なくともこの文献を研究史料の一つとして扱う際に「中心的」な問題となる点は網羅されていると思いますので、そうですね、ご期待にはなかなか添えることができないように思います。執筆時に二十四史の各個別記事を参照してみた感じでは、それらに書かれている以上の内容は網羅できたとたかをくくっていたのですが、ご期待に添えなかったようで、努力不足であったようです。最近まで散佚していた歴史書ですし、『後漢書』が『日本書紀』に与えたような影響力もありません。--Kanbun 2010年5月1日 (土) 15:55 (UTC)[返信]
コメントが短かったこともあり誤解をうんだのか、本質的な食い違いなのかはわかりませんが、前者についてはお詫びします。
下のikedat76さんの表現を借りてコピペさせてもらうなら、歴史的なものであれ、そうでないものであれ、そこに書かれていることが本体であり、「本書編纂の背景や編纂過程、思想的な位置付け等についてのこと」は周辺的な事柄です。そして、残念ながら、本であれ巻物であれ、歴史的な資料であれ今日の文学作品であれ、ウィキペディアの一般的な水準としては、「本書編纂の背景や編纂過程、思想的な位置付け等についてのこと」は、「なかなか書かれない」ものであったという印象を持ちます。百科事典の記事としては、単に内容をまとめたものだけでは足りず、「本書編纂の背景や編纂過程、思想的な位置付け等についてのこと」が重要であり、これはじゅうぶんに書かれていると思いました。その上で、後漢(25年から220年)の歴史を記した歴史書で、もと143巻、後漢一代を紀伝体で書いたものだ、という以上に、この「東観漢記」には、何が書かれているのか、ということをもう少し書いて欲しいと思いました。
百科事典というのは、専門家が読む、専門家になろうとしている人が読む、ということもあるでしょうけれど、そうではない人たちも読者となります。研究史料の一つとして扱う際についての「中心」が書かれているだけでは、百科事典の記事としては十分ではないと思います。ちょっと検索してみた程度でも、東観漢記に言及しているものがいくらか見つかります。では、東観漢記とは何なんだろう、と思って、でも本格的に調べようと言うのではなくて、要するにどういうもんかというのを知りたいときに百科事典を使う。「後漢(25年から220年)の歴史を記した歴史書」では、ちょっと足りないし、かといって版本や来歴を知りたいわけでもないと思うんですね。
「内容」の節には、22巻の表があり、紀伝体を参照すれば全体の構成はわかったつもりになれるような気もしますが、たとえば「伝」というのは、「個々の人物(特に国に仕えた官僚)の一生や周辺の異民族の民俗」(紀伝体)と、そのまま受けとればいいのか、「単に伝を連ねたものと解釈した方が良いかもしれない」のかは判断が難しいです。元代以後、『東観漢記』はほとんど散佚したが、22巻の『東観漢記校注』としてまとまっていて、史実に比較的忠実な歴史叙述も可能となり、『後漢書』と比べると文体が整っていないが情報量は多く、同時代史を扱った歴史書であるために制約が多い、ということは、おおむね読みとれます。では、「もと143巻」はどのような構成だったか、22巻というのは、どの程度復元できていると理解されているのか。では、ここに書かれている様々な背景は、どのように反映されているのか。たとえば「伝」の人選に何か傾向があるのでしょうか。「現代歴史学における史料的価値」では「たとえば」として「光武帝紀の文字数で見ると、『東観漢記』は『後漢書』の3倍ほどであると推定される」というようなことは、もう少し書けるのではないか。『東観漢記』の記述を由来として、しばしば参照される事柄があるなら、そういうことも書けるのではないか。
それほど細々と書き連ねる必要はないと思いますが、「内容」の節で、文章での内容の概観と、大まかな傾向であれ具体的な例示であれ、内容面で本書の特徴となるところを記すことはできない、あるいは好ましくないでしょうか。(五畿内志のほうのやりとりも参照ください)--Ks aka 98 2010年5月2日 (日) 12:58 (UTC)[返信]
(執筆者コメント)お返事ありがとうございます。
>「もと143巻、後漢一代を紀伝体で書いたものだ、という以上に、この「東観漢記」には、何が書かれているのか、ということをもう少し書いて欲しいと思いました。」
これは原本が失われてしまっている現在、全体像が分からないので、端的に難しい問題です。何が書かれているのかについては、後漢の歴史について書かれており(本紀)、現在残っている部分が誰について書かれているか(列伝)は、「内容」節を参考にして下さいとしか言えません。
>研究史料の一つとして扱う際についての「中心」が書かれているだけでは、百科事典の記事としては十分ではないと思います。ちょっと検索してみた程度でも、東観漢記に言及しているものがいくらか見つかります。では、東観漢記とは何なんだろう、と思って、でも本格的に調べようと言うのではなくて、要するにどういうもんかというのを知りたいときに百科事典を使う。「後漢(25年から220年)の歴史を記した歴史書」では、ちょっと足りないし、かといって版本や来歴を知りたいわけでもないと思うんですね。
これも前述の理由からおそらく応えるのは難しいです。結局何を求めていらっしゃるのかが明確にならないので、なおさら困難を感じます。まずKs aka さんのおっしゃるような「東観漢記とは何か」ということを記載した書物は皆無でしょう。そして、この書物の内容はそれほど目新しいことが書いてあるわけではないです。散佚部分が見つかれば、世紀の大発見でしょうが。私は本記事は研究史料についての記事なので、研究史料として扱う際の中心が書かれているのが当然であり、それが百科辞典的ありかたであると思っています。
>では、「もと143巻」はどのような構成だったか、22巻というのは、どの程度復元できていると理解されているのか。では、ここに書かれている様々な背景は、どのように反映されているのか。たとえば「伝」の人選に何か傾向があるのでしょうか。「現代歴史学における史料的価値」では「たとえば」として「光武帝紀の文字数で見ると、『東観漢記』は『後漢書』の3倍ほどであると推定される」というようなことは、もう少し書けるのではないか。『東観漢記』の記述を由来として、しばしば参照される事柄があるなら、そういうことも書けるのではないか。
「では、「もと143巻」はどのような構成だったか、22巻というのは、どの程度復元できていると理解されているのか。」については、誰も分からないでしょう。なぜなら、原本がどういう構成だったのか誰も知らないのです。本文中でも言及しましたが、あくまで『史通』の記事から構成が類推されるのみです。「では、ここに書かれている様々な背景は、どのように反映されているのか。たとえば「伝」の人選に何か傾向があるのでしょうか。」についても同様に新発見でもない限り不明でしょう。「3倍ほどの内容」云々については脚注で示してあるように孫引きであり、元の中国語文献を入手できませんでした。私には無理です。「『東観漢記』の記述を由来として、しばしば参照される事柄があるなら、そういうことも書けるのではないか。」はそういうことはいまのところ寡聞にして知りません。
>それほど細々と書き連ねる必要はないと思いますが、「内容」の節で、文章での内容の概観と、大まかな傾向であれ具体的な例示であれ、内容面で本書の特徴となるところを記すことはできない、あるいは好ましくないでしょうか。
まず文章での内容の外観は校注本のことを書けということでしょうか。原本の特徴は「中国史学における伝統的な評価」節で本文中に『史通』の評を引いております。--Kanbun 2010年5月13日 (木) 14:36 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)編集お疲れ様です。読んでいて躓いたのが「後漢時代の修史事業および東観について」の節です。「讖緯」を重視していたから「図讖」を収集していた、という理解で正しいでしょうか。「図讖」の注釈を追うと「讖緯」を参照するように誘導されておりますが、そうすると讖緯と図讖の違いはなにか、ちょっと戸惑いました。また、讖緯は他で予言されたり占われたりしたもので、それを蘭台に集めたという理解で宜しいでしょうか。「このことは漢王朝を神聖視しないという意味で、~と考える柔軟さを生んだ」の部分は、柔軟と考えたのは誰かが良くわかりませんでした。「現存する代表的な版本」の節ではしばしば「日本国内の大学図書館に収蔵されている。」とありますが、これは具体的な学校名・場所などを記すと参考になると存じますが、抽象的に留まっているのがちょっと疑問でした。この分野には疎いので全く外した指摘かもしれませんが。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月1日 (土) 18:09 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。まず「讖緯」と「図讖」について。「讖緯」とは儒学の中で予言的なものを重視する思想・学問のことで、「図讖」とは具体的な個々の予言書のことです。したがって後漢政府は「讖緯」思想を重視して蘭台で「図讖」を収集したということです。中国史の専門用語なのでわかりにくいかなと執筆時も思っていたのですが、この部分はしかし、「讖緯」の記事でより詳しく述べられるべきと思い、あえてこの記事では深く突っ込んでいません(つっこんでいくと本筋を大幅に離れることになると思うので)。「このことは漢王朝を神聖視しないという意味で、~と考える柔軟さを生んだ」の部分については、小林論文が「柔軟である」と述べているので、小林本人の見方とするのが直接的というべきでしょうが、「王朝の滅亡をない」とする考え方と「ある」とする考え方は、前者が漢王朝を絶対視する歴史観、後者がそれを相対視する歴史観ですから、今日的な価値観からいえば、後者の方が明らかに柔軟であるというのは確かなように思われますから、一般化してよいと思います。現存する代表的な版本」節の「日本国内の大学図書館に収蔵されている。」という表記については、具体的に何々大学と書いていくと非常にとりとめなくなってしまうと思います。そもそも本書に興味を持つ方はNACSIS WEBCATを利用されると思いますから、大学図書館に収蔵されていると記せば、どの大学にあるかは自力で検索可能と思います。収蔵大学については増減があるでしょうし。またNACSIS WEBCATの利用の仕方などを本記事で説明するのもどうかと思いますので、そこは最低限大学図書館で参照可能なのだという点を説明すれば本記事の使命としては事足りると考えた次第です。コメントありがとうございました。--Kanbun 2010年5月2日 (日) 05:21 (UTC)[返信]

高松市立新塩屋町小学校 編集

(ライバルコメント)おそらく想定されていたよりも執筆が進まなかったと思いますが、お疲れ様でした。学校の記事を書こうとするとまず資料の確保が課題となりそうです。ホームページ以外に活用できそうな資料として思いつくのは、その学校の校史をまとめた資料、地域の教育史をまとめた資料、学校の設立や運営に著名な人物が関わっている場合はその人物について記された資料などです。まずはこういった資料を図書館で探されてみてはいかがでしょうか。-- 2010年4月19日 (月) 11:28 (UTC)[返信]

(審査員コメント)資料収集でおそらく難を極めた記事だと思います。小学校自体に特筆性があるとは言いがたく、小学校の記事を充実化させるには、アニメ版『けいおん!』の画像の資料となった豊郷町立豊郷小学校のように、素材を選ぶ必要が出てくると思います。また、小学校の説明では画像も必要でしょう。--Tantal 2010年4月24日 (土) 00:49 (UTC)[返信]

  • (読後感想)残念ながら執筆が中途になってしまっています。歴史に関しては[6]などである程度の加筆が見込めそうです。また、来月発刊される予定となっている閉校記念誌『玉藻の潮』が入手出来れば詳細な記述ができるかもしれませんので、是非チャレンジして頂けたらと思います(高松市の図書館あたりには入りそうですね)。執筆お疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月25日 (日) 09:51 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)香川県出身・在住の者としてこのような香川県関連の記事が増えることにつきまして大変うれしく思います。まずは執筆いただいたことに感謝を申し上げます。学校関係は特に香川県の場合、なぜか他県に比べて画像提供が少ない傾向ではないかと思いますので、是非とも画像は欲しかったかなと思います。昨年香川県立亀鶴公園の記事を執筆した際には、さぬき市商工観光課、香川県立図書館・文書館あたりを調べましたので、高松市立図書館などに、もしかすると詳細な資料があるのではないかと思います。閉校記念誌が来月とのことですので、是非図書館などでお調べいただき、加筆にチャレンジいただければと思います。香川県関連の項目ということで、Portal:日本の都道府県/香川県新着項目掲載と、加筆依頼画像提供依頼を提出しておきましたことをお知らせいたします。執筆お疲れ様でした。--御門桜 2010年4月27日 (火) 01:23 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)閉校という現在進行中の事象も絡むことから、執筆は難しかっただろうと思います。2010年3月22日の『朝日新聞』朝刊「香川全県・1地方」の紙面によると、地元では門柱保存運動が活発化し、閉校記念式典で卒業生が作詞作曲した「門柱に見守られて」という曲を歌ったのだそうです。次いで同紙3月31日の記事では地元の「新塩屋町校区コミュニティ協議会」の活動によって最終的に1747名の署名が集まったとか。さらに欲を言えば、高松市小中学校適正配置等審議会と新塩屋町小学校とのやりとりについて、もう少し触れられても良かったかもしれません。(もちろん、高松市立高松第一小学校・中学校の記事があるので詳細に書く必要はありませんが)--森造 2010年4月29日 (木) 19:24 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)今のウィキペディアの小学校記事としては、適切にまとめられていると思います。では、ここから先、何を記述するのがよいか、どのように資料を探せば、より充実した記事になるか、ということを考えることが、大事です。これからも頑張ってください。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]

只野真葛 編集

  • (読後感想)まず、只野真葛の記事が今まで無かった事と、これを題材にここまで詳細に書き上げられた事で2度驚いています。『独考』を単独記事として分割した方が良いかもしれませんが、それを含めて素晴らしい記事でした。執筆お疲れ様でした。調べていると、『独考』の原本は関東大震災で焼失したようなのですが、これは良く知られた事実なのでしょうか。とすれば、誰がどのようにこの作品を後世に残したのか、馬琴の写本なんだろうか、などと興味が湧いてきました。もしご存知であればご教示いただければ幸いです。--R.Lucy 2010年4月19日 (月) 12:05 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)丁寧にお読みいただき、また、過分なお誉めの言葉を賜り、恐縮しております。只野真葛の記事がなかったことには私も驚きました。百科事典における真葛の説明としてどれだけ成功しているかの判断は読者諸賢に委ねるとして、調べてみると意外な発見がたいへん多く、素直に自由研究を楽しむことができました。『独考』については、完本というかたちではのこっておらず、異なる3本が現存しています。1つは『独考抄録』と呼ばれるもので、嘉永年間に木村氏所蔵写本を転写したものだという書き入れがあります。木村氏によるものと思われる「婦女の筆にしては、丈夫を慙愧せしむる事書あらはせり。尋常の女にはあらずと歎美す」との書き込みがあり(只野真葛小伝(章末参照))、また、原本の誤字・かなまちがいを訂正したうえで筆写したという文化2年の断り書きがあるので、もともとは馬琴が書写したものの流れを汲むものと考えられます。現在、一般に『独考』として紹介されるのは、この『独考抄録』です。2つめは、只野家旧蔵の自筆本『ひとりかんがへ』で、これは御指摘のとおり、東京で関東大震災のため焼失してしまいました。内容は『独考抄録』上巻とほぼ同じです(ただし、『独考抄録』にはない「気水つまる事」という一文があります)。鈴木よね子氏によれば、この真葛自筆本は、真葛が馬琴に贈った『独考』の原型にあたるものではないかということです。自筆本は失われてしまいましたが、中山栄子氏による伝記『只野真葛』巻末に翻刻があるとのことです。3つめは、真葛が『独考』に追加したいとしてあとで馬琴に送ったものがあり、これは『独考追加』と呼ばれています。馬琴筆写本が国立国会図書館にのこされています。もし、仮に『独考』が出版されていれば、こうした問題も生じなかったとも言えるわけですが、馬琴の写本によってわれわれが真葛の思想にふれることができるのも事実です。そうした経緯も含め『独考』部分は分割した方がよいかもしれません。この部分は、当初はなるべくシンプルにまとめようとしたのですが、限界がありました。御示唆ありがとうございました。--Chokorin 2010年4月20日 (火) 07:30 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)生涯と作品を丹念に追った記述に感銘を受けました。とくに馬琴との交流は印象深いものがあります。ただし、とても魅力的な主題であることや、生涯や家庭環境が詳しいからこそ感得できるものがあるという裏腹な関係もあって心苦しいのですがあえていえば、専門書や伝記とは異なり、百科事典には記述のコンパクトさや客観性が求められると思います。この点で、「生涯」節などはやや書きすぎで、視点についても只野真葛に寄り添いすぎている感があります。作品紹介についても、だれによる称賛かわからないものがいくつか見られました。構成的には、著作に対する馬琴以外の当時の反響や後世への影響面をより詳述してほしいと思います。「只野真葛を描いた伝記や文学作品」でも、それぞれの意義や位置づけをもう少しふくらませてはいかがでしょうか。それにしても、泣ける項目です。--みっち 2010年4月22日 (木) 09:13 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)「心苦しい」ところを「あえて」おっしゃっていただいたのは本当にありがたく感じております。確かにおっしゃるとおりですね。みっちさんの貴重な御意見に沿いながら、ボリュームや構成を考えていきたいと思います。真正面からお読みいただき、また、真正面からコメントくださいましたこと、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。--Chokorin 2010年4月22日 (木) 10:08 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)執筆お疲れ様でした。主題への愛着や共感、関心なくして人物記事は書けないというのが持論ですが、この記事からはChokorinさんの只野真葛への思いがひしひしと伝わってきました。素晴らしい記事です。封建社会において才気ある女性が生きていくことの難しさを感じるとともに、晩年に達した境地に目を見張りました。以下、改善をご検討頂きたい点を書きます。
    • まずみっちさんの指摘と重なるところがありますが、解釈・分析・推察について主体がはっきりしない表現をしている箇所が複数ありますので、主体が誰であるかを明記した上で脚注を用いて出典を明記して頂ければと思います。具体例を挙げると、「少女時代」節の「あや子も当時の武家のならいとして家庭で古典の手ほどきを受けたものと思われる」、「著作活動へ」節の「大きな痛手であったと思われる」)は、現状ですと執筆者の主観ではないかと疑われる可能性があります。また、「真葛の作品」以降の節の、著作物に関する記述にも執筆者の主観ではないかと思われる可能性のある表現が(『むかしばなし』について「率直で批評性に富んだ魅力的な作品である」と述べている点など)複数あり、この点については大幅な見直しが必要と感じました。「『独考』の執筆と晩年」節の「女の戦い」といった表現も、出典を伴わなければ執筆者による独自の表現と受け取られかねないので記述の方法に工夫が必要でしょう。
    • また、記述量の割に出典を示すための脚注の数が少ないかな、とも感じました(とくに手薄だと感じたのは、「奥女中奉公」節、「「勝負の論理」と「仁義」」節などです)。参考文献を示すことで検証可能性は確保されていますが、なるべくより検証がしやすいようにされたほうがよいとも思います。
    • 資料の示し方について、「出典」と「参考文献」の違いがよく分かりませんでした。「参考文献」は記事を書く上で参照してはいないが関連する書籍のことかとも思いましたが、「参考文献」として挙げられている山形敞一『みちのく文化私考』も脚注の中に登場します。分類について再考の上、Wikipedia:レイアウトの指針によると「参考文献」は記事を書く際に引用・参照した文献を意味しますので、記事を書く上で参照はしていないが関連する文献は「関連文献」「関連資料」などと表記されてはいかがでしょうか。
    • 「著作活動へ」節の「儒教への憤懣」について、「「天地の拍子」」節を読めばその内容は「儒教を奉じて仁と義に則った生き方をしたにもかかわらず、それが報われなかった」ことに対する憤懣であると分かるのですが、できればこのことは「著作活動へ」節で説明したほうがいいと感じました。現状はやや唐突な感じがします。
    • 「少女時代」節にある「蝦夷地での裁判」が何を意味するのか、説明が可能でしたらお願いいたします。
    • 「『独考』の執筆と晩年」節の「当時の禁忌にふれる箇所」を具体的に示すことが可能でしたら加筆をお願いいたします。-- 2010年4月24日 (土) 09:58 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)丁寧にお読みくださいまして、まことにありがとうございました。御指摘の点はみな正鵠を射たもので、自分としても肯ける御意見ばかりです。過分なお誉めも含め、ありがとうございました。今後、工藤平助工藤安世長井基孝宇津保物語考救瘟袖暦などの関連項目を立項・加筆するのと並行して、それらの記事と重複しないよう加除訂正をほどこしていきたいと考えています。--Chokorin 2010年4月25日 (日) 02:48 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)出版はどのようになされたのか、ということがわかりませんでした。結局当時は刊行されなかったのか、では、いつ評価され、知られる存在となったのか、といったところの加筆を期待します。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)一人の人物について資料を丹念に追いつつ丁寧に記述されていると存じます。とても読みやすく判りやすかったです。気になるのは全般に対象の名前「あや子」「真葛」が繰り返し出てくるところで、ちょっと冗長に感じました。記述の対象は明らかですし、特に成長の過程を中心に、他人が絡まない記述では名前を省いても宜しいかと存じます。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月1日 (土) 18:27 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございました。また、お返事が遅くなり、たいへん申し訳ありませんでした。『独考』に関する部分を分割・加筆して、新しく「独考」の記事を立てましたことを御報告いたします。また、お2人の御指摘も含め、今まで教えていただいたことを踏まえて自分なりに記事を加筆修正いたしました。本当にありがとうございました。また、いろいろと教えてください。それから、皆様からの加筆修正も歓迎いたします。これからも、よろしくお願いします。--Chokorin 2010年5月8日 (土) 13:29 (UTC)[返信]

五畿内志 編集

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (コメンテーターコメント)おそらく日本史を通じても価値ある史料なのだろうと思わせる、示唆に富む内容です。ただ、構成的には、前史や背景に力が入りすぎて重くなっていると感じます。また、水準の高さは認めつつ、率直に言わせてもらえば、文章がややくどく、一部に難解な表現があるのが気になります。とくに前史や背景的な部分にそうした文章や一般的でない用字が目立つため、重さが際だってしまう面があると思います。ここでは国土に対する認識の変化を押さえつつも、もう少し簡潔にとどめ、後段の意義などの節で補足するというような工夫はいかがでしょうか。以下、3点ほど質問です。「江戸幕府による最初の幕撰地誌」とのことですが、最初ということなら他にも幕撰地誌があるのでしょうか。あるとすれば、そうした中で「五畿内志」がどういう位置づけにあるのか、といった俯瞰的な説明がほしいと思いました。また、「編纂に当たって、日本全国の地誌を網羅することが念頭に置かれていたが、実現したのが畿内部のみであった」その理由はなんでしょうか。「元禄国絵図」において「国境を全国的に一貫して確定せしめた」にもかかわらず、太宰春台によれば同絵図は非公開となり、「国境論争がしばしば起きているばかりか裁許が難しい現状」に至った理由はなんでしょうか。--みっち 2010年4月21日 (水) 07:40 (UTC)[返信]

(コメント)コメントいただき、ありがとうございます。何が書いてあるのかよく意味がわからない(「示唆に富む」)モノをお目にかけてしまったことを残念におもいます。リアルワールドで明日からトラブル対応で忙殺されることが決定になってしまったため、コメントにお答えできるのはコンテスト期間内では最初で最後になってしまうかもしれませんが、ともかくもお答えします。

まず「幕撰地誌」としての位置づけについて。『五畿内志』の思想と影響にも記したとおり、また、冒頭定義部にも「…と見なされた」と記した通り、本書は幕撰ではありません。編纂事業が幕府の多大な支援を受けたことから、そのように一般に見なされたのは事実ですが、あくまで関・並河らによる私的な事業です。そのことを踏まえた上で言うならば、最初の幕撰と言いうる地誌は19世紀にならなければ登場せず、その代表例である『新編武蔵風土記稿』『新編相模風土記稿』はいずれも、漢文による記述や項目・構成などの点で、本書に倣っています。『五畿内志』の思想と影響解題でそうした点は触れたはずですが、分かりにくかったようです。

次に「実現したのが畿内部のみであった」理由ですが、主要な参考文献とした白井氏や井上氏の著述でもそれらの点は触れられていません。幕撰ではない、という点を合わせて考えると、私的事業ゆえの限界ということなのかと個人的には推測しますが、あくまでWP:NORにすぎないので、記事に盛り込むことはできません。

「国境論争がしばしば起きているばかりか裁許が難しい現状」云々の件。『元禄国絵図』が「国境を全国的に一貫して確定せしめた」のは確かですが、幕府による国郡制的な領域把握を完全に貫徹しえたわけではないという事情があり、これについては別記事(元禄国絵図)の今後の整備に委ねざるを得ないと考えています。また、近世を通じて、領国なる概念が一体何を指すのか、かならずしも自明ではなく、幕府・領主・現地住民の間でせめぎあいがあったということが、近世史研究では知られていますが、本項目でその部分の議論をケアすることは不可能です。他記事で対応せざるを得ないところでしょうか。

さて、背景や前史の説明が重いというご指摘は認めざるをえませんが、一方でやむを得ない部分が無いわけでは無いとも思っています。第1に、研究史 に記したとおり、白井氏らによる近世地誌編纂史の研究蓄積それ自体は、あまり蓄積があるとは言えず、一般に知られているとも言いにくいため、耳慣れない用語・用字はある程度使用せざるを得ません。第2に、白井氏らの研究は、先行研究として17世紀末から18世 紀にかけての時代に関する研究の進展と相当量の蓄積を踏まえたものであり、しかも、それら先行研究で得られた知見を前提としてなければ理解することは難しいものです。そうした先行研究(例えば、塚本学「綱吉政権の歴史的位置をめぐって」(1982)など)での知見によって描き出されたイメージと、巷間に流布したイメージとはひどく違ったもので、一例を挙げれば、17世紀末から18世紀初にかけての近世社会に対する明清交代のインパクトという論点はほとんど知られていない(少なくとも、歴史学の専門書に接する機会の無いor乏しいであろう、ほとんどのjaWPの読者には)のではないか、それゆえ、これらの点を説明しなければ、読者にわからないだのではないか、という危惧があって、前史にかなりの比重を割くことになりました(「前史」の部分が全くない版というのも過去の版には実はあります2010-03-27 06:14:42 (UTC)版)。その意味でずうずうしくも言うならば、近世史にまつわるもっと沢山の記事群によって担われるべき記述まで、無理に詰め込んだというところは若干否定し難いところがあります。

以上、不十分ではありますが、回答と致します。いただいたコメントは、今後の改稿や関連記事の整備のチャンスには参考に致します。ひとまず、お礼を申し上げます。--ikedat76 2010年4月23日 (金) 18:13 (UTC)[返信]

  • (再コメント)詳しい説明ありがとうございます。1点だけ強調させていただきます。私が元禄国絵図の非公開・国境論争について質問したのは、この点は一連の記述の中で小骨のように引っかかるところで、説明されている領土認識の変化というものに対するアンチテーゼともなり得る事柄ではないかということです。言い換えれば、このような流れが事実で、太宰の主張がこれへの反発だとすると、ここで第一に挙げられている主張は、当時として主流でなかったのではないかという疑問が生じます。そうなると、この項目の記述の観点全体に影響するわけです。まあ私は資料を読まずに表面だけでものをいっていますので無責任な妄想といわれても仕方ないですし、おっしゃるように本項目でケアすべきことでもないかもしれませんが、そう読まれる懸念もあるということは、認識いただければと思います。--みっち 2010年5月1日 (土) 12:06 (UTC)[返信]
      • (コメント)コメント期間も過ぎてしまった気がしますが…一応書きます。17世紀末から18世紀初頭にかけて、明清の「華夷変態」の衝撃に対する反応として、国家意識の上昇や日本地理の再認識が生じたという論点は、おそらく最も古い時期のものとしては塚本[1982]「綱吉政権の歴史的位置をめぐって」で提起されて以来、岩波講座所収の高埜[1994]「一八世紀前半の日本」や、本項目で参照した杉本氏や白井氏の諸著作も含めて、(本項目では使用しなかったもの含めて)ここ20年近くの文献で大きくは受容・踏襲され続けてきた観点であって、「領土認識の変化というものに対するアンチテーゼ」はまずないものと認識しています。ただ、こうした点は、既に述べたことと重複しますが、近世史研究の比較的新しい(とはいっても1980年代以降)動向がいわゆる「一般」にはほとんど知られていないがゆえに、疑問を感じられるのはやむないところかとも思います。こうした点で言えば、jaWPの近世史の記事の平均的水準が、やはり追いついてきていないという感は否めず、素人の寄せ集め(といっても私自身も実はそうなのですけれど…)で百科事典を編纂しようとするWPのプロジェクトとしての弱さなのかもしれません。そうした意味で言えば、今回の記事は、≪厄介な宿題をたくさん発見してしまった≫という意味で「パンドラの箱を開けてしまった」感があります。ちょっと専門家でもなんでもない私一人では出来るわけもないですが、そうしたことを求められているプロジェクトではない、というところで、フォローするべき弱点が発見できたと前向きに考えておきたいと思います。成果物(記事)までお約束するのは難しいですが・・・。--ikedat76 2010年5月1日 (土) 16:17 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)執筆お疲れ様でした。正直な感想として、扱われているテーマがかなり難しく(好みでいえば好きな部類のテーマなのですが)、読み進むのに苦労しました。文体については、難解な専門用語を使用せざるを得ない部分については仕方がないでしょうが、そうでない部分についてはできるだけ平易な言葉で記述することを心がけて頂ければ、と思います。背景事情の説明については、主題を理解するには不可欠と印象を強く抱きましたが、構成に工夫をする余地はあるかもしれません。例えばikedat76さんが既に言及されているように、元禄国絵図の単独記事を作成し、元禄国絵図に関連する事情の詳細な説明はそちらに任せ、こちらの記述はできるだけ簡略化するといった具合にです。それからみっちさんのコメントと関連しますが、元禄国絵図が非公開となった理由については、自分なりに想像はしてみたものの、やはり説明が欲しいところだと感じました。以下は質問です(いくつかは授業で先生に質問するような感じになってしまいましたが)。
    • 「熊沢蕃山が北狄の脅威を説いた」(「前史」節)のは、日本に対する脅威としてでしょうか?北狄は中国北方の異民族を意味するようですが、それが日本にとって脅威とということは、中国を支配した清が日本に侵攻してくるのではという恐れを熊沢が抱いていた、という意味でしょうか?
    • 「こうした「国」概念は、近世成立期までに見られてきた「国」概念とは異質な、新しい概念であった」(「前史」節)の箇所について、令制国を見ますと、713年(和銅6 年)に、元明天皇が令制国毎に『風土記』という地誌の編纂を命じた、という記述があります。これが本当だとすると、新しい概念ではなく古い概念の復活ではないかとも受け取れるのですが、いかがでしょうか?
    • 「前史」節に、幕府が「琉球が幕府に叛したとしても琉球に与しないよう、薩摩藩に対し改めて誓約を求めただけでなく、日琉関係を体制的に意図的に隠蔽」したにもかかわらず「琉球国絵図が元禄日本図の一部として収載された」とありますが、これはつまり幕府が琉球について、日本の一部とみなしつつも清への懸念から消極的な政策をとっていたということでしょうか?
    • 「編纂と板行」節に「幕府は並河に編纂を既に命じていた」という記述があり、これは「『五畿内志』の思想と影響」節の「幕府の命によって編纂されたものではないと言う意味で幕撰地誌とは言えない」という記述と矛盾している気がするのですが、いかがでしょうか。-- 2010年4月24日 (土) 02:27 (UTC)[返信]
    • (コメント)遅くなりましたがご質問にお答えします。
      1. 熊沢蕃山の件はご理解の通りで結構です。本文中でも記したとおりですが、華=文明=漢人王朝から夷=野蛮=遊牧騎馬民族(女真)王朝への交代は当時の権力者や知識人にとって相当衝撃的なものであったようで、そうした衝撃を踏まえてのことと理解していただいてよろしいと思います。
      2. 「国」概念ですが、カッコで括っていることにご注意ください。ここでの「国」とは直前の「個別・具体的なコンテクストや人間関係(ここでは特に「知行を媒介とした将軍と領主との人的結合」ikedat76補注)から離れた自律的で抽象化された領域」としての意義を持つものであり、注142010-04-17 14:37:47 (UTC) 版基準)に言うように、古代令制国を含めてそうした領域把握の仕方はこの時期まで日本史上では見られないものでした。今日的な感覚では、領域は線による境界で画然と分割されているものだと思われています。しかし、近世に至っても、領域の境界はそうとう漠然としか把握されておらず、まして土地開発の度合いも低く探索も進んでいない古代では、今日的な意味での境界は無かったと言っても差し支えありません。
      3. 琉球の件、やや長くなりますが説明します。この時期、日本に漂着した外国船はいったん長崎に回送されてから、本国へ送還する体制を幕府はとっており、それに薩摩藩や(薩摩藩支配を介して)琉球もその体制にしたがっていました。しかし、清朝成立後、中国からの漂着船を長崎を経由せず直接送還するようにという清朝の要求を、琉球は日中両属の事実を知られないようにするため、薩摩藩にも幕府にも知らせることなく独断で了承しました。結局この独断は7年後に薩摩藩及び幕府に知られてしまいますが、薩摩藩・幕府とも結局追認しています。薩摩藩・幕府とも琉球に自らの支配が及ぶと解していましたが、同時に琉球が中華帝国との冊封関係なしに存立し得ない、言い換えれば幕藩体制内に収まりきれない「異国」との認識を持っていました。また、そうした「異国」をめぐって清朝とことを構えて、幕藩制国家に混乱を持ち込むことを幕府は望んでいなかったようです。以上、豊見山和行「近世琉球の外交と社会 - 冊封関係との関連から」(1997、『歴史学研究』703)を参照しました。
      4. 本書の編纂に先立つ調査は、複数の領国を私人が(同文書には並河を「浪人」と記しています)調べて廻るわけで、幕府の許可なしに勝手に行うことはできませんでした。したがって、その許可の体裁上「命じる」とされたものです。--ikedat76 2010年5月1日 (土) 03:16 (UTC)[返信]
      • (コメント)ご回答ありがとうございます。いずれもわかりやすいご説明で、自分なりによく理解することができました。-- 2010年5月1日 (土) 14:32 (UTC)[返信]
  • (読後感想)『五畿内志』の中身がどんなものであったのかについては、解題の「各国志の最初には山岳・主要交通路・河川および郡名を記した絵図を示し、ついで建置沿革、範囲、道路、景勝、風俗、祥異、郡ごとには郷、村里、山川、物産、寺社古跡、陵墓、氏族といった項目を記載する。」の1文でまとめられてしまっているのが物足りなく感じました。書誌の節と絡ませつつ、五畿内志を知らない読者にもそれぞれどんなことが書かれているのかの解説があればより充実した記事となるように思いました。その他、編纂の歴史や文化的意義に関しては文句のつけようが無く、素晴らしい記事に仕上がっていると思います。執筆お疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月30日 (金) 09:55 (UTC)[返信]
    • (コメント)ご指摘は承ります。しかし、それ以上に「どんなこと」を書けばよいのか、理解しかねます。「××国の○○郡△△郷の□□は…」と列挙するのであれば、『五畿内志』(活字本でしたらあります)を読むのと何ら変わりありません。そのようなことをしようとすれば出来るでしょうし、量的に拡張できるでしょう。しかしそのことと「充実した記事」であることとの関連は疑問です。念のため、申し上げておきますがこの記事は『五畿内志』の逐条解説ではなく、百科事典記事です。そこには(いかに紙製ではない)とはいえ、情報の取捨選択 - 多くの場合、捨てる方が生じます。その選択について、R.Lucyさんは私と異なる理解に達しておられるように思います。--ikedat76 2010年5月1日 (土) 03:16 (UTC)[返信]
      • (コメント)私はikedat76さんがかつて執筆された和州吉野郡群山記の構成節のようなものを想定して、単純に内容についてもっと触れられていれば良いのにと思ったまでです。『五畿内志』ではそうした個々の内容は特に特筆性が無く、節として記事に組み込む必要がないのかも知れません。でもそれは前提知識を持たない読者(私)には判りません。内容について触れる必要が無いならばikedat76さんがそう判断した理由が知りたかったです。「どんなことを書けばよいか理解しかねる」というご回答は非常に残念でした。--R.Lucy 2010年5月1日 (土) 09:59 (UTC)[返信]
(インデント戻し…コメント期間も過ぎてしまいましたが…)「特筆性」ということでWikipedia:特筆性にいうところの概念を指しているのだとすれば、それはそもそも記事を立項するか否かの判断にまつわる指標であって、記事の内容に何を書く(書かない)かの判断にまつわるものではないという点は従前にも申し上げたはずですが、私の記憶違いでしょうか。2010年4月30日 (金) 09:55 (UTC)のコメントは拝読しましたが、「和州吉野郡群山記の構成節のようなもの」が期待されていると解するのは無理というものです。
和州吉野郡群山記(以下、群山記)と五畿内志では事情が異なります。群山記の著者である源伴存の著作は生前にはただ1点を除き、板行(出版)されませんでした。源伴存でもふれたことですが、群山記の内容やその最大の特徴である方法論も1970年代まで正当に評価されてきたとはいえませんし、群山記に限らず伴存の生涯や業績もきちんと把握されてきたとは言いがたい状況がありました。また、巻七・巻八の「物産志」というタイトルから、その内容(自然史)を推し量るのもおよそ無理というものです。こうした事情があるから、群山記においては内容や方法論に関して踏み込んだ記述をしました。また、そうした力点の置き方は、私個人の知識や判断のみに即して選択したわけではなく(もちろんそうした力点の置き方を妥当だと考えていますが)、記事執筆にあたって参照した文献に従ったものです。
しかし、五畿内志は編纂完了後ただちに板行に附されただけでなく、多くの地誌や名所図会に引用され、後の幕撰地誌などにおいても範例として参照され、今日でも近畿地方の地名の語源を説く資料として参照されている(例:果無山脈)など、その内容は広く知られています。また、収載された項目とその内容も、(物産志=自然史のような)知らなければ分からないというような理解しにくいものではありません。研究においても、知るべき(だけれど知られていない)点は思想的・歴史的位置付けにあるとされる一方、内容面について特別に言及した文献は今のところ見られません(あれば取り入れたでしょうが)。
たしかにどちらも歴史上の書物です。しかし、それぞれにたどってきた経緯や知られ方は異なり、同じように扱うことはできませんし、同じような記事にはなりえません。--ikedat76 2010年5月1日 (土) 16:17 (UTC)[返信]
    • (コメント)申し訳ありませんが最初のikedat76さんのご説明では「重要でないと判断したから取り入れなかった」としか読み取れませんでした。参照した文献に取り上げられていなかった旨了解しました。ご説明ありがとうございました。--R.Lucy 2010年5月2日 (日) 15:27 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)東観漢記と同じなのですが、なかなか書かれない周辺的な事柄は素晴らしく充実しているのに対し、五畿内志そのものは、どういうものか、という部分の説明が、もう少し欲しいように思います。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
    • (コメント)「五畿内志そのもの」というのがR.Lucyさんと同趣旨であれば、ご指摘は承りますという以上特に申し上げることはありません。しかし、「なかなか書かれない周辺的な事柄」という不明瞭な一句は何を指しているのか、不分明です。もし、その一言を以って、本書編纂の背景や編纂過程、思想的な位置付け等についてのことであるならば、むしろ評者の側の問題であると申し上げなければなりません。評者が「周辺的」と評した事柄こそが、本書の歴史的・思想的な位置付けというきわめて重要な事柄を知る上で必要です(もちろん、その成否は別ですが)。東観漢記でも同じコメントをされていることを鑑みるならば、評者は歴史上の書物を知る上で歴史的・思想的な位置付けという事柄がどうでもいいことだとお考えであるようにお見受けします。しかしそれは、失礼を省みず申し上げれば評者の不見識に過ぎません。また、本書に関しても、専門分野の研究動向を無視して記事を書けといっているに等しい。そのようなことは、方針上もまた私個人の執筆者としての良心からもお断り申し上げます。同時にそのような方からの採点であれば、お断りだとも申し上げておきます。--ikedat76 2010年5月1日 (土) 03:16 (UTC)[返信]
「なかなか書かれない周辺的な事柄」とは、「本書編纂の背景や編纂過程、思想的な位置付け等についてのこと」です。歴史的なものであれ、そうでないものであれ、そこに書かれていることが本体であり、「本書編纂の背景や編纂過程、思想的な位置付け等についてのこと」は周辺的な事柄です。そして、残念ながら、本であれ巻物であれ、歴史的な資料であれ今日の文学作品であれ、ウィキペディアの一般的な水準としては、「本書編纂の背景や編纂過程、思想的な位置付け等についてのこと」は、「なかなか書かれない」ものであったという印象を持ちます。「本書編纂の背景や編纂過程、思想的な位置付け等についてのこと」が、記事を書く上で重要であることは、言うまでもないことでしょう。「本書編纂の背景や編纂過程、思想的な位置付け等についてのこと」を書くな、というコメントではなく、では、何が書かれているか、ということを加えて欲しいということが、ぼくのコメントです。コメントが短かったこともあり誤解をうんだのか、本質的な食い違いなのかはわかりませんが、前者についてはお詫びします。
この資料には、こういうことが書かれている、というようなことは、専門の事典などでは、常識として触れるまでもなかったり、あるいは自ら参照することを前提とされているのかもしれません。しかし、百科事典というのは、専門家が読む、専門家になろうとしている人が読む、ということもあるでしょうけれど、そうではない人たちも読者となります。たとえば、地誌ということで思いついたのは風土記ですが、これを平凡社の世界大百科事典(1988版)で見てみます。「出雲国風土記」をみると項目全19行中7行(井上光貞)、「風土記」のなかで出雲国風土記を扱っている部分では20行中15行(秋本吉郎)を、内容の説明にあてていました。「出雲国風土記」の説明は、おおよそこの記事の「解題」第二段落にあるのと同じようなもの、「風土記」のほうでは、「地名説明の伝承記事は出雲系の諸神の業績と鎮座を語るものが多く、土地を縄で引っ張ってきたと言う<国引神話>を口承のままに記録している」などとあります。
この種の記述は、読者にとって、この資料のイメージをつかみやすくしますし、他の分野から「五畿内志」に書かれている事柄の情報を必要とする人達にとっては有益な手がかりとなります。「内容」の節をつくり、概観と、大まかな傾向であれ具体的な例示であれ、内容面で本書の特徴となるところを記すことはできない、あるいは好ましくないでしょうか。(東観漢記のほうのやりとりも参照ください)--Ks aka 98 2010年5月2日 (日) 12:58 (UTC)[返信]
ここに本があり「そこに書かれていること」が容易に確定できるという想定は本当に正しいのでしょうか。百歩譲って現代の文学であれば、そうも言えるかもしれません(それも実はせいぜいプロットどまりではないでしょうか)。しかし、この記事で扱っているのは歴史上の書物 - 多くの点で現代とは大きく異なった前提に立脚して編纂された書物です。その意味で、「そこに書いてあること」がそもそも何なのかということは、Ks aka 98さんの言う所の「周辺的な事柄」との相互参照のもとでなければ確定できません。そうした観点を無視することが如何に問題含みのことであるのか、いわゆる社会史の研究成果は多くのことを教えてくれているはずです。その意味で、誤解を恐れず敢えて強く言うならば、本記事には「周辺的な事柄」など何も書かれていません。
ご指摘のように内容についての説明は「解題」にもっぱら委ねる構成をとりました。注を見ていただければ分かるとおり、3種の歴史学辞事典に即した記述で、それぞれの辞事典の項目における内容に関する言及の精細度も本記事と同程度のものです。上述のR.Lucyさんへのリプライと重複しますが、本書は内容や編纂の方法論において特記すべきものと評価されている書物ではありません(正確に言えば、その方面からの評価や検討を行った研究成果が欠けていると言うべきでしょうけれど)。内容や方法論について特異性がある書物であれば、関連する文献においても記述は豊富にあるでしょうし、それを記事に反映することもできるでしょう。実際、類似の主題(近世地誌)で執筆した、和州吉野郡群山記#構成西国三十三所名所図会#西国三十三所名所図会といった記事ではそのようにすることが出来ました。しかし、本書に関しては事情が異なります。もちろん、翻刻本等を私が参照して記事を書くことはできるでしょう。ですが、上述のような問題を考えると、それは差し控えなければならない事柄(いうところの「情報の合成」)ではないでしょうか。それゆえ、内容について紹介をさらにするのであれば、適切な文献がさらに必要ですが、そうしたものは見当たりませんでした。したがって私の認識としては、信頼性を犠牲にして無理に書くか、それとも信頼性を担保できない記述を差し控えるかの二者択一の問題であり、その場合、議論の余地なく後者を採らなければならないと考えました。結論から言えば、書けないから書かなかった、ということです。わざと書かなかったわけでも、重要ではないと判断した(そのような判断は下すべきではありません)から書かなかったわけでもありません。--ikedat76 2010年5月2日 (日) 14:11 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)資料をひきながら基本的な事柄を網羅していらっしゃるやに存じます。表現として少々情緒的なところ、例えば、「『河内志』を板行し、板本を幕府に献上したが、ここでひとつの問題が起きた。板本と献上本を比較したところ異同があり、徳川家康の名の登場する箇所が板本からは削除されていたのである」は、説明に徹するならば「『河内志』を板行し板本が幕府に献上された。この際に献上本に対して徳川家康の名の登場する箇所が削除されていることが明らかとなり問題とされた」などにできるかな、と存じます。それから「本書編纂に関係する資料の初出は」は、資料の中に本書編纂が行われている事についての情報が初めて見えるのはなにか、という理解で宜しいでしょうか。そうしますと「本書の編纂については~の中に初めて見える」などにできるかな、と存じます。全体に表現をブラッシュアップするとより読みやすく且つ百科事典的になるのではないかと存じます。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月1日 (土) 18:56 (UTC)[返信]
    • 情緒的な表現とは必ずしも思いませんが、レトリカルな表現に無用に凝りすぎるという指摘は従前からしばしば受けてきたものであり、耳が痛いところです。ご指摘に留意したいと思います。ありがとうございました。--ikedat76 2010年5月2日 (日) 14:11 (UTC)[返信]

ファビウス氏族 編集

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (コメンテーターコメント)内容はカエソとクィントゥス兄弟のものが大半であり、氏族の説明としては部分的すぎて、他の箇所が物足りなく感じます。古代ローマの名門ということで、できれば王政期、共和制期、帝国期といった古代ローマの各時代に即して、氏族の成立から勃興、全盛、衰退、没落?までの事績を追えるような説明がほしいと思います。--みっち 2010年4月21日 (水) 07:40 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)お疲れ様でした。記事の中に出てくる「農地法」についてですが、農地法には日本の法律に関する記述しかなく、記事の中の農地法がどのような法を意味するのか、理解できませんでした。この点については是非、詳しい説明が欲しいところです。それから、カエソとクィントゥスの兄弟以前、そしてクィントゥス・ファビウス・マクシムス以後のファビウス氏族に関しては一切不明なのかについても気になりました。-- 2010年4月23日 (金) 18:43 (UTC)[返信]
  • (読後感想)共和政ローマ最大の氏族として君臨した一族の記事としてはちょっと物足りない印象を受けました(ライバル(?)のコルネリウス氏族はもっと悲しいことになっていますが・・・)。ウィキペディアでは手薄な分野なのでしょうか。今後とも充実させていって頂けると幸いです。執筆お疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月25日 (日) 14:22 (UTC)[返信]
  • (読後感想)「農地法」については、廉 さんご指摘があるし、私自身は#日立鉱山森林法を持ち出した「パターン」になりそうでいずらかったのですが、あらためて、私も気になるということを記しておきます。--O fudo 2010年4月30日 (金) 13:47 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)参考文献が一冊というのは、ちょっと難しいところがあると思いました。また、記事からは冒頭にある「名門氏族」、またはコメントでR.Lucyさんがいう「最大の氏族として君臨した一族」という表現が腑に落ちないように思います。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)一通りの事を押さえているやに存じます。さんも触れていらっしゃいますが、気になったのは「農地法」の記述です。スプリウス・カッシウスが提案した内容と、グラックス兄弟が提案したもの、ガイウス・ユリウス・カエサルが提案したものは同じでしょうか。現在の記述ですと全く同じ内容の農地法、ともとれますが、実際には異なったやに記憶しております。「農地改革を志した」という表現で併記したら誤解しないと存じます。「これは護民官スプリウス~彼はやがて同僚護民官からも軍務忌避はやりすぎだと非難される」の部分は、表現が入り組んで読み取りにくかったです。後半は「やがて同僚護民官からもやりすぎと非難された」でも宜しいでしょう。続いての「徴兵が行われた」も主語が誰・何かで因果関係がわかりにくいです。ファビウス氏族の護民官が主語と思えば「徴兵に応じた」くらいが宜しいかと。文中に「ウェイイ」人が登場しますが、私は当初「ウェイイ」という人名と誤解しました。初出時には「人」がついていて民族の名前と判りますが以後は大方「人」が無いので戸惑いました。また「ウェイイ」は都市名・地名にリンクされていますので、実態がなにか判りにくかったです。その他にも
  • 「最終的に独裁官にまで任命された。」→「最終的に独裁官に任命された」か「~独裁官に進んだ」かなと思いましたが、独裁官は常設の役職ではないので単に「独裁官にも就いた」くらいかなと。
  • 「マクシムスは「ローマの盾」とあだ名される」あだ名はあまり良い意味にとらないこともあるので「~と賞賛された」などが宜しいかなと。

全般に表現をブラッシュアップしていただくと良いでしょう。それから「クィントゥス・ファビウス・マクシムス・クンクタトル」以後の氏族についてもおいかけると尚興味がわくでしょう。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月1日 (土) 19:27 (UTC)[返信]

  • (審査員コメント)概要から弱いと思います。皆様からの指摘があるとおり、いつごろからいつまで活躍したのかという文章がないので、尻切れトンボの印象を与えています。--Tantal 2010年5月1日 (土) 23:44 (UTC)[返信]

富山県の総合開発計画 編集

  • (コメンテーターコメント)参考文献が挙げられていないため、記述がなにに基づくものかが不明です。とりわけ「概要」で「全国的にも積極的な計画とされる」といった評価に関わる部分は注意が必要でしょう。また、概要では第7次まであるとされていますが、「計画の内容と実績」では第3次までしか記述がありません。できれば、一連の総合開発計画を通じた成果や問題点など、全体を俯瞰できる記述がほしいところです。--みっち 2010年4月21日 (水) 07:40 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)お疲れ様でした。この手の記事の文献として思いつくのは県議会の議事録や、富山県が計画に関して発行した資料などでしょうか。今後他の利用者が加筆する可能性を高めるためにも参考文献は明記されたほうがいいでしょう。-- 2010年4月22日 (木) 09:30 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)お疲れ様でした。廉さんのご指摘された事に同感です。個人的に「総合開発計画」の一環だった伏木富山港といった大規模開発計画や、計画のみで終わった「加越能高速鉄道計画」についても言及があればもっと素晴らしい記事になったと思います。あと出来れば富山県の公共機関によるホームページなどの外部リンクもあったらよかったのにと感じました。--Carpkazu 2010年4月22日 (木) 16:35 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)ある程度、皆様の意見が出尽くされたと思いますが、やはり、参考文献とそれに基づく脚注を付与する形での検証可能性の担保が必要だと思います。今後の課題になると思います。--Tantal 2010年4月24日 (土) 00:51 (UTC)[返信]
  • (読後感想)残念ながら中途となってしまっているようですので、今後も記事の充実化を継続していただければと思います。参考文献が提示されておらず、検証可能性が担保されていないため、現状のままでは独自研究と判断されかねませんので、「何を見て書いたか」について、まずはご対応をお願いします。--R.Lucy 2010年4月30日 (金) 09:59 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)おそらく執筆途中なのだろうと思います。書かれている範囲からは、丁寧にまとめられた記事になるのであろうことが推察されますが、ひとつ気になったのは、冒頭または概要のところで、いつの話なのかが、示されていません。これは、早い段階で示すのが好ましいと思います。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)まず、この「計画」を策定した、あるいは策定を指示したのは誰かという点が判りにくいです。個別の計画の項目を見ますと知事の様ですが、全ての計画は時の知事の指示によるものでしょうか。同時にどの様な人が実際に策定に当たったのかについても説明があると親切です。また、法律的にどの様な扱いなのかについても説明が加えられると宜しいでしょう。知事の施政方針なのか、条例にして施政に強制力を持たせているのか。他の都道府県なり自治体に同様のものはあるのでしょうか、それらと比較するのも面白いでしょう。或いは、富山で特に斯様な計画が練られた背景を探るのもまた面白いかと存じます。他の方も触れられていますが俯瞰的にどのようなものかを捉えられる視点があると宜しいなと存じます。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月1日 (土) 19:53 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)GWまで執筆期間だと思ってたんですが、もう締め切りでしか。GWで一気に仕上げるつもりだったんですが・・・。またまた中途半端な具合な仕上がりになってしまいすいませんでした。参考文献は富山の地元紙北日本新聞の「富山大百科事典」(1993年発刊)です。それ以降の内容は県庁のHPなどで補完するつもりでした。今後はトップページの秀逸な記事に載せられるように頑張ってまいります。--ネプチューン 2010年5月2日 (日) 10:45 (UTC)[返信]

2010年中国における日本人死刑執行問題 編集

  • (コメンテーターコメント)時事問題を扱っているため、出典はほぼ報道に頼らざるを得ない状況でしょう。そうしたなかでも異なる立場や主張を比較的まんべんなく抽出しており、構成を含めて「中立的な観点」に配慮された内容になっていると感じました。とはいえ、報道ばかりでは客観性や信頼性について多くを望むことはできないと思います。また、記事名ですが、なんというか、これだと今後毎年立てられそうな雰囲気もしないではなく、かといっていい代案も浮かびませんので、百科事典記事として評価するのは率直に言って微妙なところです。--みっち 2010年4月21日 (水) 07:40 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)執筆お疲れ様でした。参考資料に関してはみっちさんと同様で、やはり起きたばかりの問題ですと議論が深まりより良質な資料が発行される前に記事を書くということになってしまうので、どうしても制約ができてしまう感じがします。記事乱立の可能性については、記事の中でも触れられている毛沢東暗殺陰謀事件を含め、例えば中国における日本人死刑執行問題といったタイトルの記事を作成することで防がれるかと思いますので、今後記事の統合・記事名の変更などを検討されてみてはいかがでしょうか。-- 2010年4月22日 (木) 12:05 (UTC)(修正)-- 2010年4月22日 (木) 12:12 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)時事問題を扱っているので、どうしても報道に頼らざるを得なかった為、その報道がはたして信憑性があるのか否かの判断は難しかったです。そのため、両論併記にするしかなかったのはやむを得ないことだったと思います。項目名ですがのこの項目の場合、「日本人麻薬密輸犯死刑執行事件」から一度改名しています。一応中国で起きた事件で「2005年の中国における反日活動」があったので(実は中国語版ウィキペディアに即した項目名であります)、それにあわせたものです。記事名ですが、毎年立てられる可能性を指摘されていますが、今回の当該項目は、この日中間の動きを中心にしていますので、乱立する可能性はないと思います。今後作成されるにしても別個の麻薬密輸事件ないしそのほかの事件の記事になると思います。本音を言わせてもらいますと、こんな死刑関連の記事が乱立するような刑事事件なんか起きないでほしいものですし、あったはならないです。法律は可変的なものであるので、状況が変わる可能性もあるとは思います。一応、調べた範囲では、この死刑執行事案は2件の別個の麻薬密輸事件で、1951年の死刑執行事案はフレームアップの疑いの強い事件なので、「中国における日本人死刑執行問題」と一緒にするのは難しいと思います。将来的には信頼できるライターによるルポルタージュが出版されれば、記事の補強ができるといえます。--Carpkazu 2010年4月22日 (木) 12:44 (UTC)[返信]
      • (ライバルコメント)最近、中国方面の執筆から遠ざかっている私としては、中国方面の記事を増強してくれる執筆者がいてくれることをうれしく思います。日本の主要報道機関(読売、朝日、毎日、産経)から満遍なく賛否両論の形式をとっており、中立性を満たそうと苦労なさったことが見て取れます。御苦労様です。気になったのは、以下の通りです。
  1. 2010年4月23日 (金) 17:25 版の脚注11.^ a b c d e f 朝日新聞2007年4月14日朝刊。これだけ、2007年4月で、他の2010年4月です。念のため、確認お願いします。(本当に2007年だったらごめんなさい)
  2. 可能であれば、中国語(人民日報でも新華社通信でも結構です、多分この2社なら日本語版があるはずです)の報道機関からこの記事に補強するないようがあればなぁと思います。--Wushi 2010年4月25日 (日) 13:24 (UTC)[返信]
        • (執筆者コメント)朝日新聞の2007年4月14日朝刊の引用ですが、あれはあれで正しいです。2005年にも読売新聞に日本人死刑囚に関する記事があったのですが、今回確認できなかったので引用にはつかっていません。中国のメディアですが、人民日報の中国語版では検出できず、日本語版の方で記述のように正当なものと主張する記事はありましたので、うまく組み入れればよいと思います。それにしても中国関連と死刑問題関連は他の項目以上に賛否双方のウィキペディア投稿者がいるので、中立的観点から記事を練るのが難しいと痛感しています。--Carpkazu 2010年4月29日 (木) 10:40 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)同時代的な事柄を、中立性や客観性に配慮しながら、うまくまとめた記事だと思います。複数の新聞社の記事を参照している点も評価できると思います。他方、この種の記事は、それでも難しいのだということも示してしまっているとも思いました。
    • 中国政府および世論、日本政府の対応からは、「問題」ではないと思われます。アムネスティの批判は、死刑制度そのものへの批判ですし、薬物犯罪を根拠とした死刑は論点となっているとしても、「日本人」であることは本質的な論点ではないはずです。
    • 中国の死刑制度などについては、事件に際して新聞など報道のみを根拠とするよりも、その制度そのものについて書かれた論文や解説書を参照するのが望ましいでしょう。また、新聞記事には、専門家による署名解説記事、専門家に取材して記者がまとめたもの、無記名の解説、報道記事中の地の文などが混在し、それぞれに信頼性は異なります。また、「専門家」が中国の法律の専門家なのか、死刑制度の専門家なのか、薬物問題の専門家なのか、中国や薬物に詳しいフリー・ジャーナリストなのか、他分野の専門家による発言なのか、でも同様です。記事を参照させるだけではなく、どのような人がどのように書いたことなのかを、脚注を含む記事の中で示す必要があると思います。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)時事的、リアルタイムな事柄につき多くの視点、多くの報道にあたり、また、「死刑執行をめぐる両国世論」では出されたばかりの論評まで取り込んでいる点、えてして記事の羅列になりがちなところをきちんとまとめた点が良いと存じます。その瞬間を記録に留める、その時それぞれがどの様な事を考え書いていたかを記録して、以後の編集の言ってみれば材料を提供するという点でこの様な記事は意義があると存じます。後々から当該事項につき調べようと思っても、報道を中心とする資料がなくなってしまい、その時の世論や雰囲気を感じることが出来ないという事がしばしばございますので。勿論、今後も当該記事に関するメンテナンスを維持し、後々出てくる論評や論文なりも反映していくことが前提ではありますが。今後の成熟に期待したいと存じます。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月2日 (日) 03:00 (UTC)[返信]

暗黒時代_(古代ギリシア) 編集

  • (ライバルコメント)ギリシャ方面で活躍されているHideokunさんの会心の出来だと思います。高校世界史では文明発祥以後、古代メソポタミア古代エジプトギリシャヘレニズム古代ローマへと習い、古代ギリシャもミケーネ文明、思い切り飛んで(ズバリこの時代ですね、名前しか覚えていません)、ポリスの勃興、アレクサンドロス3世、あとは似たような学者名ばかり暗記したような記憶が残っています。その間隙(失礼)を縫う記事が書かれたことに敬意を示します。経済中心に歴史を考える私にとって、なんでまぁミケーネ文明の後にギリシャが停滞?(ポリス勃興までの萌芽期)したのかについての言及は面白かったです。気になったのは形式なことですが、以下の通りです。参考文献ばかりですみません。
  1. 参考文献には、周藤芳幸著 『世界の考古学3ギリシアの考古学』 同成社、1997年と、周藤芳幸著 『図説 ギリシアエーゲ海文明の歴史を訪ねて』 河出書房新社、1997年と同一執筆者が同じ年に2冊本を書いていますが、脚注には周藤(1997)pp.xx-xxと書いてあるだけで、どちらの文献を参考にしたのか分かりません。発行月日順でも、書籍の50音順でもいので、明瞭に区別してください。(参考→ノルウェーの経済#書籍(松村(2004a)→『ノルウェーの経済』、松村(2004b)→『ノルウェーの政治』)
  2. 桜井(2005)が重複しているので、片方、消してください。
  3. 2010年4月19日 (月) 20:12 版の脚注57 東京(2002)‎、p.7と書いてありますが、参考文献を見た限り、複数の執筆者(訳者)がいるようです。その場合は、古山・中村・田村・毛利・本村・後藤(2002)と全員書くか、古山他(2002)で書くべきかと思います。
  4. 参考文献ですが、執筆者50音順、ABC順、同一執筆者がいる場合は発表年順に整理したほうが読み手には分かりやすいので整理お願いします。--Wushi 2010年4月20日 (火) 13:15 (UTC)--(微修正)Wushi 2010年4月20日 (火) 13:17 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)過分のお褒めをいただき、恐縮の至りです。脚注の形式についてはWushiさんに以前にもご教授いただきましたが、やっと私もハーバード形式にも慣れたようです。その節は本当にありがとうございました。暗黒時代はギリシャにおける習慣など、様々なものの起源と思われるとされながら謎に包まれた時代であったことから以前より作成したいと考えていたものです。それなりながら形にできたことで満足しております。ただ、まだまだ書きたいことはあるのですが、資料不足のため、詳しく書く事を今回は見送ったものもあります。と言いながらもこれぐらいの規模が一番読みやすいのではないかと勝手に愚考しております。コメントありがとうございました。--Hideokun 2010年4月22日 (木) 01:51 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)過去にギリシア神話を題材に記事を書いたことがあり、個人的に興味をそそられる項目でしたが、豊富な資料を基にわかりやすく書かれていて大いに参考になりました。部分的に文章校正が不十分なところや、「序」において、『初期鉄器時代』と呼ぶ事が一般化しつつある、ということであれば、冒頭文にもこの呼称を紹介すべきではないか、「ギリシャの歴史」テンプレートは記事上部の方がいいのではないか、もうちょっといろいろ画像はないのか、といった気になる箇所はありましたが、全体として素晴らしい記事だと思います。つづく前古典期(アーカイック期)にもぜひ期待したいです。--みっち 2010年4月21日 (水) 07:40 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)文章校正については正直、反省する次第です。どうも性分なのでしょうか、何度も読み返すのですが凡ミスを繰り返しています。今回は時間が取れなかっただけにさらに凡ミスが多いようです。今後の課題として心したいと思います。『初期鉄器時代』については言われればその通りです。早速、記事を修正したいと思います。また、テンプレートも移動したいと思います。画像については・・・これも時間がなかったためにやっつけ仕事気味になったというのが正直なところです。時間が取れるときにコモンズを彷徨いたいと思います。最後に前古典期(アーカイック期)については他の項目で加筆したいものがあるので取りあえずそちらを優先したいと思っています。ただ、いずれは作成したいと思いますが、資料が多いだけにどうなることやら・・・(汗)。コメントありがとうございました。--Hideokun 2010年4月22日 (木) 01:51 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)執筆お疲れ様でした。Wushiさんのコメントとかぶりますが高校世界史を思い出すテーマですね。ペーター・ジェイムズの説が興味深かったです。このあたりがあまり得意でなかったこととも関連しますが、登場する地名の位置関係について図解があればより理解がしやすいのではと感じました。加筆をご検討頂きたいのは、「ミケーネ文化における再分配システム」、「宮殿を中心として維持されていた管理経済システム」の内容についてです。ミケーネ文明には載っていないようですので…収穫物などを一度宮殿に集めてから再分配するということでしょうか?校正についてはいくつかおやっと思うところがありましたが意味を読み取る分には問題ありませんでした。この手のミスはなかなか自分では気付かないものですよね。-- 2010年4月24日 (土) 12:22 (UTC)(加筆)-- 2010年4月24日 (土) 12:38 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)ありがとうございます。地図については自分自身が把握していることから頭に浮かびませんでした、コモンズから引っ張るなりしてなんとかしたいと思います。「ミケーネ文化における再分配システム」は廉さんの言われるとおり、宮殿に一度、物資を集めた上で再分配するというものです。確かに現状では唐突に言葉が出てきてますからどういう内容なのか加筆したほうがよさそうですね。時間があるときに折をみて加筆しようと思います。校正は・・・本当にお恥ずかしい限りです・・・少しでも減らそうとしているのですが、どうも性分のようで・・・本当に情けない限りです。コメント、ありがとうございました。--Hideokun 2010年4月25日 (日) 14:31 (UTC)[返信]
  • (読後感想)Dark Agesという言葉だけで既にゾクゾクとしてしまいますが、歴史を紐解く過程を見ているようで、読んでいて非常に楽しかったです。構成に関してですが、先にみっちさんより「テンプレートは記事上部の方が良い」というご指摘がありましたが、現状ですと暗黒時代の次を読もうと思ったらまた記事上部まで戻らなければならないため、下側にも英語版あるいは東ローマ帝国のような、関連記事を集めた横型のテンプレートがあった方が便利だと思います。どのようなものを導入するかについて全貌が見えていないため提案しにくいですが、是非ご検討いただけたらと。執筆お疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月30日 (金) 10:11 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。ギリシャ通史として現状のテンプレートを使用して、先代、次代、関連項目を含めたギリシャの歴史関連のテンプレートを新たに作成することを視野に入れたいと思います。ただ、ギリシャ史全体のテンプレートとするよりかはギリシャ史を分割してそれぞれに適応するテンプレートがいいのかな?となんとなくですが想像しました。そうなるとギリシャ通史とそれに付随する関連項目を纏め上げるということも視野にいれてギリシャ史のさらなる充実に励みたいと思います。ありがとうございました。--Hideokun 2010年5月1日 (土) 19:30 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)さまざまな見解があるものを整理して、充実した記事になっていると思います。そういう意味では読みやすいのですが、個人的にはもっとも苦労した記事となりました。古代ローマ、古代ギリシャのについては、比喩的な表現が用いられることが多く、それらが教養というか常識というか、そういうものとして身についている人にとっては理解できるものであっても、それを持たない者としては、苦労することが多いです。数学や物理のように、一つの記号や数式に、決め事や証明の積み重ねがあるものとは異なり、いくらか簡潔に説明しておいてもらえれば分かるのに、というか。
    • 「前1200年のカタストロフ」が何なのかわからなくて、それがキッカケで、しかも異論が存在することは示されるけれど、結局何なのかわからないまま話が進む。いくらか比喩的な表現ですし、「古代ギリシャではミケーネ文化が繁栄していたが、『前1200年のカタストロフ(前1200年の破局とも)』を切っ掛けに崩壊」という記述から、「ミケーネ文明が姿を消したこと」(でよいのかな?)を切っ掛けに「ミケーネ文化」が「崩壊」したというのを読み取るのも難しかったです。
    • 「暗黒時代」というのが、「文字資料に乏しい時代」なのか、「文字資料に乏しいとされてきた紀元前1200年から紀元前700年頃という時代区分」なのかが、はっきりしないので、「暗黒時代の存在自体を疑問視する」とか、「古代ギリシャ世界は暗黒時代へ突入」とかが何を指すかがわからなくなってしまう。まずは、「暗黒時代」と呼んだのは、いつ、誰で、そこではどのように定義されるのでしょうか。あまり問われることがないのかもしれませんが、そこを知りたいと思いました。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:05 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)『前1200年のカタストロフ』に関してはギリシャ史関連の史料ではカバーしきれない部分があります。上記していますが、史料不足のために書き足りなかったことのひとつです。これについては英語版ではBronze Age collapseのように単独項目で立項されていることから将来的には立項されると考えてあえて端折ったところです。これについてはエジプト史、西アジア史関連の史料を当たって脚注などで追加したいと思います。
ミケーネ文化という呼称ですが、ミケーネ文明とミケーネ文化という呼称が参考資料によってごっちゃになっています。周藤芳幸氏の著作を例にあげれば、「ギリシアを知る事典」ではミケーネ文明、「古代ギリシア 地中海への展望」でミケーネ文明、ギリシアの考古学では「ミケーネ文化」、「図説ギリシア」で「ミケーネ文化」等、同じ著者でも揺れがあります。そのため、私は中心として使用した文献に従い、ミケーネ文化としています。ですので、ミケーネ文化が崩壊した=ミケーネ文明が崩壊した、という意味なわけですが、わかりにくいかもしれませんね。ミケーネ文明への修正を考えたいと思います。
暗黒時代の定義というのは難しいかもしれません。「文字資料、考古学的資料に乏しい紀元前1200年頃から紀元前700年頃」とするのが諸説入り乱れる中、無難なものかもしれませんが、今後の研究が進むことによって変化があるかもしれません。「暗黒時代」と読んだのはいつ、誰、というのは様々な史料を探ってみましたが、答えはありませんでした。フランス語版には「Anthony Snodgrass」と「R. A. Desborough」の両氏によって普及した旨記載されていますが、1972年とされているためなんとも言えません。山川出版社のギリシア史によれば「呼びならわされてきた」とあり、かなり昔から呼ばれていたことは事実だと思われます。そのあたりは宿題として今後も史料収集に努めていきたいと思います。コメント、ありがとうございました。--Hideokun 2010年5月1日 (土) 19:30 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)恐らく「前1200年のカタストロフ」というのが前半を読み進めるうえでのキーワードなのだと思いますが、その事象について簡単に「カタストロフの内容については各種異論が存在する」と記す一方でギシリャ史上の重要な分水嶺であるとして説明を進める構成が、読み進める上で戸惑いました。「ミケーネ文化の崩壊」節でも同様に「カタストロフ」以後の事柄を先に説明して、徐々に「カタストロフ」の説明が見えて、少々混乱しました。冗長になるかも知れませんが最初の節で「カタストロフ」についてある程度まとまった説明があると読みやすいと存じます。或いは、前史(=ミケーネ文明)・カタストロフ・暗黒時代の始まり、という構成にしても宜しいかと。「カタストロフ」の中でも、その内容につき従来唱えられていた説から現在唱えられるものまで順序を追って説明されると判りやすいと思います。一方の暗黒時代の終わりについても「アルファベットの成立」と並列していますが、その因果が判りにくいのも読み進める上での疑問でした。冒頭の説明では「暗黒と言われる所以は文字資料が乏しい故」としており、その終焉は文字資料の復活と連想できますが、その説明が乏しいように思われます。「暗黒時代の終焉」に「アルファベット」の説明がありますが、文明が復興し記録の必要が生じてアルファベットがつくられ資料が出る様になったのか、それともアルファベットがつくられ記録が容易となって資料が出る様になったのか、恐らく前者だと存じますがそのあたりが判らず悶々としております。そのあたりを補強されると「暗黒」時代の終焉までスッキリと読めるかと存じます。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月2日 (日) 03:41 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)その構成については念頭にありませんでした。「前1200年のカタストロフ」については少し史料を借りてきたのですが、考えていたよりも規模が大きくなりそうです。上の方で脚注として追加と書きましたが、場合によっては暗黒時代の項目では軽く触れて、「前1200年のカタストロフ」を立項した上で{{main|前1200年のカタストロフ}}などと誘導して補足したいと思います。
暗黒時代の終焉についてはさらに加筆したほうがよさそうですね。今回、少し良さげな史料がありましたので近いうちに加筆したいと思います。アルファベットの成立については商業上の理由から成立したという説が主流なのですが、そこら当たりについてはまだまだ足りないことに気が付きました。早いうちに加筆をしておきたいと思います。その他にホメロスの叙事詩を文字で書き表すために成立したという説があります。現在、これについての詳しい書籍を探しています。これは見つかりましたらさらに加筆できるかと思います。コメントありがとうございました。--Hideokun 2010年5月2日 (日) 13:32 (UTC)[返信]

分野B 編集

福富ダム 編集

  • (コメンテーターコメント)コンパクトにまとまっており、画像も適切だと思います。広島県のどのあたりかを示す地図があるとなお良かったでしょう。構成的には、節タイトルと内容がぴったりしない感じがあります。「目的」でダムの利用目的が具体的にどの地域を対象としたものなのかがいまひとつ明確でなく、このあたりは新聞記事だけでなく、ダム建設に直接関わる一次資料が必要かと思います。また、その目的に対して実績を検証したものがあるのかどうか、どこかに書いてほしい気がしました。「概要」の内容はほとんど建設経緯であり、1968年予備調査、1975年着手、1991年建設案採択という流れについて、この「着手」がなんの着手かわかりません。しかも「着手されたが」という逆接になっているため、なにか問題でもあったのかと引っかかりました。より細かいことをいうと、冒頭文では竣工式より供用開始時の方を書くべきではないでしょうか。また、「しゃくなげ湖」」については「周辺」節に移し、これがダムとしての特徴が出る点であれば、もう少し充実させると印象が強まったと思います。--みっち 2010年4月19日 (月) 09:35 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)丁寧なコメントありがとうございます。広島県内のダムは、必ずといいほど記念発刊物があるのですが、福富ダムの場合完成して間がないため未刊行でした。そのため、当初意図していたほど資料が集まらなかったのが残念至極です。優秀な記事に選ばれている佐久間ダムまで詰めるのは難しいにしても、ダム建設に直接関わる一次資料を使うことでもっと内容を詰めることが出来たとはおもいます。執筆者としては画像を撮影したのが初春の寒い薄暗い日だったので、色彩的に映えるモノにならなかったのが残念でした。--Carpkazu 2010年4月19日 (月) 14:48 (UTC)[返信]
  • (読後感想)執筆お疲れ様でした。本分野には明るくないのですが、簡潔で読み易い文章だと思います。内容的には目的と概要の記述に違和感を覚えました。具体的には目的節では1994年の異常渇水が契機となって水源確保の要請があったと書かれていましたが、概要節では1968年から予備調査があったとしています。このあたりを補足する加筆が可能であればさらに充実した記事になるかと思いますので、是非ご検討お願いします。画像としては場所を示唆する地図的なものが欲しいと思いました。--R.Lucy 2010年4月30日 (金) 11:00 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)簡潔にまとまっていると存じます。また写真も御自身で用意されたとのことでお疲れ様でした。命名のところで、村を指して「自治体」というところがちょっと躓きました。「ダムのある福富村に由来する。その由来は~」などでより簡潔になるかなと存じます。ざっと拝見させていただいたところではダム建設にしばしば見られる反対運動が無く、すんなりと「建設促進同盟会」が作られた様ですが、その理解で正しいでしょうか。編集お疲れ様です。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月2日 (日) 03:55 (UTC)[返信]

カジランガ国立公園 編集

  • (コメンテーターコメント)必要な説明はそろっており、画像も多彩で目を楽しませてくれます。しかし、翻訳記事であるためか、日本語としてこなれていない文章表現が目立ちます。2つ例を挙げると、「気候」節で、夏、モンスーン、冬の3つの季節があるとしながら、夏からではなく冬から説明がはじまっています。同時に「冬の間はジールスや洪水によって形成されるnallahsと呼ばれる溝は乾ききってしまう」という文は、主語と述語の関係が汲み取りにくくなっています。しかも、後段では「川は必ずしも氾濫するわけではなく、時には氾濫どころか旱魃の被害を公園にもたらすこともある」としながら、「保護活動」では「モンスーンの季節に必ずといって訪れる洪水と激しい降雨によって」と述べてあり、表現が不整合です。「動物相」でも、絶滅寸前のハゲワシについて「その背景には、ジクロフェナクを含む食物が公園内の動物にえさとして使用されたからである。」と記されていますが、「背景には―からである」という係り結びが変なのと、ジクロフェナクがハゲワシにどういう影響をもたらすかについてはジクロフェナクの項目の終わりまで読まないとわからないという、二重の問題があります。このように重層的といえる読みにくさは、せっかくの内容がもったいないと感じさせます。--みっち 2010年4月19日 (月) 09:35 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)まずは、コメント有難うございます。正直にこの記事を書くに当たって難渋したのは、動植物の和名が分からなかったこと、そして、日本語文献が全く皆無であったことです。これが、他のインドの世界遺産であるタージ・マハルファテープル・シークリーだったら、綺羅星のごとく日本語文献を発掘できるわけです。日本語文献の少なさが今まで、赤リンクだった要因なのかもしれません。インドの世界遺産の記事だけは、他の国と違って結構赤リンクが残っているのはTemplate:インドの世界遺産で一目瞭然です。
    • Amazonを経由して、洋書の取り寄せを試みもしたのですが、執筆期間中にその本は届かず、なんともトホホという感じです。さて、文章の分かりにくさですが、もう少し、こなれた訳を試みはしたものの、私の英語力ではこれが限界に近いです。執筆最終日で2つの節を訳出するのにも一苦労した格好で、推敲まで手が回らなかった……。ジクロフェナクのみならず、こなれた翻訳に関しては、もう少し構成を考えましょう。今すぐにいい文章が頭の中には浮かばないので、また、うんうんとうなりますか(涙)。--Tantal 2010年4月19日 (月) 12:11 (UTC)[返信]
  • (読後感想)日本語文献が無い中での執筆は大変だったかと思います。お疲れ様でした。世界遺産の記事として必要と思われる情報は網羅されており、楽しく読ませて頂きました。リンク切れしている出典の補完や情報の精度について今後のブラッシュアップを期待させて頂きたいと思います(googlebooksには英語書籍がいくつかあるようですが、信頼度はどうなんだろう・・・)。--R.Lucy 2010年4月19日 (月) 14:12 (UTC)[返信]
  • 読後感想ライバルコメント)大作で翻訳ベースにもかかわらず明瞭さを確保しているという印象を受けざるを得ませんでした。気になったのは、世界遺産より国立公園としての側面で(私が#日立鉱山で森林法を持ち出したように本筋からずれますが)、インドの自然公園制度はどうなっているのか、当国立公園で自然保護の観点から規制される行為は何があるか(狩猟は明記されていますが)、さらに、世界遺産に指定されるほどの自然で定期的に火を放つということの必要性を、記事の内容のみから理解することは、私の理解力の乏しさに限らず率直なところ困難と思います。--O fudo 2010年4月25日 (日) 12:48 (UTC)修正--O fudo 2010年4月26日 (月) 14:30 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)みっちさんも触れられていらっしゃいますが、やはり時間の制約からでしょうか、表現として意味を取りづらいところが散見されます。例えばやはり「気候」の中で「多くの動物たちは、公園からの移動を余儀なくされる。公園内の高台へ移動するが~」は矛盾を内包してますし、「国立公園の西側の4分の3が、ブラマプトラ川の水位が上昇することで水没する」「旱魃になった場合には、野生動物にとって、食糧不足を招く」は、読みづらかったです。この辺りは今後のブラッシュアップに期待致します。記述内容としては充分だと存じます。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月2日 (日) 14:27 (UTC)[返信]

専有部分 編集

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (コメンテーターコメント)法律的な説明を主とした項目ですが、イメージも付されていて、わかりにくさは感じませんでした。文章が固いのは項目の性質上、仕方がないでしょう。内容とは別に、「専有部分」という記事名が区分所有法でいうものだけでいいのかという点、また主として日本の法律によって説明されているわけですが、百科事典である以上は、ゆくゆくは日本にとどまらない説明も必要になってくるとした場合にどう書き分けるのか、この記事名でいいのかどうか、という点が気になりました。--みっち 2010年4月19日 (月) 09:35 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。実は、分野Aか分野Bか迷って、分野Bにエントリーの機会はあまりなさそうだ、ということも正直あります。「専有部分」の「専有」という言葉は、私は「専有部分」以外では今回は確認できませんでした。区分所有のマンションをめぐる諸問題は、日本にとどまらないことであることは、不勉強にして今回の執筆で初めて確認できたこともあるので、特に米国、韓国等は、かの地の事情に詳しい方からもご意見いただければありがたいです。また、マンションは、他の方が整理を手がけられており、その関係でも調整を進めたいところです。--O fudo 2010年4月19日 (月) 15:07 (UTC)修正--O fudo 2010年4月20日 (火) 15:30 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)上記のご指摘にもあった「法律的な説明」について、登記、取引関係を中心になじみの薄い方を改めて意識して補足してみました。--O fudo 2010年4月25日 (日) 00:43 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)法律に関わることを平易に説明いただきわかりやすかったですが、要所で法律の用語が出てくるところで少々躓いたのがちょっと残念でした。冒頭で「一棟の~をいう」というのは法律的には正確な定義ですが、百科事典としては、その前に平易な説明の一文を入れて、続けて「法律上は~」と続けると判りやすいかと存じます。また「所有権(区分所有権)の目的」というのも、平易な解説がつくと判りやすいでしょう。見ていきますと「マンション標準管理規約」が頻出しますが、これが何かの説明が冒頭乃至「専有部分の範囲」の最初の方にあると親切でしょう。或いは、「専有部分の範囲」において、以下は「標準管理規約」に基づいて説明する、但し個別の事例についてはそれぞれの規約を参照されたい、という形にしても宜しいかと。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月2日 (日) 04:33 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)私がこの項目をこの分野でエントリしたことには、他のエントリ項目で話題になっていた「これはどの分野?」ということと、法律的なことの説明をどうするかということもあり、説明の力量不足は否めません。正直なところ、私も見直して気になっていたところです(そういう私は弁護士、司法書士の資格や補助者経験もないですが)。管理規約の件は、整備を目標としていたことを忘れていました。日本語を母国語として日本で市民生活を送ったことが長い方なら誰でもわかるという表現を、引き続き勉強していきます。--O fudo 2010年5月2日 (日) 12:28 (UTC)[返信]

大西洋横断電信ケーブル 編集

  • (コメンテーターコメント)たいへん興味深く読みました。資料、項目の重要性、画像、構成、文章どの面からも優れた記事だと思います。2点疑問を挙げると、3000メートルの敷設ケーブルがどのくらいの重量で、太さでどのくらい変わるのかということ、「通信の速度はケーブルの長さの二乗に比例して遅くなる」というトムソンの「電信方程式」には太さの要件が含まれていないため、計画より太いケーブルを作るべきとした主張の根拠がいまひとつ不明であり、かつこの主張は結局正しかったのか? ということです。--みっち 2010年4月19日 (月) 09:35 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)過大なお褒めのお言葉をありがとうございます。ケーブルの重量は記載いたしました。太くしたことで1.7倍ぐらいの重さになっていますね。電信方程式については、私も詳しくないのですが、こちら(PDF)に載っている式によりますと、通信速度は「電気容量」「電気抵抗」「ケーブル長さの2乗」に反比例するようです。そしてそのうちの電気抵抗はケーブル断面積に反比例するので、結局のところ速度は断面積には比例する。記事中で断面積に触れていないのは不備でしたので書き加えました。電信方程式は、形を変えつつも、今ではその分野の人たちにとっては基本的な知識になっているようです(私は知りませんでしたが…)。--アリオト 2010年4月21日 (水) 11:41 (UTC)[返信]
      • (再コメント)加筆ありがとうございました。おかげで疑問が解消されました。オーディオケーブルで、太いものが好まれたりするのはこのことだったんですね。--みっち 2010年4月22日 (木) 09:04 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)画像が適切に配置されており、とても読みやすい記事だったと思います。出典がホームページではなく、書籍によって明示されている点は英語版と比較しても優れていると思います。ところで、出典に掲載されている『海底線百年の歩み』日本電信電話公社海底線敷設事務所編という資料はどこで入手されたのでしょうか?個人的に読んでみたいなと思ったものでして。教えていただければ幸いです。--森造 2010年4月25日 (日) 21:23 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。画像については、英語版やコモンズにあったものをぺたぺた貼り付けただけなので、世界中の先人たちに感謝したいと思います。あとはケーブル自体の画像が欲しいところです(ここに古めの写真があるのですが、使って良いものかどうか)。『海底線百年の歩み』は、国会図書館と、千葉県立図書館にあったものを活用いたしました。たぶん非売品なので一般に入手するのは厳しいですが、全国の都道府県立図書館あたりにはあるようです。分厚い本です。実は日本の海底ケーブルについての記述がメインの本なのですが、世界の動きについても詳しく記述されており、助けになりました。ついでに他の文献も触れておきます。
      • 『英国における海底ケーブル百年史』:所蔵場所については『海底線百年の歩み』と同じ。ただし現在千葉県立図書館にはありません。なぜなら、私が今借りているからです。それはさておき、本書はタイトルの通り英国中心にコンパクトにまとめられており、記事を書く上で大いに参考になりました。
      • ロッシャー『世界海底電信網』:国会図書館にて閲覧。戦前の本なのでさすがに所蔵場所は限られそうです。
      • 白崎『世界を変えた海底ケーブルの話』:同じく国会図書館にて。12回の連載。大西洋横断ケーブルはそのうちの第2回~第4回で触れられていますが、他の回も関連資料が豊富。
今回の記事はこのように資料がそれなりに存在していて、国会図書館も使えたため助かりました。しかし一般に書店などで手に入る資料がほとんどないのはさびしいですねえ。白崎の連載が単行本化されれば良いのでしょうが。--アリオト 2010年4月29日 (木) 08:38 (UTC)[返信]
  • (コメンテーター返信コメント)なるほど!ご紹介ありがとうございます。国立国会図書館は閲覧だけなので、コピーを取るのにもお金がかかって大変だったのではないでしょうか?機会があれば是非とも読んでみたいと思います。--森造 2010年4月29日 (木) 18:29 (UTC)[返信]
  • (読後感想)歴史的意義のある非常に興味深い記事でした。文章も読みやすく、興味を惹きやすい構成となっているため、楽しく読み進めることができました。ちなみに本ケーブルは現在は使用されていないという認識で良いのでしょうか。であれば、破棄された海底ケーブルはどうなるんだろう、などと興味は尽きません。記事の名称として「大西洋横断電信ケーブル」というのは総称だと思いますが、最終的にどれだけのものをそう呼ぶのか(何本?)、いつまで実用的利用がなされたのかといった情報を概要として最初に記述しておくと、さらに読み進めやすくなると思います。執筆お疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月30日 (金) 11:10 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)お褒めのお言葉をありがとうございます。電信ケーブルが現在使われているかについては、私も気になったので調べてみたのですが、文献には記述が見つからかったので残念ながら詳細不明であります。おそらくは使用されていないとは思うのですが、ケーブルは長持ちするようなのでひょっとしたら一部は何かに使われているかも…。大西洋横断電信ケーブルが何本あったかについては、話せば長くなるのですが、短くまとめると、これも私には分かりません(すみません)。北大西洋で二十数本といったところでしょうか(詳しくは後でノートに記述いたします)。まだまだ記事には改良の余地がありそうですね。コメントありがとうございました。--アリオト 2010年5月2日 (日) 03:03 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)とても読みやすく、また判りやすく纏めてあり、一気に読むことができました。殊に「ケーブル敷設までの歴史」の部分はとても面白かったです。技術的な面から気になったのは「遅延」の語の使い方です。「電信方程式」に絡めて「遅延」する旨が記述されていますが、これが何を意味するのかがよく分かりません。例えば発信した電気信号が他端に届くまでの時間が長くなる(レイテンシ)ということでしょうか、それとも、単位時間に送れる情報の量が減る=単位時間に送れる語の数が減るということでしょうか(スループット)。後者であれば「遅延」という語は適切ではなく「伝送速度」が宜しいかと存じます。文中では「信号を送る速度を遅くする」というのが該当するのでしょう。これに絡めて、女王の99語のメッセージの伝送に16時間半かかった、というのも、ケーブルで99語を送るのにそれだけかかったのか、それとも、横断ケーブルに至るまでと、ケーブルから先の伝送の時間もふくめるとそうなるのか、その辺りがわからないのが残念です。一方で「ミラーガルバノメータ」を使うと67分で済んでいる記述を考えると「伝送速度」なのだろうなと存じますが。ついでに、女王のメッセージの確認というのは、将にその英国から米国への往路伝送の直後に復路で確認したものでしょうか。それとも後々「ミラーガルバノメータ」が実用されて検証の為に測定したものでしょうか。その時系列を明らかにして欲しいです。それから、現在の通信ケーブルとの違い、装荷ケーブルとの違いについても簡単に説明があるとより興味深く読めるでしょう。往時の横断ケーブルは単純な導線と被覆から成り立つという理解で宜しいでしょうか。現在の通信ケーブルは途中に中継器を挟んで信号を増幅していますが、当時のものはそうゆうものが無いストレートなものでしょうか。「4 度目の敷設工事(1865年)」の節では「切れた鉄線が絶縁部を貫通したことによる」とありますが、この鉄線の由来はなにか、外周に巻いた鉄線が悪さをしたという理解で宜しいでしょうか。このあたりに説明を追加いただくと宜しいかと存じます。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月2日 (日) 05:14 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)丁寧に読んでいただきありがとうございます。ご指摘の点は資料を確認しつつ、おいおい直してゆきたいと思います。「遅延」に関しては、おっしゃる通り伝送速度で間違いなさそうです。ケーブルについては、大西洋横断ケーブルに限った話ではないので、大元の海底ケーブルの方も加筆しなければならないかなと思います(現在、加筆が中途半端な段階で止まっていますが)。確かに、現在のケーブルとの比較もあると分かりやすいかもしれませんので検討いたします。コメントありがとうございました。--アリオト 2010年5月3日 (月) 12:23 (UTC)[返信]

冬季作業車両 編集

  • (コメンテーターコメント)中身の濃い情報と鮮明な画像で、充実した内容です。とくに写真は出色の素晴らしさだと思いました。とはいえ、いくつかの写真は(ディスプレイの解像度によるかもしれませんが)サイズが小さすぎて、拡大しないと説明内容がよくわからないものがあります。写真だけでなく図解があればなお良かったでしょう。「冬季作業車両の運転席」の画像は、運転席という場合、一般にコックピット内部を想定してしまうため、ここでは例えば「……車両前部」といった言い方がよいのではないでしょうか。また、文章的にいくらか「翻訳調」を感じさせる部分があります。読んでいて、ん、と思ったのは、「融雪剤散布車(グリッター)」節で、「結氷を避けるため」より「薄い雪の場合」の方が必要とする塩の量が多いという部分でした。ここは、雪が降らない場合より実際に降った方が塩を多く使うという理解でいいのでしょうか。やや文意が読み取りにくいように思いました。--みっち 2010年4月20日 (火) 09:59 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)みっちさん、コメントありがとうございます。あまり見直しができていないのですが、改めて読み返してみますと、ご指摘のとおり直訳調の箇所がいろいろ残っていますね…。とりあえずご指摘部分は対処してみました:(1) 画像サイズは若干ですが大きくしてみました。様々なタイプの車両を紹介するという記事のページデザイン上、冒頭画像以外はできるだけ同一サイズとし、あえて濃淡が出ないようにしています。(2) 「冬季作業車両の運転席」は「〜のキャブ(運転台)」としてみましたがいかがでしょうか。日本語でも「キャブ」で通用すると思うのですが、念のため括弧書きで「(運転台)」と補ってみました。(3) 「融雪剤散布車(グリッター)」節のご指摘箇所も修正しました。(雪のない状態での)凍結防止目的よりも融雪目的の方が融雪剤を多く使う、という認識です。本記事ではgritの訳語を「融雪剤」としましたが、目的・用途によっては「凍結防止剤」と呼ばれることもあります。
      なかなか時間がとれず、思ったように作業を進められずにいますが、日本の大型連休期間中はほとんど活動できないため、連休終了後にもう少し見直しを行おうと思っております…。--Penn Station 2010年4月29日 (木) 15:21 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)読みやすく判りやすい記事に仕上がっていると存じます。すでに触れられていますが翻訳という事でこなれていない部分が散見されます。挙げてみるなら「それらの異なる用途間~できるため、である。」「最も先進的な運転手は、~の設定を最適化することができる」「あるいは冬季期間中の~保証金を支払っている。」など。「暑い国々では、低地地域では雪が少なくても、山岳地域が激しい降雪に見舞われる」は、低緯度の地域の国、ということでしょうか。それから「中には無限軌道(キャタピラ)を持つものもあり、それらは走行するだけで雪を道路の脇にどけることができる」は、意味が取りづらかったです。「反発を招いた。ところが交通事故の増加に伴い」は、モータライゼーションの進展で事故が増加したのか、それとも、批判を受けて塩を使った除雪をやめたら事故が増加したのか、どちらかが良くわかりませんでした。それと、記述内容について、基本的には路面から除雪を行う車種について触れていらっしゃいますが、途中で航空機の機体についた氷雪を剥がす車種についても触れており、ちょっと混乱しました。もしかしたら別の記事にしたほうがまとまりがよいかなとも。細かく見ていくと改善点はございますが、今後のブラッシュアップに期待したいと存じます。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月2日 (日) 05:36 (UTC)[返信]

タヌキモ属 編集

  • (コメンテーターコメント)たいへん面白く読みました。ユーモラスな記事名や食虫植物として「その方面の愛好家も多い」という記述には思わず笑ってしまったのですが、内容は素晴らしく、専門的でありながら平易な説明に感心しました。画像や図解も豊富かつ適切で、私は植物の知識はありませんが、百科事典記事として模範的な水準といえるのではないかと思います。記事内容とあんまり関係ない話で恐縮ですが、ウサギゴケで検索したら一般の園芸店などでも売っているようですね。食虫植物が身近にいて驚きました。--みっち 2010年4月20日 (火) 09:59 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)丁寧なコメントありがとうございます。お褒めに預かり恐縮です。「”その方面の”愛好家も多い」という記述は、別の方の補足的な加筆で追加された表現ですが、その方のちょっとした修正によって、より読み易くなったように感じています。タヌキモ属の各種は食虫植物とはいえ、ミジンコなどを捕る非常に目立たない種がほとんどですので、意外と身近にいる割には見落とされているのではないかと思っています。--蒋龍 2010年4月21日 (水) 14:29 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)対象につき幅広い視点から捉えて、構成としてもまとまっていると存じます。気になるのが「捕虫嚢」の節です。まず「捕虫嚢の壁は2細胞からなる薄い構造」は、細胞2個分の厚さという意味でしょうか。英語版には該当する表記が見当たりません。また「真空状態」「真空」という言葉が出てきますが、これも気になります。恐らく英語版のvacuumを引き写しているのだと存じますが、ことに「捕虫のメカニズム」の中では、真空状態と書いてある一方で内液で満ちているという表現もあり、混乱します。ここでは陰圧とか減圧と意訳するとわかり易いでしょう。全般に表現をブラッシュアップしていくと宜しいかと存じます。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月2日 (日) 12:30 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)丁寧にお読み下さってありがとうございます。捕虫嚢のあたりの記述については、確かに表現として不適切な部分やわかりづらい箇所がありました。ご指摘感謝いたします。他の文章についても、今後推敲していきたいと思います。「捕虫嚢の壁は2細胞からなる薄い構造」の箇所についても少々表現を変えましたが、脚注につける丁度いい出典が手近に見当たりませんでしたので、また改めて探してみます。審査は大変かと存じ上げますが、よろしくお願いいたします。--蒋龍 2010年5月3日 (月) 15:50 (UTC)[返信]

共用部分 編集

  • (コメンテーターコメント)基本的には「専用部分」と同様ですが、こちらの方がコンパクトかつ画像があることで、読みやすいと感じました。なお、レイアウト上、画像はできるだけ上に配置する方がバランスがよく、可読性が上がるので、勝手ながら節冒頭に配置を変えさせていただきました。比較していただければ、と思います。--みっち 2010年4月19日 (月) 09:35 (UTC)[返信]

鉱床学 編集

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (コメンテーターコメント)私にはまったく知識のない分野ですが、各節の説明は適切な画像もあってわかりやすいものでした。ただ、通読して首をひねったことがあります。記事内容は「金属利用の歴史」と「鉱床の種類」のほぼ二つですが、鉱床学としてはこれで十分な構成なのでしょうか。例えばどのような学者がどのような研究をし、どのような成果を上げたかというような、学問とされる分野であれば通常展開されるであろう成立・研究史や学派・学会などの紹介が見あたりません。資料でも一見したところ学問としての「鉱床学」をうたったものはないようで、この点、「鉱床学」の独自性によるものなのか、必ずしも「鉱床学」に限った話ではないのか、判然としませんが、もし独自性があるならその旨を述べていただければと思いました。--みっち 2010年4月20日 (火) 09:59 (UTC)[返信]
    • 興味深く読ませていただきました。鉱床の状態によって鉱山の運命が大きく左右されることについて日立鉱山の記事の中でも触れたこともあり、キースラーガー、スカルン鉱床、鉱脈型鉱床などの各種鉱床についてのわかりやすい説明があってとても良いと思いました。ただみっちさんの疑問にも通じる点なのですが、各種鉱床の説明は鉱床学ではなくて鉱床で取り上げる内容で、鉱床学は「鉱床」をめぐる研究史など、学問としての「鉱床学」を紹介する記事になるのではないか?という疑問を持ちました。--のりまき 2010年4月21日 (水) 12:25 (UTC)[返信]
      • (お返事)お読みくださってありがとうございます。鉱床学というのは私自身この項目を書こうとしたときにはじめて知った学問でした。主たる文献として挙げた「地球鉱物資源入門」は著者によれば「鉱床学概論」のリメイクだそうですが、この本の参考・引用文献は鉱床学のほかに 地質学、鉱物学、岩石学、地球物理学、資源工学などがほぼ同じウェイトで並んでいます。素人判断ですが、「鉱床学」という名前ですが、数学とか物理学みたいな自立した純粋学問と違って、他の学問の成果を利用して構築された応用工学の様な気がします。冒頭の解説にある『人類にとって有用な資源を得る方法を検討する学問』もそんな意味合いでしょう。今回書けませんでしたが、鉱床学の範囲の中には「新しい鉱床の探索」があり、文献ではいろんな探査・分析方法を並べています。しかし実際には「油田の探査方法」などは企業秘密もあるのでしょうが、具体的な事は書いていないなど経済に直結した学問だなあという感じです。冒頭の解説文をもう少し改善できるか考えてみます。Miya.M 2010年4月21日 (水) 16:50 (UTC)[返信]
        •   コメント 油田探索に関してはやはり地層が絡む点で地震研究と縁が深そうです。ノルウェーの経済を執筆するに当たり、北海油田を発見したフィリップス社がその辺のデータを見直したという記述が参考文献の一つにありました。あとは、オスロ証券取引所(代表指数はOBX指数ですが)に上場しているノルウェーの企業にも地質調査を主としている企業があります。ご参考までに。--Wushi 2010年4月23日 (金) 13:35 (UTC)[返信]
          • (お返事)貴重な情報をありがとうございます。実は本文中の石油の解説に代表的な地層図が欲しくてコモンズを探したのですが見つからず断念しました。あと石油開発に携わる組織はけっこう有用なデータを蓄積してるようで、恐竜が絶滅したK-T境界の隕石クレーターを地質学者が血眼になって捜した末に1990年に発見したチクシュルーブ・クレーターは石油開発関係者が10年前から知っていた地質構造だった、とか。もう少し調べて、おいおい加筆してゆきたいと思います。Miya.M 2010年4月25日 (日) 13:52 (UTC)[返信]
  • (読後感想)執筆お疲れ様でした。世の中にはいろんな学問があるんだなあということを改めて考えさせられる興味深い記事でした。金属利用という観点から歴史を読み直した経験はありませんでしたし、画像も普段見慣れない珍しいものばかりで、とても新鮮で面白かったです。内容については記事名との乖離が気になりました。『いま地球の財産を診る』や『現代鉱床学の基礎』などにあるような、鉱床学そのものの歴史や変遷についてもっと記述が欲しいと思います。また、地質学を見てみると鉱床学はその一分野の学問のようですが、どのような位置付けなのかがもう少しわかる形で概論に書き表していただければと思いました。--R.Lucy 2010年4月30日 (金) 20:36 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)通り一遍の解説のみならず、各々の要素につき適度な詳細さで取り上げて、この事象を俯瞰するのにとても有用なのではないかと存じます。読んでいて成程そうだったのかと楽しかったです。丁度日立鉱山スカルン鉱山とキースラーガーが出ておりましたので上手く参照できて助かりました。読んでいて気になったのが、火成鉱床の例の中の説明で「岩相」の順番を列挙されていますが、これが何を意味するのか良くわかりませんでした。このあたりに簡単な説明乃至リンクが欲しいと存じます。熱水鉱床の中で「鉱液」の説明がございますが、直後の鉱脈型鉱床では、(有用成分を含む)「熱水」という表現となり、少しあとにまた「鉱液」となって、これらが同じものか違うものか迷いました。用語を定義して以後は、それを活用しても宜しいかと存じます。それから、質問ですが、鉱液は、マグマ由来の水分、外部から接触する水分、問わずにそう呼ぶのでしょうか。また、濃集する元素と鉱液の温度には関連があることが紹介されていますが、これは、例えば多くの有用成分を含む高温の鉱液が亀裂なりを流れていき温度が下がるにつれて順次異なる元素が濃集する、理想的には順番に並んで濃集するという理解で宜しいでしょうか。あるいはそうゆう鉱床の事例はあるでしょうか。ついでに、温度が違うと濃集する元素が異なる理由についても説明があるとありがたいです。化石燃料鉱床の中では化石燃料の「鉱床」につき「炭田」ないし「油田」と説明されておりますが、続く文中では「鉱床」を改めて用いていることに戸惑いました。記述方針によるものかも知れませんが、導入で説明済みですので「炭田」「油田」でも良かったかなと存じます。その下の「新生代第三紀(50から60%)と中生代(30から40%)」で示される数字は何の割合かが疑問でした。細かく見ていくともう少し説明が欲しい箇所も御座いますが、全般に充実していると存じます。編集お疲れ様でした。コメントが遅くなり申し訳ありません。東 遥 2010年5月2日 (日) 14:06 (UTC)[返信]
    • (お返事)たくさんのご指摘ありがとうございます。「とても新鮮で面白かったです。」R.Lucyさん や「読んでいて成程そうだったのかと楽しかったです。」東 遥さんのお言葉は執筆者として大変うれしいです。仕事の都合でゴールデンウィーク中は全く休めず、お返事が遅れたことをお詫びします。ご指摘いただいた内容は出来るところから順番に反映させていただきます。Miya.M 2010年5月9日 (日) 08:10 (UTC)[返信]

分野C 編集

アルトン・エリス 編集

  • (コメンテーターコメント)お疲れ様でした。音楽家のパフォーマンスの特徴を表現するのはなかなか難しいものがあると思いますが、やはりそこが記事の重要なポイントのひとつになるか思います。アルトン・エリスは歌唱法に特徴のある歌い手のようですので、「ソウルフルかつ滑らか」な歌唱法についてもう少し詳しい説明が欲しいと思いました。他に内容に関して感想を述べますと、「ロックステディの創始者として」節のトレジャーアイルからレコードを出したことにコクソン・ドッドが激怒した箇所ですが、ドッドが激怒する理由がよく分かりませんでした。それまでの記述からは、歌手を一時廃業した時に縁が切れてそれっきりだったと読めるのですが…1967年初頭にスタジオ・ワンのセッション・バンドを帯同してイギリスに滞在したことが、ドッドとの復縁と関連しているのでしょうか?「ツアー後ドッドとの関係が再び悪化」の部分についても、おそらくアルトン&エディ時代にギャランティーに関して衝突があったのかなと推測は可能ですが、できれば1度目の衝突についてもはっきりと書いて頂けるとありがたいです。また、「ルードボーイ」(「フレイムス」節)「ウォーキングベース」(「ロックステディの創始者として」節)という語に関しては何を意味するのか全く理解できなかったので、何らかの説明を加えて頂けるとありがたいです。次に言い回しについてですが、「ワールディスクに録音したラブソング」(「アルトン&エディ」節)、「トレジャー・アイル・レーベルに…スカ楽曲を残した」(「フレイムス」節)、「プロデューサーへ録音を残す」(「レゲエ誕生後の活動」節)といった表現はやや癖があるように感じました。今後の加筆の方向としては、最初に述べた歌唱法についての記述を充実させ、さらに他の音楽家による評価を多く集めることができれば、音楽家としての特徴や偉大さがより伝わるようになるのではないでしょうか。-- 2010年4月23日 (金) 19:19 (UTC)(加筆)-- 2010年4月23日 (金) 19:42 (UTC)-- 2010年4月24日 (土) 05:30 (UTC)-- 2010年4月24日 (土) 05:30 (UTC)-- 2010年4月24日 (土) 05:31 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント) さん、丁寧なコメントありがとうございます。専門用語についてはリンクと括弧によって対応し、不自然な日本語については修正してみました。今後はコクソン・ドッドとの確執と、他の音楽家や評論家によるエリス評を加筆して行こうと思います。--オクラ煎餅 2010年4月24日 (土) 08:14 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)重要人物で、そこそこはわかるけど、踏み込んだ資料を見つけるのには苦労しそうな題材です。細かいですが、「映画」の節は、監督や制作のクレジットくらいはあった方がいいと思います。また、ドキュメンタリー内での描かれ方の情報などもあったほうがよいでしょう。ウィズASPOのライヴ盤などは、タワーレコードへのリンクというのは、あまり適切ではないと思いました。ASPOのオフィシャルサイト内の案内[7]などのほうが好ましいでしょう。「評価」の節は、評価としては、既にまとまったものがあるので、列挙するんじゃなくて、うまく中立的な観点を保ちつつ、普通の文章にまとめられるといいなあと思いました。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:08 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント) Ks aka 98さん>コメントありがとうございます。エリスはボブ・マーリーなどと違い伝記や研究本が出ているわけではないので、当初の予測よりも資料は少なかったですね。ご指摘を頂いたリンクについては修正し、評価は歌唱法とボブ・マーリーとの比較に分け、文脈を整理してみました。--オクラ煎餅 2010年5月7日 (金) 05:13 (UTC)[返信]

デイヴィ・グレアム 編集

  • (コメンテーターコメント)ジャンゴ・ラインハルトと併せてお疲れさまでした。個人的にこういった人物の記事が加筆されることは大変重要なことだと思いますし、その意味で意義のあるエントリーであったと感じます。ジャンゴ・ラインハルトと比べると記述の充実において見劣りがしてしまいますが、やはり商業的成功に恵まれなかったことから資料の量そのものに差があるのでしょうか?-- 2010年4月23日 (金) 19:53 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメント有難うございます。やはり、日本語の伝記本が少なくとも2冊出版されているジャンゴ・ラインハルトと比べると、デイヴィ・グレアムに関しては日本語の資料が決定的に不足しており、今回の出典として使用したRobin Denselow氏の記事を超えるようなものは見つかりませんでした。ただ、各アルバムの英文ライナーノーツを活用すれば、もう少し書けそうな感じもするので、今後はライナーの読み解きが必要ですね。--Ikespirit 2010年4月24日 (土) 05:06 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)ジャンゴ・ラインハルトとこの記事と2つの記事をコンテストに送り込んでいただき、有難うございます。ただ、廉さんがおっしゃるとおり、ラインハルトと比較しても記事の内容面がやや貧弱と感じざるを得ないのが感想です。ただ、ビートルズ全盛時代のイギリスでこういうギタリストがいたんですね。私が思ったのは、ビートルズとの比較がなかったのかなあという点です。--Tantal 2010年4月24日 (土) 11:24 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)Tantalさん、有難うございます。ビートルズとの関係については、昔何かの雑誌で「ビートルズ後期のジョン・レノンやジョージ・ハリスンは、デイヴィ・グレアム風のフィンガー・ピッキング奏法を、一緒にインドに滞在していたドノヴァンから教わった」という論説を読んだことがあるのですが、雑誌名や発行年月日を失念してしまいました…。その論が載っていた媒体と、「ドノヴァンがグレアムから強い影響を受けていた」ことを示すソースがあれば(ドノヴァンの作品を聴く限りでは、ほぼ間違いない気がするのですが)、独自研究でない形でビートルズとの関係も示せるかもしれません。--Ikespirit 2010年4月24日 (土) 23:43 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)重要だけど、資料を探すのが難しい題材ですね。苦心が伝わってきました。日本語文献はこのへんとか。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:08 (UTC)[返信]

ユーロビジョン・ソング・コンテスト 編集

☆協賛参加項目

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (コメント)加筆コンクールであれば、上位進出したであろう項目でしょうが、今回は、協賛参加ということで。ただ、記事のエントリー有難うございます。これまで、数多くの良質の記事を執筆していらっしゃる方の執筆なので、安心して楽しく読みました。気になるのはスピンオフ節。ユーロビジョンが影響を与えた大会が世界各地で開催されているとのことですが、その「影響を与えた」ことを説明することは参考文献などをもとに検証することは可能でしょうか?意地の悪い質問で申し訳ないですが。--Tantal 2010年4月24日 (土) 11:21 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)長い文章でしたが、楽しんで読んでいただき、またコメントもいただきありがとうございます。アワー・サウンドのように、近年になって明確にユーロビジョンのフォーマットに基づいて作られたものについては、ウェブ上でわりと簡単に出典が見つかるのではないかと思います。そうでないものについても、調べていくうちになにか分かることがあったら出典を付け加えておきたいと思います。--Peccafly 2010年5月8日 (土) 00:03 (UTC)[返信]
  • (コメント)執筆お疲れ様でした。文章・構成が読みやすくかつ内容もしっかりしていて、Peccaflyさんが継続して執筆されてきたユーロビジョン・ソング・コンテストに関する記事の集大成と呼ぶに相応しい、非常に質の高い記事だと感じました。1点質問です。「投票結果の発表」節の「1973年、スイスの審査員の1人は激しいジェスチャーで派手な発表を披露した。翌年から、この方式は使われなくなった」についてですが、これは激しいジェスチャーが何らかの理由で物議を醸し、方式の変更につながったということでしょうか?-- 2010年5月1日 (土) 11:42 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)長い文章でしたが、しっかりお読みいただき、コメントもいただきありがとうございました。これについてどういった事情があるのか、これから調べてみて、可能なら記事のほうにも入れておこうと思います。--Peccafly 2010年5月8日 (土) 00:03 (UTC)[返信]

トリスタンとイゾルデ_(楽劇) 編集

☆協賛参加項目

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (コメント)まずは、この場を借りて、記事のエントリー有難うございます。コンテスト/コンクールの今後の方向性は反省会にて承るとしまして、まずは、ワーグナーの大作オペラに対して、さまざまな角度から分析した優れた記事ではないでしょうか。気になる点は、関連項目のところです。ワーグナーの作品に影響を与えた/もしくは与えられた作家・思想家の節では、脚注があったほうが良いかと。例えば、ニーチェを除いて検証可能性をもう少し満たしてくださると助かります。--Tantal 2010年4月24日 (土) 02:29 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。脚注についてですが、基本的に私はこうした補足情報は必要最小限にとどめるべきだと考えています。それでも今回比較的多くなったのは、楽劇の解釈や多義性の紹介などは当然異論もあるわけで、そうした記述では「だれがそういっているか」「だれの説を採っているか」をなるべく明らかにする必要があります。これは、「検証可能性」(方針上、参考文献を示すことでクリアされる)だけでなく、むしろ「中立的な観点」に配慮した結果です。その上でお答えすると、関連項目の節は、それまでの解説本文の「おさらい」を含めて設けたもので、ニーチェなど初出の情報には脚注を付けていますが、それ以外の解説本文を読んでもらえばわかることについては不要と判断しています。--みっち 2010年4月28日 (水) 09:08 (UTC)[返信]
  • (コメント)執筆お疲れ様でした。基本的には大変読みやすく、楽しみながら読める記事だと思います。基本的にと書いたのは、「音楽」節が大変難しかったからです。図解を入れるなど理解しやすいよう工夫をされていることがうかがえますがそれでも難しいというのが率直な感想です。とくに「トリスタン和音」は掛留和音、重属七和音など和音を参照しても意味のとれない用語が登場することもあって難解でした。また、「聖書との関連」節や「ワーグナーへの思想的影響」節には、聖書や哲学についての予備知識がないと理解が難しいのではと思わせる記述がありました。例えば「聖書との関連」節には「イゾルデが歌う「夜になれ(Es werde Nacht)」は、『創世記』の「光あれ(Es werde licht)」のもじり」とありますが、「光あれ」という言葉が持つ意味が分からないことにはもじったことの意味もまた分からないと思うのです。「ワーグナーへの思想的影響」節にあるトーマス・マンの言及も、ショーペンハウアー哲学とエロティックな甘美さ、陶酔的なエッセンスといった言葉を関連付ける素地が読み手にないことには今一つピンとこないのでは、という気がします。この辺りには何らかの補足・解説があったほうがよいと感じました。指摘した箇所以外は理解しやすい記事だっただけに残念です。細かい指摘としては「ワーグナーの台本」節に「第3幕での「喜びの旗」」という記述がありますが「構成」節には喜びの旗に関する記述が見当たらない、カール・リッターがドイツの地理学者の記事へリンクされているという点があります。-- 2010年4月30日 (金) 13:12 (UTC)[返信]

ジャンゴ・ラインハルト 編集

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  • (コメンテーターコメント)執筆お疲れ様でした。「影響」の節を読むと、ジャズの歴史において大変重要な人物であることが伺えますし、(私自身はギターを弾けませんが)「1928 年〜1945年」や「奏法」の節を見ますと、とてつもない弾き方をしているということが伝わってきます。同時に今後のさらなる発展のカギも、「影響」・「奏法」節に分析や評価をより多く集めて充実させ、エントリーコメントにある「超絶技巧を極め」といった事柄をより読者に伝わりやすくすることにあると感じました。「バイオグラフィ」節ではステファン・グラッペリとの関係について、例えばフランス・ホット・クラブ五重奏団結成の経緯、互いをどのように評価していたか、親密さを物語るエピソードなど、2人の関係や結びつきを示す記述が増えれば「盟友」という表現の説得力が増すように思いました。スタイル面では『ジャンゴ・ラインハルトの伝説』と『ジャンゴ・ラインハルト伝 ジャンゴ わが兄弟』の出典の示し方について、広範な頁をひと括りにするよりも、より詳しくどのページがどの記述に対応しているのかを示すほうが検証する際には便利がいいように思います。-- 2010年4月19日 (月) 09:00 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)様々な角度からの丁寧なコメント、有難うございました。正直、伝記の部分はどうしても2冊の文献に依存しがちとなってしまい、伝記部分を長々と書くのは良いことではないと思っていただけに、私としても、影響や奏法について、まだまだ多くの資料や評論を見つけていきたい所です。スタイルに関しては…仰る通りです。でも、それを修正するのはかなりハードなので、まとまった時間が取れる休日とかに行おうと思います(ある意味、新規記事を立ち上げるよりも大変かも…)。ジャンゴとステファン・グラッペリとの関係については、ステファンのアルバムのライナー等で信頼のおける記述がありそうな感じなので、その辺をもう一度よく読んでみます。--Ikespirit 2010年4月21日 (水) 15:53 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)ギターって、右利きの人は人差し指から小指を使って演奏するんですよね。事故による障害を克服したギタリストっているもんですねと感嘆を示しつつ、質問を。1つ目は、ロマ出身の音楽家ということであれば、当然、第二次世界大戦中の活動が気になるわけです。文中ではドイツ占領下のフランスにおいて、「ヌアージュ」についての回想が実施されているわけですが、さてさて、他民族の文化を排斥したナチス・ドイツが、弾圧を実施したということはなかったんでしょうか?当時のユダヤ人がおかれていた環境を考えると生き残っているほうが不思議で仕方ないぐらいなんですが。もう1つが、盟友ステファン・グラッペリと一時的に袂を分かった理由ですが、その理由を教えてください(グラッペリの記事もスタブ状態なので、そのあたりが良くわかりません)。--Tantal 2010年4月24日 (土) 11:08 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)Tantalさん、有難うございます。戦時下におけるジャンゴの活動は、確かに順風満帆とは言えず、かなり大変だったようですが、その辺を分かりやすく纏めるためには、出典として活用した2冊の伝記の更なる精読・検証が必要な感じですね。--Ikespirit 2010年4月24日 (土) 23:43 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)バイオグラフィ的な部分は、伝記を参照して充実していると思います。ジャンゴの場合は、ヨーロッパで、ギターで、という点で、戦前ジャズのなかでは異質なものとみなされているため、ジャズ史として、それなりにきちんと触れられていますから、そうした資料を用いることで、俯瞰的な位置づけができるように思います。また、マヌーシュ・スウィングということであれば、2000年前後からのジプシー音楽の流行のなかで参照されるようになったところもあると思います。こっちは情報源を見つけるのに苦労するかも知れませんが。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:08 (UTC)[返信]

食品サンプル 編集

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (読後感想)よくまとまって、通して読むと「読みやすい」という印象です。難点としては、特に歴史関係が、特定の方の研究成果に拠っている部分が多いので、そのクリアが選考に大きな意味があると思います。--O fudo 2010年4月20日 (火) 15:30 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。当該記事を執筆するに当たって、悩んだのはまさにそこで、食品サンプルに主眼を置いて研究・分析している人がほとんどいないということでした。野瀬の著作以外では岩崎滝三の自伝『蝋の花』という書籍があるのですが、残念ながら非売品であり、検証が非常に困難な状況にありますし、それ以外に書籍として出版がなされているものにめぐり合う事ができませんでした。国会図書館で検索してみると雑誌記事としてはいくつかありそうな感じがしましたので、それらを確認しつつトピックス毎の補強を図っていくのが今後の取り組み方として妥当かなと考えています。--R.Lucy 2010年4月22日 (木) 14:32 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)野瀬氏による研究を丁寧に描写し、日本の食文化の一端をにないつつも、研究の対象としえなかった分野をすばらしい記事に仕立て上げられたことに関して、好感を持てますが、やはり、一名の研究書に大きく寄っているところがひょっとしたら、問題かもしれません。--Tantal 2010年4月24日 (土) 02:23 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)お褒めの言葉を頂きありがとうございます。野瀬の研究は本人の10年以上に渡る食べ歩きの結果から導き出されたフィールドワーク的なものと本人自らによる関係者へのインタビューや資料調査が主たる部分を占めており、他者の研究成果や同分野の研究状況について触れられているものは先に挙げた『蝋の花』がほとんど唯一でした。(朝日新聞に掲載された自著の書評を引用し、この分野には研究する人間が誰もいないと述べていたほど)いわゆるサブカルチャー的分野は研究者が本当に少なく、ウィキペディアの記事としては非常に難しいと思いますが、巧く書き上げることができたときの達成感も大きい分野だと思っています。今後も広く資料を渉猟して偏った観点からの記事とならないよう充実させていきたいと思います。ご指摘ありがとうございました。--R.Lucy 2010年4月24日 (土) 23:44 (UTC)[返信]
  •   コメント いつものことながら痒い所に手が届くR.Lucyさんの記事に敬服いたします。いつも目につく食品サンプルにも相応の研究成果があるんだなと感心します。製作手法の節で実際に、製作している過程のようなもの(図など)があると分かりやすいなぁと無理な注文をしてみます(あるのかどうか分かりませんが)。以前、食品サンプルを取り扱うテレビ番組(何だったか忘れましたが)があり、そこでは蝋だったかパラフィンだったか忘れましたが、溶かして薄緑色に着色、水面に薄く広げて、葉脈などの模様をつけて、引き上げ湯葉のように水から取り出してレタスだったかキャベツだったかを製作したようなものがありました。外部リンクで食品サンプルを作成している企業や製作方法を紹介しているホームページがあればリンクしてみるのもありかもしれません。あと、参考文献と脚注のすみ分けですが、2010年4月5日 (月) 09:31 版の脚注に、13.小菅桂子 『近代日本食文化年表』 雄山閣出版、1997年。ISBN 4639014600。14.『白木屋三百年史』 白木屋、1957年。26.山田けい 『大人かわいいスイーツデコ』 辰巳出版、2009年。ISBN 4777806154。が掲載されていますが、参考文献節に詳細を移動、脚注には多用している野間2002の形式で統一していいのではないかと思います。--Wushi 2010年4月24日 (土) 12:16 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)過分なお言葉ありがとうございます。野瀬の資料には具体的な料理を取り上げた上で各工程が写真つきで掲載されており、とてもわかりやすいものになっているのですが、これを個人でやるのは難しいかもしれません。岩崎が一時身を寄せたことから現在は食品サンプルの主要生産地となっている岐阜には観光施設として実際に体験できるスペースが設けられているようで[8]、ここに足を運ぶことであるいは可能かもしれませんね。脚注はまた直しておきます。ご指摘ありがとうございました。--R.Lucy 2010年4月24日 (土) 23:44 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)執筆お疲れ様でした。R.Lucyさんの記事には「このテーマでここまで書けるのか」と感銘を受けることが多いのですが、この記事にもまた目を見張りました。参考文献が1冊に偏るのは現状では仕方のない面があるとは思います。野瀬泰申氏の後を追う方が現れるといいのですが。以下、加筆をご検討頂きたい点と質問です。
    • 藤田末廣氏と竹内繁春氏について、簡単なもので結構ですので経歴を説明することは可能でしょうか?
    • 「食品サンプル製作の事業化」のところには言及がないようですが、後にパラフィンを節約して模型を製造する方法を研究していることから、岩崎瀧三氏が当初用いた材料は須藤勉氏と同様のものだったと理解して問題ないでしょうか?-- 2010年4月25日 (日) 15:46 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)お読み頂きありがとうございます。1点目の経歴についてですが、竹内はTVチャンピオンに出演するなど、最近の職人ですので、探せば何かあるかもしれません。藤田はどうだろう・・・探してみます。2点目については岩崎と須藤は製法が異なりますが、野瀬の書籍では岩崎は須藤の作品を眼にしてから食品サンプルの事業化に着手した可能性があることを指摘しています。岩崎は試行錯誤を繰り返しながら、最終的には西尾らと同じく寒天を用いて型を取る製法に行き着いたようです。--R.Lucy 2010年4月30日 (金) 09:41 (UTC)[返信]
  • (コメント)最初に「特定の方の研究成果」を持ち出した者としては、執筆者以外の方も含めた明瞭な説明ありがとうございます。あとは、そうした研究の現状を記事の内容にいかに反映させるかが、秀逸も視野に含めたレベルでの問題になると感じています。--O fudo 2010年4月28日 (水) 00:37 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)現状の研究状況をテーマに加筆するのはおもしろいかもしれないですね。また資料を集めてみて加筆できそうなポイントを探してみます。コメントありがとうございました。--R.Lucy 2010年4月30日 (金) 09:41 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)単一の情報源から書く場合、特にその情報源が商業出版物で、現在も入手できるのであれば、ある程度文章を抑える必要もあると思います。また、研究者のこと自体を、研究史的に本文で書くということもできると思います。ただ、NDLで雑誌記事検索をしたところ、まだ資料はありそうですし、視点を変えて書けることもありそうです。これなら大宅文庫でも出てきそうな感じ。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:08 (UTC)[返信]

櫻間伴馬 編集

加筆前の版 - 評価対象版 - 差分

  • (読後感想)伴馬の人となりがよくわかる、読み物として非常に楽しく読み進めることができる記事だと思います。文章面に関しては百科事典的でない表現やスタイルについて今後の推敲を期待したいです。内容に関しては、評価とは別に伴馬が後世にどのような影響を与えたか、あるいは与えなかったかについて節を分けての解説が欲しいと思いました。何れにせよ、スタブだった記事をここまで詳細に、複数の文献に基づいて丁寧に執筆することは非常に労力のかかる作業であったかと思います。執筆お疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月23日 (金) 12:41 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。「楽しく読み進めることができる記事」という評価は、望外の喜びです。「後世への影響」については、確かに欠落していた観点だったので、ひとまず「能楽界への影響」として加筆してみました。よろしければご覧ください。表現とスタイルについても、また改めて校正したいと思います。--サトウミツロウ(sat666) 2010年4月23日 (金) 19:50 (UTC)[返信]
    • (コメント)さっそくの加筆ありがとうございます。拝読させて頂きます。--R.Lucy 2010年4月24日 (土) 23:49 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)今、住んでいる町出身で芸能に秀でた人がいるもんですねえと感嘆しながら読んでいました。脚注のつけ方も適切なように思われます。同時代の人による評価も検証可能性が担保してあり、好感が持てます。気になった点をいくつか。「生涯 熊本時代」節に出てくる地名での赤リンク「川尾」とはどこでしょうか?熊本市内に似たような地名はないし……(現在の熊本市南部にある川尻のことですか?)。また、「日数能」という言葉がこの節にも出てきますが、いったいどういう能なのでしょうか?以上2点が疑問です。--Tantal 2010年4月24日 (土) 02:20 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。「川尾」は地名辞典で確認しましたが、確かに熊本周辺には当てはまる地名はないようです。出典である息子・弓川の著作では「川尾」となっていますが、恐らくご指摘の通り「川尻」の誤りであろうと思います。この辺の記述については弓川の文章以外に拠るべき資料が現時点で見当たらない上、その弓川にしても生まれる前の話なので、100%正確かは解らない、というのが痛いところです。「日数能」は、7日間、10日間というように何日間か続けて能の興行を指すようです。歌舞伎などの他の演劇のように何日間も続けて興行すると言うことが、能の場合基本的に稀なのでこういう言い回しがあるようです。これについてもご指摘があって改めて確認することができました。重ねてお礼申し上げます。--サトウミツロウ(sat666) 2010年4月28日 (水) 13:29 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)執筆お疲れ様でした。このような傑物がいたのかと思わせてくれる記事で、櫻間伴馬の魅力がよく伝わってきます。芸風や技能の高さについてかなり詳しい記述がされており、評価も多く集められていることがこの記事のすぐれている点の一つだと思いますが、とりわけ舞込みについての説明が素晴らしく、そこで一気に引き込まれました。以下、改変をご検討頂きたい点を挙げます。
    • Tantalさんのコメントとかぶりますが、日数能、半能、伶人といった言葉には解説をつけたほうが読みやすくなると思います。
    • 「性格」節の「しょっちゅう「馬鹿づら!」と怒鳴り散らす「癇癪持ちの頑固爺い」であった」の箇所ですが、脚注の出典を見ればおそらく櫻間金太郎がそう言っているのだろうということは想像できますが、こうした評価にかかわる記述では本文でも「-によると」と言った具合に記述し、誰による評価であるかが一見して分かるようにしたほうがよいかなと感じました(現状では明らかに問題があるということではありません)。-- 2010年4月26日 (月) 11:42 (UTC)[返信]
      • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。能の演技についての説明は特に自信がない部分でしたので、そのように言っていただけると大変励みになります。半能、伶人などの語については、日数能と合わせて解説を付けたいと思います。性格の記述についてもご指摘の通りなのですが、問題は金太郎氏は伴馬の死去時1歳ぐらいなので、おそらくこれは又聞きだという点です。こうした場合に「金太郎によると」とつけてしまうことに、一抹の躊躇を感じはするのですが……。自分でも考えてみますが、もし何かよい記述方法がありましたらご指導いただけましたら幸甚です。--サトウミツロウ(sat666) 2010年4月28日 (水) 13:29 (UTC)[返信]
        •   コメント確かにそういった伝聞をどう表現するかは難しいですね。私にもすぐにはよい案が思い浮かびません。現状では今の形がベターかもしれませんね。-- 2010年4月28日 (水) 14:27 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)「人物・挿話」は、もう少し整理できると思いました。「芸が好き」という節タイトルは、ちょっと違和感があります。たとえば、「性格」、「芸が好き」「稽古」を合わせて「芸への取り組み」として、「道成寺」は「評価」の「その芸について」へ、「家族」を「家族・交友関係」などとして「宝生九郎」をそっちへ、などが考えられます。

もともとどのように書かれているかはわかりませんが、「櫻間金太郎の『櫻間三代』では、ほげほげとされ、」などとするか、本文では「金太郎は、ほげほげと伝える」などと書いて、脚注で「なお、金太郎氏は伴馬の死去時1歳ぐらい。伝聞と思われる」などと補うのではどうでしょう。ウィキペディアでは、情報源が何かを示すだけではなく、執筆者が情報源をどう扱っているか、ということも、読者に伝えるために、脚注などで触れる必要があると思います。「神戸外国人居留地」は参考になると思います。明治期だと、近代デジタルライブラリーは、一度チェックする価値があると思います。こんなのとか[9]。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:08 (UTC)[返信]

    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。人物・挿話の項は自分でも少し煩雑であると感じていたので、性格の項ともども、いただいたご意見を参考にしながら後日改稿を試みたいと思います。近代デジタルライブラリーは、確かに執筆時には参照しておりませんでした。改めて検索したところとても良い資料を見つけることができたので、改稿の際に利用するつもりです。重ねて感謝申し上げます。教えていただいた坂元雪鳥『能学私論』は、伴馬についてはそれほど記述がなかったですが、他の同時代の能役者を書く際役立ちそうな大変面白い本でした。--サトウミツロウ(sat666) 2010年5月3日 (月) 12:54 (UTC)[返信]

アルプ・シュニットガー 編集

  • (読後感想)海外の映画や友人の結婚式などでしか目にすることの無い、教会に置いてある荘厳な楽器には当然製作者がおり、その出来・不出来には違いがあるというごく当たり前の事実も通常は意識することは無いのですが、「そういえばそうだな」と興味深く読ませて頂きました。ドイツ語版の秀逸な記事の翻訳ということで内容面に関しては非常に充実しており、知識の無い私にもその生涯や重要性などについてわかり易く読み進めることができました。記事の構成には若干の難があり、生涯の節に人物像や家族などについてが挿入されているなど、途中途中でつっかえる部分がありました。また、日本語として若干ながら理解し辛い文章がありましたので、今後の改善を期待したいと思います。執筆お疲れ様でした。--R.Lucy 2010年4月23日 (金) 12:41 (UTC)[返信]
    • (執筆者お礼)ご感想ありがとうございます。日本語として理解し辛い文章があるとのご指摘は、私の力不足です。もう一度読み直してできる点は修正したいと思います。今後もご指導頂けますようお願い致します。--汲平 2010年4月23日 (金) 13:23 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)北ドイツ・オルガン楽派といえば、FAになっているディートリヒ・ブクステフーデがあります。日本語版ウィキペディアにおいて、音楽作品というソフトに関してはある程度、記事が充実している部分もありますが、オルガンなどの楽器というハードを作った人々の記事を読むのは初めてだっただけに、十分に楽しめる記事でした。質問としては、この分野も日本語文献があるのかどうかが気になりますが、そのあたりはいかがでしょうか?--Tantal 2010年4月24日 (土) 00:58 (UTC)[返信]
    • (回答)コメントありがとうございます。日本語文献については、シュニットガーについて、あるいは北ドイツ・オルガン楽派に特化したような文献は、少なくとも私のような素人の眼に触れるような一般書にはないと思います。バロック関係の書物には、オルガンの名器を作製してバッハを頂点とする後期バロック音楽の隆盛をもたらした人物としてシュニットガーとゴットフリート・ジルバーマンの名前が大抵挙げられているのですが、彼らの詳しい説明は読んだことがありません。この点は、今回私がこの記事を翻訳しようと思った動機の一つでもあります。--汲平 2010年4月24日 (土) 02:00 (UTC)[返信]
  • (読後感想)翻訳ということを考慮しても日本語の文章として見た場合、冒頭に洗礼の記述があるのには率直なところ違和感を感じます(私がキリスト教徒ではないというのもありますが)。記述内容自体は門外漢の私でも比較的たどりやすいと感じました。なお、冒頭のバロックオルガンの内部リンクについては、バロックへのリンクとなっていましたが、次の理由からオルガン#バロック・オルガンへのリンクに変えてみました。a.バロックの現時点の内容とオルガンの記事の容量では、一度バロックに行くとバロックオルガンの説明に行きづらい。 b.バロックへのリンクはクラシック音楽のテンプレートで確保できる。--O fudo 2010年4月28日 (水) 00:37 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)執筆お疲れ様でした。高い名声を得た人物であるにもかかわらず、世に出るまでの間ばかりか最期について曖昧な点があるところが面白いと感じました。以下、質問と改変をご検討頂きたい点です。
    • シュニットガーがオルガン製造に関し特権を有していたという内容の記述がありますが、具体的にはどのような特権でしょうか?
    • 「構造上・音響上の特徴」節に書かれていることは私にはやや内容が難しく、イメージしにくいところがありました。例えば「プリンシプルコール」「ペダルカプラー」といった用語はオルガンにも解説がない用語のようですので、解説を加えて頂けるとありがたいです。
    • 「人物像」節の「彼の署名は、一般的な「mit eigen Hand」の代わりに格調高く「manu propria」と添え書きされている」という説明おそらくはドイツ語に詳しくないと実感ができない表現ですので、できれば解説が欲しいと思いました。
    • ドイツ語の秀逸な記事ということで全体的な構成や文章の流れがすっきりしていてよみやすい記事でしたが1点、「手工芸的特性と活動範囲」節の「おそらく1703年にゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、1720年にヨハン・セバスチャン・バッハらの名前がある。」の箇所は言い回しに少し違和感を覚えました。おそらくは年代と名前が特定されている上に「である」と断言していることと「おそらく」という言葉とのバランスの問題だと思います。-- 2010年4月28日 (水) 14:53 (UTC)[返信]
      • (執筆者、お礼と回答)O fudoさん、廉さん、丁寧にお読み頂き、コメントを頂けて、嬉しく思います。ありがとうございます。
        • まず、冒頭に洗礼の記述があるのは、誕生日が確定できないため、誕生から最も近い日で日付が記録で確認できる洗礼の日を記述しております。たしかに、私自身を含めキリスト教徒でない者には違和感がありますが、この日より少し前に生まれた、という参考になる日付という意味合いだと理解しております。
        • バロックオルガンのリンク先は、O fudoさんに修正頂いた先の方がより適切だと思います。修正ありがとうございます。
        • オルガン製造特権については、ドイツ語版に詳しい内容は記述されていません。当時の歴史関連、地理関連の記事を書いた経験から推測すると、それぞれの伯領、侯領、公領で領主が施主となるオルガン建造についてはシュニットガーに優先的に依頼がなされるという内容のものであったろうと思うのですが、確定的なことは書けません。申し訳ありません。
        • プリンシプルコールについては「プリンシプル」の「コーラス」です。ご指摘の通り、平易な記述が可能だと思いましたので書き改めました。ペダルカプラーについてはメカニックの名称なのでどう書いたものか思案しております。
        • 「manu propria」については、「自署」と書くところを普通にドイツ語ではなく、当時は教養人の言葉であったラテン語で書いているということです。少しだけ加筆しました。
        • 「おそらく1703年にゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、1720年にヨハン・セバスチャン・バッハらの名前がある。」の「おそらく」は「1703年」にだけかかっています。誤解を招くおそれがあるようですので、少しニュアンスが変わってしまいますが読みやすさを優先させて「1703年頃」と記述を改めました。
      • 以上、お二人とR.Lucyさんのご指摘を承けて、少し言い回しや説明の加筆・修正を行いました。改めて、ご指導頂けると幸甚に存じます。--汲平 2010年4月29日 (木) 02:43 (UTC)[返信]
    • (コメント)加筆お疲れさまです。とりあえず、明瞭さが増したことを確認しました、と記しておきます。--O fudo 2010年4月30日 (金) 13:38 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)訳文のこなれかたや、日本の読者への配慮なども感じられる点など、翻訳記事の模範となるものだと思います。毎回、難しいと思いながらも気になるものとして指摘しているのは、日本語文献ですが、パイプオルガンなら、多少は日本語資料があるかなとも思ったのですが、すぐには見つけられませんでした。『オルガンの文化史』は、日本での製作や受容を熱かったもので、あとはグローブにはあるのかな、とか、音楽之友社『人間と音楽の歴史』なら何か図版が得られないかな、とかも思ったのですが、参照する時間をとれませんでした。すみません。あとは、シュニットガーのオルガンでの演奏を収めたCDなど、音源をまとめた節を作ってあると、楽しみが増えると思います。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:08 (UTC)[返信]
    • (執筆者お礼)Ks aka 98さん、コメントありがとうございます。「翻訳記事の模範」と過分のお褒めのお言葉を戴き、とても嬉しく思います。オルガンは日本では馴染みの薄い楽器であるためか、参考になる日本語文献は少ないと思います。ましてや、ドイツのバロックオルガンについての資料は素人の私には見つけることができませんでした。ドイツ語版秀逸記事ですので、その引用については信頼して良いと判断しました。その代わり、といっては変ですが、引用元がウェブサイトであるものについては一応目を通したつもりです。これらもドイツ語または英語ですので初級程度の語学力しかない私にはしんどい部分もあったのですが、様々な新知識を得ることができて楽しかったです。--汲平 2010年5月1日 (土) 01:11 (UTC)[返信]

オランダ黄金時代の絵画 編集

  •   コメント オランダ黄金時代という、オランダの経済絶頂期に有名な絵画が複数えがかれており、且つ、体系だって画像も豊富に取り込まれている点、当時の経済状況も織り込まれている点で高く評価したいと思います。この時代の代表はやっぱり、レンブラントの夜警でしょうか。いつの間にやら、中国から出発して、UAE、オランダ、ベルギー、フランスと浮気してノルウェー関連を執筆している私にとって、オランダにもまた手を出してオランダ黄金時代をいい加減執筆しないといけんのかなと思ったり、思わなかったりというところです……orz。さて、気になった点は、以下の通り。
  1. 2010年4月14日 (水) 14:34 版でいうと、脚注15に赤リンク(Paulus Bor、Jacob van Velsen、Jacob Jordaens)が3人いますがその意図は?多分英訳を利用したからかもしれませんが。
  2. 脚注5。「MacLaren によると、ヤン・ヨーステンは……」とありますが、脚注60前後を読む限りですとヤン・ステーンのようです。ヤン・ヨーステンだと徳川家康の外交顧問になりますので見直しお願いします。--Wushi 2010年4月23日 (金) 13:16 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)画像が豊富なことが記事の理解に大きく寄与していると思います。オランダ黄金時代に描かれた絵画がまさしくオランダ絵画の黄金期であることも理解できます。私が手がけたカジランガ国立公園とは異なり、日本語文献がある程度はありそうな分野ですが、そのあたりの資料の渉猟は実施されたのでしょうか?--Tantal 2010年4月24日 (土) 00:54 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)お読みいただき、コメントありがとうございます。構成 / 内容に若干手を加えたとはいえ、エントリー時に書いたとおりほぼ素翻訳のままで執筆コンテストに出しても良いかどうか結構悩みました。以下ご指摘いただいた内容につき個別にお答えさせていただきます。
      • Wushi さん。まずはご指摘いただいた箇所は完全に私のミスです。特にヤン・ステーンとヤン・ヨーステンを間違えるとは、我ながら何を考えて執筆していたのだろうと汗顔の至りです。Wushi さんは『夜警』がお好きとのことですが、すいません私は当時の画家ではフェルメールが一番です。個人的にはヤン・ファン・エイクに代表される初期フランドル派が一番好きで、その静謐な画面表現を正しく発展させた画家だと「勝手に」思ってます。オランダ黄金時代についてはこの記事を翻訳するにあたり英語版記事に目を通しており、本記事のバックボーンとして翻訳立項するかとも思いましたが、どうにも私好みの記事ではなく、執筆できるだけの知識もなかったため止めました。ヨーロッパ史上重要な時代でもあり、Wushi さんが記事を書いていただけるのを心待ちにしております。
      • Tantal さん。私が過去に執筆した記事と同様に、本記事もほぼ英語版からの翻訳そのままです。17世紀オランダ絵画は日本でも結構人気ある分野で、特にレンブラントとフェルメールについては画集や研究書はそれなりに出版されています。しかしながら画家個人の業績は詳しく書かれていても背景のオランダ黄金時代と絡めて俯瞰した、入手しやすい文献は私の知っている範囲ではありません。一番入手しやすいと思われるレンブラントの解説書である知の再発見双書『レンブラント―光と影の魔術師』でも英語版記事に書かれている内容以上の記述はありません。他に私の手元にある当時の画家たちの画集や解説書においても同様です。もちろん研究論文や、あるいは美術館主催の「黄金時代のオランダ絵画」をあつかった企画展のパンフレットなどまで丹念に検索すれば別なのかも知れませんが。その意味で渉猟不足であるとのご指摘はその通りで言葉もありません。--光舟 2010年4月24日 (土) 01:48 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)ある時期におけるオランダの絵画という限定されたテーマですが、絵画の歴史や当時のオランダについて詳しい知識がなくてもスムーズに読み進むことができました。画像が豊富で、記述内容を実際に絵を見て確認しやすい点も読み手に親切です。2点疑問に感じたことがあります。1点目は「風俗画」節の終盤で「黄金時代後半でも肖像画や歴史画を描く画家は非常に高く評価され…」と、肖像画と歴史画について記述されていることに意味はあるのだろうかということ、2点目は同じ箇所の記述(「歴史画を描く画家は非常に高く評価され」)と、「歴史」節にある「歴史画は大衆には受け入れられ辛かった」、「歴史画の分野で成功した画家も少ないながら存在し」という記述との整合性はどうなんだろうということです。歴史画は大衆に受け入れられなかったがそれを描く画家は非常に高く評価された、歴史画を描く画家は非常に高く評価されたが歴史画の分野で成功した画家が少ないということは起こりうることなのでしょうか?-- 2010年4月29日 (木) 10:22 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)冒頭部の作品、最近ポスターでよく見た『真珠の耳飾りの少女』に差し替えて配されているのは、アイキャッチとして有効だなあというのが最初の印象です。内容を咀嚼しきれていないような印象を受けました。たとえば、多くの作品が作られたが、供給過剰で価格は低く、フェルメールやレンブラントらも高名ではなく、多くは画家として裕福になることはできなかった、というように「背景」には書かれています。しかしその後「当時の芸術はオランダが世界に誇るもの」で、「17世紀オランダ絵画の大きな成功は次世代以降の絵画を圧倒するもの」とされています。だとすると、フェルメールやレンブラントら以外に高名な画家がいて、同時代的には画家たちはオランダ以外の地で高く評価されて…と、ちょっと無理がありそうな解釈を必要とします。おそらく翻訳元に由来するのだろうとも思いますが、「翻訳」だけではなく、内容的な部分を踏まえての修正が期待されます。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:08 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)お読みいただき有り難うございます。返答が遅くなり申し訳ありません。お二方のご意見は、私が翻訳時には特に矛盾とは感じませんでした。以下の返答は私の乏しい知見による「独自研究」で、必ずしも正確ではないかも知れないことをあらかじめ言い訳させていただければ有り難く。
      • 廉さん。ご質問いただいた件はどちらも「ジャンルのヒエラルキー」との関連で私には納得出来た箇所です。一般的に高尚と見なされている分野の作品よりも、世俗的な分野の作品の方が大衆的な人気を博するということは普通にあるのかなと思います。例として適当かどうか微妙ですが、書籍として純文学とライトノベルとを比較した場合、作品としての評価は純文学の方が上だけれども、発行部数や大衆の人気はライトノベルの方が上というケースは往々にしてあるんじゃないかなと。同じ意味で絵画の順位付けたる「ジャンルのヒエラルキー」からすれば歴史画家が画家としての「格付け」は上で尊敬はされていたが、大衆からの人気があってその絵画がよく売れたのは風俗画家であり、経済的な面からいえば成功したのは「ジャンルのヒエラルキー」では下位に位置づけられていた風俗画家だったのではないかと考えました。
      • Ks aka 98 さん。冒頭部の絵画をフェルメールの『牛乳を注ぐ女』から『真珠の耳飾りの少女』に差替えたのは、単に私が後者がこの当時の絵画で一番好きな作品だったというだけで他意はありませんでした。『真珠の耳飾りの少女』もモチーフにした映画が制作される以前から好きな作品であり、特にアイキャッチを意識したものではなかったです。さてご質問の件ですが、レンブラントは存命中から非常に高名な画家でしたが晩年は諸処の理由で破産しています。フェルメールは在命中の記録はほとんど残っていません。それなりに評価されていた画家ではなかったかと推測されていますが、詳細は伝わっていない画家であり、経済的に恵まれていたかどうかは定見がないのが実情です。そして画家の場合、存命中には評価されなかったけれども死後直後から数十年の間にその作品が再評価されたというケースは、近年の例で言えばファン・ゴッホモディリアーニなど枚挙に暇がありません。そういった意味で私にはとくに無理があるという記述には感じられませんでした。
    • 冒頭で「言い訳」させていただいたとおり以上の私の回答には嘘がある可能性もあるでしょうし、お二方のご質問に対して的確な回答となっているかどうかは正直よく分かりません。Tantal さんへの回答にも書いたとおり、私の周辺にある資料にはこの記事に対する適切な加筆ができるだけのものがないため、今後内容を充実させていけるはお約束できないというのが実際のところです。中途半端な回答で申し訳ないです。--光舟 2010年5月7日 (金) 19:33 (UTC)[返信]
      • (コメント)ご回答ありがとうございます。光舟さんのご説明で疑問に思っていた箇所について理解できました。ただ、記事の記述からは名声を得るという意味での成功と経済的な意味での成功との区別が必ずしもはっきりしない感がありますので、両者の違いを強調して頂けるとさらに読みやすくなるのではと思いました。-- 2010年5月8日 (土) 05:10 (UTC)[返信]
      •   コメント個々の画家がどうこう、ということではないんですが、ええと、「晩年のレンブラント」というのがそういうことだとすると、それ以前に、「レンブラントは当時も高名だったんだけど」というのがあったほうがよくないでしょか。死後再評価されることが多いだけに、今評価が高いとされている人が、当時どうだったかはわからないという前提で読んではいるのです。
それで、当時の評価と今日の評価が、ある程度比例しているという前提がないと、
現在では当時の最高の画家だとされているフェルメール、フランス・ハルス、晩年のレンブラントたちも、当時はそれほど高名ではない、あるいは流行に外れた画家として経済的問題を抱えており、貧困のうちに死去している。
で、「供給過多のため絵画の価格は低かったと考えられる。」に続けて、「現在では当時の最高の画家だとされているフェルメール、フランス・ハルス、晩年のレンブラントたち」を持ち出す意味はあまりないと思うんですよ。ここで「現在では当時の最高の画家だとされている」云々が出てくるなら、当時最高の画家でさえ貧しかった、すなわち当時すべての画家が、貧困のただなかにいたのだー、という話になると思う。画家の経済状況を伝えるための例示。高名でなくて流行から外れた画家の貧困は不思議な話ではないです。
ただ単に、評価が変化したことを伝える文として、「現在では当時の最高の画家だとされているフェルメール、フランス・ハルス、晩年のレンブラントたち」「当時はそれほど高名ではない」という説明なら、わかる。そして、他には高名で貧しくない画家がいて、高名ではなく貧しい画家もいたのだろう。3人の画家は、当時高名ではなく貧しかった、と。当時の状況を伝えるものではなくて、その3人がどうだったか、という説明です。ところが、ここは、「価格」とか経済状況がテーマなのですよね? ここでは、当時と現在の評価の変化と、当時の画家の経済状況を、同時に説明するようなことになってしまっている。だとすると、訳は、元の文の語句をそのまま残すなら、
現在、当時の最高の画家として知られているフェルメール、フランス・ハルス、晩年のレンブラントたちは、当時はそれほど高名ではない、あるいは流行に外れた画家であったが、彼らも経済的問題を抱え、貧困のうちに死去している。
というようなかたちになると思うんです。いっそ「最高の」は外した方がいい。ついでに「晩年のレンブラント」は、ぼくなら外します。日本語としては「画家であったが」に繋がるという違和感もあったりするので。「経済的に恵まれていたかどうかは定見がない」のなら、フェルメールも外すべきでしょう。ともあれ、これなら、フェルメールらの名前は、この時代の画家として、読者が知っているだろう名前として例に用い、ただし、現在の評価と当時の評価が異なるためこのことを簡潔に説明した上で、一般的な高名ではない画家が「経済的問題を抱え、貧困のうちに死去している。」ことを読者に伝えているという文章になる。enだと「背景」の節は「The art world」という見出しですが、「当時の美術界」のように限定的なものにすると、この段落の主題がわかりやすいかもしれない。ちょっとややこしくて細かいですけれど、伝わるでしょうか。
細かい話ではあるけれど、こういうところで、読みやすさは決まってくると思うのです。とりわけ、フェルメールの当時の評価や、レンブラントの生涯を知らずに読む人にとっては。--Ks aka 98 2010年5月13日 (木) 17:25 (UTC)[返信]

アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー 編集

  • (審査員コメント)20世紀前半に活躍した画家の記事ということで資料の収集には難渋したと思います。とりあえず、読後の感想として、1つ目に挙げられるのが、オランダ黄金時代の絵画と比較して、ヤウレンスキーの絵画の数が記事内において、絶対数が限りなく少ないわけですけれども、やはり、著作権のからみがあるからでしょうか?もう1つが、パトロンとして、常に(不仲になった時期もあったようですが)一緒にいたマリアンネ・フォン・ヴェレフキンという人物との関係が気になります。野暮な質問かもしれませんが、この女性とヤウレンスキーの間には男女関係があったのでしょうか?記事の本質には関係ない質問かもしれませんが。--Tantal 2010年4月18日 (日) 12:37 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)執筆お疲れ様でした。過去のコンテストにエントリーされた青騎士ガブリエレ・ミュンターと接点のある記事ですが、この2つの記事では日本語の文献も参照されているのに対し、この記事は純粋な翻訳記事となっているようです。この辺り、ミュンターとは違い日本ではあまり研究が進んでいない人物ということでしょうか?ともあれ日本語の文献も参照しつつRisenjudasさんが一から作り上げたというべき青騎士やミュンターの記事と比べて、記事の前半を中心にやや情報が錯綜している印象を受けました。以下、具体的に挙げます。
    • 「ドイツでの生活 1896 – 1914」節の「「レンバッハブラウン」のような落ち着いてどっちつかずの色合いを拒絶した」、「以前の長く伸びた能筆な色彩の筆致は後退している。」、「まだ明らかに後期印象主義とフィンセント・ファン・ゴッホの画風の特徴が認められる。」といった作風の変化に言及している記述は、いずれもある時点から過去の作風を回顧する形になっていますが、できれば時系列に沿って作風を紹介したほうが分かりやすいのではないかと思いました。これらの情報を総合すると、最初期のヤウレンスキーの作風は、後期印象主義とフィンセント・ファン・ゴッホの影響を受け、落ち着いてどっちつかずの色合いをした長く伸びた能筆な色彩の筆致によるものであったのかな、と想像できるのですが、できればそのことを序盤で記述したほうが構成として分かりやすいのでは、という印象を抱きました。
    • ヤウレンスキーと接点のあった人物が多く登場しますが、このうち例えばアレクサンデル・ザッハロフという人物は、本文中に唐突に1度だけ登場しています。「ザッハロフの肖像」という作品があることから言及しているのでしょうが、記述できる事柄がこれしかないのであれば、本文中にザッハロフのことを書く必要はないのではと感じました。ピエール・ジリューについても微妙なところで、エルプスレーとジリューが1910年5月にフランスへ旅行したという記述は必要性に疑問を感じます。ヤウレンスキーの交流関係について触れることはもちろん重要ですが、あまり色々な人物が登場すると情報が錯綜してしまうという面もありますので、ここは思い切って記事において重要な人物とそうでない人物とを分け、重要でない人物に関する記述は削ってしまうか、もしくは脚注の中に記述するなどして記事本文の流れがスムーズになるよう整理されてみてはいかがでしょう。
構成面で感じた問題は以上の2点です。次に、詳しい説明が欲しいと思う表現もいくつかありました。
    • 「絵画における「汚れ」についての議論」(「ドイツでの生活 1896 – 1914」節)については「その後の方向性を決定づける」とあるので詳細を知りたいです。
    • 「ヤウレンスキーはそこに「無言歌集」をみていた。」(「スイスへの亡命 1914 – 1921」節)という表現は、ちょっと意味がとれませんでした。
    • 1909年12月頃に「ヤウレンスキーとヴェレフキンの関係が再びかなり険悪になり」とありますが、それより前に2人の関係が悪化したのはいつのことでしょうか(この箇所より前を探してみたのですが、見当たりませんでした)。
    • 1910年のクリスマス前の「カンディンスキーがロシアから戻ってきた。」という記述ですが、それに対応する、カンディンスキーがロシアへ行ったいう記述が見当たりませんでした。
    • 「この時からヤウレンスキーは、これまでヴェレフキンが提供していたぜいたくな生活に別れを告げざるを得なくなった。」(「スイスへの亡命 1914 – 1921」節)という記述ですが、スイスへの移住はパトロンのヴェレフキンを伴ったものであったのに、どうしてぜいたくな生活に別れを告げざるを得なくなったのかがよく分かりませんでした。この時期にはヴェレフキン自身が没落し始めていたということでしょうか?
ちょっと指摘が多すぎるかとも思いましたが、ダメ出しを期待とのことでしたので、気になった点はすべて挙げさせて頂きました。-- 2010年4月27日 (火) 16:48 (UTC)[返信]
  • (追加)すみません、追加で1つ質問です。「作品目録について」節の「ヤウレンスキーの作品についての言及と研究は、ドイツの著作権法第64章に規定される原著者の権利が消滅する2011年の初めまでの70年間は制限がなされる」という文ですが、ドイツでは著作権法上、作者の死後一定期間が経過するまで、著作物の批評や研究を自由にすることができないということでしょうか?-- 2010年5月1日 (土) 19:53 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)構成としては、生涯と別に作品、作品論をまとめるほうがわかりやすいと思います。翻訳元に由来するのだろうとも思いますが、やや高踏的な、紋切り型の文体・表現だと感じます。書かれている事柄は、このままでも十分だと思いますし、「ガブリエレ・ミュンター」を書く力があることを合わせて考えると、この翻訳文を素材として、もう一度記事として整理していくことで、もっともっとよい記事になるのだと思います。--Ks aka 98 2010年4月30日 (金) 21:08 (UTC)[返信]