松山吉三郎
松山 吉三郎(まつやま きちさぶろう、1917年2月2日 - 2006年12月20日)は、元騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬)、元調教師(国営競馬、日本中央競馬会(JRA))。JRA調教師顕彰者[1]。
妹はバレエダンサーの松山樹子(松山バレエ団)。父の松山徳蔵は戦前の日本競馬会の元調教師。二男の松山康久はJRAの調教師(ミスターシービーやジェニュインを管理、調教師顕彰者)。
経歴
編集鹿児島県姶良郡隼人町(現・霧島市)出身。実家はもとは庄屋であったが、父・徳蔵が上京し目黒競馬場・尾形藤吉厩舎の厩務員となったため、東京へ移り住んだ。
1929年、東京都目黒区立油面尋常小学校卒業とともに尾形藤吉厩舎の見習騎手となる[2]。尾形の指示により1933年まで千葉県の若草牧場で牧夫として働き、1934年に騎手免許を取得。1935年4月2日、レイロウで初騎乗、1936年3月28日、アカイシタケで初勝利。しかし大久保亀吉、保田隆芳ら名騎手を数多く抱えていた尾形厩舎の中にあって騎乗機会に恵まれず、また肺結核を患ったこともあって騎手としては目が出ず、専ら尾形のもとで厩舎の実務を取り仕切る現場責任者の役割を果たした。
なお、1936年に父・徳蔵が調教師免許を取得し鳴尾競馬場で厩舎を開業すると尾形厩舎を離れて移籍したが、1938年に厩舎の所属騎手が起こした八百長事件を理由に徳蔵が調教師免許取り消しの処分を受けたため、松山は尾形厩舎に復帰した。
太平洋戦争では肺結核の既往症を理由に兵役を免除され、競馬開催が一時停止に追い込まれると東北地方で日本競馬会の運送業(輓馬機動隊[3])に従事した。
1950年8月10日、調教師免許を取得し、東京競馬場で開業。1951年1月5日、ヤシマザクラで初出走、同年5月12日初勝利を挙げる。1952年、スウヰイスーで桜花賞、優駿牝馬(オークス)、安田賞(現在の安田記念)に勝利。しかしスウヰイスーは実際には師匠である尾形藤吉の管理馬であり、いわば調教師の名義を貸していたに過ぎなかった(ちなみに、当時名義貸しは違法ではなかった)。
その後徐々に調教師として自立していった松山は、スターロッチ、モンテプリンス、ダイナガリバーなど数多くの名馬を送り出した。
JRAが調教師の70歳定年制を導入したため、1994年2月27日に引退式を行い、翌28日付で調教師を引退。調教師としての通算勝利度数1358勝は、尾形藤吉、藤沢和雄に次ぐJRA史上第3位の記録である。
成績
編集騎手成績
編集資料がないため不明
調教師成績
編集通算成績9157戦1358勝[1]、重賞55勝
主な勝ち鞍
編集- 天皇賞(春)(1959年トサオー、1982年モンテプリンス、1984年モンテファスト)
- 有馬記念(1960年スターロッチ、1986年ダイナガリバー)
- 宝塚記念(1982年モンテプリンス)
- 東京優駿(日本ダービー)(1962年フエアーウイン、1986年ダイナガリバー)
- 優駿牝馬(オークス)(1952年スウヰイスー、1960年スターロッチ)
- 桜花賞(1952年スウヰイスー)
- 中山大障害(春)(1955年、シマユキ)
受賞
編集主な厩舎所属者
編集※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
脚注
編集注
編集出典
編集- ^ a b c “競馬の殿堂 → 松山吉三郎”. 日本中央競馬会. 2020年10月1日閲覧。
- ^ 「小島太「俺はサクラの馬、境厩舎」」『Number』2018年2月10日、3頁、2020年10月10日閲覧。
- ^ 「第9章 輓馬機動隊の設置と活動」『日本競馬史』第6巻、883-917頁、日本中央競馬会、1972年。doi:10.11501/2526142、国立国会図書館/図書館送信参加館内公開。全国書誌番号:75044523。
- ^ “●訃報●ダービー2勝の名伯楽、松山吉三郎氏(元調教師)死去(ラジオNIKKEI競馬実況web)”. keiba.radionikkei.jp. 日経ラジオ社 (2006年12月21日). 2020年10月1日閲覧。
- ^ “ニュース > 松山吉三郎元調教師死去”. p.keibabook.co.jp. 競馬ブック. 2020年10月1日閲覧。
参考文献
編集- 中央競馬ピーアール・センター(編)『調教師の本IV Retired Trainers Book』日本中央競馬会、1994年、[要ページ番号]頁。
- 『優駿』2009年9月号 江面弘也「名調教師列伝 第3回 松山吉三郎」
関連文献
編集- 吉川良「元調教師松山吉三郎さん『我が競馬人生に悔いなし』」『優駿』1994年9月号、日本中央競馬会。
関連項目
編集- 中央競馬通算1000勝以上の騎手・調教師一覧
- 清水哲太郎 甥(娘の息子)