小川 善治(おがわ よしはる、1924年6月2日 - 1987年7月29日[1])は、千葉県千葉市[1]出身のプロ野球選手投手)。

小川 善治
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県千葉市
生年月日 1924年6月2日
没年月日 (1987-07-29) 1987年7月29日(63歳没)
身長
体重
175 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1949年
初出場 1949年
最終出場 1957年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

来歴・人物

編集

千葉商業から明治大学へ進学。1945年11月に新設球団セネタースから勧誘を受けるが、固辞して大学に残る。1946年には母校の千葉商業で監督を務めている。1948年の大学卒業に当たって、明治大学の同期で東急フライヤーズ(セネタースの後身)に所属していた清水喜一郎から東急入団の勧誘を受けるが、小川は再び固辞して小口工作所に入社した[2]

1949年大映スターズのスカウト・小林次男の勧誘を受けて入団[3]。カーブ、ドロップ、スライダー、シュートを武器に2年目に二桁となる12勝を挙げた。1954年1955年にも2桁勝利を記録し、大映の先発陣の柱として活躍した。1957年引退[1]。引退後は再び千葉商業で監督を務め、1964年から国鉄スワローズ(サンケイスワローズ→サンケイアトムズ→アトムズ→ヤクルトアトムズ→ヤクルトスワローズ)で投手コーチ・二軍監督・寮長・スカウト・フロント業務等を歴任した[1]

1970年にはヤクルトの監督だった別所毅彦がチーム不振でシーズン途中に解任され、二軍監督だった小川が代理監督としてシーズン終了まで務めた[1]

二軍担当総務を務めていた1982年シーズン途中、内藤博文二軍監督が一軍ヘッドコーチに配置転換となり、代わって二軍監督をシーズン終了まで務めた[1]

千葉商業の学生時代、野球部の監督兼部長を務めていたのが掛布雅之の父親であった。その伝手で、掛布のヤクルトへの入団を依頼されたが小川はこれを断っている。

1987年に死去した。63歳没。

詳細情報

編集

年度別投手成績

編集




















































W
H
I
P
1949 大映 7 7 1 0 0 1 2 -- -- .333 155 36.2 33 4 17 -- 0 9 0 0 20 17 4.14 1.36
1950 29 21 13 1 0 12 8 -- -- .600 791 187.2 189 10 61 -- 0 50 2 0 81 76 3.64 1.33
1951 23 19 6 0 0 7 8 -- -- .467 537 125.2 131 5 43 -- 3 28 1 1 65 57 4.07 1.38
1952 31 18 6 1 0 4 15 -- -- .211 666 160.0 167 13 50 -- 0 47 4 0 74 66 3.71 1.36
1953 21 13 7 1 1 6 8 -- -- .429 498 124.2 114 9 31 -- 0 39 2 0 51 47 3.38 1.16
1954 44 32 21 2 2 12 22 -- -- .353 1158 287.1 252 11 75 -- 2 91 3 0 109 85 2.66 1.14
1955 36 24 6 1 2 11 14 -- -- .440 755 184.0 185 11 35 1 2 59 3 0 94 75 3.67 1.20
1956 22 6 0 0 0 3 4 -- -- .429 308 73.2 75 5 16 0 1 16 1 0 33 30 3.65 1.24
1957 5 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 28 6.0 8 0 3 0 0 1 0 0 6 6 9.00 1.83
通算:9年 218 140 60 6 5 56 81 -- -- .409 4896 1185.2 1154 68 331 1 8 340 16 1 533 459 3.48 1.25

監督通算成績

編集

52試合 12勝37敗3分 勝率.245

背番号

編集
  • 18 (1949年 - 1957年)
  • 60 (1964年)
  • 40 (1965年 - 1967年)
  • 52 (1968年 - 1970年)
  • 64 (1971年、1978年)
  • 61 (1972年 - 1976年)
  • 90 (1982年途中 - 同年終了)

脚注

編集
  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、124ページ
  2. ^ 辺見[1995: 248-249]
  3. ^ 辺見[1995: 247]

参考文献

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集