ウェーク・アイランド (護衛空母)

アメリカ海軍の護衛空母。カサブランカ級。
USS Wake Island, CVE-65
艦歴
発注
起工 1943年2月6日
進水 1943年9月15日
就役 1943年11月7日
退役 1946年4月5日
その後 1946年4月19日にスクラップとして売却
除籍 1946年4月17日
性能諸元
排水量 7,800 トン
全長 512.3 ft (156 m)
全幅 108.1 ft (33 m)
吃水 22.5 ft (6.9 m)
機関 3段膨張式蒸気機関2基2軸、9,000馬力
最大速 19ノット
航続距離 10,240カイリ(15ノット/時)
乗員 士官、兵員860名
兵装 38口径5インチ砲1基
40ミリ機関砲16基
搭載機 28機

ウェーク・アイランド (USS Wake Island, CVE-65) は、アメリカ海軍護衛空母カサブランカ級航空母艦の11番艦。艦名はウェーク島に因んで命名された。

艦歴 編集

ウェーク・アイランドは合衆国海事委員会の契約下ワシントン州バンクーバーカイザー造船所で1943年2月6日に起工し、1943年9月15日にフレデリック・カール・シャーマン夫人(フレデリック・C・シャーマン海軍少将の妻)によって進水し、1943年11月7日にヘイムズ・R・ターグ艦長の指揮下就役した。

大西洋 編集

就役後、ウェーク・アイランドはアストリアで弾薬とガソリンを搭載し、11月27日に出港してピュージェット湾を航行し、翌日ブレマートンに到着した。残りの弾薬を搭載し、試運転でポート・タウンゼント英語版シンクレア湾英語版およびシアトルに立ち寄った後、12月6日に外洋に出て南に向かい、12月10日にサンフランシスコに到着した。燃料を搭載した後、2日後にはサンディエゴに向けて出港し、12月14日に到着。同地で第69混成航空隊 (VC-69) の航空機と要員を乗せた。

1944年1月11日、ウェーク・アイランドはサンディエゴを出港し、パナマ運河ハンプトン・ローズを経由して1月26日にノーフォークに到着。2月14日にミッション・ベイ (USS Mission Bay, CVE-59)、護衛駆逐艦スウェニング (USS Swenning, DE-394) およびヘイヴァーフィールド (USS Haverfield, DE-393) とともにニューヨークに向けて出港した。2月16日、ウェーク・アイランドは陸海軍の要人を乗せてレシフェおよびカラチに向かった。3月1日にレシフェに到着した後、ケープタウンディエゴ・スアレスに寄港。3月29日、ウェーク・アイランドはカラチに到着した。要人を送り終えたウェーク・アイランドは、4月3日にカラチを出港して5月16日にノーフォークに帰投した。

5月末から6月はじめにかけて、ウェーク・アイランドは改修とオーバーホールを行った。6月15日、改修を終えたウェーク・アイランドは第58混成航空隊 (VC-58) を乗せ、対潜掃討部隊である第22.6任務群に加わってバミューダ諸島方面に向かった。7月2日、第22.6任務群がギニア湾方面から移動中、ウェーク・アイランドのTBM アヴェンジャーの一隊は、カナリア諸島カーボベルデの間付近のアフリカ沿岸でUボート U-543 を発見する。フレデリック・L・ムーア少尉のアヴェンジャーが2度にわたって激しい対空砲火をものともせず U-543 を爆撃。しかし、ムーア機は U-543 の最後を確認していなかったので、第22.6任務群は二週間にわたって撃沈の証拠となる U-543 の残骸の捜索をする事となった。

8月2日の正午の2分前、第22.6任務群は再びUボートと対決する事となった。護衛駆逐艦ダグラス・L・ハワード (USS Douglas L. Howard, DE-138) は8マイル(約13キロ)離れたところに司令塔を発見。ダグラス・L・ハワードは僚艦フィスク (USS Fiske, DE-143) は隊列を離れて司令塔の方に急行した。上空にいたウェーク・アイランドのアヴェンジャーは12時9分と12時35分に対潜爆弾で U-804 を攻撃。しかし、U-804 は反撃の魚雷を発射して、魚雷はフィスクに命中。フィスクは船体を両断されて沈没した。U-804 はさらに2本の魚雷を発射したが、これは命中しなかった。フィスクは4名の戦死者と26名の行方不明者、55名の重傷者を出し、生存者はファークハー (USS Farquhar, DE-139) に救助された。第22.6任務群は U-804 に対する再攻撃の準備を行ったが、濃霧と雨により準備は取り消された。第22.6任務群は2日後の8月4日に解隊し、ウェーク・アイランドは4日後に UC-32 船団と合流して西方に向かって8月11日にハンプトン・ローズに到着し、8月15日にノーフォークに帰投した。8月25日まで改修を行った後、8月29日にクォンセット・ポイント英語版に移動し、ミッション・ベイとともに10月30日まで空母パイロットの着艦訓練に使用された。10月31日、ウェーク・アイランドは駆逐艦リー (USS Lea, DD-118) およびバビット (USS Babbitt, DD-128) に護衛されてノーフォークに向かい、11月1日に到着した。

フィリピン 編集

11月11日、ウェーク・アイランドはシャムロック・ベイ (USS Shamrock Bay, CVE-84) と護衛艦とともにノーフォークを出港し、パナマ運河を西航して11月28日にサンフランシスコ湾に到着し、アラメダ (カリフォルニア州)の航空基地に停泊した。ここでウェーク・アイランドは、ハワイに向かう2つの新しい航空隊、第9混成航空隊英語版 (VC-9) と第149偵察航空隊 (VPB-149) の航空機と要員を乗せて出港し、12月5日にフォード島に到着して2つの航空隊を降ろした。10日後、ウェーク・アイランドは貨物を搭載し、護衛駆逐艦リチャード・M・ローウェルUSS Richard M. Rowell, DE-403)とオフラハティ (USS O'Flaherty, DE-340) に護衛されて真珠湾を出港し、12月27日にマヌス島に到着。ここで搭載物件と便乗者を降ろしたウェーク・アイランドはパラオに回航され、1945年1月1日にコッソル水道に到着した。午後遅く、ウェーク・アイランドはバージで弾薬を搭載してもらい、リンガエン湾上陸に向かう艦隊に加わって慌しく出撃した。

2日後、ウェーク・アイランドは対空哨戒機と空中警戒機を飛ばしつつ、艦隊とともにスリガオ海峡を通過。1月4日には、艦隊はスールー海に入った。ウェーク・アイランドはこの日も哨戒機を3時間にわたって飛ばした。そのうち、哨戒機のうちの1機がパナイ島近海で、救助作業を行っていると思しき日本軍の水上機を発見した。哨戒機は機銃掃射で水上機を破壊し、救助隊は四散した。やがて艦隊はパナイ湾英語版近海に差しかかった。この時、ウェーク・アイランドのレーダーは敵と思しき複数の目標を探知し、17時14分に戦闘配置が令された。わずか1分後、神風特攻隊旭日隊(彗星2機)、一誠隊(2機)、進襲隊(九九式襲撃機1機)が艦隊を攻撃[1]。そのうちの旭日隊の彗星1機[2]が、3,800メートル離れた場所にいたオマニー・ベイ (USS Ommaney Bay, CVE-79) に突入。オマニー・ベイは激しく炎上し、20分後には総員退艦が令されて艦を放棄することとなり、弾薬に引火して激しい爆発を起こしたオマニー・ベイは、駆逐艦バーンズ (USS Burns, DD-588) の魚雷により沈められた。

翌1月5日、ウェーク・アイランドは駆逐艦モーリー (USS Maury, DD-401) からオマニー・ベイの19名の生存者を引き取った。間もなく、ウェーク・アイランドのレーダースクリーンに目標が映し出され、前日に続いて戦闘配置が令された。しかし、この日の三度にわたる神風攻撃は成功せず、15時2分にはウェーク・アイランドの8機の空中警戒機が日本陸軍の戦闘機を追撃し、そのうちの3機を撃墜したと報告した。16時55分、再び神風攻撃があって再度戦闘配置が令された。6機の特攻機がウェーク・アイランドに向かって突進し、これに対して5機までを対空砲火で撃墜したが、残る1機はマニラ・ベイ (USS Manila Bay, CVE-61) に命中した。マニラ・ベイは炎上して後方に取り残されたが、約1時間後に再起して戦列に戻った。続いて10機ほどの特攻機が突入してきたが、ウェーク・アイランドなどの対空砲火で4,600メートル前後の距離で撃墜されていった。ウェーク・アイランド自身も3期を撃墜したと判断された。

1月13日、陸軍特攻精華隊(爆戦2機)が、ウェーク・アイランドの後方13キロで航行中のサラマウア (USS Salamaua, CVE-96) に突入を図った[3]。1機は撃墜されたが、もう1機がサラマウアに命中。サラマウアは炎上したものの、すぐに消火した。4日後、ウェーク・アイランドはウルシー環礁に回航される第77.14任務群の護衛空母8隻とともにリンガエン湾を出港。1月23日に到着して31日まで停泊した。この間、ウェーク・アイランドの母港がノーフォークからブレマートンに変更された。

硫黄島 編集

2月10日、ウェーク・アイランドは第52.2任務群に加わって小笠原諸島方面に向かった。来る硫黄島の戦いでは、火力支援部隊と上陸部隊の空中援護を行う事になっていた。サイパン島テニアン島を結ぶ海域で訓練が行われた後、2月13日にはウェーク・アイランドは第52.2.1任務隊の旗艦となった。翌2月14日、任務隊は硫黄島に針路を向け、2日後には硫黄島の南西79キロの洋上に到達した。日が昇るとすぐ、火力支援部隊は硫黄島に対して艦砲射撃を行った。ウェーク・アイランドの航空機は日本軍の防衛拠点を探してロケット弾で攻撃する傍ら、対潜および洋上哨戒の任務に就いた。2月19日の上陸作戦当日も、ウェーク・アイランドの航空機は、56箇所の日本軍拠点に対して87発ものロケット弾を発射した。その最中、ビスマーク・シー (USS Bismarck Sea, CVE-95) は2月21日夕刻に第二御楯特攻隊(彗星12機、天山8機、零戦12機)の突入により沈没し、ルンガ・ポイント (USS Lunga Point, CVE-94) と空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) が大破した。

翌日、ウェーク・アイランドは硫黄島東方の会合点に向かい、2月23日に到着して給油を受けた後、硫黄島東方洋上に向かった。2月24日、ウェーク・アイランドは硫黄島の南方から艦載機を飛ばして、55箇所の日本軍拠点に対して205発のロケット弾を発射した。続く数週間の間、ウェーク・アイランドは硫黄島に対する航空攻撃を続けた。3月5日、ウェーク・アイランドは第52.2.1任務隊司令官クリフトン・スプレイグ少将から「貴艦は任務隊の中でも一匹狼と呼ぶぐらいの働きを行った。ウェーク・アイランドは他艦が見落としたであろう目標も全て見つけだした。私は再び、貴艦と行動をともにする事を願っている」とのメッセージを受け取った。ウェーク・アイランドは3月8日に24日間に及んだ硫黄島沖での行動を終えて、硫黄島西方にいたサギノー・ベイ (USS Saginaw Bay, CVE-82) などと会合してウルシーに向かい、3月14日に帰投した。

沖縄 編集

ウェーク・アイランドは5日間の整備の後、3月21日に航空支援のため沖縄島近海に向かった。3月25日、ウェーク・アイランドは沖縄島の南方約100キロの洋上にあって、沖縄島と慶良間諸島への航空攻撃を開始した。4月1日に上陸作戦が開始されると、上陸部隊の援護をおこなった。

4月3日17時22分、沖縄の東南洋上を航行中のウェーク・アイランドは、5回目となる攻撃隊の収容作業を開始した。8分後には全ての航空機を収容したが、直後に日本機の接近を探知し、戦闘配置が令された。17時42分、艦は折からの激しい波に叩かれ、収容されていないFM-2 ワイルドキャット2機が海に放り出され、他の2機は後部でひっくり返り、別の2機も大きな損害を受けた。同時に、格納庫に収容されていた2機のワイルドキャットも、動揺で転がって破壊された。2分後の17時44分、1機の特攻機が高角度から突入してきたが、わずかに逸れて操舵室前方の海面に没した。30秒後、2機目の特攻機が猛烈なスピードで突入してきたが、これまたウェーク・アイランドからわずか3メートル離れた海面に突っ込んだ。しかし、爆発によってウェーク・アイランドの舷側には左右14メートル、上下5.5メートルの穴を開け、他にも無数の穴を開けた。艦は水浸しとなり、機銃も破壊された。30,000ガロンの真水と70,000ガロンの重油も海水に浸かったが、洗浄の後、18時24分には航行を再開した。艦の被害は想像よりも軽く、21時40分までには全てのエンジンを稼動させる事ができた。ウェーク・アイランドは護衛駆逐艦デニス (USS Dennis, DE-405) とゴス (USS Goss, DE-444) の護衛を受けて慶良間諸島の泊地に向かった。点検中、海中からの日本軍の不意の攻撃を防ぐため特別の防御体制が敷かれた。4月6日、ウェーク・アイランドは更なる修理を受けるためグアムアプラ港に向けて出港し、4日後に到着。同地の乾ドックで5月20日まで修理を受けた後、翌日には高速輸送艦ワンタック (USS Wantuck, DE-692/APD-125) とともに沖縄に向かった。

6月2日、ウェーク・アイランドは駆逐艦ラルフ・タルボット (USS Ralph Talbot, DD-390) に誘導されて慶良間諸島に到着し、いまだ付近に日本機がいる中で爆弾、ロケット弾および食品を搭載した後に出撃。6月6日、ウェーク・アイランドは沖縄沖で給油艦コワネスク (USS Cowanesque, AO-79) と会合した。翌日、ウェーク・アイランドは任務隊に合流し、先島諸島攻撃を行った。ナトマ・ベイ (USS Natoma Bay, CVE-62) とサージャント・ベイ (USS Sargent Bay, CVE-83) が神風攻撃を受けた。ウェーク・アイランドは2隻とは違って攻撃は受けず、6月15日まで先島諸島攻撃を行った。作戦終了後、任務隊司令官カルヴィン・T・ダーギン英語版少将はウェーク・アイランドを訪問し、16名のパイロットを賞賛した。

翌日、ウェーク・アイランドとデニスは任務隊から離れて慶良間諸島に向かい、6月17日に到着した。補給を終えて沖縄の南西洋上に戻り、作戦行動を再開した。2日後、艦船局から「ウェーク・アイランドを第32.1任務群から離脱させ、4月3日の損傷の調査を行う」との通告と、「これ以上の前線での活動は危険であろう」との通告があり、ウェーク・アイランドはグアムに向かう事となった。途中で射撃訓練と哨戒飛行を行いつつ、6月24日にアプラ港に到着。航空隊は全て降ろされ、アガナ海軍航空基地に移された。その後、ウェーク・アイランドは6月25日から7月3日までの間、F6F ヘルキャット9機、F4U コルセア24機、TBM アヴェンジャー11機およびパイパー カブ2機を、46名のパイロットとともに読谷基地まで輸送。任務終了後はアプラ港に帰投し、300もの郵袋と10機のコルセア、および20機のSB2C ヘルダイバーを搭載して、ケープ・エスペランス (USS Cape Esperance, CVE-88) および高速輸送艦ブル (USS Bull, APD-78) とともに真珠湾に向けて出港した。7月10日、ウェーク・アイランドはケープ・エスペランスおよびブルと分離し、一週間後にフォード島に到着した。ここで138名の下士官および兵と46名の士官を乗せたウェーク・アイランドは7月18日にアメリカ本国に向かい、7月25日にサンディエゴに到着して便乗者と航空機を降ろした。

戦後 編集

ウェーク・アイランドはサンディエゴのノース島に係留され、12月末までサン・ニコラス島沖で6機のアヴェンジャーと10機のワイルドキャット、53名の士官、および第75混成航空隊 (VC-75) の13名のパイロットとともに飛行訓練を行った。その間の11月5日、史上初のジェットエンジン搭載機による空母への着艦がウェーク・アイランドで行われた。当日の朝、第41戦闘飛行隊 (VF-41) とライアン社英語版の関係者を乗せ、駆逐艦オブライエン (USS O'Brien, DD-725) を伴ってサンディエゴを出港し、2日間に渡ってFR ファイアボールの着艦テストに従事した。

1946年に入るとウェーク・アイランドは不活性化の準備を始め、4月5日に退役する。4月17日に除籍され、4月19日にスクラップとしてメリーランド州ボルティモアのボストン・メタル社に売却された。

ウェーク・アイランドは第二次世界大戦の戦功での3つの従軍星章を受章した。

脚注 編集

  1. ^ ウォーナー『ドキュメント神風・下』304ページ
  2. ^ ウォーナー『ドキュメント神風・上』300ページ
  3. ^ ウォーナー『ドキュメント神風・下』309ページ

参考文献 編集

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9
  • 梅野和夫「第2御楯隊の突入をうけたビスマーク・シー」『写真・太平洋戦争(4)』光人社、1989年、ISBN 4-7698-0416-4

外部リンク 編集