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神風特別攻撃隊

戦死を前提とする必死の攻撃を行う戦術部隊
1945年3月21日、戦友の遺骨を抱いて出撃する神風特攻隊神雷部隊三橋謙太郎大尉
空母エセックスに突入を試みる神風特攻隊「香取隊」山口善則一飛曹・酒樹正一飛曹搭乗の艦上爆撃機「彗星」

神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい[1]、しんぷうとくべつこうげきたい[2])は、第二次大戦大日本帝国海軍によって編成された爆装体当たり攻撃隊と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊[3]。攻撃目標は艦船[4]。略称は「神風」、「神風特攻隊[5]。隊名の発案者・猪口力平によれば、「神風」の読みは「しんぷう」であるが、当時のニュース映画で「かみかぜ」と読み上映したことでその読みが定着した[2]

特攻全般を「神風」と呼称することもあるが、ここでは制度上の神風特別攻撃隊について述べる。

目次

制度編集

捷号作戦時に大西瀧治郎中将によって定めれられた神風特別攻撃隊の編成、隊員の扱いは次の通り。神風特別攻撃隊は爆装体当たり攻撃隊と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成し、一攻撃単位の編成基準は概ね、爆装体当たり攻撃隊を爆戦、艦爆、水爆による3、4機、掩護ならびに戦果確認部隊は戦闘機、艦偵2、3機。隊名は編成時期、ならびに爆装の機種により、第一、第二神風特別攻撃隊と呼称し、さらに各攻撃単位に対し、特別隊名を付与する。隊名は第一聯合基地航空部隊指揮官が命名する。隊員の官職氏名は事前に発表せず、任務を完遂したもののみ事後に発表する。一攻撃単位の全機が未帰還で不明の場合で完遂したと推定されるもの、直掩隊で任務中自爆したと推定される者は完遂した者と同じ取り扱いとする。正式発表(報告)は各司令官、司令の報告に基づき、認定の上、第一聯合基地航空部隊司令部において行う[6]

神風特攻隊の当初の目標は、敵空母の使用不能であり、初回の攻撃でその目標を達成したが、レイテ島付近で戦闘が続いたため、目標を敵主要艦船に広げて、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった[7]

最初の神風特攻隊を編成した1944年10月20日、零戦を改修したものを利用した。改修は、もともと零戦で反跳爆撃の訓練が行われていたため、250キロ爆弾を搭載でき、爆弾発火装置を作動状態にするために風車翼螺止ピアノ線を操縦者が機上から外せるようにするだけでよく、体当たり直前に操縦者が抜ける簡単な装置であった。その後、500キロ爆弾になり、艦爆その他も特攻に使われるが、特別工作を必要とするものではなく、1945年以降も爆装さえしていれば、特攻に使用する機体は問題にするほどの工作は不要だった[8]

歴史編集

創設まで編集

 
大西瀧治郎

大西瀧治郎が創設した神風特別攻撃隊は城英一郎の研究を着想にしている[9]。霞ヶ浦海軍航空隊で山本五十六・大西・城は親密な関係にあった[10]。また、城英一郎は1926年(大正15年)8月20日に結婚したが、これにより山本栄少佐(山本も同時期に霞ヶ浦海軍航空隊所属)の義弟となった[10]。山本栄は最初の神風特別攻撃隊が編成された第二〇一海軍航空隊司令である[10]

1931年(昭和6年)12月1日、城英一郎少佐は海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六少将(海軍航空本部技術部長)に提示、将来の航空機について山本の意見を聞く[11]。この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として航空機の体当たり戦術を検討した[11][12]1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加した山本五十六少将は新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語った[13][14]

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が勃発。1943年(昭和18年)2月中旬ごろ、日本軍はB-29型超重爆の開発情報を掴み、春ごろ、「B-29対策委員会」を設置した[15]。4月17日、東條英機陸軍大臣は局長会議で敵超重爆や防空の心構えについて語った際「一機対一機の体当たりで行く」「海軍ではすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している」と述べ、特攻精神を強調している[15]

1943年4月18日、山本五十六大将(連合艦隊司令長官)が戦死したが[16][17]6月5日城英一郎大佐(昭和天皇侍従武官)は、特別縁故者として山本元帥の葬儀に参列[18][12]。かつて山本と「航空機体当たり」を検討した事を回想する[18][12]6月22日、城は自らを指揮官とする「特殊攻撃隊」の構想をまとめる[18][19]。投入予定海域はソロモン諸島およびニューギニア方面で、敵大型艦(戦艦、空母)は大破、特設空母(軽空母)や巡洋艦は大破または撃沈、駆逐艦や輸送船は撃沈を期待というものだった[20]6月29日、城は、特殊航空隊の構想を海軍航空本部総務部長大西瀧治郎中将に説明した[18][21]。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった[22][23][24]ニュージョージア島の戦い勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感する[25]。「上司としても計画的に実行するには相当の考慮が必要である。自身としては黙認が得られて、航空機と操縦者が得られれば実行可能であり、転出して実行の機会を待つ」の心境であり[18][24]、その後も個人的に特攻隊について研究し、海軍航空本部高橋千隼課長等にも相談していた[18][26][27]

1944年(昭和19年)6月下旬、日本海軍はマリアナ沖海戦に大敗(城も千代田艦長として参加)[28]。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している[29]。また第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した[28]

マリアナ沖海戦後、岡村基春大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった[30]。さらに、252空司令舟木忠夫大佐も「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え[31]、大西自身もこの頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた[32]。この頃すでに、日本海軍の中央で特攻兵器の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係無い別物だった[33]

1944年9月に入ると、フィリピンミンダナオ島第一航空艦隊司令部があるダバオは連日のようにアメリカ軍の空襲を受けるようになり、日本軍はミンダナオ島にアメリカ軍が上陸してくる可能性が大きいとして警戒を強めていたが、9月10日の午前4時に第32特別根拠地隊サランガニ見張所が「湾口に敵上陸用舟艇が見える」との報告を行った。一航艦隊司令部は夜明けを待って偵察機で情報を確認することとしたが、夜明を待たずに敵発見の第一報をした第32特別根拠地隊が「いま、根拠地隊では『総員戦闘用意』の号令がかかったところ」「敵戦車15,000mまで接近」などと具体的な続報を送ってきて、最後には「敵は上陸を開始しました。根拠地隊司令部はミンタル(陸軍の師団司令部所在地)に出かけます」という報告があったことから、一航艦司令の寺岡謹平中将は、航空機をセブ島に退避させ、司令部はバレンシアに後退することと決めた[34]。しかし、敵上陸に確信が持てなかった一航艦隊猪口力平主席参謀は小田原俊彦参謀長と松浦参謀に、ダバオ第1飛行場に残った零戦で湾内を偵察するように指示、また猪口の指示とは別に、201空副長玉井浅一中佐も零戦で偵察飛行をした結果、10日夕方になって、敵上陸はまったくの誤報であることがわかり、「敵上陸の報告は全部取り消し」と慌てて全部隊に打電している[注 1] [35][36][37]。この事件はのちに海軍最大の不祥事のひとつとして、平家の大軍が、水鳥が羽音を源氏の襲来と誤認して逃げ散った「富士川の戦い」の故事に因んで「ダバオ水鳥事件」(またはダバオ誤報事件)とよばれることになった[38] 。この誤報によりセブ島に集中していた航空機のうち、ダバオへの帰還が遅れた約100機が9月12日にアメリカ軍の空襲を受けて、地上で80機を撃破されるという大失態を演じているが、このうち50機が主力戦闘機の零戦であり、一航艦はアメリカ軍上陸前に戦力をすり潰してしまった[39]

1944年(昭和19年)10月5日、ダバオでの失態もあって寺岡が更迭され、大西が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった杉山利一に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという[40]。大西は出発前、海軍省で海軍大臣米内光政大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた[41]。また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」[42]「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した[43]。大西は、軍令部航空部員源田実中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして零戦150機を準備すると約束した。その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した[44]

 
台湾沖航空戦で自ら特攻出撃して戦死した有馬正文中将

同年10月9日、大西はフィリピンに向けて出発したが、台湾沖航空戦が開始されており、途中で台湾に立ち寄って新竹で航空戦の様子を見学したが日本軍の苦戦ぶりを見て愕然とし、多田武雄中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話している。大西は台湾入りしていた連合艦隊長官豊田副武大将とも面会し「大戦初期のような練度の高い者ならよいが、中には単独飛行がよっとこせという搭乗員が沢山ある、こういう者が雷撃爆撃をやっても、被害に見合う戦果を期待できない。どうしても体当たり以外に方法はないと思う。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ(特攻は)実行できない」と語っている[45]。台湾沖航空戦ではアメリカ軍空母に殆ど損害を与えていなかったのにも拘らず、大本営は戦果誤認で大戦果を報じ、軍令部はフィリピンの一航艦にも追撃を命じた。第26航空戦隊司令の有馬正文中将は、常々「司令官以下全員が体当たりでいかねば駄目である」「戦争は老人から死ぬべきだ」と言っていたが[46]、出撃命令が下ると、従軍記者に対して「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」と述べて、1944年10月15日に、参謀や副官が止めるのも聞かず司令自ら一式陸攻に搭乗した。有馬は出撃時に軍服から少将の襟章を取り外し、双眼鏡に刻印されていた司令官という文字も削り取っており、最初から帰還するつもりはなかった[47]。有馬が搭乗した一式陸攻はアメリカ軍機動部隊の150㎞前方でレーダーで発見されて、艦載戦闘機の迎撃で撃墜されて、有馬は敵艦隊に達することなく戦死した[48]。しかし、有馬の特攻出撃を知った大西はより航空特攻開始への意を強くし、フィリピンで作戦中の陸軍第二飛行師団参謀の野々垣四郎中佐によれば「これは大きなショックを感じ、その後の特攻へ踏み切る動機となった」と、陸軍の航空特攻開始にも影響を与えている[49]

大西はフィリピンに到着すると、前任者の寺岡に「基地航空部隊は、当面の任務は敵空母の甲板の撃破として、発着艦能力を奪って水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にして落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか…。いや、司令を通じた方が後々のためによかろう。まず、戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然に続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう。海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」と語り、必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して、寺岡から同意を得て一任された[50]

寺岡から同意を得た大西は、フィリピンで第一航空艦隊参謀長小田原俊彦少将を初めとする幕僚に、特攻を行う理由を「軍需局の要職にいたため最も日本の戦力を知っており、重油ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する。もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため、一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結んで満州事変の頃まで大日本帝国を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」と説明した[51][注 2]

同年10月19日、大西はマニラ艦隊司令部にクラーク空軍基地の761空司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐と、マバラカット基地の201空司令山本栄中佐、飛行長中島正少佐を呼び出し、司令部内にて特攻の相談を行おうとしたが、前田・庄司は司令部に到着して相談できたものの、山本・中島は到着が遅れたため、大西が自ら出向くことにしたが、すれ違いとなり面会は叶わなかった[53]。しかし、小田原が代わりに山本と面会し、特攻決行の同意を得た[54]

創設編集

 
関行男大尉(戦死後、中佐へ2階級特進)

1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長玉井、一航艦首席参謀猪口、二十六航空戦隊参謀兼一航艦参謀吉岡忠一中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。大西は「空母を一週間くらい使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した[55]。これに対して玉井は、山本が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は小田原が山本と面会して既に同意を得ていることを伝え、同時に特攻を決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した[56]

「指揮官の選定は海軍兵学校出身者を」という猪口の意向を受け、玉井は関行男を指名した[57]。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという[58]が、玉井によれば、関は「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、翌朝になって承諾する返事をしたと語った。いずれにせよ、関は特攻隊指揮官の指名を受けた後に自室へ戻って遺書を書き終え、海軍報道班員のインタビューに対して「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて」「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った[59]

特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛10期生を中心に33名を集めて特攻の志願を募り、最終的に24名の特攻隊を編成した[60][注 3]飛行長だった中島正によると、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという[63]

玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願したと話している[64]。しかし、志願した山桜隊・高橋保男によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚[65]」、同じく志願者の井上武によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という[66]。一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだことで一同の手がすぐに上がったと証言する者もおり[67]、志願した浜崎勇は「仕方なくしぶしぶ手をあげた[68]」、佐伯美津男は「強制ではないと説明された。零戦を100機近く失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった」と話している[69]

猪口は、郷里の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を「神風特別攻撃隊」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して大西がそれを認めた。また大西は、各隊に本居宣長の歌「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」から敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した[70]

捷号作戦編集

特攻第一号編集

1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司親徳に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された[71]

機密第202359番電 1944年10月20日発信
「体当り攻撃隊を編成す」
1. 現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す(体当り13機)。本攻撃はこれを四隊に区分し、
敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。
今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定。本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す。
2. 201空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。
司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし。
3. 編成 指揮官海軍大尉関行男。
4. 各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。

10月21日、大西は甲板撃破のために時間的猶予を得るため、第一遊撃部隊突入時期の延期を南西方面艦隊司令長官三川軍一中将と協議するが、既に同月25日と定めて行動しており、困難であることを知った。また、10月22日には第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に二航艦でも特攻を採用するように大西は説得したが、福留はこれを断った[72]

 
敷島隊の特攻により爆沈した護衛空母セント・ロー

神風特別攻撃隊の初出撃は10月21日で、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、悪天候などに阻まれてほぼ全機が帰還したものの、大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。そのため、「特攻第1号」は敷島隊隊長・関行男ではなく、久納好孚中尉を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。第一航空艦隊航空参謀・吉岡忠一中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という[73]。軍令部部員・奥宮正武によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・淵田美津雄大佐の慎重な処置ではないかという[74]。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視、海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している[75]。各隊は出撃を連日繰り返すも敵艦隊と遭遇できないまま、同月23日には大和隊・佐藤馨上飛曹が未帰還となる。

10月25日6時58分、レイテ突入を目指していた第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、戦艦大和座乗、いわゆる「栗田艦隊」)が、サマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(タフィ3)を発見し攻撃を開始した。離れた海域にいた第77任務部隊第4群第1集団(タフィ1)はタフィ3を援護するため航空機の発進準備を行っていたが[76]、7時40分に菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦がタフィ1上空に到達した。このときにはタフィ1各艦のレーダーには多数の友軍機影が映っていたため、この4機が日本軍機と気づくものはおらず、気づいたときにはそのうちの1機が高度2,500mから40度の角度で護衛空母サンティに向かって急降下していた[77]。急降下してきた零戦は舷側から5m内側の飛行甲板に命中して貫通し、飛行甲板下で搭載爆弾が爆発して、42m2の大穴を飛行甲板に開けて、16名の戦死者と47名の負傷者を生じさせたが、幸運にも火災が航空燃料や弾薬に引火することはなかったので致命的な損傷には至らなかった[78]

続く2機は、護衛空母サンガモンペトロフ・ベイに向かってそれぞれ急降下したが、いずれも対空砲火を浴びて両艦の至近海面に墜落した[79]。残る1機は護衛空母スワニーに急降下。スワニーは対空砲火で応戦、零戦は火を噴いたものの、そのまま後部エレベーター付近の飛行甲板に命中、機体と爆弾は貫通して艦内で爆発して、71名の戦死者と82名の負傷者という大きな損害を発生させた[80]。特攻機が命中したサンティとスワニーの損害は大きかったが、いずれもサンガモン級航空母艦であり、排水量基準:11,400t 満載:23,235tと大型で、護衛空母のなかでも非常に強固に建造されていたため、このあとも任務を続行した[81]。しかし、10月28日にスワニーはもう1機特攻機が命中して、「艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷」を被って戦線離脱している[82]

栗田艦隊との海戦(サマール沖海戦)で護衛空母ガンビア・ベイと2隻の駆逐艦、1隻の護衛駆逐艦を失い、護衛空母ファンショー・ベイカリニン・ベイなど損傷艦多数を抱えることとなったタフィ3は、栗田艦隊の突然の変針により、戦闘配置命令を解除していた。命中弾を1発も受けなかったセント・ローの乗組員たちは、沈没したガンビア・ベイの艦載機の収容準備などをしながら、自分たちの幸運について語り合っていた[83]10時49分、関が率いる敷島隊5機が急降下してきた。このときもタフィ1が菊水隊の突入を受けたときと同様に、各艦のレーダーには多数の機影が映っており、日本機の接近に気づくものはいなかった[84]。敷島隊の先頭の1機が、戦艦の巨砲の命中でいくつもの傷口が開いていたカリニン・ベイめがけて突入し、飛行甲板に数個の穴をあけて火災多数を生じさせたが、搭載していた爆弾は不発であった。この最初にカリニン・ベイに突入した機が関の搭乗機であったという説もある[85]。カリニン・ベイにはもう1機が海面突入寸前に至近で爆発して損害を与え、2機の突入により5名の戦死者と55名の負傷者が生じさせたが、カリニン・ベイは栗田艦隊との海戦で15発以上の命中弾を浴びていたにも関わらず、沈没は免れた[86]

護衛空母ホワイト・プレインズに向かって急降下していた零戦1機がホワイト・プレインズの対空砲火が命中し損傷したため、目標をセント・ローに変更し[87]、セント・ローの艦尾1,000mから高度30mの低空飛行という着艦するような姿勢で接近してきた。セントローは搭載していたMk.IV20mm機関砲とボフォース 40mm機関砲で応戦したが、零戦はそのまま、発見1分後に[88]、飛行甲板中央に命中した。零戦が命中した瞬間に航空燃料が爆発して、猛烈な火炎が飛行甲板を覆い、搭載していた250kg爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その爆発で格納庫内の高オクタンの航空燃料が誘爆し、その後も爆弾や弾薬が次々と誘爆した[89]。あまりの爆発の激しさに、付近を航行していた重巡洋艦ミネアポリスの乗組員が海中に吹き飛ばされたほどであった。手が付けられないと判断したフランシス・J・マッケンナ艦長は特攻機が命中したわずか2~3分後の10時56分に総員退艦を命じ、その後も何度も大爆発を繰り返して30分後に沈没した。114名が戦死もしくは行方不明になり、救助された784名の半数が負傷したり火傷を負っていたが、そのうち30名が後日死亡した[90]。このセント・ローを仕留めた零戦が関の搭乗機だという説が広く認知されている[91]。他にも護衛空母キトカン・ベイに1機命中したが、爆弾が艦を貫通して海上で爆発したため大きな被害は与えることができなかった。また、ホワイト・プレインズ直上で特攻機が爆発して同艦に火災を生じさせた[92]

この日、護衛空母艦隊は戦死1,500名、負傷1,200名と艦載機128機を喪失するという大損害を被り、さらに、母艦を失うか大破して着艦できなくなった67機の艦載機が、占領したばかりで整備不良のレイテ島タクロバン飛行場に緊急着陸を余儀なくされたが、そのうち20数機がぬかるみに脚をとられて失われた[93]。しかし、このときにはすでに栗田艦隊はすでに反転しており、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。大西は「神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果を挙げた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので今後も特攻を続ける。反対するものは、たたき斬る」と語った[94]

拡大編集

 
特攻機が命中して破壊された正規空母タイコンデロガの艦橋

10月26日、及川古志郎軍令部総長は、神風特攻隊が護衛空母を含む5隻に損傷を与えた戦果を奏上した。昭和天皇(大元帥)はこの生還を期さない特攻作戦については知らされておらず、同月28日には説明資料も作成された[95]。及川軍令部総長は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と嘉賞の言葉を受けた。その言葉は軍令部から全軍に向けて発信され、第201航空隊飛行長中島正少佐は、特攻隊員らの前で電文を読み上げ督励した。また、昭和天皇は、10月30日に米内海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と述べた[96]

25日、神風特攻隊の戦果が出ると、二航艦長官福留繁中将は大西の説得に応じ、現地で第一航空艦隊・第二航空艦隊を統合した「第一連合基地航空部隊」を編成し、神風特攻隊は拡大した[97]中島正(201空飛行長)によれば、神風特攻隊の編成当初、中島が「特別攻撃隊は、わずかこの四隊でいいのですか?」と訊ねると、大西は「飛行機が少ないからなぁ、やむをえん」と答え、その語調からはこれだけでやめたいという感じを受けたが、連日の攻撃で成果が上がらないまま栗田艦隊が敵の攻撃圏内に入ったことで大西は増員を考えたようで、進出してきた二航艦隊司令長官の福留中将に特攻隊を編成するように強く進言したという[98]

大西は、第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能なので少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話した[99]。また、大西は「特攻隊員への招宴などの特別待遇の禁止」「特攻隊以外の体当たり攻撃禁止」など特攻隊員の心構えなどを強く指導した。その強引な作戦指導に航空幹部の一部が批判的であったが、大西は「今後俺の作戦指導に対しての批判は許さない」と宣言した。これには大西が搭乗員出身でその心情を一番理解してると自負し、また最後には勝敗の如何を問わず特攻隊員と共に必ず死ぬと思い定めた心情を窺えるという意見もある[100]。1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、「第一聯合基地航空部隊機密第一号 神風特別攻撃隊の編成ならびに同隊員の取扱に関する件」として軍令部・海軍省・航空本部など中央に通達された[101]

連合基地航空隊には北東方面艦隊第12航空艦隊の戦闘機部隊や[102]、空母に配属する予定であった第3航空艦隊の大部分などが順次増援として送られ特攻に投入されたが、戦力の消耗も激しく、大西は上京し、更なる増援を大本営と連合艦隊に訴えた。大西は300機の増援を求めたが、連合艦隊は、大村海軍航空隊元山海軍航空隊筑波海軍航空隊神ノ池海軍航空隊の各教育航空隊から飛行100時間程度の搭乗員と教官から志願を募るなど苦心惨憺して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員は猪口により台湾台中台北で10日間集中的に訓練された後フィリピンに送られた[103]

特攻はアメリカ軍側に大きな衝撃を与えた。レイテ島上陸作戦を行ったアメリカ海軍水陸両用部隊参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機を今日、自殺的急降下攻撃に使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない。対策が早急に講じられなければならない。」と考え、物資や兵員の輸送・揚陸には、攻撃輸送艦(APA)や攻撃貨物輸送艦(AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく、輸送駆逐艦(APD)や戦車揚陸艦(LST)など装甲の厚い艦船を多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻が成功した10月25日以降、病院船を特攻の被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港を禁止したが、レイテ島の戦いでの負傷者を救護する必要に迫られ、3時間だけ入港し負傷者を素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなった[104]

その後も特攻機は次々とアメリカ軍の主力高速空母部隊第38任務部隊の正規空母に突入して大損害を与えていった。1944年10月29日イントレピッド、10月30日フランクリンベローウッド 、11月5日レキシントン、11月25日エセックスカボット が大破・中破し戦線離脱に追い込まれ、他にも多数の艦船が撃沈破された[105]。 特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令ウィリアム・ハルゼー・ジュニアが11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している[106]。 ハルゼーは指揮下の高速空母群に次々と特攻により戦線離脱するのを目のあたりにして「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている[107]

 
出撃前に日の丸の鉢巻きをしめてもらっている特攻隊員

フィリピンの戦いを指揮した南西太平洋方面軍(最高司令官ダグラス・マッカーサー大将)のメルボルン海軍司令部は、指揮下の全艦艇に対して「ジャップの自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊にその旨伝達した」とアメリカとイギリスとオーストラリアに徹底した報道管制を引いた。これはニミッツの太平洋方面軍も同様の対応をしており[108]、特攻に関する検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている[109]

1945年1月1日、マッカーサー自ら指揮する連合軍大艦隊が、ルソン島攻略のため出撃したが、その艦隊に対して激しい特攻がおこなわれた。1月4日、神風特攻旭日隊の彗星が護衛空母オマニー・ベイを撃沈した[110]。1月6日に連合軍艦隊はリンガエン湾に侵入したが、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中し7機が有効至近弾となり連合軍艦隊は多大な損害を被った[111]。戦艦ニューメキシコには、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの名代として、イギリス陸軍観戦武官ハーバード・ラムズデン英語版中将が乗艦していたが、その艦橋に特攻機が突入、ラムスデン中将が戦死し、ラムズデンと40年来の知人であったマッカーサーは衝撃を受けている[112]。マッカーサー自身が乗艦していた軽巡洋艦ボイシも特攻機に攻撃されたが損害はなかった[113]。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と特攻がルソン島の戦い帰趨きすうを左右するような威力を有していると懸念している[114]

海軍第1航空艦隊はこの1月6日の出撃で航空機を消耗し尽くしたので、司令の大西は陸戦隊として連合軍を迎え撃つこととし幕僚と協議を重ねていた。そんなときに、連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に転進せよとの命令が届いた。躊躇する大西に猪口ら参謀が「とにかく、大西その人を生かしておいて仕事をさせようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したのに対して、大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」となかなか同意しなかったが[115]、最後は大西が折れて、第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員は台湾に撤退することとなった[116]

 
特攻により沈没する中型揚陸艦LSM-20

海軍航空隊はフィリピン戦で特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い[117]、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失ったのに対して[118]、アメリカ軍は、特攻により22隻の艦艇が沈没、110隻が損傷した。通常航空攻撃による沈没が12隻、損傷が25隻であったのに対して[119]、フィリピン戦で日本軍が戦闘で失った航空機のなかで、特攻で失った航空機は全体のわずか14%に過ぎず、通常航空攻撃に対して、相対的に損害が少ないのに、戦果が大きかった特攻の戦術としての有効性が際立つこととなった[120]。しかし、連合軍は特攻で損害を被りつつも、レイテ島、ミンダナオ島、ルソン島と進撃を続けたので、特攻はせいぜいのところ遅滞戦術のひとつに過ぎないことも明らかになった[121]

台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母タイコンデロガに2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた魚雷・爆弾が誘爆し沈没も懸念されたほどの深刻な損傷を被り、ディクシー・キーファー英語版艦長を含む345名の死傷者が生じたが、キーファーが自らも右手が砕かれるなどの大怪我を負いながら、艦橋内にマットレスを敷いて横たわった状態で12時間もの間的確なダメージコントロールを指示し続け、沈没は免れた[122]。大西はこの頃から沈黙の時間が長くなった代わりに、死について語ることが多くなった。ある日、イタリアの戦犯のニュースの話題になったとき大西は「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾攻撃に参画し、特攻を出して若いものを死なせ、悪いことばかりしてきた」と幕僚たちに述べている[123]

1945年2月17日、連合艦隊はアメリカ艦隊を泊地ウルシーで攻撃する丹作戦を命令した。攻撃部隊として、陸上攻撃機「銀河」を基幹とする特攻隊を編成し菊水部隊梓特別攻撃隊と命名した。銀河には、それまでの500キロ爆弾1発もしくは250キロ爆弾2発ではなく、魚雷にも匹敵する威力の800kg爆弾が搭載された[124]。1945年2月19日には、硫黄島にアメリカ軍が上陸し、硫黄島の戦いが始まったが、硫黄島に侵攻してきたアメリカ軍艦隊に対しても特攻が行われた[125]第六〇一海軍航空隊で編成された「第二御盾隊」は、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が出撃し、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) 英語版も大破させ、護衛空母ルンガ・ポイントLST-477 英語版を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団から視認でき、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞した[126]梅津美治郎陸軍参謀総長及川古志郎軍令部総長はこの大戦果を昭和天皇上奏した。及川によれば、昭和天皇はこの大戦果の報を聞いて「硫黄島に対する特攻を何とかやれ」と再攻撃を求めたというが、洋上の長距離飛行を要する硫黄島への特攻は負担が大きく、ふたたび実行されることはなかった[127]。『第二御盾隊』の成功の報を台湾で聞いた大西は特攻作戦に対して自信を深めて、この後も特攻を推進していく動機付けともなった[128]

全軍特攻編集

1945年2月中旬、硫黄島が攻略され、敵の沖縄攻略も遠くない状況になった。軍令部は、1945年3月に練習連合航空総隊を解体し、その搭乗員教育航空隊をもって第十航空艦隊を編制して連合艦隊に編入し、練習機をも特攻攻撃に参加させ、全海軍航空部隊の特攻化が企図された[129]

3月11日に24機の銀河が出撃したが、途中で脱落する機が続出し、1機が 正規空母ランドルフに命中したにとどまった。銀河はランドルフの飛行甲板後方に命中したため、死傷者は150名以上と人的損害は大きかったが、致命的な損傷には至らなかった [130]

1945年3月14日にアメリカ軍の機動部隊は沖縄戦に先立って日本軍の抵抗力を弱体化させるため、九州・本州西部・四国の航空基地や海軍基地に攻撃をかけてきた[131]。それを新設されたばかりの第五航空艦隊が迎撃し、日本本土と近海で激しい海空戦が繰り広げられ、九州沖航空戦となった[132]。特攻機を含む日本軍の猛攻でアメリカ軍は空母フランクリンワスプが大破、エセックスが中破するなど多大な損害を被った[133]。正式に兵器として採用された特攻兵器桜花は九州沖航空戦が初陣となった[134]。3月21日に第五航空艦隊司令宇垣纏中将が、第七二一海軍航空隊に、偵察機が発見した2隻の空母を含む機動部隊攻撃を命令したが、第五航空艦隊はそれまでの激戦で戦闘機を消耗しており、護衛戦闘機を55機しか準備できなかった。そこで第七二一海軍航空隊司令の岡村基春大佐が攻撃中止を上申したが、宇垣は「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と岡村を諭し、出撃を強行している。その後、偵察機より続報が入りアメリカ軍空母はもっと多数であることが判明したが作戦はそのまま続行され[135]野中五郎少佐に率いられた一式陸攻18機の攻撃隊は、護衛の零戦25機が故障で帰投するという不幸もあって、岡村に懸念通り、アメリカ空母の遥か手前で戦闘機の迎撃を受けて全滅した[136]

 
沖縄戦で2機の零戦の特攻により大火災をおこした正規空母バンカーヒル

1945年3月1日の大海指第510号「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」により、陸軍飛行隊第6航空軍などが連合艦隊の指揮下に入り、陸海軍協同で特攻作戦を推進していくことになった[137]。1945年3月25日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸を開始したとの情報が連合艦隊に入ると、3月20日に大本営により下令された天号作戦に基づき、連合艦隊は1945年3月25日「天一号作戦警戒」、南西諸島への砲爆撃が激化した翌26日に「天一号作戦発動」を発令した。連合軍を沖縄で迎え撃つ第五航空艦隊の可動戦力は、九州沖航空戦での消耗で航空機50機足らずとなっていたが、「天一号作戦警戒」発令により鈴鹿以西の作戦可動航空戦力は、第五航空艦隊司令官宇垣纏中将指揮下に入った[138]。 航空戦力は日を追って強化され、海軍だけで4月1日時点で300機[139]、この後も順次戦力増強が進み4月19日までに合計2,895機もの大量の作戦機が九州の各基地に進出した[140]

3月26日、慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した直後に第五航空艦隊は特攻出撃を開始、4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、4月1日35機、2日44機、3日74機と出撃機数は増えていき、空母1隻大破、巡洋艦2隻撃沈などの華々しい大戦果を挙げたと報じられた[141]。この戦果報告は過大であったが、実際にも輸送駆逐艦(高速輸送艦)ディカーソン撃沈[142]レイモンド・スプルーアンス中将が座乗していた第5艦隊旗艦重巡インディアナポリス[143]イギリス軍正規空母インディファティガブル[144]、護衛空母ウェーク・アイランド[145]が甚大な被害を受けて戦線離脱、戦艦ネバダウェストバージニアを含む28隻が損傷し、合計約1,000名の死傷者を被るなど連合軍の損害は大きかった[146][147]。大きな損害を被ったアメリカ軍は「やがて来たる恐るべき戦術-特攻の不吉な前触れ」であったと評している[148][149]

大本営は4月6日に、航空戦力を集中した大規模な特攻作戦菊水一号作戦を発令、大量の特攻機を出撃させると同時に戦艦大和による海上特攻を敢行した[150]。その後も菊水作戦は続き、4月中に20隻の艦船が撃沈、157隻が撃破されて、アメリカ海軍将兵の戦死・行方不明者1,853名、戦傷者2,650名に達する大きな損害を被っていた[151]。太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令は、1945年4月12日に戦況報告のため腹心のフォレスト・シャーマン太平洋艦隊司令部戦争計画部長を沖縄に派遣し、詳細な戦況を報告させたが[152]、それでも飽き足らず、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に乗り込んでいる[153]。ニミッツは陸軍の進撃速度が遅いため、海軍の損害が激増していると 第10軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将に詰め寄ったが、あまりにも慎重なバックナーの姿勢に、普段は温厚であるニミッツが激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍は忌々しいカミカゼから解放される」と言い放っている[154]

前線での苦戦の報告を受けた海軍省長官ジェームズ・フォレスタルは5月17日の記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えた[155]。特攻に苦しめられていたアメリカ軍がその対策として、B-29を日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、九州の特攻基地攻撃の戦術爆撃に転用し[156]、B-29の戦力の75%、延べ2,000機がこの特攻機基地攻撃に振り向けられたため、一時的ではあったが、本土の大都市や工業地帯の爆撃による被害が軽減されている[157]。しかし、戦略爆撃機であったB-29は、特攻基地爆撃のような任務には不向きで[158]、九州の各飛行場に分散配置されている特攻機に大きな打撃を加えることはできなかった。B-29の爆撃効果に失望したスプルーアンスは「アメリカ陸軍航空軍は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にアメリカ海軍はアメリカ陸軍航空軍の支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している[159]

 
旗艦の正規空母バンカーヒルと正規空母エンタープライズが続けて特攻で大破したため、3隻目の旗艦となる正規空母ランドルフに移動する第58任務部隊司令マーク・ミッチャー中将

第5艦隊は、日本軍の激しい特攻に対し、まったく防御一点張りのような戦術で常時作戦海域に留まっておらねばならず、上級指揮官らの緊張感は耐えられないくらい大きなものとなっており、ニミッツは前例のない戦闘継続中の艦隊の上級指揮官らの交代を行った。第5艦隊司令はスプルーアンスからウィリアム・ハルゼー・ジュニアに、第58任務部隊司令はマーク・ミッチャーからジョン・S・マケイン・シニアに交代となった[160]。スプルーアンス、ミッチャ―ともに沖縄戦中乗艦していた旗艦に2回ずつ特攻を受けており、いずれの艦も戦線離脱をしている。特にミッチャ―がバンカーヒルで特攻を受けた時、特攻機はミッチャ―の6mの至近距離に突入、奇跡的にミッチャーと参謀長のアーレイ・バーク代将は負傷しなかったが、艦隊幕僚や当番兵13名が戦死している。それらの心労で体重は大きく落込み、交代時には舷側の梯子を単独では登れないほどに疲労していた[161]。スプルーアンスはのちに沖縄戦での特攻に対して「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる」や[162]「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった。」と回想している[163]

沖縄戦の大勢が決すると、本土決戦に向けた準備が本格化した。海軍大臣の米内光政決号作戦の準備として、全海軍部隊を指揮できる海軍総隊を新設し、司令長官に連合艦隊司令長官豊田副武を兼務させ強力な権限を与えて本土決戦準備を進めた。その豊田は、5月17日に第十航空艦隊の残存機の九州進出を中止するという命令を出した。鈴鹿以西の作戦可動航空戦力は第五航空艦隊宇垣の指揮下とするという従来方針からの後退で、宇垣の指揮下から離れた航空戦力は「決号作戦」に備えて錬成せよという命令も出された。これは、沖縄決戦に全航空戦力を投入しようとしていた海軍首脳部の作戦指導方針の明らかな転換であり、この後は本土決戦に向けての航空戦力の温存が図られていくこととなる。この命令を聞いた第5航空艦隊参謀長横井俊之少将は「最高統帥が決号(本土決戦)か天号(沖縄戦)の岐路に迷い、バランスが今まさに破れんとするこの絶好のチャンスに沖縄決戦の見切りをつけてしまったのである。前線の将士がいかに地団駄ふんでヂリヂリしてみても、大本営の腰がふらついているのでは所謂「ごまめの歯ぎしり」で何の役にも立たない」と感想を持った[164]。5月29日には豊田は軍令部総長に任じられ、連合艦隊司令長官には、軍令部次長の小沢治三郎中将が親補された[165]。そして小沢の後任には大西を任命した。米内は講和派であったが、陸軍の主戦派らの不満を抑え込むため、講和派の井上成美海軍次官更迭に加えておこなわれた人事であった。海軍内でも講和派からは煙たがられたが、主戦派は本土決戦に向けてこの人事を歓迎している[166]

日本軍は沖縄戦の3ヶ月間で特攻機1,895機[167]通常作戦機1,112機[168]。沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、アメリカ軍の公式記録上では艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが[169]、その大部分は特攻による損害で[170]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[171]

日本軍は、菊水作戦の戦果によりアメリカ軍に対抗可能な戦術は唯一特攻であるとの認識となり、本土決戦の方針を定めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」において、特攻を主戦術として本土決戦を戦う方針を示されている。軍令部豊田総長は「敵全滅は不能とするも約半数に近きものは、水際到達前に撃破し得るの算ありと信ず」と本土に侵攻してくる連合軍を半減できるとの見通しを示している[172]。豊田の見通しに基づき「敵予想戦力、13個師団、輸送船1,500隻。その半数である750隻を海上で撃滅する。」という「決号作戦に於ける海軍作戦計画大綱」が定められたが[173]、その手段は、1945年7月13日の海軍総司令長官名で出された指示「敵の本土来攻の初動においてなるべく至短期間に努めて多くの敵を撃砕し陸上作戦と相俟って敵上陸軍を撃滅す。航空作戦指導の主眼は特攻攻撃に依り敵上陸船団を撃滅するに在り」の通り、特攻となった[174]。海軍は本土決戦のために5,000機の特攻用の稼働機を準備し、さらに5,000機を整備中であった[175]

しかし、沖縄戦で大量の実用機を喪失していた海軍は、練習機や水上偵察機といった本来なら実戦には投入困難な機体も特攻に投入する計画で、準備された特攻機のなかでそのような機体が多数を占めた。終戦時に残存していた機体でもっとも数が多かったのが、九三式中間練習機(水上練習機型も含む)の2,791機であり、2番目は零戦1,017機、3番目は紫電改(紫電を含む)376機と実用機であったが、4番目は練習機の白菊365機であった[176]。飛行教官は、練習機に爆装して特攻する予定の特攻隊員らに「もし敵が本土上陸を開始すれば、海軍に5,000機、陸軍に8,000機の飛行機が現存している。飛行機と名の付く飛行機には、全機爆装して出撃する。5機に1機の割合で、敵の上陸用舟艇に命中すればその8割は撃滅できる。あとの2割は本土防衛隊が波打ち際で撃退する。われに勝算あり、必ず勝つ!」と檄を飛ばし士気を鼓舞していたが、これが机上の空論でナンセンスな話であることは十分認識していたという意見もある[177]

一方でアメリカ軍は、沖縄で特攻により被った甚大な損害を重く見て「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」「連合軍の空軍がカミカゼを上空から一掃し、連合軍の橋頭堡や沖合の艦船に近づかない様にできたかについては、永遠に回答は出ないだろう、終戦時の日本軍の空軍力を見れば連合軍の仕事は生易しいものではなかったと思われる」と評価し、ダウンフォール作戦が開始され日本本土決戦となった場合、特攻機による撃沈破艦が990隻に達すると見積もっていた[178]

神風特攻隊は1945年8月15日の終戦まで続いたが、本土決戦のために大量に準備された特攻機が出撃することはなかった。第五航空艦隊司令長官として沖縄戦における航空特攻を指揮した宇垣も、特攻に出撃して戦死した。終戦後の8月16日、神風特攻隊を創設した大西は、死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝すること、後輩に軽挙は利敵行為と思って自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、平時に特攻精神を堅持して日本民族と世界平和に尽くすように希望する旨の遺書を残して割腹自決した[179]。大西は台湾にいたとき副官に「剣道はできるか?俺の骨は太いよ。介錯するときに、骨が折れますよ」と話したことがあったが、自刃するさいには介錯人はおかず、深夜一人で割腹し、頸動脈を斬り、心臓をつらぬき、それでも明け方までは息があって、駆け付けた多田武雄海軍次官や児玉誉士夫に「できるだけ永く苦しんで死ぬんだ」と言って治療や介錯を拒みながら息を引き取った[180]。この自決によって、大西も神風特攻隊の戦死者として名簿に記載された。

戦術編集

接敵編集

 
エンタープライズに富安俊助中尉が搭乗する零戦が突入した瞬間、爆発の先端に吹き飛んでいるのがエレベーター

海軍航空隊は特攻機による接敵法として「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を訓練していた[181]

高高度接敵法
高度6,000m - 7,000mで敵艦隊に接近する。敵艦を発見しにくくなるが、爆弾を搭載して運動性が落ちている特攻機は敵戦闘機による迎撃が死活問題であり、高高度なら敵戦闘機が上昇してくるまで時間がかかること、また高高度では空気が希薄になり、敵戦闘機のパイロットの視力や判断力も低下し空戦能力が低下するため、戦闘機の攻撃を回避できる可能性が高まった。しかし敵のレーダーからは容易に発見されてしまう難点はあった。
敵艦を発見したら、まず20度以下の浅い速度で近づいた。いきなり急降下すると身体が浮いて操縦が難しくなったり、過速となり舵が効かなくなる危険性があった[182]。敵艦に接近したら高度1,000m - 2,000mを突撃点とし、艦船の致命部を照準にして角度35度 - 55度で急降下すると徹底された。艦船の致命部というのは空母なら前部リフト、戦闘艦なら艦橋もしくは船首から長さ13くらいの箇所であったが、これは艦船に甚大な損傷を与えられるだけでなく、攻撃を避けようと旋回しようとする艦船は、転心[注 4]を軸にして回るため、その転心が一番動きが少ない安定した照準点とされた[183]
低高度接敵法
超低高度(10m - 15m)で海面をはうように敵艦隊に接近する。レーダー及び上空からの視認で発見が困難となるが、高度な操縦技術が必要であった。敵に近づくと敵艦の直前で高度400m - 500mに上昇し、高高度接敵法の時より深い角度で敵艦の致命部に体当たりを目指す。突入角度が深ければ効果も大きいため、技量や状況が許すならこちらの戦法が推奨された。[184]

複数の部隊で攻撃する場合は「高高度接敵法」と「低高度接敵法」を併用し、敵の迎撃の分散を図った。他にも特攻対策の中心的存在であった連合国軍のレーダーを欺瞞する為に、錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)をばら撒いたり、レーダー欺瞞隊と制空部隊ら支援隊と特攻機隊が、別方向から敵艦隊に突入する「時間差攻撃」を行ったり[185]という戦法などで対抗している[186]。 海軍航空隊における特攻の教育日程は、発進訓練(発動、離陸、集合)2日、編隊訓練2日、接敵突撃訓練3日を基本に、時間に応じこの日程を反復していた[184]

特攻に主に使われた零戦は、もともと空戦用にできているため急降下すると機首が浮き上がり、速度で舵も鈍くなるため正確に突入するのが困難という意見もあり[187]、沖縄戦時の菊水作戦中に第5航空艦隊参謀に就任していた中島正中佐が出撃する特攻隊員に「ダイブ(急降下)角は45度」という訓示をしているが、中島の訓示の後に第七二一海軍航空隊の林富士夫大尉が「中島中佐は自分が飛ばないからわからない。高い角度のダイブで突入することは不可能で、せいぜい20~30度である。突入は舷側を狙え」と中島の指示を訂正している[188]

 
1944年11月25日空母エセックスに神風特攻隊機が命中した瞬間

突入角度が浅いと、特攻機の爆弾が敵艦を貫通しないケースも少なからずあった。特攻の戦果確認機からの過大戦果報告に疑念を感じていた軍令部次長大西が、第一航空技術廠長の多田力三中将に特攻の効果についての実験を要請している。その要請を受けて、第一航空技術廠と横須賀海軍航空隊は1945年5月に協同で、250kg爆弾を搭載した無人の零戦をカタパルトで射出し、様々な角度で鋼板に衝突させる実験を行った。その結果、30度以上の角度では爆弾も機体も鋼板を貫通するが、30度未満の角度では鋼板の上を滑って機体も爆弾も跳躍してしまうことが判明した。この実験結果を見て大西は、搭乗員の心理作用で突入角度が浅くなって、結果的に特攻機が敵艦を貫通できないケースがあることを認識している[189]

しかし、沖縄戦で富安俊助中尉が搭乗する零戦が空母エンタープライズを大破させたときの最終突入確度は50度に達しており、深い角度で突入した事例もある[190]。一方で、フィリピンにおいて護衛空母のセント・ローに命中した敷島隊の零戦は、まるで着艦でもする様な高度(30m)で接近してきてそのまま時速480km/hで浅い角度で体当たりしたが[191]、搭載爆弾は甲板を貫通、格納庫で爆発し、燃料や弾薬を誘爆させ合計7回の爆発を経たのちに、特攻機命中からわずか32分後に爆沈したように[192]、突入角度が浅くとも敵艦に深刻な損害を与えた事例も多い。

爆弾編集

 
800キロ爆弾を搭載した陸上攻撃機「銀河」が命中し損傷した正規空母ランドルフ

日本海軍軍令部が想定していた特攻機の搭載爆弾別の威力は下記の通りであった[193]

特攻機の威力
特攻機と搭載爆弾 桜花 (炸薬量1300kg) 800kg爆弾を搭載した特攻機 500kg爆弾を搭載した特攻機 250kg爆弾を搭載した特攻機
威力点 5点 3点 2点 1点
撃沈に要する威力
正規空母 巡改(軽)空母 護衛空母 戦  艦 巡洋艦
所要弾薬 桜花1機と800kg特攻機1機 桜花1機と800kg特攻機1機 800kg特攻機1機 桜花2機 桜花1機
所要威力点 8点 8点 3点 10点 5点

これは想定であり、実戦で必ずしもこの通りになったわけではないが、正規空母や軽空母を撃沈するためには、250キロ爆弾を搭載した零戦が8機以上も命中する必要があると軍令部は想定しており、事実、巡洋艦以上の大型艦艇を撃沈することはできなかった。アメリカ軍も「45隻の艦船が沈没したが、その多くは駆逐艦だった。日本は大型艦を沈めたという膨張された主張に彼等自身騙され、大型艦を沈めるにはより重量のある爆発弾頭が必要であるという技術者達の忠告を無視した」[194]、「大型機を別にすれば、陸海軍機のすべては、威力不十分な爆弾を使用していた。連合軍の主力艦が自殺機によって、1隻も撃沈されなかった理由のひとつも、このあたりにあった」と総括し[195]と特攻機に搭載された爆弾の威力不足を指摘していた。

搭載爆弾を大型化すれば、威力向上するのを日本軍も理解し様々な対策を講じたが、爆弾が大型化すればするほど特攻機の搭載重量は増え運動性は低下するため、飛行が困難になるばかりでなく敵の迎撃の好餌となってしまった。特に大重量爆弾を搭載できる双発機は、アメリカ軍の特攻対策マニュアル「Anti-Suicide Action Summary」にて「桜花母機及び、潜在的な母機となりうる双発機を最優先で攻撃すること。」と、特攻兵器桜花を警戒していたアメリカ軍から優先攻撃目標とされていたため[196]、敵艦への接近が非常に困難になっていた。

これまでの戦訓により、大型爆弾を搭載した特攻機が敵の激烈な迎撃を突破することや、1隻の敵艦艇に多数の特攻機が命中するのが困難と認識した軍令部は、少数の特攻機の命中でも、大型艦に致命的打撃威力を発揮できる、画期的威力増大策の研究を行い、下記の検討を行っている[197]

  1. 特攻攻撃により爆弾を敵艦船の水線下に確実に命中させる方法。
  2. 特攻機突入時の撃速増大の方法、突撃時攻撃機の翼を切断し速力を急増し、敵の迎撃を局限すると共に撃速を増大させる(キ115の開発と増産)。
  3. 成形炸薬弾頭であるV爆弾の実戦配備(成形炸薬弾頭とはモンロー/ノイマン効果を利用した弾頭)。
  4. 液体酸素、過酸化水素、黄燐等の炸裂威力助成剤を搭載し爆発威力を増大させる
  5. 旧型魚雷に過酸化水素を充填し代用爆弾とする。

終戦までに具体化したものはなく、「中央当局の努力にもかかわらず終戦までに具体的に搭乗員の崇高なる特攻精神にふさわしい威力を具備した特攻機は出現しなかった。」と総括されている[198]

 
特攻により大火傷を負い、病院船ソラースで治療をうけるアメリカ軍兵士

搭載爆弾の威力不足問題は解消できなかったが、特攻機の機体そのものが兵器になり、効果を増大させていた。第6航空軍の高級参謀は「特攻は(通常攻撃より)効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、またガソリンの爆発で火災が起きる。さらに、適切な角度で行えば通常の爆撃よりもスピードが大きく、命中率が高くなる」と分析していた[199]

特攻機の航空燃料で生じる激しい火災により、アメリカ軍の被害艦では重篤な火傷を負った負傷者が多かった[200]。航空燃料による火傷の他に、特攻機や搭載爆弾の爆発で生じる閃光による閃光火傷を負う負傷者も多かった[201]。死傷者の増大に悩まされたアメリカ軍は、『Combating suicide plane attacks』という兵士向けのニュース映画を作成して「一か所に大人数で集まることを禁止」「全兵員が長袖の軍服を着用し袖や襟のボタンをしっかりとめる、顔など露出部には火傷防止クリームを塗布する」「全兵員のヘルメット着用義務化」「対空戦闘要員以外はうつ伏せになる」など事細かに特攻による兵員の死傷の防止策を指導していた[202]

艦艇を撃沈するためには、魚雷により喫水線下を攻撃するのが最も効果的であったが、特攻を開始した大戦末期には、魚雷をだいて、強力な敵戦闘機の防御網を突破して、敵艦に肉薄して雷撃を行うことができる熟練搭乗員は極度に不足しており、その代わりとして高い命中率が期待できる零戦による特攻が企画された[203]。爆弾を搭載しての特攻は、雷撃に対して威力が相当に劣るため、突入方法や敵艦艇の突入目標箇所などの研究が行われている[204]

機種編集

 
特攻に投入された水上偵察機、手前九五式水上偵察機、奥九四式水上偵察機

大戦末期には、それまでの戦闘による消耗で特攻に投入できる機体が枯渇しており、練習機や水上偵察機も特攻に投入された。九三式中間練習機二式中間練習機九五式水上偵察機零式観測機零式練習戦闘機は、250キロ爆弾1発。機上作業練習機「白菊」、九四式水上偵察機零式水上偵察機は、250キロ爆弾2発を搭載して特攻に出撃した[205]

菊水七号作戦中の1945年(昭和20年)5月24日の夜間に初の白菊特攻隊、第一次白菊隊14機が串良の航空基地から出撃した。故障や不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。沖縄戦で特攻を指揮した第5航空艦隊司令部はアメリカ軍の無電を傍受しており、「時速160km~170kmの日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の駆逐艦の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で[206]、第5航空艦隊司令官宇垣纏中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や黎明に限定して投入することとしている[207]

しかし、軍による低い期待とは裏腹に練習機や偵察機の特攻は戦果を挙げており、アメリカ軍側の記録により確認できる戦果だけでも、1945年5月4日には、九四式水上偵察機F4Uコルセアの迎撃を巧みにかわすと、モリソン(駆逐艦)英語版航跡の上に一旦着水、航跡の上を滑走しながらモリソンを追尾し、離水するとそのまま超低空で砲塔に突入して火薬庫を誘爆させた。モリソンは8分間で轟沈し[208]死傷者255名にも上り、無事だったのは、誘爆で海中に投げ出された71名に過ぎなかった[209]

1945年5月27日の海軍記念日に出撃させる特攻機が枯渇していた海軍は、やむなく白菊を出撃させた。この日、鹿屋基地に第五航空艦隊司令部付将校として配属されていた野原一夫少尉は、通信室でアメリカ軍の無電を傍受していたが、やがてアメリカ軍駆逐艦や警備艇が「海面すれすれの、30mぐらいの低空に奇妙な物体がいくつか見える」「飛行機にしてはあまりにスピードがスローである。何だろう、爆音が聞こえてきた。やはり飛行機かもしれない」「太った雌鶏が空を飛んでいる。あれはボギー(敵機)だ」「ボギーにしてはスピードが遅すぎる、先日も飛んできた。ボギーに間違いない」という無電を発したのを聞いている[210]。この白菊隊は、雨雲を抜けると駆逐艦ドレクスラーに突入した。ドレクスラーの乗組員からは、接近してくる白菊は時代遅れの練習機には見えず、操縦しているのも、経験を十分積んだ熟練パイロットのように見えたという[211]。白菊のうち1機は、ドレクスラーの艦後部に突入してボイラー室と機械室を破壊し、航行不能に陥らせた[212]

このときドレクスラーが発したと思われる「甲板上大火災」「至急救援たのむ」という無電を傍受した通信室の野原ら将校は「突っ込んだんだ、白菊が。白菊だ。やったぞ」と歓喜している[213]。この後、ドレクスラーにはもう1機の白菊も突入し、たちまち転覆して沈没した。あまりに沈没が早かったため、乗組員158名が死亡、艦長を含む52名が負傷した[214]。その後も、1945年6月21日に輸送駆逐艦(高速輸送艦)バリーLSM-1級中型揚陸艦 LSM-59の合計3隻を撃沈し[215]、1945年(昭和20年)5月29日にシュブリック(駆逐艦) 英語版[注 5][216][217]、1945年(昭和20年)6月21日に中型揚陸艦LSM-213の2隻を大破させ[218]、その後両艦は修理が断念されて、スクラップとなった[219]

終戦直前の7月29日に93式中間練習機7機で編成された「第3龍虎隊」が宮古島から出撃、「第3龍虎隊」は2日に渡ってレーダーピケット艦を攻撃し、突入した7機で駆逐艦 キャラハンを撃沈し、カシンヤング(駆逐艦) 英語版を大破させて、プリチェット(駆逐艦) 英語版ホラス・A・バス(輸送駆逐艦)英語版を損傷させた。この4艦で74名の戦死者と133名の負傷者が生じた[220]

わずか7機の93式中間練習機に痛撃を被ったアメリカ軍は、練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている[196]

  • 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い。
  • 近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径100フィート(約30m)で作動するが、93式中間練習機では30フィート(約9m)でしか作動しない)。
  • 対空火器のMk.IV20mm機関砲は、エンジンやタンクといった金属部分に命中しないと信管が作動せずに貫通してしまい効果が薄い。ただし、ボフォース 40mm機関砲は木造部分や羽布張り部分でも有効であった。
  • 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた。

アメリカ側は練習機や水上偵察機や九九式艦上爆撃機の様に、通常攻撃ではアメリカ軍艦艇に打撃を与えることが不可能となっていた、低速機、複葉機、旧式機などが、特攻では戦果を挙げていることを見て「特攻は、複葉機や九九式艦上爆撃機のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と評価している[221]

戦果編集

艦艇編集

 
神風特攻隊「敷島隊」の特攻で爆沈する護衛空母セント・ロー
 
1944年12月15日09時45分頃、護衛空母オマニー・ベイの上空で撃墜された特攻機銀河。オマニー・ベイは1945年1月4日に特攻により沈没
 
1945年4月6日、5機の特攻機が命中した駆逐艦ニューコム。アメリカ本土に曳航後、修理は不可能と診断されて除籍

陸軍「と号部隊」によるものと合わせた戦果は下記の通りとなる[222][223][224][225][226][227][228][229][230][231][232][233][234][235][236]

撃沈
艦種 船体分類記号 撃沈艦 除籍艦[注 6][237] 損傷艦[注 7]
戦艦 BB 16隻
正規空母 CV 21隻
軽空母 CVL 5隻
護衛空母 CVE 3隻 1隻 16隻
水上機母艦 AV 4隻
重巡洋艦 CA 8隻
軽巡洋艦 CL 8隻
駆逐艦 DD 14隻 8隻 91隻
護衛駆逐艦 DE 1隻 1隻 24隻
掃海駆逐艦 DM 2隻 7隻 26隻
輸送駆逐艦 APD 4隻 3隻 17隻
潜水艦 SS 1隻
駆潜艇 SC・PC 1隻 1隻 1隻
掃海艇 AM・YMS 3隻[注 8] 16隻
魚雷艇 PT 2隻 4隻
戦車揚陸艦 LST 5隻 15隻
中型揚陸艦 LSM 7隻 1隻 4隻
上陸支援艇 LCS 2隻 13隻
歩兵揚陸艇 LCI 1隻 7隻
タグボート AT 1隻 1隻
魚雷艇母艦 AGP 1隻
ドッグ艦 ARL 2隻
病院船 AH 1隻
タンカー AO・IX 1隻 2隻
攻撃輸送艦 AKA・APA 18隻
傷病者輸送艦 APH 1隻
防潜網設置艦 AKN 1隻
輸送艦 7隻 35隻
合計 54隻 22隻 359隻

特攻の戦果は諸説ある。航空特攻で撃沈57隻 戦力として完全に失われたもの108隻 船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻 軽微な損傷206隻とする説[238]。航空特攻で撃沈49隻 損傷362隻 回天特攻で撃沈3隻 損傷6隻 特攻艇で撃沈7隻 損傷19隻 合計撃沈59隻 損傷387隻とする説などがある[239]

アメリカ軍は、フィリピンで特攻により大きな損害を被った教訓として、沖縄本島近海で作戦行動をとる主力艦隊や輸送艦隊を包み込むように、半径100kmの巨大な円周上に、レーダーを装備したレーダーピケット艦を配置し早期警戒体制を整えた。このレーダーピケット部隊は第5上陸作戦場スクリーン隊という部隊名であったが、一般的にはレーダーピケットラインと呼ばれた[240]。レーダーピケット部隊は駆逐艦高速輸送艦(輸送駆逐艦)1隻に対し、対空装備を満載した上陸支援艇掃海艇駆潜艇などの小型艦2隻を最小単位として編成されており、二重に主力艦隊や輸送艦隊を取り囲んでいた。高速空母艦隊の第58任務部隊も輸送艦隊と同様に、高速空母隊の周りに警戒駆逐艦を配備し早期警戒に当たらせていた[241]

日本軍はアメリカ軍のレーダーピケットラインを寸断するために、レーダーピケット艦を優先攻撃目標のひとつとしており、また出撃した特攻機もアメリカ軍の大量の迎撃機に阻まれて、最初に接触するレーダーピケット艦を攻撃することが多く[242]、その消耗は激しかった[243]。ニミッツはアーネスト・キング海軍作戦部長に「直衛艦艇と哨戒艦艇を1隻ずつ狙い撃ちにする特攻機により、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、スプルーアンスとターナーは2人とも、(アメリカ軍が)投入可能な駆逐艦及び護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある点を指摘している」と請願し[244]、ドイツ軍のUボートを制圧していた大西洋の駆逐艦や護衛駆逐艦が続々と沖縄に派遣された[245]。アメリカ軍は、レーダーピケット艦が沈められた時に生存者の救出を図るため、レーダーピケット艦の周りを小型艇でびっしりと囲ませていた。そのような小型艦艇は「棺桶の担い手」と呼ばれ、実際に、特攻で粉砕されたレーダーピケット艦の生存者を救出し、遺体を収容している[246]

特攻により生じた大量の損傷艦のために慶良間列島の泊地は常に満杯であり、損傷艦は工作艦により応急修理がなされると、随伴艦と一緒に群れを成して太平洋を横断してアメリカ本国に帰還した[247]。特攻による損傷艦のなかには、護衛空母スワニーのように、艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷を負った艦や[248]、正規空母バンカーヒル のように、ピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けた艦船の中では最悪の損傷レベルと認定された艦もあった[249]。甚大な損傷を負った艦のなかには、修理不能と診断されてそのままスクラップとなった艦も少なくない[250]

レーダーピケット艦は特攻機を早期発見するという本来の任務のほかに、結果的に特攻機を引き付ける役割となってしまい、特攻機は何度もレーダーピケット艦に対する攻撃に集中し、大破して沈没寸前の艦にまで執拗に体当たりを繰り返した[251]。特にレーダーピケットラインの中枢で、「ブリキ缶」「スモールボーイ」などの俗称で呼ばれていた駆逐艦の損害は大きく[252]、「まるで射的場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」と皮肉を言われるほどで[253]、やけになった駆逐艦の乗組員が、駆逐艦の艦尾に大きな矢印をつけて「日本の特攻隊員よ、空母はこの方向です!」と示したほどだった[254]。 沖縄戦中にアメリカ海軍は駆逐艦17隻(航空特攻15隻、特殊潜航艇1隻、陸上砲撃1隻)を沈められ、18隻が再起不能の損傷を受けて除籍される甚大な損害を被ったが(輸送・掃海等の用途特化型の駆逐艦を含む)、文字通り自らを犠牲にして主力艦隊や輸送艦隊を特攻から守り切った。その働きぶりはアメリカ海軍より「光輝ある我が海軍の歴史の中で、これほど微力な部隊が、これほど長い期間、これほど優秀な敵の攻撃を受けながら、これほど大きく全体の為に寄与したことは無い」と賞されている[255]

人員編集

特攻による連合軍の人的損失の研究で数字が異なる。戦死者8,064名負傷者10,708名合計18,772名とする説[256]、戦死者12,260名、負傷者33,769名とする説などがある[257]。アメリカ軍の公式記録等の調査から、特攻によるアメリカ軍の戦死者6,805名負傷者9,923名合計16,728名とする説[239]、戦死者7,000名超とする説などがある[258]

有効率編集

特攻作戦有効率(米国戦略爆撃調査団統計 USSBS Report 62, Japanese Air Power)[259]
フィリピン戦 沖縄戦 合計
特攻機損失数 650機 1,900機 2,550機
命中もしくは有効至近命中[注 9] 174機 279機 475機[注 10]
有効率 26.8% 14.7% 18.6%
1944年10月 - 1945年4月アメリカ軍艦艇の射程内に入った特攻機と通常攻撃機の有効攻撃数(U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary Table I)[260]
1944年10月~1945年1月 1945年2月 1945年3月 1945年4月 合計
アメリカ軍艦艇の射程内に入った日本軍機合計 1,616機 123機 219機 978機 2,936機
その内、特攻機 376機 18機 42機 348機 784機
その内、通常攻撃機 1,240機 105機 177機 630機 2,152機
特攻機命中 120機(命中率31.9%) 8機 10機 78機 216機(命中率27.6%)
通常攻撃命中 41機(命中率3.3%) 1機 10機 6機 58機(命中率2.7%)
1944年10月 - 1945年4月アメリカ軍艦艇の射程内に入った特攻機と通常攻撃機の有効性の比較(U.S.NAVY Anti-Suicide Action Summary Table VI)[261]
特攻機 通常攻撃機
艦艇に1発の命中弾を与えるために必要な攻撃機数 3.6機 37機
命中率 27% 2.7%
艦艇に命中弾を与えるまでの損失機数 3.6機 6.1機

これらの統計の結果でアメリカ軍は、通常攻撃機をすべて特攻機に回したならば、この間の通常攻撃機による79発の命中弾が792発(792機)の命中になったであろうと分析している[262]米国戦略爆撃調査団作成の公式報告書では「日本軍パイロットがまだ持っていた唯一の長所は、彼等パイロットの確実な死を喜んでおこなう決意であった。 このような状況下で、かれらはカミカゼ戦術を開発させた。 飛行機を艦船まで真っ直ぐ飛ばすことができるパイロットは、敵戦闘機と対空砲火のあるスクリーンを通過したならば、目標に当る為のわずかな技能があるだけでよかった。もし十分な数の日本軍機が同時に攻撃したなら、突入を完全に阻止することは不可能であっただろう。 」と述べられている[263]。通常の航空爆撃と異なり、対空攻撃によって特攻機の乗員が負傷したり機体が破損するなどしても、特攻機は命中するまで操舵を続けるため、投下する爆弾や魚雷を避けることを前提とした艦船の回避行動はほとんど意味がなかった[264]。1999年作成アメリカ空軍報告書において、特攻機は現在の対艦ミサイルに匹敵する誘導兵器と見なされて、アメリカ軍艦船の最悪の脅威であったと指摘されている。そして特攻機は相対的には少数でありながら、アメリカ軍の戦略に多大な変更を強いており、実際の戦力以上に戦況に影響を与える潜在能力を有していたと分析している[265]

台湾沖で、神風特攻新高隊の零戦2機の特攻攻撃を受け大破炎上、144名戦死203名負傷の甚大な損害を被り、自らも重傷を負った空母タイコンデロガのディクシー・キーファー艦長は、療養中にアマリロ・デイリー・ニュースの取材に対して「日本のカミカゼは、通常の急降下爆撃や水平爆撃より4 - 5倍高い確率で命中している。」と答えている[266]。また、「通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。」とも述べている[267]。また、イギリスの軍事評論家のバリー・ピッドは「日本軍の神風特攻がいかに効果的であったかと言えば、沖縄戦中1900機の特攻機の攻撃で実に14.7%が有効だったと判定されているのである。これはあらゆる戦闘と比較しても驚くべき効率であると言えよう」「アメリカ軍の海軍士官のなかには、神風特攻が連合軍の侵攻阻止に成功するかもしれないと、まじめに考えはじめるものもいたのである」との記述をしている[268][269]

特攻の高い有効性について、アメリカ海軍は下記のように分析していた[270]

  1. 特攻は、アメリカ軍艦隊が直面したもっとも困難な対空問題である
  2. 今まで有効であった対空戦術は特攻機に対しては機能しない
  3. 特攻機は撃墜されるか、激しい損傷で操縦不能とならない限りは、目標を確実に攻撃する。
  4. 操縦不能ではない特攻機は、回避行動の有無に関わらず、あらゆる大きさの艦船に対して事実上100%命中できるチャンスがある。

特攻の定義や用いられた資料により、出撃回数・出撃機数・帰還機数・戦果といった算定は変わる[271]。「出撃総数約3,300機、敵艦船への命中率11.6%、至近突入5.7%、命中32隻、損傷368隻」とする説[271][272]、「出撃機数2,483機、奏功率16.5%、被害敵艦数358隻」とする説などがある[271][273]。全期間での特攻戦死者数は約4400人、命中率は16.5%だったとする説もある[274]

特攻隊員編集

 
特攻初出撃の日に201空司令代行玉井浅一大佐(後姿)から別杯を受ける特攻隊員、左から関行男、中野磐雄、山下憲行、谷暢夫、塩田寛

志願編集

特攻隊員の選抜については、大西が軍令部に航空特攻の開始を進言した際に総長の及川より「あくまでも本人の自由意志に基づいてやってください。決して命令はしてくださるな」と念を押されたように、原則は本人の志願に基づくものとされていたとする意見もあるが[275]、一方で、最初の神風特攻隊「敷島隊」の指揮官となった関の志願を命令に近い打診だったと考え、初めから志願者のみという原則は徹底されていなかったとする意見もある[276]。志願にあたっては、「親一人、子一人の者」「長男」「妻子のある者」を除外することとしていたが、これも徹底はされていなかった[277]

桜花搭乗員の募集は、フィリピンで特攻が開始される前の1944年8月中旬から始まっており、海軍省の人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いのないものから募集するという方針が出されている[278]台南海軍航空隊では、司令の高橋俊策大佐より、搭乗員に対して「戦局は憂うべき状況にあり、中央でとても効果が高い航空機が開発されているが、それは死を覚悟した攻撃である」との説明があり、「確実に命を落とすが、現状打破にはこの方法しかない、海軍としてはやむを得ない選択であり志願を募る」と告げた。ただし妻帯者、一人っ子、長男はその中から除外された。3日間の猶予を与えられたが、海軍飛行予備学生第13期の鈴木英男大尉は「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込めたら」「我々の時代は大学に進学するのはエリートであり、将来的に国のために尽くしてくれると、世間の人たちから大事にしてもらってきた厚意に報いたい」という気持ちで志願している[279]

関らの成功により特攻志願者は増えたが、フィリピン戦の時点では選抜は原則志願を徹底するように慎重に行われていた。敷島隊の突入の10日足らずのちの1944年11月3日に元山海軍航空隊で特攻の志願者を募ったが、その際司令の藤原喜代間少将は「熟慮のうえで志願するように」と伝え、志願者が司令官公室に出向いてくると「後顧の憂いはないのか」と再度念を押している。志願者が意志を曲げない場合でも「君の希望を中央に連絡する」と即答を避けた。それでも選抜されない場合もあり、海軍飛行予備学生第13期の土方敏夫少尉の場合は、3回志願したがついに選抜されることはなかった[280]

一航艦参謀だった猪口力平によれば、アメリカ軍が沖縄まで侵攻し、菊水作戦で特攻がより大規模になると様相は変わり、一時の感情にかられて志願するものや、また周囲の雰囲気に流されて、同調圧力で志願するものも多くなったという[281]高知海軍航空隊は練習機白菊による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も逼迫した1944年末に横須賀鎮守府より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者が多かったが、なかには、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得ず、やむなく志願した者もいたという[282]筑波海軍航空隊では海軍飛行予備学生の訓練生に志願が呼びかけられたが、特攻に志願しないと飛行機に搭乗することができず、防空壕掘りか、代用燃料の松根油の材料であった松の根掘りに回されるという噂が立ち、自尊心から特攻を志願したものもいた[283]

また、形式的な志願もない特攻出撃を命令されることもあった。芙蓉部隊において、1945年2月17日、ジャンボリー作戦で日本本土を攻撃してきた第58任務部隊に対して、美濃部がかねてより温めてきた「黎明に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に(空母の飛行)甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」[284]という対機動部隊特攻戦術で攻撃するべく、美濃部は出撃する搭乗員らに「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」や「機動部隊を見たらそのままぶち当たれ」と命じて、別れの盃(別盃)を交わしているが[285]。この日出撃した河原政則少尉の記憶では、指揮所に行くと志願をしてもないのに自分の名前が出撃者名簿に記載されていたという。美濃部は別盃が並んだテーブルを前に、河原ら特攻出撃者とひとりひとり握手を交わしたが、出撃した特攻機は敵艦隊を発見できずに引き返した[286]。美濃部は「特攻は戦機に乗じ臨機必死隊を出すべきものにして常用するは戦闘の邪道なり」と考えていた[287][288]

航空隊全体が特攻を命じられることもあり、第二〇五海軍航空隊については103名の搭乗員全員が、「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員に選抜されている[289]。沖縄戦で特攻機の護衛や要撃任務に就いていた第二〇三海軍航空隊戦闘303飛行隊に対しても「特攻隊員を〇人出せ」というような命令が来たが、飛行長の岡嶋清熊少佐が「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念で、容易にはその命令に従わなかった[290]。しかし、特攻が開始された直後のフィリピン戦においては、1944年10月29日に岡嶋が全搭乗員32名を整列させて特攻志願者を募り、全員が志願したためそのなかから3名を選抜している[291]

民間航空機搭乗員を希望して乙種海軍飛行予科練習生第18期生として土浦海軍航空隊に入隊した桑原敬一は、ある日、講堂に集合させられ、参謀より「戦局悪化により特攻隊編成を余儀なくされたので、諸君らの意思を確認したい。各人に用紙を渡すから明日までに特攻志願する場合は所属部隊名と氏名を用紙に書き、志望しない場合は白紙で出すように」と言われた。各隊員は来るべきものが来たという気持ちで、複雑な心境ながら翌日に大多数は志願したが、白紙で提出した隊員も少なくなかった。しかし後日の参謀からの言葉は「諸君の意思は全員熱望であり、ただの一人の白紙もなかった」という意外なものであった。その言葉を聞いた桑原は憤りで頭にカアッと血が上ったと言う。桑原はこの自分の体験により、末期の特攻志願は似たような志願の強制事例が横行していたと考えていた[292]

終戦後に、米国戦略爆撃調査団は特攻に対して詳細な調査を行ったが、海軍兵学校卒の現役士官4名、学徒出陣の海軍飛行予備学生2名に対して、特攻の志願について事情聴取をおこなっている。アメリカ軍調査官ヘラー准将の「特攻は強制であったか、志願であったか?」との質問に対して、兵学校出身の現役士官は「全て志願であった、しかしフィリピンでは戦況によって部隊全部が特攻出撃したこともある。」「内地で募集した際も殆ど全員が熱望し、中には夜中に学生から何度も起こされて自分を第一番にしてもらいたいと言われたこともある。また一人息子だから対象者から外したら、母親から息子を特攻隊員にしてほしいとの嘆願書が来たこともあった」と答えている。また海軍飛行予備学生の2名も「学徒出陣の我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた。我々が身を捧げる事により、日本の必勝を信じ、後輩がよりよい学問を成し得るようにと考えて志願した」と答えている。この事情聴取によって、当初は「アメリカの青年には到底理解できない。生還の道を講ずることなく、国家や天皇の為に自殺しようとする考え方は考える事ができない」と言っていたヘラー准将も、最後には「特攻隊の精神力をやや理解できた。君らのいう事は理に適っており、アメリカ人にも理解できると思う」と話している[293]

多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した米国戦略爆撃調査団の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話[注 11]は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制でありながら、それが既に限界に達していたと分析している[294]

戦死者編集

海軍特攻戦没者数と構成率[295]
階級 戦没者数 構成比率
現役士官/将校現役士官 121名 4.8%
予備学生 648名 25.6%
特務士官准士官下士官 1,762名 69.6%
合計 2,531名 100%
大戦末期の日本海軍航空隊全搭乗員の階級別構成率[296]
階級 1945年4月1日時点 構成比率 1945年7月1日時点 構成比率
現役士官/将校 1,269名 5.3% 1,036名 4.7%
予備学生 5,944名 25.0% 5,530名 24.8%
特務士官・准士官・下士官兵 16,616名 69.7% 15,711名 70.5%
合計 23,829名 100% 22,277名 100%

「身内の、海軍兵学校卒のエリート士官を温存し、学生出身の予備士官や予科練出身の若い下士官兵ばかりが特攻に出された」という意見があるが[297]、特攻戦没者数の海軍兵学校卒の現役士官、学徒出陣などで学生から採用された海軍予備学生、特務士官以下の構成率は、大戦末期の日本海軍全搭乗員の構成率とほぼ同じであり、単なる人数比に過ぎず、母数を無視してあたかも現役士官が優遇されていたように指摘するのは「軍隊=身内をかばう悪しき組織」とした方が、特攻を批判するのに都合がいいからという意見もある[298]

飛行学生(海軍兵学校卒)と飛行予備学生の戦没率の対比[299]
飛行学生 飛行予備学生
人員総数 1,945名 10,778名
戦没者 1,103名 2,464名
内特攻死 108名 652名
内殉職 142名 386名
戦没率 56.7% 22.9%

海軍兵学校卒の航空士官の戦没率は、海軍航空予備学生の航空士官の約2.5倍に達している。戦争の激化に伴い、士官の消耗が激しくなったことから、海軍兵学校も55期~65期までの100名~150名であった卒業生の任官を、大幅に増加させる必要に迫られた。66期に219名と200名を突破したあとも年々増加し、70期では432名、そして終戦直前の1945年3月に卒業した74期は1,024名の大量任官となった。しかし、海軍兵学校の現役士官の戦没率は非常に高く、海兵68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%、71期は581名中329名の56.6%、72期は625名中の337名の53.9%と高水準となっており [300][301]、特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の戦没率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名戦没で戦没率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、艦爆搭乗の士官の13名に至っては全員戦没している[302]

海軍兵学校卒の航空士官の補充が到底追いつかなくなった海軍は、海軍飛行予備学生を大量に航空士官として採用せざるを得ず、1943年9月に従来の、大学・旧制高等学校旧制専門学校卒業見込生という基準を緩和して、旧制師範学校の卒業見込生も有資格者とした。飛行予備学生の人気は高く、50,000名以上の志願者があったが、そのうち約1割の4,726名が選抜されて第13期生として採用された[303]。第13期生は10か月という促成訓練で最前線に送られ、特攻が開始される前に1,607名がすでに戦死している[304]。その後も飛行予備学生は、終戦まで第14期、第一期予備生徒と大量に採用され、沖縄戦開始時点の4月1日時点で、日本海軍の航空士官で海軍飛行予備学生の士官が占める割合は82.4%にも達していた[305]。海軍省に対し、ある航空隊の司令官が「今や、私の航空隊の搭乗員の主力は、第13期予備学生の出身者で占められている。彼らなしでは戦えない。彼らを大量にされたことはまことに有意義なことであった」と報告した通り、日本海軍航空士官の主力は、学徒の海軍飛行予備学生の士官と言っても過言ではない状況となっていたが[306]、それでも、飛行予備学生の大量採用に踏み切った以降の卒業生となる13期、14期、予備生徒1期で合計8,673名中戦没者は2,192名、戦没率25.2%と飛行予備学生全体の戦没率より高めながら、海軍兵学校卒の航空士官の戦没率の半分以下であった[307]

しかし、筑波海軍航空隊のように、海軍兵学校卒の航空士官の教官多数が所属していたのに、特攻隊を編成するにあたって、一人も海軍兵学校卒の航空士官が特攻に志願しなかったこともあった。これは、訓練航空隊である筑波海軍航空隊は、戦闘機乗りは戦闘機で敵機とわたりあうのが任務という信念が強く、敵艦に体当たりするだけの特攻には反対という機運が航空隊全体に強かったためとする意見もあるが、筑波海軍航空隊で特攻志願して、第一筑波隊から第五筑波隊として選抜された64名の飛行予備学生の中には不思議に思うものもいたという[308]。その後、沖縄戦の戦局が緊迫すると、2名の海軍兵学校卒の航空士官が特攻に志願して戦没している[309]。筑波海軍航空隊の例のように「飛行予備学生出は海兵出の弾よけであった」など飛行予備学生が不満や不信を抱くことはあった。長岡高等工業学校(現新潟大学)から飛行予備学生となった陰山慶一中尉は、当時を振り返って「われわれを立派な海鷲の士官として育ててくれた上官、教官には深く感謝し、ともに闘ってきたコレスの(海軍兵学校)72期、79期の飛行学生には、深い友情を覚える」と海軍兵学校卒の航空士官に対してわだかまりはないと述べる者もいる[310]

名称と発表編集

 
関行男大尉の特攻を報じる『写真週報

「神風特別攻撃隊」の名称は、命名者の猪口力平中佐によれば、郷里の道場「神風(しんぷう)流」から取ったものである[311]。猪口によれば、大西中将が特攻隊を提案した10月19日の晩、201空副長玉井浅一中佐と相談して「神風を吹かせなければならん」と言って決め、大西中将に採用されたものであるという[312]

しかし、大西瀧治郎中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日には海軍報道班員に対して「活躍ぶりを内地に報道してほしい」と依頼していた[313]。また、海軍省による発表の準備も進められており、現場の大西中将に発表方法を相談するために、軍令部から大海機密第261917番電「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等)ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」(1944年10月13日起案、10月26日発信)が打電された。13日に起案された電文に「神風攻撃隊」という名前が記載されているので、大西が東京を出発する前に中央と名前を打ち合わせていたとも言われる。電文の発信は軍令部第一部長中沢佑少将、起案は軍令部航空部員源田実中佐が担当した。電文には海軍省の人事局主務者による「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」という意見が付されている[314]。特攻隊の編成命令を起案した門司親徳(大西の副官)によれば、起案日は誤記で23日ではないかという[315]。源田は、日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している[316]。この電文を特攻の指示、命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。

この神風特攻隊の発表は、1944年10月28日の「海軍省公表」で行われた。この公表は敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した菊水隊、大和隊の戦果が同時に発表されなかった。この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣米内光政大将と軍令部総長及川古志郎によるものであり、特攻のインパクトのために数より(海軍兵学校出身者による特攻という)質を重視した判断という指摘もある[317]。また、1944年10月初旬から既に新聞・ラジオで「神風」という言葉が頻出するようになっていた[318]。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞各紙による海軍省公表、特攻第一号・関中佐の記事が最初だった[319]。海軍省公表とともに詳しい記事が各紙で掲載された。

海軍省公表(昭和十九年十月二十八日十五時)神風特別攻撃隊敷島隊員に関し、聯合艦隊司令長官は左の通全軍に布告せり。
布告
戦闘〇〇〇飛行隊分隊長 海軍大尉 関 行男
戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍一等飛行兵曹 中野磐雄
戦闘〇〇〇飛行隊付 同 谷 暢夫
同 海軍飛行兵長 永峰 肇
戦闘〇〇〇飛行隊付 海軍上等飛行兵 大黒繁男
神風特別攻撃隊敷島隊員として昭和十九年十月二十五日〇〇時「スルアン」島の〇〇度〇〇浬に於て中型航空母艦四隻を基幹とする敵艦の一群を補足するや、
必死必中の体当り攻撃を以て航空母艦一隻撃沈同一隻炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収める悠久の大義に殉ず、忠烈万世に燦たり。
昭和十九年十月二十八日 聯合艦隊司令長官 豊田副武

神風特攻隊の一覧編集

注釈編集

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  1. ^ 戦闘901航空隊飛行隊長で、のちに芙蓉部隊の指揮官として有名となった美濃部正少佐が、自分が偵察飛行を行ったので誤報であることが判明したと戦後に出版した著書などで主張しているが、事件後まもなく、ダバオに出向き事件の調査をした軍令部参謀の奥宮正武中佐も、誤報は玉井の偵察飛行で判明したことや「陸・海軍を合わせて、大ぜいの参謀がいるのだから、誰か高いところに上がって、状況を確かめればよかった。机の上の作戦とはそんなものだよ。」などの玉井の愚痴も聞いており、美濃部の主張の裏付けはない
  2. ^ このコンセプトは米内光政海軍大臣によるものと言われる[52]
  3. ^ 甲飛10期生は、神風特攻隊の創始者を大西ではなく玉井と見ている。その理由として、「編成は現場を熟知している玉井によって既に作られていたような手早い段取り、組み合わせだったこと[61]」「玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早い段階から体当たり攻撃を提唱し、甲飛10期生に『もう特攻しかない』『必ず特攻の機会をやる』と話していたこと」を挙げている[62]
  4. ^ 船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約13にあたる
  5. ^ シュブリックに突入した機体の機種は公式記録上は不明であるが、シュブリックが特攻された時間、5月29日0:13に沖縄に突入した航空機は、28日19:13から夜間出撃した第三次白菊隊11機以外になく(白菊は沖縄到達まで約5時間の飛行時間)白菊の戦果と推定される
  6. ^ アメリカ本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦。
  7. ^ 損傷艦は延べ数
  8. ^ アメリカ海軍・イギリス軍・ソ連軍各1隻
  9. ^ 有効至近命中はアメリカ軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上。
  10. ^ 合計が合わないが原資料のまま。
  11. ^ 当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失っていると信じられていた。

脚注編集

  1. ^ 吉田 2017, p. 「特攻隊」.
  2. ^ a b “連載『昭和時代』 第3部 戦前・戦中期(1926〜44年) 第48回「特攻・玉砕」”. 読売新聞: p. 18. (2014年2月15日) 
  3. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社 159-160頁「第一聯合基地航空部隊機密第一号 神風特別攻撃隊の編成ならびに同隊員の取扱に関する件」
  4. ^ 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社280-281頁
  5. ^ 上野 2017, p. 「神風」.
  6. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社 159-160頁「第一聯合基地航空部隊機密第一号 神風特別攻撃隊の編成ならびに同隊員の取扱に関する件」
  7. ^ 千早正隆ほか『日本海軍の功罪 五人の佐官が語る歴史の教訓』プレジデント社280-281頁
  8. ^ 戦史叢書17巻 沖縄方面海軍作戦 136頁
  9. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 324頁
  10. ^ a b c 城英一郎日記4-5頁
  11. ^ a b 城英一郎日記5-6頁
  12. ^ a b c 城英一郎日記281-283頁「(昭和18年)六月五日(土)曇」
  13. ^ 米内光政、国立国会図書館デジタルコレクション 「周到なる準備」 『常在戦場』 大新社、1943年12月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1058250/35 国立国会図書館デジタルコレクション コマ36-37(原本59-60頁)「一日元帥と會食した時、飛行機の體當り戰術なるものを私は初めて聞いた。"君は僕を亂暴な男と思ふだらう。しかし考へて見給へ、艦長は艦と運命を共にする、飛行機の操縦士が機と運命を共にするのは當然ぢやないか、飛行機は軍艦に比べて小さいが、操縦士と艦長とは全く同じだ、僕は今度日本に歸つたら、もう一度是非航空をやる。さうして僕が海軍にゐる以上は、飛行機の體當り戰術は誰が何と云つても止めないよ、君見てゐ給へ"と云はれた。眞珠灣攻撃の第一報を見た時も、私は今更のやうに元帥の姿をはつきり目の前に見た」
  14. ^ 渡辺幾治郎 『史伝山本元帥』 千倉書房、1944年8月http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908682/104 コマ105(原本190-191頁)「皇軍の伝統的精神」
  15. ^ a b 戦史叢書66 1973, pp. 300-301B-29対応策
  16. ^ 戦史叢書66 1973, p. 371山本聯合艦隊司令長官の戦死
  17. ^ 写真週報274号』 アジア歴史資料センター Ref.A06031086900 p.10「一億山本元帥の後につヾかん」/『週報第345号』 アジア歴史資料センター Ref.A06031050700 p.9「山本司令長官を悼む千古不滅の武勲」
  18. ^ a b c d e f 城英一郎日記8-9頁
  19. ^ 城英一郎日記288頁「(昭和18年)六月二二日(半晴)当直」
  20. ^ 城英一郎日記290-291頁「(昭和18年)六月二八日(月)曇 小雨 当直」
  21. ^ 城英一郎日記292頁「(昭和18年)六月二九日(火)半晴」
  22. ^ 特攻作戦特質pp.5-6
  23. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 322-324頁
  24. ^ a b 城英一郎日記294頁「(昭和18年)七月二日(金)半晴、時々雨」
  25. ^ 城英一郎日記292-293頁「(昭和18年)六月三〇日(水)曇」
  26. ^ 城英一郎日記300頁「(昭和18年)七月一七日(土)晴 当直」
  27. ^ 城英一郎日記302頁「(昭和18年)七月二二日(木)晴(略)帰途、航本〔航空本部〕に立寄り、高橋課長と特空〔特殊航空隊〕を語る。鮫島中将宅を訪ふ。」
  28. ^ a b 城英一郎日記10-11頁
  29. ^ デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上』時事通信社122頁
  30. ^ 秦郁彦『昭和史の謎を追う下』文春文庫509頁
  31. ^ 奥宮正武『海軍特別攻撃隊』朝日ソノラマ45頁
  32. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』26-27頁、戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁
  33. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 346頁
  34. ^ 猪口 & 中島 1951, 電子版, 位置No.320
  35. ^ 猪口 & 中島 1951, 電子版, 位置No.330
  36. ^ 石川真理子 2016, 電子版, 位置No.1286
  37. ^ 奥宮正武 1996, 電子版, 位置No.912
  38. ^ 冨永 & 安延 1972, p. 42
  39. ^ 冨永 & 安延 1972, p. 43
  40. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502頁
  41. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』p224
  42. ^ 丸『特攻の記録』光人社NF文庫13-16頁
  43. ^ 戦史叢書17沖縄方面海軍作戦 705頁
  44. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 109頁、森史朗『敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯 (下)』文春文庫89頁
  45. ^ 豊田副武 2017, 電子版, 位置No.2203
  46. ^ ウォーナー 1982a, p. 155
  47. ^ 冨永 & 安延 1972, p. 48
  48. ^ ウォーナー 1982a, p. 155
  49. ^ 戦史叢書17 1968, p. 706
  50. ^ 戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 502-504頁
  51. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』63頁、神立尚紀『戦士の肖像』文春ネスコp197-199
  52. ^ 大野芳『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男 追跡ドキュメント消された戦史 「最初の特攻」が“正史”から抹殺された謎を追う』サンケイ出版1980年303-304頁
  53. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111
  54. ^ 金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫37-41頁
  55. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111
  56. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p111、森史朗『特攻とは何か』文春新書75-82頁
  57. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 112-113
  58. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p113
  59. ^ 文芸春秋編『完本太平洋戦争下』124頁
  60. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書87-88頁
  61. ^ 御田重宝『特攻』講談社23頁
  62. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書84-85頁
  63. ^ 丸『特攻の記録』光人社NF文庫95-96頁
  64. ^ 戦史叢書56海軍捷号作戦(2)フィリピン沖海戦 p112
  65. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書105-107頁
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関連項目編集