ノート:三・一運動/過去ログ1

最新のコメント:9 年前 | トピック:保護解除申請 | 投稿者:海ボチャン
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評価/「弾圧」か「鎮圧」か

朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』三省堂、1974年、316-318頁からの引用部分は、韓国国内での評価の紹介なのではないでしょうか? "韓国国内では"という記述は以前からあったようですが。--59.85.120.68 2006年12月2日 (土) 15:47 (UTC)

「韓国国内では」という文言をだれが何を根拠に付け加えたのか不明なので、現時点で断言は出来ません。私は読んだ事がないですし、今手許に本もありませんのであまり突っ込んだ事を言えませんが、『朝鮮の歴史』を書いているのは日本の朝鮮史学者のようですので彼らがこれらの評価を支持している、あるいは、特段の反論を加えていない限り、日本でもそのような評価を受容する学者がいると解釈できます。そうであれば、「韓国国内での評価」とするよりはただ「評価」とする方が適切でしょう。losifさんは本をお読みになっているようなので、彼/彼女に伺うのが早いような気がします。--Pugnari 2006年12月2日 (土) 15:55 (UTC)
その解釈はあまりに乱暴であると思います。見方の紹介として論評を加えずに記述することは多分にあり得ることです。--59.85.120.68 2006年12月2日 (土) 16:02 (UTC)
まあ、乱暴なのかもしれません。ですが、「韓国国内では」と付けなければならない理由も私には見当たりません。当事国である韓日以外の学者がどう評価しているのか調べてないのでわかりませんが、少なくともあえてこの表現を付け加えると、そういう評価を下しているのが韓国人だけだ、あるいは、この事件に関する国際的な歴史学会、あるいは朝鮮史学の学者の見解の趨勢とは異なる評価であるが、という意味を含意させ(ようとし)ているようにも見えます(それ自体が私のバイアスかもしれませんが)。何かと論争になりやすい事柄に関する記事については、ある程度妥協的な言葉選びも必要です。ともあれ、私もIP氏も推論の域を出ていないようですので、調査が必要ですね。時間とチャンスがあったら文献を探ってからまたお話させていただきたいと思います。--Pugnari 2006年12月2日 (土) 16:16 (UTC)
出典の記載はlosifさんによるもので、その際の編集は"韓国国内では"という記述を追認する形で行われています[1]。「出典から逸脱した内容にしないでください。言葉選びも出典に準拠。韓国での評価ではなく日本の朝鮮史研究者たちによる記述です。」との要約欄でのコメントとは矛盾します。実際にこのような評価を韓国人以外が語ることは殆どないので、"韓国国内では"との記述は妥当であるというよりも必要不可欠だと思いますが、これは現段階では私の個人的な見解であり、また編集合戦の惹起を招く恐れも感じられるので、今後の課題とします。--59.85.120.68 2006年12月2日 (土) 16:49 (UTC)

▼そもそも本棚というものを持っていないので参考文献がすぐに出てくるということがないのですが、奇跡的に出てきました。で、とんでもない間違いをしでかしていました。朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』は総330頁であり「316-318頁」というのは文献解題の箇所にあたります。百の位を1つ間違えておりまして、三・一独立運動への弾圧や五・四運動に関する言及は「215-217頁」にあります。謹んでお詫び申し上げます。 ▼もちろんですが、同書はいわゆる「教科書」に近いものです(私はWikipediaではもっぱら「教科書」を引いています。複数の研究者の批判にさらされざるを得ないだろう、最大公約数を書いているだろうという期待からです)。同書を挙げたときに「古い本を!」という批判はあるだろうと思いました。しかし、内容が逸脱するのであれば出典掲示も削るべきであると思います。 ▼「弾圧」という語も「五・四運動」に関する言及も、同書の地の文(解説)として登場しており、韓国人による評価であるとか韓国国内における評価であるなどという記述はありません。私が同書を挙げたとき(すごく昔なので記憶にありませんが)「韓国国内では」という限定がついていたとは、まったく気づいておらず、これも私のミスです。▼また、同書のみならずすぐ思い出せるあたりで梶村秀樹氏の諸著作も同じ評価をしていたはずです(講談社現代新書『朝鮮史』)。グレゴリー・ヘンダーソンは朝鮮を占領した米軍通訳にして朝鮮政治研究の先駆者で現代朝鮮政治社会に朝鮮王朝時代の構造が与えた影響を強調した人で、朝鮮研究をやる人がだいたい最初に読むものだそうですが、日本の植民地統治を世界の植民地の中でも特別に苛烈なものだという認識に基づいて(『朝鮮の政治社会』75頁)、五・四運動に言及はしていませんが三・一独立運動がキリスト教徒を媒介にアジアの民族主義勃興に影響したと評価しています。ただし「いずれも古い本だろう。いつの時代の認識だ。そういうことを言うのをその時代のトレンドだろう」という批判はまぬかれません。こういうときには極めつけとして放送大学教科書に頼るのですが(執筆者も多いし文科省も気合入れて作ったから……と信じているから)部屋が散らかっていて見つけられません。▼いずれにしても韓国人以外による記述例は少なくとも上記のものがあり、これ以外にも見つけられると思います。「実際にこのような評価を韓国人以外が語ることは殆どない」という59.85.120.68さんの認識は誤りだと思います。それ以前に歴史学者であるかぎり、タテマエとしては出身民族によって認識・把握がくっきり分かれたりしていてはいけないわけで、歴史家が書くものに対して「そのように書くのは韓国人に違いない」と表明なさるのはいかがなものでしょうか。朝史研編1974が正しいかどうか以前に、59.85.120.68さんの偏見を吐露してしまうことになると思うのですが……。--Iosif 2006年12月2日 (土) 17:51 (UTC)

なるほど、現在の主流がどうなのかは不明ということですか。とりあえず現状では以前の版が妥当ということになると思うので、差し戻しました。「弾圧」という語には不当性をアピールする政治的意味合いを含むので、主観的にすぎ、中立性の観点からすると問題があるので「鎮圧」とします。「苛烈な」も一方的な表現で、同様に問題です。評価の項の作成も、内容整理のために必要です。ちなみに、「教科書」であるというのは個人的な見解以上のものではないと思います。--59.85.120.68 2006年12月2日 (土) 18:41 (UTC)
古かろうと、とりあえずIosif氏は典拠を示して加筆しているので、59.85.120.68氏が独自の判断・主観でリバートするのは正しくないと思われます。リバートするなら上に挙げた研究に対する批判論文・研究を挙げて現在では支持されていないと言う根拠を示してからすべきでしょう。履歴を見るとプロパガンダとか書いていますが、それはどの本に依っているのですか。それをまず示してください。今後典拠のないリバートは慎んでください。--218.221.0.221 2006年12月2日 (土) 18:53 (UTC)
編集合戦を避けるためにも、冷静になって下さい。弾圧とするか鎮圧とするかにまでソースが必要なのか疑問です。鎮圧が不当であるとする理由をお教え下さい。--59.85.120.68 2006年12月2日 (土) 18:57 (UTC)
根拠を示さずリバートされているのも、最初に「弾圧」を「鎮圧」としたのも59.85.120.68氏ですよ。先に何故「弾圧」では中立性を保てないのか示す必要があるでしょう。このノートを見る限りソースを提示されていませんが、何故でしょうか。プロパガンダ等のコメントの理由も教えてください。Wikipediaの中立性とは中立的な観点に明記してあるように、このルールは検証可能性 (Verifiability)及び独自の研究を含めないというルールと密接に関係があります。議論があるとき、それらを提示できない加筆は受け入れられません。その点よくお考えください。--218.221.0.221 2006年12月2日 (土) 19:11 (UTC)
「弾圧」、「苛烈な」などが一方の立場に偏した主観的な印象に基づく表現であることについて同意されないということですか?また、評価のパートが不要であるという理由もお示し下さい。プロパガンダ云々は別の項目でのことなのでここではコメントしません。--59.85.120.68 2006年12月2日 (土) 19:21 (UTC)

インデント戻します。Iosif氏の編集は、典拠を挙げて研究者の使用例を示しておられる以上主観的な印象に基づくとは思いません。むしろそれを典拠も挙げないで編集するほうが主観そのものでしょう。そうで無いというので有れば、依拠する著作を挙げるしか有りません。それを示すことができないので有れば、リバートしないでください。59.85.120.68氏の意見とは対立する側が典拠を挙げているのに、何故そちらは挙げないのですか。まずはこちらの質問に答えてください。今のまま根拠を示されないのはフェアとは言えません。もし再度典拠を示していただけないのでしたら、59.85.120.68氏の主観による編集と判断せざるを得ません。--218.221.0.221 2006年12月2日 (土) 19:35 (UTC)

Wikiにおけるソース第一主義にしても、著作権侵害の回避のため固有的記述を求める以上、一般的な言語コードの共有を前提として成り立っているものと理解しています。こればかりは譲りようがありません。「熱狂のうちに」「瞬く間に」といった表現の修正には問題がないと判断されているようですが、「弾圧」「苛烈な」とはなにかが違うのでしょうか?--59.85.120.68 2006年12月2日 (土) 19:44 (UTC)
ですから先に変更したのは59.85.120.68氏ですよね。中立性を理由にしていましたが、何をもって中立とするかの根拠を示して欲しいと言っているのです。中立性が検証可能性と密接にかかわっていることはすでに述べました。「著作権侵害の回避のため固有的記述を求める以上、一般的な言語コードの共有を前提として成り立っているものと理解しています」という意見からすると、「弾圧」「苛烈な」とそちらの「鎮圧」等とは同意味だと思われているのですか。もしそうであれば、中立性云々とはまた編集動機が異なりますよね。中立性を損なっているのに、同じ意味ということは無いでしょうから。
質問に質問で返さず、こちらの問いに明解に答えて欲しいですね。何故文章を変えたのか? → 中立性を損なっているから → では何を典拠に中立性を損ねていると主張しているのか。ここで議論はストップしています。典拠を示されないからです。どちらにしても典拠はお持ちではないということは理解しました。一方が典拠を出しているのに、もう一方がなにも出せないので有れば、誰も説得できないでしょう。あなたが妥協せずとも、投票で決定です。--218.221.0.221 2006年12月2日 (土) 20:07 (UTC)
各教科書における三一独立運動に関する記述が列挙されています[2]。「鎮圧」の使用例も無論あります。これは「教科書のようなもの」ではなく文字通り教科書です。--59.85.120.68 2006年12月2日 (土) 20:16 (UTC)
「苛烈な弾圧」と「鎮圧」という表現のもたらす印象の差異、政治的偏向の度合いの高低を認識し得るのが、"一般的な言語コード"です。ちなみにどの教科書にも「苛烈な弾圧」との表現は見当たりません。--59.85.120.68 2006年12月2日 (土) 20:39 (UTC)
日本の文部省検定の教科書は日本政府文部科学省POVですから、それを根拠に「政治的偏向」を云々するのは適切ではありませんね。私なりのNPOV解釈を加えておくと、広辞苑によれば「鎮圧」は「(1)しずめおさえつけること。暴動などを威圧・沈静する事」、「弾圧」は「(2)支配階級が強権を使って被支配階級に妨害・圧迫を加える事」だそうです。「鎮圧」が「暴動を鎮圧」という使われ方をすることから見えるように、しばしばその制圧行動が政治的に正当である事を含意させて用いられ、弾圧はむしろその逆なのでしょう。ここで「鎮圧」という言葉を用いれば、朝鮮総督府による植民地支配が正当なもので、その正当な支配に対する暴動を鎮圧した、という意味にとれるでしょう。しかし、日本による朝鮮の植民地化が正当であったという見解は日本政府の公式見解とも異なり、また当然韓国政府や北朝鮮政府もそうは見なしていないでしょうから、「鎮圧」よりは「弾圧」の方がNPOVに近いと思われます(日本の朝鮮半島、満州の武力占領は「進出」ではなく「侵略」であるというのと同様に)。その一方で、「苛烈な弾圧」において「苛烈」という言葉は歴史的事実に対して過剰に評価を加えることになりえますので、不要と考えます。したがって、問題の箇所は「武力による弾圧が行われた」ぐらいにするのが妥当だと思います。
ちなみに、この手の政治的信条によっていくつかの異なる解釈がある、もっといえば、ある特定の解釈にこだわるがゆえに摩擦を生むような出来事に関しては、出典は1つだけでは不十分で、理想を言えば、様々な解釈を加えた2〜3の出典に準拠すべきだとは思います(ただ、その出典の選び方が偏っては仕方がないのですが)。中立性は非常に難しい問題ですね。--Pugnari 2006年12月3日 (日) 03:51 (UTC)
Pugnariさんの発言に気づかず、古い版を表示したままのブラウザーから編集を加えてしまうところでした。長々と書いたのですが、内容はPugunariさんとほぼ同じです。(1)「鎮圧」は「鎮圧」で統治者側から見た用語であり、運動を不当な暴動とする価値判断をはらむ。(2)とはいえ「苛烈な」という形容詞も不要だ……というものです。ちなみに、記憶に頼ってでしかありませんが、放送大学講座では伊藤博文時代についての解説で(これは講義=音声のほう)「過酷な弾圧を加えた」という言葉を使っていました。さっさとこっちの教材を見つけなきゃいけないんですが……。▼「教科書」という言葉を巡って誤解を招いたかもしれません。まず、「文字通り教科書」であるということに、どれくらい権威を認めるかについては少し議論の余地があると思っています。私は「教科書(のようなもの)」という言葉を使いましたが、両者の違いは基本的に、中学生・高校生向けか、大学生向けかという違いです。前者は常に論争にさらされるのでそうとうの権威を認めるべきだと思っていますが、しばしば文部省POVが入ります。無論、後者にはその他諸々のPOVが入ります。しかし、監視されている量・つっこまれやすさという点で信頼しようという発想からしばしば「教科書」を頼りにしようと考えることが自分には多いです。で、何を教科書と呼んでいるかなのですが、自分は文科省の検定を通ったものを指しているつもりはありません。使われ方・用途と、期待されている役割で、そのように呼んでいます。山川の現代史シリーズなんかは、文部省が干渉する教科書ではありませんが、期待されている役割も用途も教科書そのもので(まあ、それを入門書と呼んでも同じですが)、執筆者陣はいわゆる「教科書執筆者」に名を連ねている/連ねやすい人々で(これはつまり他の諸々の研究に目配りして初学者向けに読めるよう配慮している/それを使命として書かれている/そういう仕事を得意としているか任されるべき人とみなされているという意味です)、それなりの権威を認めるべきだと思っています。私が「教科書」という言葉を使って権威を認めた根拠は、文部省が裏書きしているからではなく、同業者たち(研究者たち)が「教科書」として認めているという実績のほうでしかありません。▼難しいのは朝鮮現代史については出版予定になったままのものはあるのですが(山川『朝鮮現代史』なんかずっと出版予定ですが著者が生きているうちに出るのかしらん)、「これぞ定本」と言われるようなものがあまりに長い間出版されていないことだと思っています。--Iosif 2006年12月3日 (日) 04:40 (UTC)
59.85.120.68さんに忠言……と言うとエラそうですが、ちょっと意見申し上げます。ご自身は「実際にこのような評価を韓国人以外が語ることは殆どない」と断言なさいました。これに対して反証が出るなり、ご自身の誤っていた認識については一切言及なさらないまま、「中立性の観点からすると問題があるので「鎮圧」とします」と、ご自分の判断を基に「宣言」に近いことを書いてしまうのはいかがなものか。このような態度はさまざまな疑念を招きます。……と言うのも偉そうだ、「私が」不審に思うと言ったほうがいいのかもしれません。私は「韓国人以外が語ることは殆どない」という文言を読んであわてて「そんなわけはないでしょう」と書いたつもりだったのです。「Aと主張するのは韓国人に違いない」という発言は「Bなどという思想の持ち主はユダヤ人に違いない」「日本人ならCと言うはずだ」という発想とほぼイコールです。そういう発想をお持ちではないかという不信感を持ちながら対話するという不毛なことにもなりかねません。一言あってしかるべきかと愚考します。--Iosif 2006年12月3日 (日) 04:40 (UTC)typo修正。--Iosif 2006年12月3日 (日) 04:51 (UTC)
語句の修正、再修正。評価と結果の分割を行いました。私が訴えているのは、一般的な言語感覚、コモンセンスに依拠するべき、ということです。これは検証不可能だなどと退けられるものではありません。前述の通り、そもそもWiki存立の大前提となっているものであるからです。また、私がどのような個人的見解を持とうとも、それが記述上具体的に反映され著しい障害とならない限り、何ら問題はありません。--59.86.158.250 2006年12月3日 (日) 06:19 (UTC)
論点がずれてます。一般的な言語感覚に準拠すれば、「鎮圧」は武力制圧行動が正当なものであったとの意味を含意しているのではないかとわたしもlosifさんも指摘しているわけです。その点についての明確な返答をせずに差し戻しては対話が成り立ちません。--Pugnari 2006年12月3日 (日) 06:37 (UTC)
一般的な言語感覚に依拠すれば、「弾圧」は、この場合無論明確に運動参加者の側に立ったものと見なされるわけです。しかも記述者による政治的アピールを含んでいるとの印象を与えています。「鎮圧」にしても党派性が認められるという見解もあり得るわけですが、ではどちらがより党派的でなく、中立的であるのか、どちらがより問題でないのか、ということです。--59.86.158.250 2006年12月3日 (日) 06:49 (UTC)

(インデント戻し)どちらも党派的に使用されうる言葉であると指摘しています。それよりも、日本政府ですら村山談話等で公式に、朝鮮半島および大陸に侵略し、損害を与えた事に明確に言及している点などをかんがみて、朝鮮半島の人々の受けた損害という観点を守って「弾圧」を選択すべきだと主張しています。わたしには「鎮圧」は中立的どころか、侵略占領行為の間接的な正当化に聞こえる、と明確に表明しておきます。--Pugnari 2006年12月3日 (日) 07:16 (UTC)

「弾圧」というのは明らかに当局の対応の不当性を前提とした表現です。既に記述がありますが、運動参加者が物的損害を引き起こすなど「暴徒化」している点に留意するべきでしょう。デモが正当であれ不当であれ、「鎮める」のは不自然な対応ではありません。それから、政治家の言葉はそれこそ"党派的"な言葉です。というか朝鮮半島を侵略し占領した歴史的事実は存在しません。完全な誤解です。村山談話ですら、朝鮮半島について「侵略」したなどと言っていないのに・・・。困ったものです。--59.86.158.250 2006年12月3日 (日) 07:30 (UTC)
私にはPugnariさんが、中立的である必要はなく、「正義」に照らして、運動参加者の側に立ち記述をするべきなのだと主張しているように感じられます。これは恐ろしい独善で、到底容認できません。--59.86.158.250 2006年12月3日 (日) 07:37 (UTC)
それも話のすり替えです。私は「正義」なんて一言も言っていません。村山談話[3]では明確に「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」と述べていますよ。まさか、「アジア諸国」のなかに朝鮮半島が含まれていないなどとまさか主張していらっしゃるわけではないですよね?この部分は、新聞、テレビなど多くのメディアで繰り返し言及されていますが、これは、外務省のウェブサイトにも記載されているように、村山氏個人の信条に基づいた発言ではなく、日本政府を代表した内閣総理大臣の談話なのですから、公式のものであり、党派的などと片づけられるものではありません。
わたしは、「鎮圧」という言葉でもって59.86.158.250さんが朝鮮半島侵略の歴史を間接的に隠ぺいしようとしている立場に反対しているのです。これは、正確性の問題です。侵略者が武力でもって死者までも出して「鎮圧」する行動の事を弾圧と呼ぶのではないですか。それを単に「鎮圧」とするのは中立的ではなく、侵略を正当化する側に立った記述です。コンテクスト上、武力制圧で被害を被った側の視点が含まれていれば「鎮圧」という単語を選択しても良いのかもしれませんが、IP氏の「朝鮮半島を侵略し占領した歴史的事実は存在しません」との発言によって「弾圧」を「鎮圧」に書き換えた編集上の思想的根拠が明らかになったのでこれはあきらかな侵略正当化POVの編集だと指摘できます。--Pugnari 2006年12月3日 (日) 07:57 (UTC)
村山談話については、朝鮮半島に関し「植民地支配」とされているの言うのが一般的な解釈だと思いますが、違うのですか?朝鮮半島を侵略したというのは一般的な言説とは思えません。Wikiは民主制を採らないそうですが、談話について、公的な合意を得た、民主的正統性を有するものだと主張される場合、「鎮圧」の語が用いられた教科書もまた同様の性質を備えるものであるということに留意するべきです。Pugnariさんは「武力制圧」という語を使っていますが、Pugnariさんのいう「ある程度妥協的な言葉選び」として一考の余地があるかもしれません。--59.86.158.250 2006年12月3日 (日) 08:14 (UTC)
五四運動の記事からたどり着きました。こちらではもう決着を見てるのかもしれませんが、ノート:五四運動に書きましたように、この運動が三一運動の影響を受けていることは常識と化しており、それを批判する研究を管見ながら見たこと有りません。もしこの点についてそうでないという加筆あるいは削除をするなら、その根拠をまず示してください。すでに理解もしくは了解されているのであればスルーしてもらって結構です。なお小島晋治東大教授は三一運動について「弾圧」ということばを使用しています。正直血道をあげてリバートするほどではないと感じますが。個人的には「弾圧」で何ら問題ないと感じます。--Tears for Asia 2006年12月3日 (日) 14:31 (UTC)
あちらのノートに記しました。教科書では「鎮圧」が用いられています。「鎮圧」で何ら問題ないと感じます。--59.85.119.17 2006年12月3日 (日) 15:11 (UTC)
朝鮮史研究会編1974を挙げているのは、五・四運動への影響に関して典拠としているだけではなく「弾圧」という表現の典拠でもあります。これを分断するのは、よろしくないと思います。「評価」に分けるなら両方に挙げるかする必要があります。また、「弾圧」の語で問題があるとするのも、朝鮮史研究者からはまず聞いたことがありませんし、どうも植民地支配正当化POVが根底にあっての主張に思えます。--Iosif 2006年12月3日 (日) 18:03 (UTC)
59.86.158.250さんが「一般的な言語感覚」といくら連呼されても、それは59.86.158.250さんの「言語感覚」に過ぎません。質問にはお答えにならず「一般的な言語感覚」の一点張りで編集を強行なさっていますが、私も(おそらくPugunariさんも)「一般的な言語感覚」「一般的な言語コード」(と信じるもの)に照らしてさえ「鎮圧」とはふさわしくないと表明しているわけですから、これでは対話の糸口がありません。▼そのうえ59.86.158.250さんは「このような評価を韓国人以外が語ることは殆どない」という誤った決め付けを書いたことに関して未だに言及・説明なさっていません。▼ぶっちゃけて言うと、「朝鮮半島を侵略し占領した歴史的事実は存在しません」との発言によって「弾圧」を「鎮圧」に書き換えた編集上の思想的根拠(Pugunariさん)」がココでも存在しているのではないかと疑われているのだと思います。ご自覚ください。--Iosif 2006年12月3日 (日) 18:38 (UTC)
堤岩里事件についての解説を本文から脚注部に移しました。理由1:まさかとは思うのですが挑発だと受け止められる可能性があるかもしれないと考えたためです。もちろん、そのような意図はありません。理由2:堤岩里事件についてどのように記載すべきか話し合う場所は項目「堤岩里事件」であろうと考えたためです。ただし事件の概要は記載すべきだと思います。三一運動が同時代の海外で話題になる契機の一つとして重要なので。--Iosif 2006年12月4日 (月) 04:48 (UTC)
村山談話を曲解したり、当時の日本政府を「侵略者」と表現するPugnariさんに同調するなど、「鎮圧」を「弾圧」と書き換えた思想的根拠が明らかになった以上、偏狭な朝鮮民族主義史観を正当化する編集であると指摘せざるを得ません・・・とでも言っておいた方ががいいのでしょうか。あまり気を悪くなさらないで下さい。「鎮圧」か「弾圧」か、執筆に際し、正確性公平性に鑑み妥当な表現の追求がなされるところの各種教科書でも別れています。典拠がある以上どちらにも分があります。投票に頼るのは望ましいことではないのでしょうが、必要なことかもしれません。集会や言論、出版に一定の自由を与える〜の出典は東京書籍の歴史教科書です。現在の記述にはありませんが、堤岩里事件については、概要であれなんであれそちらの項目に記述するべきです。項目間の有機的な連続を可能にするWikiのシステムを最大限に利用しましょう。--59.85.116.65 2006年12月4日 (月) 08:13 (UTC)
>偏狭な朝鮮民族主義史観を正当化する編集(59.85.116.65さん)
>あまり気を悪くなさらないで下さい。(59.85.116.65さん)
気を悪くするに決まっているでしょう。質問にお答えいただいていませんが。IPが微妙に変わっていることで一応「別人」ということになっているのですか? 別IPの議論を引き継いだりしていて、どのようにみなされようとしているのか、わけがわかりません。--Iosif 2006年12月4日 (月) 16:49 (UTC)

やや脱線ですが、現在の版は金完燮氏の「親日派のための弁明2」に依拠した記述が長々となされており、朝鮮におけるカトリック勢力との関連を強調する記述がされているのも気になるところです。金完燮氏は来歴からみてそれなりの「インテリ」であるとは思いますが、「親日派のための弁明」と「親日派のための弁明2」は、韓国における国粋主義的思想へのアンチテーゼとして、思想的政治的に明確な意図を持った書物である(タイトルからそう考えるのが自然)ことから、2次資料として中立性や情報の信頼性の観点からデサイシブな物ではないことに注意が必要だと思いますが、現行版はその点に留意した書きかたをされておらず、全体に占める分量も多過ぎるような感じで、それに関連した独自POV的記述も端々に見られると思います。「親日派のための」を取り上げるなら、韓国内の「反日派」による記述も取り入れるべきだとも思います。いずれにせよ、まだまだ修正、加筆が必要そうだとの感想をもっています。--Pugnari 2006年12月3日 (日) 05:36 (UTC)

独立運動といっても「暴動」の類ですから「弾圧」は適さず「鎮圧」が適切な日本語です。教科書でも「鎮圧」が用いられているように59.86.158.250さんの「一般的な言語感覚」に問題はありません。 むしろ朝鮮史研究会編1974の2次資料として中立性や情報の信頼性の観点からデサイシブな物ではないことに注意が必要だと思います。Tanker 2006年12月4日 (月) 06:00 (UTC)

「暴動」だから「鎮圧」という過度に図式的で短絡的な論理は権力側の見方でしかないですよ。その制圧行動が、運動ないし暴動を起こした人々の人権を蹂躙し、あるいは、いたずらにその命を奪ったりする場合には「弾圧」と呼ぶのです。立場を変えればこれは明白なことです。例えば、天安門事件のことを記述するときに「暴動」を起こした学生を、人民軍が「鎮圧した」なんていっているのは、中国共産党当局や、その立場を支持する人のみで、この事件に直接関わりの無い多くの人は、無為に学生たちの命が奪われたとして「弾圧」という言葉を使うでしょう。これとこの三・一独立運動は現象としては同じことです。
まあ今がんばって「弾圧じゃない、鎮圧だ」と主張しても、300年後には誰もがこれを「弾圧」と呼ぶようになるでしょう。英国国教会によるピューリタンの弾圧、李氏朝鮮王朝による仏教徒弾圧、南アフリカの黒人弾圧、これらを今日、普通「鎮圧」とはいいません。
ちなみに、私は朝鮮史研究会の『朝鮮の歴史』が決定的文献だとは一言も言っていません。それどころか、より良い記事にするには文献は複数必要だとさえ述べています。ただ、朝鮮史研究会のものはアカデミックな出版物であるという点において、政治的プロパガンダやセンセーションを引き起こそうとする意図が明確に見え隠れする「親日派のための」よりもはるかに信頼できる情報源とみなさるとはいえます。これはウィキペディアの編集上の利用者が共有しなければならない基本的な認識です(WP:Vも参照)。もちろん、当時の日本政府の立場を擁護する学者もたくさんいるはずで、かれらはそのような立場に立った論文なり歴史書を出しているでしょうから、情報源としては「親日派のための」よりはそういう学術書に依拠すべきだと述べているのです。--Pugnari 2006年12月4日 (月) 06:55 (UTC)
「鎮圧」か「弾圧」か、執筆に際し、正確性公平性に鑑み妥当な表現の追求がなされるところの各種教科書でも別れています。典拠がある以上どちらにも分があります。投票に頼るのは望ましいことではないのでしょうが、必要なことかもしれません。--59.85.116.65 2006年12月4日 (月) 08:13 (UTC)

このケースで「弾圧」という表現を用いようとされている立場から「「鎮圧」という言葉を用いれば、朝鮮総督府による植民地支配が正当なもので、その正当な支配に対する暴動を鎮圧した、という意味にとれるでしょう 」「「暴動」だから「鎮圧」という過度に図式的で短絡的な論理は権力側の見方でしかないですよ。」とする誤認識は理解できない事も有りません。しかし、これは先に指摘があるように「一般的な言語感覚」の問題であり日本語の用法の問題です。三・一独立運動や天安門事件などで「暴動」「事件」を「弾圧した」とした表現は誤りで「鎮圧した」が正しい表現です。英国国教会によるピューリタンの弾圧、李氏朝鮮王朝による仏教徒弾圧、南アフリカの黒人弾圧、これらを「鎮圧」と表現しないことと比べるとお分かりいただけるでしょう。三・一独立運動や天安門事件という暴動の鎮圧をそうした暴動の動機となっている思想に対する弾圧の一環とする捉え方はできますが、「暴動を弾圧した」という表現は「日本語として使われない」とご理解ください。また依拠すべき著書はそれとて編集者の政治的主観が入り込み一方的にならないように、さまざまな著書を参考にすべきであって客観的に紹介すべきであることは言うまでもありません。Tanker 2006年12月4日 (月) 08:38 (UTC)

確かに暴動は「鎮圧」するものであって、「弾圧」するものじゃあないですねぇ。それに、日本による植民地統治は国際法上問題のない条約手続でなされたんだから、総督府には正当な支配権があったと主張されたいならそれも私は個人的には構いません。でも、三・一独立運動は名前の通り運動なんであって、暴動ではないわけですよ。原稿版の本文ですら「示威行動」(広辞苑によればそれはデモのことであるとかかれています)となっているんであって、これを「暴動」と解釈しては日本語として変です。天安門事件にしても、これは自由化運動であって暴動ではない。現にこれらの運動には時代のコンテクストから考えても妥当な「民族自決」とか「自由化」とかいった思想的根拠があるわけですから、これらのデモンストレーションをタダの「暴動」だとかたづけてしまっては話になりません。瞬間的な事象としてはデモの武力制圧であっても、その制圧行動が人々の人権を蹂躙し、あるいは、いたずらにその命を奪ったりしたと判断されるので「独立運動を弾圧した」という表現の方が適正だと主張しています。--Pugnari 2006年12月4日 (月) 10:00 (UTC)

日本語として「暴動を弾圧する」は「暴動を鎮圧する」と表現するのが正しいのと同じく「デモを弾圧する」も「デモを鎮圧する」が正しい表現です。「民族自決」とか「自由化」に限らず「暴動」や「示威行動」「デモンストレーション」には思想的根拠やそれなりの根拠はあるものです。いろいろ言い様はできますが「事務所全壊19ヶ所、半壊33ヵ所、警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・憲兵分遣所・憲兵駐在所などの全壊16ヵ所、半壊29ヵ所、郵便局全壊2ヵ所、部分壊9ヵ所の物的被害を及ぼし暴徒と化した群集」は「鎮圧された」のであって「弾圧された」とか「人権を蹂躙された」という日本語用例は不適切だと主張しています。日本語では「1960年李承晩退陣要求デモの時、韓国政府はデモを武力鎮圧し、死者183人・負傷者6000人以上出している。」「1980年光州で起きたデモでは、韓国政府は武力鎮圧し一日に死者189人・負傷者380人、全体では死者数2000人以上を出している。」などのようにこのようなケースでは暴動であろうとデモであろうと「弾圧」とは言わないのです。「日本語表現の一般的な言語感覚」とご理解ください。Tanker 2006年12月4日 (月) 11:53 (UTC)

やっと見つけました。放送大学教材(吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学振興会、2004年)では140頁まるまる1頁をちょうど「三・一運動」という小節に費やしています。長いですが引用します。
「運動の突然の発生に驚いた総督府は、日本政府に軍隊の増派を要請し、激しく運動を弾圧した。四月には、京畿道水原郡で住民をキリスト協会に監禁して虐殺する、堤岩里〔チェアムニ〕事件が発生した。さらに「政治に関する犯罪処罰の件」のような弾圧法規が公布され、運動は五月以降鎮静に向かった。」
「激しい弾圧」という語を選んでいるのが確認できます。それ以前に堤岩里事件に言及しない三・一運動解説など見たことがありませんが、ここでも簡単に言及しています。
さて、どのような論文もそうですが、専門家が歴史事象を概説するとなれば言葉選びまで含めて熟考を重ねて判断していると私は素朴に信頼しています。いざ書くとなれば言葉選び一つに対して同業者から批判を食らう人々であると認識しているからです。こうなってくると、逆にマトモな学者で三・一運動を「鎮圧した」と書いている人がどれだけいるのか教えてもらいたいですね。--Iosif 2006年12月4日 (月) 14:36 (UTC)
なお、何度でも言いますがご自分の日本語感覚を「一般的な言語感覚」と言い募って済む問題であるとお思いになりませんよう。--Iosif 2006年12月4日 (月) 14:36 (UTC)
「言語感覚」にこだわってそう仰るならば、こう答えましょう。個別のデモ、示威行動は「制圧」ないし「鎮圧」されるものですが、運動は弾圧するものです。わたしは、「デモを弾圧した」ではなく、「独立運動を弾圧した」とすべきだと述べているのに、これを故意に無視していらっしゃいますよね、Tankerさんは?「言語感覚」の論理は既に破綻しているように見えます。1960年の李承晩退陣要求デモは武力鎮圧され、一連の反李承晩運動は弾圧された。光州事件も同様に、民主化運動が弾圧されたのです。日本語としてなんら問題ありません。--Pugnari 2006年12月4日 (月) 15:14 (UTC)

ようやく理解いただけたようです。ですから当初から「三・一独立運動や天安門事件という暴動の鎮圧をそうした暴動の動機となっている思想に対する弾圧の一環とする捉え方はできますが、「暴動を弾圧した」という表現は「日本語として使われない」とご理解ください。」と説明し本文文章の表現がおかしいと指摘してきたわけです。暴徒と化した群集による破壊行為の鎮圧まで一連の独立運動の弾圧であるかのような表現が不適切で、「鎮圧」と「弾圧」の適切な使い分けが必要だということです。Tanker 2006年12月4日 (月) 16:01 (UTC)

それが典拠から加筆まで何から何まで戻す理由になるんでしょうか? 差分を見てほしいのですが。--Iosif 2006年12月4日 (月) 16:35 (UTC)
Tankerさんの編集を見れば、日本語の語感の適正化がその意図ではなく、「独立運動が暴徒化したので仕方なく鎮圧した」と図式化し、一連の朝鮮総督府のしばしば非人道的であった弾圧を正当化したいという意図があるとしか読み取れません。まあ、おかげで、Iosifさんの版はより検証可能性がアップした良い記事になったとは思いますけども。「鎮圧」とすべきところはそう書き換えられたようなので、これ以上リバート合戦にならない事を望みます。--Pugnari 2006年12月4日 (月) 17:01 (UTC)

「鎮圧」と「弾圧」の適切な使い分けの議論を無視した編集を無理やりして、典拠や加筆を比較できないようなやり方はやめてください。赤リンクが復活していることからも主にリバートとなっていることしかわかりません。Tanker 2006年12月4日 (月) 17:08 (UTC)

ちゃんと差分を見ましたか?何処をどう変えたかは差分を見れば一目瞭然ですよ。Iosifさんの2006年12月4日 (月) 16:42の版は鎮圧と弾圧を使い分けて書かれていますよ。議論を無視してなんかいません。編集合戦はイヤなので今はしませんが、その他の理由が提示されなければ戻します。--Pugnari 2006年12月4日 (月) 17:25 (UTC)
何のために差分表示があるのでしょうか。Tankerさんが踏みにじった編集を一つ一つ挙げるのは大変です。思いつくところだけでも、新たに典拠が加わっています。以前主張したことがあるのですが、歴史化でもないキムワンソプ氏の著作のうちたった2ページだけに依拠して延々と書かれた長い文章を脚注部に移しています。ずいぶん前から「P101~102」などと書かれてあるのを推奨されているスタイルどおり「101-102頁」等々と修正しています。出典を求めてコメントアウトしてある文言もあります。堤岩里事件について典拠を挙げたうえで脚注部に説明を補充しています。五・四運動等への影響に言及し、典拠を挙げてあります。「武断統治」から「文化統治」への政策転換に言及してあります。他にもいろいろあるのですが、これら全部をTankerさんは戻してしまい、これら全部を消しているのです。「弾圧/鎮圧」についても典拠を挙げ、それに準拠して編集を加えていますが、Tankerさんはその1点にだけ異論があるとノートに書くことで(しかも根拠はご自分が信じる「一般的言語感覚」)、ありとあらゆる編集をふみにじっているわけです。そのうえで「リバートとなっていることしかわからない」とは、本当にひどい不注意なのか、差分を見ないで横着しているのかのどちらかです。差分の表示方法がわからないのであれば、ノートで私が説明するのは難しいですが、説明しようと努力しましょう。異論があるポイントに編集を加えるというのならば(それだって編集合戦という結果になってはいけないわけですが)、そういうことは(たぶんお互いに)よくあります。しかしTankerさんがやっている「全部消す」という行為はvandalismの語義どおり、暴挙です。--Iosif 2006年12月4日 (月) 17:32 (UTC)

赤リンクに戻していることからリバートした上で加筆していることが確認できます。どさくさで人の編集を無視してリバートして編集合戦の端を発しておきながらの非難は失当です。「鎮圧」と「弾圧」の用法議論中に他の加筆をもするなら最初は比較できるように現状の配置を改変せずにすべきで、リバートするのは暴挙です。配置換えなどはその後でするのが礼儀というものでしょう。Tanker 2006年12月4日 (月) 18:25 (UTC)

赤リンクにこだわってらっしゃるようですが、前の版から編集しようと何をしようと、差分を見れば実質上何処にどう手が加わったのかわかると思います。「失礼」というのは当たりませんよ。編集画面にあなたの文章が他人によって自由に編集、配布されることを望まない場合は、投稿を控えて下さいと太字で表記されていて、「以上の記述を完全に理解し同意した上で投稿する」をクリックしてらっしゃるのですから、どさくさでリバートとか配置を改編すべきじゃないとか、礼儀とかいうのは当たらないと思います。それに、あなたも何度もリバートしてらっしゃるじゃないですか?--Pugnari 2006年12月4日 (月) 18:32 (UTC)

「あなたの文章が他人によって自由に編集、配布されることを望まない場合は、投稿を控えて下さい」ならお互い様ということになっちゃいますね?ただこれを前面にだすと編集合戦必至だと気付けませんか。とりあえずわたしとの議論とは別の加筆がしたいなら現状の配置を改変せずに加筆してください。赤リンク復活とわたしの付けた内部リンク削除もはっきりわかるので暴挙は遠慮願います。Tanker 2006年12月4日 (月) 18:48 (UTC)

「暴動」なら「鎮圧」で、「運動」なら「弾圧」でも構わないということらしいですが、今現在三一運動を「暴動」と認定している研究があるのですか。それとも『親日派のための弁明2』に書かれているということなのでしょうか。読んだこと無いので誰か教えてください。--Tears for Asia 2006年12月4日 (月) 19:32 (UTC)
▼追加しておきます。和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店、2002年)106頁「3・1独立運動」の項では「朝鮮総督府の武力弾圧で約7500人が死亡、4万6000人が検挙された」との記述。姜徳相『呂運亨評伝1: 朝鮮三・一独立運動』(新幹社、2002年)は「第四章 上海臨時政府」において「民衆の蜂起と日本の弾圧が激しく対峙していたほぼ二箇月の間」(165頁)これらを報道したのはキリスト教系新聞であったということを記し、いくつかの記事が「日本の弾圧を糾弾する在朝鮮のキリスト教宣教師の報告や続々と亡命してくる独立の志士の体験、目撃談や『独立新報』の記事が情報源であった」と解説する過程で「弾圧」という表現を選んでいます。
▼研究者の使用例等、典拠をあげられない以上、お話にならないでしょう。TankerさんやIP氏などの匿名ユーザー個人が「一般的な言語感覚」をどのように考えているかなどはWikipediaにおいて議論の対象として扱ってはならないものだと思います。Tankerさんは「用法議論中」と言うが、そのようなことが議題になっていることがおかしいとも思っています。▼Tankerさんの言う「赤リンク」というのは何なのかわかりません。「内部リンク削除」を強調されても、それを削除しちゃダメでしょう。▼ちゃんと戻して、典拠を付加します。また、新たに編集を加える際、典拠や脚注をまるごと消すなどではなく、もうちょっと丁寧にやってください。▼「暴挙は遠慮願う」など、反対者の用語用法を真似る点、あれ?この感触、どこかで味わったのですが……。--Iosif 2006年12月4日 (月) 22:50 (UTC)
物的人的損害が出ているので暴徒がいたことは事実でしょう。「鎮圧」か「弾圧」か、執筆に際し、正確性公平性に鑑み妥当な表現の追求がなされるところの各種教科書でも別れています。典拠がある以上どちらにも分があります。投票に頼るのは望ましいことではないのでしょうが、必要なことかもしれません。--220.148.98.220 2006年12月4日 (月) 23:14 (UTC)
加えている編集にどういう意味があるのかよくわからないのですが(言い回しだけ変えているように思えますが)、上述のとおり典拠の付加・その他をやります。で、「典拠がある以上どちらにも」というのはどうも理解しがたい。教科書一覧が紹介されましたが「鎮圧」としているのがあまりにも希少(というか、どれですか?)、「暴動/鎮圧」としているものは皆無、前後の文脈がわからないのでどういう意図で言葉選びをしているのか、運動の見方が違うのかどうかもわかりません(扶桑社版も「弾圧」としているんですよねえ)。なによりTears for Asiaさんが指摘なさったように「暴動」と認定している研究も聞いたことがありません。--Iosif 2006年12月5日 (火) 03:58 (UTC)修正--2006年12月5日 (火) 04:43 (UTC)
>物的人的損害が出ているので暴徒がいたことは事実でしょう。(220.148.98.220さん)
それも諸事実を組み合わせて220.148.98.220さんが導き出した解釈の域をでないのではありませんか。信頼できる二次資料・三次資料がある場合にも、220.148.98.220さんの解釈が優先されなければいけない理由があるのでしょうか。当然に推測される事柄ならば、どうして220.148.98.220さんと同じ解釈で記されたものが紹介されない/もしくは見つからないんでしょうか。三・一運動についての説明は無数にあるのに。--Iosif 2006年12月5日 (火) 04:19 (UTC)ついでに修正。--Iosif 2006年12月5日 (火) 04:43 (UTC)
内容の整理とより平易な描写、文章の添削です。東京書籍、大阪書籍のものが「鎮圧」を用いています。「皆無」というには無理があります。--59.85.119.234 2006年12月5日 (火) 09:33 (UTC)
既にある「暴徒」という記述を追認されているので、このような反駁は意外です。例えばデモに伴って放火などの破壊活動が起こった場合、通常は参加者が「暴徒化」したと表現されます。これもやはり「一般的言語感覚」の問題ですが、飽くまで、そんなものは抽象的で、検証不可能で、個人的な思い込みだ、と仰るのでしょうか。「一般的言語感覚」がそのような物言いで否定できるものでないことは、前述の通りです。これはWiki存立の大前提となっているものです。--59.85.119.234 2006年12月5日 (火) 09:33 (UTC)

言っていることとやっていることが全然違うので、そういう話以前の問題です。この差分→[4]は何ですか。単に戻しているだけでしょう。何度も言いますが、Tankerさん・IP氏の発言とも加筆から典拠まで「すべて消す」のを正当化するものではありません。--Iosif 2006年12月5日 (火) 09:48 (UTC)

読点は文章としての体裁を考えれば必要と思ったので挿入しました。ただあまりに微細なので、差し戻しと説明しています。提岩里事件については提岩里事件で、と既に述べています。--59.85.119.234 2006年12月5日 (火) 10:02 (UTC)

59.85.119.234さんが内容の整理とより平易な描写、文章の添削をされた編集で対立点の落としどころ が見えてきました。この版を土台として加筆、あるいは典拠修正の議論のうえ推敲してゆけば無用な編集合戦なしにより良い記事が期待できるでしょう。Iosifさんには度重なる編集合戦を招くような強行な改変は謹んで、共同作業に協力していただきたいものです。Tanker 2006年12月5日 (火) 13:39 (UTC)

落としどころですか。注に掲げられた書名・頁数だけ挿入しても駄目です。挙げられた文献と無関係な表現で本文を作りながらその本文表現には相変わらず典拠がない。文献が支持していた表現は本文から削られる。これではあべこべです。文献を挙げても言い訳程度に軽く扱われ、本文記事は「一般的言語感覚」(と自分が呼ぶもの)だけで正当化されています。--Iosif 2006年12月5日 (火) 22:58 (UTC)
一字一句引用で記述されねばならないなどという理屈はあり得ません。しかも主旨は変わっておらず、何ら問題ありません。本文は簡潔、平易な記述、敢えて言えば平板でつまらない記述にし、脚注部分で、毒や薬になりそうなこんな説もある、といった感じにしてはどうかと思います。その意味で、経緯の部分の移動も必要かもしれません。--59.85.123.121 2006年12月5日 (火) 23:29 (UTC)
主旨は変わっているでしょう。まったく変わっているのみならず、当初からIPさんが主張している内容に戻しているわけです。戻した内容は、すでに指摘されたとおり(私なりにあえてうんと指摘を要約して言うと)、誤魔化し表現を随所にちりばめたものであると思います。典拠と一緒に典拠に基づいた説明文も脚注に入れるというのは一見問題がありませんが、代わりに差し換わった(戻された)本文の表現には相変わらず何ら典拠がないまま、実はIPさんが争っている内容に戻しているだけであると思います。文献とそれを反映した解説文が排除され、かわりに典拠がない諸表現・諸解説が優先されなければならない理由がありません。「毒にも薬にもならない」というのはIPさんの個人的な判断でしかなく、私は同意しません。IPさんがやらなければならないことは、ご自分が採用する表現を正当化する根拠の提示、典拠(=研究業績)の紹介、教科書なら教科書で前後文脈を踏まえたうえでの解釈の紹介なのではないでしょうか。--Iosif 2006年12月6日 (水) 06:52 (UTC)


立場により「取締り」「鎮圧」と表現を使う者がおり、「取締りした」「取締りされた」という表現が中立的という判断で、この表現にしております。「弾圧」「鎮圧」では一方に偏った表現になってしまいます。「取締り」より、もっとよい中立的表現がございましたら、提案していただきたいと存じます。よろしくお願いします。--武者小路 2008年4月8日 (火) 07:29 (UTC)

論点整理1-編集姿勢について-

長くなってきたので節をわけました。わたしがみるところ、この編集には次の問題点があります。

まず、散々議論されてきた、「デモを鎮圧」、「運動を弾圧」という語の用い方とも関連しますが、「三・一独立運動を弾圧した」という観点が出典を削除してまで隠滅されている事。すでに提示されている、朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』には「運動の弾圧」という表現があることを出典としてこれを盛り込んでいたが、これを完全に削除するのは情報を減じる操作に当たり、これはWikipedia:編集方針推奨されていないやりかたにあたります。この点に関してはすでに出典が提起されているため、議論の余地はありません。これを削除する行為は百科事典の内容を減じる行為です。もし、弾圧でなかったと主張されたいならば、朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』と同等程度のアカデミックな2次資料を提起して、三・一事件への対処は弾圧であるとする意見がある一方、これは弾圧でなかったとだれだれが主張している、との両論併記にすべきです。これはWikipedia:中立的な観点で定められています。

さらに三・一事件が五四事件に影響を及ぼした点などは、三・一事件の直接の帰結であり、後世の評価ではない、というIosifさんやTear of Asiaさんの問題提起に対して議論で結論が出ていません。

何はともあれ、出典を提出したうえで行われている記述を(自分が気にくわないからという理由で)削除するのは、ウィキペディアの公式のルールに違反した行為です。Wikipedia:荒らしでは、数回のルールに反した編集は荒らしと見なさないとされていますが、繰り返し行えば、荒らしと見なされるという事にも言及しておきます。

なお、投票は最後の手段ですので、明確に反対しておきます。するなら、まずはWikipedia:コメント依頼にすべきでしょう。--Pugnari 2006年12月5日 (火) 14:55 (UTC)

論点整理2-語彙の選択について-

  • 朝鮮総督府当局による武力鎮圧の結果、失敗に終わった」という箇所についてですが、「暴動」なら「鎮圧」というロジックを取る限り「弾圧」にするしかないのではないでしょうか。将棋的言い方をすると、このロジックは無理筋だと感じます。この箇所は三一運動全体の結果を表示している箇所ですから、三一運動全体が「暴動」と認定されているという典拠を持ち出さないと論が成り立ちません。仮に一部に「暴徒化」した部分があったとしても、それをもって運動全体の性格とするのは、歴史修正主義的表記(細部を全体であるかのように記述する言説)との批判を招かざるを得ず無理でしょう。何よりその名が示すとおり、三一運動と教科書を含めて多くの研究がこの名を認められているようですし、「三一暴動」と歴史学研究で呼ぶこともある、などという話は無いように思います。あれば提示お願いします。つまり「暴動」なら「鎮圧」というロジックを取る方々は、実は「弾圧」という語彙を取るべきという論を補強していることになります。
  • 五四運動との関連については、自分の専門が中国近代思想史だから言えるのですが、これを否定するということは歴史研究の成果を認めないといっているに等しく、そうであればすでに対話そのものが成り立ちません。ノートを見る限り、明確に否定する人はいないでしょう。いれば理由を明示してください。評価ではなく、「影響」といった項目を設けて述べる方がよいと思います。わたしも義和団の乱ではそうしています。--Tears for Asia 2006年12月5日 (火) 16:52 (UTC)
現在、「暴動」であるとする記述はありません。指摘するロジックを用いた記述もありません。「鎮圧」か「弾圧」か、執筆に際し、正確性公平性に鑑み妥当な表現の追求がなされるところの各種教科書でも別れています[5]。典拠がある以上どちらにも分があります。投票に頼るのは望ましいことではないのでしょうが、必要なことかもしれません。ところで、影響についてですが、五四運動ならまだしも「欧米の植民地支配にあった東南アジアやインドの民族主義を覚醒させた」という評価についてはどう思われますか。--59.85.119.234 2006年12月5日 (火) 18:25 (UTC)
いえ、「「弾圧」というのは明らかに当局の対応の不当性を前提とした表現です。既に記述がありますが、運動参加者が物的損害を引き起こすなど「暴徒化」している点に留意するべきでしょう。デモが正当であれ不当であれ、「鎮める」のは不自然な対応ではありません。」とか「三・一独立運動や天安門事件という暴動の鎮圧をそうした暴動の動機となっている思想に対する弾圧の一環とする捉え方はできますが、「暴動を弾圧した」という表現は「日本語として使われない」という発言が上にはあります。このような発言ふまえ、仮にその人が「暴動」なら「鎮圧」というロジックを採用しているので有れば、「鎮圧」ということばを使用するということは三一運動が「暴動」であるという前提が発言者によってなされていることになります。そこで確認ですが、59.85.119.234さんのご意見は
  1. 三一運動は全体的に「暴動」といえるものではなかった。むしろ「運動」というべき性格を備えていた。
  2. 「暴動」なら「鎮圧」、あるいは「運動」なら「弾圧」というロジックは取らない、誤っている。
と理解しても良いのでしょうか。--Tears for Asia 2006年12月5日 (火) 20:20 (UTC)
1.ですが、むしろ全体としては暴動であったが、主旨は独立運動であった、といった感じです。2については、誤っているとは思いませんが、則りません。「鎮圧」とする理由は、それが「弾圧」に比してより党派的コノテーションを含まない語、であるからです(「鎮圧」という語に党派性がないと言っているわけではありません)。--59.85.123.121 2006年12月5日 (火) 23:07 (UTC)
何かの参考になるかもしれないので、歴史教科書のシェアを示しておきます[6]。東京書籍(「鎮圧」を使用)51.2%、大阪書籍(「鎮圧」を使用)15.4%、帝国書院(「鎮圧」も「弾圧も使わず」)14.2%、教育出版(「弾圧」を使用)11.8%だそうです。「鎮圧」であること、少なくとも「弾圧」でないことは、いまや文字通り一般常識化しつつある、と言っていいかもしれません。--59.85.123.121 2006年12月5日 (火) 23:29 (UTC)
だから、コノテーションとかカタカナ語を持ち出せばいいというものではありません。「むしろ全体としては暴動であったが、主旨は独立運動であった」と明確に主張される以上、そのことを検証できる学術的出典を提出なさってくださいそれができなければ、IPさんの意見は、あなた個人の意見、独自の研究にすぎず、記事に掲載することはできませんし、そのような観点から記事を執筆すればWikipedia:中立的な観点にはっきりと違反することになります
中学高校用の教科書は文部科学省の検定という一種の検閲を通過しているのだから、文科省(あるいは日本政府)POVだと前から言っているはずで、記事の典拠にはなりません。シェアについても、教科書全体を評価して選んでいるはずで、「鎮圧」か「弾圧」かという言葉の選択に主眼を置いた調査ではないのですから、非常に恣意的な指摘で、意味を成さないどころか、ミスリーディングですらあります。また、ウィキペディア日本語版は、日本版ではないので、日本で世論調査をして「鎮圧」を支持するひとがたとえ多かったとしても、そのことが「鎮圧」という言葉を選択する理由にならないことも注意しておきます。この点については、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源をもう一度熟読することをお勧めします。「鎮圧」とか「治安維持」とかにこだわるなら、とにもかくにも学術的出典を提示されたらどうですか。それができないなら、IP氏の編集はIosef氏の編集よりもウィキペディアの方針に照らして根拠に乏しい、百科事典的でないものだと評価されます。--Pugnari 2006年12月6日 (水) 09:54 (UTC)
個人的な見解を尋ねられたので、全体としては暴動であったが、主旨は独立運動であった、と見ている旨答えたまでです。ちなみに、この見方をもとにした記述は行っておりません。「色」が付加された編集を、主旨は変えずに「脱色」しているのが私の編集です。教科書については、文科省の記述と見なせば良いのではないでしょうか。そしてこれが文科省、日本政府的POVでアウトというならば、Pugnariさんが以前取り上げた村山談話もアウトです。現在の記述には朝鮮史研究会的POVが反映されていますが、これをも否定しかねない論理ですよ。シェアのデータは、「鎮圧」が、図らずも「一般常識化」しつつある現状を説明するために示したまでのものです。好むと好まざるとに関わらず、これが現実なのです。「鎮圧」と記述された教科書で学ぶ7割弱の日本の子弟ならば、現在のこの項目を閲覧しても、何ら矛盾や違和を感じない現実です。また、検定を検閲と見なすご自身のPOV、党派性には無頓着なようですが、多少は省みてしかるべきかと思います。--59.86.143.179 2006年12月7日 (木) 18:40 (UTC)
「むしろ全体としては暴動であった」という根拠は、私も知りたいところですね。中国史ほど徹底して調べたわけではないのですが、全国218の市郡の内217において運動が起こり、のべ参加人数が数百万人という規模だった割には暴徒化率は低いと感じます。以前挙げた小島氏も三月段階ではほとんど平和的な形態で運動が繰り広げられ、四月になると暴力的形態も出てくるが、これは日本側がさきに「徹底的な弾圧」を加え出してからだと述べています。私見では個別の事件については暴動と称してもよいものもあったでしょうが、全体像の結果を記す場合には暴動と捉えるのは歴史研究を踏まえてないように感じます。最近義和団の乱を執筆しているので、その落差(義和団の乱の時に殺された公使館員杉山某などは四肢断裂ですからね)から、三一運動の全体を眺めた時、この程度を暴動というのは躊躇するというのが偽らざる気持ちです。朝鮮史家の方々も同じように感じて、「三一運動」としているのではないでしょうか。
それと以前お尋ねの「欧米の植民地支配にあった東南アジアやインドの民族主義を覚醒させたという評価についてはどう思われますか」という件ですが、水野直樹氏が「三一運動は、朝鮮全土のみならず、日本・満州・シベリア・アメリカなど海外にまで広がった全民族的な抵抗として、(中略-国内への影響を述べる-)、近代史の画期をなすものであった」(『アジア歴史研究入門』2、同朋社、1983、ISBN 481040367X)と述べています。詳しくは知りませんが、この運動がなにがしが世界史的な影響をもったという研究があるのでしょう。
あと気になったのがYMCAとかキリスト教の関与の部分についての記載ですが、当該箇所は当時の日本政府及び日本軍の見解をそのまま載せているのではないですか。小野信爾論文(ノート:五四運動記載)には五四運動時にも同じ見解を日本側がしていると紹介しています。つまり資料をそのまま、資料と明示しないで記載しているような気がします。もしそうだとすると当時の人々がどう感じたかとそれを解釈する歴史研究は別ですから、まずい気がします。しかし歴史研究で日本政府及び日本軍の見解を踏襲するものが有れば、特に異議はありません。--Tears for Asia 2006年12月7日 (木) 17:09 (UTC)
個人的な見解を尋ねられたので、全体としては暴動であったが、主旨は独立運動であった、と見ている旨答えたまでです。ちなみに、この見方をもとにした記述は行っておりません。「色」が付加された編集を、主旨は変えずに「脱色」しているのが私の編集です。
欧米の植民地支配にあった東南アジアやインドの民族主義を覚醒させたとの箇所を削除するつもりはありませんが、苦笑いせざるを得ないのが私の個人的な印象です。例えばインドの民族主義運動なんかは1919年以前に大分盛り上がっているわけでしょう?水野氏の記述にインドや東南アジアは含まれていないようですし、おそらく、当地の朝鮮人による動きがあった、ということかと。まあ本題ではないので深入りはしません。--59.86.143.179 2006年12月7日 (木) 18:40 (UTC)

編集合戦回避のために

比較困難な配置入れ替えを伴う大幅なリバートや加筆を強引に行われたため編集合戦になりかけていましたが、現在は沈静化している模様で今後そうした編集合戦の発端となる強引な編集はIosifさんをはじめ同調者には控えていただきたいと思います。

論点として「鎮圧」「弾圧」「治安維持」の語彙の選択についてまだ異論があるようですが、「むしろ全体としては暴動であったが、主旨は独立運動であった」で問題なしと考えます。そのことを検証できる学術的出典を提出するもなにも「物的人的損害」から一般庶民でも判断できる事実です。そして朝鮮総督府当局はそうした暴徒と化した群集を「鎮圧」し「治安維持」にあたったのであって、それを「弾圧」とすることはできません。一方「弾圧」と言う言葉を使用する場合「主旨の独立運動」に対する 弾圧の具体的な事例の記述が必要となりますがそれが見当たりません。そうした具体的な事例を提示し記述しないことには「弾圧」という語彙を選択しようがないということです。「鎮圧」の使用例の多い中学高校用の教科書をPOVと断じて無理やり「弾圧」なる語彙を挿入しても「一般的な言語感覚」からはずれたおかしな文章になるだけのことです。59.85.123.121さんの版に問題があるとするなら、編集合戦回避のためにもこうした点に留意した提案と議論をお願いしたいものです。Tanker 2006年12月7日 (木) 16:31 (UTC)

「検証できる学術的出典を提出するもなにも「物的人的損害」から一般庶民でも判断できる事実」であるから「暴動」とすることには明確に反対します。これは日本側が加えた「物的人的損害」(柳寛順拷問死事件など)を捨象するものであり、何よりも専門家の意見に依らないという宣言に他ならないからです。今後数日の内に「学術的出典」を提出されない場合、井戸端Wikipedia:コメント依頼にて広く意見を募ろうと思います。
「弾圧」ということばは梶村秀樹は「実弾おかまいなしと命ずるような、めちゃくちゃな弾圧方針をとった」『朝鮮史』(講談社現代新書460、1977、152頁)といっていますし、他にも「日本はこれを弾圧したが」(京大東洋史辞典編纂会編『東洋史辞典』東京創元社、1980、343頁)などいくつも記載例が有ります。「弾圧」ということばを使うのには絶対反対という立場にも、明確に反対を表明します。--Tears for Asia 2006年12月7日 (木) 17:09 (UTC)

曲解もしくは誤解をしておられます。暴徒と化した群集(暴動)を朝鮮総督府当局が「鎮圧」し「治安維持」にあたったことは「物的人的損害」から一般庶民でも判断できるように、誰もが理解できますし59.85.123.121さんの本文にも反映されています。一方あなた方が主張し編集したい独立運動に対する「弾圧」についての具体的な事例を提示し議論してくださいとお願いしているわけです。暴徒と化した群集(暴動)の記述に「弾圧」という語彙を挿入しても「一般的な言語感覚」からはずれたおかしな文章になるだけのことですよと説明しているわけです。「弾圧」ということばを使うのには絶対反対などとも言っていませんので最後までわたしの意見を読解してくださいね。「弾圧」の具体的な事例を提示し議論して本文に反映、編集くださいとお願いしているのです。Tanker 2006年12月7日 (木) 18:26 (UTC)

Tankerさんへ。正確性公平性に鑑み妥当な表現の追求がなされるところの教科書で用いられ、更に、特に広く使用されている教科書で用いられている、ということだけで十分だと思いますよ。本文に現状における一般的な認識を示し、註で異論異説を紹介するという現在のスタイルが妥当だと思います。--59.86.143.179 2006年12月7日 (木) 18:48 (UTC)
ちなみに、朝鮮史研究会でも「鎮圧」の使用に異を唱えてはいません。--59.86.143.179 2006年12月7日 (木) 19:00 (UTC)
Tankerさんへ。了解しました。日曜、別件で図書館へ行くので調べて報告します。それまでに提示できる方がいればお願いします。予想ですが、苦労せず「弾圧」の実例は見つかると思いますが。Tankerさんは実例が有れば、つまり歴史家が弾圧としてみる例が有れば、「弾圧」という語彙を入れても良いのですね。あと「弾圧」の語彙についてですが、他の人は日本・朝鮮総督府を主語とする文章に「弾圧」ということばを使えとか使うなと言っているのではないと思いますよ。そんなことは承知の上で、皆さん意見を述べているのだと感じます。どうもお一人だけ、議論についてこれてない気がします。Iosifさんと59.86.143.179さんの差違をよく読んでください。
59.86.143.179さんへ。教科書を根拠とすることについて全否定はしませんが、一、教科書にも「弾圧」を使用している例があること。二、現時点で研究論文等における「鎮圧」の使用例が提示されていないこと。三、教科書だけで根拠十分とする理由が明確でないこと(何故歴史研究論文や著作を無視して良いのか不明)からいって、どうしても「鎮圧」を使用しなくてはならないという意見は弱いと感じます。教科書のシェアはなんて言うか、三一運動以外の部分の評価も絡んできますし、三一運動の部分だけを評価してシェアが高いわけでもないでしょう。これも無理筋と感じます。根拠となるものはなるべく専門性の高いもの、つまり朝鮮史研究の著作、もっと言えば三一運動の専著に依拠すべきですし、それらの記述を重んずるべきでしょう。(それに教科書の朝鮮部分を担当しているのは必ずしも朝鮮史研究者ではありませんしね) 無論学説に対立があるなら両論併記すべきでしょう。それに韓国の教科書も含めるとシェアは逆転すると思いますよ。ここは日本版ではなく、日本語版のWikipediaということに立ち戻ると、それらを根拠とすることに躊躇してはならないでしょうから。
後「朝鮮史研究会でも「鎮圧」の使用に異を唱えてはいません」というのも、日本もしくは朝鮮総督府を主語にした場合使用しているということに過ぎないのではないのですか。どういう文で使用しているか引用してもらえませんか。語彙の選択については、後日「弾圧」例の提示の時にでも上の節に書いておきます。--Tears for Asia 2006年12月7日 (木) 20:01 (UTC)
教科書とは、研究者間における最大公約数的な定説・通説、しかも最新のそれが最も端的に反映される媒体です。そしてそのシェアは、現在の「一般的認識=常識」がどのようなものになりつつあるのかを伺い知るための有用なデータです。是非ご理解下さい。朝鮮史研究会が「鎮圧」を問題視していないというのは、既に何度も示している通りです[7]。「鎮圧」の使用は、朝鮮総督府による対応の不当性、非人道性、残虐性を隠蔽しており、「弾圧」とすべきだ、といったコメントは認められません。
というか、TankerさんにしてもTears for Asiaさんにしても、現在の版に目を通しておられますか?既に複数の「弾圧とする見方」を記載しているのですが。お二人で空中戦をやっているように見えて、少々滑稽です。Tankerさんには、「暴動だから鎮圧だ」という理屈は用いるべきでない、と言いたい。Tears for Asiaさんには、「暴動だから鎮圧だ」という理屈は現在の版に微塵も反映されていない、と言いたい。論点は、本文を平易で簡潔、無党派的で一般的で、「踏み込まない」ものとし、注において様々な見方を紹介する、という構成の仕方の是非に移っているのですよ。この点もまた、是非ご理解下さい。--220.148.97.244 2006年12月7日 (木) 23:40 (UTC)
以下Iosif記:書いている途中で先に220.148.97.244さんが書いてらっしゃるので、そちらに対して先に。
▼というか、利用者:220.148.97.244さんは差分に目を通していますか。現在の版はどう解すれば「鎮圧/弾圧」を離れて「本文を平易で簡潔、無党派的で一般的で、「踏み込まない」ものとし、注において様々な見方を紹介する、という構成の仕方」になっているのか、まったく理解できません。消去されていた「文献掲示」だけを復活させただけで、本文記事と典拠とが対応していません。ここで話していること・要約欄への書き込みと、実際の編集とが全然違います。
▼「弾圧」の用例はすでにいくつも挙げていますし、なるほど「弾圧」した実例がほしければそれも容易に挙げられるでしょうけれども、挙げても典拠ごと削除するという点ではTankerさんも59.85.118.77さん(その他・末尾が微妙に変わる可変かもしれないIP氏)も同じことをやっていらっしゃいます。さらに典拠を挙げれば納得するとは思えず、ここまでの無法が通るとなると私はわけがわかりません。
▼このノートの59.85.xx.xxのIP氏は、とりあえず、同一人物とみなしてお話ししたほうがいいのか、それぞれ別人であるとみなしてお話ししたほうがいいのか、ご本人から表明してください。IPが変わっているのに、同一人物であるかのように応答したり、そうでなかったりと、同一人物と扱われたいのか別人と扱われたいのかわかりません。
▼文部省POVについて、一応。どこまで信頼するつもりになるかは、人によるということで。
  • 宮田節子「文部省の教科書検定見解批判:三一運動,強制連行,創氏改名」『歴史評論』391号(1982年11月)、21-25頁。
  • 梶村秀樹「文部省の教科書検定見解批判 強制連行,朝鮮語学習,三一運動」『歴史評論』391号(1982年11月)、25-29頁。
利用者:59.86.143.179さんへ:「朝鮮史研究会でも『鎮圧』の使用に異を唱えてはいません」(利用者:59.86.143.179さん)というのは、どういう意味なのかまったくわかりません。解説してください。▼朝鮮史研究会は学術研究会であって、組織的に何らかの見解を出したりしません。歴史学研究会が特定の歴史事象について統一見解を出したりするでしょうか? どういう意味で「異を唱えていない」と言っているのか説明してください。朝鮮史研究会論文集に掲載された論文で「鎮圧」の語を使われたことがあるというようなことなんではないかと思うのですが(^^;、そういうことは当たり前のことです。--Iosif 2006年12月8日 (金) 00:43 (UTC)
▼次に再び利用者:220.148.97.244さんへ:
▼(1)「朝鮮史研究会が『鎮圧』を問題視していないというのは、既に何度も示している通りです」と言ってURLを挙げていらっしゃいます。まず、上記のとおり、朝鮮史研究会が○○を問題視するとかしないとか、どういう意味でおっしゃっているのか教えてください。
▼(2)利用者:220.148.97.244さんが「異を唱えていません」と言うための根拠としてあげているURLには三・一運動に関する各社教科書の比較表があるだけです。どこの誰が作った比較表なのか、いつの表記を比較したものなのかもわかりません。
▼(3)利用者:220.148.97.244さんが挙げられた比較表には各社記述についてのコメントがつけられていますが、これが誰のものなのかもわかりません。中学の教科書なのか高校の教科書なのか、何の科目の教科書なのかもわかりません。これは利用者:220.148.97.244さんの議論を一体どのように支持しているのか教えてください。
▼(4)同URLを示して「東京書籍と大阪書籍が『鎮圧』の語を使っている」とのことですが、別段、「暴動であるため鎮圧した」という立場で用いているわけでもなく利用者:220.148.97.244さんが採用しようとしている用法とは違っていると思います。ひょっとすると利用者:220.148.97.244さんは単に「『弾圧』という語がそうであるように、文脈によっては『鎮圧』の語も用いる」と主張なさっているのですか?--Iosif 2006年12月8日 (金) 00:43 (UTC)
▼59.85.123.121さんもそうですが、それ以上にTankerさんに、「同調者」という言葉の使い方や、相手の表現をそのまま用いるところ、辞書や「一般的言語感覚」という語に頼るところなどから、どこかでお会いしたと思えてなりません。。
▼三・一運動については、別のお題とからめてアプローチした論文はたくさん見かけますが、「本」の存在はよく知らず、あまり多くないのかもしれません。いちおう有名どころを挙げておきます。参考までに。
  • 姜徳相編『現代史資料25 朝鮮1 三・一運動』みすす書房、1966年(オンデマンド版は2004年)。
  • 姜徳相編『現代史資料25 朝鮮2 三・一運動2』みすす書房、1967年(オンデマンド版は2004年)。
大きな図書館に行く機会があれば引いてきますが、しかし、引いてくることに意義を感じてくれない/意義を認める用意がまったく見受けられないので虚しいです。--Iosif 2006年12月8日 (金) 00:43 (UTC)
ちょっと寝ぼけました。資料集じゃ意味がないんで打ち消し線を引いておきます。--Iosif 2006年12月8日 (金) 01:13 (UTC)
まず、本文を平易で簡潔、無党派的で一般的で、「踏み込まない」ものとし、注において様々な見方を紹介する、という構成の仕方にする理由ですが、様々な文献からの引用・参照を本文中で繰り返し行えば、内容の冗長化、煩雑化は避けられず、文脈が破壊される上に、「強調」の意図を露呈するところともなるでしょうし、中立的な観点の確保がおざなりになりかねません。このスタイルはベストのものではないかと思うので、簡単には譲れません。
これ[8]は朝鮮史研究会幹事会教科書検討小委員会が最終的な責任を負うとして公表した資料ですよ。朝鮮史研究会が編纂した古い史料からの引用が既になされていますが、現在の朝鮮史研究会もあるいは伝統に則り、「弾圧」とする見方が主流なのかも知れません。それは定かではありません。ただ、現在の教科書の「鎮圧」という記述について、「鎮圧」の使用は、朝鮮総督府による対応の不当性、非人道性、残虐性を隠蔽しており、「弾圧」とすべきだ、といった問題視がなされていないことは事実です。
そして「鎮圧」とする理由は、あくまで、「弾圧」に比してより党派色が薄いこと、一般的、常識的であること、です--220.148.182.59 2006年12月8日 (金) 06:49 (UTC)

(インデント戻し)TankerさんやIP各氏(中の人が何人だか知りませんが)、何度言っても読んでいただけていないようなので、引用します。Wikipedia:信頼できる情報源の第3節に次のような文章があります。

議論している分野で、修士以上の学位を取得している人か実証可能な形で公表された専門知識を実証できるものを情報源に使ってください。より信頼できるのは、学術団体が関与しているものです。もっとも信頼できるのは、その分野の書き下ろし教科書です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていると想定できます。一般的に、大学で使われる教科書は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。しかし、高校や中学校の教科書では権威を保ち続けるような努力はされず、もっぱら政府の認可にのみ従っています。(太字引用者)

このように中学高校の教科書の出典としての価値は学術文献に及ばないことが明記されています。これは百科事典です。誤解を恐れずに言えば、一般庶民の理解など全く問題にならないのであって、ひたすら信頼できる情報源に依拠して記述すべきです。そして、信頼できる情報源に基づいた記述は、著作権を侵害するなど法令違反の恐れでもない限り、その内容を減じてはなりません。そこに、一般庶民の理解だの一般的言語感覚だの、検証不能な論理をもちだして、Wikipediaの各種編集方針を故意に黙殺してすでに提起されている学術的文献に乗っ取った記述の論旨を曲げ、内容を削除することは「百科事典の品質を低下させるような」編集(Wikipedia:荒らし冒頭)であり、これは荒らし行為の一種です。出典などを丁寧に書きこむことが文書の簡潔性を損なうとあくまで主張されるのであれば、「弾圧」という単語の選択を含めて、内容を改変しない範囲で修正すればいいことで、それを出典をもって記されている内容や趣旨までも改変する根拠とするのは単なる詭弁でしかありません。中立的な観点は、あくまでもその観点を提起している主体を明示してこそ確保されるとWP:NPOVには書かれています。もし故意に「中立的な観点」なるキーワードだけ取ってきて方針の内容を曲げて何かを主張しているとすれば、それは「ウィキペディアの基本方針とガイドラインへ従う気がない、あるいは従うことができないことを示すふるまい」とみなされ(Wikipedia:追放の方針)投稿ブロックの対象ともなりうる行為です。WP:NPOVもリンクしただけでは黙殺されるかもしれませんから、念のため引用しておきます。

偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません。様々な異なる観点の中間に位置する観点からの意見を(中間=中立であるかのように)正しいものとして提示するものでもありません。全ての観点を提示するということは、p 主義者は p が正しいと考えており、一方で q 主義者は q が正しいと考え、現在その点をめぐる論争がある、というようなの記述をすることです。(太字引用者)

Wikipediaの各種方針や百科事典の中立的記述への不真面目な態度、歴史上の出来事への解釈の一部を故意に黙殺しようとする態度はおそらく同根のものでしょうが、それは断じて認めるわけには行きません。Wikipediaではあらゆる「実力行使」は禁じられていますから、IosifさんやTears of Asiaさん、そして私の異論を黙殺しようとしてもそれは無理です。そして、私を含めて任意の人間が任意の版にいつでも差し戻しできることに注意してください。あなたがたが嫌がる「弾圧」という評価・分析もウィキペディアからもこの世の中からも消し去ることはできません。--Pugnari 2006年12月8日 (金) 07:10 (UTC)

熱くなられているようなので、今一度現在の版に目を通すことをお勧めします。既に複数の「弾圧とする見方」を、文献とともに記載しているのです。また、「鎮圧」について朝鮮史研究会が問題視していない点についてもご留意下さい。--220.148.182.59 2006年12月8日 (金) 07:25 (UTC)
違います。Iosifさんがすでに指摘されているように、「本文」に鎮圧と書いておいて、注釈に「激しい弾圧とかかれている」と書いたのでは、「激しい弾圧」はオマケに過ぎないと読者は思うでしょう。したがって、原稿記事の文面では「鎮圧」という表現が「正しく」て、「激しい弾圧」との研究評価を過小評価していることになるのです。これは、WP:NPOVの趣旨(上記引用部分)に反したやり方ですので、賛成できないと言っているのです。そのうえ、「鎮圧」という言葉を使っている出典が本文に記載されていない上、私の記憶限りでは、このノートページでも中高の教科書しかていじできていないわけですから、二重に方針に反しているのです。また、念のため申し上げておきますが「朝鮮史研究会が問題視していない」ことが、本文で「鎮圧」「治安維持」の表現しか用いない根拠にはなりません。議論のすりかえですよ。しらじらしいにも程があります。--Pugnari 2006年12月8日 (金) 07:33 (UTC)
編集しました。どうでしょうか。--220.148.182.59 2006年12月8日 (金) 07:46 (UTC)
拝見いたしました。杉本幹夫氏は自由主義史観研究会の理事の方と同一人物ですよね?そもそもこの方が歴史学の専門家(上記引用済みの方針文書の指針に従えば、大学で歴史に関する教職についている、ないし、歴史に関する修士以上の学位をもっている)であるか私は知りません。展転社の書物が百科事典が寄って立つべき信頼できる情報源なのかという問題は大きいですが、まあ、それでも、私個人の考えとしては、出典から排除すべきだとまでは言えないでしょうね。ですが、この本に則して「独立運動家」を「宗教指導者」と書き換えるのは非常な問題です。すでに提出済みの文献ではこれを「独立運動家」として記述しているでしょうから。一方の意見を片方の意見で塗りつぶす、こういう編集がもっともWP:NPOVから遠い編集ですよ。
私は自由主義史観にも、今日の韓国で見られる過度なナショナリズムにも個人的には嫌悪を感じますが、それと記事の執筆とは別問題です。対立する意見があるときは、あくまでも両論併記が必要なのです。--Pugnari 2006年12月8日 (金) 07:59 (UTC)
危うくPugnariさんの再投稿に被ってしまうところでした。で、反応が予想通りなので、苦笑しています。意見対立の先鋭化を恐れて、「暴動視」し「暴動だから鎮圧だ」という理屈は用いないのを編集方針としましたが、この理屈に則る方向へ舵を切ろうかとも考えています。ちなみに、杉本氏は修士号をお持ちのようです。信頼できる情報源として問題がありそうなのは、むしろ"欧米の植民地支配にあった東南アジアやインドの民族主義を覚醒させた"旨が記されている著書の方ではないかと私は思いますが。--220.148.182.59 2006年12月8日 (金) 08:14 (UTC)

(インデント戻し)自由主義史観研究会は、私に言わせれば、TankerさんやIPさんの好きな「一般的感覚」から見ると政治的というか、思想的(ナショナリズム的)傾向が強過ぎて個人的には受け付けませんが。「アジアの民族主義の覚醒云々」が信頼できないと断言なさる姿勢は、私の目には完全な自由主義史観POVと映りますが(調べれば、アジアの朝鮮民族でない活動家が3.1運動に刺激を受けた事を伺わせる1次資料ぐらいすぐに出てくると思いますので)、私がそういえば、「『自虐史観』を強制する左翼の方がよっぽど偏ってる」という話になるのでしょうね。この点に行き着いてしまうと議論は決して妥結しませんし、ウィキペディアは論争の場ではないので、丁寧に両論併記の記事を作るべきでしょうね。そう考えて、「出典としては排除できない」と初めから申し上げたわけです。 それにしても、これまで散々費やした時間と労力とリソースが無駄だったというわけです。私は、自分が個人的に受け入れられない意見を記事に書くのは許せないと主張しているわけではないのですから、最初から、「この記事は自虐史観に汚染されているから是正しなければならない」とでも仰れば良かったものを、と、個人的には、思いますが。 ちなみに、両論併記にする場合は、

  1. 誰がどういう主張を行っているのか、主語と出典を常に明らかにする。
  2. 自分が支持できない主張を排除しない。
  3. それぞれの主張に価値判断を含めない(どちらが正しいとか、どちらが優れているとか)。

の3点が満たされなければならない事をあらかじめ強く断っておきます。これらはウィキペディアの方針文書で決められている事ですから、誰もが尊重すべき事だと思います。--Pugnari 2006年12月8日 (金) 11:33 (UTC)

無駄だったのですか・・・。何だかめんどくさくなってしまいましたね(笑)。まあ、あなたにはあなたの党派性があり、私には私の党派性があるのでしょう。両論併記の記事は是非Pugnariさんに主導してもらいたいところです。可能な限り付き合いますが。"欧米の植民地支配にあった東南アジアやインドの民族主義を覚醒させた"旨の記述が妙だなと感じるのは、例えばインドで、民族運動の鎮静化を狙ったベンガル分割令が1905年に制定されていて、しかしこれが逆に火に油を注ぐ結果となって運動を盛り上げてしまい、1911年になって撤回される、という歴史的事実があるからです。このようなインドの民族主義を眠っていたと見なすのは強い違和感を感じます。別の局面との連関の指摘なのかもしれませんが、記述としては完全に「失敗」だと思いますよ。あと、非常に小さいですが重大な過ちに気付いたので、記事を修正しておきました。--220.148.182.59 2006年12月8日 (金) 11:59 (UTC)
例えば、韓国併合ノート)を見てください。同じ事の繰り返しです。私の目から見れば自由主義史観はそれ以外の歴史価値観を持つ論者の主張を徹底的に拒絶、糾弾するというのが行動論的見地から見てほとんど公理のようになっていますから、純粋に原理的に妥協は不可能です。かといって、自由主義史観で記事を塗りつぶしては明らかなPOVなので。
わたしは記事本文のどの部分にも実質的に手を加えていないですし、調べ物にも時間を割けそうもありませんので、記事自体の執筆にはかかわる事が出来ませんが、両論併記にすると合意が出来るのであれば、それ際してのフォーマッティングや、方針文書との整合性の確認などはお手伝いできるかと。両論併記に異論が出るようなら話は別ですけれども。
ちなみに、私としては、影響云々というのは双方向的なものなので、インドで民族主義が既に高まっていたから、日本の植民地下にあった朝鮮半島の運動が影響を及ぼしていないとは言えないと思いますけど、もう議論は無駄のようですので。--Pugnari 2006年12月8日 (金) 12:14 (UTC)
それは即ち反自由主義史観的POVですね(笑)。というか、別に自由主義史観とやらに則らなくても「鎮圧」で構わないと思いますよ。日本語として問題があるわけではないですからね。改めて言っておくと。影響については、あったかなかったかではなく、眠っていると見なす記述が歴史認識的誤謬であるということです。まあこれ以上はやめておきましょう。--220.148.182.59 2006年12月8日 (金) 12:26 (UTC)
▼なんだか、まだノートを全部読んでいませんが、教科書比較のURLについてだけ。220.148.182.59さんが自分自身によって同じURLをあげたのがこれで3回目です。その3回目にしてようやく「朝鮮史研究会幹事会教科書検討小委員会が公表した」と述べました。これを述べて初めて「自分が何を掲示しているのか」を明らかにしたわけですよ。。220.148.182.59さんはどうも典拠を挙げるということが何か根本的にわかっておられない。下に記しますが「典拠」という意味もご理解いただいていないかもしれません。典拠とは、ある叙述を支持するものです。▼「挙げる」という行為のみならず「典拠」の意味もご理解いただいていないかもしれません。220.148.182.59さんのあげたURLは「鎮圧」の語の使用例が東京書籍と大阪書籍の高校社会科教科書に存在することを示すだけです。しかも、そこで「鎮圧」の語が用いた意図もわからず、単に主語に依拠しているだけかもしれない。これでは、IP氏(IP諸氏)による記事の編集意図を支持するものとは思えません。▼それから「本文を平易で簡潔、無党派的で一般的で、「踏み込まない」ものとし、注において様々な見方を紹介」したなどと大雑把なことを言われても、それ自体が嘘であると指摘しております。このような逃げ口上で自分の版から改変・編集によって版を重ねたことが実績になると思われませんよう注意だけしておきます。情報としては何も加わっていませんから。▼「平易で読みやすい」と言って現在の版を作った人が220.148.182.59さんとは別人であるということも指摘しておきます。擁護する際に編集者と同じ文言を用いている点から「単なる受け売りで言いぬけようとしていないか、差分を検討していないのではないか」という疑いを覚えています。そのうえで「簡単には譲れない」と言ってみせても、便乗してリバートしてるだけであるという印象ですので、お芝居にしか見えません。この印象を払拭してくださる編集意図説明を各所についてやってもらえれば、納得するかもしれません。▼私は本文と脚注で言葉を使い分けていることに異議を唱えているのではなくて(そういう箇所もあるが)、典拠として脚注部に書かれている解釈とはまったく違うことを本文に書いている(書いていた)というもっとひどいことをやってるんだと指摘していたと説明しておきます。▼反自由主義史観POVという言葉まで出ました。「自由主義史観」をどう定義するのかはわかりませんが、「自由主義史観」を自称する人々による教科書は「歴史は科学ではない」と反アカデミズム宣言をしているのではなかったでしょうか。自由主義史観がはらむ価値判断やそれとは反対の価値判断はいずれもPOVですが、「自由主義史観」による反歴史学宣言だけは別です。これに反対することをPOVだと言って排してしまうと、歴史叙述に関する合意・すりあわせは不可能だということになります。おそらく西尾かんじは不可能だと宣言したくて書いたんでしょうけれども、これはWikipediaの基本的な方針から真っ向対立するということだけは念頭においたうえで発言をつづけてください。--Iosif 2006年12月9日 (土) 00:21 (UTC)--修正付加。

(インデント戻します)論争を恐れずに言えば、「つくる会」はじめ、自由主義史観を主張される、あるいはそれを支持される方の論法は常に科学的な反証を拒否しているように見えます。このノートページを含め、ウィキペディアの各所でもその例をいくらでも見る事が出来ます。それが「歴史は科学でない」というテーゼに端的に現れているわけですが、科学的反証をもってしなくても、まともな想像力があれば彼らがしばしば主張するように、極端に過去の日本政府や日本軍の所業を正当化し、被害を受けた人々をおとしめるような結論や表現方法にはなりえないとも思います。そして、「科学でない」と主張しておきながら、何か中途半端に過去の文献を引っ張り出してきて、過去の日本政府が起こした非人道的行為は実際はなかったとか、それほど非人道的なものでなかったことが「証明できた」などと主張するわけです。昔の日本が行った事にはそれなりの歴史的コンテクストがあるわけで、それがいかな残虐行為であろうとも、現在にいきる我々が個人的に引け目を感じる必要なんかないと、私個人は思いますが、何か深層には自分自身や、自分の属しているコミュニティーへの自信のなさ、欲求不満、ねじれた愛情といったものがかいま見えます。その意味で社会学や、心理学・集団心理学の分析対象としては非常に興味深いと思いますが、正常なアカデミズムの立場から見れば「歴史は科学ではない」というテーゼに基づく全ての論は「トンデモ」なんとかの一種と考えざるを得ないわけです。しかしながら、現在のウィキペディアにはその「トンデモ」を排除する機構がありません。ここにはっきりとこれらのにいかに対処すべきかが書かれています。

違った言い方をすれば、これは宗教のようなものです。神の存在を信じているキリスト教徒やイスラム教徒に、神の存在をまず科学的に証明してください、なんていっても仕方がないのと同じだとも言えます。それが「歴史は科学ではない」の意味ではないでしょうか。--Pugnari 2006年12月9日 (土) 04:04 (UTC)

三・一運動の性格について

この運動全体を暴動とみるか、運動としてみるかについてですが、今日図書館でざっと調べた限りでは後者の運動としてみる研究が圧倒的でした。以下は探し当てた順で、並びに特に意味はありません。

  • 渡部学「三・一運動の思想史的位相」(『思想-近代朝鮮と日本-』537,1969)
  • 中塚明「朝鮮の民族運動と日本の朝鮮支配」(『思想-近代朝鮮と日本-』537,1969)
  • 市川正明「まえがき」と「解題」(『明治百年史叢書 三・一独立運動』第一巻、原書房、1983)←資料集です
  • 姜在彦「思想史から見た三・一運動」(『姜在彦著作選朝鮮近代の変革運動』明石書店、1996)
  • 同上「三・一独立運動」(『平凡社選書90 朝鮮近代史』平凡社、1986)
  • 梶村秀樹「三・一運動論」(『梶村秀樹著作集第四巻 朝鮮近代の民衆運動』明石書店、1993)
  • 朴慶植「独立運動の弾圧」(『日本帝国主義の朝鮮支配』上、青木書店、1973)
  • 武田幸男編『新版世界各国史2 朝鮮史』(山川出版社、2000)※三一運動部分は糟谷憲一氏担当。
  • 長田彰文「三・一運動と日本」(『日本の朝鮮統治と国際関係-朝鮮独立運動とアメリカ-』平凡社、2005)
  • 李光植ほか編「3・1運動と大韓民国臨時政府の成立」(『朝鮮韓国近現代史事典』第二版、日本評論社、2006)
  • 趙景達「「独立万歳」の論理」(『朝鮮民衆運動の展開』岩波書店、2002)
  • 姜万吉「民衆解放運動の胎動」(『韓国の学術と文化21 朝鮮民族解放運動の歴史』法政大学出版局、2005)
  • 馬淵貞利「現代歴史学における三・一運動」(『朝鮮史研究会論文集』17,1980)
  • 中塚明「朝鮮をおおう「独立万歳」の声」(『近代日本と朝鮮』第3版、三省堂、1994)
  • 朴慶植『平凡社選書49 朝鮮三・一独立運動』(平凡社、1976) ←三一運動専論です
  • 山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』(岩波新書青776、1971)
  • 石渡延男監訳『入門韓国の歴史-国定韓国中学校歴史教科書-』(明石書店、1998)
  • 大槻健ほか訳『世界の教科書シリーズ 新版韓国の歴史』第2版(明石書店、2003)

日韓歴史共同研究委員会掲載論文の「第2部日本の植民地支配と朝鮮社会」にあるいくつかの論文も参照のこと。

論文や本のタイトルにありますようにそもそも「運動」という表記以外は見えません。仮に暴動とする研究があったとしてもごくわずかでしょう。というのも、『史学雑誌ー回顧と展望ー』という毎年6月頃出される歴史研究の一年間の研究史を整理するものがあるのですが、その朝鮮史部分を十数年分見ましたが、暴動とすべきなどとする言及は皆無でした。また馬淵論文は三一運動専門の研究史を整理したものですが、それにも言及有りませんでした。この他『岩波講座世界歴史』とか世界の歴史シリーズとかは見ていないので、運動と見る研究はまだまだあるでしょう。さらに言えば、上に挙げたのは日本語のものばかりで、韓国の研究などはわたしがハングルを読めないためにリストに入れることはできていません。Iosifさんが挙げたものも当然カウントすべきでしょう。もっと増える可能性は限りなく高いと言えます。

挙げた研究は古くは1969年から2005年までにわたりますが、細部は違えど全体を運動とみていることには変わりありません。また朝鮮史専門以外の方も含んでいます。つまり非常に広く支持されているといえるでしょう。

本文には多数派の意見を反映すべきですから、(しかもこの場合れっきとした学術研究ばかりです)、そのように改めるべきでしょう。無論、こんなに暴動と認定している研究があるよという場合は提示してください。改めます。しかし提示がない限りそのような方向で本文を改めていきます。ご協力お願いします。具体的な研究提示無くしてリバートしないでください。また杉山研究を削除はしませんが、これだけ研究量に差があると、せいぜい注で触れるだけで十分でしょう。むしろ一つの研究だけを特に取り上げるのは、中立公平性を失し、読者に研究者の見解が二分しているかのごとき誤解を与えかねないという理由からです。繰り返しますが、それだけの研究量があれば別です。れっきとした査読雑誌や紀要に掲載されているのであれば何ら問題ないどころか、むしろ書くべきでしょう。しかしわたしの調査ではそうではない。ただ抜けもあるでしょうからその時は指摘してください。

あと弾圧まつわる個別の事件についてですが、堤岩里事件以外では江西事件、砂川事件、密陽事件、孟山事件、陝川事件、定州事件、南原事件、京畿道狩川及び花樹里の焼き討ち、ソウルの十字架虐殺事件などいくつもあるそうです。上に挙げた諸研究が出所です。

追加です。インドや東南アジア(フィリピン)への影響については『朴慶植1976』(284頁)が言及していました。インドへの影響はこの著者によれば、ネール『父が子に語る世界歴史』の中で三一運動に触れているのを挙げています。どうやら非暴力不服従運動に三一運動の影響を見ているようです。

ハングル資料を読めないくせに、日本語の研究を急に大量に読んだため、なんだか卒論レヴェルなら書けそうな気がしてきました。実際に書くと詰まるんでしょうけど。--Tears for Asia 2006年12月9日 (土) 16:11 (UTC)

歴史は科学ではありませんし宗教でもありませんよ。科学によって解明される歴史はありますが、歴史はあくまで科学ではなく「事実」「真実」です。また「科学的反証をもってしなくても、まともな想像力があれば彼らがしばしば主張するように、極端に過去の日本政府や日本軍の所業を正当化し、被害を受けた人々をおとしめるような結論や表現方法にはなりえないとも思います」なる宗教でもありません。三・一独立運動において「暴動」であった面に対して「鎮圧」と当たり前に編集されています。「弾圧」を用いた編集をしたいなら三・一独立運動において暴力を伴わない活動について具体的な事例を挙げて編集されればいいでしょう。「堤岩里事件」を「弾圧」としている時点で反日的な宗教性が滲み出ていますね。Tanker 2006年12月9日 (土) 16:31 (UTC)

Wikipediaの性格やわたしの書き込みについても、なんかいろいろ勘違いされているようですが、上に書きましたようにハングルすらわたしは読めません。そのような者が歴史的事実を判断しそれを記事に反映させることなどできません。(実際加筆していません) 「「堤岩里事件」を「弾圧」としている」のは学術研究者たちであって、私ではありません。ただ歴史学者たちがそう書いていますよ、という情報を提供しているに過ぎません。研究者がこう判断しているんだ、という客観的な事実を受け入れられないのであれば、それは単なる信念、あるいはそれこそ宗教ですよ。歴史研究によらずして執筆したいのであれば、サイトを立ち上げてなさればよいでしょう。それを止めるほど野暮じゃないですよ。Wikipediaのルールが気に入られないのであれば、先にルールを変えるよう努力なさるか、あるいはここにはもう足を踏み入れないかの選択をなさるべきでしょう。Tankerさんの精神状態のためにもそうした方が良いのではないですか。--Tears for Asia 2006年12月9日 (土) 16:48 (UTC)
(編集競合気にせず)科学的に実証されない事柄を「事実」「真実」として頑強に主張するんでは「宗教」と同じでしょう?それに、科学的学術的手段で検証されない「事実」って何ですか?そういうのを「信念」と呼ぶのです。信念はそれを信じる人の脳内では確固たる事実なんでしょうが、時に他の人から見ればそれはただの妄想であったりもするわけです。だから、自由主義史観は宗教のようだといっているのです。私が言った「想像力」というのはあくまで科学的実証の補助手段です。アインシュタインが相対性理論を打ち立てたときも、彼が持っていて他の人が持っていなかった想像力を駆使した事でしょう。科学というのはそういうものです。
暴力を伴っていたら暴動だとか、そういう議論の仕方は不真面目だとも思います。自由主義史観が宗教じゃないというのなら、Tears of Asia さんの調査とそれに基づく提起に対してはまじめに正面から反論されてみてはいかがですか、同じ事ばかり繰り返し言うのではなくて。--Pugnari 2006年12月9日 (土) 16:53 (UTC)

今行っている議論は「科学的」などと言うたいそうなお話ではないのですよ。一応参考として堤岩里事件の本文から「小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。」これを3.1独立運動に対する「弾圧」としている学術研究者とはどういう宗教家ですか?普通に考えて「暴動」に関わった暴徒の悪あがき事件でしょうが。Tanker 2006年12月9日 (土) 17:10 (UTC)

たいそうなお話ですよ、百科事典ですから。「普通に考えて「暴動」に関わった暴徒の悪あがき事件でしょうが」とかいう主観的予断をいかにして客観的なものにしていくかという事について延々と議論しているのです。それがわからないのでしたら、もうなんどもなんどもなんどもなんども申し上げていますが、方針文書WP:Vを熟読していただけますでしょうか?--Pugnari 2006年12月9日 (土) 17:28 (UTC)

「科学的」なたいそうなお話ですか?「小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。」を暴徒の悪あがき事件でなく「弾圧」などとするのは主観的予断どころかカルト宗教まがいでしょうが。(^○^)Tanker 2006年12月9日 (土) 17:40 (UTC)

何か事件の全貌を正しく捉えてないのではないですか。わたしが探し出した上記著作のコピーを調べると、3/21にデモ行進の際、警官隊と衝突し、4/15に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて一斉射撃の後放火焼殺した。他にも日本側が放火し15村落317戸が延焼し、39人が亡くなったというのが、公約数的記述です。この状況はアメリカ人宣教師スコピルによって写真に撮影され世界に発信されたと書くものもあります。孟山事件では100名程度のデモに対し、逮捕可能であったにもかかわらず一斉射撃を加えたとしています。「弾圧」どころか「虐殺」としているものもありますよ。前者がお気に召さないのであれば、学術研究に書いてあることを根拠に後者のことばを差し替えてもよろしいですよ。--Tears for Asia 2006年12月9日 (土) 17:43 (UTC)
事件の内容をあなたがどう評価するかという話と、それをウィキペディアで記事にするときに依拠すべき出典の信頼性の問題は別の問題です。それの区別ぐらいしてください。議論になりません。--Pugnari 2006年12月9日 (土) 17:50 (UTC)
Pugnariさん、コメントありがとうございます。
ところで追加です。姜在彦論文に載せられていた日本側資料ですが、朝鮮総督長谷川好道から総理原敬宛の報告に「検挙班員及軍隊ノ行為ハ遺憾ナガラ暴戻ニ渡リ、且ツ放火ノ如キハ刑事上ノ犯罪ヲ構成スル」とあって、日本側自身が「弾圧」だと認めています。まあ第三者のアメリカ人がいたことが大きいでしょうが。後今日はもう寝ますので、コメントは明日夜にします。--Tears for Asia 2006年12月9日 (土) 17:53 (UTC)

わたしの意見の全貌を正しく捉える気がないようですね。没宗教から目覚めるまでとくとおやすみなさい。堤岩里事件Tanker 2006年12月9日 (土) 18:01 (UTC)

だいぶん特徴が出てきました。失礼を承知でお尋ねします。Tankerさんは過去にPeaceとみなされてしまったアカウントで活動したことがありますか?--Iosif 2006年12月9日 (土) 18:33 (UTC)

反論できなくなると論点を拡散して議論を放棄してしまわれる方なのですね。アカウントをとったのはこれが始めてですからきっぱりと断っておきます。そして「理由の説明はできないけれども堤岩里事件を「弾圧」だったことにしたい」という強いお気持ちだけはわかりました。では引き続き目覚めるまでとくとおやすみください。Tanker 2006年12月10日 (日) 02:38 (UTC)

お目覚めの一助になるように貼っておきます。[9] Tanker 2006年12月10日 (日) 03:12 (UTC)

著者がだれかもわからんようなブログはなんの参考にもなりません。
あなたが何をどう信じようと勝手です。しかし、Tankerさん個人の思想とか私個人の思想とかとウィキペディアの記事は別個の問題だということを理解してください。そして、私が批判しているのは、自由主義史観にくみする人々は歴史を情緒的に、主観的に解釈しようとし、全うに分析的な解釈を放棄するという破格の方法で検証された学説を完全に無視するところです。あなたが何を信じようと勝手ですが、あなたの情緒や主観と相いれない表現がウィキペディアに用いられることを容認できないのであれば、あなたはウィキペディアの記事の編集に関わるべきではないです。「目を覚ませ」等といっている暇があったら、出典を明記しつつご自分も文面を提案なさったらよいじゃありませんか。
蛇足ながら、韓国の歴史教育も韓国自身のナショナリズムによってゆがめられている面が多いと私は思っています。だからといって、日本や日本人が同じように自分たちのナショナリズムの見地から歴史を解釈したらそれはもう同じ穴の狢というか、韓国のナショナリズムを批判することなんてできませんし、そこからは歴史研究の成果は生まれないし、今日的問題をも複雑にするばかりです。そして、ウィキペディアはそういうナショナリズムの宣伝の場ではありません。個人のブログなどと混同していただいては困ります。--Pugnari 2006年12月11日 (月) 06:01 (UTC)

リンク先の内容を読めば具体的に反論できずにブログを馬鹿にしているだけの匿名評論家の能書きの弁よりは余程参考になると思いますが?「韓国の歴史教育も韓国自身のナショナリズムによってゆがめられている面が多いと私は思っています。」などと言いながら、参考文献も引用し韓国側の歪んだ歴史観を説明している内容に反論もできずに単に「ブログだから何の参考にもならない宣伝」と切り捨てている時点で前言が体裁を整えただけの能書きであることが自明です。あなたは「新しい歴史教科書」を読む以前にまず「韓国の歴史教科書」をもっと検証し「目覚め」を心掛けてください。Tanker 2006年12月11日 (月) 17:52 (UTC)

ブログを相手に論争することは、ウィキペディアの目的と何の関係もありません。ウィキペディアが参照すべき資料でないとわかれば、それでもう十分です。Kinori 2006年12月12日 (火) 03:32(UTC)

2つ下の「本文にも「弾圧」とする具体的な事件とその内容が示されていません」を参照してください。Tanker 2006年12月12日 (火) 14:02 (UTC)

文案について

良くも悪くも保護されてしまいましたので、ゆっくり文案を練るというのはどうでしょう。先のリバート合戦では、個々の部分について詰めていくことはできてなかったので少しずつ提案します。(当方も時間の余裕が欲しいので) まず最初の相違点が多い「背景」のパラグラフですが、「運動の広がり方についての解釈は複数ある。」といいながら注などで説明しないのであれば、特に必要はないのではと思います。また残すのであれば「経緯」のことろに移した方が良いのではないかと感じます。解釈についてどういうものを想定しているかご存じでしたらご教授ください。またIosifさんの版では{要出典}が貼り付けられている運動の事前計画性についてですが、これについては『朴慶植1976』(73頁~78頁)等に言及していますので、はずしてもよろしいでしょうか。またそれをやはり「経緯」の方に持っていって良いでしょうか。つまりちょっとダイエットし、以下のような形にしたいのですが。

三一運動の直接的な契機は高宗の死であった。高齢だったとはいえ、その死は驚きをもって人々に迎えられ、様々な風説が巷間ささやかれるようになる。その風聞とは、息子が日本の皇族と結婚することに憤慨して自ら服毒したとも、あるいは併合を自ら願ったという文書をパリ講和会議に提出するよう強いられ、それを峻拒したため毒殺されたなどといったものである。実際のところは不明であるが、そうした風説が流れるほど高宗が悲劇の王として民衆から悼まれ、またそれが民族の悲運と重ねられることでナショナリズム的な機運が民衆の中に高まったことが、運動の引き金となったといえる。

上記は短時間で作ったものですので、全く無視ししてもらっても結構ですし、他の文案を出してくださればありがたいです。このパラグラフにこだわらず他の箇所でも良いと思います。三一運動は日本の植民地支配が武断統治から文治統治にかわるきっかけになった事件ですし、「背景」で少し武断統治について触れておくのも良いかもしれません。いかがでしょうか。--Tears for Asia 2006年12月10日 (日) 17:51 (UTC)

文案「経緯」部分

〔改稿趣旨説明〕

  • 『親日派のための弁明2』の記載はカットしたいと思います。理由は以下のとおり。
学術研究ではない。というより学術研究に言及されていないことを書いている。「朝鮮仏教がもろ手をあげて(朝鮮総督府を)歓迎していただろうことは十分に推測できる」(自分で推測といっているし)とか。複数の研究や論著を見ましたがそういう記載はなかったです。つまり孤立した支持されていない説です(敢えて学説とはいいますまい)。それに「経緯」のところで大部分を占めるほど説明が必要とは思えません。書くならもっと具体的な、運動の展開について言及すべきでしょう。
  • また無根拠・誤りの部分も削除したいと思います。
天道教をカトリックとしていますが、そもそもこの宗教は東学系統ではないのでしょうか(姜在彦「東学=天道教の思想的性格」1969という論文があるほどです)。これをキリスト教にカウントし、「独立運動の主導者33名中31人がキリスト教関係者であることには違和感が払拭しきれない」のようなコメントすることは大きな誤りです。念のために言いますと『親日派のための弁明2』にもそのような記述はまったくありません。もしかしたら該書93頁の「天主教(カトリック)」を見誤った可能性は捨て切れません。

以下文案

== 経緯 ==
===民族代表33人===
高宗の急死後、国葬が行われる3月3日に向けて独立運動が計画されるようになった。中心となったのは天道教キリスト教、そして仏教の指導者たちである。彼等は会合を重ねて大衆化・一元化・非暴力の三原則を取り決めた。同時に朴泳孝など高官への働きかけや学生に対する参加呼びかけも行ったが、前者への働きかけは成功しなかった。

3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。実際には仁寺洞の泰和館(テファグァン)に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をした[1]。参加者は、孫秉煕らの天道教代表15名、その他李昇薫らのキリスト教代表16名、韓龍雲(ハンニョンウン)、白龍城(ペクヨンソン)らの仏教代表2名の計33名であったという。そのためしばしば民族代表33人といわれる[2]。独立宣言書は崔南善(チェナムソン)によって起草され、1919年2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教とキリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布したとされる。

===独立宣言===

 
タプコル公園にある独立宣言書のモニュメント

吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする」という一文から独立宣言は始まる。タイトルに、そして冒頭の一文に明確に述べられているように、この宣言書は何よりも朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり、そしてそれは「人類平等の大義」と「民族自存」という原理に基づくものとして捉えられている。この他、朝鮮という民族国家が発展し幸福であるためには独立を確立すべきこと、そしてそのために旧思想・旧支配層・日本からもたらされた不合理なものを一掃することが急務であること、朝鮮の独立によって日本及びそこに住む人々との間に正しい友好関係を樹立することなどが宣言の骨子となっている。

一読して分かるように、非常に理想主義によって貫かれた独立宣言文であった。特徴的なのはその戦闘性の希薄さであって、日本に対する独立宣言でありながら、その日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている。これは三原則の一つ非暴力理念を反映した結果といえる。(これは末尾に掲げられた「公約三章」中の「・・・・・」と「・・・・」にもみられる。)

こうした理想主義的な独立宣言に対し、抽象的で具体的な行動指針が示されていないといった批判がマルクシズム的歴史学から寄せられたこともある。しかし現在では多くの民衆を動員せしめた点で、その意義は大きく評価されている。

===運動の広がり===
発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進を行った。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及んだ。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。

運動の規模
三月から五月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る。そしてデモの回数・参加人数が多かったのは京畿道慶尚南道黄海道平安北道などの地域であった。地方都市でデモを行う場合、人が集まる「市日」が選ばれ、通常より多くの動員ができるよう工夫された。

運動の担い手と形態
運動の初期には、その発生は大都市に集中し、担い手は学生や教師といった人々が主導した。しかし運動が広がりを見せ、地方都市や農村に舞台が移るようになると参加する人も多様となり、農民や労働者、商工業者、官僚、両班などが参加するようになった。

運動の形態には、デモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、閉店、官公署襲撃などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって、運動を行っていたが、次第に日本側の弾圧が激しくなると、それに対抗する形で官公署襲撃が行われるようになった。

被害状況
襲撃による被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。

襲撃対策として日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の弾圧を行った。それはこの運動を短期間で終わらせることで、パリ講和会議における不安定要因を除いておこうという考えからであった。そのため多くの犠牲が朝鮮側に生じた。朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るという。[3]

こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は4/15に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて一斉射撃の後放火焼殺され、他にも日本側が放火し15村落317戸が延焼し、39人が亡くなったというのが全貌である。その違法性については日本側も認識していたらしく「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ?カラザルコトヲ確メタリ。・・・之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上に報告している。[4]

この他の悲劇としては江西事件、砂川事件、密陽事件、孟山事件、陝川事件、定州事件、南原事件、京畿道狩川及び花樹里の焼き討ち、ソウルの十字架虐殺事件などがある。

以上のような運動弾圧中、悲劇の死を迎え、特に人々の記憶に残った女生徒がいる。彼女は故郷の天安で独立運動を行い、逮捕・起訴後懲役3年の有罪判決を受けてソウルの西大門刑務所に収監され、獄中で死去した梨花学堂学生柳寛順(ユグァンスン)(当時17歳)は、後に「独立烈士」として顕彰されている。彼女は韓国において、フランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクになぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、現在まで尊敬を集めている。

運動の終息
朝鮮総督府当局による武力弾圧の結果、運動は終息していった[5]。司法的には以下のように決着がつけられた。逮捕・送検された被疑者12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴され、残り1,151名は調査中とある(1919年5月8日時点)。1919年5月20日時点で一審判決が完了した被告人は4,026名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名。[6]

きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙(ソンビョンヒ、天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善(チェナムソン)ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている。下級審で3年以上の比較的重い刑を宣告された者でも、最終的には最高裁判所において内乱罪の適用が一括して棄却され、保安法及び出版法などの比較的軽い構成要件のみの適用により、刑期も大幅に短縮された。最高裁で確定した刑期も、1920年の大赦命令によりさらに半減されている。こうした比較的軽い刑は、アメリカなどからの批判が有ったためである。ただ国際世論の眼に触れない地方では懲役15年や10年という判決が下されることもあった。

一方司直の手を免れた活動家たちは外国へ亡命し、独立運動は挫折した。ただこのうち後に独立派の中心人物となった金九は、事件後中国上海に逃亡し、大韓民国臨時政府に参画している。朝鮮人移住者の多かった満州間島地域では、独立軍の抗日武装闘争が活発化し、青山里戦闘などの事件が起きた。

三一運動が挫折した後、 1945年の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。

==当時の反響==
日本のマスコミ
発生当時の新聞の論調は圧倒的に運動に対し批判的で、紙面には「朝鮮各地の暴動」、「鎮南浦の騒擾」といった字句が踊っていた。しかしやがて武力に頼った統治、すなわち武断統治に対する批判も徐々に一部の新聞に掲載されるようになる。「擾乱の有力なる原因」は朝鮮総督府の統治方法にあり、このたびのような事件を今後防ぐために朝鮮人の待遇改善や武官総督制を改め文官も総督と就けるようにすること、警察制度の強化、同化政策を推進すべきとの論調が出るようになった。これらは武断統治に限界を感じた原敬内閣の意向に沿うものであった。

吉野作造や石橋湛山ほか
日本の世論は圧倒的に三一運動を暴動とみなす論調が強かったが、一部には運動に同情を寄せる識者もいた。たとえば民本主義を標榜し、大正デモクラシーの主導者となった吉野作造は『中央公論』などに朝鮮総督府の失政を糾弾し、朝鮮の人々に政治的自由を与え、同化政策を放棄せよとの主張を発表した。また孫文との交友で知られる宮崎滔天は運動を「見上げたる行動」と評価し、朝鮮の人々の自由と権利を尊重し、いずれは独立を承認すべきと述べている。この他石橋湛山柳宗悦なども運動への理解を表明している。

==影響と意義==
三一運動は、独立という目的こそ達成できなかったが、大きな影響と意義をもった運動であった。一部の者だけが決起するのではなく、多くの民衆の参加したことは民族解放運動の画期をなし、以下のような影響を与えたとされる。

たとえば日本及び朝鮮総督府の武断統治を改めさせ、憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となった。それは日本による民族同化政策の推進を意味した。

一方で国際的な影響もあった。たとえば同年中国で起こった五四運動に大きな影響を与えている。五四運動当時中国では対華21ヶ条要求の為に反日ムードが高まっており、それに反比例する形で朝鮮への連帯感が広がった。そのため朝鮮における独立運動への支持と援助の表明が次々為された。また日本の植民地であった台湾との連帯・交流も深まったと言われる。

この他フィリピンインドなど欧米に植民地化されていた地域にも影響を与え、その民族主義を覚醒させた意味でこの事件の持つ意義は大きく、一連の独立運動の契機として評価すべきとする見方がある。

三一運動は、朝鮮の人々に今なお深く記憶され、独立運動の様子を描写したとするレリーフがソウル特別市のタプコル公園に作られており、毎年3月1日に同公園に人々が集い独立運動を偲んでいる。

==脚注==

  1. ^ 場所の移動は、群集が暴徒化し、それを口実に総督府が「凶悪な弾圧手段に出るかもしれない」(崔麟「自叙伝」)という恐れからであった。
  2. ^ 民族代表33人、彼等については評価が分かれている。独立宣言発表後すぐに朝鮮総督府に自首し運動を積極的に牽引しなかったことについて、大衆に背を向けたとする説(山辺健太郎・姜徳相)と彼等を再評価する説(朴慶植)とがある。
  3. ^ この運動に伴う検挙者数・死傷者数に関しては今なお論争がある。朴殷植は事件発生当時上海に亡命しており、死傷者数は伝聞によるものであると本書中で断っているが、多くの研究はその犠牲者数を参照している。一方当時の朝鮮総督府の記録によると553名が死亡し、負傷者は約1409名、収監された者約8500名とされている。その他の記録でも検挙者数・死傷者数について食い違いがある。たとえば和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店、2002年)では「朝鮮総督府の武力弾圧で約7500人が死亡、4万6000人が検挙された」とされている(106頁)。朝鮮総督府側は、警察官及び憲兵8名が死亡、152名が負傷(他に陸軍4名が負傷)したとされる。いずれにせよ、独立を唱える大規模な示威行動が朝鮮半島において展開され、その過程で暴徒と化した群集を朝鮮総督府が武力によって鎮圧する際、死傷者が出たことは確かである。
  4. ^ 金完燮(キムワンソプ)著『親日派のための弁明2』(扶桑社、2004年)では、提岩里近くで起きた小学校焼き討ちと警察官2名の殺害事件に関する取調べの際、容疑者の逃走を阻止する過程でやむなく起こったとされる。ただしこの意見は非常に稀少な意見であって学会ではこの説を採らない。
  5. ^ 三一運動は単なる暴動ではなく、独立を掲げた行動であるため、「弾圧」と表現されている。たとえばでは「すさまじい弾圧」(朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』三省堂、1974、215頁)やでは「民衆の蜂起と日本の弾圧」という表現を用いている(姜徳相『呂運亨評伝1: 朝鮮三・一独立運動』新幹社、2002、165頁)、では「激しい弾圧」としている(吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学振興会、2004、140頁)を参照のこと。
  6. ^ 「万歳騒擾事件一」(友邦協会編纂)

==関連項目==

==参考文献==

  • 朴慶植『平凡社選書49 朝鮮三・一独立運動』(平凡社、1976)
  • 李光植ほか編「3・1運動と大韓民国臨時政府の成立」(『朝鮮韓国近現代史事典』第二版、日本評論社、2006)
  • 杉本幹夫著『「植民地朝鮮」の研究』 (展転社、2002年)

== 外部リンク ==



--Tears for Asia 2006年12月12日 (火) 17:37 (UTC) 、Tears for Asia 2006年12月13日 (水) 16:07 (UTC) --Tears for Asia 2006年12月19日 (火) 14:44 (UTC)


参考までに、独立宣言書冒頭の訳は
吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自主民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正権を永有させんとする。
ぐらいの感じだと思います。既存の訳と比較してみてください。もっと漢文書き下し風に訳せればよいのですが、あまり得意ではないので。--Pugnari 2006年12月12日 (火) 19:06 (UTC)
Pugnariさん、早速こちらの要望に応えてくださりありがとうございます。訳していただいた部分を取り入れて上部分を手直ししてみました。ご批判お願いします。--Tears for Asia 2006年12月13日 (水) 16:07 (UTC)
とりあえず、残り書いてみました。またPugnariさんに投稿していただいた画像も使わせていただいています。文章にご批判は多いと思いますが、一度どう直すべきか建設的なご意見を書いていただければ幸いです。--Tears for Asia 2006年12月19日 (火) 14:44 (UTC)

文案へのコメント

過不足なく文案をとりまとめられたことに深く深く敬意を表します。何らお手伝いせず、心苦しいかぎりです。グレてしばらく見ないようにしていた私が意見など申し上げる資格はないと承知のうえで、思うことを無理にしぼりだして書けば、ちょっと悔しく思う部分があります。「弾圧」という表現を用いることについて注をつけざるを得ないことです。三・一運動に対する総督府と日本軍警の行動が現代日本の歴史家によって「弾圧」と表現されているのは、「単なる暴動ではなく、独立を掲げた行動であるため」なのでしょうか? 文章上の工夫によってたまに「鎮圧」という表現が混じることがあっても、その表現を用いている歴史家も含めて基本的には「独立運動への弾圧」と認識・表現しているのがスタンダードであり圧倒的多数であると認識しています。それを、そのとおりに反映すれば良いだけだと思っていました。「暴動か独立運動か」という議論も目にしたことがないため、この注がつくことで「暴動か独立運動か」という論争実態があると認めているのだと誤解を招く方向に道を開かないかが心配です。……しかし、どんな難癖であれノートに書かれた以上、それを反映して(つまり「暴動だ鎮圧だ」派への反論も記載して)おくのがフリー百科事典たるゆえんなのかもしれません。このへんは私には判断できません。私案としては、「武力弾圧」の語に注をつけて、どの本がどういう表現を用いているかを列挙すればいいのではないかと思っています。たとえば……
「三一運動への総督府および軍警による対処・行動について、朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(三省堂、1974年、215頁)は「すさまじい弾圧」と表現している。姜徳相『呂運亨評伝1: 朝鮮三・一独立運動』(新幹社、2002年、165頁)は「民衆の蜂起と日本の弾圧」、吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』(放送大学振興会、2004年、140頁)では「激しい弾圧」と表現している。」
というくらいでかまわないのではいかと思っています。しかし、「暴動だ、鎮圧だ」という話がまた復活しないために挿入すべき文言であるとお考えでしたら、この意見は撤回します。--Iosif 2006年12月20日 (水) 01:44 (UTC)

(インデント戻しました)難しい問題ですね。Iosifさんとしては韓国併合#歴史認識の比較のような記述は好ましくないとお考えですか?ここまでやってしまうと実際日本POVになってしまっているとも思います。ですが、私としては、これが論点となりうることを簡潔に明記しておいたほうが記事としての質も上がると思います。ですから、Iosifさんの文案に加えて

この三・一運動に関して、日本国内の「自由主義史観」を唱える評論家などは、歴史学者の大半が支持しているこのような見解・評価を否定し、三・一運動は単なる暴動であり日本官憲の行為はそれに対する正当な鎮圧であるとか、朝鮮人のうけた被害について今まで言われてきた規模は誇張されすぎているなどと主張し、運動やそれに対する弾圧を矮小化してとらえようと試みている。

と動作主を明らかにして、注釈ではなく地の文に、自由主義史観の「偏った」見解であることを明示して記述したほうがよいと思います。現在の、特に日本での政治状況をかんがみるに、残念ながらこの「偏った」見方に意識的になり潜在的になり与する人は少なからずいるはずですので、これを完全に無視するのはある意味NPOV違反であると思います。自由主義史観も、ナショナリズムのある種の発露としてそれ自身興味がある現象であり、捨象すべきものではないでしょう。Wikipediaが歴史修正主義に対して取りうる手段としては、逆説的ですが、自由主義史観」の項目を十分に整備して、そこにかかれらの主張を全部詰め込んでしまって、各歴史事象の記事からは、「自由主義史観を唱える者たちは・・・」と簡単な説明とリンクで済ませる(ことで、実質的に歴史修正主義的記述を駆逐する)という方法が有効なのではないかと、私は考えています。このようにすれば、出典明示の上書かれている文章を不当に修正するユーザーが現れた場合でも、単純に荒らしとしてリバートして、荒らしが高じればオリジナルの版で保護、というようなルーチンで処理できるとおもうのですが。--Pugnari 2006年12月20日 (水) 06:15 (UTC)

お二方ご意見ありがとうございます。
Iosifさんへ。まず当方のノートの署名直して頂きありがとうございました。ノートにお礼書けなかったので、この場を借りてお礼申し上げます。それでご提案の件ですが、恐縮ですがちょっと不明の点がありまして、Iosifさん言われた出典部分については注5で取り上げていますが、注では駄目だということでしょうか。それとも純粋に文章表現を差し替えた方がよいということでしょうか。当方文章表現には拘泥しませんので、差し替えられるのであれば、特に異議ありません。
Pugnariさんへ。訳と写真ありがとうございました。どこに書くのかという点について言われていませんが、ご提示された文章は当方文案の「影響と意義」の箇所に挿入すべきということだと仮定して愚考を申し上げますと、挿入するにしてもやはり注釈程度に止めるべきかと思います。理由一、「「偏った」見方に意識的になり潜在的になり与する人」が仮に多いとしても(もしかすると少数なのに声が大きいだけとか、自由主義史観を支持しているにしても三一運動についての見方は様々で統一されていないという反論もありえます)、それを実勢として把握することは極めて困難であることから、どの程度の勢力か査定するには、そういう立場の人々が書いたものの数に依拠すべきだと考えます。この考えに依拠すると自由主義史観側の論著はあまりに少なく、本文で触れるほどの地位は与えられないと感じます。たとえば国立国会図書館雑誌記事検索は『正論』や『諸君』といった非査読雑誌も検索できますが、「三一運動」・「三一独立運動」・「万歳事件」・「万歳騒擾事件」などの語彙で検索してもほとんど無い。無論折に触れ言及することがあるかもしれませんが、三一運動を正面切って扱うものはあまり無いと言って良いでしょう。理由二、三一運動の評価について仮に杉本氏のような考えで自由主義史観側が統一されていても、世界的に見てこの運動の全体的性格を暴動と見なす意見は稀少だと思うためです。朝鮮半島の評価はおいておくにしても、英語版や中国語版を見ていただければ分かるように、暴動とする意見は全く書かれていません。以上が自由主義史観に関する私見です。示された文案そのものを挿入すること自体は、わたしは賛成ですが、丸々注釈一つをそれに当てるといった方式がよいというのが、今の意見です。いかがでしょうか。
あと私事で恐縮ですが、もしかすると土曜までコメントできないかもしれません。お許しください。--Tears for Asia 2006年12月20日 (水) 15:47 (UTC)
ちょっとコメントが長くなりますが、この事については思うところがあるのでお許しください。自由主義史観が典型的な保守思想家だけでなく、いわゆる普通の日本人に驚くほど浸透していることは、たとえば、小森陽一・高橋哲哉編「ナショナル・ヒストリーを超えて」東京大学出版会 (1998) の高橋哲哉氏による「まえがき」で象徴的な形で示されています。そこでは、在日韓国人の徐京植(ソ・キョンシク)氏が都内某大学で日本の朝鮮半島植民地支配に関する授業を行ったところ、ある学生のレポートに「大学でこんな自虐的な授業を受けるとは思いもよりませんでした」と、講師が在日韓国人である事を承知の上で書かれていたというエピソードを引いて、高橋哲哉氏は「日本と朝鮮の過去、現在にわたる関係を批判的に問いなおす在日朝鮮人教師に対して、日本人の大学生が「先生も自虐史観派ですか」と応じる…(中略)…現在の日本人の歴史意識がどんなに大混乱に陥っているか、それを示して余りあるエピソードだと思う」と述べています。そして高橋氏は、藤岡信勝元東大教授をはじめとする人々が唱えるこのような自由主義史観がバブル崩壊後の人々の心の隙に入り込んでいるとし、そのような新しいナショナリズムに対する批判の論集としてその本を編んだと述べています。このように、日本における歴史修正主義に対抗するパースペクティブは、1990年代終わりにはそれを無視するという観点を超えて、そのような論が実際に存在し、人々に浸透し始めている事を認め、危機感を共有し、その上でこれを批判するという段階に入っているといえます。実際、無視できないほどに人々の間に入り込んでいる事は、現代東アジア史の各記事で必ずといっていいほど編集合戦が継続的に起こっている事からも垣間見る事が出来ると思います。
もちろん、そのような自由主義史観の主張がが世界的に見て希少な論調だというのはそうかもしれません。日本で民間に浸透しているからといって、それを取り上げるのは日本POVだと。しかし、en:The_Holocausten:Auschwitz-Birkenauを見ると、en:Holocaust_denialの言説についても本文中に取り上げられています。世界的に見てホロコースト否定論者は希少であると思いますし、そう信じたいですが、それがマスメディアの上に載り、それを批判する論説が学術的な出版物で取り上げられている以上、それはマイナーであると無視する事は出来ないのではないかという気がします。程度の差こそあれ、日本や韓国、中国のマスコミに(日本以外では必ず批判的に)たびたび話題として取り上げられている、日本における「自由主義史観」についても同じ事が言えるのではないでしょうか。我々がウィキペディアでこのようなナショナリズムの流布に寄与してはならないと考えるのは、正しい事のように思います。しかし、ただ単に流布しないという消極的な立場ではなく、彼らが何を言っているかをある程度詳らかにし、それを批判するという態度で学者たちがそれに対抗しているという現実もあります。そのことをウィキペディアが記事としてどのように反映すべきかという問題なのだとおもいます。
三一運動は、満州事変や南京大虐殺、従軍慰安婦問題といった「大きな」問題の陰に隠れている観はありますが、IP氏が持ち出してきた杉本氏の本ひとつ取ってみても、彼らの歴史修正は20世紀の東アジア史全体にくまなく及び得るし、実際そうなっていることは、自由主義史観の人たちの出している文章を一握り読めば確かめられると思います(実際に確かめていないのでなんとも歯切れが悪いですが)。私の意見としてはやはり、注釈で書くにとどめるというのは、歴史修正主義への必要な言及の中で最低限のラインであると思います。
ところで話は変わりますが、現行記事や上の改定案で取り上げられている「現代語訳」の外部サイトのトップページはここなんですが、これは明らかに自由主義史観に与する匿名の個人によるサイトであり、検証可能性を満たしていないのでリンクから外すべきかと思います(最近正式化したWikipedia:外部リンクの選び方も参考になるかと思います)。
あと、「公約三章」の現代日本語訳も近日中に試みようとおもいます。長文失礼しました。--Pugnari 2006年12月20日 (水) 17:56 (UTC)
お返事遅れたままですみません。▼上にあげられている文案に合意していることと、上の文案へと編集することを前提に保護解除依頼を出すことに合意します。自分で解除依頼を出すべきですが、年末年始も引きつづきアクセスが難しく継続的にウォッチできないため、先にしたためておく次第です。
▼Tears of Asiaさんへ:誤解を招く言い方だったかもしれません。注5で挙げられているくらいの言及で適切だと思っています。違和感を感じたのはたった一箇所「三一運動は単なる暴動ではなく、独立を掲げた行動であるため、『弾圧』と表現されている」という文章です。Tears of Asiaさんが探してくださった論文のどれかに「独立を掲げた運動であるため弾圧と表現しているのだ」という説明があるのならば、そのとおりに説明することに私も諸手を挙げて賛成します。しかし「暴動だから鎮圧と表現するべきだ/独立運動だから弾圧と表現するべきだ」という話は、Wikipediaのノートで交わされた話にすぎないのではないかと私は認識しています。いわば「暴動だから鎮圧だ」と言い出したTanker氏と可変IP氏の屁理屈に他なりません。そのようなものをとりあっていては、「ほら、こういう被害も出ている、だからコレは暴動だ、暴動だから鎮圧と呼ぶべきだ」という独自の論考を記事本文に書き込もうとする輩がまたぞろ出現するのではないかと思った次第です。これは項目「韓国併合」や同項目ノートやネット上でときどき書き込まれている「併合したんだから朝鮮は植民地ではない」という言説に似ています。この種の言説は「植民地でなければ何と呼ぶべきか」という問いには一切答えられないように出来ている言葉遊び=印象を操作せんがためだけの言葉遊びですから、それを事典の記事が顧慮する理由などないと思うのです。朝鮮史研究において「朝鮮は植民地だったか否か」という論争が存在しないのと同じように(どのような植民地だったかという論争は存在しますが)、三・一独立運動が「暴動であるか独立運動であるか」などといった論争が実際にあったのかどうか、私は聞いたことがありません。たぶん、そのような論争はないんじゃないかと思います。となると、われわれは、「権威ある論文は例外なく独立運動と書いているから『独立運動』と書く」「弾圧として書いてある『弾圧』と書く」「それ以上でもそれ以下でもない、という立場を貫くべきだと思います。そのため、注5はただ「弾圧」と書いている文献を列挙するにとどめればいいだろうと考えた次第です。▼当たり前ですが、実際問題、どのような大衆蜂起も暴動としての側面をもちます。ですが、三一運動を暴動と呼ぶ視点は大日本帝国・朝鮮総督府・その他の支配者のものです。現在、朝鮮が日本の植民地でない以上、これを「暴動」と呼んで描き出そうとする主体が存在しませんから、せいぜいが「日本と祖国の誇りを取り戻すための表現の言い換え」にしかなり得ません。そのようなものは、とりあうに値しないと思っています。
▼Pugnariさんへ:「日本国内の「自由主義史観」を唱える評論家などは、歴史学者の大半が支持しているこのような見解・評価を否定し(Pugnariさん)」以下の補足文についてです。現段階では私は否定的で、ちょっと無理があると思っています。▼もちろん、現実に、三一独立運動を「暴動」と呼んでいて官憲側の行動を「鎮圧」と呼んでいて、みんながそう呼ぶべきだと唱えている人々の代表格が存在していて、その人が同時に「自由主義史観」を唱えて自称しているのであれば、Pugunariさんの提案も成り立ちますし、私個人としても、そのほうが具合が良いと思います。そうなれば、「代表格」さんの実名を引用してきて、この種の言説を代表してもらうという書き方ができるのだろうと思います。しかし、多分、そのようなことを唱えている人もいなければ、さすがに「自由主義史観とは万歳事件を暴動ととらえる、あれは独立運動ではない」と断言する人もいないでしょう。せいぜい「暴動としての側面」云々と付け足そうとするだけでしょう。朝鮮の独立運動や弾圧だけではなく、朝鮮への支配の強度・搾取等を矮小化しよう試みて印象を操作するだけの「評論」や「記事」は「自由主義史観」などという言葉が登場する前からずっと存在します。この種のものは戦後ずっと手を変え品を変え登場してきましたが、やはり学問的にとりあってもらえたことがありません。単に表現を言い換えてみようとしただけのようなものが大半で、とりあってもらえるような形でプレゼントされていないからにすぎないのですが。戦後日本にずっとつづく「日本と祖国のためのアンチ歴史学」をすべて「自由主義史観」に代表させるのは「自由主義史観」の過大評価だとも思います。どちらであれ、我々は学会動向を反映できるよう努力すればいいのであって、その他・ネットソースの「言論」は取り合う対象ではないと思います。▼以下、個人的な想像です。朝鮮史研究者には決して政治的に革新派であるというような人は決して多くなく(ちょっと前には少ないくらい)、政治的に保守的な立場を取る人は多数いますが、後者に人々こそ、戦後ずっと続く「植民地支配史の矮小化」言説がずっと商売になりつづけていることを苦虫噛み潰す思いで見ているんじゃないかと思います。いずれにしても、Pugunariさんの補足文はこのノートの議論の反映ではありますが、対論相手には何らの典拠がなく、相手のほとんどがPeaceであり、しかも議論は決着している。この経緯でご尽力なさったお二人に深い敬意を表しつつ、そもそもは言いがかりであった議論の経緯を本文に反映するのは得策ではないという意見だけをしたためます。▼「韓国併合#歴史認識の比較のような記述は好ましくないとお考えですか?」とのお尋ねでした。好ましくないと思っています。荒らし回避のためのゴミ箱として設定しておくという効能をお考えだと思います。しかし、ゴミ箱を設定するほどの状況になっているでしょうか。議論は決着しているようにしか読めないので、そこまでの必要に駆られていないと思います。--Iosif 2006年12月29日 (金) 00:24 (UTC)
▼ご挨拶:今日この書き込みのあとにいくつか編集すると思いますが(目につくPeace版を戻すとか)、基本的に1ヵ月ほどアクセスが少ない状態になってしまいます。冒頭で書かせていただいたとおり、Tears of Asiaさんの文案による保護解除に同意します。もちろん、お二人ともお忙しいというのならば話は別なのですが、保護解除しようかと考えるときに、Iosifが見当たらないことは考慮なさらず、お考えのとおりに話をお進めくだされば幸いに存じます。頼りにならない話ですみません。逆に、情報において何ら貢献していないIosifなんか待ってないよとおっしゃるのならば、思い上がった書き込み、お許しください(^^)。なお、私がいるとPeaceが付け回してくるので項目が保護解除されにくくなるなどのご迷惑をおかけするのではないかと心配しているのも付記します。--Iosif 2006年12月29日 (金) 00:24 (UTC)
大分お返事が遅くなって済みません。ただ雑用に追われるだけで何も考えていなかったわけではなく、自由主義史観の取り扱いについてちょっと考えていました。Iosifさんはどうも注としても載せるべきではないというご意見のようで、一方Pugunariさんは自由主義史観全体の動向をからめての記述を求められているようだと理解しました。それを受けて自らの結論はと言いますと、やはり注で触れる程度で良いのではないかということに落ち着きました。というのもどうせ杉本氏の著作に触れるので有れば、参考文献に何のコメントもなく載せるよりも、『親日派の弁明2』と同じ注で一括して扱い、参考文献から削除したらどうかというのが今の愚見です。ただ注に触れるにしても、三一運動に限定すべきのように感じます。やはりホロコーストとは同じに扱えないと思うためです。ホロコーストは『マルコポーロ』誌事件のように日本でも歴史修正主義の言説が表出したことがあり、あるいはイスラム国家では元首すら虚妄だと言及しており、その点では歴史修正主義の世界的な展開を確認できますが、三一運動については欧米やアジア各国で歴史修正主義的な動きは認められません。(当方が知らないだけかもしれませんが) また杉本氏の著作に書いてあるのですが、本のタイトル『「植民地朝鮮」の研究』に対し、「朝鮮は植民地ではない」という声が多数寄せられたという類のことを書いていますように、自由主義史観陣営の中でも個別の事件については温度差が有ります。ですので三一運動について自由主義史観側が統一されているかのような見通しをもって記述するのは穏当でないと感じるのです。
それで本来はここで文案を示すべきですが、今帰省中で『親日派の弁明2』や『「植民地朝鮮」の研究』が手元にありません。普通コピーした論文や史料などは全てPCにスキャナーで取り込んでいるのですが、(他の三一運動関係の論文はPDF化しています)、どうも上二つは取り込む気がしなかったので、今参照できません。後日すでに提示されたものをふまえつつ提示します。
また自由主義史観以外のことについてもご指正いただきたく思います。正直申しますと、社会主義思想との関連や同化政策への影響、もう少し最新の研究あるいは韓国の研究について参照すべきだといった批判を覚悟していました。あればお願い致します。--Tears for Asia 2007年1月2日 (火) 12:22 (UTC)

本文にも「弾圧」とする具体的な事件とその内容が示されていません

既に言ったようにリンク先で挙げられている「参考文献」について否定できる反証もできずに、内容とは無関係な能書きを繰り返す「宗教」はウィキペディアの目的と何の関係もありません。三・一独立運動において「暴動」であった面に対して「鎮圧」と当たり前に編集されていることは問題はありません。「弾圧」を用いた編集をしたいなら三・一独立運動において暴力を伴わない活動について具体的な事例を挙げて編集されればいいでしょう。「理由の説明はできないけれども堤岩里事件を「弾圧」だったことにしたい」という強いお気持ちだけではお話になりません。Tanker 2006年12月12日 (火) 14:02 (UTC)

私の目には、このノートで既に具体的な反論が行なわれているように見えますが。それを無視し続ける姿こそ「宗教」のように思えます(本物の宗教はこんなことで引き合いに出されては迷惑でしょうね)。 -- NiKe 2006年12月13日 (水) 07:28 (UTC)
自分の感想も同じです。節を別にたてて場所を少し離したところで、挙げられた文献が消えてなくなるわけがないでしょう。ここまでの議論を読ませていただきまして、Tankerさんが研究書を無視して自説を掲載しようと考えていることはわかりました。歴史の本を読まずに歴史記事を書き、反対する他のユーザーを非難するのは、ウィキペディアの目的と相容れません。Kinori 2006年12月13日 (水) 23:34 (UTC)

具体的な反論は無いようです。堤岩里事件はその内容から「弾圧」事件ではないことは理解できます。「弾圧」という言葉を用いた編集をしたいなら三・一独立運動において暴力を伴わない活動に対する弾圧行為を具体的な事例を挙げてください。そのうえでなるほどこれは「弾圧」と認められる事例とともに本文に編集すべきで、「暴動」についての記述の中で無理やり「鎮圧」を「弾圧」なる不適切な語に入れ替えても文意がおかしくなるだけのことです。Tanker 2006年12月14日 (木) 10:43 (UTC)

書き間違えてますよ。「具体的な反論を理解できませんでした」ですよね。--210.132.233.179 2006年12月14日 (木) 13:45 (UTC)

「10名ほどの憲兵隊が提岩里の教会に、小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。これをきっかけに教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。数で劣る憲兵隊が発砲し多数の死者が出てしまった事件。教会もその後近所からの失火により焼失した。」(堤岩里事件より)

この「堤岩里事件」を「弾圧」とする具体的説明はまだでしょうか?Tanker 2006年12月18日 (月) 09:13 (UTC)

提案文案全体像

随分文案提示が遅れました。本当に申し訳ありません。しかも以前のものとほとんど変化無し。何ともお詫びのことば見つかりません。ただ見苦しいですが、言い訳させて頂きますと、この幾日か自由主義史観の本を探してみたのですが、意外にこの運動への言及が少なくどう取り入れるか苦悩していました。後、趙景達論文「独立万歳の論理」(『朝鮮民衆運動の展開』岩波書店、2002)に展開されているような、運動の祝祭的性格をどう加筆に取り込んでいいのか、朝鮮史の素養がないため四苦八苦したというのもあります。結局断念したわけです。正直自分としても書ききれないという点で不満が残りますが、このままずるずると提示しないわけにもいかず、以下のような形となりました。さらに言えば、外部リンクも適当なものが見つかりませんでした。何かご存じでしたらご紹介くださりますよう。ご批判お願いします。

以下文案

三・一独立運動
 
タプコル公園のレリーフの1枚
各種表記
ハングル 삼일운동
漢字 三一運動
発音 サミルンドン
日本語読み: さんいちどくりつうんどう
ローマ字 March 1st movement
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三・一独立運動(さんいちどくりつうんどう)は、日本植民地統治下の朝鮮で起こった独立運動。1919年3月1日に起こったことからこう呼ばれる。独立万歳運動万歳事件とも(日本では三・一運動、三・一事件)。韓国では3月1日を三一節として祝日に指定している。

== 背景 ==
運動が起こる前年(1918年)、パリ講和会議において、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより"十四か条の平和原則"が発表されている。これを受け、民族自決の意識が高まった日本に留学中の朝鮮人学生たちが東京に集まり、「独立宣言書」を採択したことが伏線となったとされる。これに呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名が、3月3日に予定された高宗の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。

三一運動の直接的な契機は高宗の死であった。高齢だったとはいえ、その死は驚きをもって人々に迎えられ、様々な風説が巷間ささやかれるようになる。その風聞とは、息子が日本の皇族と結婚することに憤慨して自ら服毒したとも、あるいは併合を自ら願ったという文書をパリ講和会議に提出するよう強いられ、それを峻拒したため毒殺されたなどといったものである。実際のところは不明であるが、そうした風説が流れるほど高宗が悲劇の王として民衆から悼まれ、またそれが民族の悲運と重ねられることでナショナリズム的な機運が民衆の中に高まったことが、運動の引き金となった。

== 経緯 ==
===民族代表33人===
高宗の急死後、国葬が行われる3月3日に向けて独立運動が計画されるようになった。中心となったのは天道教キリスト教、そして仏教の指導者たちである。彼等は会合を重ねて大衆化・一元化・非暴力の三原則を取り決めた。同時に朴泳孝など高官への働きかけや学生に対する参加呼びかけも行ったが、前者への働きかけは成功しなかった。

3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。実際には仁寺洞の泰和館(テファグァン)に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をした[1]。参加者は、孫秉煕らの天道教代表15名、その他李昇薫らのキリスト教代表16名、韓龍雲(ハンニョンウン)、白龍城(ペクヨンソン)らの仏教代表2名の計33名であったという。そのためしばしば民族代表33人といわれる[2]。独立宣言書は崔南善(チェナムソン)によって起草され、1919年2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教とキリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布したとされる。

===独立宣言===

 
タプコル公園にある独立宣言書のモニュメント

吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする」という一文から独立宣言は始まる。タイトルに、そして冒頭の一文に明確に述べられているように、この宣言書は何よりも朝鮮が独立した国家であること、及びその国民である朝鮮人民が自由であることに重きを置いたものであり、そしてそれは「人類平等の大義」と「民族自存」という原理に基づくものとして捉えられている。この他、朝鮮という民族国家が発展し幸福であるためには独立を確立すべきこと、そしてそのために旧思想・旧支配層・日本からもたらされた不合理なものを一掃することが急務であること、朝鮮の独立によって日本及びそこに住む人々との間に正しい友好関係を樹立することなどが宣言の骨子となっている。

一読して分かるように、非常に理想主義によって貫かれた独立宣言文であった。特徴的なのはその戦闘性の希薄さであって、日本に対する独立宣言でありながら、その日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている。これは三原則の一つ非暴力理念を反映した結果といえる。

こうした理想主義的な独立宣言に対し、抽象的で具体的な行動指針が示されていないといった批判がマルクシズム的歴史学から寄せられたこともある。しかし現在では多くの民衆を動員せしめた点で、その意義は大きく評価されている。

===運動の広がり===
発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及んだ。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。

運動の規模
三月から五月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上る。そしてデモの回数・参加人数が多かったのは京畿道慶尚南道黄海道平安北道などの地域であった。地方都市でデモを行う場合、人が集まる「市日」(定期市が立つ日)が選ばれ、通常より多くの動員ができるよう工夫された。

運動の担い手と形態
運動の初期には、その発生は大都市に集中し、担い手は学生や教師といった人々が主導した。しかし運動が広がりを見せ、地方都市や農村に舞台が移るようになると参加する人も多様となり、農民や労働者、商工業者、官僚、両班などが参加するようになった。

運動の形態には、デモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、閉店、官公署襲撃などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって、運動を行っていたが、次第に日本側の弾圧が激しくなると、それに対抗する形で官公署襲撃が行われるようになった。

被害状況
日本側の襲撃による被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。

襲撃対策として日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の弾圧を行った。それはこの運動を短期間で終わらせることで、パリ講和会議における不安定要因を除いておこうという考えからであった。そのため多くの犠牲が朝鮮側に生じた。朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るという。[3]

こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は4月15日に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて一斉射撃の後放火焼殺され、他にも日本側が放火し15村落317戸が延焼し、39人が亡くなったというのが全貌である。その違法性については日本側も認識していたらしく「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。・・・之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上に報告している。[4]

この他の悲劇としては江西事件、砂川事件、密陽事件、孟山事件、陝川事件、定州事件、南原事件、京畿道狩川及び花樹里の焼き討ち、ソウルの十字架虐殺事件などがある。

以上のような運動弾圧中、悲劇の死を迎え、特に人々の記憶に残った女生徒がいる。故郷の天安で独立運動を行い、逮捕・起訴後懲役3年の有罪判決を受けてソウルの西大門刑務所に収監され、獄中で死去した梨花学堂学生柳寛順(ユグァンスン)(当時17歳)である。彼女は、後に「独立烈士」として顕彰され、韓国ではフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクになぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、現在まで尊敬を集めている。

運動の終息
朝鮮総督府当局による武力弾圧の結果、運動は次第に終息していった[5]。司法的には以下のように決着がつけられた。逮捕・送検された被疑者12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴され、残り1,151名は調査中とある(1919年5月8日時点)。1919年5月20日時点で一審判決が完了した被告人は4,026名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名。[6]ただ国際世論の眼に触れない地方では懲役15年や10年という判決が下されることもあった。

きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙(ソンビョンヒ、天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善(チェナムソン)ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている。下級審で3年以上の比較的重い刑を宣告された者でも、最終的には最高裁判所において内乱罪の適用が一括して棄却され、保安法及び出版法などの比較的軽い構成要件のみの適用により、刑期も大幅に短縮された。最高裁で確定した刑期も、1920年の大赦命令によりさらに半減されている。こうした比較的軽い刑は、アメリカなどからの批判が有ったためである。

一方司直の手を免れた活動家たちは外国へ亡命し、国内における独立運動は挫折した。その結果、三一運動が挫折した後、 1945年の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。ただこのうち後に独立派の中心人物となった金九は、事件後中国上海に逃亡し、大韓民国臨時政府に参画している。朝鮮人移住者の多かった満州間島地域では、独立軍の抗日武装闘争が活発化し、青山里戦闘などの事件が起きた。

==当時の反響==
日本のマスコミ
発生当時の新聞の論調は圧倒的に運動に対し批判的で、紙面には「朝鮮各地の暴動」、「鎮南浦の騒擾」といった字句が踊っていた。しかしやがて武力に頼った統治、すなわち武断統治に対する批判も徐々に一部の新聞に掲載されるようになる。「擾乱の有力なる原因」は朝鮮総督府の統治方法にあり、このたびのような事件を今後防ぐために朝鮮人の待遇改善や武官総督制を改め文官も総督と就けるようにすること、警察制度の強化、同化政策を推進すべきとの論調が出るようになった。これらは武断統治に限界を感じた原敬内閣の意向に沿うものであった。

吉野作造や石橋湛山ほか
日本の世論は圧倒的に三一運動を暴動とみなす論調が強かったが、一部には運動に同情を寄せる識者もいた。たとえば民本主義を標榜し、大正デモクラシーの主導者となった吉野作造は『中央公論』などに朝鮮総督府の失政を糾弾し、朝鮮の人々に政治的自由を与え、同化政策を放棄せよとの主張を発表した。また孫文との交友で知られる宮崎滔天は運動を「見上げたる行動」と評価し、朝鮮の人々の自由と権利を尊重し、いずれは独立を承認すべきと述べている。この他石橋湛山柳宗悦なども運動への理解を表明している。

==影響と意義==
三一運動は、独立という目的こそ達成できなかったが、大きな影響と意義をもった運動であった。一部の者だけが決起するのではなく、多くの民衆の参加したことは民族解放運動の画期をなし、以下のような影響を与えたとされる。

たとえば日本及び朝鮮総督府の武断統治を改めさせ、憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となった。ただそれは日本による民族同化政策の推進を意味した。

一方で国際的な影響もあった。たとえば同年中国で起こった五四運動に大きな影響を与えている。五四運動当時、中国では対華21ヶ条要求の為に反日ムードが高まっており、それに反比例する形で朝鮮への連帯感が広がった。そのため朝鮮における独立運動への支持と援助の表明が次々為された。また日本の植民地であった台湾との連帯・交流も深まったと言われる。

この他フィリピンインドなど欧米に植民地化されていた地域にも影響を与え、その民族主義を覚醒させた意味でこの事件の持つ意義は大きく、一連の独立運動の契機として評価すべきとする見方がある。

三一運動は、朝鮮の人々に今なお深く記憶され、独立運動の様子を描写したとするレリーフがソウル特別市のタプコル公園に作られており、毎年3月1日に同公園に人々が集い独立運動を偲んでいる。

==脚注==

  1. ^ 開催場所の変更:場所の移動は群集が暴徒化し、それを口実に総督府が「凶悪な弾圧手段に出るかもしれない」(崔麟「自叙伝」)という恐れからであった。
  2. ^ 民族代表33人、彼等については評価が分かれている。独立宣言発表後すぐに朝鮮総督府に自首し運動を積極的に牽引しなかったことについて、大衆に背を向けたとする説(山辺健太郎・姜徳相)と彼等を再評価する説(朴慶植)とがある。
  3. ^ 犠牲者数:この運動に伴う検挙者数・死傷者数に関しては今なお論争がある。朴殷植は事件発生当時上海に亡命しており、死傷者数は伝聞によるものであると本書中で断っているが、多くの研究はその犠牲者数を参照している。一方当時の朝鮮総督府の記録「朝鮮騒擾事件道別統計表」(3月1日~4月11日)によると357名が死亡し、負傷者は約802名とされている。ただこの集計は日本から増派された軍が配置され本格的な弾圧が始まる前のものであること、「内外に対し極めて軽微なる問題となす」べきと総督府側自身がいうように、その発表された数は意図的に少なく抑えられていると見られている。その他の記録でも検挙者数・死傷者数について食い違いがある。たとえば和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店、2002年)では「朝鮮総督府の武力弾圧で約7500人が死亡、4万6000人が検挙された」とされている(106頁)。朝鮮総督府側は、上に述べたように警察官及び憲兵8名が死亡、152名が負傷(他に陸軍4名が負傷)したとされるから、仮に総督府の公式発表である死者357名を認めるにしても、それに何百倍にもあたる多大な人的被害がデモ側にでたことになる。いずれにせよ、独立を唱える大規模な示威行動が朝鮮半島において展開され、その過程で暴徒と化した群集を朝鮮総督府が武力によって鎮圧する際、死傷者が出たことは確かである。
  4. ^ 自由主義史観の観点:杉本幹夫著『「植民地朝鮮」の研究』(展転社、2002年)や金完燮(キムワンソプ)著『親日派のための弁明2』(扶桑社、2004年)では、提岩里近くで起きた小学校焼き討ちと警察官2名の殺害事件に関する取調べの際、容疑者の逃走を阻止する過程でやむなく起こったとする。これは事件の日本側当事者である有田中尉の報告をそのまま採用した意見である。しかしその上官や時の総督長谷川好道自身が「検挙班員及軍隊ノ行為ハ、遺憾ナガラ暴戻ニ渡リ、且ツ放火ノ如キハ明カニ刑事上ノ犯罪ヲ構成スル」とのべている日本側に非があることを認めた証言、並びにアメリカ人宣教師の事件報告については上記二書はその点については看過しており、何故採用しないかという点にも触れない。当然この意見は非常に稀少な意見であって学会ではこの説を採らない。このように先の犠牲者数や堤岩里事件を含むの三・一運動理解において日本国内の「自由主義史観」を唱える評論家は、歴史学者の大半が支持しているこのような見解・評価を否定し、三・一運動は単なる暴動であり日本官憲の行為はそれに対する正当な鎮圧であるとか、朝鮮人のうけた被害について今まで言われてきた規模は誇張されすぎているなどと主張し、運動やそれに対する弾圧を矮小化してとらえようと試みている。
  5. ^ 日本側対応の形容について:三一運動の弾圧については、たとえば「すさまじい弾圧」(朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』三省堂、1974、215頁)や「民衆の蜂起と日本の弾圧」(姜徳相『呂運亨評伝1: 朝鮮三・一独立運動』新幹社、2002、165頁)、「激しい弾圧」(吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学振興会、2004、140頁)という表現を用いている。
  6. ^ 司法的結末:「万歳騒擾事件一」(友邦協会編纂)

==関連項目==

==参考文献==

  • 朴慶植『平凡社選書49 朝鮮三・一独立運動』平凡社、1976、ISBN B000J9DU8Q
  • 李光植ほか編「3・1運動と大韓民国臨時政府の成立」(『朝鮮韓国近現代史事典』第二版、日本評論社、2006、ISBN 4535584346)
  • 木原悦子『万歳事件を知っていますか』平凡社、1989、ISBN 4582823688
  • 小笠原亮一『三・一独立運動と堤岩里(チェアムリ)事件』日本基督教団出版局、2000、ISBN 4818400246
  • 姜徳相『朝鮮独立運動の群像―啓蒙運動から三・一運動へ』青木書店、1998、ISBN 4250980189


--Tears for Asia 2007年1月19日 (金) 16:52 (UTC)

注の1から6は無視してください。上の前の文案のものが反映しているだけです。--Tears for Asia 2007年1月19日 (金) 19:25 (UTC)

保護解除申請

保護解除の申請しても良いでしょうか。--Tears for Asia 2007年1月29日 (月) 16:26 (UTC)

お疲れさまです。文案を支持します。さすがにこの提案文を荒らす人は出ないと思いますし、状況を見ても保護解除申請しどころかと思います。私が申請しに行ってもいいかと思いましたが(理由は申し上げませんが)やめておきます。何ら貢献していないのが心苦しいかぎりですがご容赦ください。--Iosif 2007年1月29日 (月) 21:20 (UTC)
賛成いただきありがとうございます。とりあえずこのまま数日待ってみて、週末か週明けに申請出してみようと思います。--Tears for Asia 2007年1月30日 (火) 14:41 (UTC)
申請を先ほど提出しました。--Tears for Asia 2007年2月4日 (日) 14:50 (UTC)

文案は自由主義史観の観点や金完燮(キムワンソプ)著『親日派のための弁明2』の観点を主文内から注釈に追いやって、Tears for Asiaさんの観点からの独自の発表・論評となってしまっている感が強いですね。中立的観点からも保護解除後一気にこの文案に差し替えるのは編集合戦必至と思われ賛成できません。ただ、より充実している情報もあるので時間がかかっても現行文と摺り合わせの努力をしてもらいたいと。Grapef 2007年2月4日 (日) 22:49 (UTC)

言っても詮無いですが、Grapefさんはアカウント作成後、この発言が最初の投稿ですよね。その直前にアカウントを作っていらっしゃるようです(ログ)。初心者でないのは間違いないですが何をなさりたいのか甚だ疑問です。--Iosif 2007年2月4日 (日) 23:04 (UTC)修正。--Iosif 2007年2月5日 (月) 00:03 (UTC)

出勤前なので一言だけ。アカウントは昨日作成しましたが何か?Grapef 2007年2月4日 (日) 23:20 (UTC)

利用者:Grapefのブロック記録[10]を参照。--Iosif 2007年2月28日 (水) 20:40 (UTC)

犠牲者数に日本統治時代の朝鮮との齟齬が生じています。 総督府側の発表だけが脚注に追いやられているのは問題ですし、数字は最終的でないものをわざわざ選んで記述するのは、公平性を著しく欠いています。これは意図的な印象操作としか評価のしようのない卑怯な記述ではないでしょうか。

何との公平性か知らんが、信頼できる情報源にあるように学術研究、しかもその多数派が優先される。査読雑誌にも掲載されたことがない、引用されたことがないような見解がそれと肩を並べられると考えていること自体、あまりWikipediaのことを理解していないといえる。日本統治時代の朝鮮との関連でいえば、それが学術研究を参照していないだけじゃないの。公平性云々をいうなら、参考文献に匹敵するレベルの査読論文を複数引き合いに出さないと駄目だろうね。--118.105.197.153 2009年8月10日 (月) 15:34 (UTC)

半保護から長期経過しているため、保護解除依頼を出しときました。--海ボチャン会話2014年8月16日 (土) 20:49 (UTC)

ラテン文字転写?

本項のラテン文字転写の欄にある、March 1st movementは英語表記であって、 ハングルをラテン文字転写するとSamilundong(文化観光部2000年式)だと思うのですが。 --Richard 2007年4月8日 (日) 09:55 (UTC)

そのとおりだと思うので、そのように修正しておきます。しかし「ラテン文字転写」は、この場合、必要なんでしょうか? 英語表記を書いておくほうが便利かもしれません(わかりません)。--Iosif 2007年4月8日 (日) 20:05 (UTC)
わたしはハングルが分からないので、教えていただきありがとうございました。他にも誤記があれば、ご指摘ください。--Tears for Asia 2007年4月12日 (木) 15:25 (UTC)
「ラテン文字転写」ではなく英語表記になっているところは結構あると思います。大韓民国臨時政府がたまたま英語表記だったので一応なおしました。ただ、「臨時政府」などという言葉の原音を再現することにどれほど意味があるのか疑問です。英語でどう言うのかとかを記載してあるほうがまだ便利かと(英語版へ飛べばいいだけと言えばそのとおりですが)。こういうことはどこで話し合えばいいのかわからず、メモがわりにしたためておきます。--Iosif 2007年4月14日 (土) 22:13 (UTC)

評価/「弾圧」か「取締り」か

利用者:武者小路氏が三一独立運動に対して「取締りした」「取締りされた」という表現を用いることを提唱し、「『取締り』という表現が独立運動側にも日本側にも中立的という判断で、この表現にしております」というメッセージを私のノートに残しています[11]。読めばすぐわかることなのですが、このノートではノート:三・一独立運動#三・一運動の性格についてで運動の性格について述べられ、日本側の対応についても出典に即して(研究書の量に比例して)用語法に準拠しているようです。これらの議論を無視して「取締り」が中立表現であると勝手に「判断」するのはおやめください。利用者:武者小路氏は丁寧に話し「運動側にも日本側にも中立的という判断でこの表現にしております」と述べつつ、そのような判断を下すにいたった根拠も典拠も何も示していません。「自分が判断したのだ」ということ以外に何も示しておられませんから、無根拠な改変を控え、典拠をあげて執筆なさった方の表現を守るべきだと思います。--Boomy 2008年4月8日 (火) 21:53 (UTC)

Boomy氏のご意見に賛成。--ΑΩ 2008年4月8日 (火) 22:02 (UTC)
量の根拠が不明。すべての学者・著書に当たって統計でも取ったのか。そもそも研究書の多少は関係なし。POVとなっていて大反対。--207.72.66.5 2008年4月11日 (金) 08:28 (UTC)

さて、まずはコメントありがとうございます。お待ちしておりました。

まずこのノートにて、「弾圧」か「鎮圧」の論争が永遠と続いており、結論は出ておりません。量が多いからその表現にするというのはPOVとなりますので、「弾圧」のみを載せる資格とはなりません。

Wikipedia:中立的な観点とは』を良くお読み下さい。

p 主義者は p が正しいと考えており、一方で q 主義者は q が正しいと考え、現在その点をめぐる論争がある、というようなの記述をすること広く支持されていること=正しい、とほのめかすようなことのないように気をつけてください

朝鮮史研究会が研究してできた日本の教科書[12]をはじめ「鎮圧」と表現する著書もあり、論争もある中で一方の「弾圧」表現だけを使うことは完全なPOVとなります。もちろん「鎮圧」のみもPOVです。

「取締り」表現はとりあえずの緊急策でしかありません。そこで、どのような表現が良いのか提案して欲しいと訴えているわけです。

他の用語がないのならば、弾圧(鎮圧)、鎮圧(弾圧)とダブル書きはいかがでしょう。どうであれ両論書くことがwikipediaでは必要なことです。

また、他の出典も出ている部分は戻させていただきます。弾圧だけ保留と言うことでとりあえず残しておきます。

提案をお待ちしております。

新たな提案がない場合、とりあえず苦肉の策として弾圧(鎮圧)、鎮圧(弾圧)のダブル方式の記載にさせていただいと思います。 --武者小路 2008年4月8日 (火) 22:29 (UTC)

上記文に賛成。NPOVとして合理的。--207.72.66.5 2008年4月11日 (金) 08:28 (UTC)

呼びかけましたが、Boomy氏の意見がいただけません。呼びかけた後も他の記事には参加してるようなので、こちらを放置していると言わざるを得ません。あと一週間で提案がなかった場合、とりあえず鎮圧(弾圧)の両論で修正いたします。--武者小路 2008年4月17日 (木) 05:13 (UTC)

・いつ呼びかけたんでしょうか。この点はあまり糾明しようと思いませんが。
・どさくさにまぎれて「弾圧(鎮圧)」が「鎮圧(弾圧)」だらけになっています。言っていることとやっていることが違います。嘘をつかれたのでなければ修正されたい。
・方針文書を百回読んでも「取締り」という"新たな語を根拠なく採用する"ことを正当化する文言はどこにもありません。あなたが方針文書から長々と引用した部分と「取締り」という語を使おうという案とは、何一つ関係ありません。とんでもない飛躍です。長々と引用してどうして関係のないことをやるんでしょうか。
・どこが「緊急避難」になっているのかもわかりません。「取締り」の語は権力者・体制がその正当性を疑うことなく治安安寧のために行う行為であって、反対運動側に正当性を見出す余地のない立場において用いられる言葉だと思っています。
・と言う具合に、うんと要約して書いてみました。
・以上のことを細密に論じようと思いましたが、時間がいまだ取れません。誤字をなおした程度で他の記事に参加したと言ってみたり、1週間やそこらで放置したと言っているのを読むと、あなたのペースにあわせろと要求されているのが不快であるのもさることながら、あなたがどうやって生計を立てていらっしゃるのかについて不思議になってしまいます。詮索するつもりはありませんが、私の理解を超えているということは付言します。あなたがどういう生活スタイルであれ、あなたに締切を設けられて気にかけなければいけない理由はありません。
・引き続き、諸研究に即して「弾圧」の語と用い、当時の「日帝」当局が主語である場合に「鎮圧」とするケースを認められるかぎりであると主張します。「日本側」と「運動側」双方のPOVだと言っていますが、日本は当時の弾圧者・支配者の立場にたっていません。当時の支配者の立場を体現している利益関係者って誰なんでしょうか。かつての日帝当局と立場を同じくして朝鮮人独立運動は不逞鮮人の(悪をなす)暴動であるという立場をとる人がいるんでしょうか。理解できないことばかりです。--Boomy 2008年4月25日 (金) 23:10 (UTC)


いつ呼びかけたんでしょうか。
呼びかけた上で、あなたはこのように[13]答えてますな。で、ありながら、その後ずっと、こちらは放置し、他での編集は熱心に行っている。2週間以上も。で、編集した突如、現れる。その不誠実で、無責任な態度を改めていただけませんか?議論を錯乱させているだけなことにお気づき下さい。
どさくさにまぎれて「弾圧(鎮圧)」が「鎮圧(弾圧)」だらけになっています
では、どちらを先に記載するか、議論しましょうよ。そういう意見も述べずに、放置していたのはあなたですよ。
方針文書を百回読んでも「取締り」という~
だからこそ変わりになる語があれば提案しろと訴えたにもかかわらず放置しましたよね?しかもすでに改善された語をいつまでも、しつこく引きずってるのはなんなのでしょう?煽りでしょうか?
以上のことを細密に論じようと思いましたが、時間がいまだ取れません。
コミュニティーもあなたの時間ペースに合わせていられません。また、2週間が「急がされた」と言えるのでしょうか?しかも、あなたは「時間がないから待て」と言いながら、2週間に24回も他で編集しております。「他は簡単な編集をしただけ」と仰ってますが、しっかり他の方に嫌味のような回答までして[14]「編集合戦もどき」までしてますよね?反対しておいて呼びかけられているコチラをなぜ放置したのでしょう?まず対応するべき場ではないでしょうか。行動が不思議でなりません。また本当に時間がなく、責任を持った対応ができないならばコミュニティーを混乱させることになりますので、しっかり時間のあるときに行動することをおススメします。
朝鮮人独立運動は不逞鮮人の(悪をなす)暴動であるという立場をとる人がいるんでしょうか
私の知っている限りですと、名越二荒之助をはじめ、少なくとも数人おりますね。そもそも「暴動であるかどうかという認識」というよりも二つの語が世の中で使われているのだから、ほかの代替できる語がないのならば、二つの語を両論併記するというもっとも単純なPOV回避の策ですよ。--武者小路 2008年4月26日 (土) 16:05 (UTC)
とりあえずさ、「暴動であるという立場をとる人」の著作全部とその頁数教えて欲しいんだけど。ついでにそれらは査読論文や研究書の類かどうか、あるいはそれに肯定的に引用されているかどうかも。これを開示してもらわない限りは、安易に「POV」とかは判断できかねるね。歴史学分野は特に信頼できる情報源、つまり査読論文に依拠することが求められている分野だしね。井戸端で同様の質問でてるが、学会で圧倒的に差異がある場合、それを踏まえてずして、安易に両論併記というのは読者に学会が二分しているが如き誤解を与えるものとして推奨されていない。したがってそれなりの研究レべルと数を提示しない限り、両論併記は無理。--220.211.151.46 2008年4月27日 (日) 13:41 (UTC)
「襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。」先日のチベットでの「運動」の中で見られた「暴動」は中国側にこれほど被害出てますかね?Sfad 2008年4月27日 (日) 15:58 (UTC)
「暴動」にも何らかの主張があり「運動」とも言えるわけだから、運動か暴動かの解釈は意味がないと思う。運動の中での暴動を伴わないデモ行進などの行動への権力側の阻止、妨害行為は「弾圧」であるし、暴動を伴う襲撃や破壊行為への対応は「鎮圧」であって今回のチベットの運動でも同じです。上記の独立運動を掲げる朝鮮人による過激な襲撃への対応を「鎮圧」ではなく「弾圧」と表現する側の視点に立てば、北京オリンピックの「聖火リレー妨害」への治安維持対応ですら「チベット運動に対する弾圧」と表現する方が出現しても不思議ではありません。Sfad 2008年4月27日 (日) 16:55 (UTC)
あのさ、ここで問題となっているのはWikipedianの個人的な意見ではないの。それを書くのは独自研究になるわけ。歴史研究者たちの立場が問題とされている点をまず踏まえるように。そもそも歴史学として取り上げられている事件と、現在進行形のものを比べること自体がおかしいし、事件の規模や発生期間も違う。さらに中国側で起きた被害が全て公開されているかもわからない。外国メディアの目の前で起きていることばかりじゃないだろう。それともこういう時だけ新華社を始めとする御用報道を真に受けるのか? とにかくさして関係のないチベット問題をリンクするような編集やノートに私見に基づいた比較論を持ち出すのは止めて欲しいんだが。チベット問題について語りたいなら、ふさわしい場所に行けばよいのでは?--219.98.1.104 2008年4月27日 (日) 20:45 (UTC)
運動の中での暴動を伴わないデモ行進などの行動への権力側の阻止、妨害行為は「弾圧」であるし、暴動を伴う襲撃や破壊行為への対応は「鎮圧」という当たり前の常識を言っているだけです。「両論併記は無理」なんて決めつけているIPさんの主張こそ独自見解では?歴史研究者で上記の過激な襲撃の事実を否定している方がいるなら教えてください。で、いないわけですがそれらの殺人・破壊行為の制圧を「弾圧」としている稀有な歴史研究者とその文章を示してください。出典が出せないなら常識的な表記に従ってもらうしかありません。Sfad 2008年4月27日 (日) 21:48 (UTC)
「常識」ね。はっきり言うけど「常識」じゃないから。当時の歴史資料を幅広く読み解き(当然ハングルや日本語、朝鮮漢文、時には英文の読解力が必要)、これまで積みかさねられてきた査読研究を踏まえてないと三一独立運動を俯瞰的に理解できないわけだ。資料操作能力も語学力もなく、研究史の調べ方も知らない人間には土台無理な話。それと「稀有な歴史研究者」についてだが、上の方にある諸研究についてのやりとりを信ずる限り、運動全体について「暴動」とする査読研究は皆無だし、運動に対する日本政府の介入は「弾圧」と表現されている。よく読むように。何ならさ、ある運動(事件)に対して「弾圧」か「鎮圧」かという評価を書く場合、歴史研究者の判断が必要でないかどうか、について井戸端で意見を募ってみれば。結果は火を見るより明らかだと思うけど。もう一度言うけど、Wikipediaでは査読論文やそれをまとめた研究書の情報に重きをおき、それが優先される。再度言うけど信頼できる情報源をよく読むように。リンクを辿れば「査読」という言葉が何度も出てくるでしょ。これを理解できないと「方針文書要熟読」と見なされるんだよ。
ところでさ、単なる読者ならともかく、Wikipediaの編集する人は、その記事について知識があるか、勉強しようとしている人であるべきなんだけど、査読論文の一本でも読んでみたことがあるかな。読んでいるとしたら、誰のどういうタイトルの論文を読んだか、開示してくれないか。じゃないと中立云々判断できないよね。まさか自分の「常識」と査読研究論文との間の中立じゃないんだよね。--218.41.223.147 2008年4月27日 (日) 22:54 (UTC)
朝日でさえ「鎮圧」です[15]。運動の中での暴動を伴わないデモ行進などの行動への権力側の阻止、妨害行為は「弾圧」と言えますが、殺人・破壊行為の制圧を「弾圧」としている稀有な歴史研究者とその文章を示してください。出典が出せないなら話にもなりません。Sfad 2008年4月28日 (月) 00:04 (UTC)

so-netIP氏へ。

資料操作能力も語学力もなく、研究史の調べ方も知らない人間には土台無理な話。

その能力があるかどうかを判断するのは、どなたなのでしょうか?暴論ではないでしょうかね。

運動全体について「暴動」とする査読研究は皆無

「皆無」であるソースの提出をお願いいたします。

何ならさ、ある運動(事件)に対して「弾圧」か「鎮圧」かという評価を書く場合、歴史研究者の判断が必要でないかどうか、について井戸端で意見を募ってみれば

wikipediaは多数決で決めていくものではありません(Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありません)。反対者がいるならば、相手を納得させて合意を得ることが重要です。また、「歴史研究者の判断が必要ない」と誰が述べているのでしょうか?誰もこちらで述べていないことを聞いてどうするのでしょうか?そもそも研究者が一つの意見(弾圧表現)で固まってる証拠がありません。

査読論文やそれをまとめた研究書の情報に重きをおき、それが優先される

優先はされますが、もう一方の意見・表現を抹殺することにはなりません。Wikipedia:中立的な観点 '広く支持されていること=正しい、とほのめかすようなことのないように気をつけてください。'主流派の(科学者の)意見を主流派のものとして提供し、少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、更に、科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです。これは全て論争をフェアに説明するという任務の一部です。 このNPOVを忘れてはなりませんよ。つまり、鎮圧表現を抹殺した時点で完全なるPOVとなります。そもそも科学者や世の中がどちらの表現を多く使っているのかすら、証拠が出ておりませんし、WPは学会の発表の場でもありません。現在分かっているのは、世の中に二つの表現が使われているということのみです。

「3.1運動は暴動、暴徒であり、鎮圧した」表現の一例

  • 『日韓共鳴二千年史』名越二荒之助 明成社 
  • 『歴史を偽造する韓国』中川八洋 徳間書店
  • 『韓国・中国歴史教科書を徹底批判する』 勝岡寛次 小学館文庫
  • 当時のマスコミ
  • 韓国の3.1運動記念館ですら「暴動化した」「鎮圧」としている[16][17]

「鎮圧」表現の一例

  • 朝日新聞[18]
  • 上記朝日の報道を受けての中央日報にて、朝鮮の立場で述べる滋賀県立大の姜徳相(カン・ドクサン)名誉教授(朝鮮近・現代史)も「鎮圧」表現[19]
  • 日本の教科書の一部

鎮圧表現のみの使用ですと、数え切れないほど巷で使われています。朝鮮側の被害を強調する立場の者ですら「鎮圧」表現を使っています。このような中で「弾圧」のみの表現を使うのは完全なるPOVと言えます。--武者小路 2008年4月28日 (月) 04:42 (UTC)

徹頭徹尾、論文を出さない。書籍を出さない。姜徳相に至ってはネット検索した新聞報道での「流血鎮圧」の語の「鎮圧」だけを切り取ってきている。朝日新聞も弾圧者を主語にした記述。魚拓とかいう下品な言葉からたどらせたかと思えばこれですか。そして、またも「方針文書」の無関係部分を長々と引用している。いい加減、勝手な解釈を聞かせるのはやめてほしい。例えば武者小路氏が長々と引用した文章には「広く支持されていること=正しい、とほのめかすようなことのないように気をつけてください。」というものがある。そんなことを、ほのめかさなければいい。学術的に圧倒的に支持されており、言い換えをやろうとしている人がいるのだけれども言いかえているだけにとどまっているおり新たな解釈を打ち出しているわけではないこと、それとは別に弾圧者側の視点も存在すること(現代日本でそんなことを言っている人がいれば、ですが)などなどをきちんと記述すればいい。もちろん何がオーソドックスな解釈として広く支持されているということも記述したうえで。「科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです」という文章も引用している。つまり武者小路氏は疑似科学の信奉者だということですか。方針文書は疑似科学のような困ったものをどう扱うか、そんなものさえも記事の発展のためにも役立つよ、という包含・総合の方法を提示している。しかし、武者小路氏の言っていることは「疑似科学も対等に扱え」というものである。自分の書き加えようとしている情報が「疑似科学」にあたることを自覚したうえでである。
これはどうも複数観点を前提にしたところでの「中立」はいかにして達成可能かという議論や、その方法提示としての「方針文書」であることを理解していないのではないかという気がする。Wertfreiheitという言葉をご存知なのだろうか?--Boomy 2008年4月28日 (月) 23:50 (UTC)
思い直しました。論争掲示板ではないのだから講釈のたれ合いはやめにしたいと思います。武者小路さんもご自身の主張と関わりのないものを長々と引用しないでほしい。議論のための議論に巻き込むのはやめてもらいたい。--Boomy 2008年4月29日 (火) 05:31 (UTC)
IP氏=Boomy氏なのかな?IP氏への返信にあなたが回答してるので、そう判断していいのかな?そしてあなた自身へ答えた内容についての回答は一つも書かれてないので、それについては納得していただけたのでしょうかね。気にしてた鎮圧と弾圧の順序の提案はないのかな?
「広く支持されていること=正しい、とほのめかすようなことのないように気をつけてください。」というものがある。そんなことを、ほのめかさなければいい。
つまり武者小路氏は疑似科学の信奉者だということですか。
あなたのこの論[20]を拝見すると、まさに認識しておくべき文だと思いますが?あなたは「ゴシップ」やら「政治主張」であるものは「引っ込めろ」として除去する行為をしております。これはまさに『主流派の(科学者の)意見を主流派のものとして提供し、少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、更に、科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです。これは全て論争をフェアに説明するという任務の一部です。』を理解していなかった行動でしょう。私が「疑似科学的」と判断したのでなく、あなたが「疑似科学的」だと独断で判断していたことにお気づき下さい。私は疑似科学の信奉者などではありません。方針と矛盾した行動をし、都合よく方針をつまみ食いするのは、いかがなものでしょうかね。あと「疑似科学の信奉者」このレッテル貼りは個人攻撃のブロック対象行為となりますので、お気をつけ下さい。
「両論を載せよう」と仰っているところは同意します。--武者小路 2008年4月29日 (火) 08:19 (UTC)

記事タイトルを国際標準(「三一運動」)に変更するべきです

ウィキペディア英語版の記事タイトルは、「March 1st Movement」です。「三月一日運動」です。
ドイツ語版の記事タイトルは、「Bewegung des ersten März」です。「三月一日運動」です。
フランス語版の記事タイトルは、「Soulèvement du 1er Mars」です。「三月一日蜂起」です。
中国語版の記事タイトルは、「三一運動」です。
そして最後に、本国韓国語版の記事タイトルは「3·1 운동」です。ズバリ「三一運動」です。

日本語版だけが、特殊なイデオロギーを付け加え、本国韓国を含め、世界中で使われていない名称を使っています。韓国の中学校で使われている国定歴史教科書「入門韓国の歴史」も「三一運動」です。これは国定教科書ですから、韓国政府の公式見解です。明石書店が日本語の市販本を出していますが、この本はアラビア数字にナカグロをうち「3・1運動」と表記しています。

国際慣例も、韓国の公式見解も「三一運動」です。ウィキペディア日本語版の記事タイトルを 日本以外の国の標準にあわせることを提案します。--忠度 2010年8月11日 (水) 01:28 (UTC)

日本の学術論文には、「三一独立運動」と記載している例も結構あるし、わざわざ変える必要ないと思うので反対。特に他のWikipedia記事名がどうのこうのというのは何ら理由にならんでしょ。たとえばトイレットペーパーという意味で何億という人が隣の大陸で「手紙」ということばを使っている。明らかにレターという意味で使用している人より人口が多い。じゃあ、記事名を変えるべきかと言ったらそうじゃない。どういう記事名にするかは、日本語版である限り日本語の文脈の中で決めていかないといけない。特にこの場合は、歴史学の分野に属すので、そうした専門論文を書いている人たちがどう使っているかを考慮する必要がある。日本の学術研究では、「三一運動」という呼び名もあるけど、「独立」というのを差し挟んでいるのもある。比率に圧倒的な大きな違いがあるとは思えないし、わざわざ変えるほどのこともないかな。--118.105.207.100 2010年8月11日 (水) 14:18 (UTC)
あのさ、上に書いてあるように何も合意できていないよね。合意なしの移動は、明確なWikipediaのルール破りなんだが、わかってる?--118.105.202.189 2010年8月29日 (日) 14:21 (UTC)
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