モトーリ・モデルニ

モトーリ・モデルニ(Motori Moderni)は、1984年イタリアエンジニアカルロ・キティが興したレーシングエンジンの専門会社である。本拠地はイタリアピエモンテ州ノヴァーラ

F1編集

V6ターボエンジン編集

 
ミナルディM185・モトーリ・モデルニ (1985年)

1985年シーズンF1へのエンジン供給を開始。同年の第3戦サンマリノGPより新興チームのミナルディへ1,500ccのV6ターボエンジンを供給した。

1986年には下位チームのAGSにもエンジンを供給したが、ポイントを獲得することはおろか、予算不足もあり信頼性が低く完走もままならなかった。ミナルディとは1987年までタッグを組んだ。

F12エンジン編集

1989年よりF1のエンジン規定が「自然吸気3,500cc」に統一されることが決まると、キティは水平対向12気筒 (F12) エンジンを開発。日本の富士重工業スバル)と提携し、「スバル-モトーリ・モデルニ」として1990年よりコローニへ供給することになる。

当時スバルのモータースポーツ代表者だった高岡祥郎によれば、発端はロードカー「ジオット・キャスピタ」用に3,300ccの水平対向6気筒エンジン(のちのアルシオーネSVXに搭載)をチューンするという話だった[1]。欧州のエンジンチューナーと接触する中で童夢林みのるにモトーリ・モデルニを紹介され、計画が「F12エンジン開発」「F1参戦」へと膨らんでいったという[2]

1988年1月にスバルとのジョイントが発表され、同年のイタリアGP前にミラノでF12エンジン(開発コード"1235")が初公開された。1989年にはミナルディのマシンに搭載してテストを行ったが、ミナルディ側が採用に難色を示したため、供給先をコローニへ変更した。スバルは前線基地としてスバルテクニカヨーロッパ (STE) を設立し、コローニの株式半数を取得してチームの共同運営も行った。

1990年コローニ・C3Bに搭載され、ベルトラン・ガショーの1台体制で参戦したが、開幕から8戦続けて予備予選落ちという惨憺たる結果が続いた。エンジン性能は最高出力600ps以上、最高回転数13,000rpmと発表されたが[3]、「ダブルベッド」と揶揄された[3]サイズ(743×725×399mm)、159kgという重量[3]は当時のF1エンジンの水準に達していなかった(高岡は剛性の弱さと5バルブの不調も指摘している[4])。結局、スバル本社の判断により提携が解消され、第8戦イギリスGPを最後にF1から撤退した。コローニは後半戦は市販のフォード・コスワース・DFR (V8) へスイッチし、少なくとも予備予選は通過できるようになった。

なお、モトーリ・モデルニはV12エンジンも開発しており、F1計画終了後はモンテカルロのスポーツカーに搭載される予定だった[4]

キャスピタの方は585ps/10,750rpmにデチューンした[5]F12ユニットを搭載する試作1号車が1989年の第28回東京モーターショーに参考出展された[6]が、2号車以降はジャッドV10エンジンに変更された。現在、1号車は日本自動車博物館に展示されている[7]

WSPC編集

モトーリ・モデルニのF1エンジンはスポーツカー世界選手権でも使用された。V6ターボはグループC (C2) マシンに搭載され、世界スポーツプロトタイプカー耐久選手権 (WSPC) に参戦した。

F12エンジンはグループCカーのアルバ・AR20/1にも搭載され、1990年のWSPCに参戦した。全9戦のうち5戦で搭載され、予選不通過3回、決勝不出走1回、不参加1回の不振な成績で、シーズン途中でビュイックエンジンに換装された。

搭載マシン編集

脚注編集

  1. ^ 『Racing On』2009年4月号、25頁。
  2. ^ 『Racing On』2009年4月号、26頁。
  3. ^ a b c 『Racing On』2009年4月号、23頁。
  4. ^ a b 『Racing On』2009年4月号、27頁。
  5. ^ あくまでジオット(ワコール)の公称スペックで、実際は不明。
  6. ^ 『Racing On』2009年4月号、21頁。
  7. ^ "JIOTT キャスピタ". 日本自動車博物館 名車解説ブログ.(2009年2月26日)2013年4月23日閲覧。

参考文献編集

  • Racing On 特集:幻のF1エンジン』2009年4月号(通号437)、三栄書房

関連項目編集