中川 三郎(なかがわ さぶろう、1916年大正5年〉[1]]3月9日 - 2003年平成15年〉10月24日)は、「社交ダンスの父」と呼ばれる日本におけるモダンダンスの創始者。日本タップダンス界の祖。洋舞家。ニューヨーク市立大学シティカレッジ卒。大阪市出身。「日本のディスコの産みの親」とも呼ばれる[1]

「擬装の麗人」と呼ばれ、昭和の日本の興行界に一大センセーションを巻き起こした。妻は戦前にジャズ歌手として活躍した上村まり子。長女は女優でタップダンサーの中川弘子。次女は女優の中川姿子。三女は「スリー・チャッピーズ」の元メンバー、女優でタップダンサーの中川裕季子(女優当時の芸名:中川ゆき、本名:元子)。

経歴 編集

1930年(昭和5年)、日本歌劇の創始者である伊庭孝に師事、15歳で伊庭の主宰する歌劇団で初舞台を踏む[2]。学生時代にダンスホールに通う。

慶應義塾大学経済学部予科を経て17歳で単身渡米、ニューヨーク市立大学シティカレッジ(CCNY)卒業。日本人で初めてタップダンサーとしてブロードウェイミュージカルの劇場に出演、成功を修める。

1933年、RCAチェーン劇場にマジソン・ダンサーとして出演。ブロードウェイ・ミュージカル「クォーター・ツ・ナイン」をウィンター・ガーデン劇場で、ズッペの「詩人と農夫」序曲をシンフォニック・タップにアレンジ、ソロ出演。これが、シンフォニー・として大ヒット、シンフォニック・ジャズ台頭の先駆ともいえる記念すべき公演。出演していたスターは、ジーン・パウエル、ドナルド・オコーナーら。1935年、母親の死去により日本に帰国する[2]

1936年日比谷公会堂で帰国第1回公演[2]吉本興業東京吉本)の専属ダンサーとなる[1][2]。以後、主に鑑賞用舞台で新しい手法を次々と披露して、一時代を築き、今日のミュージカルの土台を創る。

1937年、日本初のミュージカル映画「鋪道の囁き」に主演[2]1939年第二次世界大戦が始まるとダンスホールの閉鎖が相次ぎ、中川三郎もタップダンスの練習をしているとタップの音がモールス信号と疑われスパイ扱いされる。1945年、終戦後の10月に中川三郎はダンスホールを建設したが、来客はGHQ将校ばかりで、食べるのに一生懸命の一般の日本人にはダンスホールは無縁の存在だった。

1955年(昭和30年)、全日本職業舞踊家協会を設立し、初代会長となる[1][2]

1958年、中川三郎スタジオ設立[2]。社交ダンス初のスタジオネットワークを展開[2]

1950、60年代に社交ダンスの大衆化に貢献。1950年代にはレコード会社とのタイアップニュー・リズムと称して、毎年新しい音楽とダンスを流行させた[1]]。この時に採り上げた音楽・ダンスジャンルとしてはカリプソ (音楽)ツイスト (ダンス)タムレ英語版サーフィンジェンカといったものがある[1]

1965年恵比寿 (渋谷区)に日本初のディスコといわれる「中川三郎ディスコティック」を開業させる[1]。オーナーが中川の三女・ゆきであったことから「ゆき・ア・ゴーゴー」とも呼ばれた[1]。店ではオーディションで選ばれたアマチュア・バンドの演奏やゴーゴーガールと呼ばれる女性の踊りなども繰り広げられ、盛況となった[1]。店は、新宿有楽町横浜熱海へと店舗を展開する[1]。恵比寿店ではザ・テンプターズ浅野孝已のジュニア・テンプターズやザ・モップス、横浜店ではミッキー吉野が在籍していたベベス、柳ジョージが結成したバンド「ムー」といったような後に著名なバンドを輩出することになった[1]

著書 編集

  • 国際的なダンスに強くなる本 - 一日でダンスは踊れる (1963年)
  • 踊らんかな!人生 (1964年)
  • 新しいダンス - キミもすぐ踊れる (1966年)
  • ダンスを始める人のために (1966年)
  • ダンス元年 - 日本ダンス百十三年全史(1977年)

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k 馬飼野元宏「この時代不良はソウルを聴いていた」『昭和の不思議101 2018年男の夏祭号』ミリオン出版、2018年、73-77頁。ISBN 978-4813025696 
  2. ^ a b c d e f g h 中川三郎とダンスの歩み(2021年8月9日閲覧)

関連文献 編集

  • 『ダンシング・オールライフ 中川三郎物語』(1996年 乗越たかお著 集英社)
  • 『Step Step by Step 〜中川三郎の流行ダンス史〜』(1999年 乗越たかお著 健友館)

外部リンク 編集