井上 茂徳(いのうえ しげのり、1958年3月20日- )は日本の元競輪選手で、現在はスポーツニッポン専属競輪評論家である。佐賀県佐賀市出身。日本競輪学校第41期卒業。現役時は日本競輪選手会佐賀支部所属。師匠は倉富義夫

井上 茂徳
Shigenori Inoue
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個人情報
本名 井上 茂徳
いのうえ しげのり
愛称 鬼脚
生年月日 (1958-03-20) 1958年3月20日(59歳)
国籍 日本の旗 日本
縁故選手 弟:井上善雄(66期・引退)[1]
チーム情報
所属 引退
期別 41期
分野 競輪&トラックレース
役割 選手
特徴 追い込み
アマ所属チーム
1973-1976
1976-1977
佐賀龍谷高等学校
法政大学
プロ所属チーム
1978-1999
日本競輪選手会佐賀支部
主要レース勝利
KEIRINグランプリ 1986、1988、1994
日本選手権競輪 1983
オールスター競輪 1981
高松宮杯 1988、1993
競輪祭 1982、1984-1985
全日本選抜競輪 1986、1990
ふるさとダービー 2回
 
獲得メダル
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1987 ウイーン プロ・ケイリン
最終更新日
2009年6月18日

目次

戦績編集

私立佐賀龍谷高等学校在学時から自転車競技を行っており、日本競輪学校第39期を受験したが失敗し、その後法政大学に進学。在学中に日本競輪学校第41期を受験して合格したため法大を中退し競輪学校に入学。在校成績は55勝で7位。卒業後は1978年4月1日に選手登録し、初出走は同年5月14日武雄競輪場で初勝利も同レース。

デビュー後しばらくは先行選手として活躍していたが、1980年までは天才といわれた同期村岡和久原田則夫の影に隠れ目立った活躍もない有望新人に過ぎなかった。しかし追い込み選手(マーク屋)への転向をはかると共に実力を発揮するようになり、1981年オールスター競輪優勝を皮切りとして急速に台頭した。

その後も次々とGIを制覇、1988年6月7日には高松宮杯競輪を制し、史上初めて特別競輪全冠制覇(グランドスラム)を成し遂げた[2]。これは同じ九州福岡出身の中野浩一も成し遂げられなかった偉業であり、後に滝澤正光神山雄一郎が井上に続く事となる。また、第2回大会のKEIRINグランプリ'86を初めに、同大会を通算3度制覇した。

この頃の特別競輪では中野浩一の後ろをマークできることが多かったこともあり、井上が取った特別競輪12勝の内、実に7勝までが中野2着である。中野は井上に他の先行選手からの仕掛けを体当たりなどでブロックして守ってもらう反面、後ろに最大のライバルを引き連れて走らねばならなかった。

井上は1987年にレース中の失格による斡旋停止処分を受けたためKEIRINグランプリ'87の出場選考から除外されたり、一時期はレース中での位置を巡って中野浩一と競りを行うなどファンだけでなく競輪関係者まで驚かせる一面もあった[3] が、特に競輪道[4]を重んじる選手としてファンの信頼も厚かった。

中野引退後も、その後継者の吉岡稔真を守り立てるなどして、九州の競輪界を盛り上げた。しかしレース中の事故減点制度が厳しくなったため、当時の最上位格であるS級1班からの陥落が決定した時点で自ら引退を発表し、1999年静岡競輪場での日本選手権競輪を最後にバンクを去った。同年3月31日に選手登録削除。

引退後編集

引退後は競輪解説者として活動し、日本名輪会にも加わることになり2016年より会長となる。 現在井上のホームバンクだった武雄競輪場では、彼の功績を称えた『井上茂徳杯』(F1)が年に1回開催されている。

なお釣り趣味で、それが昂じて現役時代から釣具店を経営している。

主な獲得タイトルと記録編集

競走スタイル編集

その位置取りのうまさと天才的な勝負勘、最終周回4コーナーを回ってからのダッシュ力の鋭さ、落車や失格を恐れることなく他マーク屋と激しい競りをするといったその競走に対する姿勢は「鬼脚(おにあし)」の異名をとり、他選手を震え上がらせた。

著書編集

脚注編集

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  1. ^ 井上茂徳選手 選手プロフィール
  2. ^ ダービー・宮杯・全日本・オールスター・競輪祭の5冠。寛仁親王牌はまだ創設されていなかった。
  3. ^ 月刊競輪2004年12月号
  4. ^ 今だから言えること第14回 井上茂徳

関連項目編集

外部リンク編集

  • 井上茂徳 - サイクリングアーカイヴス(英語)