侯 外廬(こう がいろ[1]、ホウ・ワイルー[2][3]拼音: Hóu Wàilú: 侯外庐[2]1903年光緒29年〉 - 1987年9月14日[1])は、中華民国中華人民共和国マルクス主義学者・中国史学者・中国思想史学者。

侯外廬(1949年中国人民政治協商会議第1回全体会議中国語版の写真)

マルクス主義歴史学による『中国古代社会史論』『中国思想通史中国語版』や、『資本論』最初期の中国語訳で知られる。中国思想史学の学派「侯外廬学派中国語版」を形成した[4]文革中に弾圧されたが名誉回復された。

生涯 編集

末の1903年山西省平遥県の農村地主の家に生まれる[5]。少年時代、書院四書五経を学んだ後、新式学校で学び、新文化運動の影響を受ける[5]

1923年、日本に留学する予定だったが関東大震災のため変更し、北京法政大学中国語版で法学、北京師範大学で歴史学を学ぶ[5]。同時に北京で反帝反封建の学生運動に参加し、李大釗らの中国共産党に接近する[5]1926年張作霖政権の弾圧から逃れてハルピンに移り、1927年からフランスに留学(勤工倹学中国語版[5]パリ大学文学部で学びつつ、1928年パリで中国共産党(フランス共産党中国語支部を兼ねる)に入党し、『資本論』中国語訳に着手する[5]

1930年、滞在資金が尽きたため、パリからベルリンモスクワを経て帰国[5]。同年ハルピン法政大学中国語版教授に就任[5]1931年満州事変が勃発すると、日本軍の侵攻から逃れ各地を転々とする[5]1932年北平大学中国語版教授に就任し、経済学と社会学を講義する[5]。同年『資本論』中国語訳の出版を開始する[5]。その後、左派知識人として抗日運動・反国民政府運動に参加し、中原大戦後の山西派閻錫山の庇護を受け、太原臨汾西安を経て、1938年重慶に至る[5]。重慶では中ソ文化協会中国語版に参加しつつ、郭沫若杜国痒中国語版呂振羽中国語版らと交流する[5]国共内戦期には共産党を支持し、南京上海香港瀋陽を経て、1949年北京に至る[5]

中華人民共和国成立後は、中央人民政府政務院文化教育委員会委員、北京師範大学歴史系主任、北京大学教授、西北大学校長、中国社会科学院哲学社会科学部委員を歴任[5]全人代代表(第1-3,5期)も務めた。1957年反右派闘争後に批判対象となり、1967年以後の文革中にも迫害を受けたが屈しなかった[5][1]

晩年の1982年中国社会科学院歴史研究所中国語版名誉所長に任命された[5]。そのほか中国哲学史学会中国語版名誉会長などの栄職にあった[6]1987年北京で逝去[5]。没後の学界では追悼論集の刊行や追悼シンポジウムが行われた[7]

学問 編集

資本論 編集

資本論』中国語訳は、王思華中国語版との共訳で出版した[8][5]1932年に第1部7章まで、1936年に25章まで出版したが[8]1938年刊行の王亜南中国語版郭大力中国語版訳に譲るため全訳は中止した[9]。日本語の漢訳語を多く用いている[8]

中国学 編集

中国史研究は、郭沫若中国古代社会研究中国語版』(1930年)に触発されて始めた[9]1930年代中国社会史論戦中国語版に参加し、中国史時代区分論(経済発展段階説)やアジア的生産様式について自身の学説を示した[10]。主な論文は『中国古代社会史論』(1955年)にまとめられている[7]

中国思想通史中国語版』(全5巻6冊、1947年-1960年杜国痒中国語版らと共編著)は、思想史を上部構造として社会史・経済史の観点から論じている[10]。また、従来忘れられていた思想家を複数再発見している[11]。本書は任継愈主編『中国哲学史』(1963年-1979年)とともに、20世紀中国の学界で重視された[11]

そのほか『中国封建社会史論』『中国近代哲学史』『中国思想史綱』などの著書がある[1]明末清初を早期啓蒙思想の時代として評価し[12]方以智を再発見してもいる[13]

侯外廬学派 編集

後進育成にも功績があり[10]中国社会科学院で『中国思想通史』編纂を手伝った李学勤らが「侯外廬学派中国語版」と呼ばれる[4]

日本との関わり 編集

侯外廬の学説は、戦後日本の中国学界にも影響を与えた[10]。例えば、西嶋定生[7]増淵龍夫[7]赤塚忠[14]らが取り上げている。西嶋と増淵は日本における「中国史時代区分論争」の人物でもある。

1960年、「日本中国友好協会代表団」が訪中した際、団員の島田虔次らを北京で迎えた[15][3]1963年には、小野信爾らの呼びかけで[3][16]「中国学術代表団」の団員として来日した[3][16][10][17]

しかし、21世紀現代では学説が顧みられる機会は少ない[7]

著書(日本語訳) 編集

  • 侯外廬 著、太田幸男・飯尾秀幸・岡田功 訳『中国古代社会史論』名著刊行会、1997年。ISBN 978-4839003012 

参考文献 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d 侯外廬』 - コトバンク
  2. ^ a b 侯外庐』 - コトバンク
  3. ^ a b c d 吉川忠夫「侯外廬氏追想」『三余続録』法蔵館、2021年、202-204頁。ISBN 9784831877482 
  4. ^ a b 吴光 (2013年). “侯外庐学派的治学特色--理论--人民网”. theory.people.com.cn. 2023年10月14日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 多田 1999, p. 207-218.
  6. ^ 多田 1999, p. 207.
  7. ^ a b c d e 太田 2006, p. 79-81.
  8. ^ a b c 盛福剛『中国におけるマルクス主義文献の初期受容に関する研究―日本からの伝播・翻訳を中心として―』東北大学博士論文、2016年、NAID 500001052182。77f頁。
  9. ^ a b 多田 1999, p. 215.
  10. ^ a b c d e 多田 1999, p. 219-221.
  11. ^ a b 李宗桂 著、本間啓介 訳「二十世紀中国哲学研究の詳察と新世紀の展望」『倫理学』第19号、筑波大学倫理学原論研究会、2002年https://hdl.handle.net/2241/10649 143頁。
  12. ^ 伊東貴之 著「新儒学(新儒教)と啓蒙」、日本18世紀学会 啓蒙思想の百科事典編集委員会 編『啓蒙思想の百科事典』丸善出版、2023年。ISBN 978-4-621-30785-4。158f頁。
  13. ^ 坂出祥伸『中國思想研究 醫藥養生・科學思想篇』関西大学出版部、1999年。ISBN 978-4873542928 352f頁。
  14. ^ 「座談会「先学を語る」――赤塚忠博士」『東方学』126、東方学会、2013年(赤塚孝雄池田知久・家井真・戸川芳郎・松丸道雄による座談会)192f頁。※赤塚と異なり宇野精一は侯外廬を取り上げなかったことにも言及。
  15. ^ 島田虔次<學界展望>中國見聞記」『東洋史研究』19、東洋史研究会、1961年。NAID 40002659236。84f頁。
  16. ^ a b 狭間直樹「『梁啓超年譜長編』について」『近代東アジア文明圏の啓蒙家たち』京都大学学術出版会、2021年。ISBN 9784814003433 332f頁。
  17. ^ 重沢俊郎「侯外廬氏の業績について--中国学術代表団を歓迎する」『中国の文化と社会』10、京都大学中国哲学史研究室、1964年。NAID 40002420473