六波羅蜜寺
六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、京都市東山区轆轤町にある真言宗智山派の寺院。山号は補陀洛山。本尊は十一面観音。創建者は空也上人。西国三十三所第17番札所。洛陽三十三所観音霊場第15番札所。
六波羅蜜寺 | |
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十一面観音立像と本堂(重要文化財) | |
所在地 | 京都府京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町81番地の1 |
位置 | 北緯34度59分49.57秒 東経135度46分23.91秒 / 北緯34.9971028度 東経135.7733083度座標: 北緯34度59分49.57秒 東経135度46分23.91秒 / 北緯34.9971028度 東経135.7733083度 |
山号 | 補陀洛山 |
院号 | 普門院 |
宗旨 | 真言宗 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 十一面観音(秘仏、国宝) |
創建年 | 天暦5年(951年) |
開山 | 空也 |
開基 | 村上天皇 |
中興年 | 貞元2年(977年) |
中興 | 中信 |
正式名 | 補陀洛山普門院六波羅蜜寺 |
別称 |
六はらさん 西光寺 |
札所等 |
西国三十三所第17番 洛陽三十三所観音霊場第15番 都七福神(弁財天) 神仏霊場巡拝の道第118番(京都第38番) |
文化財 |
木造十一面観音立像(国宝) 本堂、木造空也上人立像、伝・平清盛坐像ほか(重要文化財) |
法人番号 | 3130005002190 |
本尊真言:おん ろけいじんばら きりく そわか
ご詠歌:重くとも五つの罪はよもあらじ 六波羅堂へ参る身なれば
歴史
編集創建年は定かではないが、平安時代の歴史書である『扶桑略記』(ふそうりゃくき)によれば、踊り念仏で知られる市聖(いちのひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した[1]という。空也は疫病の蔓延(まんえん)する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。空也は応和3年(963年)8月に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、この時をもって西光寺の創建とする説もある。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。
空也の死後、貞元2年(977年)に比叡山延暦寺の僧・中信が中興して六波羅蜜寺と改称し、天台宗に属する天台別院とした。名称の由来は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するが、この地を古来「六原」と称したことに由来するとも考えられている。なお、六波羅密寺とする表記が古今多く見られるが、誤字である。
平安時代末期には平正盛が付近に阿弥陀堂(現・常光院)を建立して以来平家との繋がりができ、平忠盛が当寺の塔頭に軍勢を駐屯させ、やがて境内の隣に六波羅殿と呼ばれる館が建築され、平清盛によって当寺は平家の屋敷群に取り込まれてしまい、当寺の内外一帯に平家一門の屋敷が5,200棟余りも営まれた。しかし、寿永2年(1183年)に平家が都落ちした際に炎上し、当寺の諸堂も類焼してしまい独り本堂のみ焼失を免れた。この後、当地には鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれた。
当寺は源頼朝や足利義詮により再興が行われ、本堂は南北朝時代の貞治2年(1363年)に再建されている。しかし、境内は度々火災にあっている。
文禄年間(1593年 - 1596年)に、豊臣秀吉による方広寺大仏(京の大仏)建立の際に本堂が修理されて向拝が付け加えられ、寺領70石が安堵された。この際に真言宗智積院の末寺となっている。
江戸時代までは大伽藍を連ねたが、明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域が縮小した。寺の周囲は民家に囲まれて境内は狭くなっている。
1969年(昭和44年)に本堂が解体修理されたが、その際に基壇から『今昔物語集』や「山槐記」などに記載されている泥塔が約8,000基出土している。
境内
編集文化財
編集国宝の本尊像以外にも、空也上人像、伝・平清盛像、運慶の真作と見なされる地蔵菩薩坐像など日本彫刻史上著名な仏像、肖像を有する。本尊以外の諸仏は宝物館に安置されている。
国宝
編集- 木造十一面観音立像
- 平安時代。10世紀頃の作風を示し、伝承のとおり天暦5年(951年)に空也が創建した西光寺の本尊像であると思われる。本堂中央の厨子に安置され、12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏である。像高258cmの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一材から彫り出す一木造とする。表情は温和であり、平安前期彫刻から平安後期の和様彫刻に至る過渡期を代表する作例である。歴史的にも重要な作例として1999年(平成11年)に国宝に指定された。
重要文化財
編集- 本堂
- 木造空也上人立像
- 鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。僧侶の肖像彫刻は坐像に表すものが多いが、本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。六体の小像は針金でつながっている。
- 木造僧形坐像(伝・平清盛像) - 鎌倉時代。平清盛とされる経を持った僧形の像である。
- 木造地蔵菩薩坐像 - 鎌倉時代。銘文はないが、寺伝、作風等から運慶作とされる像。運慶一族の菩提寺である地蔵十輪院から移されたとする伝承がある。理知的でさわやかな表情、切れ味するどい衣文などから運慶作とする説がある。
- 木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像 - 鎌倉時代。日本仏像彫刻史上もっとも有名な仏師親子の肖像彫刻とされている。精悍な伝・湛慶像と、老いてまだまだ盛んな巨匠といった風貌の伝・運慶像とそれぞれの個性が表現されている。前記の地蔵菩薩坐像とともに地蔵十輪院に伝わった。
- 木造四天王立像 4躯 - 平安時代。本尊の十一面観音像とともに、空也による創建期の遺作である。4体のうち、増長天像のみは鎌倉時代の補作である。
- 木造薬師如来坐像 - 平安時代。天台様式がみられ、中信による中興時の像と考えられる。
- 木造地蔵菩薩立像 - 平安時代。六波羅地蔵堂に安置されていた。左手に頭髪を持ち、鬘掛(かつらかけ)地蔵と呼ばれ信仰されている。『今昔物語集』にもこの像に関する説話が取り上げられるなど、古来著名な像である。
- 木造弘法大師坐像 - 鎌倉時代。快慶の弟子長快の作。
- 木造閻魔王坐像 - 鎌倉時代。
- 木造吉祥天立像 - 鎌倉時代。
重要有形民俗文化財
編集- 泥塔
- 皇服茶碗
- 版木
- 萬燈会関係用具2,300余点
重要無形民俗文化財
編集- 空也踊躍念仏 - 毎年12月に本堂内陣で行われる踊念仏。かつては「未入檀の者には説くなかれ」とされ非公開であったが、国の重要無形文化財に指定されるにあたり一般公開が行われるようになった。日本の踊りの源流につながるものと考えられている[2]。
京都府指定有形文化財
編集- 紙本著色十王図 陸信忠筆 10幅(絵画) - 2022年(令和4年)3月22日指定[3]。
- 六波羅蜜寺再興勧進状 1巻・諸国大名寄進録 2巻(古文書) - 1998年(平成10年)3月13日指定。
文化財損傷問題
編集- 2009年(平成21年)4月に、小中学校の新校舎建築工事に絡んで実施された、隣接する中学校舎の解体工事で、同寺の宝物館内に保管されている空也像が振動で揺れるなどの苦情が、同寺から京都市教育委員会に寄せられた。同市教委は、振動防止用の台を設けるなどして工事を継続し解体を完了したが、その後も、異なる方角に位置する旧小学校舎の解体も予定されており、同寺は、同市教委に対し、整備計画の変更などを求めている。また、空也像の唇部分に塗られた漆の一部が剥がれており、工事による損傷の可能性もあるとして、学校の建設地を変更するよう求めている。これに対して像を確認した文化庁は「損傷と考えていない」との見解を示している[4]。
皇服茶
編集結び昆布と小粒梅を若水でいれた煎茶に入れて戴く。京都に疫病が流行した折、空也上人が薬茶をふるまったことに始まる。村上天皇も服したことからそう呼ばれる。正月の三が日限定[5]。
前後の札所
編集所在地・アクセス
編集周辺
編集脚注
編集- ^ 『六道の辻』加納進著 室町書房発行 2004年 33p
- ^ 青鉛筆『朝日新聞』1978年(昭和53年)2月4日朝刊、13版、19面
- ^ 令和4年3月22日京都府公報 (PDF) より京都府教育委員会告示第2号。
- ^ “空也像など損傷の恐れ…学校工事見直し求める”. YOMIURI ONLINE. (2011年6月10日). オリジナルの2011年6月13日時点におけるアーカイブ。 2021年2月26日閲覧。
- ^ 『京都検定試験公式テキスト』京都商工会議所編 淡交社発行 2005年
参考文献
編集- 井上靖、塚本善隆監修、杉本苑子、川崎龍性著『古寺巡礼京都25 六波羅蜜寺』、淡交社、1978
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛東下』駸々堂、1981
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
関連項目
編集外部リンク
編集- 六波羅蜜寺
- 六波羅蜜寺_公式アカウント (@ku_yanotera) - X(旧Twitter)
- 六波羅蜜寺公式 - YouTubeチャンネル