小野俊久
小野 俊久(おの としひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大内氏、毛利氏の家臣。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 慶長5年8月1日(1600年9月8日) |
改名 | 矩資→俊久 |
別名 | 通称:弥九郎 |
官位 | 外記允 |
主君 | 大内義長→毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 藤原姓光富氏流小野氏 |
父母 | 父:小野清資 |
子 |
俊資、資光、粟屋七左衛門室 養子:俊賢 |
生涯
編集大内家臣時代
編集大内氏家臣の小野清資の子として生まれ、初めは小野矩資と名乗った[注釈 1]。天文21年(1552年)6月3日、に長門国厚狭郡末益名[注釈 2]内の30石足と鎌倉時代からの代々の証文類を父より譲られる。このことを8月13日に大内氏家臣の神代忠兼と杉重矩が大内義長に上申し、8月18日に大内義長に相続を認められた。
弘治元年(1555年)10月1日の厳島の戦いで陶晴賢が敗死して陶氏の勢力が弱まると、晴賢に父・重矩を討たれていた杉重輔は、晴賢の子の長房と貞明を討って毛利元就に通じた。この動きに対して内藤隆世は大内義長の命を奉じ、弘治2年(1556年)3月2日に重輔の屋敷を襲撃。重輔は頑強に抵抗した後に屋敷を脱し、大内義長を討ち取らんと今八幡宮に攻め寄せたが、義長の家臣らの防戦により失敗し、3月4日に防府で討たれた。この今八幡宮での合戦に俊久も参加して矢傷を負いつつも戦い、同年8月10日に大内義長から感状を与えられ、父・清資は10月27日に山城守に吹挙された。
毛利家臣時代
編集弘治3年(1557年)4月3日に大内義長が自害して大内氏が滅ぶと、小野清資と俊久は福原貞俊を仲介として毛利元就に服属し、同年8月18日に本領を安堵された[注釈 3]。正確な年は不明だが、永禄5年以前の3月18日に、福原貞俊から「俊」の偏諱を貰い受け、名を「矩資」から「俊久」へ改めた。
永禄5年(1562年)9月3日、妻が懐妊したことを市川経好に報告し、男子の場合はもちろん、女子の場合でも所領を譲り、養子の俊賢(当時3歳で名は慶千代丸)を名代とすることを取り決めた。また同年に、俊久は天野隆重や中村就久らと共に豊前国松山城の守備に就き[1]、の大友氏による松山城攻撃を負傷しつつも防いだ。永禄6年(1563年)1月2日に松山城籠城の功を毛利隆元に賞された。同年1月4日には福原貞俊からも籠城の労を辛労を賞され、天野隆重とよくよく相談するようにとの旨の書状を受け取る。
永禄10年(1567年)5月4日、毛利隆元の證判の旨に任せて、長門国厚狭郡末益名の本領を毛利輝元から安堵された。同年5月7日には養子の俊賢が福原貞俊の加冠を受け、俊久が筑前国の宝満山城に入場することとなったため、同年10月13日、俊賢に小野家の家督と鎌倉時代以来の代々の証文を譲与し、俊久はその後も各地を転戦した。
慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いの前哨戦として徳川家家臣・鳥居元忠の籠もる伏見城への攻撃が行われた。この戦いに毛利家からは吉川広家、小早川秀包、毛利元康、堅田元慶らが参戦しており、これに俊久も加わったが、伏見城が落城した8月1日に俊久も戦死した。
脚注
編集注釈
編集- ^ 「矩」の一字は杉重矩からの偏諱か。
- ^ 現在の山口県山陽小野田市末益。後に厚狭毛利家が居館を構える地となる。
- ^ この時の安堵状には、赤川元保、河屋隆通、大庭賢兼、岩正興致、波多野興滋、仁保隆慰、吉田興種、小原隆言、粟屋元親、児玉就忠、国司元相、桂元忠が連署していた。
出典
編集- ^ 『毛利元就卿伝』530頁。