山越 吉洋(やまごし よしひろ、1963年2月20日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手内野手)、野球指導者。

山越 吉洋
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府宇治市
生年月日 (1963-02-20) 1963年2月20日(61歳)
身長
体重
181 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1986年 ドラフト2位
初出場 1987年4月10日
最終出場 1994年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

来歴・人物 編集

平安高では、遊撃手として1980年春の甲子園に出場。1回戦で上尾高に1-2で惜敗。

高校卒業後は、法大に進学し東京六大学リーグでは在学中に4度優勝。最上級生として優勝した1984年春季リーグでは、初のベストナイン(遊撃手)に選出される。同年の全日本大学野球選手権大会ではエース西川佳明を擁し、決勝で古川慎一らのいた亜大を、延長11回の熱戦の末6-3で降し優勝。同年の日米大学野球選手権大会日本代表にも選出された。リーグ通算41試合に出場、119打数34安打、打率.286、1本塁打、15打点、9盗塁を記録。大学同期に秦真司島田茂、伊吹淳一(のち熊谷組)らがいた。

大学卒業後は、社会人野球本田技研に進む。チームメートに広瀬哲朗(遊撃手)がいたため、二塁手としての出場が多かった。1985年日本選手権では伊東昭光の好投もあって初優勝、この大会の打撃賞、優秀選手賞を受賞した。また同年から都市対抗に2年連続出場(1986年日本通運の補強選手)。

1986年のプロ野球ドラフト会議阪急ブレーブスから2位指名を受け入団。

プロ1年目の1987年から一軍出場を果たし、1988年には弓岡敬二郎と遊撃手の定位置を争った。しかし、翌1993年には小川博文がレギュラー遊撃手に定着し出場機会が大きく減ったが、1990年には内野のユーティリティプレイヤーとして復活し、その後も準レギュラーとして活躍した。

1994年オフ、家業である滋賀県内のスーパーを継ぐために現役を引退。

2017年3月27日、四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスの野手コーチに就任することが発表された[1]。2シーズン務め、2018年シーズンの契約満了をもって退任[2]

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1987 阪急
オリックス
33 16 14 5 1 0 0 0 1 1 0 1 1 0 0 0 1 6 0 .071 .133 .071 .205
1988 89 172 161 21 39 4 3 3 58 19 2 0 3 1 6 0 1 37 2 .242 .272 .360 .632
1989 47 47 43 8 12 2 1 0 16 6 1 1 2 0 1 0 1 7 1 .279 .311 .372 .683
1990 81 123 104 14 24 5 3 3 44 13 6 4 7 1 10 0 1 21 1 .231 .302 .423 .725
1991 69 75 70 12 14 3 0 1 20 6 2 1 4 0 0 0 1 10 1 .200 .211 .286 .497
1992 47 48 40 12 10 1 0 0 11 1 1 2 4 0 1 0 3 11 1 .250 .318 .275 .593
1993 87 65 56 7 9 0 0 1 12 5 3 0 5 0 3 0 1 14 1 .161 .217 .214 .431
1994 18 19 19 1 5 1 0 0 6 2 0 0 0 0 0 0 0 5 1 .263 .263 .316 .579
通算:8年 471 565 507 80 114 16 7 8 168 53 15 9 26 2 21 0 9 111 8 .225 .268 .331 .600
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

記録 編集

背番号 編集

  • 24 (1987年)
  • 2 (1988年 - 1994年)
  • 76 (2017年 - 2018年)

脚注 編集

  1. ^ 高知FD 山越吉洋野手コーチ就任のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2017年3月27日)
  2. ^ 高知FD 山越吉洋コーチ退団のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2018年12月25日)

関連項目 編集

外部リンク 編集