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岩瀬 順三(いわせ じゅんぞう、1933年5月19日 - 1986年5月18日)は、日本の編集者KKベストセラーズ創業者[1][2]。"出版界の歴代鬼才ナンバーワン"とも言われた出版事業家[3]。 

経歴・人物編集

広島県尾道市三軒家町出身[1][2]野坂昭如は「尾道を代表する二大文化人、大が石堂淑郎で、小が岩瀬。ともにややこしい心根の持主」と話していた[2]1958年立教大学英米文学科卒業。講談社は不合格となり、バーテンダーなどの仕事をする。当時はヒロポン中毒に悩まされていたという[2]1961年、28歳で食品業界の業界紙・光琳書院に入社[2]。翌1962年60年安保闘争の総括で知られる清水幾太郎の紹介で青春出版社に入社[2]。社員10名の編集長となる[2]野末陳平『3時間だけ楽しむ本』や『勘入門』などの大ヒットを出し一躍青春出版社の名を轟かせた。一攫千金の夢が強かった岩瀬は、この成功で銀座バーを出したり有名女優を愛人にするなどの放蕩を始めたといわれる。また一介のサラリーマンに似合わぬ大金をかけて賭け麻雀をやり、多額の負債を負ったともいう。会社社長との思想の違いから退社。

1968年河出書房新社に招かれ[2]、傍系の「河出ベストセラーズ」を作り[2]、社長を務めたが翌1969年、同社は会社更生法の適用を申請することとなったため退社[2]。同社の子会社を独立させてKKベストセラーズを創立した。光文社神吉晴夫が創刊した「カッパブックス」に対抗して、カッパを喰うワニ商標に「ワニブックス」を創刊[4]。それまでは著者が書いたものをそのまま本にするというのが一般的な傾向だったが、神吉が編み出した「編集者と著者の共同作業」という出版メソッド[5]を更に進化させ、(1)出版社が企画を立て(2)著者を選び(3)著者と共に共同製作を行う出版プロデューサー的出版社・出版法を打ち立てた[3][6]。その後、この手のタイトルと本作りは、他社にそっくり真似られ、今は定着している[3]


こうした手法を編み出したのは岩瀬ではなく、光文社カッパ・ブックスの創始者・神吉晴夫といわれる[7]。この後のベストセラーの連発で他のマスコミや世間からはゴーストライターと強い批判を受けたが高度経済成長期の社会風潮を背景に、セックスや金儲けなど人間の根源的欲望に迫るハウツー物で次々とベストセラーを送り出し出版界の風雲児と謳われた[3]。「本は題名だと思うんです。強烈な題名をつけなくちゃ、広告は生きない。よその広告マンが、ぼくのところがいちばんパンチがあるって言ってた」と話した[2]PL教団御木徳近の『愛―愛する愛に愛される愛』から始まり、ハウツーが流行語となった奈良林祥『How to sex』、藤田田『ユダヤの商法』(1977年)など[3][2]。ゴーストライター批判がピークに達した江本孟紀の『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(1982年)は220万部という記録的な売れ行きとなった。これはゴーストライターブームをつくったと言われその後、このテのタイトルと本作りは、他社にそっくり真似られ今は定着している[3]1980年の年間6位となったビートたけしの『ツービートのわっ毒ガスだ』は漫才ブームを起こす切っ掛けの一つとなった。1984年からは女性の顔にシャワーをかける表紙で有名な『ザ・ベストマガジン』『大人の特選街』など大人の雑誌群も揃えた[3]

「本を作る場合、市場調査をやったり、こういう傾向のものが売れてるからこういう本を作ろう、というように考えるのはシロウト。ぼくはそうじゃない。自分自身が大衆そのものと思ってます。だからリサーチの必要はない。わたしが大衆の象徴みたいなもんです。だから、わたしの読みたい本は、大衆も読みたくなる本ということになるわけです。それが私の企画の根本です」などと豪語した[2]。野坂昭如は「今までの編集者は、おもに小説家とか編集者を相手にして、世に隠れた才能を掘り出してくるのが名編集者ということになっていたけれども、あなたの場合は雑文家の天才を掘り出してくるわけだ」と評した[2]

野坂昭如を尊敬しよく行動を共にし、野坂の小説『水虫魂』のモデルといわれている[1][2]。野坂の小説『火垂るの墓』の実写映画化を企図し、アメリカに戦前の神戸の街並みを再現して実物のB-29から本物の焼夷弾を投下するなどの壮大なプランを立てていた[8]キックボクシングに熱中した野坂の関係からかプロボクシングの名門で立教の後輩本田明彦が経営する帝拳のスポンサーになり、フェザー級全日本高校王者の実績を引っ下げ沖縄から帝拳入りした浜田剛を社員として雇用した。1973年には日本のヒュー・ヘフナーを目指し[2]、女を口説こうと別会社で美人を揃えたファッションモデルの会社を作ったが2ヶ月で潰した[2]。野坂に「お前はもっと飲まなきゃダメだ」と言われて実行し肝臓は40代でボロボロになったといわれB型肝炎により52歳で早世した。

野坂から紹介された梶山季之近藤啓太郎吉行淳之介らとも親しく[2]、吉行の小説随筆に何度か登場している。岩瀬の手掛けたベストセラーは他に糸山英太郎『怪物商法』(1973年)、あのねのね『あのねのね』(1974年)、中村鉱一『やせる健康法』、馬場憲治『アクションカメラ術』(1981年)などがある[2]

逸話編集

  • ゴーストライターの存在は昔から出版界の暗黙の秘密であったが、広く公然化されたのはテレビ番組での岩瀬の発言による[3]1982年11月17日NHK教育テレビで放送された『NHK教養セミナー』「現代社会の構図ー出版界最前線」第2回〈ベストセラーを狙え〉[6]に出演した岩瀬が、当時同社から出版されてベストセラー第2位だった江本孟紀の『プロ野球を10倍楽しく見る方法』に関して、アナウンサーが「この本も、原稿をまとめたのは、実は出版社だという話です」と言うと、岩瀬は「書いたか書かないかでなく、誰の本.....山口百恵の本、江本の本ということが重要だ」と前置きをして「ゴーストライターによってつくろうとも、なまじ本人が書いて拙い文章の本をつくるより、言わんとすることを正確に、より読みやすく面白く書いてもらったほうがいい。江本孟紀の書いた本を売っているのではなく、“江本の本”を出しているのだと判断してもらいたい」と発言した[6][3][9]。これは、当時のゴーストライターに対する強い批判に岩瀬が回答し、ゴーストライター必要論を強調したものであったが[6]、『プロ野球を10倍楽しく見る方法』は、220万部という記録的な売れ行きとなり、ゴーストライターブームをつくったと言われた[3]

「〇〇〇〇の本」シリーズ(KKベストセラーズ刊)編集

  • 吉行淳之介の本 (1969年)
  • 野坂昭如の本 (1969年)
  • 有馬頼義の本 (1970年)
  • 阿川弘之の本 (1970年)
  • 近藤啓太郎の本 (1970年)
  • 遠藤周作の本 (1970年)
  • 五木寛之の本 (1970年)
  • 宇能鴻一郎の本 (1970年)
  • 水上勉の本 (1970年)
  • 立原正秋の本 (1971年)

脚注編集

  1. ^ a b c 岩瀬順三、20世紀日本人名事典、コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「野坂昭如の清談俗語 連載対談13 ゲスト KKベストセラーズ社長・岩瀬順三 『俺こそ読者大衆そのものなんだ』」『週刊朝日1973年昭和48年)3月30日朝日新聞社、 36 - 39頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j #名編集者列伝、78頁
  4. ^ ノアズブックスコラム | Noah's Books column: 女性アイドル
  5. ^ 戦後のベストセラー史どうしてあの本は売れたのか - 神田雑学大学
  6. ^ a b c d #出版最前線、145頁
  7. ^ 戦後のベストセラー史どうしてあの本は売れたのか - 神田雑学大学
  8. ^ 野坂昭如「アニメ恐るべし」(アニメ『火垂るの墓』パンフレットに掲載)
  9. ^ 情報紙『有鄰』No.422 P3 - 有隣堂塩沢 実信 氏より (書籍「ベストセラー感覚」より)

参考文献編集

  • 塩沢実信『出版最前線』彩流社、1983年。
  • 櫻井秀勲『戦後名編集者列伝』編書房、2003年。ISBN 4-047-31905-8

関連項目編集