江本孟紀

日本の元プロ野球選手

江本 孟紀(えもと たけのり、1947年7月22日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)出身、高知県高知市育ちの元プロ野球選手投手)、元政治家野球解説者タレント俳優実業家

江本 孟紀
高知ファイティングドッグス 総監督
Takenori EMOTO 20201003.jpg
高木豊YouTubeチャンネルに出演する江本(2020年10月)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県香美郡土佐山田町(現:香美市
生年月日 (1947-07-22) 1947年7月22日(73歳)
身長
体重
188 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1970年 ドラフト外
初出場 1971年4月11日
最終出場 1981年8月26日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
江本孟紀
えもと たけのり
生年月日 (1947-07-22) 1947年7月22日(73歳)
出生地 高知県香美郡土佐山田町(現:香美市
所属政党スポーツ平和党→)
自由連合→)
(自由の会→)
フロムファイブ→)
民政党→)
民主党→)
無所属→)
国民新党
称号 旭日中綬章

選挙区 比例区
当選回数 2回
在任期間 1992年7月27日 - 2004年1月15日
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愛称は「エモやん」。株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督。政治家としては参議院議員(2期)、参議院内閣委員長スポーツ平和党代表代行自由連合副代表、民主党高知県連顧問などを歴任。

現役時代の通算24ボークは日本記録[1]

経歴編集

プロ入り前編集

警察官だった実父の転勤によって、小学校から中学校までの間に転校を数度経験したが、転校先のどこででも野球に打ち込んだ。高知市立高知商業高等学校ではエースとして1964年秋の県予選を勝ち抜き、秋季四国大会に進む。準決勝で今治南高金子準一、決勝では高松商小坂敏彦に投げ勝って優勝を果たすが、部員の不祥事によって翌年春の選抜への参加を辞退することとなった。この不祥事によって夏の県予選も出場停止処分となる[2]

その後、第1回プロ野球ドラフト会議において西鉄ライオンズから4巡目で指名を受けるが、当初から大学進学を希望していたために入団を拒否。長嶋茂雄への憧れから立教大学への進学を希望していたが叶わず、法政大学へ進学。この時のドラフト指名では西鉄の1巡目指名が同級生だった浜村孝だったため、4番・投手だった江本が4巡目で、3番打者の浜村が1巡目指名だったことに納得がいかなかったとされているが、江本自身はこれを否定している[3]

東京六大学野球リーグでは1年生の春季からベンチ入りし、1968年春季リーグでは同期の山中正竹と共に2本柱を形成し、リーグ優勝に貢献した。しかし、監督の松永玲一の方針に合わないために幾度となく反発し、在学中に三度の優勝を果たすも最終学年ではベンチ入りからも外れ、半ば退部状態となっていた(その後、松永とは和解している)。リーグ通算14試合で6勝1敗、防御率2.35、39奪三振[4]の成績を残した。なお、一学年先輩にはのちに阪神タイガースでチームメイトとなる田淵幸一と、山本浩司富田勝の「法政三羽ガラス」、同期には前述の山中をはじめ、黒田正宏堀井和人がいる[5]

大学卒業後は社会人野球・熊谷組へ進み、1970年第41回都市対抗野球大会に出場、1回戦で三菱重工神戸と対戦するも大敗を喫するが、江本は大会で唯一の登板となったこの試合で8回から登板、1イニングを無失点で抑えた[6][7]。同年の日本産業対抗野球大会では2回戦(初戦)で全王子製紙を相手に先発して完投勝利を挙げ、準決勝では三協精機会田照夫に抑えられて敗退するが、好投手として注目を集める[8]。社会人野球での活躍からドラフト指名を期待したが、同年のドラフト会議では予想に反して指名されなかった。その後、ロッテオリオンズ田丸仁スカウト(元法政大学監督)から誘われたが、当時のロッテには小山正明成田文男木樽正明村田兆治といったエース級の投手が数多く在籍しており、先発ローテーションに加わるのは難しいと考えて断ったという[9]。ところが1971年1月下旬に、前年のドラフトで2位指名した井上圭一に入団を拒否された東映フライヤーズが代替選手として江本の獲得を決め、東映のスカウトから江本に入団の誘いがあった。江本自身は乗り気であったが家族や周囲の人々はプロ入りに反対し、母親からも「熊谷組のような立派な会社に入れて、将来も安定しているのに、やめといたら」と言われたが、父親には「ここは悔いが残らんようにせい」と決断を後押しされ、江本の決意が固いと見た会社側もプロ入りを容認したため、2月15日に契約金400万円、年俸120万円の条件で東映と入団契約を交わした[10]。背番号は49

プロ野球選手編集

東映時代編集

東映へは春季キャンプ開始後の入団であったため江本は直ちにキャンプ地の伊東に向かい、翌16日にチームに合流した[11]。キャンプに最初から参加していなかった江本は調整の遅れを取り戻すため、土橋正幸投手コーチから主力打者三人を相手にフリーバッティングで登板するよう命じられたが、調整不足と緊張から全くストライクが入らず、白仁天大杉勝男の二人に10球連続でボール球を投げてしまい「ストライク入らんヤツが、プロのピッチャーか!」と激怒された。しかし最後に打席に立った張本勲は、ボールゾーンに外れた初球を平然と打ち返すと、その後も手の届く範囲に来たボールは高低・内外を問わず自由自在に打ち返し、そのおかげで落ち着きを取り戻した江本は次第にストライクゾーンに球がいくようになった[12]。江本は自著で「この年(1971年)に入団した中では100人いたら(自分は)100番目の選手だ。ドラフト外として最後の最後にプロ入りしたルーキーが開幕一軍に食い込むことが出来たのも、あのフリー打撃があったから。これは全て張本さんのおかげ。間違いなく大恩人の一人だ」と張本への感謝を述べている[13]

自信を回復した江本は紅白戦を通じて調子を上げてキャンプを乗り切ると、3月からのオープン戦では一軍メンバーに加わり、公式戦でも開幕一軍スタートを勝ち取った。プロ初登板は4月11日の対西鉄ライオンズ戦(平和台球場)だったが、連続四球と安打を浴び、2失点で終わった。この年は26試合で未勝利(4敗)に終わると、同年オフに高橋博士との交換トレードで、佐野嘉幸と共に南海ホークスへの移籍が決まり、入団後僅か一年で所属チームが変わることとなった。

この南海へのトレードについては、見る目の無い東映では江本は全く鳴かず飛ばずであったが、その潜在能力を見出した野村がさも江本に興味の無いようなそぶりをして獲得し、一から江本を育て上げたとされている。しかし江本はこの風説を強く否定しており、自分は土橋投手コーチから成長株として大いに期待され、秋季キャンプでも翌年から本格的に先発投手陣の一角に加われるようにと土橋から課された猛練習をこなしていて、東映で土橋に基礎力を徹底的に鍛え上げてもらったおかげで「投げられるピッチャー・江本」に育っていたところを、移籍先の南海で監督として居合わせた野村が「勝てるピッチャー・江本」にしたのである。と明言している[14]

南海時代編集

南海への移籍が決まった1971年12月、江本は堺市中百舌鳥の選手寮に入った。寮には法大時代の同期生である堀井和人・黒田正宏をはじめ顔見知りの選手が多く大いに歓迎された[15]。江本は南海の印象を「東映よりは全然良かった。東映は恐ろしかった。張本さんにさんに大杉さん。南海は門田とか同級生がいっぱいいたし、全然違和感なかった[16]」と語っている。1972年1月、中百舌鳥球場で行われた合同自主トレの初日に監督室に呼び出されると、野村は開口一番「ワシはずーっと、お前のこと見とったんや。お前のボールなら、ワシが受ければ、軽く10勝はいくでェ」と言い、江本に背番号16のユニフォームを見せて「背番号16、エース番号や」「10勝するとエースと呼ばれるんや、今日から着とけ!」と激励したという[17]。江本はこの時の感激を「東映では(背番号)49番でしたから、(16番を渡されて)電気が走りました。人間って一言で変わるんですよ」と語っている[18]。野村の一言で発奮した江本は1972年から先発ローテーションに加わり、背番号と同じ16勝を挙げ、西岡三四郎と並ぶ南海のエース級投手へと成長した。1973年には開幕投手に抜擢され、12勝を挙げてチームの前期優勝に貢献したほか、プレーオフ第5戦(対阪急ブレーブス戦)においても9回二死・一打同点の場面で、代打本塁打世界記録保持者である高井保弘を迎えたところで、佐藤道郎に代わって登板して三振を奪い、胴上げ投手となった[19]。日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)においても第1戦の先発投手を野村から指名され、土井正三森昌彦に本塁打を浴びたが3失点で完投勝利を挙げた。しかし、第4戦では2回4失点(自責点は0)で敗れ、日本一は逃した[20]1974年にはオールスターゲームにも出場、第2戦では先発投手を務めた。

しかし、その頃から野村の愛人である伊東芳枝(のちの野村沙知代)が本拠地・大阪球場へ電話をかけて直接選手起用に口出しするなどの現場介入を繰り返し、試合にまで直接悪影響を及ぼすようになっていた。そのため1974年は3位、1975年は5位と次第にチーム成績が悪化していき、1975年オフにはとうとう我慢の限界に達した選手が芳枝の排除を要求する事態に発展し、11月に江本と西岡三四郎、藤原満の3人がチームを代表して、大阪市内のホテルで野村に「公私混同を止めて下さい」と直訴した[21]。しかし、江本らの必死の訴えは聞き入れられることはなく、かえって野村の不興を買い、12月に阪神タイガースへのトレードを通告され、翌年1月に4対2の交換トレードで放出された(南海からは江本と島野育夫長谷川勉池内豊。阪神からは江夏豊望月充)。広瀬叔功は、この時に江本のみならず長谷川・池内と、エースを含め一軍で投げられる投手を3人も同時に阪神へ放出してしまったことは、南海にとっての痛恨事だったと述べている[22]。また、江本と同様に首謀者と見なされた西岡も中日ドラゴンズへとトレードされている。このトレードに際し、江本を格下に見ていた江夏との間で激しい舌戦を繰り広げたが、1993年3月に江夏が覚醒剤取締法違反で逮捕された際には、江本は江夏のために法廷で情状陳述を行っている[23]

阪神時代編集

移籍後初の春季キャンプでは甘いマスクで女性ファンの人気を集め、キャンプ地は常に多くの人だかりが出来ていた。1976年はシーズン130試合中、江本の他に古沢憲司上田二朗谷村智啓で120試合近くに登板し、江本自身も8完投を含む15勝9敗[24]の好成績を収めた。1977年には先発ローテーションに加わりながら中継ぎも担当し、11勝13敗11セーブを記録した[25]が、阪神移籍後は投球する際のサインが一つしか存在せず、さらに複雑なサインが存在しなかったこと、さらに監督の吉田義男も例えチームが敗れても敗因を分析するのではなく単に相手が頑張ったからとしか考えていないことに、江本と同時に移籍した島野は「それで勝っているんだから。逆にいえばこのチーム本当に強いということや」と感心していたが、南海時代に野村仕込みの「シンキング・ベースボール」で鍛えられた江本は拍子抜けし、「戦術もクソも無い野球を続けていればチームの長期低迷は避けられない」と考えていた。この江本の危機感や不安は現実のものとなり、1977年は4位、監督が後藤次男に交代した1978年は球団史上初の最下位に終わり、感覚のズレによる違和感は引退まで拭うことができなかった[26]

江本は、阪神が球団史上初の最下位に終わる屈辱を味わったことで、チーム再建案について盟友・古沢と大学の先輩である田淵幸一と共に話していた矢先、2人が西武ライオンズへトレードされたことについて大きなショックを受け、球団に自らのトレードの申し入れを行ったほどである[26]。この年のオフに江本は球団初の選手会長を要請されたが、当初は拒否していた。しかし、同時に球団社長に就任した小津正次郎は、阪神電鉄本社内でも労働組合を相手に手腕を発揮して就任した実力者で、その小津に対抗できる人物として選手会の会合で要請されたことを受けて就任した[26]。小津は江本と初対面の際に、「タイガースの改革に一番必要なものは?」と意見を求めた際、江本は「フロントにゴマすって長年コーチをやっているヤツがいる。実力のみで評価できる監督を呼んで下さい」と返答した。これに対し、小津は後日になって江本を再び呼び出し、次期監督をドン・ブレイザーに決定したことを伝えた。ブレイザーは南海ホークスでヘッドコーチを務めていた時期があるが、江本が理由を尋ねると「お前、言うとったやろ? 野球を知っている人物でゴマすったりしない人をって」と答え、江本も「グッド・チョイス。確かに実力優先主義。いつも『コンセントレイションしろ(集中しろ)』が口癖だった。ブレイザーならチームも変わると確信めいたものがあった」とし、後年「それにしても選手会長の意見を取り入れて監督を決めるとは、今では考えられないだろう。」と回想している[26]

1979年は最下位を脱して4位となり、江本は名門再建の道筋が見えてきたと感じていた。1980年には後に阪神で主力選手となる大型ルーキー・岡田彰布が入団したが、岡田の守備位置である二塁には名手・榊原良行がおり、ブレイザーは「オカダはまだ新人。一軍でずっと活躍出来ると確信を持てるまでは安易に使わない」と宣言した。これに岡田は「そんなん関係ないやん」と言い、マスコミやファンもブレイザーの信念を受け入れず、挙句の果てにはブレイザーの自宅へカミソリが入った手紙が届き、ブレイザーは退団した。江本は著書の中で、「ブレイザー監督が無ければ阪神は改革できなかった。(ブレイザーが退団したことで)ついに再建のチャンスは消えたな、とオレは失望感を覚えた」と記している[26]。さらに江本は、ブレイザーの後任となった中西太の選手起用に不満を募らせ、先発登板した1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦(甲子園球場)の8回表途中に交代を命じられると、ベンチ裏で新聞記者などを前に「ベンチがアホやから野球がでけへん」と発言(後述)した。この発言が監督批判というニュアンスで翌日のスポーツ紙を賑わせたことから、「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪したうえで、同年限りでの現役引退を表明した[27]。江本と中西はキャンプ中から対立していた険悪な仲だった[28]

阪神移籍後は、南海時代に野村が禁じていた口ひげをトレードマークのように生やしていた。クラウンライターライオンズから大型トレードで移籍し、1979年から正捕手を務めた若菜嘉晴と共に、絶えず黒い交際を噂されていた。しかし実際には、阪神で選手会長を務めたこともあるほど、選手からの人望があった。

選手引退後編集

タレント活動から政界進出編集

現役引退後はフジテレビニッポン放送野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家の傍らタレント活動も行い、同年に発売された著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」が200万部をこえるベストセラーとなった。また映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラム、コメンテーターなど各方面へ活動の幅を広げ、森光子主演のドラマ「田中丸家御一同様」ではスナックのマスター役[29]を務めるなど、テレビ界にも徐々に進出した。1983年に上映された「細雪」では監督の市川崑から誘われ、吉永小百合の相手役ということで出演し[30]1989年からは三田寛子とフジテレビ系ドキュメンタリー番組「なんてったって好奇心」の司会(三代目)を務める[31]

江本はその後、政界入りを目指して1992年7月の第16回参議院議員通常選挙においてスポーツ平和党より比例代表選出で出馬し、初当選する。1995年10月には党の副代表を辞任して無所属となり、自由連合に在籍した。内閣総理大臣指名選挙で支持した橋本龍太郎が総裁を務める自由民主党への入党を検討したが、1997年12月26日に細川護熙などと共にフロムファイブ1998年1月23日の民政党、同年4月27日民主党の結成に参加した。さらに、長嶋茂雄の支援も受けて同年7月の第18回参議院議員通常選挙に民主党から比例代表選出で再選を果たすと、1999年8月12日に成立した「通信傍受法案」などの組織犯罪対策三法案では反対の討議に従わず退席した。のちに江本は「民主党に合流してからは特に嫌だった。もうとにかく、右から左までみんな意見が違って…あそこ(民主党)は国家観が無いからね」と述べていた[32]2001年1月から8月にかけては(第151回・152回国会)参議院内閣委員会委員長を務めた[33][34]

2004年に民主党を離党して大阪府知事選挙に立候補した。江本にとって最後の政治活動として臨んだが、現職の太田房江に完敗した。その後も自身が代表を務める政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」は大阪府知事選挙としての総務大臣届け出資金管理団体として現在も存続しているほか、法政大学時代の同窓で1992年初当選同期の平野貞夫小沢一郎などとの交流も続いている[要出典]

世界各国での活動編集

2004年10月、アメリカ合衆国独立リーグであるノーザンリーグに加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。この球団は、日本人の三沢博明樋口直人の出資によって設立されたもので、両名の依頼を江本が承諾した形となった。就任会見では、2006年度からの日本独立リーグの設立構想を明かしてコミッショナーに就任することが予定されていた[35]が、カルガリー・フォースはそれ以降の進展が無かったことから、三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫、直後に地元の経営者が運営を引き継いでカルガリー・ヴァイパーズとなった。それに連動し、当初の予定だった日本の独立リーグ計画も事実上頓挫した状態になっている[要出典]

その後、2005年4月にアメリカ独立リーグのゴールデンベースボールリーグのバイスコミッショナーに就任し、このシーズンのみ参加したジャパン・サムライ・ベアーズにも人脈面などで援助した。ジャパン・サムライ・ベアーズがシーズン後に日本でクラブチームなどと試合を行った際には監督を務めたほか、同年11月にはジャパン・サムライ・ベアーズは日本のクラブチームである「京都ファイアーバーズ」として再発足することとなり、監督兼主催者となる。この京都ファイアーバーズには前述の樋口も代表者として名を連ねている[36]

2005年にはプロ野球新規球団として楽天ライブドア間で騒動が巻き起こったが、江本は堀江貴文率いるライブドアによるニッポン放送の株式所得問題が起こった際、「ニッポン放送をホリエモンが買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた[37]

2007年7月24日にタイ王国ナショナルベースボールチームの総監督に就任。この年11月に台湾・台中で行われた第24回アジア野球選手権大会に出場したが、予選リーグ敗退に終わった[38]

2010年代の活動編集

2010年度から法政大学で非常勤講師を務める[39]

2010年5月、参議院選挙国民新党公認の比例代表候補として立候補することを発表[40]。6月、大相撲木瀬親方が土俵下の「維持員席」(いわゆる「砂かぶり」の席)を暴力団組長に手配していたとされる問題に関連して、2009年9月の大相撲秋場所4日目に、砂かぶり席で江本が暴力団組長2人と言葉を交わしながら相撲観戦しているところをNHK中継カメラに捉えられていたことが報じられた。これについて江本は「議員になった暁には、この問題を文部科学省の委員会にかけて、相撲協会の正常化を訴える」などと釈明した[41]。7月、参議院選挙落選。選択的夫婦別姓制度導入に反対していた[要出典]

2015年10月26日、来シーズンから四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスで総監督(現場指揮をおこなう監督とは別)に就任することが決定した[42]

2017年秋の叙勲で旭日中綬章を受章。2018年1月29日に「叙勲受章祝賀会」が行われ鳩山由紀夫原辰徳が祝辞を述べ、乾杯の音頭はアントニオ猪木が取り、司会は松本秀夫が務め[43]金田正一、野村克也、川淵三郎森喜朗[44]周防郁雄山本浩二谷沢健一上田次朗佐々木主浩など球界、政界、芸能界から約650名が出席した[45]

2020年代の活動編集

2020年2月11日に野村克也が死去すると、江本はその追悼番組に多数出演し[46]、また雑誌など各種メディアの取材に応じて野村との思い出を語ると共に「南海ホークスの野村克也」を記憶にとどめるための活動に力を注いだ。

南海の本拠地・大阪球場の跡地に建てられた複合施設であるなんばパークスには、2003年のオープン当初から「南海ホークスメモリアルギャラリー」という観覧無料の展示施設が存在し、南海ホークスで活躍した多数の選手を写真・映像・展示資料を用いて紹介しているが、開設から18年間は野村の事績を一切取り上げていなかった。このような展示を余儀なくされた背景には沙知代の妨害があった。江本を南海退団へと追い込んだ沙知代であったが、1977年9月には沙知代の度重なる現場介入(公私混同)を理由として野村が電撃解任されたことにより、沙知代もまた南海から追放された(野村は解任後の翌1978年1月に本妻との離婚が成立し、同年5月に沙知代と再婚)。これを恨む沙知代はこの施設を「かつての南海ホークスの栄光をとどめようという女々しい考え」によるものと嘲り、開設に際して電話で南海電鉄から野村に関する展示の許可要請があった際にこれを独断で拒絶し、野村もこれを追認したために[47]、同ギャラリーの展示は肖像権を理由として野村について一切言及することが出来ない状態になっていた。2017年12月に沙知代が死亡すると、江本は展示の許可を与えるよう繰り返し野村を説得したが、野村は展示拒否の意思を撤回することなく死去してしまい[48]、そのため南海電鉄側も『東京スポーツ』の取材に対し、故人の意思を尊重して今後も展示の許可を求めるつもりはないと回答していた[49]

この状態を憂いていた江本は、野村の没後に遺族の野村克則から展示の承諾を取り付けて肖像権の問題を解消すると、野村関連の展示実現に向けて南海電鉄との折衝を重ね、同年11月に南海電鉄やサンケイスポーツと共同で「おかえり!ノムさん大阪球場に。」と銘打った、ギャラリーのリニューアルを実施したうえで野村に関する資料を展示するためのプロジェクトの立ち上げに成功した。同プロジェクトの運営を担う実行委員会には南海電鉄とサンケイスポーツに加え、ギャラリーが所在する大阪市が後援団体、野村の出身地である京丹後市が協力団体として名を連ねた[50]。またリニューアル関連の経費はクラウドファンディングで賄うこととし、2021年1月11日を期限として2,000万円を目標に出資を募ったところ、2,388人の出資者から目標額の倍以上の計4,354万1,500円の出資金が寄せられ、リニューアルの実現に至った[51]。2021年2月14日に催されたリニューアル記念セレモニーでは、江本は野村の孫(克則の長男)と共に野村時代の1975年から1976年まで使用されたホーム用ユニフォームのレプリカ[注釈 1]を着用して登壇し、2階のキャニオンストリート(大阪球場のピッチャーズプレートとホームベースの位置を示す記念プレートが埋められているオープンスペース)で、二人で「メモリアルピッチ」を披露した[54]。同日以降は、資料映像、チームの歴史年表と「往年の名選手」の写真パネルに野村の姿が加わり、克則から寄贈された1977年に野村が着用したホーム用ユニフォームなどの各種資料も一般展示に供されたほか、江本が最後を抑えた1973年リーグ優勝決定時の野村の胴上げ写真がリニューアルされたギャラリーの外壁を飾った[55]

「ベンチがアホやから野球がでけへん」編集

江本の現役引退のきっかけになったとされる「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言については、以下のような周囲の証言があり、それらに伴って江本自身の発言にも変遷が見られる。

1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)に先発した江本は7回1失点と好投して試合を作るが、3点リードで迎えた8回表に一死から大杉勝男に安打、杉浦亨に二塁打を浴び、渡辺進に適時打を喫して2-4と2点差に迫られる[56]。ここで投手コーチの藤江清志がマウンドへ向かうが江本は続投し[56]八重樫幸雄を三振に打ち取るものの、水谷新太郎に同点となる適時打を浴びる。江本は結局、西井哲夫から三振を奪ってこの回を終えるが、マウンドから一塁側のベンチに向かう際にグラブを投げ付け、球場の2階にあった選手用のロッカールームに向かった[56]

サンケイスポーツへの入社3年目に阪神担当記者として上記の発言に接した田所龍一は、産経新聞大阪本社の運動部長に就任した2009年に、同紙の署名記事で一部始終を回顧している。降板直後の江本の発言を取りにベンチ裏へ向かったところ、通路からロッカールームへ向かって田所の視界から消えたところで江本が「アホやから」と大声で叫んだという。その発言を田所から報告されたサンケイを含む各紙のキャップ記者たちは、発言をそのまま活字にすれば「エースによる公然の首脳陣批判」という大事に発展してしまい、単なる江本の愚痴や独り言では済まなくなってしまうので、江本へ囲み取材を行って発言の真意を質したところ、江本は発言を「公式のもの」として認めた、という経緯を明かした。また、江本が阪神を退団した翌日に、田所が江本の自宅を訪れたところ「アホやのう。お前がまだ通路の入口で立っとると思ったから、わざと聞こえるように言うたんや。お前のせいで辞めたんやない。気にするな」と慰められたことも紹介した[57][58]

フリーアナウンサーとして当時『サンテレビボックス席』で阪神戦中継の実況を担当していた西澤暲も、担当を離れた後の2014年に著した「阪神戦・実況32年。」(講談社[59]で、江本の発言前後の状況に触れている。西澤は試合の当日に、翌日に控えていた実況向けの取材を兼ねながら、甲子園球場の放送ブースで観戦していた。ところが、マウンドを降りた後の江本の様子にただならぬ気配を感じたことから、ロッカールームに向かう階段の踊り場で待機。やがれ、江本がスポーツ紙の阪神担当記者と共に姿を現すと、顔なじみのよしみで「エモ、お疲れさん」と声を掛けた。西澤によれば、この直後に江本が「ベンチがアホやから、やってられませんわ」と言い放ったため、「若い記者のいる前でそんなことを言っちゃダメだ」と言いつつ、2人だけでやり取りを続けたという[59]

江本自身の発言を見ると、引退直後の1982年に刊行した「プロ野球を10倍楽しく見る方法」では、「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言は自らの発言ではないと明確に否定していた[60]。その後も複数の著書において「そういうセリフは言っていない」[61]と否定したり、「人に言わせると…」と間接的に否定[62]していた。

しかし、上記の田所と西澤の証言が出た後の2014年には自らの発言であることを認め、その背景を以下のように述べている。

当時監督だった中西太とは、1979年キャンプでの練習中、打撃コーチだった中西が狭いスペースで練習を始めさせ、打球が別の練習をしていた選手を直撃した事件があり、江本は「選手会長だから中西さんに文句を言った。それだけならまだ良かったんですが、のらりくらりとした中西さんの態度に腹が立ち、熱くなって煙草まで投げつけてしまった。以来、犬猿の仲でした。そんな中西さんが翌年から監督になったものだから、シーズン中、先発だリリーフだとめちゃくちゃな起用されてきた。そんな伏線があった上で迎えたのが8月26日のヤクルト戦でした。あの発言は積もり積もった恨みに対するものだったんです。議員をやったり、指導者をやったりして、自分も人に何かを伝える側に立った時、ふと中西さんの気持ちが分かるようになったんです。人間は立場によって言いたくないことも言わなければならない。私のように生意気な選手には、中西さんは厳しく接するしかなかった。そうしなければ監督としての威厳が保てなくなり、チームは機能しなくなっていたでしょう。」と述べている[63]。また、『しくじり先生』(テレビ朝日)の2017年4月30日放送分へ出演した際[64]には、田所や西澤の名は伏せながらも、ベンチからロッカールームに向かう階段の2段目で吐いた「(中西は)何を考えとるんや?アホか!」という独り言を居合わせた記者に聞かれたことを明かしている。

江本が降板後に阪神ベンチの方向へグラブを投げた瞬間をベンチ側から映したモノクロの報道写真は、現在でもこのエピソードを紹介する際に、「(江本が暴言を吐く)決定的瞬間が見られる唯一の証拠資料」として引用されている。江本によれば、ベンチへ投げ付けるつもりだったグラブがベンチ前のフェンスに当たってグラウンドへ跳ね返ったため、改めて一塁側の内野スタンドにグラブを投げたという。このグラブをスタンドで受け取った観客が後日、水島新司(南海時代の江本・野村・江夏などが実名で登場する野球漫画『あぶさん』の作者)へグラブを見せたところ、水島はグラブに江本の似顔絵を描いた。さらに、上記の観客がこのグラブを『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)へ持ち込んだところ、スタジオゲストとして出演していた江本の目の前で、「60万円の価値がある」という鑑定結果が示された[65]

選手としての特徴編集

制球力を武器に投球するタイプで、球速は高校時代で既に150km/hを超えていたと自称するが、プロ入り後はすぐに技巧派へ転向したという[66]。しかし変化球を多数覚えるのでは無く、同じフォークボールでも落差や緩急など、いくつかの種類を状況に応じて使い分けていた。そのフォークボールは魔球「エモ・ボール」と呼んでいたが、「エモ・ボールはフォークのスッポ抜け[67][68]」「フォークボールは高校時代から得意にしていた」「エモ・ボールは一種の都市伝説のようなもので実際には投げていない[69]」「ストレートとカーブしか投げられなかった[70]」といった具合に、微妙に発言の内容を変えている。

投手としては打撃が良く、通算7本塁打を記録している。本塁打を打った試合ではロッテオリオンズ監督の金田正一から野次られたことがあるが、のちに金田の実績を逆手に取って反論し、金田をしどろもどろにさせた事がある[71]。当然、金田自身は「一流投手は打者としても一流」と主張し、その主張通り、投手としての本塁打日本記録保持者である。

通算24回のボークを犯しており、これは日本プロ野球記録である。1973年には1シーズンだけで10回ものボークを犯しており、これも2003年クリス・ブロック広島東洋カープ)に更新されるまで、1シーズンにおけるボークの回数の日本プロ野球記録だった。なお、この記録が生まれた原因として、1973年から1974年までの2年間、パ・リーグの関西所属の審判が、一時静止違反を極端に厳しく判定したことが背景にあると指摘されている[72]

人物・逸話編集

野村克也との関係編集

江本は常々、南海ホークス時代に野村から叩き込まれた「シンキング・ベースボール(考える野球)」が自身の野球観の基本であると語っており、自身を「勝てるピッチャー」にしてくれた野村の技術力・指導力に最大級の尊敬の念を示している。「野村さんがいなかったらいまの自分は完全に存在していない[73]」「やはり野村監督の野球理論はしっかりしていた。試合3時間前にミーティングをやって、1番打者から順に『ストライクだったら次は?もしボールだったら?』とやるんです。マウンドに立てばデータを忘れることもあるけど、『これだけ準備してきたんだ』というピッチングに集中できる[18]」と述べている。また、メディアなどで野村の美談を披露したり、野村を批判した際にも「僕や江夏くらいしか言えないから…」と言い過ぎを示唆するようなフォローを入れる事も多く、引退後もイベントでの共演や対談などで師弟としてのつながりは継続しており[74][75][76]、野村の生涯最後の対談相手を務めたのも江本だった。共著『超一流』製作のためのものであったが、刊行を前にして野村が死去したためにこれが最後の対談となり、2020年3月に発売された同書の巻末には江本からの弔辞が添えられた[77]。また先述のように、没後に「南海ホークスの野村克也」を記憶にとどめるための活動に力を注いでいる。

その一方で、自身が南海を追われた経緯もあって、監督としての野村を無条件に礼賛することはなく、野村が東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を退任した後の2011年には、自著で「ヤクルトの時は、たまたま若くて良い選手が入って来て、もともといた選手と歯車が合ったから優勝できた。阪神や楽天では残念なことに、その『たまたま』がやって来なかった[78]」と冷静に分析し、ヤクルト時代以降の野村を「富と名声を十分手に入れたにも関わらず、未だに自分がどう評価されているかビクビクして、自分を大きく見せるために一喜一憂している[79]」と評している。

野村自身は、練習嫌いで喧嘩っ早い江本に手を焼かされたという。ある日の試合で、野村のリードの通りに投球して打ち込まれた際に激昂し、降板後にベンチから野村に対して激しく野次を飛ばし続けた。江本の気性を熟知している仲間は誰も声を掛けなかったが、見かねた古葉竹識が「おい、いい加減に止めとけよ」と、静かではあるがドスの効いた口調で叱ったため、荒れ狂っていた江本は恐怖心でようやく我に返ったという[80][81]

また野村は、江本と江夏、門田博光の三人を「南海監督時代の三悪人」と評しているが、この三悪人は「頭のいいヤンチャ坊主選手」という意味で、野村は必ずしも悪い意味で使っていない(なお、鶴岡一人は監督時代に当時現役選手だった野村と広瀬叔功杉浦忠を「南海の三悪人」と呼んでいた)。野村は自著で「この三悪人に監督として鍛えられたおかげで、他のチームで少々クセのある選手がいても全然平気になったよ。山﨑なんてあの三人に比べたら『フーン』くらいのレベル」と述べている[82]

評論家としてのスタンス編集

1980年代は、読売ジャイアンツ阪神タイガース西武ライオンズのような人気球団や大御所に関して否定的な意見を口にすることが多かった。同時期に三冠王を獲得した落合博満に対しても例外ではなく、落合が中日ドラゴンズの監督に就任後も公然と落合の手腕や態度を否定する発言を繰り返している。江本はさらに、落合が監督を務めていた8年間に「1回しか直接取材していない」と公言したほか、雑誌「EX大衆」2009年9月号などでは理想の監督として森祇晶原辰徳を挙げ、「巨人が巨大戦力なら中日も巨大戦力」「完全日本一(リーグ優勝して、なおかつ日本一)を三度達成している原監督を評価しないマスコミはおかしい」などと意見を述べている。逆に選手時代は人気の高かった原よりも、日の目が当たらなかった落合を高く評価していた。

江川卓を批判することも多い。江川は江本から見て法政大学野球部の後輩に当たるが、自著の中で江川がもともと2部へ入学し、後に1部の学部に転籍したことを挙げて「法政大学のOBとは認めない」と記すなど批判している。ただし、1981年のシーズン終了後に江川ではなく成績次点だった西本聖沢村賞を受賞したことに対しては「おかしい」[83]と述べている。

エピソード編集

趣味はバロック音楽の鑑賞で、好きな歌手は親友でもある大塚博堂だった。大塚とは知人を介して知り合い、大塚の生前には新宿ロフトで一緒にコンサートをしたこともある[84]。また、大塚のメモリアルイベントにも何度か出演している[85]

阪神時代に同僚だった古沢憲司とは、江本曰く「妙に気が合っていた。よきライバル。球場を一歩出れば一心同体。食事、クラブ、ゴルフ、麻雀とありとあらゆる行動を共に」しており、古沢は誰からも好かれていたという[26]

王貞治が現役時代に苦手としていた投手が江本で、通算対戦打率.134と50打席以上の対戦がある投手の中では1位、被本塁打は僅か3本である[86]。ただし、この3本は全て満塁本塁打で、江本が王に対して通常とは異なる攻め方を試した結果、打たれたものだという(自著『おれ、紆球曲球』[要文献特定詳細情報])。

高橋慶彦の連続試合安打を阻止した投手も江本である(1979年)。高橋は、日本記録を更新したその試合中に負傷、長期離脱へつながっており、復帰戦で対戦した江本は高橋が復帰直後でボールに目が慣れていないと考え、速球で押し通す投球で無安打に抑えたという[87]。なお高橋の発言によれば、高橋の前に連続試合安打(32試合)の記録を持っていた長池徳士の記録を止めたのも江本である[88]

結果的に上記の発言によって現役引退となったものの30代となっていた阪神時代の頃には思い通りの投球が出来ずに衰えを感じており、「『アホ』という言葉がなくてもその年で引退していた」とも語っている[89]

60歳頃に糖尿病[90]、63歳の頃に加齢黄斑変性になったことを後に告白している[91]。2018年にはスキルス胃癌の手術を前年に行い、の全摘出をしたことを週刊誌のインタビューで告白している[92][93]。江本は、後の野村との対談では食べ過ぎが原因だと語っている[94]

私生活の江本は煙草は吸わず、酒も飲まない[94][95][96]

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1971 東映 26 4 0 0 0 0 4 -- -- .000 267 60.2 61 4 35 1 0 29 5 0 34 34 5.04 1.58
1972 南海 38 32 14 1 0 16 13 -- -- .552 1014 237.1 205 15 118 4 9 115 7 0 95 80 3.03 1.36
1973 34 30 12 5 0 12 14 -- -- .462 889 217.1 167 17 85 2 11 95 5 10 75 66 2.73 1.16
1974 34 33 9 0 0 13 12 0 -- .520 921 216.2 185 19 111 1 14 116 5 3 94 76 3.16 1.37
1975 31 27 13 3 0 11 14 0 -- .440 878 207.0 185 18 78 0 5 109 3 0 94 68 2.96 1.22
1976 阪神 38 36 8 2 2 15 9 0 -- .625 1009 239.2 239 27 66 1 9 115 4 3 107 100 3.76 1.27
1977 36 33 10 3 0 11 14 1 -- .440 952 223.2 202 21 92 1 11 129 4 2 98 92 3.70 1.31
1978 56 10 2 0 0 11 13 11 -- .458 644 150.2 124 16 70 5 9 103 9 2 63 52 3.11 1.29
1979 47 24 5 3 0 12 12 6 -- .500 784 178.2 181 21 67 4 16 141 5 2 93 87 4.38 1.39
1980 31 26 4 0 0 8 15 0 -- .348 704 160.0 168 28 64 6 9 108 5 2 93 85 4.78 1.45
1981 24 12 1 0 0 4 6 1 -- .400 377 87.0 77 11 36 8 4 70 1 0 39 34 3.52 1.30
通算:11年 395 267 78 17 2 113 126 19 -- .473 8439 1978.2 1794 197 822 33 97 1130 53 24 885 774 3.52 1.32
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録

記録編集

初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1976年5月26日、対中日ドラゴンズ7回戦(阪神甲子園球場)、6回表2死目に達成
  • 1500投球回:1978年7月28日、対読売ジャイアンツ15回戦(阪神甲子園球場)、9回表2死目に達成
  • 100勝:1978年9月18日、対広島東洋カープ22回戦(阪神甲子園球場)、9回2失点完投勝利 ※史上75人目
  • 1000奪三振:1980年6月8日、対広島東洋カープ7回戦(阪神甲子園球場)、5回表に衣笠祥雄から ※史上59人目
その他の記録

背番号編集

  • 49 (1971年)
  • 16 (1972年 - 1975年)
  • 29 (1976年 - 1981年)

背番号について江本は「東映時代は四苦八苦(49)、ホークスに行って色男(16)、阪神ではニクイ奴(29)」とコメントしている[要出典]

著作編集

単著編集

  • プロ野球を10倍楽しく見る方法』シリーズ(映画化もされた)
    • 『プロ野球を10倍楽しく見る方法:抱腹絶倒!』(ベストセラーズ、1982年5月)ISBN 4584004676
    • 『プロ野球を20倍楽しく見る方法:痛快無類!』(ベストセラーズ、1982年9月)ISBN 4584004773
    • 『帰ってきたプロ野球を10倍楽しく見る方法:もっと抱腹!さらに絶倒!』(ベストセラーズ、1988年6月)ISBN 4584006687
    • 『プロ野球を10倍楽しく見る方法:2002年版』(日本文芸社
    • 『プロ野球を10倍楽しく見る方法:2006年版』(日本文芸社、2005年11月)ISBN 4537253304
  • 『おれ、紆球曲球』(日之出出版、1982年8月、ISBN 4891980273/ワニ文庫、1985年6月、ISBN 4584300615
  • 『「プロ野球」仁義なき大戦争:ストーブリーグ乱闘編』(ベストセラーズ、1983年2月、ISBN 4584004943
  • 『女性に捧げるプロ野球 エモやんより愛をこめて』ワニの本 ベストセラーシリーズ 1983
  • 『江本孟紀と12人の美女打線 男のマウンド〈対談集〉』中央公論社 1984
  • 『これはヘンだぞプロ野球 エモやんの〈いちゃもん解説〉』ワニの本 ベストセラーシリーズ 1984
  • 『謀略にはまった選手たち : 今だからバラす〈プロ野球〉』ベストセラーズ,ワニの本 1984
  • 『エモやんのああ言えば交遊録 今だからホンネ プロ野球の珍友・悪友・奇友たち』ベストセラーズ ワニの本 1985
  • 『プロ野球バカが勝負すりゃバカをみる』ワニの本 1985
  • 『よってたかって、みんな悪かった エモやんのザンゲ録 ごめんなさい阪神さん』ワニの本 1985
  • 『江本孟紀のプロ野球ウオッチング:のけぞりシュート、球界直撃!!』(共同通信社、1986年4月)ISBN 476410184X
  • 『エモやんの今年もファンは騙される プロ野球、選手たちは知らん顔』ワニの本 1986
  • 『今年は変わるぞプロ野球 気分すっきり 選手もファンも初体験!』(角川書店、1986年)
  • 『ひまつぶしに読む大胆な意見』(青人社、1986年)
  • 『プロ野球がわかれば日本が見えてくる エモやんのサラリーマンに捧げる「自分主義宣言」』(現代書林、1987年)
  • 『プロ野球夢球場 江本孟紀の球界大改造プラン』(サンケイ出版、1987年)
  • 『帰ってきたプロ野球を10倍楽しく見る方法 もっと抱腹!さらに絶倒!』ワニの本、1988
  • 『ゴルフ好きをさらに10倍中毒症状にする本』ケイブンシャブックス 1988
  • 『その気にさせる星野監督術 ミラクル野球が10倍わかる本』ニッポン放送出版 1988
  • 『巨人野球を面白くする本 これで巨人は優勝できる!!』実業之日本社 実日新書 1989
  • 『超B級!ドーム場外放夢乱 体感編 女たちのbox seat』TIS,パパラブックス 1989
  • 『プロ野球天国・地獄のウラ勝負! ストーブリーグ情報局』ケイブンシャブックス 1989
  • 『プロ野球はチキンライスだッ!? 平成元年』ケイブンシャブックス 1989
  • 『’90プロ野球ウソ八百!!』ケイブンシャブックス 1990
  • 『プロ野球裏があるから面白い 野球ファンにおくる抱腹絶倒エピソード集』学習研究社 1990
  • 『ミッドナイト・ベースボール 球界モデル小説』勁文社 1990
  • 『エモやんの巨人軍再建大計画』アイペックプレス 1991
  • 『エモやんのプロ野球ちょっといえないここだけの話』アイペックプレス 1991
  • 『エモやんのプロ野球非常事態宣言』アイペックプレス 1991
  • 『大胆不敵のがんばれ!ジャイアンツ!! 最悪阪神の再建案付き』ケイブンシャブックス 1991
  • 『プロ野球大反省大予想』ケイブンシャブックス 1991
  • 『主役・脇役・役立たず』ケイブンシャブックス 1992
  • 『プロ野球選手 わが思い出の波瀾の野球人生』実業之日本社 仕事-発見シリーズ 1992
  • 『赤じゅうたんのコリない紳士録』集英社 1993
  • 『長嶋×野村のデスマッチ!! ’93プロ野球は監督勝負!』ケイブンシャブックス 1993
  • 『長嶋vs王、爆笑大バトル 勃発!プロ野球最終戦争 エモやんだけが知っている二人の真実』ベストセラーズ ワニの本 1995
  • 『神さま仏さま長嶋さま 巨人軍を100倍楽しむ法』光文社 1996
  • 『誰もわかっちゃいない! 江本孟紀の超論プロ野球』芸神出版社 1996
  • 『野村監督部下が育つ「将の器」』二見書房 1996 『野村マジック・阪神再生の秘策』フタミ文庫
  • 『野球がベースボールを超える日!? 日本vs大リーグ徹底比較』勁文社 1996
  • 『生命エネルギーの秘密 江本孟紀が体験した究極のパワー』経済界 1998
  • 『プロ野球勝てる監督・使える選手』三笠書房 1998
  • 『野村監督知将の思考』(東方出版、1999年)
  • 『野村阪神vs.長嶋巨人 エモやんの僕だけが知っている!!』(ぶんか社、1999年)
  • 『ベースボールはひとつの小石から エモやんの痛快!プロ野球原論』(学習研究社、2000年)
  • 『総理大臣長嶋茂雄:明るい破壊者だけが日本を救う』(飛鳥新社、2001年)
  • 『ダメ虎を猛虎に復活させる方法:阪神タイガース再生計画虎の巻』(ビジネス社、2001年)
  • 『星野式「悪」の処世術』(飛鳥新社、2002年)
  • 『痛快!阪神優勝を120%楽しむ本』(日本実業出版社、2003年)
  • 『読売巨人軍をダメにした「ジャイアンツバカ」』<講談社+α文庫>(講談社、2003年)
  • 『逆プライド 自分に負けない意地を持て!』(ダイヤモンド社、2004年)
  • 『プロ野球をダメにする致命的構造 それでも、変革の芽は出ている』(PHP研究所、2006年)
  • 『職業としてのプロ野球解説者』<サンガ新書>(サンガ、2007年)
  • 『日本のプロ野球を作った男たち!』(たちばな出版、2007年)
  • 『野村克也解体新書:ノムさんは本当にスゴイのか?』(無双舎、2011年7月)ISBN 4864084742
  • 『プロ野球経営が破綻するこれだけの理由』(産経新聞出版、2011年)
  • 『「アホ」がプロ野球を滅ぼす』<ロング新書>(KKロングセラーズ、2012年)
  • 『星野仙一にみる名将の条件』<双葉新書>(双葉社、2014年4月)ISBN 978-4575154368
  • 『実は大したことない大リーグ』<双葉新書>(双葉社、2014年11月)
  • 『野球バカは死なず』<文春新書1167>(文藝春秋、2018年)
  • 『僕しか知らない星野仙一』(カンゼン、2018年)
  • 『高校野球が10倍おもしろくなる本』(青志社、2019年)
  • 『人生9回裏の戦い方』(竹書房、2019年)
  • 『監督原辰徳研究』(徳間書店、2020年)

共著編集

  • (野村克也)『超一流 プロ野球大論』(徳間書店、2020年)
  • 里崎智也
    • 『野球の正論』(徳間書店、2019年)
    • 『野球の超正論』(徳間書店、2020年)

編著・監修編集

  • 『プロ野球戦国志 1999年版』責任編集(イースト・プレス、1999年)
  • 『男涙のプロ野球 感動秘話100本ノック』監修(宝島社、2004年)
  • 『マンガ日本政治入門』画:荒木俊明(あおば出版、2006年)

関連情報編集

野球以外での表彰編集

ゲーム監修編集

出演編集

レギュラー編集

映画・ドラマ編集

準レギュラー、不定期出演番組編集

過去の出演番組編集


舞台編集

CM出演編集

ディスコグラフィー編集

  • あぶさん台詞水島新司)c/w 暖炉(1973年)
  • 恋する御堂筋(1979年)入江マチ子とデュエット
  • 霜降り橋まで(1980年)
  • アカシヤの面影(1982年)
  • あなたまかせの夜(1983年)
  • 素敵なジェラシー(1987年、アルバム)

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 江本らがこの日着用した1975年から1976年までのホーム用ユニフォームは、襟と袖口のラインが緑・黄・緑の三本である[52]のに対し、寄贈された展示品の野村が実際に着用した1977年のホーム用ユニフォームは、襟は緑一色で、袖口のラインは外側から赤・黄・緑の三色となっている[53]

出典編集

  1. ^ 日本野球機構 |歴代最高記録
  2. ^ 森岡浩『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年、92 - 93頁。ISBN 4816917713
  3. ^ 『証言 プロ野球ドラフト会議50年』別冊宝島編集部 総編集、宝島社、2015年、47頁。ISBN 978-4800247674
  4. ^ 『法政大学野球部 六大学最多優勝校のプライド』ベースボール・マガジン社〈B・B MOOK 1165 東京六大学野球連盟結成90周年シリーズ 4〉、2015年、15頁。ISBN 978-4-583-62256-9
  5. ^ 黒田正宏「【軍師・黒田の野球戦記】田淵さん、江本とプレーした法大時代は財産」『サンスポコム』、2014年11月21日。2018年8月1日閲覧。
  6. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  7. ^ 野球バカは死なず 2018, pp. 77-81
  8. ^ 「日本社会人野球協会会報1970」日本社会人野球協会 1971年
  9. ^ 自著『野球バカは死なず』79-80頁
  10. ^ 自著『野球バカは死なず』80-81頁
  11. ^ 自著『野球バカは死なず』83-84頁
  12. ^ 自著『野球バカは死なず』91-93頁
  13. ^ 自著『野球バカは死なず』94頁
  14. ^ 自著『野球バカは死なず』104-108頁
  15. ^ 自著『野球バカは死なず』113頁
  16. ^ 『南海ホークス栄光の歴史 1938-1988』ベースボール・マガジン社、2012年、34頁。ISBN 9784583618876
  17. ^ 自著『野球バカは死なず』113頁
  18. ^ a b 「『阿川佐和子のこの人に会いたい』第1216回、プロ野球解説者、江本孟紀」『週刊文春』6月28日号、2018年、 134-138頁。
  19. ^ 江本はこの時、佐藤が抑えるものと思って投球準備を全くしておらず、投球した際に審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている[要出典]
  20. ^ 野球バカは死なず 2018, pp. 143-144
  21. ^ 自著『野球バカは死なず』157-158頁
  22. ^ 広瀬叔功『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』175-176頁
  23. ^ 「江」が付く投手はみんな無頼派!?江夏と江本の大型トレード”. MEN人 (2013年8月25日). 2016年1月24日閲覧。
  24. ^ 野球バカは死なず 2018, p. 167
  25. ^ 野球バカは死なず 2018, pp. 177-182
  26. ^ a b c d e f 野球バカは死なず 2018, pp. 177-182
  27. ^ 江本孟紀「ベンチがアホやから」発言の翌日に…”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 2016年3月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年10月31日閲覧。
  28. ^ 江本孟紀「江本孟紀、140キロでたばことライターを投げつけ」『サンケイスポーツ』、2016年2月3日。2020年12月8日閲覧。
  29. ^ 野球バカは死なず 2018, p. 206-207
  30. ^ 野球バカは死なず 2018, p. 211-213
  31. ^ TVでた蔵 江本孟紀”. ワイヤーアクション (2012年2月4日). 2016年1月24日閲覧。
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参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集