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由緒編集

秋田出身の国学者神道家である平田篤胤安永5年8月24日1776年10月6日〉 - 天保14年9月11日1843年11月2日〉)を顕彰し崇敬するため、平田門人であった小谷部甚左衛門らの有志が、南秋田郡寺内村(現・秋田市)の日吉八幡神社境内に平田篤胤を祀り創建した「平田神社」を母体としている[1]。小矢部は日吉神社の祠官で、明治14年(1881年)8月13日、針生源太郎山中新十郎桜田誠一郎羽生氏熟とともに日吉神社境内に平田神社を創建することを秋田県令石田英吉に願い出、それに対し石田県令は同年8月26日付けでこれを認めた[1]

平田神社の社殿建設にあっては全国の平田門人がかかわっており、明治15年2月の県令あて嘆願書に名をつらねたのは、久保悳鄰、師岡正胤古川豊彭(以上、東京府士族)、吉岡徳明、渡辺玄包(山口県士族)、久保季茲(東京府士族)、 井上頼圀(東京府平民)、 丸山作楽長崎県平民)、 矢野玄道愛媛県士族)の9人であった[1][注釈 1]。この嘆願書は、平田神社に対して特別の恩典を求めるもので、これに対し石田県令は、翌3月に金100円を下賜している[1]

明治42年(1909年)に至り秋田県教育会が中心となり久保田城内の正八幡社(旧県社八幡神社)を購入のうえ修繕し、佐藤信淵を合祀、彌高神社と改称した。

大正5年(1916年)に現在地へ移築され、大正8年(1919年)には県社に列せられた。明治時代創建の神社であるが社殿が江戸時代の建築であるため、権現造の形式をとっている。

祭神編集

平田篤胤大人命佐藤信淵大人命

平田篤胤は、復古神道を創始して古典文化の復興に寄与し、その学問は「草莽の国学」として日本近代化のさきがけとなり、明治維新の原動力の源泉ともなった。なお、篤胤は没後の弘化2年(1845年3月、「神霊真柱大人(かむたまのみはしらのうし)」の諡名霊神号を白川伯王家より賜っている[2]

佐藤信淵は、幕末期に各藩に招かれて藩政改革のために尽力した農政家であったが、それ以上に高い理想と広い構想をいだいた経世家であった[3]。彼は久保田藩領の雄勝郡西馬音内村(現・雄勝郡羽後町)の出身で、気吹舎の門人である[3]

主な祭事編集

文化財編集

建造物編集

秋田県指定有形文化財(昭和28年10月5日指定)

年表編集

両大人の墓所編集

 
平田篤胤の墓 (国の史跡)(2014年6月10日撮影)

平田篤胤の墓所は秋田県秋田市手形字大沢21-1(秋田大学手形キャンパス裏手の山腹)にあり、国の史跡に指定されている。

佐藤信淵の墓は浅草松応寺にあった。現在は杉並区高円寺南2-29に移転している。

篤胤を祀る他の神社編集

 
平田神社(2016年7月6日撮影)

東京都渋谷区代々木三丁目8-10に、平田篤胤を祭った平田神社がある。なお、篤胤の神格化運動は東京の方が秋田よりも早かった[1]

また、長野県下伊那郡高森町山吹2919には、いわゆる「国学四大人」(荷田春満賀茂真淵本居宣長・平田篤胤)を祀った本学神社がある。

交通編集

鉄道編集

その他編集

  • 駐車場 : 有り

脚注編集

注釈編集

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  1. ^ このなかに秋田県出身者は一人もおらず、何人かは東京の平田神社創建の上申書と同じ顔ぶれである。

出典編集

参考文献編集

  • 国安寛・柴田次雄・渡部綱次郎ほか『近世の秋田』秋田魁新報社、1991年11月。ISBN 4-87020-088-0
  • 畑中康博「秋田藩維新史における「砲術所藩士活躍説」の誕生」『秋田の近世近代』渡辺英夫編、高志書院、2015年1月。ISBN 978-4-86215-143-8

外部リンク編集