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本来の表記は「德川慶朝」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

徳川 慶朝(とくがわ よしとも、旧字体: 德川慶朝1950年昭和25年)2月1日 - 2017年平成29年)9月25日[1])は、日本写真家徳川幕府第15代将軍徳川慶喜の曾孫で、旧公爵徳川慶喜家の4代目当主。母方を通じて松平容保の曾孫でもある。

德川 慶朝
本名 德川 慶朝
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1950-02-01) 1950年2月1日
没年月日 (2017-09-25) 2017年9月25日(67歳没)
出身地 静岡県
言語 日本語
最終学歴 成城大学経済学部
活動時期 1972年 - 2017年
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人物編集

1950年昭和25年)、元・公爵で元・貴族院議員の徳川慶光を父として、会津松平家出身の徳川和子を母として静岡市郊外の瀬名に生まれ、生後1 - 2か月で東京都港区高輪に移住。

1972年(昭和47年)に成城大学経済学部を卒業し[2]、写真家として本田技研工業グループ傘下の広告制作会社東京グラフィックデザイナーズに20年間勤務し、広告写真の分野で活躍。独立後はフリーの写真家として主に徳川家伝来の遺跡や歴史的建造物を中心に撮影していた。

ホンダの広告代理店のカメラマンとして勤務していた頃は主に自社の自動車バイクなどを撮影していたが、フリーで活動を開始してからは徳川慶喜家に秘蔵していた写真を再発見し、修正から保存・整理も行っていたことでも知られる。この中には慶喜自身が撮影した写真も含まれているという。

1972年(昭和47年)9月から東京都町田市すずかけ台に住んでいたが[3]、晩年は水戸徳川家ゆかりの茨城県ひたちなか市に在住した[1]

曽祖父慶喜が「けいき」、祖父慶久が「けいきゅう」、父慶光が「けいこう」と音読みされていたことにあやかって、「けいちょう」というニックネームで呼ばれていた。

伯母は昭和天皇の弟・高松宮宣仁親王妃喜久子。幼少時はよく宮邸に呼ばれ、可愛がられたという。

昭和50年代に結婚歴があったが、離婚後は独身で養子を取らないことを明言していた[4]。元妻は長岡護美の末裔長岡祥三(?)の娘。元妻との間に二男一女をもうけたが、離婚に際し3人とも前妻が引き取り、徳川姓ではない。このため、慶朝の死去によって徳川慶喜家嫡流は絶家した。次男は母方の実家を相続した。

自ら焙煎したコーヒー豆を"徳川将軍珈琲"の名で販売していた[要出典]

静岡文化芸術大学非常勤講師を務めた。

を患っていたと言われるが[5]2017年平成29年)9月25日に、心筋梗塞により死去した[1]。67歳没。

著作編集

エッセイ編集

  • 「今どきの德川慶喜家」(『国立劇場十月歌舞伎公演』所収)  独立行政法人日本芸術文化振興会2010年
  • 「想い出の食卓 焼いた牛骨と玉ねぎ、トマト、果物、ワイン…3週間かけて作ったビーフシチューを母と」(『月刊新松戸』419号所収) 新松戸編集室、2014年5月

関連項目編集

出典編集

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  1. ^ a b c “徳川慶朝さん死去 67歳 写真家、将軍慶喜のひ孫”. 茨城新聞クロスアイ. 茨城新聞社. (2017年9月26日). http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=15063497571525 2017年9月26日閲覧。 
  2. ^ 本田靖春『現代家系論』p.204(文藝春秋社1973年
  3. ^ 本田靖春『現代家系論』p.201(文藝春秋社1973年
  4. ^ 『菊と葵のものがたり』高松宮妃喜久子
  5. ^ 『お殿様は「今」』加藤明著、洋泉社ISBN 978-4800309235