曾我兄弟の仇討ち

鎌倉時代初期の仇討ち事件

曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経富士野にて討った事件。赤穂浪士の討ち入り伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。

仇討ちの場面(曽我物語図絵)

概要編集

曾我兄弟の仇討ちは、駿河国富士野(『吾妻鏡』は更に子細に富士野神野と記す)で発生した。同事件は様々な分野に影響を与えた。「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に名を成す伊賀の仇討」といった言葉にあるように[1]、現在日本三大仇討ちに数えられ、武士社会においては仇討ちの模範とされた[2]。『曽我物語』や江戸時代の教科書『富士野往来』といった史料、芸能では「曽我物」を成立させた。

近代には教科書にも採用され、尋常小学校の教科書に曽我物語の要約、高等小学校の教科書や高等女学校の国語読本に能「小袖曽我」(後述)が掲載されるなどしている[3]。一方GHQによる検閲で仇討ち物は忌避されたため[4]、一般への認知に影響を与えたと指摘される[5][6]

吾妻鏡の記述編集

曾我兄弟の仇討ちは、富士の巻狩の際に富士野神野(現在の静岡県富士宮市[7][8][9]にて発生した。『吾妻鏡』によると、源頼朝は建久4年(1193年)5月15日に富士野の御旅館に入り、同16日には富士野で狩りを催している。

事件は同28日に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた。

傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大騒動となった。平子有長愛甲季隆吉川友兼加藤光員海野幸氏岡辺弥三郎岡部清益堀藤太臼杵八郎といった武将らは傷を負った。また宇田五郎も兄弟に討たれ、十郎(兄)は新田忠常と対峙した際に討たれた。

弟の時致は源頼朝めがけて走り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったが、大友能直がこれを押し留めた。この間に時致は取り押さえられ、大見小平次が預かることで事態が落ち着くこととなった。その後、和田義盛梶原景時が検死を行った。仇討ちの翌日である29日に頼朝は五郎(弟)の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は五郎の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された。

30日には同事件が北条政子に飛脚で知らされ、また兄弟が母へ送った手紙が召し出され、頼朝が目を通している。頼朝は手紙の内容に感涙し、手紙類の保存を命じた。6月1日にはを始めとする多くの人物に対して聴取が行われ、虎は放免されている[注釈 1][注釈 2]。6月7日に頼朝は鎌倉に向けて出発し、富士野を後にした。このとき頼朝は曽我荘の年貢を免除することを決定し、また曽我兄弟の菩提を弔うよう命じた。

曽我物語の記述編集

以下の経緯は主に『曽我物語』による。

 
「武勇見立十二支 曽我五郎 午」 歌川国芳画

工藤祐経は親族(義理の叔父かつ元義父)の伊東祐親に恨みを抱いていた。一族の先代当主・工藤祐隆による所領分割相続の措置に不満を抱いていた祐親が祐経の所領を奪った上、祐経に嫁いだ祐親の娘・万劫御前とも離縁させたためであった。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。

祐泰の妻の満江御前(満行とも。なお『吾妻鏡』にも『曽我物語』にも名は表記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。

その後、治承・寿永の乱平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。

祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。ただし『吾妻鏡』では、祐信には先妻との間に実子の祐綱がおり、彼が家督を継いでいる。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。

文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。

箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。

兄弟は、仇討ちの成就を願うために箱根権現社に赴き、「この願いが成就するなら祐経の首をください、成就しないなら私達が拝殿を出たらすぐに蹴り殺してください」と祈請した。この時、兄弟が詠んだ和歌が伝えられている[10]

ちはやぶる 神の誓ひの違はずは 親の敵に 逢ふ瀬結ばん ― 曾我十郎祐成[10]
天くだり 塵に交はる甲斐あれば 明日は敵に 逢ふ瀬結ばん ― 曾我五郎箱王丸[10]

祈請を済ました二人は、かつて世話になった別当の元を訪れ、別当は泣く泣く「思い出して来てくれたのはとても嬉しいことだ。あなたたちに引き出物をあげましょう」と言って二人をもてなし、五郎に兵庫鎖の太刀、十郎に黒鞘巻の小刀を与えた(両方とも源義経木曽義仲討伐に上洛した際、討伐の成就を願って箱根権現へ納めたものであった)[10]。別当は「これらの刀は見知っている人も多かろう。くれぐれも「箱根の別当から与えられた」とは言いなさるな。仇討ちが成功した時に「あの別当が兄弟に刀を与えたのだ」と騒がれては大変じゃからの。京の町で買ったとでも言っておきなさい」と二人に言った[10]。二人が去る時間になると、別当は二人を遠くの遠くまで見送りに来て「わしがいる限り、後世のことは心配なさるな。よくよく供養しましょう」と言い、そこで和歌を詠んだ[10]

夢ならで またも逢ふべき 身ならねば 見るおもかげに 袖朽ちぬべし ― 箱根の別当[10]

建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の御前を目指して、向かってきた武士たちをことごとく倒して頼朝の館に押し入った。しかし、時致は館の中でやっと、頼朝に近習していた御所五郎丸によって取り押さえられ、頼朝の危機は救われた[10]

5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児犬房丸に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。『曾我物語』には、五郎丸が女装して時致を油断させ武士道に反したと書かれているが、『吾妻鏡』や初期の『曾我物語』には女装のことは書かれていない。

事件後に虎は仇討ちの現場であり祐成最期の地である富士野の伊出の屋形を弔問し、その後再度伊出の屋形に訪問するため出立している[11][12][13][14][注釈 4]

吾妻鏡と曽我物語の差異編集

頼朝と曽我兄弟編集

源頼朝の兄弟に対する扱いの差異は多くで指摘される。吾妻鏡の場合、頼朝が兄弟に敵意を示す記述は少なく、捕縛された五郎に対する宥免の提案や兄弟の死後菩提を弔うよう命じるなど、寛大な処置が全面に出されている。一方曽我物語の場合頼朝が兄弟に対し敵意を持つ描写が続き、仇討ち前の段階で既に厳しい処置を命じている[16][17]。 しかし仇討ち後五郎を尋問する中で頼朝に大きな心境の変化が生じ、一転して「哀れ男子の手本や、是程の男子は末代にも有べきとも覚えず」と五郎を称賛している[18][19]梶原景時の忠告もあり厳しい処置に変更は無かったものの、最後には五郎の言葉を聞いて頼朝は感涙している[20][21]

仇討ちを試みる場面編集

仇討ち場面の記述は、両者共通点もあれば明らかな差異も多い。吾妻鏡も曽我物語も曽我兄弟の仇討ちの舞台を富士野としている点は共通しているが、吾妻鏡では井出の屋形が出現しない[22]。また梶原景時・海野幸氏宇都宮朝綱の名誉譚やいわゆる「伏木曽我」の場面[注釈 5]は曽我物語独自のものである[23][24]。また五郎に尋問する描写で吾妻鏡は御家人の名を列挙するが真名本には見られず[25]、現場に居た遊女に対する尋問も吾妻鏡独自である[26]

十番切編集

「十番切」は工藤祐経を討った際に十人の人物(実際は番外がある)と切り合いをしたことが由来である言葉であり、吾妻鏡と曽我物語諸本とでは共通する人物と異にする人物が入り混じっている[27][28](吾妻鏡の十番切の人物は「富士の巻狩#参加者」を参照)。曽我物語で見た場合、真名本は仮名本と異なり十番切の順番を数えないという特徴がある[29]

事件に関する解釈編集

北条時政黒幕説編集

歴史学者の三浦周行大正期に北条時政黒幕説を唱え、それ以来学界に大きな影響を与えてきた[30][31][32]。吾妻鏡や曽我物語では工藤祐経を討った後に時致は源頼朝をも襲っており、これが時政の暗躍によるものとする解釈である[33]。時政は事前に駿河国に入国し準備を行っており[34]、頼朝が富士野に到着した際もあらかじめ参上しており、この説に説得力をもたらした。

またそれ以前より時政と兄弟は縁があり、兄が弟である筥王(曾我時致)を連れ時政の屋形を訪れ、時政を烏帽子親として元服している[35]。従来より面識のあった時政が兄弟を頼朝襲撃へと誘導したとする見方が現在でも多い[36]

また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親父子襲撃そのものに息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとする説もある[37]

事件後編集

富士の巻狩りの後粛清が相次いでおり[38]、巻狩りが契機となった可能性が指摘されている[39]。例えば巻狩りには源頼朝の異母弟である源範頼が参加しておらず、後の流罪に関係するといった見方もされている[40][注釈 6]。この事件の際に常陸国の者が頼朝を守らずに逃げ出した問題や、事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが、同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする説もある[41]

曽我物編集

 
能「調伏曽我」(『能絵鑑』)

芸能「」や「幸若舞曲」に、同事件を題材とした「曽我物」と呼ばれる一群が認められる。幸若舞曲と能とで同様の曲名もあるが内容は異にしており、例えば能「小袖曽我」の場合は小袖をめぐる演出は見られないといった違いがある[42][43][44]。 

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能の曽我物のうち室町時代には成立していたとされる作品に

  1. 虎送
  2. 元服曽我
  3. 調伏曽我
  4. 伏木曽我
  5. 夜討曽我
  6. 禅師曽我
  7. 小袖曽我

があり、近世まで含めると20作品以上の存在が指摘される[45]。能の上演で早例とされるのは、尋尊『寺務方諸廻請』に「曽我虎」とある、応永34年(1427年)の「虎送」であるとされる[46]。またこれを「虎送」ではなく「伏木曽我」に比定する見解もある[47]。次いで『看聞日記』永享4年(1432年)3月14日条に「曽我五郎元服」とある能「元服曾我」も早例である[48]。また曽我物語等に拠らない独自の志向も認められる。例えば吾妻鏡・曽我物語・幸若舞曲の場合、五郎は北条時政が烏帽子親となり元服しているが、能「元服曽我」の場合は箱根権現から曽我の里へ帰る道中にて元服が行われる構成である[49][50]

以下では各作品について解説する。「元服曽我」は作者付『能本作者註文』・『自家伝抄』共に宮増作としている[51]。「小袖曽我」は仮名本曽我物語より真名本曽我物語との近似性が指摘され[52][53]、他の能の曽我物も真名本と近い関係にあるとする指摘がある[54]。「伏木曽我」は虎が仇討ちの地である「井手(井出)の里」を訪問し兄弟の御霊に出会う構成である。「伏木」という言葉自体は、真名本・仮名本曽我物語で狩場にて伏木に足をかけたところで落馬する描写で登場する[47]。「禅師曽我」は『自家伝抄』によると世阿弥作であるという。曽我兄弟の母が末子の禅師に手紙を送る描写があるが、曽我物語には確認されず独自性が認められる[55]。「調伏曽我」は作者付『能本作者註文』・『自家伝抄』共に宮増作としている[56][57]

幸若舞曲編集

幸若舞曲は特に仮名本との関係性が指摘される[58][59]。一方曽我物語に拠る記述だけではなく舞曲独自の志向も認められる[60][61]

幸若舞曲のうち同事件に関わる曲名に

  1. 一満箱王(切兼曽我)[注釈 7]
  2. 元服曽我
  3. 和田酒盛(和田宴)
  4. 小袖曽我(小袖乞)
  5. 剣讃嘆
  6. 夜討曽我
  7. 十番切

がある[64]。現存する本文は「越前幸若系」と「大頭系」に大別され[65][66]、幸若舞曲の台本を読み物化した版本は大頭系に含まれる[67]。版本はまず古活字版が成立し[68]、江戸時代初期には挿絵を含む揃物として刊行された(「舞の本」)[69]

以下では各作品について解説する。 「和田酒盛」の上演の初見は『言継卿記』天文15年(1546年)3月9日条であり、その後も繰り返し上演されている[70]。日記には同日「夜討曽我」も上演されたことが記される。現存する諸本の多さから人気曲であることを伺わせ、本作の影響から謡曲浄瑠璃歌舞伎等で派生作品が発生した[71][72]。和田酒盛は曽我兄弟と和田義盛との盃論、五郎と朝比奈義秀の草摺引き(力比べ)等が主題で、題材は仮名本曽我物語に拠っている。五郎が兄十郎の難境を救う構成である[73]。この草摺引きは特に人気の場面であったようで、古くは長谷川久蔵が天文20年(1551年)に清水寺に奉納したと伝わる大絵馬の他、近世には菱川師宣大森善清橘守国といった絵師の作品の題材となり、多くの作例が確認されている。これらの作品は、上記の久蔵奉納の大絵馬の影響を受けたものだとする指摘がある[74]

「小袖曽我」は能「小袖曽我」と共通しており、また浄瑠璃の「小袖そが」は舞曲から派生している[75]。「剣讃嘆」では文字通り剣(刀)に焦点が当てられ、兄弟は富士野・相沢原へ至る過程の箱根権現にて別当よりそれぞれ刀(兄は黒鞘巻の刀・弟は兵庫作の太刀)を授かる[76]。別当は刀の伝来を述べる。この二振は時の帝の命により長刀が二分されたものであり、それぞれ「枕かみ」「寸なし」と名付けられ、後に寸なしは「友切」と名を改められた。その後二振は源満仲の手に渡り友切は「髭切」と、枕かみは「膝切」と名を改められ、源頼光の手に渡った。さらに髭切は「鬼切」と、膝切は「蜘蛛切」と名を改められ、源氏の嫡流の伝来を経て最終的に源義経により奉納されたとする。一方、仮名本曽我物語では仇討ちに用いた刀は木曽義仲から相伝される「三宝剣」の1つ「微塵」と「赤胴作りの太刀」(奥州丸)となっている[77]

「十番切」の上演の初見は『言継卿記』天文14年(1545年)6月4日条であり[78]、十番切の存在を示す史料の初見は「東勝寺鼠物語」(天文6年頃成立)である[79][80]

近世以後編集

近世になると古浄瑠璃浄瑠璃歌舞伎といった分野で曽我物が生まれた[81]。天和3年(1683年)には近松門左衛門が浄瑠璃「世継曽我」を創作し人気を博した。これは曽我兄弟が没した後の世界が主な舞台であり、「世継」にあたる十郎の遺児に焦点が当てられている[82]。近松は他にも多くの曾我物を創作した。しかしこれらが自由に制限なく上演できたわけではなく、例えば歌舞伎『曙曽我夜討』が江戸中村座で上演されたが、江戸幕府により3日で上演が禁止されるなどしている[83]

絵図化編集

15世紀には富士の巻狩ないし仇討ち場面の絵画化がなされていたとされ、一休宗純『自戒集』に絵解きの題材として曽我兄弟が登場する[84][85][86]

現存するものでは『月次風俗図屏風』第7扇「富士巻狩」が古例であり[87]、絵画化例の全体を見た場合、右隻を「富士の巻狩」、左隻を「仇討ち(夜討ち)」とした一双形式の曽我物語図屏風が多く現存する[88][89]。このうち左隻は幸若舞曲「夜討曽我」「十番切」を題材にしているという指摘があり[90]、幸若舞曲との深い関わりが指摘される[91]。例えば左隻には「幕紋づくし」が描かれこれは幸若舞曲「夜討曽我」と共通しているが、曽我物語には確認されないものである[92][93]

関連用語編集

同事件が基となり成立したとされる季語に「虎が雨」がある。曾我の雨・虎が雨・虎が涙とも呼称され、陰暦5月28日頃に降る雨を指す[94]。虎の悲しみの涙や、仇討ちが起こった5月の天候と結び付けられて発生した言葉とされる。

また「虎」自体に降雨を引き起こすイメージが存在し、虎と雨が結びついて「虎が雨」という言葉が成立したとする見解もある[95]。「曽我の雨」については吾妻鏡と真名本曽我物語で相当する部分が確認される[96]

墓・社・霊地編集

 
曽我八幡宮(静岡県富士宮市猪之頭)

同事件は時代に拘らず影響をもたらし続け、日本全国に曽我兄弟に関する墓所・祠が点在している[97][98][99][100]。曽我兄弟は信仰の対象となり、在地では曽我八幡宮が点在する他、曽我塔[101]等が確認されている。

また、虎御前のもの(虎が石)も全国に点在する[102]。「虎が石」が存在する背景に、説話集や謡曲に見られる「虎退治譚」が関係するという指摘がある[103]

一方曽我兄弟から見て仇にあたる工藤祐経の墓所・祠類は少なく、富士野が位置する静岡県富士宮市に存在する例が指摘されるのみである[104]

ゆかりの地・行事編集

  • 建久4年(1193年)5月28日に曽我五郎・十郎の兄弟が富士の裾野で工藤祐経を討った際に傘を燃やして松明とした故事から、毎年5月28日に、城前寺付近の家々から古い傘を集めて本堂の裏側にある曽我兄弟の墓前に積み上げて火を放ち、衆僧が列を作って読経をしながらその火を巡って行道・供養する「傘焼き祭り」が行なわれていたが[105]、2011年に寺側からの申し出により祭りでの開催は中止となり、同年より城前寺檀信徒を中心に、城前寺保育園年長組が十郎、五郎、虎御前、稚児として衆僧と共に参列し傘焼き供養会を継続している[106]。尚、保存会では下曽我駅前や公園など市内各所で関連行事を続行している[107]
  • 鹿児島市では毎年7月に郷中教育の一環として、曾我兄弟の仇討ちの故事に倣い、和傘を燃やす「曽我どんの傘焼き」を開催している[108]
  • 千葉県匝瑳市山桑には、曽我兄弟ノ宮がある。これは、曾我兄弟に仕えた当地出身の鬼王兄弟が二人の遺髪・遺品を故郷へ持ち帰り、弔ったものである。

関連作品編集

小説
  • 高橋直樹『天皇の刺客』(文庫題:『曾我兄弟の密命―天皇の刺客』)文藝春秋
映画
  • 曾我兄弟狩場の曙』(1908年)
  • 『曾我十番斬』(1916年)
  • 『永禄曾我譚』(1917年、小林)
  • 『小袖曽我』(1920年)
  • 『夜討曽我』(1923年、帝キネ)
  • 『曽我』(1927年)
  • 『日活行進曲 曽我兄弟』(1929年)
  • 『夜討曽我』(1929年、マキノ)
  • 『仇討日本晴 孝の巻 曾我兄弟』(1931年、帝キネ)
  • 『富士の曙 少年曾我』(1940年)
  • 曽我兄弟 富士の夜襲』(1956年、東映、監督:佐々木康
テレビドラマ
漫画
歌謡曲
ミュージカル

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 事件後の動向は以下の通りである(吾妻鏡)。6月1日に曾我祐成の弟にあたる僧(律師)が尋問され、また曾我祐信は宥免された。6月3日には仇討ち時に逐電した常陸国の者たちの所領が没収された。7月2日には律師が自害している。
  2. ^ その後虎は6月18日に箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ信濃善光寺に赴いた。その時19歳であったと記されている(『吾妻鏡』)
  3. ^ 静岡県富士宮市に所在
  4. ^ 2度目の訪問では伊出の屋形に至らず曾我の里へ戻っている[15]
  5. ^ 兄弟が狩庭に潜み祐経を狙う箇所のこと
  6. ^ 保暦間記』によると、事件の直後、鎌倉ではしばらくの間頼朝の消息を確認できなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ、範頼は8月17日に伊豆修禅寺に幽閉されている。
  7. ^ 「切兼曽我」と「一満箱王」は同一である[62][63]

出典編集

  1. ^ 文化庁月報平成25年9月号(No.540)
  2. ^ 今野慶信「曽我十郎/・五郎」/ 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 186ページ
  3. ^ 佐藤和道「小袖曽我 〈小袖曽我〉考 : 曽我兄弟の舞と母親の視点」31-34頁、『観世』第86号、2019年
  4. ^ 谷暎子「占領下の出版物検閲と児童文学--全文削除を命じられた作品をめぐって」、『北星学園大学文学部北星論集』第42号、2004年
  5. ^ 坂井(2014) p.1
  6. ^ 二本松(2009) pp.15-16
  7. ^ 海老沼真治「「富士北麓若彦路」再考--『吾妻鏡』関係地名の検討を中心として」56頁『山梨県立博物館研究紀要』5、2011年
  8. ^ 本郷和人・五味文彦編、『現代語訳 吾妻鏡6』180頁、吉川弘文館、2009
  9. ^ 木村茂光「頼朝政権と甲斐源氏」19頁、『武田氏研究』第58号、2018年
  10. ^ a b c d e f g h 「曾我物語」
  11. ^ 真名本曽我物語(「妙本寺本」巻第十)
  12. ^ 二本松(2009) p.197
  13. ^ 小林美和、「真名本『曽我物語』覚書ー<御霊>と<罪業>をめぐってー」、『帝塚山短期大学紀要』(32)1-10、1995
  14. ^ 会田実、「曽我物語における意味の収束と拡散—真名本から仮名本へ—」4頁、『日本文学』No.697、2011
  15. ^ 会田(2004) p.173
  16. ^ 村上(1984) pp.1207-1243
  17. ^ 福田(2002) p.530
  18. ^ 村上(1984) p.1221
  19. ^ 福田(2002) p.532
  20. ^ 福田(2002) p.534
  21. ^ 会田(2004) pp.24-25
  22. ^ 二本松(2009) p.205
  23. ^ 坂井(2014) pp.120-122
  24. ^ 福田(1988) p.322
  25. ^ 坂井(2014) p.124
  26. ^ 坂井(2014) p.126
  27. ^ 幸若舞(1996) pp.364-365
  28. ^ 坂井(2014) p.61・295
  29. ^ 村上(2006) pp.93-98
  30. ^ 三浦周行「曾我兄弟と北条時政」『歴史と人物』、1915
  31. ^ 石井進「曾我物語の世界」『中世武士団』、講談社
  32. ^ 坂井(2014) pp.11-12
  33. ^ 石井進「曾我物語の歴史的背景」『静岡県史研究第7号』、1995
  34. ^ 坂井(2014) p.120
  35. ^ 『吾妻鏡』建久元年(1190年)9月7日条
  36. ^ 坂井(2014) pp.140-160
  37. ^ 保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0
  38. ^ 木村茂光『頼朝と街道 鎌倉政権の東国支配』176-177頁、吉川弘文館、2016
  39. ^ 国文学(2003) pp.206-207
  40. ^ 坂井(2014) pp.156-164
  41. ^ 菱沼一憲「総論 章立てと先行研究・人物史」(所収:菱沼 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一四巻 源範頼』(戎光祥出版、2015年) ISBN 978-4-86403-151-6
  42. ^ 幸若舞(2004) p.232
  43. ^ 佐藤(2006) p.40
  44. ^ 軍記(1997) p.127
  45. ^ 佐藤(2006) p.35
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関連項目編集

外部リンク編集