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本山 茂任(もとやま しげとう、1826年文政9年) - 1887年明治20年)8月28日)は、 江戸時代土佐藩上士勤皇派武士。 維新の志士。松山県参事春日大社下賀茂神社神職。 通称は左近兵衛、のち只一郎。竜沢と号す。前諱は茂樹。板垣退助の親族にあたり、文武に秀で、坂本龍馬中岡慎太郎を厚く庇護したことで有名。坂本龍馬中岡慎太郎からの手紙なども伝存している。

目次

来歴編集

錦旗紛失事件編集

 
浮田可成・画、錦旗(赤地大和錦御旗)。日像と神号が書かれている。
  • 1868年(慶応4年)1月11日、摂津国神戸三宮神社付近で、酔払ったフランス人水兵と備前岡山藩兵との間で衝突した事件(神戸事件)が勃発したため、神戸開港の祝事の為に停泊していた欧米6ヶ国(イギリスアメリカオランダフランスイタリア)の兵士が武装して神戸に上陸し、同1月11日~15日迄、外国人の混成部隊に占領されてしまっていた。
  • 同月14日明け方、朝廷より高松松山両藩征討の勅と、錦の御旗を携えた、茂任以下ら土佐藩の重臣七名が、その事件を知らぬまま、三宮神社の門前を通りかかり、占領中の武装フランス兵に誰何を受けて、蕃語と意思疎通のままならぬままに、フランス兵に錦旗を櫃ごと奪われるという大失態が起こる。
  • ことの一大事に、土佐藩士中島信行や、長州藩士伊藤博文らが仲介し、フランス公使に陳情して、ようやく錦旗を取り戻すことが出来、無事に土佐迅衝隊へこれを届けた。

維新後編集

維新後は新政府に仕え、松山県参事を勤め、松山を日本百名山日本百景の一つであり、日本七霊山のひとつとされる、霊峰石鎚山(石鉄山)に基づき、石鉄県と名付けた。1875年(明治8年)に退官し、その後は、春日大社京都下鴨神社奈良大神神社などの宮司を勤め、1887年明治20年)8月28日、帰幽した。享年62。

家系編集

本山家は、清和源氏吉良氏の支流に出る。吉良宣玄の二男の次郎茂光が、土佐国長岡郡本山郷を本貫として氏と為し「本山伊典」と号したのを始祖とする。戦国時代は、土佐七雄の一に数えられ、長宗我部氏吉良氏を攻め滅ぼしたが、のちに一条氏の助けにより長宗我部氏が復興するとそれに攻められ降伏、家臣となる。長宗我部氏の歿落後、1614年慶長19年)山内豊前守へ仕えて以降は、土佐藩の上士として優遇された。

  • 吉良次郎茂光(養明の父)本山伊典と号す。
  • 本山養明(茂宗の父)
  • 本山茂宗(茂定の兄)
  • 本山茂定(茂房の父)瓜生野城主
  • 本山茂房(右近の兄)
  • 本山右近(彦兵衛の父)
  • 本山彦兵衛(喜左衛門の父)
  • 本山喜左衛門(茂正の父)1614年慶長19年)山内一唯(豊前守)へ仕える。
  • 本山茂正(茂恒の父)
  • 本山茂恒(茂朝の父)
  • 本山茂朝(茂成の長兄)
  • 本山政右衛門(茂成の次兄)
  • 本山茂成(茂長の父)
  • 本山茂長(茂久の義兄)
  • 本山茂久(茂勝の父)
  • 本山茂勝(茂根の義父)
  • 本山茂根(茂承の父)
  • 本山茂承(正直の兄)
  • 真辺正直(茂養の義兄)、真辺助之進光照の養子となる。
  • 父:本山茂養(本山伊平)
  • 本人:本山茂任(本山只一郎)
  • 弟:本山茂秀(本山正七)
  • 義弟:乾正厚(本山楠弥太)
  • 義甥:乾正士板垣退助次男)

茂任の妻編集

  • 岡與左衛門友直娘(離別)
  • 五藤善右衛門正通二女(離別)
  • 鳥飼覚左衛門正保娘(離別)
  • 馬詰與惣右衛門親利養女、実は市瀬五助娘(死別)
  • 坪内光貞娘

関連項目編集

参考文献編集