桶谷繁雄
来歴
編集桶谷清吉の長男として東京・浅草に生まれ、花柳界の中心地で育った[1][2]。
暁星中学校で吉田健一と同級生。東京高校理科乙類で級長。このとき、同学年の理科甲類の級長が糸川英夫だったが、糸川の首席は「余力のあるトップ」で桶谷より遥かに優秀だったという[3]。
東京帝国大学工学部冶金学科卒業後、フランス政府招聘留学生として1935年にブザンソン大学物理研究所に留学し、2年の滞在後、東大工学部副手を経て、1942年に東京工業大学助教授となる[1][4]。
1949年にパリのフランス国立中央科学研究所研究員として再度留学[5]。工学博士、東京工業大学教授を務め、名誉教授、京都産業大学教授。
1947年、春日 迪彦の筆名で、小説「フライブルグの宿」により夏目漱石賞佳作。パストゥールの評伝のほか、社会評論なども多く雑誌に寄稿した。
1961年11月15日、原水爆禁止日本協議会(原水協)が分裂し、「核兵器禁止平和建設国民会議」(核禁会議)が発足。議長に松下正寿、副議長に桶谷、和田春生、平林たい子、若原譲の4人、事務局長に寒河江善秋が選出された[6][7]。
1979年2月24日、国際勝共連合と自民党の国防関係国会議員が中心となり、「スパイ防止法制定促進国民会議」が設立された[8][9][10][11]。呼びかけ人は木内信胤、朝比奈宗源、宇野精一、郷司浩平、宝井馬琴、三輪知雄の6人[8]。サンケイ会館で設立発起人総会が開かれ、桶谷は発起人に名を連ねた[注 1]。
著書
編集- 『金属材料簡易鑑別法』(大雅堂) 1946
- 『愛の科学者』(日本科学社) 1947
- 『ルイ・パストゥールの生涯 愛の科学者』(日本科学社) 1948
- 『新しいパリ新しいフランス』(文藝春秋新社) 1952
- 『シャイロックのごとく』(読売新聞社、読売新書) 1953
- 『キュリー夫人』(講談社) 1954
- 『フライブルグの宿 科学と文学』(朝日新聞社、朝日文化手帖) 1954
- 『現代文明を担う人々』(新潮社、一時間文庫) 1955
- 『欧州スクーター旅行』(毎日新聞社) 1958
- 『逃亡将校』(角川書店) 1960
- 『ソ連 自動車旅行』(文藝春秋社) 1961
- 『金属と人間の歴史 - 日本人がつくりだしたもの、草薙剣・奈良大仏・日本刀・種子島』(講談社ブルーバックス) 1965、のち改題『金属と日本人の歴史』(講談社学術文庫) 2006
- 『現代に抗議する』(日本教文社) 1969
- 『電子線回折による金属炭化物の研究』(アグネ) 1971
- 『大新聞の虚像・実像』(日本教文社) 1974
- 『性悪説のすすめ 私の教育論』(日本経済通信社、NKTブックス) 1977
- 『二十一世紀に向かって 随筆集』(国鉄厚生事業協会) 1978
- 『逆転!!人間の否定へ 安全・公害問題にみる無理解とエゴイズム』(千代田書房) 1979
- 「フライブルグの宿」 1948 - 夏目漱石賞第一回受賞作品
翻訳
編集テレビ出演
編集- 『松本清張シリーズ・黒い断層』第41回「青春の彷徨」(1961年、TBS) ※高垣家の客 役
- 『こんにゃく談義』(1957年4月13日、NHK)※ゲスト
- 『ダイハツクイズ そうですちがいます』(1962年、フジテレビ)※レギュラー解答者
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b 桶谷繁雄『人事興信録』第15版 上
- ^ 『世は〆切』山本夏彦、文藝春秋, 1999/04/10,p271
- ^ 草柳大蔵『実力者の条件』p.172
- ^ 岡田大士, 「東京工業大学における戦後大学改革に関する歴史的研究」 東京工業大学 博士論文, 甲第6209号, 2005年, NAID 500000351703。
- ^ 『人事興信録』第一巻、1953年
- ^ “ヒロシマの記録1961 11月”. ヒロシマ平和メディアセンター. 中国新聞社. 2023年10月2日閲覧。
- ^ “年表”. 核兵器廃絶・平和建設国民会議. 2023年9月26日閲覧。
- ^ a b c 茶本繁正「ファシズムの尖兵・勝共連合」 『社会主義』1979年7月号、社会主義協会、68-73頁。
- ^ “当団体について”. 「スパイ防止法」制定促進サイト. スパイ防止法制定促進国民会議. 2023年2月17日閲覧。
- ^ “専修大学社会科学研究所月報 No.273” (1986年4月20日). 2022年11月14日閲覧。
- ^ 深草徹. “今、再び特定秘密保護法を考える”. 2022年11月14日閲覧。
外部リンク
編集- 「こんにゃく談義」ゲスト出演時の桶谷(動画) NHK総合(1957年4月13日)
- 桶谷繁雄、昭和47年10月5日講演録「公害報道について」 和敬塾五十年の歩みとこれから、和敬塾