牛車

牛や水牛などに引かせる車
水牛車から転送)

牛車(ぎっしゃ、ぎゅうしゃ、うしぐるま)は、ウシスイギュウに牽引させるのことで交通手段のひとつ。主に荷物を運搬する荷車タイプのものと、人を運搬する乗り物タイプのものがある。かつては世界各地で用いられており、発展途上国では今でもごく普通に見ることが出来る。2005年にはコスタリカの牛飼いと牛車の伝統ユネスコ無形文化遺産に登録されている。

キューバにおける牛車

日本の牛車 編集

 
土佐光起源氏物語絵巻』四十二帖「匂宮」、バーク・コレクション

牛車は馬車とともに中国から伝わったと推定されている。牛車は大きく分けて荷車用と乗用の2つの要素があった。牛車は速度が遅い反面、大量の物資を運ぶのに向いていたため荷車として活用されて『石山寺縁起絵巻』や『方丈記』などにも登場する。運ぶ物資や速達性によって牛車と馬車の使い分けがされていたと推定され、中世に入るとそれぞれ車借馬借と呼ばれる運送業者が成立することになった[1]

中国では196年後漢献帝長安から洛陽へ脱出する途中、車を破損した献帝が農民の牛車に乗って洛陽に辿り着いたという故事から、貴人がウシに乗るようになったという伝承がある。中国の律令制を取り入れた日本でもこの影響を受けたと言われている[1]

日本の平安時代では貴族の一般的な乗り物であったが、平安時代以前では「天皇の乗り物」と定められていた(平安期以降も鳳輦・葱華輦は天皇にのみ乗車が許された)[2]。移動のための機能性よりも使用者の権威を示すことが優先され、重厚な造りや華やかな装飾性が求められた[3][要ページ番号]。そのため、金銀の装飾を施すなど華麗という以上に奢侈に流れる弊害が出たことから、894年(寛平6年)には一時乗車が禁止されたこともある。

武家が政権を取った鎌倉室町時代には、牛車に乗る権利を持つ従五位以上の官位を持つ武家衆も多く現れたが、実際に牛車を使ったのは将軍家のみである[4]応仁の乱以後には貴族のあいだでも牛車は廃れて消滅してしまうが、1588年天正16年)に豊臣秀吉聚楽第行幸に際して牛車を新調した。秀吉の牛車は御所車と呼ばれるもので、古法に則った牛車よりも巨大な物だったと考えられる[4]

現代の日本では観光用や祭礼用などを除いてほとんど見かけられなくなっているが、日本の道路交通法では軽車両の扱いである(詳細は軽車両を参照)。

使用方法 編集

「延喜内匠式」には屋形の長さ8尺、高さ3尺4寸、広さ3尺2寸という。通常4人乗りで、あるいは2人乗り、あるいは6人乗る。乗降は、後方から乗り、降りるときはまずウシをはずし軛のための榻を人のための踏台として前から降りる[5]。なお、源義仲が上洛して牛車に乗った際に、これを知らずに後から降りて笑いものになったことがある(『平家物語』「猫間」)。

男性が乗るときは簾を上げ、女性のときは下げる。乗って宮城門を出入りする者は、妃以下大臣嫡妻以上は宮門外を限り、四位以下および内侍は上東門から出入りする。999年(長保元年)、六位以下の乗車の禁止、陽明門外の車の立様の規定などさまざまな規定がある。

牛車は主に洛中での移動に用いられ、洛外など遠出の際には輿が用いられた[4]。 牛車のウシを引く牛飼童(うしかいわらわ)や牛車の両側につく車副(くるまぞい)と呼ばれる者達がつき従って使用された。

各部の名称 編集

 
牛車
宮殿調度図解 (1905年)

各部の名称は、ヒトが乗るところは(やかた)、車箱、坐るところは(とこ)。

屋形の上を前後に通る木は、前後の外に出る部分を、眉の両側に突き出る部分を、眉袖の裏の格子になっているところを眉格子袖格子、屋形の前上部中央につく総角の緒を棟融

前後の口の左右にある板を(ぼうだて)、その前の板を踏板、箱の左右の窓を(ものみ)、その下の板を下立板、箱の前後、物見の上に差し出るところを

前後の口の下に張る低い仕切の板を(とじきみ)、高欄、前方に長く出る2本の木を(ながえ)、その車の後ろに出る部分を(とびのお)、轅の端のウシの頭を扼するところを(くびき)、その下に置く台を(しじ)。

車輪の心棒を(よこがみ)、その端の鉄を(くさび)、箱と車とをつなぐ索をとこしばり(※「膊」の偏が「革」である漢字)、車輪の(や)の集まるところを(こしき)、(とう)、轂の口の鉄を(かりも)、「かも」という。

前後にがあり、それぞれ前簾後簾といい、内側の帳を(したすだれ)という。

車の種類 編集

 
時代祭の牛車
 
復元された平安の『半蔀車』
宇治市源氏物語ミュージアム
 
「平治物語絵巻」の『八葉車』
唐廂(庇)車からびさしのくるま
太上天皇摂政関白などがハレの舞台で使う。屋根が唐破風のような形状になっていることから、この名称で呼ばれた。「唐車からぐるま」とも呼ぶ。最高級の牛車。大型で「はしたて」という梯子で乗り降りした。上葺、庇、腰総などは檳榔の葉で作り、「蘇芳簾」という赤い簾をかける。横の画像はこの車。物見は落入で、外は御簾形、内は綾を押して絵を画き、縁を錦とし、御簾は編糸の紫七緒で、縁錦、裏綾の紫、下簾は蘇芳の浮線綾にいろいろの糸で唐花、唐鳥を縫う。車箱は大きく高く、車の前の簾の左右にも方立の板を作り、ふつうの車は榻で、この車は桟で、乗降する。
雨眉車あままゆのくるま
摂政・関白が直衣姿の折に使用する。上記の唐廂(庇)車の簡略版で、眉が唐破風のような形状になっている。すだれは青く下簾の帳も青裾濃。
檳榔毛車びろうげのくるま
上皇以下・四位以上の上級貴族が乗用したが、入内する女房高僧も用いた。「毛車」とも呼ぶ。檳榔を細かく裂いて屋根を葺いた車で、見物はない。蘇芳簾で下簾は赤裾濃。
檳榔廂(庇)車びろうひさしのくるま
上皇・親王摂関大臣の乗用である。上記の檳榔毛車に見物を設置したもので、前後眉下と見物の上にひさしが付いている。
糸毛車いとげのくるま
上葺うわぶき(車箱の屋根部分)を色染めした糸で覆った車で、見物は設けていない。
青糸車
皇后中宮東宮の乗用車。
紫糸車
女御更衣尚侍典侍の乗用車。
赤糸車
「賀茂祭り」の際に、女使が使用する。
網代車あじろぐるま[6]
車箱の表面に、などの薄板を張った車の総称である。袖や立板などにで絵文様を描いたものが多い。袖表や棟表を白く塗り、家文を付けた車は「袖白の車」・「上白うわじろの車」と呼び大臣の乗用であった。また、棟・袖・見物の上に文様を描いた車を「もんの車」と呼んだ。
半蔀車はじとみのぐるま
を網代に張った、網代車の一種である。上皇・摂関・大臣・大将が使用する。見物の懸戸が外側にはね上げたような造りとなっており、開閉可能の半蔀を設けた車。右側の写真の車である。
八葉車はちようのくるま
網代車の一種で、大臣から公卿地下と広く用いた車である。網代を萌黄色(黄緑)に塗り、九曜星(八葉/大きな円の周りに小さな円を八つ書いたもの)の文様を描いた車。文様の大小で区別し、「大八葉」や「小八葉」などと言った。右側の絵巻に描かれている車である。
轜車きぐるま
貴人の葬送の際、を載せて運ぶ車。轜車(じしゃ)ともいう。大正天皇大喪の礼の用いられた轜車は、京都から約70人の職人(大工、網代師、塗師、御簾師、表具師など)が東京に移動し、短期間で製作された。塗色は木部が黒漆で、金具は全て金かな具で装飾が施されていた。車輪ケヤキ車軸にはカシが用いられ、車輪の回転とともに車軸から発する七色の哀音が出る仕掛けが施されていた[7]。轜車を牽く牛は、広島県神石郡産のウシ(神石牛比婆牛)が正・副2頭ずつが調達された[8]

水牛車観光 編集

沖縄県八重山郡竹富町竹富島由布島では、水牛車が観光に用いられている。竹富島の水牛車は4輪で、集落めぐりに使用されている。一方、由布島の水牛車は4輪もあるが2輪が主体で、遠浅の海を隔てた西表島との往来に使用されている。

中国の牛車 編集

子牛が曳く犢車、牛車がある。漢代では身分が低い者が乗る乗り物であったが、魏晋南北朝時代(2世紀末 - 6世紀末)になると位の高い人間も乗るようになった[9]

その他 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 中村潤子「運ぶ手段」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 3 遺跡と技術』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01730-5 P296-298
  2. ^ 『新訂総合国語便覧』(第一学習社、改訂27版1998年)p.26.
  3. ^ 国立民族学博物館 『旅 いろいろ地球人』 淡交社 2009年
  4. ^ a b c 二木謙一『中世武家の作法』 <日本歴史叢書> 吉川弘文館 1999 ISBN 4642066578 pp.98-104.
  5. ^ 『新訂総合国語便覧』(第一学習社)p.27.
  6. ^ ここでの網代とは、薄く細い板を交差させながら編んだもの。『網代』(コトバンク) 網代車を略して網代とも言う。
  7. ^ 難しい七種の哀音、轜車謹製の苦心『大阪毎日新聞』昭和元年12月30日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p365 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  8. ^ 轜車を引く牛四頭を買い上げ『大阪毎日新聞』昭和2年1月5日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p365)
  9. ^ 軺車是什麼車

関連項目 編集

外部リンク 編集