淤宇宿禰

古代日本の豪族

淤宇宿禰(おうのすくね、生没年不詳)は『日本書紀』等に伝わる古墳時代豪族出雲国造の一人。『古事記』には彼に関する記載は存在しない。

 
淤宇宿禰
時代 古墳時代
生誕 不明
死没 不明
官位 出雲国造
主君 仁徳天皇
氏族 出雲臣
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記録 編集

淤宇宿禰は意宇足奴とも表記されるように、「淤宇」とは「意宇」のことで、出雲国意宇郡を支配した豪族の出雲国造であることを意味する。『日本書紀』巻第二十六には、659年斉明天皇5年)

是歳(ことし)、出雲国造(いづものくにのみやつこ)に命(おほ)せて、神の宮を脩厳(つくりよそ)はしむ。狐、於友郡(おうのこほり)の役丁(えよほろ)の執(と)れる葛(かづら)の末(すゑ)を噛(く)ひ断ちて去(い)ぬ。 (この年、出雲国造に命ぜられて神の宮(意宇郡の熊野大社、現島根県松江市八束町鎮座)を修造させられた。そのとき狐が、意宇郡の役夫の採ってきた葛(宮造りの用材)をみきって逃げた)訳:宇治谷孟

とある。この話は、天智天皇の皇子の建王が唖であり、『古事記』中巻や『書紀』巻第六に現れている垂仁天皇の皇子、誉津別命の故事と大いに関係がある[1][2]。『出雲国風土記』にも同様の物語が見える[3]

『日本書紀』巻第十一には、応神天皇崩御後の額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)との、倭の屯田屯倉を巡る争議のことが記されている。淤宇宿禰はこれらの土地の屯田司であったが、額田大中彦皇子が「ここは山守の管掌するところであるから、明け渡すように」と要求してきた。

不服を唱えた彼は、菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)、その後大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、のちの仁徳天皇)に訴え出た。

「臣(やつがれ)が任(あづか)れる屯田(みた)は、大中彦皇子(おほなかつひこのみこ)、距(さまた)げて治(つく)らしめず」(私がお預かりしている屯田は、大中彦皇子が妨げて治めさせてくれません)

大鷦鷯尊は、倭直の祖先である麻呂に尋ねたところ、現在韓国(からくに)に派遣されている弟の吾子籠(あごこ)が知っていると答えた。そこで、

爰(ここ)に大鷦鷯尊、淤宇に謂(かた)りて曰(のたま))はく、「爾(なむぢ)躬(みづか)ら韓国に往(まか)りて、吾子籠を喚(め)せ。其れ日夜(ひるよる)兼ねて急(すみやか)に往(まか)れ」とのたまふ。乃(すなは)ち淡路(あはぢ)の海人(あま)八十(やそ)を差して水手(かこ)とす。爰に淤宇、韓国に往(まか)りて、即(すなは)ち吾子籠を率(ゐ)て来(まう)け)り。 (大鷦鷯尊は淤宇にいわれるのに、「お前は自ら韓国へ行って、吾子籠(あごこ)をよんでこい。昼夜兼行で行け」と。そして淡路の海人(あま)大勢をつかわして水手(かこ)とされた。淤宇は韓国へ行って、吾子籠を連れて参りきた。)

吾子籠は土地は天皇のものであると説明し、事態は解決した。しかし、事態は額田大中彦皇子の弟である大山守皇子の反発を招き、皇位抗争劇へと発展していった[4]

『古事記』にはこのエピソードは存在しない。

考証 編集

意宇郡は出雲国の国府が設置された場所であり、国分寺国分尼寺も建立され、古くから出雲国の中心地であった。古代の農業は自然灌漑によるものであったため、地域を流れる意宇川のような小さな川が農耕社会にとって、より適したものであった、と角川源義は述べている。前述の熊野大社には食物神、櫛御気野命(くしみけぬのみこと)が祭られ、その神を祭った司祭者も神魂神社(かもすじんじゃ)に祭られている。のちの出雲国造家である。

加藤義成によると、意宇氏は元々は意宇地域の豪族だったものが、大和政権との関係で出雲を統合し、国全体の首長にのし上がってきた、そのことは熊野大神が国津神ではなく、天津神に分類されているところから想像でき、本来の出雲氏は出雲国西部の斐伊川流域に杵築大神を奉じた勢力であっただろうとしている[5]

意宇平野における発掘調査では、とりわけ国府跡の下層にある5世紀代の首長居館遺構からは、朝鮮半島系の土器が多数出土しており、渡来人の定住に意宇郡の首長が関与していたことが窺われ、その渡来人らを用いて、意宇川の付け替え工事も行われたらしいことも判明している。港にあたる夫敷遺跡からも半島系土器が出土され、隣接地には阿太加夜(あだかや)神社という半島由来の名前とおぼしき神社が鎮座している。これらの事情は、意宇平野を地盤とする豪族が大和王権の権威で半島と交渉を行っていたのではないか、と池渕俊一は述べている。

物語に登場する「淡路の水手」に関連して、『書紀』巻第六の一書に伝えるアメノヒボコ伝承の異聞では、

初め天日槍、艇(はしぶね)に乗りて播磨国(はりまのくに)に泊(とま)りて、宍粟邑(しさはのむら)に在り。時に天皇、三輪君(みわのきみ)が祖(おや)大友主(おほともぬし)と倭直(やまとのあたひ)の祖(おや)長尾市(ながをち)とを播磨に遣(つかは)して、天日槍を問はしめて曰(のたま)はく、「汝(いまし)は誰人ぞ。且(また)、何(いづれ)の国の人ぞ」とのたまふ

とあったのちに、八物(やくさ)の神宝を日槍が朝廷に貢献し、

仍(よ)りて天日槍に詔(みことのり)曰(のたま)はく「播磨国の宍粟邑と淡路島(あはぢのしま)の出浅邑(いでさのむら)と、是の二(ふたつ)の邑(むら)は、汝(いまし)任意(こころのまま)に居(はべ)れ」とのたまふ (天皇は天日槍に詔して、「播磨国の宍粟邑(しさわのむら)と淡路島(あわじしま)の出浅邑(いでさのむら)の二つに、汝の心のままに住みなさい」と言われた[6]

となっている。これは、当時の朝廷が帰化人(渡来人)の一時的な居留地として、現在の兵庫県にあたる2つの地域を指定しており、倭直らが交渉を行っていたことを示している。

南あわじ市の木戸原遺跡は、韓式土器や、海上祭祀に用いたと推定される鉄梃・毛抜き状鉄製品など、渡来品と思われる遺物が多く出土している。渡来系以外の土器出土品では、畿内で多数出土される東海系土器や、須恵器の坏・蓋を模倣した内外面に炭素を付着させた黒色土器もあり、類似の須恵器模倣蓋坏は少し後の遺跡から筑前国有明海沿岸から集中して発見されている。

また、同遺跡には柵で囲まれた大型の掘立柱建物竪穴建物が存在し、これは渡来人の臨時収容施設ではなかったか、とも想定されている。近隣の雨流遺跡からも、松江市玉湯町花仙山(かせんざん)から産出された碧玉の原石が出土している。

このように、5世紀末には、淡路島が出雲と大和を結ぶ交通の結節地点であり、淡路の海人集団が対朝鮮貿易で重要な役割を果たしていたと推定されている。

脚注 編集

  1. ^ 『古事記』中巻垂仁天皇条
  2. ^ 『日本書紀』垂仁天皇23年10月8日条、11月2日条
  3. ^ 『出雲国風土記』仁多郡三津郷条
  4. ^ 『日本書紀』仁徳天皇即位前紀条
  5. ^ 『日本史探訪』2古代王国の謎、角川書店:編より「古代出雲王国」(角川文庫、1983年)
  6. ^ 『日本書紀』垂仁天皇3年3月条

参考文献 編集

  • 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
  • 『日本書紀』(二)(四)、岩波文庫、1994年、1995年
  • 『日本書紀』全現代語訳(上)(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年
  • 『風土記』、武田祐吉:編、岩波文庫、1937年
  • 『出雲国風土記』、全訳注、講談社学術文庫、荻原千鶴:1999年
  • 『日本の古代11 ウヂとイエ』大林太良:編より「10東と西の豪族 - 畿内と西国の豪族 〝国譲り伝承〟と出雲臣」文:八木充中央公論社、1987年
  • 『日本の古代14 ことばと文字』岸俊男:編より「1新発見の文字資料-その画期的な役割」文:和田萃中公文庫、1996年
  • 『日本史探訪』2古代王国の謎、角川書店:編、角川文庫、1983年、
  • 『季刊 邪馬台国』第133号、2017年12月、梓書院より、「淤宇宿禰・野見宿禰伝承と倭王権」、文:池渕俊一

関連項目 編集