深沢地域

神奈川県鎌倉市の行政区域の一つ

深沢地域(ふかさわちいき)は神奈川県鎌倉市の行政区域の一つ。8つの大字(梶原鎌倉山上町屋手広寺分常盤笛田山崎)がこの地域に含まれる。

この地域は、戦前には深沢村と呼ばれた地域である。なお、深沢村は1948年昭和23年)1月1日に鎌倉市に編入され、消滅した[1]。以来、深沢という地名大字からも小字からも消滅し、学校名やバス停や湘南モノレール江の島線の駅名に名前を残すのみとなっている。

地域の人口は約33,000人(2007年1月現在)、面積は8.22km2

概要

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深沢地域は鎌倉市の西部に位置し、西は藤沢市と接している。また、北は大船地域、東は鎌倉地域、南は腰越地域とそれぞれ接しているため海はなく、山や丘陵部が多いことも特徴の一つである。

地域内には湘南モノレール湘南町屋駅湘南深沢駅がある以外に鉄道駅はないが、その分バス網が比較的細やかに整備されている為、移動手段にはバスが用いられることが多い[2]

また、笛田公園笛田リサイクルセンターといった施設が存在する。

その他、深沢地域を走る主要な道路に神奈川県道32号藤沢鎌倉線神奈川県道304号腰越大船線がある。

地理

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地域区分

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梶原鎌倉山上町屋手広寺分常盤笛田山崎

歴史

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平安時代には、桓武平氏村岡忠通を祖とする鎌倉氏の支配領域であった。鎌倉景通の嫡男景久は梶原郷に在して「梶原氏」を称したとされる。

梶原氏は鎌倉時代初期に源頼朝の側近として勢力を誇った梶原景時につながる。当地域には等覚寺や御霊神社など、梶原氏や梶原景時の伝承を残す史跡も多い。深沢小学校の裏には「梶原景時の墓」[3]と伝えるやぐら(横穴墳)がある。

鎌倉街道上道(吾妻鏡では下道と記述)が当地域内をほぼ東西に貫いていたと想定される。ただし、化粧坂からどのような経路で村岡(現在の藤沢市宮前付近)に至っていたかは不明である[4]

前述のとおり、当地域は鎌倉街道上道の鎌倉への入口にあたるため、鎌倉防衛の要所とされた。化粧坂と大仏坂[5]の中間にあたる常盤の谷戸には鎌倉幕府第7代執権北条政村別邸を構えていたとされる。1333年新田義貞鎌倉攻めの際には、現在の寺分・上町屋付近(かつて「洲崎(須崎)」と呼称された)において、北条氏赤橋守時らが戦死した洲崎合戦があった。

近世には東海道戸塚宿から鎌倉へ向かう道(鎌倉街道中道)から小袋谷で分岐した江の島道が、当地域内をほぼ南北に通っていた[6]。また、1685年(貞享2年)に刊行された新編鎌倉志に、鎌倉から常盤に抜ける道筋として大仏切通の記述がある。

近代に入ってからも、当地域が鉄道(東海道本線横須賀線)の経路から外れていたこともあり、開発は進まなかったが、東京から至近の観光地・避暑地として鎌倉や江ノ島が注目を集めると、それらの近郊として当地域にも観光開発や別荘地分譲を目的とした鉄道敷設計画が持ち上がった。鉄道計画は1923年(大正12年)の関東大震災などの影響で実現には至らなかったが、1930年代には大船と江ノ島に近い片瀬を結ぶ自動車専用道路が開通、当地域をほぼ南北に貫通[7]し、ルート上の鎌倉山が別荘地として開発された。

1960年代以降、当地域内の耕地や山林が大規模宅地造成により住宅団地に変貌し、1970年(昭和45年)の湘南モノレール開業も追い風となって人口が急増した。それまで小学校は当地域内に1校(深沢小学校)しかなかったが、1970年(昭和45年)に山崎小学校1974年(昭和49年)に西鎌倉小学校[8]1977年(昭和52年)に富士塚小学校がそれぞれ開校した。

地域の史跡・名所

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産業

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農業

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1960年代頃までは農業が主な産業であり、山崎、笛田の谷戸の奥には、灌漑用に矢戸の池、夫婦池などのため池が築造された。農地の多くは後に住宅地に転換し、市街化調整区域に指定された区域などに一部残存するのみとなっている。

工業

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戦時中、寺分、梶原の耕地に横須賀海軍工廠深沢分工場が建設され、戦後に国鉄に引き継がれて大船工場となった。また、上町屋に三菱電機が進出するなど、柏尾川沿いに工業地域が形成されている。

操業中の主な事業所

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かつて存在していた事業所

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商業

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かつては住民向けの小規模商店が点在するのみであったが、新興住宅地の造成とともに人口が増加し、それに伴って駐車場を備えたスーパーマーケットなどが進出した。また、県道藤沢鎌倉線が幹線道路となり、通過交通量が増えるにつれ、沿道にレストランガソリンスタンドなどが増加していった。現在、小町大船に次ぐ第3の開発地域になっており、大規模な商業施設計画が持ち上がっているが、いつできるのかは未定のままである。

主なスーパーマーケット

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かつて存在していたスーパーマーケット

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交通

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伝説

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古代、この深沢地域にはまわりが四十里もある大きな湖があったという。「腰越」の名の由来とされる五頭竜はこの湖に棲んでいたと伝えられる。

中世に入ってこの大きな湖が深沢と呼ばれ、「深沢」という土地の名前になったといわれる。

ここまで南西に向かって流れてきた柏尾川が、寺分川、梶原川、新川、大塚川(殿入川、笛田川、手広川)が合流する付近で西に流路を変えており、当地域がそのカーブの外側にあたることや、上記の各支流が当地域の低地を近接して流れていることなどから、「湖」の根拠とはなりえないものの、水が滞留しやすい土地であったことは確かである。

脚注

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  1. ^ 『かまくら子ども風土記』鎌倉市教育委員会、平成31-3-31、358頁。 
  2. ^ 鎌倉市のオムニバスタウン施策の一環として、近年当地域内の狭隘道路に対応したミニバス路線が設定された。
  3. ^ 梶原景時は駿河国清見関で誅殺されているため埋葬墓ではないが、供養塔であるといわれている。
  4. ^ 大まかに分けて、梶原の谷戸を経由するルートと、梶原・山崎の境にあたる尾根を経由するルートが想定されている。いずれのルートも、宅地造成により古道の痕跡はほとんど残されていない。
  5. ^ 吾妻鏡など中世の文献に記録が存在しないため開削時期は不明だが、かつては大仏のある長谷は深沢郷に含まれており、郷内の交通路としては古くから存在していた可能性がある。
  6. ^ 山崎や手広の山越え区間において一部痕跡が現存するが、当地域平野部の経路は工場などにより寸断され、正確なルートを特定することは困難になっている。
  7. ^ 鉄道計画と自動車専用道路については京浜急行線も参照のこと。
  8. ^ 校地は腰越地域にあるが、学区には手広など当地域も含まれる。