犬塚太郎
犬塚 太郎(いぬづか たろう、1875年(明治8年)10月23日 - 1936年(昭和11年)7月17日)は、日本の海軍軍人。第三回旅順港閉塞作戦に「愛国丸」指揮官として参戦。大正天皇の侍従武官、昭和天皇の皇太子時代における東宮武官、日本海海戦における東伏見宮依仁親王の皇族附武官、秩父宮別当を務める。最終階級は海軍中将。
生誕 |
1875年10月23日 日本・佐賀県 |
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死没 | 1936年7月17日(60歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1899年 - 1927年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 | 秩父宮別当 |
生涯
編集佐賀藩士族出身。旧姓は野田。海軍兵学校25期を32名中18番で卒業。「笠置」分隊長として日露戦争を迎え、第三回旅順港閉塞作戦では「愛国丸」指揮官(大尉)として参戦。負傷しながらも生還し、「千代田」砲術長兼艦長・東伏見宮依仁親王附皇族武官として日本海海戦を戦った。
戦後は海軍大学校甲種7期を卒業。第一艦隊、第二艦隊、練習艦隊の各参謀を務めている。海兵教官としては先任監事として41期から45期の生徒を指導した。第一次世界大戦期は、当初第六戦隊所属の「須磨」艦長であったが、「新高」艦長に転じて南アフリカ方面で連合国艦船の護衛任務に従事した。帰還後東宮武官に就任。6年強にわたり在任し、皇太子時代の昭和天皇を補佐。在任中に皇太子裕仁親王の欧州訪問に随行している[1]。軽巡洋艦「由良」、「名取」、「川内」、「長良」で構成された第五戦隊、鎮海要港部の司令官を務め予備役となる。
1930年(昭和5年)3月、秩父宮別当に就任。秩父宮妃勢津子の母松平信子は、旧主鍋島家の当主鍋島直大の娘である。犬塚は死去するまでの6年間同職を務めた。息子の犬塚家孝は58期出身の海軍中佐で「峯風」、「曙」の各駆逐艦長[2]として太平洋戦争を戦い、孫に犬塚孝明がいる[3]。
- 旅順港閉塞作戦[4]
1904年(明治37年)5月2日、犬塚は第三回旅順港閉塞作戦に「愛国丸」指揮官として参加した。「愛国丸」は「相模丸」とともに第四小隊を構成し、12隻から成る閉塞隊の中央部の閉塞を作戦目的としていた。作戦当日は荒天で総指揮官林三子雄中佐は中止を決断し、反転命令を発した。しかしこの命令は各船に伝わらず部隊は分裂状態となる。「愛国丸」は「遠江丸」、「小樽丸」、「江戸丸」、「相模丸」と一団を形成した。「愛国丸」は敷設する目的で機械水雷(機雷)を積んでいたが、犬塚は混乱した状況で僚船に被害が及ぶことを避けるため、無効化して放棄した。沈没予定地を目指し前進したが、ロシア軍の迎撃は激しく、「愛国丸」は触雷し気罐室などが破壊された。行動の自由を失ったため、犬塚は停止位置で「愛国丸」の爆破、沈没を図る。しかし、同船は爆破作業をする暇なく急激に沈没し、犬塚ら乗員は海中に投げ出された。24名の乗員中、端舟で脱出に成功したのは犬塚ら16名であった。戦後功四級に叙されている。
- 第一次世界大戦[5]
犬塚は第一特務艦隊分遣隊所属の「新高」艦長として、コロンボやモーリシャス、ケープタウンを根拠地として活動した。当時は独武装商船の活動や、機雷の被害が懸念されており、連合国艦船の護衛や、警備、哨戒活動に従事したのである。主な活動場所はケープタウンを中心とした南アフリカ沿岸である。 1917年9月、「新高」に帰還命令が発せられ、舞鶴へ到着したのは11月16日であった。
年譜
編集- 1899年(明治32年)2月 - 海軍少尉
- 1900年(明治33年)
- 1901年(明治34年)
- 4月 - 帰着
- 11月 - 「大和」航海長心得兼分隊長心得
- 1902年(明治35年)10月 - 海軍大尉、「大和」分隊長、「厳島」分隊長
- 1903年(明治36年)9月 - 「笠置」分隊長
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)4月 - 海軍大学校甲種学生
- 1909年(明治42年)12月 - 「鹿島」砲術長
- 1910年(明治43年)12月 - 舞鶴鎮守府参謀兼望楼監督官
- 1912年
- 1913年(大正2年)5月 - 海軍兵学校教官兼監事
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)12月 - 海軍大佐、「須磨」艦長
- 1917年(大正6年)
- 1921年(大正10年)
- 1924年(大正13年)
- 2月 - 第五戦隊司令官
- 12月 - 軍令部出仕
- 1925年(大正14年)
- 1926年(大正15年)12月 - 軍令部出仕
- 1927年(昭和2年)12月 – 予備役
- 1930年(昭和5年)3月 - 秩父宮別当
- 1936年(昭和11年)
栄典
編集- 位階
- 1899年(明治32年)3月10日 - 正八位[7]
- 1900年(明治33年)12月8日 - 従七位[8]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 従六位[9]
- 1913年(大正2年)2月10日 - 正六位[10]
- 1916年(大正5年)12月28日 - 従五位[11]
- 1922年(大正11年)1月20日 - 正五位[12]
- 1925年(大正14年)12月28日 - 従四位[13]
- 1928年(昭和3年)1月23日 - 正四位[14]
- 勲章等
関連する人物
編集脚注
編集- ^ 「故別当海軍中将犬塚太郎叙勲ノ件」
- ^ 『艦長たちの軍艦史』219頁、285頁
- ^ 海軍史研究会編『日本海軍の本』自由国民社 ISBN 4-426-40030-9、200頁
- ^ 「第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞」
- ^ 『懐旧録 戦袍余薫』「喜望峰方面に於ける新高対馬の行動」
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』
- ^ 『官報』第705号「叙任及辞令」1899年3月11日。※野田太郎
- ^ 『官報』第5233号「叙任及辞令」1900年12月10日。※野田太郎
- ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
- ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1916年12月29日。
- ^ 『官報』第2839号「叙任及辞令」1922年1月21日。
- ^ 『官報』第4045号「叙任及辞令」1926年2月20日。
- ^ 『官報』第328号「叙任及辞令」1928年2月3日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
- ^ 『官報』号外「辞令」1922年6月22日。
- ^ 『嗚呼、草刈少佐』370-372頁
参考文献
編集- 「故別当海軍中将犬塚太郎叙勲ノ件」(ref:A10113175400)
- 『極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻4』「第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞」(ref: C05110041500)
- 「第5戦隊(1)」(ref:C08051194400)
- 「第5戦隊(2)」(ref:C08051194500)
- 「運送船護送任務報告 大正6年3月20日 - 27日」(ref:C10080395200)
- 『嗚呼、草刈少佐』政教社、1930年。
- 池田清『日本の海軍(下)』朝日ソノラマ、1987年。ISBN 4-257-17084-0。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』(第9巻)第一法規出版
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9。
- 有終会編『懐旧録 戦袍余薫』犬塚太郎「喜望峰方面に於ける新高対馬の行動」
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房