玉井信博

玉井 信博(たまい のぶひろ、1949年9月7日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手投手)。読売ジャイアンツ太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ、西武ライオンズに所属した。

玉井 信博
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県
生年月日 (1949-09-07) 1949年9月7日(68歳)
身長
体重
178 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1971年 ドラフト7位
初出場 1973年4月14日
最終出場 1978年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

目次

来歴・人物編集

松山商では、エースとして1966年の秋季四国大会決勝に進み、新居浜商を降し優勝。翌1967年春の選抜に出場するが、1回戦で桐生高に敗退[1]。同年夏も甲子園予選北四国大会決勝に進むが、村上真二のいた今治南に敗れ甲子園出場を逸する。

同年のドラフト11位で大洋ホエールズに指名されるがこれを拒否、東洋大学に進学。東都大学リーグでは、1970年秋季リーグで6勝3敗4完封を記録して一躍注目を浴びる。しかし翌年は打ち込まれ1勝14敗、スランプが続いた。リーグ通算7勝19敗。1971年ドラフト7位で読売ジャイアンツに指名されるが、これを保留し三協精機に入社。1972年都市対抗に出場した後、一年遅れで巨人に入団。

1973年イースタン・リーグの最多勝を獲得。1974年には6勝をあげ、徐々に実績を積み重ねていたが、1975年オフ、加藤初伊原春樹との交換トレードで関本四十四と共に太平洋に移籍した。移籍1年目は規定投球回数に達したものの、13敗(3勝)を記録、大きく負け越した。以後出番は減り続け、球団の所沢移転後は1軍登板0に終わった。1980年限りで現役引退。引退後は西武ライオンズに留まり1997年まで打撃投手を勤め、現在スコアラー。

右スリークォーターからの重い速球が武器であり、シュート、カーブ、スライダーを持ち球とするが、連打を浴びるクセがあった。

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1973 巨人 7 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 64 14.1 13 2 6 0 0 6 0 0 11 8 5.14 1.33
1974 23 13 3 1 0 6 4 0 -- .600 367 84.1 92 10 26 4 3 35 0 0 45 34 3.64 1.40
1975 13 8 3 2 0 3 4 0 -- .429 238 58.0 46 9 23 2 3 24 0 0 22 20 3.10 1.19
1976 太平洋
クラウン
26 17 5 0 1 3 13 2 -- .188 558 132.1 137 13 28 2 6 49 0 0 67 65 4.43 1.25
1977 22 14 4 0 0 1 8 0 -- .111 402 90.2 114 10 21 1 4 36 1 0 53 49 4.85 1.49
1978 12 2 0 0 0 0 1 0 -- .000 95 19.0 32 5 7 0 2 9 1 0 18 16 7.58 2.05
通算:6年 103 55 15 3 1 13 31 2 -- .295 1724 398.2 434 49 111 9 18 159 2 0 216 192 4.33 1.37
  • 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に球団名を変更

記録編集

  • 初登板:1973年4月14日、対ヤクルトアトムズ1回戦(後楽園球場)、5回表から2番手で救援登板、1回0/3を3失点
  • 初先発登板:1973年9月26日、対中日ドラゴンズ24回戦(後楽園球場)、5回1/3を5失点で敗戦投手
  • 初勝利・初先発勝利・初完投:1974年4月7日、対ヤクルトスワローズ3回戦(後楽園球場)、9回2失点
  • 初完封:1974年4月14日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場
  • 初セーブ:1976年6月2日、対日本ハムファイターズ前期8回戦(後楽園球場)、9回裏から5番手で救援登板・完了、1回無失点

背番号編集

  • 47 (1973年)
  • 24 (1974年 - 1975年)
  • 11 (1976年 - 1978年)
  • 36 (1979年 - 1980年)
  • 86 (1981年)
  • 95 (1982年 - 1991年)
  • 02 (1992年 - 1998年)

脚注編集

  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年

関連項目編集