石橋甫
石橋 甫(いしばし はじめ、文久2年7月2日(1862年7月28日) - 昭和17年(1942年)1月11日)は、日本の海軍軍人。日清戦争では初代連合艦隊旗艦「松島」航海長、日露戦争開戦時は防護巡洋艦「高砂」の艦長、高砂の触雷・沈没後は仮装巡洋艦「亜米利加丸」の艦長。最終階級は海軍中将。従三位勲二等功四級。石川県金沢市瓢箪町出身。海軍随一の航海長であった[1]。
生誕 |
1862年7月28日 加賀国金沢岩根町 |
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死没 | 1942年1月11日 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1879年–1923年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 |
商船学校校長 海防義会監事 近藤海事財団理事 |
年譜
編集※日付は明治5年まで旧暦
- 文久2年(1862年)7月2日 - 加賀藩御算用者で切米40俵の石橋良蔵の六男として金澤城下岩根町に生まれる
- 明治12年(1879年)7月19日 - 海軍兵学校(10期)入校
- 明治15年(1882年)9月13日 - 「龍驤」乗組
- 明治16年(1883年)
- 10月15日 - 海軍兵学校卒業(海軍少尉補)
- 11月21日 - 「龍驤」乗組
- 明治17年(1884年)2月18日 - 「扶桑」乗組
- 明治18年(1885年)4月7日 - 海軍少尉
- 明治19年(1886年)12月28日 - 海兵運用術教授心得兼生徒分隊士心得
- 明治20年(1887年)3月4日 - 水路部測量士心得
- 明治21年(1888年)
- 明治22年(1889年)
- 明治23年(1890年)
- 3月22日 - 海兵航海術教官兼「天龍」航海長
- 9月12日 - 海兵航海術教官
- 9月24日 - 海兵航海術教官兼生徒分隊
- 10月20日 - 海兵航海術教官兼生徒分隊長兼監事
- 明治25年(1892年)5月30日 - 「金剛」航海長
- 明治26年(1893年)11月24日 - 「松島」航海長
- 明治28年(1895年)8月27日 - 「松島」航海長兼分隊長
- 明治29年(1896年)4月20日 - 「松島」航海長
- 明治30年(1897年)
- 明治31年(1898年)
- 明治32年(1899年)
- 明治33年(1900年)5月19日 - 人事局局員
- 明治35年(1902年)
- 明治36年(1903年)
- 明治37年(1904年)
- 1月17日 - 海軍大佐・「高砂」艦長
- 12月23日 - 呉鎮守府附
- 明治38年(1905年)
- 明治39年(1906年)
- 8月30日 - 「吾妻」艦長
- 12月24日 - 江田島海軍兵学校教頭兼監事長
- 明治41年(1908年)5月15日 - 「石見」艦長
- 明治42年(1909年)
- 明治43年(1910年)
- 大正3年(1914年)12月1日 - 海軍中将・予備役[2]
- 大正7年(1918年)7月2日 - 後備役[3]
- 大正12年(1923年)
- 3月10日 - 辞東京商船学校長
- 7月 2日 - 退役
- 昭和17年(1942年)1月11日 - 歿 (79)。墓所は青山霊園。
栄典
編集- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正八位[4]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 従七位[5]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 正六位[6]
- 1909年(明治42年)3月1日 - 正五位[7]
- 勲章等
出典
編集- ^ 『歴史と名将』第十話
- ^ 『官報』第701号、大正3年12月2日。
- ^ 『官報』第1776号、大正7年7月4日。
- ^ 『官報』第931号「叙任」1886年8月7日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
- ^ 『官報』第4603号「敍任及辞令」1898年11月1日。
- ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」明治28年11月29日。
- ^ 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
- ^ 『官報』第4910号「叙任及辞令」1899年11月11日。
- ^ 『官報』第5835号・付録、「叙任及辞令」1902年12月13日。
- ^ 『官報』第1200号「叙任及辞令」1916年7月31日。