国分氏 (陸奥国)
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
国分氏(こくぶんうじ、こくぶんし)は、南北朝時代から戦国時代の末まで陸奥国の陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士(国衆)の一族である。戦国時代末に伊達氏から当主として国分盛重を迎えて伊達氏に臣従することとなったが、慶長元年(1596年)に伊達政宗の不興を買い、大名としての国分氏は滅んだ。
国分氏 | |
---|---|
九曜 | |
本姓 |
桓武平氏千葉氏流? 藤原北家秀郷流[1][2]長沼氏?/結城氏? |
家祖 | 国分胤通? |
種別 | 武家 |
出身地 | 下総国? |
主な根拠地 | 陸奥国宮城郡国分郷[1] |
著名な人物 |
国分宗政 国分(伊達)盛重 |
支流、分家 | 郷六氏、長命氏、八乙女氏 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要
編集江戸時代の系図によれば国分胤通が鎌倉時代に宮城郡国分荘を領したのが初めだが、藤原北家秀郷流長沼氏一族の僧が婿に入って創始したとの伝えもあり、正確なところは不明である。
南北朝時代に現れる国分氏は前述の藤原北家秀郷流で、国分寺郷を領し、戦国時代には近隣の土豪を従えて宮城郡南部から名取郡まで勢力を伸ばした。居城としては千代城(仙台城の前身)、小泉城(若林城の前身または近接地)、松森城が伝えられる。北で留守氏と対抗し、南で伊達氏に面して和戦があった。
戦国時代の終わりに伊達氏から当主として国分盛重を迎えて伊達氏に従属したが、家臣には盛重に反抗する者があった。1596年に政宗は盛重を追放し、国分の家臣団を伊達家の直属にした。盛重は佐竹氏に身を寄せ、子孫は秋田久保田藩で親類衆として幕末まで存続した。
伊達氏の家臣としては信濃国小県郡国分庄を発祥で藤原姓と称した国分氏があり、これは仙台藩に太刀上の家格で続いたが、本稿で述べる国分氏とは別である[3]。
出自をめぐる問題
編集国分胤通が陸奥国の国分荘を得たことを記すもっとも古い史料は元禄16年(1703年)成立の『伊達正統世次考』である[5]。陸奥国の国分氏に関する系図はこれと同じく、平氏の流れをくむ千葉介常胤の五男、国分胤通が奥州藤原氏討滅時の戦功により宮城郡国分荘を賜ったことを起源とするといい、『封内風土記』など地誌類の記述も同じである[6]。系図の一つ、佐久間義和が編集した「平姓国分系図」は、胤通が郷六に築城したと伝える。古内氏所蔵の「平姓国分系図」も胤通を祖とするが、二つの系図には胤通の次から戦国時代の宗政の前まで、一致する人名がない。また、下総国の国分氏に伝わる系図と比べても、『吾妻鏡』に出てくるような公知の箇所を除けば一致点がない。系譜の途中で血統の入れ替えがあったためではないかと推測する説もあるが[7]、諸系図の信頼性は低いと言わざるをえない[8]。
戦国時代に書かれた留守氏の重要史料『奥州余目記録』は、長沼氏の一族である僧が、有能なため婿養子になったのが国分氏だと述べている[9][10][11]。それによれば、小山氏、白河氏、登米氏、八幡氏、国分氏は一族だという[12][13]。小山氏・白河氏は藤原秀郷の子孫であって、平姓千葉氏系ではない。同時代史料として、室町時代の神社の棟札に国分氏の分かれである郷六氏が建立の記録を残しており、そこに現れる国分氏は藤原朝臣で長沼を称している[注釈 1]。
これと別に、佐久間「平姓国分系図」には長沼氏でなく結城氏が国分氏の養子に入って国分胤親になったとする箇所がある。「古内氏系図」にも「結城朝光十二世国分治郎宗弘」と見える。結城朝光は結城氏の祖である。江戸時代の地誌には、結城七郎が南北朝時代に小泉城[注釈 2]にいたとか、茂ヶ崎城[注釈 3]にいたとか、あるいは杭城を落としたとあり、結城氏の活動が知られる[14]。
以上をふまえて出される諸説には、まず鎌倉時代に国分胤通を祖とする国分氏が陸奥国にいたという説と、胤通との関係を否定して単に不明とする説がある[注釈 4]。ついで、南北朝時代以降の国分氏について、長沼氏系とする説と、結城氏系であるとする説がある[注釈 5]。平姓国分氏がそのまま続いたとする説はない。
南北朝時代
編集陸奥国の国分氏で同時代的史料に初めて現れる人物は南北朝時代の国分淡路守で、文和2年(1353年)8月29日付で奥州管領の斯波家兼の下僚が国分淡路守に命じた文書に出てくる。それは、石川兼光が新たに与えられた宮城郡南目村の支配が本主の沢田氏に妨害されているので、南目村を石川氏の代官に引き渡すよう命じるものであった[16]。国分氏がこの任務を与えられたのは、遠く離れた石川郡にいた石川氏と異なり、彼が南目村の近くにある国分寺郷に領地を持ち、そこに居館をおいていたからであろう。翌年12月20日付で斯波家兼は石川兼光に南目村を預け置いたと知らせており、国分氏の働きの成果と思われる[17]。
国分氏はこれ以前の観応元年(1350年)から翌2年(1351年)の岩切城合戦で吉良貞家に味方して、勝利した[20]。『奥州余目記録』は、敗れた畠山国氏についた留守殿が負け大将の味方で分限を下げたと述べるとともに[22]、別のところで、国分は勝ち大将の味方を致し威勢を増したと記す[24]。しかしその後、国分淡路守は国分寺郷の半分の地頭職を取り上げられ、その半分は、貞治2年(1363年)7月11日に相馬胤頼に与えられた[25]。国分氏はやがてその領地を取り戻した。
戦国時代
編集戦国時代に国分氏は近隣の小さな武士を服属させて、現在の仙台市都心部と周辺から、北は松森、山村(以上現在の仙台市泉区)、西は芋沢、上愛子、下愛子、熊ヶ根、作並(青葉区西部の旧宮城町地区)まで、宮城郡南部を支配した。その一族・家臣には、郷六氏(森田氏)、八乙女氏、北目氏、南目氏、朴沢氏、鶴谷氏、松森氏、秋保氏、粟野氏、古内氏、坂本氏、白石氏[注釈 6]、堀江氏があったという[27]。
この過程で、国分氏は宮城郡北部で勢力を伸ばしつつあった留守氏、南から勢力を伸ばしてきた奥羽最大勢力の伊達氏と衝突した。留守氏は、国分氏に奪われた領土の奪還のために大崎氏の力を借りるべく、大崎の当主持詮の弟直兼を招いて居城岩切城を明け渡した。直兼は留守氏のためには働かず、かえって国分氏の婿になって宮城郡から名取郡に及ぶ自己の勢力を築こうとした。不満を抱いた留守氏は持詮に訴えて直兼を追放した[31]。
伊達氏の記録によれば、国分盛行は伊達成宗と応仁元年(1467年)から文明4年(1472年)までの間に3度戦ってようやく和睦した[32]。永正3年(1506年)かそれより少し前には、小鶴で留守氏と国分氏の軍が合戦して、国分の勇者、長命別当の備えが打ち破られるということがあった[33]。天文5年(1536年)に伊達稙宗が大崎氏の内紛に介入したときには、国分宗綱が伊達氏に従って兵を出した[35]。この宗綱を国分宗政にあてる説がある。江戸時代の史書では、天文5年かその翌年に、伊達氏の武将懸田義宗が国分氏の援助に派遣されて千代城に入ったが、留守景宗によって連絡を遮断されて苦境に陥ったとされる。この頃、国分氏は松森城を居城にしていたらしい[36]。その後、今度は伊達氏で天文の乱(1542年 - 1548年)が起きると、国分宗綱は稙宗側につき、晴宗についた留守景政と天文11年(1542年)11月に松森で戦った[38]。ここまでの国分氏は、伊達氏の強い影響下にあったものの、家臣ではなかった。
国分盛重の入嗣と国分氏滅亡
編集天正5年(1577年)に、国分氏は伊達晴宗の子、輝宗の弟にあたる伊達政重を「代官」に迎えた[41]。国分盛氏に子がなかったため[43]とも、子の盛顕がいる時に乗り込んだとも[44]されるが、詳しい事情は不明である。後に政重は国分盛重と名乗り、国分氏家臣団を率いる伊達氏の武将となった。盛重を迎えたのは家臣の堀江掃部允であったが、天正15年(1587年)に堀江伊勢守(同一人物説もある)が2度にわたって反乱を起こした。最初は留守政景(留守氏に入嗣した盛重の実兄)の援助で鎮めたが、再度の反抗で伊達政宗は堀江の肩を持ち、盛重を討とうとした。盛重は謝罪して許されたが、政宗の居城である米沢に留められ、国分領に政宗の支配が直接及ぶようになった[45]。
天正18年(1590年)までに、留守政景も国分盛重も実質的に伊達政宗の武将になっており、その年に政宗が豊臣秀吉に降伏すると同時に主君を通じて間接的に秀吉に服属したはずであった。しかし秀吉は奥州仕置で留守氏だけを独立した大名とみなし、不服従を理由に取り潰した[46]。国分氏は伊達氏の家臣とみなされたため存続したとはいえるものの、慶長元年(1596年)に盛重が出奔して佐竹氏に身を寄せたため、大名としての国分氏は滅んだ。
国分の家臣は伊達氏直属になり、慶長5年(1600年)には国分衆として一部隊をなし、最上氏への援軍に加えられた[47]。彼らの一部は江戸時代にも国分氏に仕えていた頃の伝統を引き継ぎ、白山神社の祭礼に奉仕した[48]。旧臣の中には、百姓になって土着したもの[49]、町人になって新しく作られた仙台の城下町に移り住んだものもあった。
盛重の実の男子は3人あり[注釈 7]、うち2人は僧になってそれぞれ実永、覚順房宥実[注釈 8]と名乗った[50][注釈 9]。1人は伊達氏の家臣古内氏(元国分氏重臣。盛重の娘の嫁ぎ先)の養子に入り、古内重広[注釈 10]として近世初期の仙台藩政を支えた。
秋田伊達家
編集盛重とその養子からなる子孫は伊達氏を名乗って代々佐竹氏に仕え、秋田伊達家となった。なお、秋田武鑑では石高1,000石で後に527石、家格引渡二番坐。佐竹東家出身の養子宣宗以降は実質的に佐竹一族色が濃い。
出羽秋田藩(久保田藩)の家老や相手番を勤めたことや、菩提寺は白馬寺、家紋は九曜紋[注釈 11]、処宗の次男と敦重の次三男が国分氏を称したのが確認できる。また、「三百藩家臣人名事典」では国分姓を嫡子以外の男子に伝えたとある。
元和8年(1622年)の大眼宗の指導者厳中の捕縛に失敗して宣宗の代で一旦断絶となるが、息子の隆宗が家名再興を許されて再興。
秋田武鑑で確認できる歴代当主は以下の通り。尚、宣宗以降の歴代当主は佐竹氏宗家当主より偏諱の授与を受けており、< より右側、太斜字 の人物が1字を与えた人物である。原則的に通字は「宗」(むね)。
系譜
編集同時代的史・資料に現れる国分氏の人物
編集佐久間義和「平姓国分系図」に見える系統
編集兄弟、注記まで含めた詳しいものは、胤通から盛重の曾孫までに限り、(佐々木 1950, §.「中世の仙台地方」)に収録されている。
古内氏所蔵の「平姓国分系図」に見える系譜
編集系図
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 棟札そのものを調査した文は、(仙台市史編さん委員会 1995)では資料番号256(372頁)、284(381頁)、327(402頁)にある。神社がある芋沢村が『安永風土記書出』の一部として安永3年(1774年)7月に記した報告の控えは、『宮城町誌』史料編(改定版)202-203頁にある。これらを長沼氏・郷六氏・国分氏をつなげる根拠とするのは、(平 1989, pp. 16–17)、(仙台市史編さん委員会 2000, pp. 218–221)である。
- ^ 仙台市若林区南小泉。江戸時代初期の若林城の前身か、付近にあったと推測される。
- ^ 仙台市太白区の大年寺山にあった城。
- ^ 佐々木慶市(「中世の仙台地方」・『宮城県史』・「国分氏について」)と紫桃正隆(『みやぎの戦国時代』[15])が国分氏の宮城郡拝領を認める。(仙台市史編さん委員会 2000, p. [要ページ番号])は不明とする。
- ^ 佐々木慶市、2000年刊『仙台市史』等が長沼氏と推定するが、紫桃正隆は結城氏系の可能性を指摘する。平重道「藩政時代以前の宮城町」は両方から入った可能性を見る。
- ^ この白石氏は地名でいうと今の泉区根白石で、今の白石市にいた白石氏とは異なる。
- ^ このほか御落胤事件あり。 享保6年(1721年)、国分荘七北田の国分盛春(川村玄硯)という医者が、盛重と国分盛廉の娘の男児、盛廉の娘に仕えた女性が政宗の妾となって生まれた落胤双方の血を引く(つまり政宗の孫で盛重の曽孫)と名乗り出て証拠となる物を提示し、仙台藩に相応の扶持を求めた。 藩は十数年の詮議の末、これを偽者と結論づけ、磔刑、親族らも遠島に処した。(『伊達治家記録』)
- ^ 1655年、平塩熊野神社妙法堂を平塩寺と改めた際住職として迎えられたという。
- ^ なお、「秋田武鑑」では実永は奥州覚性院開基で盛重の弟ともある。
- ^ 通称は主膳。特に伊達忠宗に重用された。
- ^ 九曜は国分氏の家紋。 仙台藩祖政宗によって伊達氏でも裏紋のひとつに加えられたが、 古くから国分氏、相馬氏などを含め千葉氏の流れを汲むと伝わる家などの代表的な紋として知られていた。 なお、政宗はのちにこの紋を片倉景綱(小十郎)に与えている。
出典
編集- ^ a b 太田 1934, p. 2279.
- ^ 丹羽 1970, p. 143.
- ^ 佐々木 1950, p. 232, §.「中世の仙台地方」.
- ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 368.
- ^ 『伊達正統世次考』4応永9年条[4]。
- ^ 田辺 1975a, p. 7, §.巻之一府城「仙台城」.
- ^ 平 1989, pp. 15–16, §.「藩政時代以前の宮城町」.
- ^ 佐々木 1950, pp. 230–232, §.「中世の仙台地方」.
- ^ a b 仙台市史編纂委員会 1953, p. 77.
- ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 235.
- ^ 太田 1934, p. 2280.
- ^ 仙台市史編纂委員会 1953, p. 87.
- ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 248.
- ^ 紫桃 1993, pp. 258–260.
- ^ 紫桃 1993, p. [要ページ番号].
- ^ 『白川文書』。(宮城県 1987a, p. 203)(仙台市史編纂委員会 1953, p. 49)に「沙彌某等施行状」として、(仙台市史編さん委員会 1995, p. 356)に「奥州管領府奉行人連書奉書」として収録。
- ^ 『白川文書』。(宮城県 1987a, p. 350)(仙台市史編纂委員会 1953, p. 50)に「大崎家兼安堵状」、(仙台市史編さん委員会 1995, p. 357)に「斯波家兼預状」として収録。
- ^ a b 仙台市史編纂委員会 1953, p. 75.
- ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 233.
- ^ 『奥州余目記録』[18][19]。
- ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 232.
- ^ 『奥州余目記録』[18][21]。
- ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 239.
- ^ 『奥州余目記録』。[9][23]。
- ^ 『相馬文書』。(宮城県 1987a, p. 203)(仙台市史編纂委員会 1953, p. 53)に「大崎直持宛行状」として、(仙台市史編さん委員会 1995, p. 359)に「斯波直持宛行状」として収録。
- ^ 宮城県 1987a, p. 390.
- ^ 以上各氏は『国分文書』の「佐藤純粋書状」[26]平重道「藩政時代以前の宮城町」23頁。
- ^ 仙台市史編纂委員会 1953, p. 80.
- ^ 仙台市史編さん委員会 1995, pp. 239–240.
- ^ 仙台市史編さん委員会 2000, pp. 321–322.
- ^ 『奥州余目文書』[28][29][30]。
- ^ 宮城県 1987a, p. 389.
- ^ 『留守文書』。(宮城県 1987a, p. 388)、(仙台市史編さん委員会 1995, p. 375)に「留守景宗宛行状写」としてある。
- ^ 仙台市史編さん委員会 1995, p. 380.
- ^ 『伊達正統世次考』8下[34]。
- ^ 宮城県 1987a, p. [要ページ番号].
- ^ 仙台市史編さん委員会 2000, p. 363.
- ^ 『伊達正統世次考』[37]。
- ^ 宮城県 1987a, p. 394.
- ^ a b 仙台市史編さん委員会 1995, p. 419.
- ^ 『国分文書』[39][40]。
- ^ a b 宮城県 1987a, p. 393.
- ^ 『性山公治家記録』3天正5年[42][40]。
- ^ 佐久間「平姓国分系図」[42]。
- ^ 1995年刊『仙台市史』通史編2(古代中世)402-403頁[要文献特定詳細情報]。
- ^ 1995年刊『仙台市史』通史編2(古代中世)410頁[要文献特定詳細情報]。
- ^ 1995年刊『仙台市史』通史編2(古代中世)412頁[要文献特定詳細情報]、同通史編3(近世1)56-57頁。
- ^ 佐久間義和『奥羽観蹟聞老志』巻之六、『仙台叢書奥羽観蹟聞老志』上巻202頁。
- ^ 1995年刊『仙台市史』通史編2(古代中世)418-419頁[要文献特定詳細情報]。
- ^ 「秋田県公文書館蔵『国分文書』」所収「覚性院納所浄光房口上書」、「覚性院澄祐覚書」。
参考文献
編集- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 國分 コクブ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2278-2283頁。全国書誌番号:47004572 。
- 佐久間義和『奥羽観蹟聞老志』、享保4年(1719年)。鈴木省三・編『仙台叢書奥羽観蹟聞老志』上下巻、仙台叢書刊行会、1928年。
- 佐々木慶市「国分氏について」、『仙台市史のしおり』第3号(『仙台市史』資料編1の付録)、1995年。
- 佐々木慶市「中世の仙台地方」、仙台市史編纂委員会『仙台市史』第3巻(別篇1)、仙台市役所、1950年。
- 佐々木慶市 著「中世の仙台地方」、仙台市史編纂委員会 編『仙台市史』 第3巻 別篇 1、仙台市、1950年。全国書誌番号:51009412。
- 紫桃正隆『合戦と群雄 : みやぎの戦国時代』宝文堂、1993年11月。ISBN 4-8323-0062-8。
- 仙台市史編纂委員会編『仙台市史』 第8巻 (資料篇 第1)、仙台市、1953年。全国書誌番号:50006074。(『奥州余目記録』を収録)
- 仙台市史編さん委員会編『仙台市史』 資料編1(古代中世)、仙台市、1995年3月。全国書誌番号:95068210。(『奥州余目記録』を収録)
- 仙台市史編さん委員会編『仙台市史』 通史編 2 (古代中世)、仙台市、2000年3月。全国書誌番号:20100866。
- 仙台市史編さん委員会『仙台市史』通史編3(近世1)、仙台市、2001年。
- 仙台市「宮城町誌」改訂版編纂委員会『宮城町誌』本編(改訂版)、仙台市役所、1988年。初版は宮城町誌編纂委員会の編集、宮城県宮城町役場の発行により、1969年。
- 仙台市「宮城町誌」改定編纂委員会『宮城町誌』史料編(改定版)、仙台市役所、1989年。初版は宮城町誌編纂委員会の編集、宮城県宮城町役場の発行により、1967年。
- 仙台の歴史編集委員会・編(仙台市・企画)『仙台の歴史』、宝文堂、1989年。
- 平重道 著「藩政時代以前の宮城町 東北地方におけるある山村の歴史と生活」、仙台市「宮城町誌」改訂編纂委員会 編『宮城町誌』 史料編(改訂)、仙台市、1989年12月。 NCID BN03522154。
- 田辺希文『封内風土記』 第1、鈴木省三校正、平重道解題(復刻)、宝文堂出版販売〈仙臺叢書〉、1975年。 NCID BN11172717。(初版は1893年に仙台叢書出版協会が発行。)
- 「秋田県公文書館蔵『国分文書』」『市史せんだい』第5号、仙台市博物館、1995年、ISSN 09189033、NCID AN10447560。
- 丹羽基二『姓氏 : 姓氏研究の決定版』樋口清之監修、秋田書店、1970年7月。ISBN 4253002099。
- 宮城県 著、宮城県史編纂委員会編纂 編『宮城県史』 第1巻(古代・中世史)(復刻版)、ぎょうせい、1987年8月。 NCID BN01968323。
- 宮城県 著、宮城県史編纂委員会編纂 編『宮城県史』 第2巻(近世史)(復刻版)、ぎょうせい、1987年8月。 NCID BN01968323。
- 三浦賢童編「秋田武鑑 全」無明堂出版、昭和56年初版、原著は「久保田家中分限帳」の著者。
- 家臣人名事典編集会「三百藩家臣人名事典1」(新人物往来社、昭和62年12月20日)
関連項目
編集- 国分氏 (曖昧さ回避) - 同名の氏