1889年の相撲
1889年の相撲(1889ねんのすもう)は、1889年の相撲関係のできごとについて述べる。
できごと
編集- 改革に伴い江戸相撲会所が東京大角力協会に改称。
天覧相撲
編集本場所など
編集- 1月場所(東京相撲)[2]
- 興行場所:本所回向院
- 1月19日より晴天10日間興行
- 4月場所(京都大阪合併相撲)[1]
- 興行場所:新築地
- 晴天7日間興行
- 愛知相撲、紀州相撲も参加。5日目で打ち切り。
- 5月場所(東京相撲)[3]
- 興行場所:本所回向院
- 5月12日より晴天10日間興行
- 5月場所(京都大阪合併相撲)[1]
- 興行場所:新京極坂井座
- 5月26日より5日間興行
- 愛知相撲も参加。
- 10月場所(東京大阪合併相撲)[4]
- 興行場所:難波新地新金比羅神社
- 晴天10日間興行
- 11月場所(東京大阪合併相撲)[5]
- 興行場所:天満天神
- 11月1日より晴天7日間興行
- 11月場所(三都合併相撲)[6]
- 興行場所:長堀土佐稲荷神社
- 晴天7日間興行
- 大阪相撲は広角組の参加。
- 11月場所(東京京都合併相撲)[7]
- 興行場所:四条河原
- 晴天7日間興行
その他相撲披露
編集誕生
編集- 2月4日 - 朝緑冨五郎(最高位:前頭13枚目、所属:立田川部屋→出羽ノ海部屋、+ 1947年【昭和22年】)[9]
- 2月5日 - 大戸平吉太郎(最高位:関脇、所属:尾車部屋→峰崎部屋、+ 1963年【昭和38年】)[10]
- 2月20日 - 浦ノ濱栄治郎(最高位:関脇、所属:浦風部屋、+ 1945年【昭和20年】)[11]
- 4月1日 - 21代木村庄之助(元・立行司、所属:伊勢ノ海部屋→井筒部屋→双葉山道場→時津風部屋、+ 1970年【昭和45年】)[12]
- 5月12日 - 九州山十郎(最高位:大関、所属:出羽ノ海部屋→入間川部屋、+ 1927年【昭和2年】)[13]
- 5月15日 - 釋迦ヶ嶽庄太郎(最高位:前頭3枚目、所属:山科部屋→出羽ノ海部屋、+ 1966年【昭和41年】)[14]
- 6月18日 - 朝日嶽留藏(最高位:大関(大阪相撲)、所属:三保ヶ関部屋、+ 1974年【昭和49年】)
- 7月25日 - 緋縅祐光(最高位:前頭17枚目、所属:二十山部屋、+ 1928年【昭和3年】)[15]
- 10月9日 - 加勝山鹿治(最高位:前頭14枚目(現役没)、所属:友綱部屋、+ 1914年【大正3年】)[16]
- 10月13日 - 宮城山正見(最高位:小結、所属:井筒部屋、+ 1961年【昭和36年】)[15]
- 11月7日 - 稲葉嶽光之助(最高位:前頭14枚目、所属:濱風部屋、+ 1978年【昭和53年】)[17]
死去
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e 酒井, p. 101.
- ^ 酒井, pp. 96–97.
- ^ 酒井, pp. 99–100.
- ^ 酒井, pp. 101–102.
- ^ 酒井, p. 102.
- ^ 酒井, pp. 102–103.
- ^ 酒井, p. 103.
- ^ 酒井, pp. 99.
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 37頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 27頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 30頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 359頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 36頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 34頁
- ^ a b 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 38頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 32頁
- ^ 京須利敏・水野尚文『令和三年版 大相撲力士名鑑』(共同通信社) 39頁
参考文献
編集- 酒井忠正『日本相撲史 中巻』ベースボール・マガジン社、1964年6月1日。