Wikipedia:執筆コンテスト/第五回執筆コンテスト/コメント

第五回執筆コンテスト
第五回執筆コンテスト
第五回執筆コンテスト
第五回執筆コンテスト
第五回執筆コンテスト

ここは、第五回執筆コンテストにエントリーされた記事について、審査員、執筆者、コメンテーターが自由闊達に意見を交換する空間です。5月7日から5月17日(日本時間)の間、積極的な意見交換を期待したいと思います。なお、本コンテストにおけるコメント付与期間が過ぎた以降についても、コメントを思い立ちましたら随時、遠慮なく、コメントを追加してくださっても結構です。そのほうが記事の充実につながると思います。サロン的な場所として、ご利用ください。

分野A 編集

境根原合戦 編集

境根原合戦ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)関東地方のこの合戦の意義について、具体的に教えてください。単純に鎌倉時代以来の名家である千葉氏が滅亡したということだけになるのでしょうか?--Tantal 2009年5月7日 (木) 11:39 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)「参考文献」節および脚注での書誌情報の記載方法をウィキペディアスタンダードに近づけると良いでしょう。新規記事の場合は特に、発展性や加筆可能性・検証可能性の点からおすすめします。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 13:58 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)以下は、自分が書くならどうするか、という観点からの率直な指摘です。同じ分野のエントリ記事にコメントするのは初めてで、中立性を欠くおそれもあると思いますが、そこのところはお許し願います。まず冒頭文ですが、ここでは戦いがどのように始まったかではなく、この戦いが享徳の乱の中の一戦であることの位置づけ、そして誰と誰が戦い、どのように決着したか、が必要なのではないかと思います。内容については、背景が複雑なのでやむをえない感じもしますが、前段の「長尾景春の乱」については別項目もあることから、なるべく簡明にしたいところです。さらにこの節の終わりで「世にいう『境根原合戦』が始まる。」と読者に気を持たせておきながら、「本戦」の節の記述がいかにも乏しく、拍子抜けです。ここは記事の中心となるところなので、資料が限られるかとは思いますが、バランス上の配慮からも分量が必要だと思います。戦いそのものの経過を書くことが困難であれば、この戦いの歴史的意義、あるいは戦略的に太田道灌など主要人物の目的がどの程度達成され、どういう結果につながったのか、というようなことについて整理・加筆をしていただければ、と思います。これは「その後」の節にもある程度述べてあるのですが、ここでは戦いに敗れた千葉孝胤の方が有利に運んだような印象があり、同じ事実経過を扱いながら関連する長尾景春の乱千葉孝胤とは若干書きぶりが異なるのが気になりました。--みっち 2009年5月9日 (土) 04:21 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)使える資料が少なそうな事件なのに、よく調べていると思います。(1)主要な城については「亥鼻城(現千葉市)」のように現在の市町村を書いた方が分かりやすいように思います。市町村なら関東の人なら大体の場所が分かると思いますので。(2)千葉孝胤の登場が唐突なように思います。胤直、馬加、原、足利成氏あたりとの関係を背景として簡単に書いておいて欲しいと思います。また、本拠地を書いておいた方がよいように思います。また、千葉孝胤の記事を見ると、彼の父の代から千葉氏当主を僭称したように書かれていますが、この記事の太田道灌の手紙には「千葉介孝胤」と書かれており、孝胤は正式な千葉氏当主扱いのようでもあります。この戦いのころの扇谷上杉家の視点での千葉孝胤の地位、千葉自胤の地位はどのようなものだったか分かりますでしょうか?--Freetrashbox 2009年5月14日 (木) 12:03 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)既に指摘があるようですが、長尾景春の乱を含めて、この合戦の歴史の大きな流れの中での位置づけが冒頭にあれば、だいぶわかりやすくなると思います。また、酒井根の「合戦場」の現在の風景の写真や、孝胤、足利成氏らの肖像、近高瀬民部少輔宛書状など、画像が見つかると、イメージしやすくなるところもありそうです。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)編集お疲れ様です。既にコメントされていますように、ここに到るまでの背景にもう少し解説が欲しい様に思います。また、途中経過もどのように進んだのか、文中に「戦争の大きさを伝える」の表現がありますことから、ある程度の広がり・期間があったやに推測しますが、その経過等についてももう少し詳細があれば尚興味を持って読めたかと存じます。東 遥 2009年5月24日 (日) 03:00 (UTC)[返信]

2009年千葉県知事選挙 編集

2009年千葉県知事選挙ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)最近の出来事を扱っているせいでもあるのでしょうが、出典がインターネットニュースサイトや新聞記事情報に頼っている構造は、のちのちの記事メンテナンスの負担増や、情報ソースの喪失可能性から検証可能性の低下を考慮しなければならないという問題を孕んでいるでしょう。したがって情報ソースのレベルとしてはより安定性が高い雑誌記事を用いるなど工夫が必要ではないでしょうか。現状、記事の賞味期限の短さを感じます。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:03 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)インターネットニュースサイトや新聞記事情報に依拠しているからと言って問題があるかどうかというKanbunさんの指摘には疑問符が付きます。たとえばWikipedia:秀逸な記事の選考/10.8決戦 20090409 の記事の場合、当時の巨人―中日戦の試合について、新聞縮刷版(日刊紙のみならずスポーツ紙まで含めて)を持ってきて検証可能性を満たそうとしていますので、××新聞の2009年MM月DD日に記載されていた内容とわかれば、あとは縮刷版を追えばいいのでそこまで問題視する必要性はないです。それよりもこの記事で不足しているのは
  1. 争点となった内容の詳細:千葉県民でない私でもこの時期には、銚子市立病院の閉鎖の問題は聞きましたし、前任者である堂本暁子県政の積み残した問題の何を争点に各候補者が戦ったのかは、逆に情報が新鮮なので追えるはずです。
  2. 千葉県知事選の後に、森田健作新知事が自民党の支持を受けていたので、日本共産党が森田おろしをやっています([1])が、それについては書いたほうがいいのではないでしょうか?なにぶん情報がHOTすぎるためにもう少し時間をおいたほうがいいような気がします。--Wushi 2009年5月8日 (金) 15:04 (UTC)[返信]
  • (返答)名指しで指摘を受けたので一応返答しますが、私の意図はあくまでも記事メンテナンスなどの問題を考慮していっているのです。リンク先が消滅しやすい形での出典の提示は好ましいとは思えないと私は思います。実際新聞記事を出典にする記事のリンク切れの多さは一つの問題だと私は思うのです。私の評価の観点があくまでそこにあると述べているのであって、記事一般の問題として拡大しているのではありません。私にはWushiさんのおっしゃっていることはわかりますが、私の評価基準は違うのです。それが私の審査員としてのポリシーです。--Kanbun 2009年5月8日 (金) 15:34 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)確かにニュースサイトより紙媒体の参考資料があった方がリンク切れの可能性の点から望ましいと考えます。全ての項目に対してそれを望むものではありませんが、本記事の場合最近の日本国内の出来事でもあるだけに紙媒体資料を探すのは容易だったのではないかという懸念はあります。--Himetv 2009年5月13日 (水) 01:37 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)話題性に富む記事だと思いましたので、大変興味深く拝見させていただきました。表組みなどの表現技法も参考になると思います。ただ選挙の争点が未完成に終わったのと、各候補がどのような主張をしたのかがあればよかったと思います。千葉県に住んでない私としては、そういうのがあれば、もっと解り良い記事になったかと思います。--御門桜 2009年5月13日 (水) 17:33 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)中立的に事実を記してあり、偏った編集やあやふやな情報が抑制されたということも含めて、いい土台となる記事だと思います。他方、百科事典というよりは、事実の報道という風にも見えてしまいます。選挙前、選挙期間など、背景や主張の違いを加える場合、より信頼できる資料を選び、その記述の中から、事実を抜き出すところまではさほど難しくないとしても、媒体や個人の評価・論評を含めようとすると、中立性だけではなく、それらを丁寧に切り分ける表現を選ぶところで、扱いにくいところが出てくるかもしれません。今後いろいろ書く事が増えてややこしくなりそうですが、あまり無理せず、冷静な加筆に期待します。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)現在進行形、或いは新たな事象を直後に纏めた、言って見ればホットな話題を捉えて記事にするという点において、挑戦された点を高く評価したいと存じます。また、記述において根拠を丁寧に報道等の資料に求めた点も評価したいと存じます。この様な事象は、後から振り返っても資料が追えなくなったりで、当時どの様な雰囲気だったのか、当事者はどの様な主張だったのか、また報道はどう捉えて伝えたのか、という点を後から記述するのは困難ですので、その前後の瞬間を捉えるという点は重要だと存じます。一方で、その後どの様に事態が推移したのか、また、振り返ってあの事象はなんだったのか、という事はこれから論評が出てくるでしょうし、それを順次付け足していけば、記事としては充実したものになると期待します。東 遥 2009年5月24日 (日) 03:00 (UTC)[返信]

富山の売薬 編集

富山の売薬ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)「富山の売薬(とやまのばいやく)では、古くから富山県にあった医薬品の配置販売業について説明する。」という導入は少し不親切な気がします。もう少し記事内容を踏まえた工夫のある導入を設け、読者を引き付けてみてはどうでしょう?また書誌情報も、せっかくの新規記事なのですから、現状のウィキペディアの水準に合わせてみるのがよいのではないでしょうか。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:07 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)売薬と風俗を期待していただけに、時間切れで十分な執筆がなされなかったのは残念です。今後の構成の展開だけでも教えてください。--Tantal 2009年5月10日 (日) 12:34 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)未曾有の不況でノルマ達成のため休日出勤の連続で、GWは執筆する気力はありませんでした。今回も皆さんを裏切ってしまい申し訳ないです。いちよ、目指していた構想は次のようです。--ネプチューン 2009年5月10日 (日) 15:45 (UTC)[返信]
  1. 配置販売の部分の続きを書く。
  2. そのあとに風俗の部分を紙風船の写真付で説明する。
  3. 最近、「薬事法」が改正されて配置販売をするためには免許が必要になったことを書く。
  4. いけるところまで読みやすい範囲で加筆する。
  • (ライバルコメント)個人的に興味深い項目で、楽しみにしていただけに、記述が十分でないのは残念です。すでに指摘がありますが、風俗・文化的な側面からの加筆をとくに期待します。内容的には、「創業と発達」の節で、反魂丹の開発過程が当該項目と少々異なった書きぶりになっていることが気になりました。配置販売の現状について、富士薬品のような大手もあるようで、中小を含めた言及がほしいと思います。「主な合薬」についても、どのような薬なのか、それぞれ説明があると面白いと思います。ちなみに、昔仕事で富山にお邪魔したときに具合が悪くなり、旅先でなにかあったときにと一箱いただいた「熊膽圓」(熊の胆でしょうか)をいまだに持っていますが、これは主な合薬に入らないのかなあ。--みっち 2009年5月11日 (月) 10:09 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)私も医薬関連の記事をよく執筆するため興味深く拝見しました。将来的に本記事の編集に参画させていただくこともあろうかと思いますので、ひとつお願いがございます。執筆途中とはいえ一定の分量となっており、どの節(あるいはどの文章)が2つの参考文献のどちらに基づいて記述されたのか分かるようにしていただけると、のちに編集に参画した者の助けとなりますので是非ご検討ください。--Tatsundo h 2009年5月12日 (火) 17:23 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)中途とはいえ、概観は示されているので、まずはじゅうぶんと思いました。おもしろそうな論文はけっこうありそうなので[2]、これは、きちんと書こうとすればするほど、のめりこめる/難しくなる項目だと思います。「加筆」のほうで、是非。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)構成としては、「商法」の「先用後利」の項目をもっと頭、なんとなれば最初に持ってきても良かったのではないかと存じます。これが、本記事のキーセンテンスではなかろうか、富山の売薬の商法上の特徴だと存じます。引き続き、これが成立した過程を記述するうえで歴史の項目が続くとスムーズでしょう。内容というか、疑問点としては、
  1. 富山の売薬で扱われるのは、市販の、或いは薬局に流通する薬品と同じなのか、それとも別の系列の製品なのか。
  2. 使われずに回収された薬品はどうなるのか、ぃぇ、これが凄く気になっていて(笑)

というあたりが個人的には謎なもので、これも是非追記して欲しいです。東 遥 2009年5月24日 (日) 03:00 (UTC)[返信]

日韓通信業務合同 編集

日韓通信業務合同ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (コメンテーター)歴史的な事象について背景を含め位置付けが分かり、出典も(十分とまではいえませんが)脚注で一定程度示されており、努力された記事だと思います。切手の画像が取り入れられている点も良いです。気になった点として、(1)定義として「~取極書と呼称する協定である」とありますが、実際には、取極書に基づいて行われた業務委託(接収)そのものを指すと理解するのがふさわしいのではと思いました。また、5W1H、特に(2)時系列と(3)主語の明示に配慮すればより読みやすくなる(それらが欠けているために読みにくくなってしまっている)点があると思います。(2)に関して、「背景」の項、「朝鮮の郵便の歴史」が1884年からの出来事であるのに対し、「在朝鮮日本郵便局」は1876年からの出来事であり、時系列が逆転しているので混乱を招きやすい。年がなく月日だけのところがあるが、どこまで遡れば年が出てくるか分かりにくいので、適当な箇所に年を入れてほしい。元号表示には西暦を併記してほしい。(3)に関して、例えば「日本による郵便事業の接収」の項、「韓国国内の反対を押し切った」、「その理由として……と主張した」、「そのため日韓両国政府の間で……調印させた」の主語はそれぞれ何でしょうか。その他の項にも主語・述語の対応を再検討すべき文章が多いです。(4)「日韓通信業務合同紀念切手」の項、「日本の逓信省は7月1日の接収完了を記念して」とありますが、日本政府側の用語としては「接収」ではなかったと思われるので、「業務合同」ないし「委託」といった言葉を使うべきでは。(5)その他細かい点として、「日韓通信事業業務合同」と「日韓通信合同」が混在している、記念切手について「異例な点が数多くあった」とあるが結局異例な点とは何と何かが分かりにくい、日朝修好条規などにはリンクが欲しい、脚注中の参考文献「印刷局長年報書」に書誌情報がない、脚注の文末に句点が必要、『~」という括弧の不対応がある、といった点があります。推敲の上より良い記事に仕上げていただければと思います。--ゴーヤーズ 2009年5月7日 (木) 02:37 (UTC)--誤字修正 ゴーヤーズ 2009年5月7日 (木) 02:42 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)冒頭に概要をまとめるとよいのではないでしょうか。現状では目次構造からも趣旨が捉えづらく、記事内容を把握するのにやや困難を感じます。大方の読者は取っつきづらさを感じるのではないでしょうか。また書誌情報の提示の仕方ですが、このテンプレートを使用してみてはいかがでしょうか。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:14 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)文章は誰にでも分かりやすく書いてあるため、問題ないと思いますが、気になった点といえば、備考の項目。日本の郵便史において、傍流であった日韓通信業務合同の記述が1行のみであった点についての批判なり、論調が紹介してあると尚いいかと思います。--Tantal 2009年5月10日 (日) 01:19 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)ゴーヤーズさんの(1)でコメントされているように、「…合同」は通常の日本語のニュアンスどおりと受け取ることもできます、現在の中国語では「合同」を直訳すると「契約(書)」とされることが多いことから、中華文化の影響が大きい両国間の協定が「…合同」と呼称された可能性はあると思います。本記事の記事名と前文という重要な箇所だと思いますが、それに関連する節(日韓通信業務合同#日韓通信合同)内の「…その理由として『韓国の通信機関を整備し日本国の通信機関と合同連絡して両国共通の一組織にすれば、韓国の行政上経済上得策である』と主張した。…『…取極書』を調印させた。」との文章の前後の出典が判然としない状況であるため、この点の充実が望まれると考えます。--Tatsundo h 2009年5月12日 (火) 17:52 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)背景から触れており事象について判りやすいと存じます。冒頭の定義分については、「正式には~協定である。」と「1905年に~委託させたもので、」を入れ替えたうえで、「~委託する事を定めた協定で、正式には~」とすると読みやすいかなと存じます。記述・表記について細かいところで意味を取り難いところがありますが、例えば「日韓通信合同」-「日本による郵便事業の接収」の中で、「韓国国内の反対を押し切った。」と唐突な表記が出てきますが、この主語が何かが良く判りません。全般に誰が何をした、という部分が読み取りにくいのと、前後の繋がりが判りにくい個所がありますが、そのあたりをブラッシュアップすると更に読みやすくなるでしょう。東 遥 2009年5月24日 (日) 03:00 (UTC)[返信]

満州国の郵便史 編集

満州国の郵便史ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)日韓通信業務合同記事について述べたことと同じことを繰り返しますが、やはり読者を意識して導入を設けると記事の魅力が増すのではないでしょうか。歴史記事なので目次構造は時代順に変化を追っているのではないかと思うのですが、現状では満州国の郵便史のアウトラインが十分示されているとは言えないでしょう。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:20 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)全体として、まだ、各種文献を当たって、内容を咀嚼・表現するにはまだ不十分だと感じました。
  1. 背景の節:冒頭の二文「従来、東三省の郵便事業は中華郵政が行っていた。この中華郵政は中華民国の国家機関であったが、首脳陣が欧州出身者であることもあり、独立性を維持していた。」とありますが、中華郵政のリンクは中華郵政 (大陸時期)に変更しなくてはいけません。また、中華郵政_(大陸時期)の首脳陣が欧州出身者と書いてあるのも、本文を読む限り突飛です。中華郵政の首脳陣のだれそれが欧州に留学したとか、首脳陣が本当に欧州出身者なのか、具体的な固有名詞を挙げないといけないでしょう。後者ならば、明治時代の日本のようにお抱え外国人が、組織のトップに立っていたのでしょうが……。
  2. 満州国郵政の成立の節:満州国における組織としての位置づけはどうだったのでしょうか?もしかすると、満鉄満鉄調査部満映のような日本史に普通に出てくる組織と同様に半官半民の特殊会社だったのかもしれませんし、大日本帝国逓信省のような位置づけかもしれません。実態はどうだったのでしょうか?
  3. 満日郵便条約、満州国の記念切手の節:未完成なので、今後の資料渉猟に期待します。--Wushi 2009年5月8日 (金) 11:52 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)エピソードで綴られる郵便事業史として、楽しく読ませていただきました。全体に郵便史というより郵便切手史になっているきらいはありますが、今後記事内容の拡充でそうした部分は解決できると思います。--Himetv 2009年5月10日 (日) 12:13 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)今後の発展が期待できる記事だと思いますが、質問を複数。
    1. 「背景」節が節スタブになっているにはそれなりの理由があるかと思いますが、今後、どういう展開を構想としてお持ちか教えてください。
    2. 「満州国郵政の成立」節に関して、満州国を郵便ネットワークで結んだ場合の当時の役職員数と人事のトップを教えてください。
    3. 「満日郵便条約」とはどういった内容だったのか、簡単に教えてください。
  • 私からは以上です。--Tantal 2009年5月10日 (日) 12:48 (UTC)[返信]
  • (コメンテーター)最近切手に対して興味が沸いていたこともあり、楽しく読ませていただきました^^ 以下に気になった点を述べます。
  1. Himetvさんも指摘しておりますが、内容がやや切手に偏っていた点は、今後の発展課題だと思います。書きかけの節が多いのも残念です。
  2. 「背景」節は「従来、」と始まっていますが、これはやや不親切であると感じました。「いつ」かをはっきり書いた方がよいと思います。
  3. 「満華通郵切手」節の「また発行された切手の中には「満州帝国郵政」の文字入りのすかしが漉き込まれた用紙に印刷されているものもあり、これらの取決めは中国側の面子のためといえる。」という文章は前後関係がおかしいと思います。『これらの取り決め』の内容は同節内で少し前に出てくる「満華通郵協定で満州国からの郵便物に貼られる切手には「満州国」の国名表記を用いない、消印に満州国独自の年号は使用しない、また消印の地名には「新京」といった満州国独自のものは使用しないという取決めがあった。」のことであると思いますが、『満洲国の存在はしぶしぶ認めざるを得ないが、中国の面子として、満州らしさのある切手は認めない』ということであるならば文章を修正する必要があるのではないでしょうか?
  4. 脚注において、1番の注から「内藤 前掲書67頁」という書き方をされていますが、参考文献が記事の最後に挙げてあるので単に「前掲書」としたのではどの本を指すのか不明確です。
偉そうに並べ立ててしまって恐縮ですが、以上です。--Risenjudas 2009年5月10日 (日) 15:52 (UTC)[返信]
  • (筆者コメント)まだ途中の段階で時間切れになり、小生の不甲斐なさによる結果であり残念に思います。歴史的部分をもっと加えて切手はあくまで副次的なものにする構想だったのですが、切手の部分だけで終わっています。構想としては中国の郵政事業は外国人が握っていたこと、そして日本も南満州鉄道附属地で郵政事業を行っていたことを最初に書いて、満州国郵政に移行する際のエピソードと、「満日郵便条約」(この内容では、満州国は日本の保護国にすぎないという指摘もあります)などを記述する予定でした。執筆が停滞していた理由ですが、言い訳になりますが、満州国の項目と同じ問題があるため、いかにバランスを取った記述をするかに悩んでいました。可能な限り速い時期に完成させたいと思っております。ここで皆様に指摘された点を踏まえて改善していきます。--Carpkazu 2009年5月11日 (月) 15:05 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)上とまとめて。「日韓通信業務合同」のほうは、この協定による郵便事業委託は、いつまで続いたということになっているのか、というのがわかりにくいかと思いました。どこかの段階で、別のとりきめがなされ、異なる制度となったのか、終戦あたりまで続いたのか。「満州国の…」は、まだこれから、かな。「満州国最期の切手」は「最後」でしょう。これまでのエントリでは全体のバランスのよさが印象的だったのですが、今回は、全体のバランスに欠けるところはあるようです。近現代の郵便分野は、予想以上に研究が進んでいるようで南方を対象としたごっつい本もあるのですね。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)勃興から終焉まで全般に見渡した構成であり、今後充実した記事が楽しみです。全般に、やはり主語を欠いて、だれが何をしたのか不明で読み取り難いきらいがございますので、ブラッシュアップしていただくと幸いです。東 遥 2009年5月24日 (日) 03:00 (UTC)[返信]

香川県立亀鶴公園 編集

香川県立亀鶴公園ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)「出典・参考文献」節の使い方は個人的にややウィキペディアスタンダードからの逸脱を感じます。出典情報と書誌情報が混在していることと、節名と異なり注釈も含まれているような。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:24 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)ご指摘いただいた後に思ったのですが、確かにおっしゃられるように、出典と参考文献を分けるべきでした。以後気をつけたいと思います。--御門桜 2009年5月13日 (水) 17:40 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)内容に関するお話です。公園を見ると、公園の分類は色々あるようです。一読すると、本項目の公園がどう分類されるのかな、と思います。--O fudo 2009年5月9日 (土) 12:57 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)O fudoさんがおっしゃっている通り、香川県における県立公園がいくつかあって、その中の1つの記事だと思うのですが、そういった視点は無いものでしょうか。内容自体にはこの公園が具体的に何かが分かるので問題ないのですが。--Tantal 2009年5月10日 (日) 01:22 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)ご指摘の通り、香川県立公園と指定されているものが栗林公園をはじめ6カ所あり、そのうち特別名勝国立公園に指定されている物もありますが、本記事については単なる香川県立公園です。このあたり記載漏れです。今検索してみましたら、Category:香川県の公園というのがありました。チェックミスです。カテゴリ付けをしっかりしておくべきでした。あと、地図が間に合わなかったのが最大の問題でした。地図は近いうちに用意できると思いますので、掲載したいと考えております。--御門桜 2009年5月13日 (水) 09:45 (UTC)[返信]
  • (コメンテーター)この公園については記事を読むまで何も知りませんでしたが、歴史ある名園のようで、「さくら橋」の写真もきれいに撮れていて和風な雰囲気が素敵だと思いました。以下に「歴史」の節から気になった点を述べます。
  1. 1947年に「荒廃した名園を復興させる議」が起こされたとありますが、順に上から読んでいた自分は「きちんと管理されていた公園」だと思っていたため、突如現れたこの提案にかなり面喰いました。1932年と1947年の間に、この公園にいったい何が起こったのでしょうか?戦時中に、公園が荒廃するほどの被害を被ったのでしょうか?
  2. 「1959年4月15日 - 第6会花火大会が開催されたが、翌年よりやむなく中止された。」とありますが、どうしてそれ以降「やむなく」中止になったか記述がj欲しいです。
  3. 「1980年4月 - 花鎮祭(はなしずめのまつり)が行われる。以後毎年4月上旬に行われている。」とありますが、この「花鎮祭」とは一体どのようなお祭りなのでしょうか?公園で開催されるお祭りのようなので、もっと記事の中に記述すると充実すると思います。
以上です。--Risenjudas 2009年5月10日 (日) 16:12 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)写真の件につきましてお褒めいただきましてありがとうございます。写真については何回か取り直しを行いました。
  1. 1932~1947年ですが、手元の参考文献(長尾町史)を今検証しましたら、文献にも記載されていませんでした。今回は間に合いませんが、独自研究にならない範囲で図書館等で問い合わせて確認したいと思います。
  2. 花火大会の件ですが、これも長尾町史には、なぜ中止になったのか全く書かれておりません。翌年より桜などの補植が行われましたので、それで中止になった可能性はありますが、それを裏付ける資料がありませんでした。花火大会は地元の方でも覚えている方がいらっしゃるようなので、さぞ盛大だったと思われますが、独自研究を載せるわけにも行きませんので執筆はあきらめました。今後継続して加筆させていただきたいと思います。
  3. 「花鎮祭」ですが、桜の花が散る頃に流行する病を鎮めるために行われる祭りだそうです。これについては神社前に案内があったので、掲載すれば良かったかと思いました。調べてきて加筆したいと思います。具体的には、平安装束を着た「さくら娘」や甲冑の少年等大勢が桜並木下を歩き、巫女舞が行われる物であります。今年も写真等撮影のチャンスはあったのですが、個人的な事情で祭りを見に行けませんでした。来年写真を撮り掲載したく思います。
以上です。--御門桜 2009年5月13日 (水) 09:45 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)いい画像があるので、公園内の見所についてそれぞれ説明があると、適切な配置もできてわかりやすくなるように思いました。これを含めて、概要、歴史、名所案内、アクセスという構成にすると読みやすいかもしれません。概要では、広さ以外に年間利用者数などのデータがあるとよいと思います。歴史の節では、細川頼之による大改修の目的が知りたいところです。これ以外に、江戸時代までの由来については競馬場だったとしか書かれておらず、「名勝」とされるにしては、いまひとつピンときません。逆に戦後は些末と思われる事柄もあり、もう少し絞っていいのではないかと感じました。なお、記事内容と関係ありませんが、「工事中」のテンプレートが貼られており、コンテスト期間中の編集を控えてほしい、という趣旨が気になりました。コンテスト参加を理由に他者の編集を牽制・抑制することは、コンテストだけでなくプロジェクトの目的にむしろそぐわないのではないでしょうか。--みっち 2009年5月11日 (月) 10:09 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)画像につきましてお褒めいただきましてありがとうございます。やはり地図が間に合わなかったのが残念で悔やまれる結果となりました。SVGの作り方を読んで挫折していました。よく考えればgifイメージでもよかったかなとかも思っています。地図は近いうちに用意できると思いますので、掲載したいと考えております。またご指摘の通り構成ににつきましても修正の余地がありますので、これからも修正致したく考えております。年間利用者数等のデータにつきましては盲点でした。もしそのようなデータがあるとするならば、私の考えていた文献よりももっと違う角度から文献を探す事になるか思います。暇なときにでも香川県立図書館・文書館で文献を調べて加筆できればと思います。「細川頼之による大改修の目的」につきましても加筆したいと思います。歴史につきましては「元禄時代に住民が一部木を植えた」旨が記載漏れでした。最後に「工事中」テンプレートは議論中に私が貼ってしまい、議論しているページをチェックし忘れたのが原因です。誠に申し訳ございませんでした。--御門桜 2009年5月13日 (水) 09:45 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)画像の良く生かされた記事をありがとうございました。なお、実施要綱に「なお、エントリー期間中に他の人が加筆・修正することもありますが、このコンテストにエントリーしていることを理由にしてその加筆・修正を拒絶しないでください」という一節があるにもかかわらず、コンテスト参加を理由に工事中テンプレートを使用されていたことは非常に残念でした。--Himetv 2009年5月12日 (火) 20:21 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)画像につきましてお褒めいただきましてありがとうございます。本記事を書く前に何が必要か検討した結果、「参考文献」と「写真」(間に合いませんでしたが「地図」も)と考えておりましたので、結局公園に何度も足を運ぶ結果となりましたが、貢献できましたこと大変うれしく思います。また、「工事中」テンプレートの件でございますが、議論中に私が貼ってしまい、議論しているページをチェックし忘れたのが原因です。決して他の方の加筆・修正を拒否していたわけではございませんが、結果的にこのような事態となってしまい、誠に申し訳ございませんでした。以後議論ページのほうも確実にチェックして参りたいと思います。--御門桜 2009年5月13日 (水) 09:45 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)一公園としての記事ならば、簡潔にまとまっているのかなという気もしますが、記事としては上記の方が触れられているように、加筆の余地がまだあるかと思います。歴史の節が、年表だけになっているのがもったいない気がします。年表はあくまで記事を読む上での補完であり、百科事典である以上、文章で読み手を引っ張る必要性があるかと思います。歴史の節で書けるのではないかと思ったのは、以下の通りです。
  1. 細川頼之~幕末までの空白(競馬場ですか):500年の空白が読者に「?」を抱かせます。香川県の歴史については、戦国時代~安土桃山時代には三好政権長宗我部元親、生駒氏と為政者が代わり、江戸時代になって、徳川頼房の子供の松平頼重高松藩に入り、松平氏の治世下に入ったという通り一辺倒の知識しかありませんが、そこにヒントがあるのではと思います。特に、現在まで公園になっているならば、高松藩治世下で何らかのアクションがあったのかもしれません(あくまで想像の域を超えませんが)。そのあたりを文章化するとよいと思います。
  2. 1913年に「讃岐十景」とありますが、ほかの9つは何でしょうか?また、「讃岐十景」に選ばれた理由がわかればほしいところですし、そのようなものを選ぼうとした背景なども書けるといいかもしれません。
  3. 1947年11月、「……県議会の審議は進展しなかった」とはありますが、その理由はなぜでしょうか?戦後間もなかったのでお金がなかったからでしょうか?
  4. 他の方々も言われているように、公園の見取り図みたいなのがほしいです。
という風に箇条書きの年表から疑問点がわいてくるところがありますので、もう一回、年表を眺めたうえで、自分でなんでだろう?と疑問を抱き、各種文献の調査、執筆されるとよいと思います。最後になりましたが、写真は大変きれいです。いろいろ書きましたが、加筆期待します。--Wushi 2009年5月14日 (木) 13:06 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)記事の執筆は、同じ香川県立公園に指定されています栗林公園を参考にさせていただきました。が、時間不足でまだまだ加筆の余地があるのはご指摘の通りです。歴史の項目でいろいろ書きたかったわけですが、長尾町史にも記載のない項目となると、かなり厳しいものがあります。香川県立図書館・文書館で文献があれば探せますが…。一度調べてみます。
  1. 細川頼之~幕末までの空白の間に、「元禄時代に住民が一部木を植えた」旨が記載漏れでした。また亀島は古墳群であり(これも時間的に間に合いませんでしたので加筆できればしたく思います)、7世紀頃に作られ、明治時代に発掘調査されております(出典:公園内立て看板)。この間何があったかについては、公園内にある「宇佐神社」がキーポイントかなと思っております。1351年細川繁氏が宇佐神社社殿を造営、1409年に社殿を大修繕したようです(出典:宇佐神社入口立て看板)。江戸時代には長尾惣氏子が社殿の修理・建立されたようです(出典:宇佐神社入口立て看板)。公園内立て看板とか、神社入口立て看板を出典としてよいのかどうか、ここがお恥ずかしながら不明でしたので、執筆に躊躇してしまいました。他にどのようなことがあったかというのはご指摘の通り、香川県の歴史に深く関わってくる問題だろうと(あくまで想像ですが)考えます。乗りかかった船なので調べられるようでしたら調べたいと思います。
  2. 讃岐十景につきましては、他には、小豆郡小豆島町(旧内海町)の「洞雲山」、仲多度郡まんのう町の「美霞洞八景」、小豆郡土庄町の「富丘八幡宮」などがあります。各々の詳しい内容については省略することとしますが、他の記事があればリンクすべきでした。あとは思い浮かびませんので、改めて調査できればと思います。選考理由なのですが「『風景に富む八勝あり』」と言われた(出典:長尾町史)」そうですので、推測ですが、そういう理由からかと思います。これについては図書館に資料がありそうです。
  3. 進展しなかった理由についてですが、調べた限りですが分かりません。長尾町側からすれば、「時間がかかった」「苦労した」という印象なのでしょうか(あくまで推論で申し訳ないのですが)。如何せん町史にも理由掲載がないものですから、限界かもしれません。申し訳ありません。
  4. 見取図(地図)についてはご指摘の通りです。
あれもこれもと考えているうちに結局時間が過ぎてしまい、まとまりがつかなかったという点では加筆中の未完記事となってしまいました。これからも加筆していきたいと思いますし、よい記事を書くためのよい勉強をさせていただきました。写真につきましてはお褒めいただきまして誠にありがとうございました。--御門桜 2009年5月16日 (土) 08:20 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)「アクセス」という節を置くのは、百科事典的ではないかなと思いました。位置を地理として、地形なども踏まえて文章化し、そのなかで、駅や道路との位置関係を示す、駐車場については施設のほうへ移動するというのはいかがでしょう。「歴史」の節にある断片的な記載が、とても興味深いのですが、町史に詳細がないとなると、個々から先は資料探しが大変かもしれません。でも、追いかけてみるだけの面白さはありそうなので、ヒトゴトとして期待します。明治期の競馬は、けっこう研究があるようなので、郁さんわかったりしないかなあ。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)ご検討ありがとうございます。地図を掲載するときにでも位置~地形あたりを見直したいと思います。他の方のコメントにもご回答させていただきましたが、歴史の断片的な項目について調べようとすると町史に載ってないという最大の難関がありまして、これを調べるためにはかなり苦しいかなと思います(おもしろそうですが)。執筆に協力いただける方は(ちょっと議論の結果を見ずに「工事中」を張りっぱなしにしてしまい申し訳ございませんでしたが)、加筆をお願いしたく思いますし、私もできる限り調べてみたいと思います。--御門桜 2009年5月16日 (土) 08:20 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)御門桜さんも触れられていますが、地理的に簡単な地図があると宜しいでしょう。市内の何処ら辺にあるのか、また、公園の全体的な構成もあると判りやすいでしょう。また、文中にさくら橋のライトアップや噴水について記述されていますが、これらの写真もあると見応えがあるかと存じます。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 03:00 (UTC)[返信]

寺田宗有 編集

寺田宗有ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)書誌情報の示し方をもう少し詳しくすべきではないでしょうか。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:26 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)やはり、宮本武蔵とは違って、肖像画が残っていないものなんでしょうか?人物記事で1つでも肖像画なり写真があるとだいぶ、見た目が変わってくると思うのですが。内容に関しては楽しく拝見いたしました。--Tantal 2009年5月10日 (日) 12:36 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。楽しんで読んでいただけたようで、なによりです。ご指摘の通り、画像がほしいところですが、肖像画についてはネット上でも見あたらず、私の知る範囲ではないようです。宗有の墓(駒込)や、民政役として勧進したという琴平宮(高崎市)が現存しているらしく、現地まで行ければ画像アップが見込めますが、そこまでは手立てできませんでした。--みっち 2009年5月11日 (月) 10:09 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)この人の魅力が分かる非常にいい記事だと思います。(1)1745年(延享2年)生まれ、1825年(文政8年)8月に82歳で没とのことですが、ここがやや分かりません。満年齢だとすると79or80歳没ということになりそうですし、数え年だとすると延享2年から文政8年までは足掛け81年なので享年81ということになりそうです。旧暦がらみで不明確なのだと思いますが、西暦、和暦のどちらが正確でどちらが推定なのか、年齢は数えなのか満年齢なのかを冒頭で書いておいた方がいいと思います。(2)天真一刀流が開かれた時期が分からないのですが、中西兵馬が宗家を継いだ後に独立したということでしょうか。(3)足取りをもっと明確に書いたほうがよいように思います。この人、江戸で生まれ、18歳で出仕したのも江戸藩邸、寛政4年に初めて高崎在勤、寛政8年に江戸に戻って、讃岐や大坂への旅を除けば以後亡くなるまで江戸在住だったということでしょうか?また、平常無敵流奥義を授かってから高崎在勤になるまでの足取りはどうなっていたのでしょうか。質問ばかりですいません。--Freetrashbox 2009年5月11日 (月) 10:39 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)過分のお言葉をいただき、感謝します。年代や年齢(数え年だと理解しています)については、底本とした『日本剣豪100選』にしたがっていますが、おっしゃるとおり、よくわからない部分があります。基本的に、剣客・剣豪について伝えられているものには、信頼性の低い巷説や俗説が多く、第一級史料にはほとんど記載がないのが実情のようです。したがって、年代についても確定させることはなかなか難しいです。(1)享年については、確かに生没年からすると81ではないかと思うのですが、文化8年(1811年)のときには63歳(1745年生なら数えで67歳のはず)とあり、生没年や享年のどれが正しくどれが誤りなのか判断できないため、そのままの記述にした、というのが正直なところです。暦についても不案内なため、精査できませんでした。(2)天真一刀流を開いた時期については、剣術の免許皆伝を受けることは独自に一流を立てて良いという意味があったようで、一刀流の免許を受けた寛政12年(1800年)より後ということになります。ご指摘のとおり、宗有はその後も道場に残って中西兵馬(後の子正)を後見しているので、より正確には、兵馬が宗家を継いだ文化2年(1805年)以降、白井亨が宗有に入門した文化8年(1811年)以前ということになると思います。これと関連して、「天真翁」を号するまでに宗有は参禅・大悟していることから、これらの時系列を明確にしたかったのですが、残念ながら年代を示したものが見つかりませんでした。(3)足取りについても、参考とした文献で使えるものはすべて使ったつもりであり、これ以上詳しいことは書けませんでした。内容的にはFreetrashboxさんがまとめられたのと同じ理解でいます。十分にお答えできず、申し訳ありません。--みっち 2009年5月12日 (火) 11:50 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)全体に流れがあって、とても読みやすかったです。編著者として挙げられている人の他の著書などを見ての判断ですが、参考とした書籍には、信頼性にばらつきがあるのかなと思いました。特に、この種の項目では、エピソードが虚実ない交ぜになったり誇張されているようなこともありそうな気もします。そのへんの判断や配慮について、意識しているところがあったら教えてください。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。参考書籍の信頼性にばらつきがあることについては同感です。また、同じ書籍内の情報であってもそういう意味でのばらつきはあります。とはいえ、本記事の場合は材料が不足気味なので、できるだけ多く取り入れて紹介することを心がけました。「エピソード」については、ご指摘のとおり虚実がはっきりしないことと、これらのエピソードがどのように伝わっているかということが参考書籍に述べてないのが残念なところですが、人物像を浮かび上がらせるためには有用と判断しました。なお、このエピソ-ドを含め、とくに脚注を入れていない記述については『日本剣豪100選』に拠っていますが、このあたり、主として参考にした文献と補完的に使用した文献について、どう示すかは今後の課題かなあと感じています。--みっち 2009年5月16日 (土) 01:53 (UTC)[返信]


トーマス・マコーリー 編集

トーマス・マコーリーノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)書誌情報の示し方はアカデミックな感じなのですが、ウィキペディアスタンダードではないような。また、ISBN番号は「。」で閉じないのでしょうか?一般的には論文では書誌情報は必ず「。」で閉じる気がします。しかし、参考文献の示し方はテンプレートが用意されているので、テンプレートを利用した方が、体裁の統一やあとあとの方針変更などに対応しやすいという面からよいような気がしている最近の私です。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:31 (UTC)[返信]
  • (コメンテーター)記事の出来はまず脚注を見ればかなり分かると考えていますが、本記事は、多数の文献を参照して書かれ、それが脚注で一定程度跡づけられている点で、しっかりした記事であると感じました。いくつか気になった点を挙げると、(1)最初の「時代背景」の項が、マコーリーとどういう関係があるのか分からないまま終わってしまい、一瞬彼はチャーティスト運動家なのかと思ってしまいました。導入部にホイッグ党への言及があるので、当時のトーリー党とホイッグ党の位置付けまで書けばつながりが見えてくるのでは。(2)接続詞を適切に使うことにより、より読みやすいものになると思います。例えば「少年時代」の項の最終段落、「弁護士の道を選んだ。しかしマコーリーの法律への興味は」と補うことで読みやすくなるように思います。ちなみに弁護士になったと簡単にありますが彼がいつ法律を勉強したのかも興味があります。(3)「政治家としてのマコーリー」や「トーリーからホイッグへ」の項に政治的履歴が分散して書かれていますが、できれば時系列的にまとめた方がよいのでは。なおイギリス帰国の年やピータールー虐殺事件の年も書いてほしい。(4)「文筆活動」の項、後で度々出てくる「ホイッグ史観」とは何かを端的に説明してほしい。(5)見出しの工夫。「普通選挙とチャーティスト」の項、見出しを「普通選挙への反対」などとした方が彼の立場がすぐ伝わるのでは(これは単なる一案ですが)。(6)「後継者ととどめを刺す人物を同時に得た」、「美化するところ過剰であったという」など、凝った表現がありますが、もうすこし平たい表現にできないでしょうか。(7)誰の評価か分かりにくい部分がある。例えば脚注31の箇所「また彼の諸論文は後世……ともいわれた」とありますが、これは石上氏による評価なのか、イギリスの評論家による評価なのか。(8)脚注18(ホイッグになった時期)や28(論文の一節)は脚注にしておくにはもったいなく、本文に組み込めないでしょうか。--ゴーヤーズ 2009年5月8日 (金) 16:10 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)近代イギリス史を代表する政治家・歴史家を多い資料を渉猟する事で、1つの事典を越えて物語性をもたらした良質な記事と判断します。参考文献に関しては、信澤氏のものに関しては、発行順にアルファベットを並び替えた方がいいかとは思います。マコーリーへの批判、日本への影響まで述べられている点も評価に値すると思います。あとは、ゴーヤーズさんも述べている通り、[3]における脚注5、11、28あたりは本文に組み込めればと思います。--Tantal 2009年5月9日 (土) 13:35 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)なじみのない分野ですが、固有名詞に短く修飾句をつけて説明がなされているため、疑問符が浮かぶことなく、またいちいちリンク先に飛ぶ必要もなく読み進める事ができました。大きな問題ではないですが、「ジェームズ・ミルを攻撃すべく一の矢を放った。それはあたかも「ホイッグのダヴィデが功利主義者のゴリアテ」に立ち向かうが如しであった。」あたりの表現は、百科事典的ではないようにも思いますが、「物語を書かねばならぬ」ということだったりするのでしょうか。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)広汎にわたるご指摘ありがとうございます。それぞれについて回答すべきものはしてみます。
文献の書式
分かればいいや的に書いてしまいました。それでも初版で使っていたop.cit.等はやめましたが…他の記事やガイドラインをもう一回見直してみます。
時代背景が次以降と飛んでいる?
その通りですね。そう感じる人が多いようなら、関連づけた記述に改めることも考えてみます。
接続詞
このあたりは何度もいじって、接続をつけたり除いたり、文の位置を入れ替えたりしたところです。逆接でつなげるのも一旦考えてやめた記憶があります。なぜ除いたかという肝腎の部分を忘れてしまったのでなんともお答えできないのが申しわけないですが…。いずれにせよもう一度読み返し、当該箇所以外にも何かあるか見てみます。
政治的履歴の分散
書く上での章立て計画、および私自身の記述力という二つの問題にまたがっていることがらではないかと感じています。前者(章立て)に関しては「生涯」はできるかぎり簡潔にまとめ、他章に譲れるところはそこにまとめた方が分かりやすい(はずだ)と思ったためそうしました。とはいっても他章に譲った場合、分散現象を完全に防ぐことはほぼ不可能になります。逆にほとんどすべてを「生涯」に繰り入れてしまえば、どこに何が書いてあるかの見通しが悪くなるのではないかと考えました。このような問題は、後者(記述力)が左右することでもあるのですが、どうやら私の記述力はその程度ということのようです。
ホイッグ史観について
冒頭で軽く触れていますが、それでは足りないでしょうか。それとも「文筆活動」の節にも別途加えた方がいいでしょうか。
見出し
そこは盲点でした。再考の余地ありと思います。わかりやすい見出しにする方向で考えてみます。
凝った表現
いわゆる「やりすぎ」ですね。たしかに安易にこうした表現を用いることは、文章全体の信頼性を損ねる場合があります。これも改善すべきことのひとつですね。
評価
何も言っていなければ基本的には出典の著者名です。
脚註の本文化
横道的で長い文章を本文中に入れると、話が脱線してしまって今なんの話をしているか分からなくなる、および私自身が書いてて整理がつかなくなる、といった事態を避けるために「面白いかもしれないが読み飛ばしても理解そのものには差し支えないもの」は脚註に入れています。脚註に入れることで、読み手が脱線したいときに意識して出来るようにした…つもりです。いずれにせよ、これは書く上でのコンセプトというか考え方の問題かもしれません。
文献のアルファベット順
その方がいいですね。そうします。…めんどくさいな…
ダヴィデとゴリアテ
当時のマコーリーとジェームズ・ミルの関係を例えるうえで簡潔な表現と思ったので、註を打って文献からそのまま使いました。実際のところ「物語を書かねばならぬ」意識がなかったというとウソになります。ただこれも上述「凝った表現」にあたるもので、百科事典的云々以前に、読む人によっては拒否反応を示すかもしれません。穏当な表現を探してみます。
以上、回答いたします。コメントありがとうございました。--S kitahashi(Plé) 2009年5月16日 (土) 18:14 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)氏の人となりや経歴について判りやすく記述されていると思います。翻訳もこなれていて読みやすいと存じます。編集おつかれ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 03:00 (UTC)[返信]

アメリカ合衆国の経済史 編集

アメリカ合衆国の経済史ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)目次構造が少し平坦ではと思うのです。別に悪いと云うことではないと思うのですが、この記事の場合、歴史部分の節を全部「歴史的展開」というような節にまとめてしまうと、見栄えが良くなると思うのですが、どうでしょう?また、参考文献の示し方ですが、欧文文献は「.」を、邦文文献は「。」で閉じるのが一般的な体裁と思います。テンプレートを使えばそこは標準で実現可能なはずですので、テンプレートを使用してはどうでしょう?最近私はウィキペディアの書誌情報の書式に統一性がないのは問題ではないかと考えはじめてもいるので、こういうコメントになってしまったのですが、どうでしょう?--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:38 (UTC)[返信]
    • (執筆者その2のコメント)この記事の役割分担を冒頭に書いておきますが大部分の翻訳が龍伯さんによるところが大きいということ、次いで翻訳後の19世紀までの主加筆は龍伯さん、20世紀以降の内容・グラフによる統計データ整備は執筆者その2のWushiです。さて、Kanbunさんが仰っている内容について執筆者その2の意見を以下に述べます。
  1. 目次構造について:言わんとしているところがよく分かりません。執筆者その2の考えとしては、各時代時代ごとに重要な経済史的事件が起き、それに対する考え・意義などがちりばめられているのであって、歴史的展開にすると1つの大きな節ができてしまいますが如何か?正味なところ、指摘するからにはより具体的に「**」だから「××」にしたほうがいいと書いてほしいのが執筆者その2の考えです。
  2. 参考文献の記述について:何も、Templateに固執する必要性はないと思いますが、念のため、自分が持っている経済関係の英語文献、日本語文献の参考文献を確認しました。英語文献に関しては成程、そうかなと思うところもありますが、日本語文献はさてどうでしょうか?「。(句点)」で閉じる必要性があるのかどうか、それが一般的であるならば、一般的であることを明示した参考文献を例示していただきたいと思います。たとえば、今回用いた 紀平英作:「第3章 戦間期と第二次世界大戦」『世界歴史大系 アメリカ史2』に関する参考文献の一覧ならば、
(1)今津晃・横山良・紀平英作編『市民的自由の研究――両大戦間期のアメリカ』世界思想社 1985 (『世界歴史大系 アメリカ史2』参考文献p.63)と記載されています。そこには、「」の表記はありません。--Wushi 2009年5月8日 (金) 14:23 (UTC)--(微修正)Wushi 2009年5月8日 (金) 14:27 (UTC)[返信]
  • (返答)1.参考文献の書式について。参考文献の形式は邦文文献では「。」で閉じる、欧文文献では「.」で閉じるのが一般的です(少なくとも歴史学では)。ただ分野によっても学会によっても細かい指定は異なるでしょう。一般刊行本は形式がまちまちのようです。したがって、私がテンプレートの使用を勧めるのも、そのような表記揺れをなくす努力が必要と考えるためでもあります。
(返答)2.目次の構成について。目次構造を階層的にした方がよいと思います。具体的には歴史叙述箇所をまとめるとよいでしょう。--Kanbun 2009年5月8日 (金) 15:28 (UTC)[返信]
    • (執筆者その1のコメント)目次の件ですが、経済史なので大きな流れもあれば孤立した話題もあり得ます。節毎にその時代の要約・概説を置くと流れがわかりやすくなったかも知れません。かなりの話題を詰め込んだ関係上階層を作ると細かい小節ばかりとなってしまいます。現在の節の長さくらいが息切れしないで読める目安かと思ってます。中には区切ったほうが良いものがあるかもしれませんが。参考文献の書式は幾つか不統一があるのは事実ですので、今後の課題とさせてください。--龍伯2009年5月9日 (土) 00:39 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)120KBもの力作をありがとうございます&お疲れ様でした。記事ですが、英語版からの翻訳をベースにしているためか、日本語としてこなれていない表現が目立ちました。「ワシントン・ポストは次のように書いた(ワシントンポストは次のような記事を掲載した?)」「観光産業が急上昇し(観光産業が急拡大し?)」「政府が経済に干渉することに反対することを原理とした(政府が経済に干渉しないことを原理とした?・政府の経済に対する干渉に反対することを原理とした?)」等が挙げられます。直訳にとらわれずに文章の大意をとり、日本語としてその文意に則りなおかつ意思が伝達できる文章にすればよりよくなると考えます。--Himetv 2009年5月9日 (土) 15:55 (UTC)[返信]
    • (執筆者その1のコメント)ご指摘のところは確かにそうですね、一度翻訳してから緩りと「日本語」という意識で読み直せば、原典の構文や言葉遣いに捉われずにこなれて来るかと思います。ただし、翻訳者は一度活字に置いてしまうとあまり気付かないものだと思いますので、Wikipedlaの特性を生かして、自由に手を入れていただくのも歓迎します。--龍伯2009年5月9日 (土) 23:40 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)私も節構成が平板である印象を持ちました。アメリカ合衆国の歴史が-1776、1776-1865、1865-1918、1918-1945、1945-1989、現代(1989-)でサブカテゴリがある以上、これに基づいて分節化を図ってもいいのではないかと思います。また、2008年の金融危機において、クライスラーの破綻が2009/4/30付けですからどうしても現在進行になり今コンテストの締め切りとかぶってしまったため、この節に関してはコメントしづらい部分があります(できれば、日経を元にクライスラー破綻までは踏み込んでもよかったかも)。--Tantal 2009年5月10日 (日) 12:43 (UTC)[返信]
    • (執筆者その1のコメント)サブカテゴリを大きな節にするのは一案ですね。ただし、この区切りは戦争を元にした区切りであり、確かに戦争によって経済にも大きな変化はありますが、必ずしもそれで妥当なものになるとは言い切れないところもあります。2008年の最新の記事は実のところ歴史にはなっていないので、加えたくなかったところです。歴史として振り返って評価できるようになってからでも良かったと思います。--龍伯 2009年5月11日 (月) 10:50 (UTC)[返信]
    • (執筆者その2のコメント)時期的にクライスラーが破綻し、フィアットの傘下に入るというのも書けたのかもしれませんが、まだ、GMが残っていますし、クライスラーに関しても、今後どうなるのかはまだ分かりません(そのたびに書く必要性はない)。当面はGM、クライスラーの動向、サブプライム問題を含めたグリーンスパン批判、TARP、5月発表のストレステストといった金融システム安定化策や、オバマのグリーン・ニューディール政策などももう少し落ち着いてからでもいいかと思います。--Wushi 2009年5月11日 (月) 12:26 (UTC)[返信]
  • (コメンテーター)これだけの分量の記事を短期間に翻訳し、まとめられたのは素晴らしいと思います。節構造について、私は「もっと大きなくくりでまとめた方がよい」とは思いませんでしたが、逆に、今ある節でもやや長めのところがあるので、小見出しを作って分節化してもよいのではと思いました。その点とも関連しますが、時系列的にひたすら事実が書かれていると、どういう意識(全体像)を持って読めばよいのか迷子になりやすいので、節ごとの冒頭に概要や時代の特色を書くというアイデアは良いと思います。例えば「(この時期は)中産階級に支えられた進歩主義が台頭し、政府の産業に対する介入が進行した時代であった。第一次世界大戦期には更に統制経済が進展した。」など、簡単でもキーワードが最初に出てくると、息切れせずに読みやすいのでは。それから、既に指摘されているとおり、日本語としての文章の流れの自然さも、今後の改訂の課題ですね。--ゴーヤーズ 2009年5月14日 (木) 21:46 (UTC)[返信]
    • (執筆者その1のコメント)貴重なご意見を有難うございます。概要やキーワード提示は考えてみたいと思います。もう一つ、参考文献に挙げた岡田泰男著『アメリカ経済史』は「人口と資源」「南部と北部」というようにテーマで歴史の流れを追っています。通史全体が分かっていないと理解は難しいのですが、これも一つの視点として盛り込めないかと、あれこれ考えているのですが、既に記事分量が大きくなりすぎたので別の記事化もあり得ます。日本語については既に記しましたが、じっくりと育てていければと思います。--龍伯 2009年5月15日 (金) 11:00 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)大きな記事の翻訳の投稿の後に、複数の執筆者による修正が入るという役割分担がなされた記事ですが、こうした作業のなかで、うまくいったこと、気になった事があったら、ここで(あるいは別の場所でもいいですが)書いていただけると、多くの人の参考になると思いました。節構成については、記事の分割や、いくらか重複する形での書き分けと相互乗り入れ(時期別とテーマ別で別に記事を立てるとか)のようなことを含めて、解決していくべきことかなと思いました。書誌情報についてもそうですが、この記事へのコメントから離れたところで話をするのがよいと思います。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
    • (執筆者その2のコメント)役割分担に関しては前述した通りですので、20世紀以降に関して執筆するにあたり心がけたことは、数字の裏付けです(どこまでうまくいったかは読者の判断に任せますが、経済史は経済学の一分野なので数字の裏付けは不可欠と考えます)。例えば、GDP成長率やジニ係数、物価上昇率などです。アメリカの場合、セントルイス連銀、米国経済分析局など統計データがHP上に豊富にありますので、1929年以降のデータ収集、グラフへの加工、文章化(訳された文章にデータを補完する)といった過程は日本の経済中華人民共和国の経済より楽だったかなということです(中には、文章化しようとしたものの、記事に盛り込めずじまいだったデータ(貯蓄率の推移とか、対日、対中の貿易赤字の推移やその裏返しとして日中の米国債の保有残高の推移)もあります)。また、1930年代(世界恐慌)に関しては、Galbraith (1954)、M. Friedman and A. Schwartz (1963)、Eichengreen (1992)といった先行研究を少しは盛り込めたかなと思います(Galbraithは日本語訳だからまだしも、後2者に関しては英文献ですので、エッセンスを探し、書くのに苦労しました。あとBarnankeの論文を読めなかったのが痛いところです)。うまくいったかどうかは龍伯さんの見解もあると思いますが、個人的には龍伯さんのノート#アメリカ合衆国の経済史について、相談しながら記事を執筆していったことが良かったかなかと考えます。気になったのは、アメリカ合衆国の経済とのすみ分けです。この記事、思い切り外科手術が必要なんですよねorz--Wushi 2009年5月16日 (土) 11:39 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)大分な記事を翻訳され、さらに追記されたとのことで、お疲れ様です。物事の流れがよくわかりとても参考になります。全体として翻訳もこなれていると存じますが、所々、まだ意味を取り難いところがございますので、それらをブラッシュアップして頂くと完成度が上がるでしょう。例えば「初期植民地で成功したのは毛皮用動物の捕獲と交易から得られたものだった。」など。それから、冒頭の部分で「初期」という言葉が多用されていますが、この辺りも具体的な言葉に置き換えられると尚、判りやすいかと存じます。東 遥 2009年5月24日 (日) 03:00 (UTC)[返信]

ユーゴスラビア王国 編集

ユーゴスラビア王国ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)脚注は適切であり、参考文献の提示も問題ないと考えます。となると、気になった点をいくつかピックアップして、回答を求めるという形になります。
    1. 「歴史-概観節」のコルフ宣言について。太字で書いてあるのであれば(コルフも地名だとは思いますが)、せめて、他の言語版のリンクがほしいところ。いつ、この宣言が採択されたのか。内容は、セルビア主導の南スラヴ人国家の創設だと推測しますが。
    2. 「歴史-形成節」地名に関してはリンクがされているので問題ないと思いますが、さすがに文章だけでこれを追いかけるのは大変。やっぱり、地図がほしいところですが、どうでしょう。そうすれば、未回収のイタリア「フィウメ」とか、他の国との紛争となりえた地域を確認できるのですが。
    3. 「歴史-初期の政治節」結構細かいことですが、制憲議会→セルビア人主導の中央集権体制とそれに対するクロアチア人勢力の対決という流れは、ユーゴスラビア解体を生で経験している私にとっては理解しうるところ。そうなると気になるのは、制憲議会の構成内容(定員は何名だったのか、どういう選挙制度であったのか)という点。日本の第1回帝国議会が制限選挙で、板垣退助や大隈重信率いる政党勢力が議会の多数を取ったために議会進行に、山県有朋たちは大きく手間取ったことを考えると、こういった点は欲しい。それは、次節で開催された1920年選挙での議会構成にも該当します。そのあとにクロアチア共和農民党や急進党といった政党名が出ているだけになおのこと。
    4. 「住民節」-モンテネグロはどこに消えたのでしょう?セルビア人でカウントされているのでしょうか?
  • 私から以上4点です。よろしくお願いします。--Tantal 2009年5月7日 (木) 11:34 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)書誌情報にcite bookテンプレートを使用しているようですが、そちらは欧文文献用です。邦文文献用はこちらになります。また脚注でページを示す場合も「。」で閉じるのが一般的ではないでしょうか。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:42 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)複雑な事情のある地域の歴史について、たいへん詳しく、しかも日本語の文献を使って執筆されていることに敬意を表します。構成もしっかりしていて、模範的だと思います。ただ、予備知識のない人間がこの記事だけを一読してどれだけ頭に入るか、という点では、文章になお工夫の余地があるのではないかと感じました。とくに「概観」節をわかりやすく書いていただきたいと思います。個人的に引っかかった例を挙げると、最初の「コルフ宣言」は、次の「形成」節冒頭で説明されていることと同じことのようなのですが、こちらでは「コルフ宣言」と書かれていないためにとまどい、汎スラヴ主義の「ユーゴスラビア」節の説明を読んでようやく経緯が理解できました。同じく、「概観」節の第二次世界大戦のところでは「ユーゴスラビアの領土は分割占領され」と「ユーゴスラビアを解体」が並列されているため、この言い換えにどのような意味の違いがあるのか飲み込めず、大クロアチアクロアチア独立国など関連リンクを読んでおおよそ理解したという状況です。もうひとつ挙げると、「初期の政治」節で、パシッチを首班とする新政府樹立案について「この決定が摂政の承認を求めたときに拒絶され」という記述がわかりにくく、ここは「摂政アレクサンダル1世はこれを拒絶し」と書けば混乱しないのではないでしょうか。読んでいて、決定なのに承認を求めて拒絶? 摂政って?という状態で、「形成」節まで戻ってアレクサンダル1世の名を見いだしてようやく理解したのは私だけかもしれませんが、複雑な背景があると意識していると、ちょっとした表現に引っかかって先に進めなくなってしまうと思うので、ご検討いただければ幸いです。--みっち 2009年5月13日 (水) 10:16 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)面白い記事ですが、正直なところ、かなり難解です。この国の歴史が複雑だからやむを得ないとは思いますが。(1)形成の節、登場する地名のうち、主要箇所だけでも地図があると位置関係が分かりやすいと思います。(2)登場人物が多く、なじみの無い人名でもあるので、主要人物の写真が随所にあるとよいと思います。--Freetrashbox 2009年5月13日 (水) 12:57 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)楽しく読ませていただきました。全体に時間軸に忠実にユーゴスラビア王国の歴史を追えていて好感が持てましたが、国外からの視点、特にガブリエーレ・ダヌンツィオによるリエカ占領と、フランス小協商国への接近についてはもう少し細かい言及が欲しいと思いました。それと、これは参考資料についてですが、文庫クセジュから「スロヴェニア」「クロアチア」が挙げられていましたが、同じクセジュの「ユーゴスラヴィア史」が含まれていなかったのは何か理由がおありだったのでしょうか。--Himetv 2009年5月13日 (水) 13:18 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)複雑な歴史を持つ地域の、短いが変化の激しい国家について、多角的に書かれた労作だと思います。ひとつひとつの出来事が、何故起こったか、どういう関連で起こったかということが、わかりにくいように思います。また、政治体制については、節を立てて解説がほしいと思いました。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)分量も充分で構成も整いバランスの良い記述だと存じます。欲を言えば、当該地域の人々がこの国を振り返ってどう評価しているのか、或いは後に続く国や政体にどのように影響を与えたのか、そのあたりの記述もあればより深まるかと存じます。それと、表記に乱れがある個所があるので、それを修正いただければ宜しいかと(例、「共通防衛はあり得るかも知れば意が」、瑣末で申し訳ないですが)。この辺りをブラッシュップすれば宜しいでしょう。東 遥 2009年5月24日 (日) 03:00 (UTC)[返信]

魚津城の戦い 編集

魚津城の戦いノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)出典情報がないのが厳しいです。「外部サイト」節に提示されているサイトを参照して作成したのでしょうか。それはそれで出典としての示し方があるように思います。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:44 (UTC)[返信]
  • (コメント)Kanbunさんと重なりますが、まずは参考文献を掲載してはいかがでしょうか。またエピソードには個別に脚注で出典を明示するのがよいと思います。他には、魚津城の戦略的意義について加筆の余地があるのではないでしょうか。記事が保護されてしまったのはまことに災難でしたが、保護解除されたら検討してみて下さい。細かいことですが、「上杉方の守将12人」と書いているのに13人いますね。--Arawodas 2009年5月9日 (土) 15:40 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)大河ドラマ「天地人」でも、取り上げられた戦いですね。その分、話題がホットになってしまったかと。こういう戦国時代ものの記事を書くのであれば、当時の政治環境、籠城戦であればその城が置かれている地政学的重要性を概要で述べたうえで、合戦の顛末、最後に意義と書いていくと意外と記事がスムーズになるのではないでしょうか。また、参考文献の掲示が不十分なので、こちらの収集も重要だと思いますが、通俗物を使う事に関してはやはり忌避すべきなので、地方の合戦になればなるほど、困難は付きまとうかと思います。--Tantal 2009年5月10日 (日) 01:26 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)編集合戦で保護になったことも影響しているのでしょうが、全体に情報が未整理で、文章表現の上でも信頼性を欠く印象があります。「開戦までの経緯」節でいえば、(1)まず、天正9年に起こったという荒川の合戦がどういうものだったのかがわからないため、その後の展開につながりません。(2)寺崎盛永や石黒成綱が上杉に内通していたのであれば、織田には「表面上」従ったのであって、「事実上」という表現は誤解を招きます。ただし、石黒成綱の項目を読むと、内通していたかどうかは判然とせず、ここでは真偽は別にして「内通を疑われて殺された」という事実のみを述べるべきではないでしょうか。また、寺崎盛永や石黒成綱「などが信長によって次々と粛清され」ということは、ほかにも粛清されたものがいるという理解でいいのでしょうか。「など」と言葉を濁すより、わかっている事実を連ねた方が説得力があります。(3)「織田に仕える」とされる小島職鎮ですが、当該リンクでは一貫して上杉方であったように読めます。どちらが本当でしょうか。また、富山城を乗っ取られた信長が「逆上した」というのは、なにに拠っているものでしょうか。(4)織田の軍勢が富山城攻めでは1万、魚津城攻めでは4万と増えた理由はなんでしょうか。軍勢が4倍に増えたにもかかわらず、大将が増えていない理由も不明です。(5)テンプレートでは戦いが3月11日からになっており、本文では同じ3月11日から織田軍が富山城を攻めて奪還したとなっています。同時進行でしょうか。また、富山城攻めがこの戦いに含まれるのであれば、項目名や全体の構成も見直す必要があるのではないでしょうか。このほか、以降の節でも景勝が救援を求められて断りながら出兵したとか、越後が未攻略なのに「北陸を支配され窮地に立たされた」など、文章的に誤解や混乱を招くところがありますので、出典を明示した上で的確な、過不足のない表現を心がけていただきたいです。なお、「エピソード」のひとつめは本文に取り込んだ方が良いと思います。二つ目の「もし~だったら」の話は、このままでは独自研究ですし、仮に落城前に「本能寺の変」を知ったとして、織田の諸将がすぐに包囲を解くとは限らないでしょう。どなたかの言説としてなら紹介してもいいかもしれません。--みっち 2009年5月14日 (木) 14:39 (UTC)[返信]

磐城の戦い 編集

磐城の戦いノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  1. 磐城国の名称は明治時代につけられたので、冒頭の文章は「磐城で行われた戦い」ではなく、「磐城地方で行われた戦い」のほうが良いのではないでしょうか?(の役をも大の役と言わないのと同じ理屈です)
  2. 文中に至るところで体言止めで文章が終わっています。文章の読み手に躍動感を与える効果もありますので、別に体言止めがいけないとは言いませんが、前後の文とのつながりがあるのですから、「、(読点)」による単純接続などを用いたほうがいいのではないかと思います。(例)新政府軍の上陸の節:「同日、小船に乗り換えて数名が平潟へと上陸。その動きは…」⇒「……上陸したが、その動きは……」にするなど。
  3. 脚注6「仙台藩記「人見等裏崩れ致し敗走」に対し、林忠祟私記「仙兵裏崩れして、ついに敗走」と相反する記録あり」とありますが、どの文献から持ってきたのでしょうか?そのままの古文書からの引用・参考ならば、仙台藩記(18YY)になるでしょうし、研究論文などの引用ならば、某(YYYY)になると思います。 脚注35「仙台藩記『相馬すでに盟を破りて款を西軍に通じ』 」も同様です。
  4. 脚注を見た限りですと、参考文献に挙がっている大山柏大山巌の息子)『補訂戊辰戦争史』によるところが大きそうです。ただ、大山柏は1969年に亡くなっているそうなので、時事通信社から1988年に発行されているのが初版なのか否か分かりません。初版でないならば、大山が発表した年を探し、記入すべきです。例えば、今回、アメリカ合衆国の経済史を執筆するにあたり、Friedman, Milton & Anna Schwartz (1963)などを用いていますが、実際、1963年発行版は使えなかったので、2007年版を使用しています。その時でも、やはり最初の参考文献は1963年版ですので、Friedman & Schwartz (1963) (同(2007)pp.25-64)の形式にしています。
  5. 脚注の形式ですが、人それぞれの好みがありますが、参考文献に書誌情報がありますので、脚注は星(2005)p.189の形式でいいと思います。また、ページを使うならば、p.(ピリオド)を付けてください。pageの略がp.です。また、複数ページの場合はpp.になります。(例えば、星(2005)pp.190-191など)
  6. 脚注と参考文献の位置関係ですが、参考文献が最後だと思います。--Wushi 2009年5月8日 (金) 13:17 (UTC)[返信]
  • (コメント)いきなり意見から言います。
  1. Wushiさんと同意見で、戦争当時はまだ磐城国という行政単位は存在しなかったわけですから、地名の言い換えが必要と思います。
  2. 戦争テンプレの年月日の項で開戦日のみを記述していますが、戦いは一か月以上に渡ったのですから、XX年A月-B月のように期間表示した方が妥当と思います。
  3. テンプレでは開戦日を閏6月と書いていますが、記事本文では一貫して単に6月と書いています。閏月にもありますように、6月と閏6月は明確に違うもので、必ず6月→閏6月→7月の順になるわけですから、どちらなのか統一できるものならした方がいいです。資料によって表記が違い統一できないなら、戦争期間そのものについて特定できない可能性があることを書いた方がよいと思います。
  4. 前項と関連して、この戦いに続く旗巻峠の戦いのテンプレでは、開戦日を閏8月と書いています。一年に二度も閏月があったのでしょうか。一方併記されている太陽暦の日付から計算すると、磐城の戦いの開戦日から旗巻峠の戦いの開戦日までは二か月弱です。閏8月が本当にあったなら、この間は三か月であるはず((閏)6月→7月→8月→閏8月)です。日付について再確認が必要ではないでしょうか。
  5. 平潟上陸軍への補給を海路に頼っていたという記述について。平潟上陸軍が戦略的に孤立するためには、常陸国、特に水戸藩領を新政府軍が自由に通行できないことが条件になると思います。市川弘美諸生党などを見ると、水戸藩の佐幕派は4月時点で脱出し、平潟上陸時点では尊攘派が水戸藩の実権を握っていたようです。当時の水戸藩など常陸国の情勢について、参考文献ではどのように言及されているでしょうか。
  6. 戦後処理について、高度成長期の記述が来るのはいささか場違いというか、この戦いと関連付けるには飛びすぎのような気がしますが、除去すべきとまでは思いません。明治から戦前にかけての記述がもっと増えるとバランスが良くなると思います。

色々と難癖をつけましたが、戦いの推移が詳細に書かれ、またきめ細かく地図が挿入されていて、読んでいて理解しやすく、面白かったです。きちんと出典がつけられているのも好印象です。お疲れさまでした。--Arawodas 2009年5月11日 (月) 09:39 (UTC)[返信]

  • (執筆者コメント)コメントをありがとうございます。
  1. (文献情報の提示)脚注の記述方法については、脚注を読まずに目に付いた他の記事を参考にして、よく知らないまま手探り気味にやっていました。より適切な記述方法に改めるため、これからコメントの指摘と秀逸な記事、新規作成した旗巻峠の戦いの脚注を綺麗に整えてもらったikedat76さんの編集を参考にして直していきます。
  2. 磐城に対しては、磐城国が定められた後の地図を使って説明していたため、磐城国の方が読み手が把握しやすいかなと考えて使用していました。とはいえ、百科事典としてはまず第一に正確性を追求すべきところですので、そこは私の勇み足ですね。修正いたしました。
  3. 体言止めの多用に関しては、本業の文体の悪癖がでてしまいました。百科事典にとって臨場感や余韻は重要ではないと、今更ながら気づきました。その上、体言止めのせいでかえって文の連なりが読み取りづらくなって本末転倒でした。早速、修正いたしました。
  4. 仙台藩記らはこの脚注の書き方なら一次資料の引用になるのでちょっと好ましくないかなと考え直し、参考文献にどのような形で紹介されたのかを記載しました。
  5. 『補訂戊辰戦争史』の初版については、『戊辰戦争史』発行の1968年の方が初版の発行年になりそうですね。訂正いたします。
  6. 脚注と参考文献の位置関係については順番があるとは知らなかったので、これを機にその様にいたします。
  7. 戦争テンプレの年月日の項で開戦日のみを記述していますが、戦いは一か月以上に渡ったのですから、XX年A月-B月のように期間表示した方が妥当と思います。」というのはまったくその通りで、相馬中村藩の降伏というわかりやすい戦闘終結を示す出来事もありますので、期間を表示しないのは単純に不親切でした。
  8. という表記はこれは言い訳の余地もなくtypoでして、閏を見落としたまま使い続けていました。赤面しつつ、これも修正いたしました。
  9. 補給を海路に頼っていたという記述については言葉足らずで、平潟上陸時の極めて一時的な状況のことでした。当時宇都宮の藤原らでの戦闘があったとしても、常陸の水戸藩松岡藩とも新政府側にあって笠間藩も陸路を通って援軍にきているため、この記述は矛盾の塊になっていました。捕捉して修正いたします。
  10. 戦後処理で戦後の高度経済成長期のことにまで触れたのは、筆が滑ってしましました。手元の資料では明治以降の磐城地方の記述が石炭を除いてほとんどありませんので、バランスの悪い書き方になってしまったのだと思います。今度の休日に地域史の資料を探しにいきますね。

ご指摘、感謝します。--ヒトナミ 2009年5月11日 (月) 16:24 (UTC)[返信]

  • (コメンテーターコメント)丁寧に出典を示しながら、出来事を詳細に追った記事だと思います。詳しくは知らないまでも、興味深く読めましたが、他方、いくらか戦況の実況中継の書き起こしを読んでいるような気持ちになってしまうところもあります。百科事典を引く人は、必ずしも詳細な出来事を追いたい人ばかりではなく、たまたま関連する地区に住んでいたり旅行したりしたことや、何かの小説などで題材にされていて項目に関心を持ったという人もいます。概略や、戊辰戦争全体の中での位置づけや意味合いについての記述が、この項目の中でももう少し欲しいな、さらに言えば、この項目についての調査や執筆への意欲は、執筆者の関心が原動力となるものだと思いますし、労作だと思いますが、それと同等の熱意を持つわけではない読む側の視点への配慮を意識すると、百科事典らしい記事になってくるのではないかと思いました。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)一読してすごいと思いました。戦闘経過が克明なだけでなく、地図や表、主要人物の画像が添えられているためにとてもわかりやすいです。反面、すでに指摘があるように、あたかも戦闘が中継されているかのように読めることについては、戦記物でない百科事典でここまでこと細かく経緯を書く必要があるだろうか、と感じたのも事実です。あえていえば、この記事の「簡略版」とでもいいますか、これ以上付け加えるのでなく、どう削るかを考えてみることで、経過を簡潔にまとめ、その中に盛り込まれている、戦いの戦略的意義や参加した各藩・諸隊の特徴や動向といった要素をより引き立たせる方向性もあるのではないでしょうか。いずれにしても、労作であることには変わりなく、完成度の高さには感心しました。--みっち 2009年5月16日 (土) 01:58 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)参考にした書籍において、局地戦において負けが込んでいったことが仙台藩の積極的な出兵意欲を削ぎ、ひいては同盟軍の戦意の低下に繋がっていったという見方がされております。そのため、いかにしても力が及ばなかった局地戦の様子を丹念に書くことが、後の仙台藩の降伏を理解する助けになると思って書いていましたが、確かに微細に入りすぎていました。百科事典としてバランスの良い記事というのは中々難しいものですね。まず、百科事典にふさわしい書き方について、きっちり理解したいと思います。--ヒトナミ 2009年5月22日 (金) 12:18 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)とても充実した記述で、事象を理解するうえで良い記述だと存じます。既に他の方が触れられています様に充実した詳細な記述がございますが、読んでいて急にここへ突入しますと読むのに(良い意味で)骨が折れます。間に、戦いの流れを概観する節があると、概略を知るにも助けになりますし、読み進める上での手掛かりにもなるでしょう。編集お疲れ様です。東 遥 2009年5月24日 (日) 03:26 (UTC)[返信]

神京・京宝特急 編集

神京・京宝特急ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)書誌情報はテンプレートを使用して提示するのがよいと思います。--Kanbun 2009年5月7日 (木) 14:59 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)書誌情報に関しては私も気になりました。あと、鉄道の記事ということであれば、地図と写真がどうしても欲しくなります。関西の地理に疎い私としては、今の阪急京都線と京阪本線が淀川の右岸、左岸に並行して走っていると気づくまで、ちょっと時間がかかりましたし、鉄道車両の写真が残っていると印象が変わってくるものと思います。結構、画像依頼に関しては厳しい要求かもしれませんが。--Tantal 2009年5月10日 (日) 12:38 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)おもしろい存在があるのですね。興味深く読めました。気になったのは、「通称」を項目名にしていて、またナカグロ(「・」)のある記事名を使っていることもあって、この名称でこの記事にたどり着けるのかどうか、というところです。リンク元を見ると、コンテスト関係以外からは孤立しているようですし、この記事を読んでもらうためには、全体的な整備が必要でしょう。また、それなりの数の参考資料を用いているのですから、記述と、その情報源の結びつきは、全体の参考資料とするよりは、脚注などを用いて直接関連付けるほうがわかりやすいと思います。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)私もこういう分野は関心があるので、勉強になったところですが、関心の薄い方々から見て、この項目の特筆性が見えにくいものがあることも事実です(私自身は日本語を母国語とする日本のビジネスパーソンから見て特筆性に疑問の余地のあまりないこエントリーしていて均衡上こともありますが)。私は関西の事情に疎いのですが、十三から梅田を経由せずに拠点を結ぶ列車があったということには特筆性を感じますが、2009年現在の運転系統はどうなのですか、と思います。--O fudo 2009年5月16日 (土) 13:50 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)既に指摘されています様に写真や、路線図、その変遷等もあれば、より判りやすく親しみやすいでしょう。全般として充実した記述で読みやすいと存じます。編集お疲れさまです。東 遥 2009年5月24日 (日) 05:26 (UTC)[返信]

公示地価 編集

公示地価ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)現状だと、目次構造に不具合があるようです。「3.2.」のところですね。「*」と「:」の記事での多用は、賛否分かれるところと思います(私はどちらかというと好みません)。おそらくこの記事の場合、「*」と「:」を使わなくても書き様はあると思いますので、そこはウィキペディアの標準に近づけてはどうでしょうか。あと書誌情報はテンプレートを使ってはどうでしょう?--Kanbun 2009年5月7日 (木) 15:12 (UTC)[返信]
    • 段落名は、後で入れようとしてそのままにしていました(^^;)。ということで入れました。書誌情報などは、不勉強なものでこれから追々と言うことで… --O fudo 2009年5月9日 (土) 12:53 (UTC)[返信]
  • (コメンテーター)(1)箇条書きの多用については、私もネガティブです。情報が断片化し、全体の流れが分かりにくくなるからです。そのこともあって、全般に、文章全体の流れがとらえづらい印象があります。Seeテンプレートも、本文のどの部分に対応したものかが分かりにくく、文章の流れを断ち切るような位置に置かれてしまっています(土地#資産としての土地へのSeeは不要でしょう)。(2)「歴史」の項が具体性を欠くために意味するところが分かりづらいです。「都道府県地価調査が定められ、地価公示との相互の連携も進められた」とありますが、具体的にはどういうことでしょうか。「評価手法である鑑定評価にも変化があった」とありますが、どういう変化でしょうか。その次の段落も、もっと端的に書いてほしいところ。個人的に手を入れるとすれば「公示地価は、当初は……という形で公表されていた。しかし、取引価格情報の整備を訴える意見を受け、○○年から、国土交通省のウェブサイト内の「……ライブラリー」において取引価格情報とともに掲載されるようになった。同サイトでは、これらの情報を一元的に掲載する意義について……と説明している。」という感じですが、いかがでしょうか。(3)文章表現に関して、主語・述語の対応を推敲してほしいのはもちろんですが、助詞「も」の多用に注意が必要でしょう。例えば「日本において取引価格情報整備の必要性を……」、「インターネットの普及進んだ」、「国土交通省のページで」、「公示価格」と頻出しますが、必要でしょうか。(4)批判的に見れば、地価公示法に書くべき内容と公的地価という項目に書くべき内容をつなぎ合わせたものという見方もあり得るところです。本記事の存在意義を見いだすためには、「日本における公的地価」の項を「他の公的地価との関係」として、他の制度との比較・関係という視点から公示地価の位置付けについて書いていくという方向が考えられると思います。--ゴーヤーズ 2009年5月9日 (土) 17:45 (UTC)[返信]
  • (コメント)ご指摘の、「地価公示法に書くべき内容と公的地価という項目に書くべき内容をつなぎ合わせたものという見方もあり得るところ」につきましては、実はエントリーしてから地価公示法の存在に気づいて、将来的にはともかく、今回ははそちらをあまりいじりたくない、というのもあります。あと、エントリー項目へのリダイレクトとなっている基準地調査価格というのがあり、これは単独項目とするには難があり、公示地価と一緒にしたい、ということもあります。基準地調査価格は、地価公示法とは法令が完全に別であり、地価公示法で一体的に扱うことも無理があるので、地価公示法を公示地価に統合することも考えられます。他の国の件については、断片的な話は聞いてますが、とても加筆できるレベルではない、という状態です。--O fudo 2009年5月16日 (土) 13:50 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)歴史、定義、評価などがバランスよく書かれていますし、よく見かける単語で、有用な項目だと思います。日本「独特」のものだということを、最初の段落で明らかにしておかないと、やや混乱するように思いました。他国にもあるが、日本は独特で、他国には触れず日本のことについて説明しているのか、日本にしかないのか、といったことが判然としないまま、読み進めるのは、けっこう難しかったりしますですよ。--Ks aka 98 2009年5月15日 (金) 19:32 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)良く耳にする言葉でありながらこうゆう事だったのか、と言う事を教えてくれる、とても良い記事だと存じます。ひとつ、冒頭部分が少々長い様に存じますので、「土地の財としての性質」と「土地取引の指標となる情報」は単語と極簡単な説明にとどめて、実際の説明は本文に移しても宜しいかと存じます。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 05:32 (UTC)[返信]

分野B 編集

アイシング (冷却) 編集

アイシング (冷却)ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)私のコメント自体が間違ってるかもしれませんが、そうであればご容赦下さい。(1)アイシングは多くの目的で行われるようですが、大体いくつかに区分できるようなので、冒頭で主なものについて簡単に理解できる構成になっているとよいのではないかと思います。「具体的な活用場面」の節を見る限り、「体温を通常に戻す」「止血」「代謝を遅らせる」「痛み止め」「筋スパズム防止」などがあるようですが、冒頭3節(緒言、生理的効果、アイシングの方法)にそのいくつかは含まれていないように思います。例えば「熱中症」を前提に冒頭3節を読んでも意味が通りにくいのではないでしょうか。(2)RICEやクライオストレッチについては知らない人が多いと思うので、冒頭でも簡単に触れておいた方が記事の理解がしやすいと思います。また、アイシングをするのがよいとは限らない、というのもかなり後ろのほうにいかないと出てこないので、これも冒頭で簡単に触れておいた方がいいと思います。(3)ウィキペディアでは文献が正しいかどうかについて気にしなくていい、ということにはなっていますが、「摂氏0℃の氷が最も大きな冷却能力を持つ」というのは疑問です。この「冷却能力」とは冷却速度と別の意味なのでしょうか?0℃の氷の比熱が大きいというのはその通りでしょうが、冷却には単純に温度差が効くように思います。「-5℃の鉄板よりも0℃の氷の方が・・・」なら意味が分かりますが、-5℃の氷の方が0℃の氷よりも冷却能力は高いように思うのですが。--Freetrashbox 2009年5月10日 (日) 11:51 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)Freetrashboxさんのコメントを読んで、冒頭部の表現に改善の余地があることを認識しました。ありがとうございます。なるべく早く取り組んでみるつもりです。「氷での中で摂氏0℃の氷が最も大きな冷却能力を持つ」の冷却能力が何を意味するかについては文献をもう一度当たってみようと思いますが、そこに「冷却能力」としか書かれていない時には自分にはお手上げです。やはり予備知識のない分野の記事を書くというのは難しいことだなと実感しています。-- 2009年5月10日 (日) 16:46 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)自然科学分野の中では、このような記事は個人的にもっとも苦手とする分野なのですが、比較的わかりやすいと思います。ただ、他の方も書いているようですが、なぜ0℃の方が冷却能力がよいのかという点が分かりませんでした。0℃で冷やすのが最も安全とか、逆に冷やしすぎると良くないとか、そういう理由なら納得いくのですが…。--御門桜 2009年5月13日 (水) 08:35 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)ありがとうございます。ほとんど予備知識がない分野の記事なので、背伸びをせずに自分の理解できたことだけを書いたことがよかったのかもしれません。0℃の氷の冷却能力については下にコメントします。-- 2009年5月15日 (金) 13:40 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント(氷の冷却能力について))Freetrashboxさんと御門桜さんのコメントを受けて、氷の冷却能力について、改めて参考文献を調べてみました。山本利春・吉永孝徳 『スポーツアイシング』 によると、冷却能力とは1グラム当たりの融解熱の高さからくる冷却の効率を指すようです。つまり、同じ質量の氷を用いるなら0℃の氷が一番いいということだと思われます。「マイナス温度の氷の温度を1℃上げるのに要するエネルギー量は0.5cal/gで、0℃の氷の融解熱(79.7cal/g)の160分の1ほどに過ぎない」という趣旨のことも書いています。私は単純に「なるほどなー」と思ってしまったのですが、お二人はいかが思われますか?ちなみに深沢英之(監修)『病院へ行かずに体のトラブルを治す本 - ひとりで出来る簡単アイシング』にも同様のことが書かれているのを見つけました。-- 2009年5月15日 (金) 13:40 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)氷の冷却能力の点についてご説明ありがとうございます。納得のいく説明です。というか、私も単純に「なるほどー」と思いました。本記事の方に同じような疑問を抱く方もいらっしゃると思いますので、反映をお願いいたします(行き違いでしたら申し訳ございます)--御門桜 2009年5月16日 (土) 08:29 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)冷却能力に関する部分を改変しました。Freetrashboxさんが指摘された冒頭部についても改変しました。なんとかコメント期間内に間に合ってよかったです。-- 2009年5月16日 (土) 10:46 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)単なる医療ガイドではなく、きちんと百科事典らしい記事になっていると思います。基本的なことから「活用法」で広がりをつけて、「具体的な活用場面」では個別に、という節の立て方が、読みやすさに繋がっているように思います。
「負傷・疾病への手当てとして局所的に冷却すること」の歴史について書かれていないことが気になりました。おそらく誤解も含めて民間療法として古くから存在し、医学、スポーツ科学の分野で検証や応用が進んできたのだと思いますが、そういう歴史が知りたい。それから、氷嚢や氷枕、実際にアイシングしている場面の画像をなんとか得られないかなと思いました。素朴な疑問として、火傷したときに、応急手当的に流水で冷やすというようなこともあると思いますが、水による冷却(または摂氏0度以上の冷却)は、用語法としては除外されるのでしょうか。アイシングは、この項目が占めるべきかな、と思ったり。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:06 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。構成についてはかなり悩みながら下書きをしていったので、評価して頂けてうれしいです。歴史については確かに今後の課題ですね。主に歴史について言及した文献が見つからなかったので、使えそうな文献が見つかれば加筆したいと思います。アイシングの方法としては氷が最もよいとされているだけで、水による冷却もアイシングに含まれます。#スポーツにおけるアイシング#突発的な症状に対しての熱傷のところで言及していますが、冒頭部などにも加筆してみました。画像も、おっしゃる通りもう少し充実させたいですね。ピッチャーが試合後に肩をアイシングしている画像がどこかにないか探してみたのですが、見つかりませんでした。-- 2009年5月17日 (日) 14:02 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)アイシングについて色々と判りとても参考になりました。生理学的な機能にまで踏み込んで冷却の効能を説き、その辺りは理解できました。一方で、「具体的な活用場面」のところで、個別の事例については「アイシング」する、の表現に留まり、それぞれ具体的にどのような方法や器具を使うとよいのか、疑問に思いました。まぁ百科事典でそこまで求めるのも一寸違いますが、そのあたりも踏み込んでみるとなお奥行きが深いでしょう。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 06:16 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)コメントを頂きありがとうございます。アイシングの具体的な方法については、深く踏み込もうとすると言葉だけでは表現できない部分が増えていく(包帯の巻き方や器具の装着法などについてイラストや写真が必要になってくる)という問題がありました。私にはアイシングに関するイラストを書いたり写真を撮る技術がなかったので断念しましたが、ご指摘の点が今後の発展の余地であることは間違いないと思います。-- 2009年5月24日 (日) 13:32 (UTC)[返信]

付加体 編集

付加体ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)簡潔で分かりやすい、いい記事だと思います。(1)英語をaccretionary prismとしていますが、右上図ではaccretionary wedgeとなっているので、こちらも挙げておいて欲しいです。(2)岩石がそれぞれの過程で堆積してゆく様子について、できればイラストがあった方がいいですけど、難しいでしょうか?また「日本列島における付加体の状況」の節、この説明どおりに地域ごとにくっきり分かれているのであれば、できれば日本地図上の分布図が欲しいです。と思ったのですが、外部リンクの記事にすでにありますね。これの丸写しは著作権上まずいでしょうが、できればウィキペディア上のイラストも欲しいです。(3)「熱水の湧き出しによる『金属鉱床』が形成される」とありますが、ここは後の記載との整合性を取る意味でも何らかの形で熱水鉱床の語を盛り込んだ方がいいと思います。また、金属鉱床の例として別子銅山を挙げていますが、佐渡金山とか石見銀山とか有名どころも関係あるなら入れたら面白いと思います。関係ないなら、付加体由来の鉱山とそれ以外の鉱山の区別の目安があるとよいと思います。--Freetrashbox 2009年5月10日 (日) 02:48 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)門外漢ですが、とても興味深い記事でした。まず導入部分が良かったと思います。地質学者の見解をそえることでこの概念がとても重要だと理解でき、また概念の節では付加体の形成を海洋プレートから語ることで古生物学的にも重要であることがわかりました。このあたりは化石好きの少年が読むには難しいかもしれませんが、しかし興味深く読んでくれるかもしれないとも感じます。1つ欲を言えば、新旧地層の逆転現象で、具体的な例を画像として示せればいいなと思いました。--月下薄氷 2009年5月13日 (水) 08:19 (UTC)[返信]
    • (執筆者より)こんばんはMiya.mです。拙文をお読みいただきありがとうございます。地学好きのアマチュアとして、「分かりやすくて面白い」記事を目指しておりますので、Freetrashboxさんと月下薄氷さんのご感想は嬉しい限りです。お二方が述べられている「分かりやすい」画像につきましては、私自身も「いいのがないかなー」と探しています。なおFreetrashboxさんにご指摘いただいた1項目目は対処しました。その他のご意見についても気長く改善して行きたいと存じます。Miya.m 2009年5月14日 (木) 15:59 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)非常にわかりやすい、百科辞典としてわかりやすい記事だと思います。模式図なのですが、おそらく多言語で使用できるように英語にされたのかと考えておりますが、再利用できるような気配りがすばらしいと思います。ただ画像サイズが少し小さいので、コモンズで大きい画像を見ようとしたら、みられなかったのが少々残念です。--御門桜 2009年5月16日 (土) 08:37 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)なんとも興味深い記事ですが、書き方によってはややこしくなりそうな題材をわかりやすくまとめられていると思いました。「概要」の最後に日本以外の付加体が二つだけ書かれていますが、沈み込みのあるところでは常に付加体が陸地を形成するわけではなく別の条件があるのか、あるいは付加体であるかどうかについての研究・調査が進んでいないのか、といったところが知りたいと思いました。「USGS_Visual_Glossary-Accretionary_wedge.gif」は、日本語がいいなあ。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:06 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)日本語版だとわかりやすいように、模式図は日本語と(今後他の言語で使われるようであれば)英語との2種類あったら便利かなと思います。--御門桜 2009年5月17日 (日) 14:09 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)対象を知るうえで大凡過不足なく判りやすく纏まっているのではないかと存じます。ものすごく無い物ねだりするなら、プレートの移動に伴い付加体がどんどん陸側に着いていく、というGIFアニメがあるととても判りやすいですね、と言う位に、完成度が高いのではないかと。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 11:18 (UTC)[返信]
(執筆者より)冒頭の図は、Ks aka 98さんのご指摘の通りアメリカ政府関係から引っ張ってきました。日本の公式団体の画像も早く使えるようになって欲しいです。「GIFアニメ」は私も欲しいです。たくさんの言葉を費やすより、一発で理解できますよね。20年以上前、海洋プレートの海溝への沈み込みによる巨大地震発生メカニズムの説明で竹内均先生がTVで、二つのコンニャクを使って説明しているのを見て「あっそうなんだ!」と感動した記憶があります。Miya.m 2009年5月24日 (日) 13:57 (UTC)[返信]

複合性局所疼痛症候群 編集

複合性局所疼痛症候群ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)非常に分かりやすい記事になっていると思います。(1)英語版へのリンクはen:Complex regional pain syndromeの間違いでしょうか?(2)普通の人が知らないような単語で、ウィキペディア日本語版に記事の無い専門用語には、原語とごく簡単な解説があるとよいと思います。医学用語は日本語表記に揺れがあるせいか、知らない人にはなかなか検索が難しいので。例えば「カウザルギー(causalgia、神経が切れているのに感じる痛み)」のように(カッコ内は私が適当に書いたものなので間違っているかもしれません)。また、神経伝導速度試験など、英語版に記事があるものはそこへのリンク(en:Nerve conduction study)があるとよいと思います。また、振戦ジストニア協調運動障害のように、内部リンクがある場合にはできるかぎりリンクを付けて欲しいです。サーモグラムも[[サーモグラフィー|サーモグラム]]としてよいと思いますし、もし別物なら「サーモグラフィーは○○であり別物」と説明があると親切だと思います。日本語に関しても「寛解」などは普通の人には難しいと思いますので簡単な解説が欲しいです。「ステージ」を「病期」と同じ意味だと思っていたのですが、違うなら解説が欲しいです。(3)IASP 2005とCRPS研究会 2008の違いはおそらく国際基準と日本(日本人向け?)基準の違いだと思うのですが、この記事ではそこが明確ではないので、分かれば解説があるとよいと思います。(4)この記事へリンクしている記事が少ないです。過剰になってはマズいですが、よその記事からも最低限のリンクを作った方がいいと思います。例えば後遺症の「後遺症の例」に説明文を足す、交感神経系の「関連」にこの記事へのリンクを足すなど。--Freetrashbox 2009年5月8日 (金) 21:43 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)必要なことを簡潔にまとめた記事だと思います。やや表現が専門的なところがあり、専門に学ぶ人ではない読者のことを意識して言葉を選んだり、短くとも説明となる修飾句を加えていくと、よりよくなると思います。肩手症候群/外傷後ジストロフィー/ズデック骨萎縮/交感神経性持続疼痛と「分類」の関係がわからない。実際のところはわからないけれど、表現としては、たとえば「RSDがこれに相当する」を「RSDはこれに相当する」または「これに相当する既存の分類としてはRSDが代表的」などと範囲をぼかすか、分類の節の最初に、「既存の分類は必ずしも以下の分類に対応するものではないが云々」という説明があるとよいと思います。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:06 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)内容が濃く、簡潔でにまとめ上げた記事だと思いますが、ちょっと専門的な表現が多いため補足的な項目があればなおよいかと思いました。また、赤リンクが記事中に多いのですが、これは類似項目は全くないということでよろしいのでしょうか?ちょっと気になりましたので。--御門桜 2009年5月17日 (日) 14:12 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)対象について一通り抑えていると存じますが、読む上である程度の知識、それと専門用語について承知している事が求められるかと存じます。文面を見ていきますと、怪我・原発の疾患が治っても痛みが残る、特段の怪我や疾患が無いのに痛みを感じる、目立った外傷はないが浮腫・皮膚温異常等に痛みを感じる、という認識で宜しいでしょうか。冒頭部分にある程度平易に説明頂けると親切だと存じます。既に他の方も述べられていますが、全般に専門用語が多いので、多少の補足をしながら説明を進めると宜しいかと存じます。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 11:18 (UTC)[返信]

国鉄マニ36形客車 編集

国鉄マニ36形客車ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (執筆者より)「分散している記事を集約する」を目標にしてみたのですが「裏打ちがないとしっかりとした記事を書くのは難しい」を具現する形でコンテスト期間を終了する形になってしまったのが残念ですが、Template:mainを使用したこの記事への誘導や「今ある記事と文献をつき合わせる」ことで記事の精度を上げていく編集のやり方もある、ということを理解できたことは収穫かな、と考えています。記事の執筆に「完成はない」と考えていますので「精度の高い記事づくり」(欲を言えば「秀逸な記事」を目指して」)をお手伝いできればいいな、と考えています。--福11 2009年5月9日 (土) 12:41 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)鉄道のことは全く知らないので、まとはずれなコメントになっていたらごめんなさい。(1)読者レベルをどこに想定するのかにもよりますが、予備知識が無い人には少々レベルが高いように思います。専門用語には内部リンクか簡単な解説があるとよいと思います。例えば「外妻貫通路」、「3位側、4位側」などは普通の読者には難解でしょう。「外妻貫通路(○○に設けられた△△用通路)」のようにしてもらえるとありがたいです。(2)「運用の変遷」の節は「概要」の次ぐらいに欲しいように思います。そして「概要」と「運用の変遷」だけ読めば「マニ36形ってのはこういう荷物車だった」ということが一応分かるようになっているとよいように思います。まず、マニ35形、マニ36形、マニ37形の共通点がよく分かりません。これ以前や以後の荷物車は改造ではなく新造で作られたということなのか、それともこの3つは形状などの共通点があるのか、ぱっと読んだだけでは分かりにくいとおもいます。特にマニ37形はパレット車と異質なので、なぜ35形、36形とセットになっているのか解説があるとよいと思います。(3)関連記事荷物列車によると、マニ36形は荷物輸送のピーク時である1963年を支えたのではないかと思うのですが、この車両で新聞以外のどんな荷物が何のために運ばれたのか、1963年から減少に転じたのはなぜなのかが書かれているとよいと思います。(この記事ではなく荷物列車に書くべきことかもしれませんが。)(4)この記事だけの問題ではありませんが、Wikipedia日本語版には貨物を輸送するための列車についての記事は多いですが、その関連性がよくわかりません。多分、小型の輸送物は荷物車、大型または大量の輸送物は貨車で運んだ、ということのようですが、多くの人は混同しているでしょうから、この記事でも冒頭で「用途記号が「ニ」であることから荷物車に分類され、[[チッキ|小荷物の輸送]]に使われた」のように書いておくと親切なように思います。(この記事とは直接関係ありませんが、他の輸送手段や社会背景と関連させての、日本での荷物を運ぶための鉄道の歴史記事が必要なようにも思います。すでにあるならそこへの内部リンクがあるとよいと思います。)--Freetrashbox 2009年5月10日 (日) 02:14 (UTC)[返信]
  • (執筆者より)コメントありがとうございます。順を追って・・・(1)改造前の車両がカテゴライスされている記事(ex.国鉄スハ32系客車国鉄オハ35系客車など)からの参照を基準に考えていましたので、言われると確かに「用語」に関する説明が抜けていますね。鉄道車両をもとに追記していこうと思います。(2)国鉄スニ40形客車の記事構成をベースにしてみたのですが、言われて「目からウロコ」です。ほかの鉄道車両記事の書き方にとらわれすぎていたかもしれませんね。それとこれら3形式の共通項としては従来の荷物車(マニ32形とマニ60形の初期鋼体化車まで)とは異なりいずれも旅客車からの改造車であることが挙げられます。時系列では1962年から座席荷物合造車の乗務員室を流用する構造のマニ35形へ改造開始、その運用実績を基に1966年から車内構成を共通設計したマニ36形へ変更、1967年から1968年にかけてマニ36形の車内構成を基にカゴつき台車(ロールボックスの一種。記事中のパレットはこれを指しています。これも追記しておきます。)搭載に対応した床構造を持つマニ37形が登場、という形になります。(同一形式から改造されたマニ36形とマニ37形の形式図を並べるとその違いがわかるのですが)(3)この時期の荷物車事情については私も詳しくはないのですが、1963年時点では(鋼体化車・改造車をあわせた)マニ60形が主力車種になっていると考えられます。輸送量が減少に転じたのは一般型客車を使用する優等列車(当時三等荷物車は旅客の手回り品の預かり所としても使用されていました)の電車あるいは固定編成客車への移行により「運ぶための列車が減った」ことも一因といえるのではないかと考えられます。(4)言われるとおりで、貨物輸送に対して荷物輸送に関する記事が少ないためにどの記事を参照させるかに悩んだあげくアンカーを張らなかったというのが実際のところです。記事「荷物列車」に歴史なり沿革の項目があってもいいかな、とは私も感じています。書き忘れていましたが宅配便のように大きさ・重量・一件口の数量などの条件に合致したものは小荷物として扱われ、これらの条件を超えるものは貨物として扱われたのではないかと考えています。--福11 2009年5月10日 (日) 09:07 (UTC)書き漏らしがありましたので追記。--福11 2009年5月11日 (月) 12:29 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)資料を基に、丁寧にまとめられた記事だと思います。冒頭部と概要のところで、いかにわかりやすく説明するかというのがかぎとなるような気がします。
「用途記号が「ニ」であることから荷物車に分類され」だと、先に記号を振られて、その結果荷物車に分類された、と読めますが、おそらくは「荷物車として使用するために改造して記号としては「ニ」が振られた」のでしょう。「ス」というのは、客車の記号のひとつで、客車から改造したからこの記号が残っていると推測しますが(国鉄客車の車両形式#ス級)、客車であることを除けば改造元車両の種別はそれほど問わずに扱われる車両群、なのでしょう。そんなようなことを、今の「概要」の節に書かれている「改造を必要とした理由と経緯」に加えてまとめてもらえると助かります。「需要増と世代交代に応えるために」みたいな小見出しは百科事典としては不要だと思いました。また、母体となるような記事があるならば、やはり冒頭部か概要のところで内部リンクを置き、必要なら文章でそちらを参照するように促すことが望ましいと思いました。形式別解説のところは、網羅的に情報を書き連ねる必要があるでしょうから、読みやすさはある程度犠牲にしなければならないのだと思います。その分、形式別解説は読まなくとも、概観がつかめるような配慮が欲しい。新旧番号と施工場区、落成後の配置区所などの対照は、表にしてしまったほうがよいかもしれません。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:06 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)鉄道は好きなので大変興味深く拝読させていただきました。丁寧にまとめられていると感じました。ただ、少し記事内容が難しいような気がします。形式別解説のところがやはり雑多になるのは仕方ないとしても、表組を使用された方がよかったかもしれません。--御門桜 2009年5月17日 (日) 14:21 (UTC)[返信]
  • (執筆者より)コメントを頂きましてありがとうございます。順番が前後しますが・・・(1)新旧番号対照は作表する、または(国鉄60系客車に対応する国鉄60系客車の新旧番号対照のように)子記事化するなど「見通しをよくする」方法を検討してみます。(2)「概要」の書き出しですが、マニ37形だけはその登場にいたる経緯がほかの改造車とは異なることからそれを分けて書くほうが見やすいかな?と私なりに考えたからなのですが・・・ここも要検討、ですね。
「書き出すだけ書き出した」的な部分も多々ありますので、これから中身を練り上げて「読みやすく実のある」記事にしていきたいと思います。--福11 2009年5月17日 (日) 14:51 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)とても力作だと存じます。一方で気になった点が2点あります。一つは、これは何の記事か、という事です。表題は「客車」となっておりますが、では、客車についてのお話かと思いますと、そうでもない、恥ずかしながら実は初めて読み進めた際には、「荷車」を「客車に転用したもの」という誤解をしてしまいました。「座席車改造」荷車群、というのも、もしや荷車であったものを客車にしたのか、戦後の混乱期、物不足の時代ならあるかも、なんて、振り返れば恥ずかしい理解でしたが。冒頭に、「1966年より製造した客車の車両群を指し」と「用途記号が「ニ」であることから荷物車に分類され」が並立して、その関係が良く見えませんので、「客車を荷車に改造して使用した」という事を示す表現が必要だと存じます。もう一つは、記事の内容について。車両番号までに踏み込んで記述されたあたりの熱意を感じますが、「国鉄マニ36形客車」を理解するうえでここまで踏み込む必要があるのだろうか、という辺りが疑問です。その面から言えば、個別の車両についての記述よりは、どれか一つの車両について、改造の前後の写真を並べて「これが、こうなった」と示し、具体的に何処をどう工事したのか、を説明するのが本記事については有用ではないだろうか、と存ずる次第です。少々厳しい事を申し上げましたが、この2点を改良いただくと、よりわかりやすい記事になるかと存じます。東 遥 2009年5月24日 (日) 06:16 (UTC)[返信]

(執筆者より)皆様より「見づらい」と指摘が多かった新旧番号対照を(内部リンクで参照できる範囲を除き)wikitableで置き換えてみました。多少見づらさは改善できたかと思うのですが・・・--福11 2009年6月4日 (木) 12:29 (UTC)[返信]

粘着式鉄道 編集

粘着式鉄道ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)ひじょうに面白く、分かりやすい記事だと思います。◆すべり率の数字の例が欲しいです。できれば鉄道以外との比較もあるとよいと思います。◆「粘着係数の変化」の節、初心者(私も)は図がある場合にはまず図を頼りに理解しようとすることが多いと思うので、この節の冒頭で「粘着係数(粘着限界÷輪重)は一定ではなく、・・・」のように粘着係数を図中の用語で再定義しておいてもらえると良いと思います(くどいでしょうか?)。列車の速度と粘着係数の関係の箇所、水膜が厚くなるほど大きく輪重を負担する、という理屈が分かりにくいように思います。水膜が厚くなると、微小な突起物の一部が水膜に埋もれて、見かけ上の接触箇所が減るから、ということでしょうか。また、車の免許持ってる誰しもがハイドロプレーニング現象を連想すると思うので、関連があるなら触れておいた方がよいと思います。◆「実際の粘着係数」の箇所、粘着係数の許容範囲、および最適値があるよいと思います。それがあれば、乾燥時の「0.25 - 0.30」という値がベストなのか、あるいは濡れることを考慮して最適値より若干高めに設定しているのかがよく分かるのではないかと思います。鉄道の種類によっても違うのでしょうが。◆「多段制御・連続制御」の節、これはアンチロック・ブレーキ・システムと関係があるのでしょうか?アンチロック・ブレーキ・システムにも鉄道関係の記載があるので(これはブレーキの話ですがen:Wheel slide protectionによるとWSPは加速にも使うようなので)、この記事との整合性を取った方がよいように思います。◆「粘着と列車抵抗に基づく牽引定数の計算」「曲線の旋回半径」の節の説明は特に丁寧で、図も多く、非常に分かりやすいと思います。(カント (路線)は内部リンクが欲しいです。)--Freetrashbox 2009年5月6日 (水) 15:37 (UTC)[返信]
    • (執筆者回答)回答が遅れまして申し訳ありません。すべり率の実例ですが、参考文献のどれも値を示していないので何ともいえないです。もう少し探してはみたいと思います。水膜の件ですが、水膜が厚くなると、水が列車の重量を負担してしまって、車輪とレールの接触面の圧力が低下してしまう、ということだと思います。またご指摘のように突起の一部が接触しなくなるということもあるようです。ハイドロプレーニング現象との関係については、おそらく似たような現象だとは思うのですが、どの文献でも関係について言及しておらず、私もこの分野に詳しいとはいい難いので断言しかねます。実際の粘着係数の値は、実測するとその程度になるということであって、その後の式で示しているところが列車の走行を研究する上で前提とする数値ということです。多段制御・連続制御のところは、ABSとは直接は関係せず、ABSに相当するのは空転滑走再粘着制御の方だと思います。その他、ご指摘の点は次の休日にでも修正したいと思います。丁寧な査読ありがとうございました。--Tam0031 2009年5月12日 (火) 16:39 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)おもしろく読めました。力学的な説明や用語、数式も出てきますが、一見した印象としても、読み進めたところでも、難しさは感じませんでした。ノートのやり取りもいい感じで。
冒頭で「粘着式」が「一般的」というところは、「静摩擦に云々」という説明もありますが、ラック式やロープウェイの例を出して対比させるのがわかりやすいかなと思いました。ベルナーオーバーラント鉄道の線路の写真などがあるといいのかな。
「粘着と列車抵抗に基づく牽引定数の計算」「曲線の旋回半径」などは、鉄道に限らない「粘着現象」を鉄道に当てはめて教科書的に解説しているようなところがあるように思います。もちろん、「粘着係数の変化」や、「少しでも勾配があると牽引力は大きく落ちることになる。こうしたことから、牽引力を保つためにトンネル、切り通し、築堤、橋などを用いて線路をできるだけ水平に保つことが重要となる」などの記述、あるいは旋回半径がかなり大きなものになることや競り上がり脱線への言及はなど、記述の多くは粘着現象の鉄道分野における特記すべき事柄として本項目に書かれるべきでしょうし、「粘着現象」の項目が存在しない現状では、有用な記述であると思います。「粘着現象」の項目ができたところで、多少調整が必要になるのではないかと思いました。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:06 (UTC)[返信]
    • (執筆者回答)ありがとうございます。概要説に画像を貼り付けて説明を試みてみました。後段の「『粘着現象』を鉄道に当てはめて」のところはまさしくそうです。高校の物理で転覆限界については習った覚えがあります。粘着現象というよりは、既存項目の摩擦との間での調整が必要かもしれません。--Tam0031 2009年5月17日 (日) 17:38 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)何時も利用している鉄道の足許ではこんなことがあったのか、とてもためになる説明でございました。粘着現象の節では具体的にどの位の面積で接してるかなど数字も挙げられるなど、興味深く読ませていただきました。欲を言えば、粘着と列車抵抗に基づく牽引定数の計算の図において、12パーミルの説明図で下の車両の傾きと上の模式図の傾きが異なる点が、少々戸惑いましたので、これが一致する様にすると違和感がなくなると存じます。全般には構成・分量・説明の内容等適切だと存じます。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 11:18 (UTC)[返信]

性決定 編集

性決定ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (コメンテーター)生物学は専門ではありませんが、興味深く拝読させていただきました。温度によって性が決まる種もあるなんて、おもしろいですね^^ 節分けもきちんとしていて、必要なところだけ読みたい人にも親切な記事だと思います。一点、門外漢の自分が言うのはおこがましいのですが、「どうしてこのような性決定の違いが生じたのか」また「各々の性決定の方法は、その方法を取る種にとってどのような利点があるのか」といった研究はなされていないのでしょうか?「こういう性決定の種類があって、この生物種はこの方法」という研究結果は知ることができたのですが、「なぜ」の部分に言及が少なかったように思います。--Risenjudas 2009年5月10日 (日) 14:19 (UTC)[返信]
    • (執筆者より)コメントいただきましてありがとうございます。生物学の専門外の方にとって目新しく感じていただけるような記事を目指したので、Risenjudasさんの様なご意見を頂いて非常に嬉しく思っております。節分けについては、執筆途中で頂いたご意見によるものでして、的確なご指摘を頂いたことを改めて感謝している次第です。
      「なぜこのような違い?」「それぞれの利点?」と言った観点のご意見はもっとものことだと思います。ご指摘を受けて、そういったことについて説明不足なことが判りましたので、適切な情報源が発見(あるいは既に提示した参考文献を読み深めて確認)できましたら加筆したいと考えています。このことの詳しい説明(あるいは弁明^^;)が必要でしたら当該記事ノートに場を移してお話したいと思います。
      ここでは「特定の性決定方式を使っている生物の利点」についての情報だけ述べさせていただきます。「環境性決定を利用している脊椎動物では、遺伝性決定を利用している動物よりも環境変動に対して柔軟に対応することができる」と言う説があることが、英語版の『温度依存性決定(en:Temperature-dependent sex determination)』に書いてあります。この記事の翻訳を近々行いたいと思っておりますので、それを行った際には『性決定』の加筆に反映したいと思っています。--Janus01 2009年5月11日 (月) 13:50 (UTC)[返信]
      • 丁寧にお返事いただきありがとうございます。ノートも読ませていただきました^^ 理系の血が騒ぐ、知的好奇心をくすぐられる記事だったのでぜひたくさんの人に読んでもらいたいものです。今後のさらなる発展が楽しみです。--Risenjudas 2009年5月11日 (月) 14:40 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)表1で全体の概観がつかめるようになっているせいか、多様な内容を含むにもかかわらず、わかりやすくなっていると思いました。
特定の生物に偏ることなく、フラットに書かれている点は、とてもよいと思うのですが、逆に、性同一性障害や性分化異常症と呼ばれるようなところへの関心から、この項目にたどり着く可能性もあると思いますし、そのような立場を踏まえての研究もあるように思います。哺乳類の「性決定」については、いくらか加筆するか、この項目では広範な「性決定」を扱うとして別の項目への誘導するというようなことはできないかなと思いました(「性決定機構」あるいは「性分化」というような項目は作られていませんが)。
表のところは、文字が回りこむようにする、キャプションがキャプションらしく見えるよう枠で囲むなどしたほうがよいと思います。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:06 (UTC)[返信]
    • (執筆者より)細部までお気遣いいただいたコメントを頂きましてありがとうございます。ヒトまたは哺乳類の性分化およびそれに関する話題への誘導については、{{Otheruses|生物学的な動植物一般の性決定|人間の性分化|性別#人間の性別分化|人間の性分化異常症|半陰陽}}を付けてみました。性分化については英語版Sexual differentiationでヒトの例について詳しく解説してあるようですが、医学分野に関わり私の手には余りますので翻訳することは考えておりません。ただし、性決定遺伝子SRYについては、歴史および性決定カスケード遺伝子群について、近々記事を作ってみたいと考えております。
      表のレイアウトと文字の回りこみについては、使用するコンピュータやOSの設定に依存する部分はありますが、A4版での印刷を想定して作っておりました。文字の周りこみがある図表とそうではない図表があるのは、印刷したときに幅が広い図表ですと横にある本文の文字数が少なくなるので故意に分けております。図表には全体枠をつけたほうが確かに本文と見分けやすいのは確かですが、見栄えの点で躊躇しております。一応、図表と本文の間にスペースを増やして見ました。まだ見分けにくいようでしたら、お手数かけて申し訳ありませんが、今一度ご指摘下されば幸いです。--Janus01 2009年5月18日 (月) 09:26 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)章立て・構成等も適切でだと存じます。Ks aka 98さんも触れられている様に表1をはじめとして概観を最初に示して説明に入りますので見通しが良く読みやすいと存じます。また、参考文献等を丁寧にひいて記述されている点も安心して読めました。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 11:18 (UTC)[返信]

矢数道明 編集

矢数道明ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (ライバルコメント)数多くの参考文献にあたり、出典が丁寧に明記されていることに好印象を持ちました。文章に冗長さがなく、大変堅実な作りの記事だと思います。-- 2009年5月8日 (金) 12:12 (UTC)[返信]
  • (コメント)事実を淡々と記述するだけのスタイルですが、経歴をたどるだけで漢方医学に関する功績が浮かび上がってきました。WP:APTを順守する事例としてお手本にしたいくらい、素晴らしいです。気になることを一点。医史学に関する業績は、戦後が中心なのでしょうか。もしそうなら、「医史学」節は「戦後の業績」節の中に置いた方がいいような気がします。あるいは、「医史学」節の内容に戦前の事績も含まれるなら、死去に関する記述は前段の「戦後の業績」節の最後に置いてはいかがでしょうか。ここまでずっと年代順に事績を追ってきているので、生誕から死去までが一続きになっている方が収まりがいいような気がしました。--Arawodas 2009年5月9日 (土) 10:35 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)貴重なご意見ありがとうございます。改めて業績の前後関係などを文献にあたった上で編集に活かしていきたいと思います。
  • (コメンテーター)非常にテンポがよく、読みやすかったです。分野は違えど人物記事を分野Cでエントリーしている自分としても「こういう風に流れのよい記事にしたい」と思いました。細かいことですが一点、「漢方復興運動」節に「道明と大塚敬節が出会った1933年(昭和8年)は、「漢方科」の標榜を禁止する内務省令が出された年であり、」とありますが、これは当時の大学の学科名に対する指示という理解でよいでしょうか?若干唐突に感じました。--Risenjudas 2009年5月10日 (日) 14:38 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)過分なコメントをありがとうございます。また、貴重なご意見ありがとうございます。「標榜」(標榜科)と「大学の学科名」(学科 (学校))は異なるのですが、分野の異なる方への配慮が足りなかったと反省しております。「標榜科」とは、俗っぽく言いますと看板で広告できる「診療科名」として国が認めたものということになります。少しでもそのニュアンスが伝わるよう修正を試みてみました(差分)。--Tatsundo h 2009年5月12日 (火) 16:58 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)経歴、重要さなどが、よくわかる記事だと思いました。かなり古いものも含む多くの情報源を参照し、きれいにまとめられたと思います。とはいえ、…実は読み進めているうちは気づかなかったのですが、項目全体が経歴を追うもので、重要な事柄があると、それを節名にして、節わけをしている、というようになっています。それを思うと、経歴を追うなら、時期によって節分けをするほうがよいと思いますし、できれば、経歴としては出来事の順序を簡潔に示し、重要な事柄は経歴とは別のものとして改めて節を作り、本人の経歴から離れた、その背景や経緯、歴史的な意義などをまとめていくという構造が好ましいように思います。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:06 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)氏の活躍や経歴等が丹念に書きこまれ、また読みやすく纏まっていると存じます。資料も丁寧に使い安心して読めます。ちょっと物足りないのは氏の人となりが知れるエピソードなどが余り見えない点ですね。「軍医時代」の節の行動からある程度はわかりますが、どのような性格だったとか、そのような事が判る説明があると、なお、愉しく読めるのではないかと存じます。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 11:26 (UTC)[返信]

放射化学 編集

放射化学ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)出だしの文は簡潔で分かりやすいと思います。ただ、全体的にはぱっと読んで分かりづらい箇所があります。英語版からの訳とのことですが、英語版の記述も正しいとは限りませんので(特に科学に関しては)、あいまいな箇所は省いてもかまわないと思います。
    「活性化の研究」の節、「ナポレオン・ボナパルトと共にその研究は訪れ、ヒ素の内部の投票者によって審査された」となっていますが、これでは一般の人には意味が分からないでしょう。意味が通りにくい場合は、思い切って英語版の記載は捨てて、キーワード「ナポレオン 中性子 砒素 site:ac.jp」でGoogle検索して、そのサイトを出典に新たに書いたほうが分かりやすいのではないかと思います。例えば上位でヒットするオメメの化学講座6など。日本語の出典が充実すれば、読む人にとっても便利になると思います。おそらくこの箇所は「放射化学を応用してナポレオンの毛髪を分析し、通常人より多量の砒素が含まれていることを証明した人がいる」ぐらいではないでしょうか。次の「生物学的用途」の節、これも英語版をそのまま訳しただけでは分かりにくいでしょう。この話の前提として「自然界のリンの大半は31Pである」ということを書かなければ一般の人には理解できないのではないかと思います。例えば「自然界のリンの大半は31Pなので、生物体内のリンの一部を人工的に32Pと置き替えて、その動きを追うことで体内の物質の動きを解明することができる」などではいかがでしょうか。35S、57Coについても、自然界のSやCoがどうなっているのかを書いておいたほうが分かりやすいと思います。あと「罅」も普通の人には読めませんので、ひらがなにするか別の言葉にするのがよいと思います。--Freetrashbox 2009年5月6日 (水) 16:03 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)多角的に説明しようとしているというのは読み取れるのですが、「放射化学」とは何か、というところがわからなくなってしまっているように思いました。あとちょっと、加筆すればだいぶ記事の印象が変わると思います。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:06 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)Freetrashboxさんも触れられていますが、やはり翻訳で一部こなれてない所がある様にお見受けします。「ヒ素の内部の投票者」もそうですし、「コロイドの運動」の節全般も、大凡言いたい事はなんとなく判るのですが、では具体的にどうなのかを詳細に追おうとすると、難しいです。全般に文章を見直し、因果関係を正確に追うようにすると、判りやすくなるかと存じます。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 11:33 (UTC)[返信]

分野C 編集

ジルベルト・ジル 編集

ジルベルト・ジルノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (ライバルコメント)海外の人物について一から資料にあたってここまで執筆するのにはご苦労が多かったことと思います。感想としては、トロピカリアの衰退と再評価、さらには逮捕の背景など、トロピカリアに記述されている情報と合わせて読むとジルベルト・ジルに関する理解がさらに深まるように思います。あちらに書かれていることをもう少しこちらに多く記述してもよかったかもしれません。-- 2009年5月7日 (木) 11:41 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)脚注がポルトガル語版より数では多いのは評価していいかと。ただ、気になるのは、いくつかネットを脚注で用いていますが、いつ閲覧して、文章の担保にしたのかを明記したほうがいいと思います。あと、かなり、難しい要望といえば要望ですが、日本語におけるジルの紹介している新聞記事、音楽雑誌があれば、記事の質は格段に上がると思います。参考はクラシックと現代音楽の違いになりますが、秀逸な記事のディートリヒ・ブクステフーデかな。--Tantal 2009年5月8日 (金) 21:55 (UTC)[返信]
    • (執筆者回答)廉さん、Tantalさん、ありがとうございます。トロピカリアは、ジルベルト・ジルを書いた後に私が書いたのですが、まずは両方の内容が過剰に重複しないよう、気を遣っての執筆でした(主要参考文献が同じという背景もあったので)。時間も経過したし、執筆当時よりも両項目を客観視できるようになってきたので、廉さんの仰るように、ジルベルト・ジルの方にも、トロピカリア関連の記述を少しずつ盛り込んでいってみようかと思います。Tantalさんの質問に関しては、「ネットをいつ閲覧したか明記すべき」→仰る通りです。「日本語の資料」→ラテン音楽専門誌の老舗「月刊ラティーナ」のバックナンバーが手元にあれば、相当執筆の助けになると思いますが、現在金欠のため、古本屋を当たっている所です(苦笑)。--Ikespirit 2009年5月11日 (月) 05:53 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)ブラジル音楽史のなかで、というだけでなく、政治家として、フリー・カルチャーの文脈でも、ウィキペディアでは充実していて欲しい項目を書いてくれてありがとうございました。ブラジル音楽だと『ブラジリアン・サウンド』や『ミステリー・オブ・サンバ』などの邦訳された資料もありますし、去年『ラティーナ』でジルについての連載をやっていたかと思います。レッシグの『フリー・カルチャー』にも簡単にですが登場します。トム・ウェイツの水準を超えて、多くの資料を収集して、よりよい記事を目指してください。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:10 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)氏の経歴・業績・人となりを説明するうえでよく纏まっていると存じます。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 11:37 (UTC)[返信]
    • (執筆者回答)Ks aka 98さん、東 遥さん、ありがとうございます。ジルベルト・ジルに限らず、ブラジルのポピュラー音楽全般を充実させることも、日本語版の今後の課題と言えそうなので、まだまだ色々な資料を探してみます。--Ikespirit 2009年5月25日 (月) 21:34 (UTC)[返信]

日本のアウトサイダー・アート 編集

日本のアウトサイダー・アートノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (ライバルコメント)アウトサイダー・アートについてはまったく知らなかったので、このような芸術があったのかと大変勉強になりました。ひとつ質問があります。「歴史」の節の冒頭にある「アウトサイダー・アートと呼ばれうる美術の歴史から書く。」の箇所ですが、日本のアウトサイダー・アートの歴史が式場隆三郎から始まるというのは確立された見解なのかそれとも執筆者の判断で日本における「アウトサイダー・アートと呼ばれうる美術の歴史」が式場の登場に始まるとしたのか、判断がつきかねました。このあたりの事情についてお聞かせ願えないでしょうか。-- 2009年5月8日 (金) 09:20 (UTC)[返信]
    • (執筆者回答)うーん、難しいです。この辺りの記述の枠組みは、大体、服部 (2003)によっています。この文献が一番、日本のアウトサイダー・アートについて一番詳しく解説しているからですが、服部は、式場の活動を重視する立場にあるみたいだ、というのが、他の文献と読み比べて思ったぼくの見方です。だけれども、他の参考にした文献でも、式場について触れていないわけではありません(はた (2008))。以上から、「一番詳しい文献がそうだったから」というのが、回答になります。
    • アウトサイダー・アートの大体の特徴として、美術家自らが世間にアピールをしない傾向がありますが、なら、その美術家がどう世間に知られていったか、と見てみると、そこには必ず紹介者がいるわけです。ですから、式場のことを重視して記述するのは、間違っていない、と判断します。--Mobnoboka 2009年5月8日 (金) 12:13 (UTC)[返信]
      • (コメント)ご回答ありがとうございます。服部の見解が根拠であることは了解しました。このことは「歴史」節冒頭に盛り込んで、執筆者の判断で歴史の起点を設定したわけではないことを明らかにした方がよいと思います。-- 2009年5月8日 (金) 14:35 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)美術の記事を取り扱っている割には、画像が2つしかないのは致命的な弱点になると思いますが、このあたりはいかがでしょうか?--Tantal 2009年5月8日 (金) 21:57 (UTC)[返信]
    • (執筆者回答)美術作品の画像となると、なかなか難しいです。一番楽なのは、二笑亭の画像でしょうが、まだ必要な『二笑亭綺譚』を手に入れてません。他の作品の画像は、著作権が切れていないので、望めません。次に、福祉施設など、関連施設の写真ですが、どこも私の住居からは遠方にあり、なかなか難しいです。近くの方に、撮ってきてもらいたいな、と。画像提供依頼を出してみます。--Mobnoboka 2009年5月9日 (土) 10:46 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)非常に興味深く読ませていただきました。小さい頃に一度だけ山下清の展覧会に連れて行ってもらったことがあり懐かしく思います。彼の繊細なちぎり絵に「すごい」と思ったことを覚えています。当時は山下清が知的障碍児童であるとは知らず、それを知ったのはもっと後のことでしたが^^;; また、『ドグラ・マグラ』という日本の小説の中でも精神病院の患者が製作した奇妙な作品が重要なキーとして登場しています。この項目でもちらりと登場している呉秀三も登場人物や小説背景のモデルになっているのかな?ちょっとその点詳しく分かりませんが、たぶんそうだと思います。そんなこともあって、日本のアウトサイダー・アートの記事は自分にとって引き込まれるものでした。…と、また私事をつらつら書いてしまいました-.-;;少し主観的ではありますが、以下に気になった点を述べます。
  1. 「大衆的になっていく山下人気」節で、「もっとも山下自身は、ゴッホにはさほど興味がなかったようではあるが。」という文章がありますが、出展もある記述なので断定してもいいのではないでしょうか。なんだかこの文章だけすこし浮いている印象を受けました。
  2. 同じ「大衆的になっていく山下人気」節で、「式場はさらに、「特異児童」の絵画に関わっていくようになった。」と書かれていますが、前節で「(以降、式場は)アウトサイダー・アートの紹介から離れ」との記述があるので、ここは「さらに」を「ふたたび」などとした方がつながりがいいのではないでしょうか?
以上です。--Risenjudas 2009年5月10日 (日) 16:59 (UTC)[返信]

(執筆者回答)

  1. 三頭谷が、山下の『ヨーロッパぶらりぶらり』の記述から推測していることだったので、私が断定するわけにはいかず、「ようではあるが」となりました。エッセイぽい書き方かもしれませんが、私がこういう文体を好むためです。他の方が推敲されたいなら妨げませんが。
  2. 戦後、式場が、山下という「特異児童」に再度関り、その延長で、「さらに」、「特異児童」全体に活動が広がっていきます。山下のプロデュースを始めた時点で、すでに「ふたたび」となっています。ちょっと分りづらいかもしれません、あとで推敲します。--Mobnoboka 2009年5月11日 (月) 16:34 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)いろんな意味で難しいところがある題材を、丁寧に表現を使い分けて書かれた記事だと思います。代島治彦によるドキュメンタリー『日本のアウトサイダーアート』は間に合わなかったかな。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:10 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)HMV がセールしてるから、DVD を買ってみようかな。しかし、高いですね……。関係して、佐藤真の『まひるのほし』と『花子』も見る必要があるけれど、BOX かあ、ああああああ。--Mobnoboka 2009年5月17日 (日) 15:51 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)読みやすく対象を理解するうえで役に立つと存じます。現状からは「障碍者による芸術」が中心になっているとも見て取れますが、「正規の教育を受けずに発露する芸術」の面では、文中では研究が乏しいとかかれていますが、今後はこちらも補強していただけると幅が広がるのでしょう。また、「正規の芸術」の分野からは、どのように扱われる・見られるのか、についてもより詳細に書いて頂くのも幅が広がると存じます。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 15:12 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)一つ目、現状これが精一杯です……。二つ目については、服部正による文献があるらしいのでそれを手に入れてからということで。--Mobnoboka 2009年5月25日 (月) 10:42 (UTC)[返信]

悪魔を憐れむ歌 編集

悪魔を憐れむ歌ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (ライバルコメント)ローリング・ストーンズのことはあまり詳しく知らないのですが、興味深く拝見しました。「解釈」の節が特に印象に残りました。2点ほど気になった点があります。
  1. 1点めは作曲の過程がいまひとつよく分からなかったことです。「制作」の節でチャーリー・ワッツが登場しますが、これは他のメンバーがある程度完成させた曲の仕上げをワッツが担当したということでしょうか?そうだと仮定して、ワッツに曲が手渡される前は誰がどのように関与したのでしょうか。キース・リチャーズが主導権を握っていたようだということは読み取れるのですが。
  2. もう1点は、ノートで指摘されている和訳の適切さについてです。英語はあまり得意でないのでこの問題について深くコメントすることはできないのですが、Ytさんの訳とBabi Hijauさんの訳とではかなり大きな違い[4]を感じます。Ytさんの指摘についてどう思われるか、Babi Hijauさんの見解を伺いたいです。-- 2009年5月7日 (木) 11:40 (UTC)[返信]
  • (執筆者から)先ず1.について、不明瞭でした。アドバイス有難うございます。ワッツが仕上げたのではなく、この点、文章を修正してみました。2.については、歌詞の翻訳には絶対的な答えは無いと思っています。Ytさんの改訂に異存ありません。差は解釈に拠るところが大きいため独自研究に陥る可能性が高いのですが、一応言及します。後ろから述べますが、最後の「lay ~ to waste」は慣用句とは知りませんでした。そのため、「lay」(寝転がす)と「waste」(損なう)を分けて訳しました。「courtesy」以下の部分について小生は、「have」には「必要な時に使う」というニュアンスもあるため使用する状況を、しかも「悪魔が自分に対して使え」と言っていると想定して、慇懃な言葉を選びました。後半、前半に共通する「taste」にはそれぞれ別な意味をつけました。前半はそれこそ独自解釈の典型になりますが、「wealth」(財産家)と「taste」の対で「持っていてそれを使う者」という風に読めれば、小生の大意と合っていると受け止めています。「taste」は個人のページなどで「贅沢」とも訳されているため、それらと被らないよう「豪奢」という単語を選択したまでです。--Babi Hijau 2009年5月8日 (金) 16:24 (UTC)[返信]
  • ご回答ありがとうございます。翻訳の件についてはお二人のコメントが揃ったことで審査員の方が判断しやすくなったと思います。-- 2009年5月8日 (金) 23:14 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)自宅のPCに保存してあるローリング・ストーンズの"Sympathy for the Devil" をつい、聞いてしまいました。記事の内容(この曲にまつわる物語というかエピソードというか)については興味深いものもありますし、英語版よりも脚注が充実しているのは問題ないと思いますが、参考文献の項目がないのは時間切れだったからでしょうか?--Tantal 2009年5月8日 (金) 22:00 (UTC)[返信]
    • (執筆者から)有難うございます。読まれた方が曲を聴きたくなれば、狙いの一つが成功しているのだろうと思います。「参考文献」項は、長い間使っていません。「情報」を表記する手法の中で、どうも曖昧に感じているためです。個人的感覚からですが、記事全般またはある項全般に関わる文献は「出典」を、一部から情報を得ている場合は「脚注」「注釈」を使っています(昨年のエントリー記事参照)。今回、記事全般に関わる文献は無かったため、「出典」「参考文献」項が無い仕上がりになっています。--Babi Hijau 2009年5月10日 (日) 12:43 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)復帰ありがとうございます。英語版を土台としつつ、情報源の確認をし、別途情報源を探して加筆するという姿勢が素晴らしい。ただ今回は、ポピュラー文化の記事の難しさが出てしまったかなと思いました。
楽曲記事としては、まず演奏者クレジットがじゅうぶんでないこと(曲調からはコンガのロッキー・ディジョーンがガーナ出身であることまで触れるのが望ましい)が気になりますし、ストーンズ自身の再演音源やシングル(英は76年に「ホンキー・トンク・ウィメン」B面曲、日では「プロディガル・ソン」B面曲)などについては、「オルタモントの悲劇」に含ませるのではなく、別途まとめるのがよいと思います。
「悪魔はどこまで介在したのか」は、「巨匠とマルガリータ」から着想を得たことや、最後のミックのコメントを除いては、専門的なテキスト分析や重要な評論家による解釈というわけでもなさそうですから、扱いが大きすぎるかなと思いました。重要さから言えば、『ワン・プラス・ワン』でドキュメンタリーが取られたこと、誤認ではあるがオルタモントの悲劇と関連付けられて語られたことのほうが上じゃないかな。
ポピュラー文化について書くときには、情報源自体が誇張を含むものだったり、その意見・評論がどの程度信頼できる、または影響力があるものかがあいまいですから、情報源の選び方や読み方も重要になってきます。"According to the Rolling Stone"は邦訳もありますし、メンバーによるゴツい本としてはビル・ワイマンの『ローリング・ウィズ・ザ・ストーンズ』があります。日本語で読めるものだと、データ的には越谷『大百科』、音楽的な分析だと寺田ほか『STONED!』あたりも参考になると思います。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:10 (UTC)[返信]
  • (執筆者から)コメント有難うございます。今回は難しい(と思っている)単一創作物の記事に挑んでみました。演奏者クレジットやシングルリリースは出典を探してみます。ご指摘の「高品位な情報」をふんだんに入手したい所ですが、ビルの本も定価9000円では…。そこはウィキシステムに期待します。この点については、限界がある一個人の収集能力を補う加筆を呼び込みやすい記事とはどのようなものか、考えてゆきたいと思います。全体構成については、どうでしょうか?小生は可能な限り創作物そのものについての情報(概要・創作の背景・評価や解釈)を充実したく、そのような記事作成をしました。今回のコメント意識し、(私的な)創作物記事の標準スタイルを組み上げるのが狙いなので、取り掛かり中の「巨匠とマルガリータ」あたりで反映してみようと思います。--Babi Hijau 2009年5月17日 (日) 15:20 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)一通りの楽曲紹介に留まらず、作品の裏側、解釈にまで、丁寧に文献をひきつつ記述されて安心して読めました。読みやすく、対象を理解するうえで役に立つものと存じます。冒頭に「発表時に物議を呼んだ」とありますが、その「物議」の内容・理由についても簡単にあれば、取っ掛かりとしてより判りやすいでしょう。編集お疲れ様でした。東 遥 2009年5月24日 (日) 15:17 (UTC)[返信]
    • (執筆者から)ありがとうございます。記事の出だしの部分、難しいですね。ご感想の通り、取っ掛かり、惹きつけるための冒頭部とはどのようなのか、悩ましい所です。今回、東 遥さんのお言葉を伺うに失敗点なのだろうと受け止めます。最近、初版を書いたある記事の、改訂された箇所を書き戻したりしましたが、実際は正解項を持ち得ず逡巡している所です。--Babi Hijau 2009年5月29日 (金) 13:20 (UTC)[返信]

神戸居留地競馬 編集

神戸居留地競馬ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)秀逸な記事にナリタブライアンや岡部幸雄を輩出している廉さんの記事なだけに、記事の書き方には問題は感じません。ただ、気になるのは、脚注と注釈が2つに分かれて、用いた理由が何なのかということになります。脚注で17個列記してありますが、これは本文中に盛り込めないものでしょうか。そのあたりを教えてください。--Tantal 2009年5月8日 (金) 22:03 (UTC)[返信]
    • (執筆者からコメント)まず脚注部が2つある点についてです。この記事では脚注機能を本文の補足と出典の提示という2つの目的で用いましたが、2つを一緒にするよりは目的別に分けた方が本文(†がついているかいないかで目的が判別できる)も脚注部も見やすくなるのではないかと思いました。Help:脚注#参考文献リストと注釈リストを別置したいときを見るとこの方法は許容されているように思います。次に本文を補足する脚注17個を本文に盛り込めないかという点についてです。これらを本文に盛り込む場合はカッコを使用することになると思うのですが、私はカッコが多くなったりカッコの中の文章が長いと本文が読みにくくなるのではないか、と考えています。ご指摘を受けて見直してみると、3番目や17番目のものは本文に組み込んでも問題はなさそうですが他は躊躇してしまいます。ちなみにTantalさんは本文に組み込むか脚注を使用すべきかはどういう基準で判断するべきだとお考えですか?-- 2009年5月8日 (金) 23:14 (UTC)(加筆)-- 2009年5月9日 (土) 08:50 (UTC)[返信]
      • (回答)逆質問の回答となるわけですが、今までの近代インド史(ムガル帝国、イギリス東インド会社、イギリス領インド帝国、ムハンマド・アリー・ジンナー)やマレーシア(マハティール・ビン・モハマド)、オランダ(フーゴー・グローティウス)関連を加筆した経験上だと、徹底的に本文に盛り込んでいる格好になるんですよね。近代インド史関連でノータッチのインド大反乱のような脚注の使い方が1番嫌いという形になりますか。あくまでも書き方のスタイルということになるんでしょうけど。--Tantal 2009年5月10日 (日) 12:53 (UTC)[返信]
        • (コメント)ありがとうございます。Tantalさんのコメントを参考にして、今後の執筆では脚注の使用頻度に気をつけてみます。インド大反乱は確かに一見してまずいですね。ここまでくるともはや補足の域を出ているのは明らかだと思います。-- 2009年5月10日 (日) 16:46 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)脚注の数を17から11まで減らすことができました。-- 2009年5月16日 (土) 11:15 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)内容は文句内です。しいて言えば、立川「神戸居留地における競馬」に頼りすぎかな、と。この論文から、おそらく多くの文献情報が得られると思いますから、そっちの文献を確認し、それを手がかりとしてさらに調査を進めることが(とても大変だけど)次の課題となるでしょうか。明治以降の競馬史のシリーズの刊行がはじまったようですから(立川さんが中心なのか、多くの筆者が分担するのかわかりませんが)、関連分野の充実にも期待しちゃいますけれど。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:10 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)高い評価を頂きありがとうございます。立川「神戸居留地における競馬」は本当にすごい論文です。この論文がなければとてもここまで書くことはできませんでした。神戸居留地関連の本にも何冊か当たりましたがここまで詳しく書いてあるものは見つかりませんでした。今後さらに加筆するとすれば、当時発行されていた英字新聞に当たるしかない(立川論文の脚注のほとんどが当時の英字新聞です)と思いますが、私の語学力からして相当苦労するでしょう(^^;  最後に「明治以降の競馬史のシリーズ」とは世織書房の「競馬の社会史」シリーズのことでしょうか?第1巻の『文明開化に馬券は舞う 日本競馬の誕生』、私はまだ読んだことがありませんが、目次とページ数を見ただけで凄い本だという予感がしますね。シリーズが揃えば明治期の(もしかするとそれ以降の時代も)競馬について大幅な加筆ができそうです。-- 2009年5月17日 (日) 13:33 (UTC)(加筆)-- 2009年5月17日 (日) 14:26 (UTC)[返信]

初日カバー 編集

初日カバーノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (ライバルコメント)コメントにある通り、色々な画像を楽しむことができました。ただエントリーが期間ギリギリになったからでしょうが、参考文献が挙がっていないなどまだまだ発展途上という感じはします。テーマとしては大変面白かったので、今後の加筆に期待します。-- 2009年5月8日 (金) 12:12 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)3月にリヒテンシュタイン公国へ小旅行した折、切手を貼って消印が押してある封筒を思い出に買ったのですが、今やっとその意味が分かりました。「何で消印が押してあるのに、切手シートと同じ値段なんだろう」と思っていたところ、疑問が氷解して嬉しく思います^^ 記事は要点が押さえてあり、写真もあって見目美しく、感心して読ませていただきました。ひとつ欲をいわせていただくと、日本以外の海外における初日カバーの現状についてもっと突っ込んで触れる節があってもいいと思いました。--Risenjudas 2009年5月10日 (日) 13:45 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)日本以外での様子についての記述があればよいと思うのですが、むしろ、まずは冒頭で「英語では"First Day Cover"」として日本での習慣・呼び名でないことが示され、「概要」「デザイン」では日本に限定しない記述がなされていることを評価したいと思います。多くの図版があるのは、見栄えだけではなくて、図柄になるべくかからないように消印が押されたりしているのに気づいたりして、おもしろいです。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:10 (UTC)[返信]

ハイデルベルク城 編集

ハイデルベルク城ノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (ライバルコメント)ハイデルベルク城の構造、歴史、観光など様々な面について記述した大作で、大変読み応えがありました。以下、疑問や問題に感じた点を書きます。
  1. 「歴史」の中の「最初の記録」の節ですが、内容を把握するのにやや苦労しました。まだ情報を整理する余地が残されているのではないでしょうか。とくに第三段落については、ウンテーレ・ブルク(下の城)の成立時期の推定に関する話題と、ハイデルベルクの城が複数あるという話題とは切り離して記述するべきだと感じました。
  2. 「破壊後」の節にある「この破壊された城は、19世紀の初めにはナポレオンの圧政に対する愛国心のシンボルとなっていった。」の一文は、その背景に関する記述が見当たらないことから意味するところが理解できませんでした。この文章を置くのであれば、背景について補足が必要ではないでしょうか(もしかすると17世紀後半のフランス軍による破壊が関係しているのか、とは思いましたが)。
  3. 「文化・観光側面を強調した」いという理由からC分野にエントリーされたとのことですが、その割には「観光」の節の記述量(記事の中に占める割合)が「城趾とツーリズム」の節を加えてもやや少ないのではないか、さらに文化的意義に関する記述が不足しているのではないかという思いを抱きました。観光については、城内の施設に関する数々の写真を交えた記述があたかも観光案内であるという解釈もできなくはないのですが、城内の施設に関する記述は歴史学的、建築学(建築史)的な色彩が強いのが難しいところです。C分野でエントリーされる以上は、もう少し「観光」の節を充実させて欲しかったという思いはあります。また、城の文化的意義はたとえば冒頭部にある「アルプスの北側で最も重要なルネサンス建築の遺構を含んでいる。」というところにあるのだと思いますが、これについてはそれで済ませるのではなく独立の節を設けて詳細を記述して欲しいと思いました。-- 2009年5月8日 (金) 14:35 (UTC)(何度か細かい編集を行いましたので、その旨報告します-- 2009年5月8日 (金) 17:21 (UTC)[返信]
    • (執筆者回答)さん、丁寧にお読み頂き、コメント頂けたことに感謝いたします。1.についてですが、現在の記述に改善の余地があるとのご指摘は同意致しますが、発掘調査が十分に為されていなかった時代にはハイデルベルクの城が2つあるという記述から現在のハイデルベルク城の成立年代が推定されていたという事を論じているのですから、「成立時期の推定に関する話題と、ハイデルベルクの城が複数あるという話題とは切り離して記述するべき」とは考えず、この内容をどうしたら分かりやすく記述できるかを工夫する方向で検討したいと思います。2.は原典であるドイツ語版にも説明がなかったので単なる推測ですが、廉さんのご指摘通り、フランス軍によって破壊され廃墟になっていたことが反フランスの象徴となる要因であったと思われます。また、この城趾の保存に貢献のあった筆頭がシャルル・ド・グライムベルクというフランス革命から逃れてきたフランス人亡命貴族であったことから何らかのプロパガンダがなされた可能性もあるのでは、と勘ぐっておりますが、あくまで想像の域を出ません。3.はエントリー時のコメントを踏まえてのご意見です。古城趾を紹介する記事ですので結果的に歴史に関する記述が多くなってしまうのは不可避ですが、主執筆者の気持ちとしては観光地を紹介する記事であり、ですから、歴史に関する記述が多いのだけれど、執筆者の気持ちとしては、「文化・観光側面を強調したくて分野Cとしました」とコメントさせて頂いた次第です。城の文化的意義は廉さんが引用下さった冒頭部だけでなく、ゲーテを初めとした様々な作家やターナーらの画家達がそれをモチーフとした作品を仕上げていること(ロマン主義的廃墟趣味との関係も興味深いところです)、アルト・ハイデルベルクといった戯曲が郷愁を誘い多くの観光客を集めていることなど多面的で、できるだけ記事のあちらこちらにこの点を踏まえた記述を行ったつもりでおりますが、一層充実させる方がよいとのご指摘はその通りであると思います。ご指摘の諸点を踏まえ、さらに記事を充実させられればと思います。ご指摘ありがとうございました。--汲平 2009年5月9日 (土) 09:07 (UTC)[返信]
  • (コメント)ご回答ありがとうございます。1については趣旨を了解しました。2については翻訳記事であるがゆえの難しさがあると思いますが、詳細を記述できないのであればひとまずコメントアウトするというのもひとつの手法かもしれません。3の点については私が挙げたルネサンス建築に関する点を見ても記事内の複数の箇所に汲平さんの意図が感じられる記述を確認できるのですが、やはり歴史的・建築史的要素の中に埋没してしまう感が少なからずあることから独立の節で(ある程度の重複をいとわずに)述べた方がいいのではないかという趣旨です。何を記述するかではなくどう構成するかという問題なのかもしれません。3の点についてはちょっときつい書き方になったかなとも思うのですが、これは今回C分野にエントリーされたから書いたことであって、そうでなければ問題視しなかったと思います。-- 2009年5月9日 (土) 11:52 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)09年3月、南ドイツでの短期留学を終えたのち、ハイデルベルク近郊の友人宅に滞在してお城も観光しました。帰国前で残金も少なく、パンフレットの購入やガイドツアーの参加は見送って、現地では外国語のガイドさんの説明をちょこちょこ盗み聞きしておりました(笑)「帰国後ウィキペディアでも見てみるか」と思っていたところ汲平さんの大作ができており、非常に感動です^^ 一部修復中だったのと、あまり館内に入れなかった(ガイドツアーに参加しなかったため)のが残念でしたが、それでもあまりある迫力でした。火薬塔が凄かったです!大樽も観ました^^…私事をつらつらと述べて申し訳ありません。しかし、記事からたくさんのことを知ることができて本当によかったです。それでは意見・感想を述べさせていただきます。
    まず、致し方ないことですが翻訳調の文章が少し気になりました。いくぶん唐突な部分もあったように思います。次に、他の方も指摘されていますが、観光面も押す記事とするならば、もう少しそこに突っ込んでも良かったかなと思います。別にウィキトラベルもありますし、記事を「観光ガイド」にする必要は全くないのは言うまでもありませんが、「ガイドツアーがあること」「ツアーに参加しないと入れない場所があること」(ガイドについては外部リンクを設けてありますが)「カフェやお土産屋の存在」「ワインケラーでワインが飲めること」「ロープウェーの存在」なんかに触れてもいいのではないでしょうか。最後に、不確実な情報ですが見聞きしてきたことを少し。(1)現地のドイツ人の友人が「あの城はいつも修復工事をしている」と言っていました。現在の修復保全工事についてはどうなっているのでしょうか? (2)「堀に放っていたシカは祝い事の折りに絞めていた」と聞きました。散発的なコメントで申し訳ありません。大記事の翻訳及び加筆、お疲れ様です。--Risenjudas 2009年5月9日 (土) 14:54 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)Risenjudasさん、コメントありがとうございます。観光地の記事ですので何よりも楽しい記事と言うことを念頭に書きました。喜んで頂けたようで嬉しく思います。記事を書く励みになります。「翻訳調の文章が少し気になりました。いくぶん唐突な部分もあったように思います。」という点については、力のなさを露呈したもので、大いに反省しなければならないと思っております。観光地の記事と観光ガイドとの境界をどこに設けるのか、は本当に難しい問題です。修復保全工事については、廃墟となった城を廃墟の佇まいのまま維持管理ことは建て直してしまうよりも手間暇がかかることで、絶えず維持のための工事が必要であり、「いつも修復工事をしている」というご友人のお話は事実だと思います。「現在の」工事については、ごめんなさい、私も分かりません。それからシカについても、ドイツ語版の記述以上のことは存じません。申しわけありません。--汲平 2009年5月9日 (土) 15:41 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)相変わらずのクオリティで安心して読めました。記述は百科事典らしさを保ちながら、観光のためにこの項目を読む人にも有用な情報を含み、読んでいると行ってみたくなる、という記事に仕上がったと思います。細かいですが、フォアホーフが「外庭」を指すということ、オーベラー・フュルステンブルンネンは「泉」あるいは「井戸」を指す、ということを示してほしいなと思います。「ハイデルベルク城演劇祭」のところは、『学生王子』が上映されたことで演劇祭が有名になったのか、演劇祭が初演となる演劇として『学生王子』という作品が有名になったのか、演劇祭で定期的に取り上げられてきている演目として有名なのか、ちょっと判別できないように思いました。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:10 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)Ks aka 98さん、過分なお言葉ありがとうございます。オーベラー・フュルステンブルンネンについては、本文中に「(Oberer Fürstenbrunnen、上の選帝侯の泉)」と記述しておりますが、ご指摘は項のタイトルにということでしょうか。フォアホーフについては一旦「前庭部」としようかとも思ったのですが、「庭」はちょっと違和感があるかなと思ってやめました「Hof」は庭と同時に宮廷の意味があり、宮廷に入る前の部分というのを表現する言葉が見つからなかったので、しかたなく転写だけにしました。『学生王子』は、ドイツでは無名の作品ですが、外国人観光客のために演劇祭で定期的に採り上げられ、しかも外国語である英語で演じられるという点が特殊なので特筆されているのだと理解しています。ご指摘の点については表現を工夫できないか検討してみます。ありがとうございました。--汲平 2009年5月17日 (日) 15:31 (UTC)[返信]
微妙なとこなんですが、「(Oberer Fürstenbrunnen、上の選帝侯の泉)」だと、何かわからないものとしてオーベラー・フュルステンブルンネンというものがあって、その呼び名を日本語訳すると「上の選帝侯の泉」である、と読めます。歴史的な建造物、およびその中のあれこれだと、歴史的経緯や詩的な表現として、その名前と「それが指すもの」が一致しないようなこともけっこうあったりすると思うのですよ。読み返してみると、音転写しているから、余計に、「泉」ではない何かかも、と思ったのかもしれない(読み返してみると、次で述べる「下の選帝侯の泉」もあるから、そこから推察すべきだったとも思いました)。「上の選帝侯の泉(オーベラー・フュルステンブルンネン)」だと、また印象が変わりますね。そういう留保をしながら読んでしまう。「ウンテラー・フュルステンブルンネン」の書き出し「この泉の水は」のように、本文の、カッコの外側で「泉」ということが書いてあれば、間違いなく「水が湧き出ているもの」ということがわかると思うのです。「フォアホーフ」についても、Hofの意味が取れれば、なるほど、と思うのですが、「フォアホーフ」だけだと、何の事を指すのかまったくわからないという状態だったりします。「その他の施設」や「庭園」の節、「観光」の「シュロスベロイヒトゥンク」では、音転写や、いくらか多義的な意味を持つ語でも、わかりやすく説明をしていらっしゃいますから、それらと同じような感じでまとめていただけると、うれしいなあ、と。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 17:53 (UTC)[返信]
ご指摘の点、了解しました。対応を考えてみます。--汲平 2009年5月18日 (月) 12:18 (UTC)[返信]

ガブリエレ・ミュンター 編集

ガブリエレ・ミュンターノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (執筆者より)今回の執筆について、恐縮ですが先に何点か説明しておきたいと思います^^; (1)「エントリー」の方の説明に「ドイツ語版とフランス語版も参考にして執筆」と書いたのですが、フランス語版の本記事はドイツ語版を底本とした記事だったので、次の2点のみ参考にしました。(一)フランス語版では「生涯」節の小節割りを、世界史的観点からも行っていた点(第二次大戦中、戦後、など)がドイツ語版よりよかったので取り入れました。(二)絵画作品のイメージを外部リンクとしてドイツ語版より豊富に取り入れていたので、日本語版でも同じ場所へリンクしました。ただし、数点の作品を独自に外部リンクとして追加しました。(2)ドイツ語版は、全訳してその内容を参考にしましたが、日本語文献に拠った部分の方がより大きいです。ドイツ語版の記述を参考にした部分については脚注はありません。(3)「ギャラリー」のような節が設けられれば良かったのですが、あいにくミュンターの作品がコモンズで発見できず、自力でアップロードするには問題が多かったので断念せざるをえませんでした。十分ではありませんが、具体的な作品イメージについては「作品抄録」節の外部リンクで補いました。
    まだ執筆歴も浅い初心者ですが、建設的な批判、率直な感想や意見をぜひお聞かせください。--Risenjudas 2009年5月7日 (木) 14:44 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)この記事がエントリーされた時になんとなく見覚えがあると感じたのですが、第2回秋の加筆コンクールで青騎士がエントリーした際に私自身がその後の立項に言及した記事でしたね。一読者として、この記事を読むことができることをうれしく思います。以下、感想を述べます。
  1. 脚注を丁寧に付けて出典を明らかにしようとする姿勢に好感を抱きました。ただ、「評価」の節は脚注が目に見えて少ない気がします。とくに第一段落については、ドイツ表現主義や「青騎士をはじめとする20世紀初頭ミュンヘンでの芸術運動」について誰がそのような評価をしているのか明らかにしたほうがいいと思います。
  2. 「画家修業と、カンディンスキーとの出会い(1901)」の節内の最後にある、「フォルムが精神であること」の意味がよくわかりませんでした。「ミュンターの人生を大きく方向づけた」出会いに関する記述であり、記事の中でも重要な位置を占める文章の一つと思われるだけに、ここは詳しい解説が必要ではと思いました。
  3. カンディンスキーとの関係が詳細に記述されている点がこの記事の良さの一つだと思います。ただ構成の問題として、破局に関する箇所を「ミュンヘン時代(1909-1915)」から分離して「カンディンスキーとの恋愛(1902-1916)」の中に新たな節を設けたほうが、カンディンスキーとの関係の推移がつかみやすいとも思いました。
  4. 脚注、参考文献、関連項目の節の並びはWikipedia:レイアウトの指針に沿うようにしたほうがいいと思います。
  5. 細かい事ですが、「両親」の節内にある奴隷戦争は共和政ローマ期に起こった奴隷による反乱について記述した記事の項目名のようです。-- 2009年5月8日 (金) 17:14 (UTC)(若干の修正)-- 2009年5月8日 (金) 23:14 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)ありがとうございます。まさにご察しの通りで、ガブリエレ・ミュンター第2回秋の加筆コンクール以来、新規執筆してみようと思っていた項目です^^ 大学の春休みに日本にいなかったこともあり、結局GWまで持ち越して今に至ります。
  1. 確かに「評価」の節は脚注が少なくなっています。というのは参考にした文献にほとんどその記述がなかったからでした。今後の課題として、ミュンターを含めたドイツ表現主義に対する評価の観点から文献にあたってみる必要がありそうです。ご指摘ありがとうございます。
  2. 言われてみれば、「フォルムが精神であること」はやや端折り気味でした。「目に見える形そのままを描くのではなく、内面的精神を絵画にフォルムで表現する」とでも言えましょうか、この点に表現主義の理念があると自分は理解しております。後ほど記事の方を補足加筆してみます。
  3. 一応「ミュンヘン時代(1909-1915)」節まででカンディンスキーとの恋愛の始まりから破局まで述べているつもりですが、次の「失意 (1917-1921)」節内に破局以前の1916年の出来事を入れて書いてしまった点が分かりにくくしてしまったのだと思います。破局後も作品所有権訴訟で、カンディンスキーが登場することもサッパリしない原因かもしれません。
  4. Wikipedia:レイアウトの指針はよく知りませんでした。なんとなく配置していたので、そちらに準拠したいと思います。
  5. 奴隷戦争については内部リンク先の確認を怠っておりました。通りが良い「南北戦争」に書き換えます。
以上です--Risenjudas 2009年5月9日 (土) 14:54 (UTC)[返信]
  • (コメント)芸術系、特に西洋美術には全く疎い私ですが、その行動の軌跡と功績が理解できました。感想、質問など。
  1. 「家族の手でアメリカに追いやられた」とありますが、アメリカに渡ったこと自体が家族による強要だったのでしょうか。細かいことですが、例えば勘当されて生計を立てるために自ら出国するのと、国内に留まることを禁止されてやむなく出国するのとでは違いますので、その辺が明快になればいいのにと思います。
  2. 廉さんのコメントと重なりましたが、「奴隷戦争」とは南北戦争を指すという解釈でよろしいでしょうか。
  3. スイスは中立国なのに、カンディンスキーが敵国人扱いされたというのはちょっと違和感がありますが、事実なら当時のスイス国内の雰囲気を伝える興味深い記述ではないでしょうか。
  4. 下世話と言われるかもしれませんが、カンディンスキーとの破局の原因がよく分からないのが物足りない気がします。もちろん、幻術活動と何ら関係ない次元のことが原因なら、記録に残らないのも当然かもしれませんが。
  5. これも廉さんと重複します。「評価」節に全く脚注がありませんが、ここの文章はどのようにして記述されたものでしょうか。試みに独語版を閲覧しましたが、恥ずかしながら全く理解できませんでした……。個人的には評価や考察を行う記述にこそ出典が重要と考えております。
  6. 参考文献の二冊目、『カンディンスキーと青騎士』の出版年が抜けています。
以上です。執筆お疲れさまでした。--Arawodas 2009年5月9日 (土) 10:35 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)ご指摘ありがとうございます。廉さんへのコメントと重複する部分もありますが、以下に書きます。
  1. 残念ながらミュンターの両親についての記述はあまり多くなかったので、今すぐは十分な補足をすることが出来そうにありません。もう少し文献にあたってみます。
  2. ご指摘の通りです。わかりやすい「南北戦争」に表現を改めます。
  3. 記述する順番があまりよくなかったですね^^;;はじめ二人はミュンヘンいたのですが、一次大戦勃発とともにカンディンスキーにとってはドイツ国内に居づらい空気になりました。そこで中立国スイスに移るのですが、カンディンスキー自身はスイスではなく祖国ロシアに戻りたかったようです。カンディンスキーがスイスにいた期間は長くありません。スイスは「経由地」ぐらいの位置づけだったのだと推測しますが、もう一度文献を確認して分かりやすく書き改めるつもりです。スイスにもドイツ人はたくさんいたはずですが、そこでのロシア人のおかれた立場については申し訳ありませんがよくわかりませんTT
  4. 破局の原因について、深い言及は参考にした文献からは見つけられなかったのですが、おもにカンディンスキーの方から冷めていったようです^^;; というのも特に終わりごろはミュンターがカンディンスキーに依存する形の恋愛になっていたようです。ミュンターは人付き合いが不得手で、仲間の青騎士の芸術家たちとの間も、カンディンスキーが取り持たねばならない場面もあったそうです(これについては確かだれかの書簡で言及がありました)。戦争をタテマエにカンディンスキーがロシアに逃げた、との側面があるようにも映りますが、独自研究に陥っても問題なので、可能な範囲で補いたいと思います。
  5. 「評価」節について、後半の「カンディンスキーらの作品を守ったことに」対する記述は出典を明らかにしてあります。前半についてはドイツ表現主義を研究した文献などを探してみるつもりです。
  6. 気づきませんでした、後ほど書き足します。
以上です。追加でなにかありましたらぜひコメントお願いいたします、ありがとうございました。--Risenjudas 2009年5月9日 (土) 14:54 (UTC)タイプミスを修正--Risenjudas 2009年5月9日 (土) 15:01 (UTC)6.に対するコメントを書き足し--Risenjudas 2009年5月9日 (土) 15:11 (UTC)[返信]
  • (執筆者より)別の文献も参照し「評価」節を加筆しました。5/6最終版と併せて最新版もご覧いただければと思います。--Risenjudas 2009年5月13日 (水) 13:12 (UTC)[返信]
  • (審査員コメント)記事の内容に関しては、「青騎士」で立派な書き手であるということから安心してみていられますが、脚注の使い方に難があるかな。といっても、『カンディンスキー&ミュンター 1901-1917』から多く使っていらっしゃるのは承知していますが、同じページあるいは前後のページであれば、<ref name="aaaaa">を利用されたらいかがでしょうか。参考は、私が主加筆している記事では、イギリス領インド帝国とかイギリス東インド会社をご覧ください。使い方は、めんどくさいですけど、見栄えはだいぶよくなりますよ。あとは、参考文献が出ているわけですから、ヘルムート・フリーデル、森要造(1996)pp.xx-xy程度で十分のはずです。--Tantal 2009年5月13日 (水) 13:24 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)ご指摘ありがとうございます。件の脚注は「使い方がよく分からず、めんどくさい」と思って身勝手ながら勉強を怠っていたわけですが、これを機にTantalさんの書かれた記事とHelpを参考に使い方を覚え、先ほど一部を書きなおしました。まだもう少し簡略化できそうですが、今日は手元に必要な本がないので後日手を入れます。--Risenjudas 2009年5月13日 (水) 15:16 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)丁寧にまとめられ、その生涯、重要さがわかる記事になったと思います。「ガブリエレ・ミュンターの肖像」の置き場所についてはちょっと収まりが悪いかなと思いました。絵を描くミュンター(1903)と共にカンディンスキーがミュンターを描いた作品があることを本文で示した後に、注で外部リンクを示すほうが読みやすいのではないかと思います。ボン女流美術館のガブリエレ・ミュンター賞[5]や放送劇については、もう少しでも記述があったほうがよいと思います。lenbachのHPの作品解説ページにはうまくリンクできないのかなあ。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:10 (UTC)[返信]
    • (執筆者コメント)節の前後にミュンターの肖像画へのリンクが二つあるのは、編集ミスです、失礼しました。フランス語版を真似て節の最後に置いてみたのですが、確かに話のつながりが分断される唐突感はありますね。「これはこれで形としてありかな」とも若干思いますが、検討してみます。ガブリエレ・ミュンター賞や放送劇については、ドイツ語版の記述以上の事は全く書いていません^^;;その点については少々研究不足でした。出典や情報源をWebサイトにするのはなるべく避けたいのですが、美術館運営のページくらいは覗いた方がよかったですね。閲覧・調査の上、加筆する方向で行きたいと思います。現状、外部リンクが一つもないので、有益なサイトがあればそれも追加したいと思います。コメントありがとうございました。--Risenjudas 2009年5月17日 (日) 14:45 (UTC)[返信]

テーレポス 編集

テーレポスノート / 履歴 / ログ / リンク元5/6最終版

  • (審査員コメント)ギリシャ神話は私の専門外の領域になりますので、少し質問を。
    1. トロヤ戦争で傷を負ったテーレポスがギリシャ軍にトロイアへの航路を教えたという記述がありますが、その後、テーレポスとテーレポスが治めるミューシアはギリシャぐんとともにトロイアを攻撃したという流れになるのでしょうか。そうだとすれば、テーレポスの活躍はあったのでしょうか(最後は木馬の話になっちゃうんですけどねえ)?
    2. トロヤ戦争以降の話が出てこないのは、やはり、古からの神話が散逸したということで解釈していいのでしょうか?
  • 以上2点です。よろしくお願いします。--Tantal 2009年5月8日 (金) 22:15 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)他のエントリー記事に比べると記事のバイト数は小さいものの、複数の文献をもとにし、文章に冗長さがなく読みやすい点は評価に値すると思います。気になった点を1つ、質問を1つ書きます。
  1. 「テーレポスの誕生」の節ですが、第2段落はテーレポスの生い立ちに関するアポロドーロスの説ということだと思うのですが、それならば「生い立ちについては諸説ある」などと断りを入れ、その後「アポロドーロスによると…」とした方がいいと思います。現状の第2段落と第3段落との関係はややアンバランス(第2段落を生い立ちに関する見解対立のない説明として読んだ後、ヒュギーヌスの説が登場することが不自然)と言えるのではないでしょうか。
  2. Tantalさんのコメントと重複しますが、傷が癒え、ギリシア軍にトロイアへの航路を教えた後のテーレポスについては不明ということでしょうか。そうであればその旨を記述した方がよいと思います。-- 2009年5月8日 (金) 23:14 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)Tantalさん、廉さん、ご指摘ありがとうございます。テーレポスはトロイア戦争には参戦しませんでした。たとえばヒュギーヌスの第101話では、航路を教えたテーレポスに対しギリシア軍は参戦を求めたが、プリアモスの娘ラーオディケーを妻にしているという理由で断り、ギリシア軍を案内したあとミューシアに帰ったと述べています。
  • しかしテーレポスの子エウリュピュロスはトロイアに味方して戦いました。これは『イーリアス』後のトロイア戦争のことです。このときテーレポスが存命していたかどうかは手元の文献では判然としません(おそらくテーレポスは死んで、エウリュピュロスが王国を継いだのだと思います)。が、しかしこのように書いてみて、ご指摘の通りテーレポスがギリシア軍の案内人になったが、妻を理由にギリシア軍に味方して戦うことは断り、帰国した、後にエウリュピュロスがトロイアの味方として参戦した、ぐらいは書くべきであり、いささか不親切であったと思いました。
  • 「テーレポスの誕生」について第1段落と第2段落はとりあえず伝承の経緯としてアスキダマースとアポロドーロスを並べる形で記述しました。つまり第1段落はアウゲーの妊娠のこと、第2段落は出産後のこと、です。もしかしたら2つの間に段落を設けなかったほうが良かったかもしれません。いずれにせよ、ご指摘のように「諸説ある」などの説明はあったほうが良いと思いました。--月下薄氷 2009年5月9日 (土) 09:31 (UTC)[返信]
  • (ライバルコメント)ギリシア神話は参照する文献によって食い違いもあり、なかなかまとめるのは難しかったことと思います。しかしコンパクトにテンポよくまとめられており、楽しく読めました。瑣末な点で申し訳ありませんが、以下に気になった点を挙げます。
  1. 冒頭にテーレポスのギリシア語表記を書いてもいいのではないでしょうか?英語表記だけされていた点が気になりました。
  2. 「青年時代」節で「アウゲーがヘーラクレースに祈ったため、テーレポスは彼女が自分の母であることを悟った。」とありますが、状況がよく分かりません。出典を示されていますが、もう少し補足説明が欲しいと思いました。
  3. 「トロイア戦争」節に「アキレウスのトリネコの槍」とありますが、「トネリコ」の誤記ではないでしょうか?
  4. 同節内で「一説によると」という言葉が連続しているのが気になりました。
以上です。--Risenjudas 2009年5月10日 (日) 13:32 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)Risenjudasさん、ご指摘ありがとうございます。お答えします。
  1. ギリシア語表記について。ギリシア語の知識がないことと、キーボードの入れ方(アクセント、無気息記号、有気息記号)がわからなかったため今まで表記の記載を避けてきましたが、ギリシア語はともかくキーボードの入れ方を知ろうとしなかったのは知的怠慢でした。これを期にきちんとマスターしたいと思います。
  2. テーレポスの認知について。補足説明をしたいのですがヒュギーヌスは簡潔な書き方をする人で、詳しい情報は邦訳にもないのです。アウゲーの祈りで気づくには、テーレポスが自分の父がヘーラクレースだと知っている必要がありますが、いつ知ったのかはっきりと語られていません(たぶん神託に自分の母について尋ねたときだと思います)。アウゲーがなぜヘーラクレースに祈ったのかは、ブラッド・ピット主演映画の『セブン』ラストで、妻を殺された主人公が犯人を前に今にも拳銃を撃ちそうな場面で、犯人が神に祈りを捧げる(だったと思う)、というシーンと類似のものだと思われます。アウゲーの行動は死を前に観念してのことだったと思います。
  3. トネリコの誤記でした。
  4. ともに有名な作品でないので「一説に…」としたのですが、どちらかの表現を多少変えたほうがよさそうですね。--月下薄氷 2009年5月10日 (日) 19:48 (UTC)[返信]
  • (コメンテーターコメント)簡潔にまとめられていて、読みやすい記事になっていると思います。「テーレポスの誕生」「青年時代」では、「ヒュギーヌスによると…」みたいに、出所を本文中に示していて、ぼくにはこの書き方がわかりやすいのですが、「トロイア戦争」ほかの節や「青年時代」の最初・最後の段落では、これがありません。この使い分けの理由は、なにかあるなら教えてください。--Ks aka 98 2009年5月17日 (日) 12:10 (UTC)[返信]
(執筆者コメント)Ks aka 98さん、コメントありがとうございます。特に理由はないですが、あまり原典の作者の名前を本文で述べすぎるとくどくなると感じました。ある程度のサイズの記事を執筆する際には悩む点ではあります。誕生の節の別伝で作者名を挙げたのは伝承の相違点が細かいため、作者名を挙げて厳密に区別したほうが良いと判断しました。--月下薄氷 2009年5月18日 (月) 15:35 (UTC)[返信]
  • (コメント)筆が入ってさらに良い記事になったと思います^^ ひとつ、前回もコメントさせていただいたことをまた蒸し返すようでなんなのですが、テーレポスの英語表記を冒頭に併記する必要はないのではないでしょうか?ギリシア神話の人物記事のスタイルはよく知らないのですが、原語表記の併記だけで十分な気がします。(英語圏でのギリシア神話研究はきっと進んでいることとは思います…でも、あくまでギリシアの記事なので。個人的に、なんでもかんでも英語が使われている世間のいろんな場面での現状に違和を感じでいるってのもありますが^^;;)オデュッセウスの記事なんかを見ると、現希も書いてありますね。ラテナイズしてありますが\(__\;)(多分綴りは変わらないけど発音が違うのでしょう)私的な勝手な意見では、カタカナ+古希+現希が完璧なフォームじゃないのかな、と思います。細かいことをぐだぐだ述べて申し訳ありません。--Risenjudas 2009年5月24日 (日) 16:26 (UTC)[返信]
  • (執筆者コメント)コメントありがとうございます。多少なりとも改善されたようで安心しました。英語表記についてはラテン語と同じなので、どちらで書くか迷い、書きませんでした。学術的にはラテン語だと思うのですが。現希も違う場合は書いたほうがいいと思います。
  • 以前のコメントにあった母の認知についてですが、悲劇の節でふれたように、あの部分(ヒュギーヌスの第100話)が本当に現存しない悲劇の要約だとしたらの話ですが、ヘーラクレースへの祈りが告白のセリフでもあった可能性が考えられます。つまり自分はどこのどういう人間で、かつてヘーラクレースに愛されて子を生んだが、その子は山に捨てられ、自分も殺されようとしている、もし神になられたあなたが今も自分を覚えておいでならばお救いください云々、というように。ですがヒュギーヌスの第100話からはそのように想像することくらいしかできません。ちなみにロバート・グレーヴスは認知の理由を霊感だとしています。--月下薄氷 2009年5月27日 (水) 07:48 (UTC)[返信]
  • (コメント)丁寧な返答ありがとうございます。母の認知ですが、なるほど、そのような「祈りの告白」だったと考えれば納得ですね^^ 推測の域を出ませんが…これ以上の深入りについては今後の文献の登場を待つより仕方無いですね。理解が深まりました、ありがとうございますm(__)m
  • 英語表記の併記についてですが、若干誤解させてしまったでしょうか。私の意見は、「英語表記を冒頭から削った方がいいのではないか」ということです。テーレポスがローマ神話にも登場するようであればラテン語表記はあってもよいでしょう。しかしギリシア神話に限定した人物なのであれば、ラテン語表記も要らないと思います。
ともあれ、執筆コンテストもひと段落が着きました。同分野エントリー者として切磋琢磨できたことを嬉しく思います。また次回のイベントでできたらお会いしましょう^^ --Risenjudas 2009年5月28日 (木) 21:24 (UTC)[返信]
  • つまり冒頭の「テーレポス(Telephos…」の部分ですね。これは英語表記ではなくローマ字表記です。この「カナ⇒ローマ字表記⇒ギリシア語」という書き方は高津春繁氏の『ギリシア・ローマ神話辞典』のスタイルに倣いました。また太文字で日本語圏の表記であることを示してみました。ラテン語表記をラテン語文献に登場するもののみに限るのは厳正な態度で良いと思います。確認に骨が折れそうですけど(汗)。Risenjudasさん、コメントありがとうございました。お疲れさまでした。--月下薄氷 2009年5月30日 (土) 04:37 (UTC)[返信]
  • ははあ、ギリシア語のラテナイズだったのですね^^;; 漸く理解しました。高津春繁を開いたこともないことが露見してしまいました;;、恥ずかしい…--Risenjudas 2009年5月30日 (土) 07:35 (UTC)[返信]